「Merriam-Webster's Dictionary」の巻
「きっ、君ーっ!」の声に振り返ると和服姿の老人の怒った姿が目に入った。
私は洋書を扱っている会社に入社し、洋書の「辞書・語学書」売場に配属された。
入社して2年目の話である。
何か不都合でもあったのかと急いでその老人の許へ急ぐ。
私「何か不都合がございましたでしょうか?」
老人「何か不都合がございましたでしょうかではない!何だこの辞書は、これは!」
と、声を震わせて怒っている。老人の手には「Merriam-Webster's New Collegiate
Dictionary 第8版」がある。英語を勉強する人はまず使う、英英辞書の定番商品で
ある。
私「メリアム・ウェブスター社の定評のある辞書でございます。」
老人「そんなことは言われなくても分かっておる!私はこの辞書を愛用しているのだ!」
私「それはありがとうございます。で、何か不都合がございましたか?」
老人「何か不都合がございましたかではない!君はまだ気づかんのかね!」
私「申し訳ございませんが、なぜお客様がお怒りになっているのか分かりません。どう
ぞ仰ってください。」
老人「実に情けない話だ!君はこの辞書を見て何とも思わないのか?」
私「ええ、とてもいい辞書だと思いますし、私自身も使っております。」
老人「何、使っている?なんだそれは、なんだそれは!この辞書を買って使っているの
か?そんな馬鹿な!よくも恥ずかしくもなく使っているな!」
私「でも、お客様もこの辞書をご愛用なさっているのですよね。」
老人「ああーっ、分からない店員だ。君は男だろう、日本男児だろう、その日本男児が
こんな女色(おんないろ)の辞書を恥ずかし気もなく使っているのか?」
女色?私には最初、この老人の言っていることが分からなかった。この辞書の表紙は
赤色で丸い白地の中に「Webster's New Collegiate
Dictionary」と表記されている。
老人は続ける、「私は日本男児だ!こんな女色の辞書を使うことはできん!男色(お
とこいろ)のものを持って来なさい、男色のものを!」
私「そう仰ってもこの辞書は、この色のものしか出版されておりませんので、お客様の
ご要望にはお応え出来ません。」
老人「なっ、なっ、何を言っておるのだ!この色だけしかないのか、この色だけしか!
馬鹿を言ってはいかん!ということは、この辞書は女しか使ってはいかんと言うことか!
何を言っておるんだ、早く男色のものを持って来なさい!」
私「ご説明いたしました様にこの辞書はこの色だけでございます。」
老人「それでは君は私がこの女色の辞書を買って、衆人環視の中、この女色の辞書を持
ち歩き、帰宅するまで世間の笑われ者になれと言うのか?」
私「いえ、ちゃんとお包みいたしますから。」
老人「馬鹿もん!そんなことを言っておるのではない!私は日本男児だ!日本男児たる
もの断じて許す訳にはいかん!出版社にすぐ連絡をして男色のものを出版する様にした
まえ!君の会社はその義務がある!」
私「それは出版社の方針ですから、私共が要望を出しても応えてくれるものではござい
ません。」
老人「相手はアメリカの出版社だろう!私はアメリカと戦争をしたんだ。戦争に負けた
のも君の様な弱腰の人間がいるからだ!君じゃあ話にならん!責任者を出したまえ、責
任者を!」
私「いえ、責任者を出しましても同じでございます。私がお相手させていただきます。」
老人「アメリカは軽薄な人間ばかりだから、こんな女色の辞書を出版しておる。他の国
でこんな色の辞書を出版しておるところなんかないだろう?」
私「いえいえ、表紙が赤色の辞書など珍しくも何ともございませんよ。」と言って、老
人が気絶しそうな表紙が真っ赤のデンマーク語の辞書を見せる。「Dansk-Engelsk
Ordbog」という、これもデンマーク語辞書の定番商品である。その他、表紙が赤色の
辞書を幾つかお見せする。
老人「もういい!情けない!、実に情けない!私の和服を見なさい。どこに女色がある。
男と言えば、黒か紺だ。私は黒か紺の色の辞書しか認めない。それが日本男児たるものの
誇りだ。男色のものが出版されるまで私は待つ!」と、そう言い残して去って行った。
私は思った。この老人にとっては男色・女色は生活の中で、どの範囲までが対象なの
だろうか。まさか、トマトや人参や林檎に対して「男色になれ」とは言っていないだろう。
日の丸に対して「男色になれ」と言っているのだろうか。実に不可思議である。
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