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今までのことわざ一覧
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ことわざです。カーソルを持っていくと「読み」が表示されます。
『岩波ことわざ辞典』
『故事ことわざ辞典』
『ことわざの読本』
『日本のことわざ』
『ことわざ絵本』からの引用です。
私の独り言です。
テーマ設定したときの文章です。
あ 朝起き貧乏、寝福の神 (テーマ:「朝寝」または「早起き」)
寝正月ともいって、正月元日には朝起きを忌み、終日戸を閉じて寝る習俗が一部にあるところから起こったことわざ。
「朝起き」礼讃のことわざが圧倒的な中にあって、孤軍奮闘していることわざです。寝ていると福が来るなんて素敵じゃないですか。私なんか、出勤しないでずっと寝ていたい。(2003年2月22日)
朝酒は門田を売っても飲め (テーマ:朝飲むといいもの)
朝酒は女房を質に置いても飲め
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朝酒は牛を売ってでも飲め
五割の金(非常な高利の金)を借りても朝酒は飲め
朝酒は、最もよい田を売って工面しても飲む価値があるということ。
「門田」は、門の前の田。耕作に便利なので大切にされている門田を酒のために売るというのである。普通は朝から酒を飲むのは非難されることが多いが、ここは逆に朝酒を礼讃している。どういうわけか朝酒を勧めることわざは多い。
朝酒は、どんな工面をしても飲む価値があるという朝酒礼讃のことば。門田とは屋敷の入口にある田。通例、その家の田のうちでも、最もよい田。
私は小学・中学・高校時代を奈良で過ごしました。高校3年の時に、八百屋を商売にしている下宿屋で一年間下宿生活を送りました。そこの親爺さんは朝から、鉢巻き姿で、寿司屋で使う大きな湯飲みで一升瓶を相手に朝酒を楽しんでいました。このことわざを地でいっていたわけです。
朝酒礼讃には、「体に悪い」という違和感を感じます。なぜ朝酒を礼讃することわざが多いのでしょうか。
『養生訓』(巻第 4):
「凡(およそ)酒はただ朝夕の飯後にのむべし。昼と夜と空腹に飲むべからず。皆害あり」と、空腹でなければ朝酒は飲んでも構わないと述べている。(2003年2月15日)朝茶はその日の難逃れ (テーマ: 朝飲むといいもの)
朝茶は縁がよい
朝茶に別れるな
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朝茶は七里戻っても(帰っても)飲め
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朝茶は三里行っても飲め
朝茶は質を置いても飲め
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朝茶は福が増す
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朝茶を飲めば、その日の難をのがれるという俗信によって、必ず飲むものであるという意。
朝、茶を飲めば、その日一日のさまざまな災難を逃れることができるという意味。茶に対する信仰とでも言うべきものだが、特に朝茶は評価が高く種々の類句がある。
「七里戻っても」「三里行っても」「質を置いても」とはすごいこだわりですね。(2003年2月15日)
朝寝朝酒は貧乏の基 (テーマ:「朝寝」または「早起き」)
朝寝昼寝は貧乏のもと
朝寝する者は貧乏性
朝寝の貧乏
朝寝八石の損
朝起千両
朝寝坊をしたり、朝から飲酒をするような者は、怠け者だから貧乏をするという意。
大多数の人が農耕に従事していた江戸時代には「朝起きは富貴(ふうき)の相(そう)、朝寝は貧乏の相」と言うように、朝寝坊は戒めの対象だった。
朝寝坊は万事につけて損であること。
前回のテーマで「朝酒」を取り上げました。朝酒礼讃のことわざはたくさんありますが、これは朝酒を否定したことわざ。(2003年2月22日)
頭隠して尻隠さず (テーマ:ちょっととぼけたことわざ)
かしら隠して尾を出す
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かしら隠して尻隠さず
身を蔵し影を露わす
柿をぬすんで核をかくさず
