「安藤広重展/日本橋・朝之景の摺り絵」の巻

 今巻は誰が不可思議ということではなく、事の流れが実に不可思議に進んで
いったお話です。

 六年前の正月、池袋の百貨店で安藤広重「東海道五十三次」展が行われた。
高齢な摺り師の実演が行われ、「日本橋・朝之景」の摺りたてが見学していた
私の目の前にハラリと置かれた。これが事の始まりであった。

「朝之景」から離れ、近くにいた百貨店の係員に聞いてみた(後で知ったのだ
が実は浮世絵博物館の関係者であった)。

私「あの摺った絵は販売されるのですか。」

係員(実は浮世絵博物館関係者))「いえ、あれは売りません。こうした実演
は摺り師にとってはいつもの仕事場と違う環境で摺っているので、どうしても
ずれたりするんですね。摺り師が嫌いますので売ることはしません。」

私「どうされるんですか。」

関係者「多少ずれたりとは言っても大変珍しいものですので、縁起ものとして
百貨店の社長様や取締役の方々に差し上げております。」

私「手頃な値段で分けてもらう訳にはいきませんか。」

関係者「お売りすることはできませんね。第一、摺り師が許しませんからね。
あちらのショップで完成品を売ってますので、そちらでお買いになって下さい。」

私「うーん、完成品にはあまり興味がないんですよ。多少摺り違いがあっても、
今摺り上がったところが何とも言えないんですよね。」

関係者「そういうお客様が沢山おられましてね。摺り途中の未完成品が欲しい
というお客様が大勢いて、先生が摺っている時に『そこで止めて!それを分け
て下さい!』なんていうことが多いのですよ。勿論お断りいたしますがね。似
たようなケースは沢山ありますが、今回は断固とお断りしています。今のとこ
ろどなたにもお渡ししておりません。」と、先手を打って牽制球を投げてくる
関係者。

 まあそうだろうなと私も諦めて、関係者の方と何ということもない話をして
いるところへ、休憩に入った75歳の老摺り師がやって来て、「どうなさいまし
た。」と関係者に声をかける。

関係者「こちらの方がですね、先生が摺られたばかりの日本橋の絵を分けても
らえないかとおっしゃってまして。勿論お断りいたしましたよ。今回は徹底し
ておりますから。」

摺り師「沢山のお客様から無理なご注文をいただき困っております。広重の東
海道はお好きですか。」

私「はい。日本橋、鞠子、蒲原などが好きです。」

摺り師「こういう実演は条件の悪い所で摺ったもので、どうしても絵にケチが
付いてしまいます。私共職人にとっては失敗作品というものですので、そちら
の店で状態の良いものを売ってますからそちらで買われてはどうですか。」

私「私はマニアでも何でもないのですが、今拝見させていただいて、摺りずれ
が多少あっても摺りたての湿った感じとか、裏に滲んだ色の綺麗さに惹かれま
すね。何とも言えない色調ですね。」

摺り師(関係者に向かって)「そこまでお好きでしたら、特別にお分けしてあ
げたらどうですか。」

関係者(急に動揺し)「えっ!でも先生それはまずいんじゃないですか。よろ
しいのですか。先生方が絶対に売ったり差し上げたりしてはいけないと仰った
ではないですか。第一、値段が付けられないですよ。」

摺り師「値段が付けられないなら、紙代程度をいただければよろしいでしょう。」

関係者「いえいえ、だめですよ。この場所は百貨店さんのお店の区域ですので、
勝手に値を付けられないですよ。百貨店さんの責任者との交渉事項になってし
まいますよ。」

摺り師「お金が絡むからまずいですか。」

関係者「ええ、ええ。店舗商品外の例外処置となってしまうんですよ。大変な
交渉事項になりますよ。」

摺り師(あっさりと)「だったら差し上げればよろしいじゃないですか。」

関係者「まさかご冗談を。お店の区域でただで物品を渡したのでは私が百貨店
さんに叱られてしまいますよ。第一、先生はよろしいのですか。絶対差し上げ
てはいけないと仰っていたではないですか。」

摺り師「まあそう言わずに、こちら様のご要望をかなえてあげられるよう知恵
を絞ってあげなさい。こうした若い方が広重の絵がお好きなんだから。」と、
陛下の様なお言葉。

 下駄を預けられた関係者の方は、目を閉じ腕を組んで「うーん!」と長考状
態に入ってしまった。何だかとんでもない方向に話が進んで行ったのでこちら
としても多少困惑気味である。

 暫くして、あの暗めの関係者の顔がぱっと明るくなって目が開いた。

関係者「先生、先生。見つかりました。いい手がありますよ。お金が絡むとま
ずいし、ここでただでお渡しするものまずい。そこでですね、先生、先生ご自
身がこの絵を控え室にお持ちになって、そこで新聞紙かなにかにくるんで先生
の控え室で個人的にお渡しになることにすれば、何ら問題ありません。これで
行きましょう!これで!」

 今度は先生の方が少し当惑気味に腰を引く、「えっ、私がこの絵を控え室へ
持って行ってお渡しするのですか。」

関係者「はいはい。そうです、そうです。そうすれば先生とこの方との個人的
な問題ですから、私も何ら関知しないことになります。この手で行きましょう!
バッチリですよ!」

摺り師「ほうー、何だかややこしいことになりますが、まあよろしいでしょう。
では参りますか。」

 今度はこちらが「えっ!」状態になってしまい、「いえ、そこまでしていた
だくのは心苦しいです。」と慌てると、先生は「関係者の方がそれでいいと言
われるのですから、それでよろしいじゃないですか。」との言葉、関係者の方
は「先生がそれでいいと言われるのですからいいんですよ。」

 と言うような次第で、腰の曲がった75歳の老摺り師の控え室へ同行すること
となり、そこで絵は新聞紙にくるまれ、思わぬ事から私の手に入ることになっ
たのである。

 思うに、老摺り師も関係者の方もこれに懲りて、再度当初の原則厳守で意見
が一致し、私と同類の人達は全てその望みを絶たれることになったのではと心
配するのである。

 いただいた絵は、貴重な記念品として額装され、我が家に飾られている。



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