「JR東日本 車内アナウンス」の巻

 慌ただしい師走、雨の日の帰宅途中の車内。JR中央線の高尾行きの列車の席に
座っていると、多少酔ったサラリーマン風の年配男性が隣に座ってくる。

「よいしょっと、ああー、疲れた。ふっー、大変な一日だったなあ。」と独り言を
言う。入社以来同じ線を長年使っていると、隣に座った人の雰囲気が異様かどうか
が瞬間に分かってくる。この時、私は不可思議さを予感した。

 暫くすると、車内アナウンスが始まった。
アナ「本日はJR東日本をご利用いただきまして誠にありがとうございます。」
男性「いえいえ、たまたま使うことになったんですよ。お礼を言われる程じゃない
ですよ。」

 やはり予感は当たった。問題はこの男性が「独り言型」か、それとも人に話しか
けてくる「巻き込み型」かである。

アナ「お客様にご協力のお願いを申し上げます。長い席は7人掛け、短い席は3人掛
け、優先席はお年寄りやお体のご不自由な方の席でございます。一人でも多くのお
客様が座れる様ご協力の程よろしくお願い申し上げます。」
男性「分かりました。でもね、世の中そううまく行かないですよ。小錦、曙、武蔵
丸なんかが座ったらどうします。7人掛けは無理でしょう。まあ、これは屁理屈です
ね。」

アナ「携帯電話をお持ちのお客さまへお願い申し上げます。優先席の前での携帯電
話のご使用は医療器具に影響を与えますので、電源をお切り願います。また、車内
ではマナーモードに切り替え、車内での通話は周囲の迷惑となりますのでご遠慮下
さい。」
男性「結構うるさいですね。あれをしろ、これはするなと。でも、承知いたしまし
た。私は携帯を持ってないけど、十分注意いたします。ところで、呼吸は一分間に
何回すればいいでしょうかね。なんてね。」

アナ「間もなく列車は発車いたしますので、ホームでお待ちのお客様は車内でお待
ち願います。また、扉が閉まりかけての飛び込み乗車は大変危険ですのでおやめ下
さい。」
男性「ほんとにうるさいもんですね。まだ先の話じゃないですか。発車するまで外
で待とうが車内で待とうが勝手でいいんじゃないですか。飛び込み乗車するななん
て言ったって、本人がいないところで言ったってしょうがないでしょう。でも、こ
れも屁理屈ですね。」

 どうやら「独り言型」の様である、ちょっと安心する。が、まだまだ油断は禁物
である。いつ「巻き込み型」に変身するか分からない。

 そして発車時間がくる。
アナ「扉が閉まります。お荷物が挟まらない様ご注意下さい。飛び込み乗車はおや
め下さい。」(なかなか扉が閉まらない)「飛び込み乗車はおやめ下さい。」
男性「早くドアーを閉めなさいよ。それじゃ飛び込み乗車を誘っているようなもん
ですよ。」

 扉が閉まり、列車は動き出す。車内アナウンスは先程と同じアナウンスを繰り返
す。それに合わせて男性も同様に応えている。

アナ「次は、神田、神田でございます。一部、列車とホームの間が大きく開いてい
る箇所がございます。十分ご注意をお願い申し上げます。」
男性「大丈夫ですよ。みんな目が付いているんだから。目は見るために付いている
んです。それで落っこっちゃったらそれだけのもんですよ。」

 神田を過ぎると、車内アナウンスも少なくなり、男性も落ち着いてきた。これで
一眠りでもしてくれればもう安心である。と思っていると、その時男性がぽつりと
言った、「般若心経か。」私はドキリとした。私が読んでいたのが『般若心経』の
本だったからである。男性の正体は「巻き込み型」だったのか、先程までの「独り
言型」はほんの序章だったのか。男性は続ける、「般若心経か、私には無理だ。」
私は警戒レベルを上げて様子を伺う。そこへ救世主の車内アナウンスが再開する。

アナ「JR東日本では12月10日から1月10日まで、安全快適キャンペーンを行って
おります。お気づきの点がございましたら、駅係員にお申しつけ下さい。」
男性「ふーん、それ以外は危険不愉快キャンペーンでもやるんですかね。なんて、
これも屁理屈ですね。」

 新宿駅が近づいて来る。
アナ「間もなく新宿に到着いたします。本日は雨のため傘の忘れ物が多くなってい
ます。傘などお忘れ物のない様、十分お気をつけ下さい。新宿に到着いたします。」
男性「傘の忘れ物なんて、何てことないですよ。私なんか、会社に忘れられちゃって
ますからね。それに比べれば傘なんて。」

 それから先は、私が恐れていた「巻き込み型」に変身することもなく、ひたすら車
内アナウンスとの対話に誠心誠意没頭、そして列車は私が降りる国分寺駅へ到着する。
アナ「国分寺、国分寺でございます。車内は大変混雑しております。お降りの方は順
序よくお降りいただく様お願い申し上げます。本日はJR東日本をご利用いただき誠
にありがとうございました。」
男性「こちらこそありがとうございました。いろいろご指導ありがとう。私も順序よ
く降りることにいたします。」

 私も男性もホームに降りると、今度は構内放送がバトンタッチする。
構内放送「本日は雨のためホームが大変滑りやすくなっております。足下には十分に
ご注意ください。また、階段も滑りやすくなっておりますので、階段の登り降りにも
お気をつけ下さい。」

 男性は既に切れる状態の極限に達している。
男性「いろいろ注意してくれてありがとう!本当にありがとう!助かりました!JR
東日本さんのお陰で無事帰って来れました!ああしなさい、こうしなさいもちゃんと
守りました!呼吸も規則正しくいたしました!きょうは、帰ったら、ちゃんと歯を磨
いてすぐ寝ます!それで許してもらえますか!」と言いながら、あの刑事コロンボが
やる様に手を大きく挙げながら、人波に消えて行った。


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