雉子の草隠れ
一部の悪事や欠点を隠しただけで、全体を隠したつもりでいること。
多くは他人の行状を揶揄したり嘲る意味で使われる。第二次大戦前までの江戸系いろはカルタの絵札は、褌(ふんどし)をした男の尻を描いたものが多かった。これは、葛飾北斎の描いたカルタ絵の、蚊帳に入り込もうとする夜這いの男の図柄が長く継承されたからである。江戸時代全般では「かしら」を使った言い回しが主流で、用例から見ると、人間ではなく鳥、特に雉の頭だったと言えるようだ。「あたま」と表記したものは、ことわざ集『諺苑(げんえん)』(1797年)あたりからのようだ。
一部分の欠点を隠しても、大部分の欠点を隠すことができないこと。雉子は首を草の中に隠せば、尾が見えざらしでも平気なことから起こったことば。
悪事や欠点などの一部分を隠して、全部を隠したつもりでいるのをあざけっていう語。
キジが、草の中に首を隠して、尾の出ているのを知らない様子から連想していう。
自分ではちゃんとかくれているつもりでも、ほら、まだお尻がででいるよ、というわけ。それはつまり、なかなか完全にごまかす、というのはむずかしい、ということ。『証拠は明らか』(2004年元旦)
あちらを立てればこちらが立たぬ (テーマ:誰でも知っていることわざ)
あなたを祝えばこなたの怨み
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かなたによければこなたの怨
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出船によい風は入船に悪い
右をふめば左があがる
@両立が困難なこと。双方によいことはないという意。A二人の主人には仕えられないこと。この後に「双方立てれば身が立たぬ」と続けた俗謡がある。
『毛吹草』(江戸前期):「あなたを祝えばこなたの怨み」
『鷺水閑談(ろすいかんだん)』(江戸中期):「かなたによければこなたの怨」
これに続けて「双方立てれば身が立たぬ」という。@両立しがたいこと、両方によい事はないたとえ。Aふたりの主人には仕えがたいことにいう。
『毛吹草』 :同上
『鷺水閑談』:同上
一方に義理を立てると他方への義理を欠くことになる。よいと思ってしたことが、一方にはよくても他方にはよくない。双方の利益や感情などを同時に満足させることはむずかしいということ。つづけて、「双方立てれば身が立たぬ」ともいう。
『毛吹草』 :同上(1638)
今の世の生活模様を表現していることわざだと思います。『岩波ことわざ辞典』と『故事ことわざ辞典』で具体的に「二人の主人には仕えられない」という意味があること、初めて知りました。(2003年6月1日)
一年の計は元旦にあり (テーマ:正月)
一年のはかりごとは元旦にあり
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一年のはかりごとは春
一日の計は朝にあり一年の計は元旦にあり
一日の計は朝に在り、一年の計は春に在り、一生の計は少壮の時に在り。 『三計塾記』
一年間の計画は年頭の元旦に立て、物事は始めにしっかりとした計画をもって当たれという意味。
『元帝纂要』(中国・梁代):「一年の計は春にあり、一日の計は晨(あした)にあり」
『風流志道軒伝』(江戸中期)(巻二):「一日の計(はかりごと)は朝にあり、一年の計は元日にあり」
『譬喩尽』(たとえづくし):「一年の計(はかりごと)は正月にあり、一月(いちげつ)の謀は朔日(ついたち)にあり」
江戸時代には異表現が上掲のほかにいくつもあるが、「計」はどれも「はかりごと」と読まれ、はっきりとした音読みの例はない。
一日の計画は朝のうちに立てるべきである。一年じゅうの計画は年の初めの元日にきめるべきである。物事は、しっかりした計画を立てなければいけないという意。四計の一。
『月令広義』: 「一日之計在_晨、一年之計在_春、一生之計在_勤、一家之計在_身」
今年の元旦は朝から熱で寝込んでしまいました。大晦日の我が家の恒例として、私が田作りと鰊の昆布巻を作り、妻がその他のものを作ります。私は田作りと鰊の昆布巻が大好きで、正月の楽しみにしているのですが、今年の元旦と二日は食欲もなく雑煮も食べず、「一年の計は」どころではありませんでした。(2003年2月2日)
一富士二鷹三茄子 テーマ:夢
一富士二鷹三茄子四扇五煙草六座頭
