「私の携帯メールを見ないで!」の巻
私は通勤にJR中央線を使っている。その日は月曜日であった。いつも通りの
朝の出勤風景である。電車が入って来る。ドアが開き、車内に入る。
車内に入った時、張りつめた妙な雰囲気を感じる。朝の出勤の車内は、人それ
ぞれの思いがあって、新聞を読んでいる人、本を読んでいる人、憂鬱に考え込ん
でいる人、熟睡している人と様々で、月曜日の朝から既に仕事に燃えている人や
そうでない人の気持ちが複雑に車内に漂っているのである。
ところがその日の車内は、様々な出勤光景はあるものの、雰囲気が一つの事に
集中して張りつめているのである。いつもの複雑なそれぞれの思いが漂っていな
いのである。「この雰囲気は何だろう」と思っている中、ドアが閉まり、列車は
走り出す。
混んだ車内の私の隣では、若い女性が携帯メールに夢中になっている。その女
性に向かいあった年齢60近い男性は、両手でつり革にぶら下がりながら体はブラ
ブラ状態で、女性に嫌われる典型的なおじさんタイプ。時折、女性に覆いかぶさ
る様な姿勢になる時がある。それでも、普通の通勤風景である。列車は何事もな
いかの様に走っている。
すると突然、私の隣の携帯メールの女性が例の男性に向って叫ぶのである。
「止めてよ!人のメールを読まないでよ!」
私は驚くと同時に車内の異様な雰囲気の原因が分かったのである。この二人
なのである。
その年配男性は依然として両手でつり革にぶら下がり体をブラブラさせながら、
「冗談じゃあないよ、人のメールなんか読むわけないじゃないか。」
女性「読んでるじゃない。私の携帯を覗くじゃない!」
男性「読まないよ!あんたのメールなんかに興味ないんだよ!」
女性「第一、そんなにくっついて来ないでよ。なんで覆いかぶさってくるの!」
男性「電車が揺れるからしょうがないじゃないか。運転手に文句を言えよ!」
女性「もっと離れてよ。痴漢行為で警察を呼ぶわよ!」
そして、しばらくは沈黙の状態が続く。女性は相変わらず携帯メールに夢中で
ある。男性は体をブラブラさせては、明らかに女性の携帯を覗き込んでいる。そ
れを避ける様に女性は体の方向を変える。合わせる様に男性も角度を変えて、携
帯を覗こうとする。この行動が何回も繰り返される。私はもうハラハラである。
これはもしかすると最悪の事態になるかもしれないと思った。最悪の事態とは何
だろうとも思った。
そして、とうとう女性の堪忍袋の緒が切れた。男性に掴みかからんばかりの勢い
で、女性「何度言えば分かるの!、止めなさいよ!何なのあなたは!警察を呼ぶ
わよ、警察を!体を寄せて来てメールを覗くなんて最低!セクハラよ、セクハラ!」
男性「何がセクハラだよ!どこに証拠があるの、どこに?」
女性「周りの人が証人よ!立派な証拠よ!みんなに証人になってもらうわ!」
今までじっと事態を監視していた周囲に揺れが起こる。私も「えっ?」と思う。
「これに巻き込まれるのは困るな。車両を変えようかな。でも、最後まで見届け
たいな。」などと考えている自分。
そんな周囲の思いなどはお構いなく二人は延々と言い争っている。
女性「あなたは一体何考えてんの!人のメールを見て何が楽しいの!サイテー!」
男性「人に見られて困るようなメールなんか止めてしまえ!」
女性「あっ、あっ、やっぱり見てたんじゃない!鉄道公安員を呼ぶわよ!」
私が電車に乗ってから30分、そうこうする間に列車が新宿駅に到着する。そして、
新宿駅で遂に事は決着するのである。
列車が止まる。ドアが開く。そして、女性は男性に最後の言葉を発するのである。
女性(ごく自然な調子で)「じゃあ、父さん、行って来ます。」
男性(ごく自然な調子で)「おう、気を付けてな。」
. . . . . 親子だったのである。車内に衝撃が走ったのは言うまでもない。信じ
られない光景である。車内でのあの言い争いは完全に他人同士の喧嘩である。私
の左隣に立っていた若いサラリーマンと目が会った。その目は「親子だったんで
すか?」と問いかけている。私の目は「親子だったんですね」と答えている。
もしかすると、この親子の行動は結構知られており、車内の何人かは知っていた
のかも知れない。この種の言い争いは二人にとっては出勤途上の軽いウオーミング・
アップなのかも知れない。
娘を見送ったお父さんは姿勢の良い普通のサラリーマン姿に戻り、日経新聞を
読み始めるのであった。
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