夢に見ると縁起がよいとされるものの順番。特に新年の初夢について言われる。
いくつかの説がある。@初夢に見て縁起のよいもの。A駿河(静岡県中部)の名物をあげたもの。B駿河で高いもの(「たか」は足高山、「茄子」は初物の値段)。Aは江戸中期・後期の『笈埃(きゅうあい)随筆』や『嬉遊笑覧』に、Bは江戸後期の『甲子(かっし)夜話』にそれぞれ出てくるが、どれも推論の域を出ていない。図像資料に目を向けてみると、江戸時代の特に浮世絵にたくさんある。その多くが絵の題に「初夢」「夢見」と記されている点を考慮すると、@が最も有力となる。
夢に見るものの中で縁起のよいもの。一説には、駿河(静岡県の中部)の国の名物をいったものという。
『俚言集覧』:「瑞夢の次第といふ。一説に駿河国の名物をいふといへり。一富士二鷹三茄子四扇五多波姑(たばこ)六座頭。」
『笈埃(きゅうあい)随筆』:「或人いふ。この三事、夢の判にはあらず。皆駿州の名産の次第をいふ事也、富士は更也、二鷹は富士よりいづる鷹は唐種にて良なり、こまがへりといふ、三茄子は此国第一に早く出す所の名産なればといへり。」
『嬉遊笑覧』:「世によき夢とて一富士二鷹三茄子というは、何の故とも弁(わきま)へがたし。駿河などの国のことわざとは見えたり。其国の名物をいふにや。(中略)また思ふに、富士山は高大をよろこび、鷹は鷙鳥(しちょう)にて、うちつかみとるといふ義、茄子はなすなるといふを、成の意に祝したるか。」
『甲子(かっし)夜話』:「楽翁の語られしは、世に一富士二鷹三茄子といふことあり、この起こりは神君(徳川家康)駿城に御座ありし時、初茄子の価貴くして数銭を以て買得る故、其価の高きをいはんとて、まづ一に高きは富士なり、その次は足高山なり、其次は初茄子なりといひしことなり、彼土俗は足高山をたかみとのみ略語にいふ故なるを、今にて鷹と訛り、其末は三物は目出度ものをよせたるなど心得、両にかき掛けて翫ぶに至るは余りなる事なり。」
子どもの頃からこのことわざはよく分かりませんでした。縁起のよい夢として、「富士」と「鷹」は分かりますが、なぜ「茄子」が縁起がいいのか分かりませんでした。私に意見を求められれば(誰も求めては来ませんが)、私はAの「駿河の名物をあげたもの」説です。理由は「一富士二鷹三茄子四扇五煙草六座頭」という具体的な記述が決め手です。そうなると、「座頭」が分かりません。駿河には目が見えない人が多くいたということですか。また分からなくなってしまう。でも世の中って、はっきりしないぼんやりとした部分があった方がいいとも思います。(2003年2月2日)
一寸の虫にも五分の魂 (テーマ:『ことわざ絵本』から)
小さくて弱い虫にだって、それなりの意地はあるものだ、ということ。ばかにしたらいかんぞ!!ということ。「単三電池にも1.5ボルト」(2003年6月29日)
田舎の学問より京の昼寝 (テーマ:京都)
田舎の利口より京の馬鹿
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田舎で学問するより都会で怠けていた方が、見聞だけでも広まるので意義があるという意。
これが定解になっているが、いささか疑問がある。見聞の利益の大きさを言う、という解釈を示した『俚諺辞典』(1906年)がそれ以降の定解となっているが、『諺語』(江戸末期)の略解には「都に生れし人はどこか清浄にて、田舎の学文したよりよい所ありといふたとへ」とある。これを素直に読めば、見聞の問題ではなく、人の心根を問題にしていると思われる。どちらの解釈にしても、根拠となるべき具体的な用例が見当たらない。都をあがめ田舎をおとしめる意のことわざに「田舎の利口より京の馬鹿」というのがあるので、これとの混用か言い換えということも考えられる。
いなかで一生懸命勉強するよりも、都でなまけているほうがかえって見聞が広くなる。
田舎で苦労して学問をするのよりも、京におれば、昼寝していてもずっと知識がつくものだ、という意である。
さらに強調したものに「田舎の利口より京の馬鹿」という諺もある。文化が都会に集中する限り、この諺は確かに真実をとらえている。そうしてこの傾向はとくに日本に強いと言われている。地方の大学が中央の大学に比べてはるかに劣っていることも、その一つの現れであろう。しかしそれは理想の姿ではあるまい。民主的な世であるならば、文化はどこにも公平に普及させられなければならないものであろう。
『岩波ことわざ辞典』
が定説に疑問を投げかけているのが面白いです。『日本のことわざ』
は一部誤解されることも恐れぬ発言です。(2003年4月27日)
犬も歩けば棒に当たる (テーマ:誰でも知っていることわざ)
犬もあるけや棒にあう
犬も歩けば棒にあう
歩く足には棒も当たる
@何かをやっていれば意外な幸運に出会うこと。A何か行動すると災難に遭遇すること。
まったく相反する意味をもつ珍しいことわざの一つである。「棒に当たる」をどう解釈するかで見解が分かれる。江戸時代の文献に限って分類してみると、
@幸運説 『加古教信七墓廻り(かこのきょうしんななはかめぐり)』(浄瑠璃、1702年)、『三番続』(雑俳、1705年)、ほか三点。
A災難説 『鑓の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)』(浄瑠璃、1717年)、『蛭小島武勇問答(ひるがこじまぶゆうもんどう)』(浄瑠璃、1758年)、ほか三点。
他に、『諺苑(げんえん)』(1797年)、『俚言集覧』は、災難説を主に述べ、幸運説もあるとしている。現代では、もともとは災難だったものが幸運に転じたとみる見解が多いが、江戸時代の用例に限ってみれば妥当とは言えない。
@でしゃばるからわざわいに会う A出歩けば意外な幸いに会うこともある。「棒に会う」ともいう。
@積極的に行動しようとすると、わけもなく犬が棒で打たれるように、損な目にあうことが多いということ。Aたとえ才能や運がなくても、何かやっているうちには、思いもよらぬ幸運に会うこともあるの意。また、単に、出歩けば意外な幸運に当たることもあるの意にもいう。
@災難説:
『蛭小島武勇問答(ひるがこじまぶゆうもんどう)』(浄瑠璃):「じたい名が気にいらぬ、犬様の、イヤ犬房様のと、犬も歩けば棒にあふ」(1758)
『諺苑』:「狗(いぬ)もあるけば棒にあたる。かせいて事をする者は禍に遭ことありとの譬なり」(1797)
A幸運説:
『加古教信七墓廻り』(浄瑠璃):「犬もあるけば防風の刺身のけんによもない仕合せ」(1701頃)
『三番続』(雑俳):「ありけば犬も棒にあたりし。夜参の宮にて拾ふ櫃(ひつ)の底」(1705)
辻浄瑠璃〈幸田露伴〉:「外へ出よ外へ出よ、犬も歩行(あるか)ねば棒にはあたらず、家にばかり引込んで居て夢の如きものを書く分では筆にも冴た味は出(いで)まじ」(1891)
面白いことわざですね。現在は幸運説だと思うのですが、どこで入れ替わったのでしょうか。出典の年代を見ると、幸運説→災難説→幸運説の変化に見えるのですが。出典の原文の意味が私にはいまひとつ分からないのが悔しい。(2003年6月1日)
鰯の頭も信心から (テーマ: 鰯)
鰯の頭も信心がら
鰯の頭も信仰から
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鰯の首も信心から
白紙も信心次第
白紙も信心から、鰯の頭にも理屈がつく
鼻糞も尊みがら
尊みがら=それ相応に尊ぶこと
Believe well and live well.
@ どんなに粗末でつまらないものでも、信心の対象となればありがたく思われること。 A 信仰心のために、つまらないものを頑固に信じる人を揶揄する意。
節分の時に、鰯の頭を柊(ひいらぎ)に刺して悪鬼払いをする風習があった。この風習を元にしてできたことわざと考えられる。それを裏付ける資料として、江戸時代のいろはカルタの絵札の中に、木の枝に刺した鰯の頭を拝んでいる男の図柄のものがある。語句から情景が伴いやすいのか、早くから絵画化されている。
異表現の「信心がら」の「がら」は、「家がら」「仕事がら」などと同じ性質や状況を表すもので、信心の深さ加減、状態を言っている。
つまらない物も信心の対象となればひどくありがたく思われるということ。
節分になると、鰯の頭を串にさし、柊(ひいらぎ)の枝といっしょに門口や戸口にさす。「追儺(ついな)」、あるいは「儺遣い(なやらい)」、あるいは「鬼遣い(おにやらい)」の行事である。魚の頭であるだけに奇異に感ぜられ、「こんなことをするのも信心からだ」と、疑問も抱かれるのである。
節分に豆をまくのは、「豆」が、健康である意の「まめ」という語と同音だから、鬼をはらうものと信じたのである。正月に橙(だいだい)や海老を飾るのは、家が橙にあやかって、「代々(だいだい)」繁昌するように、また海老にあやかって、海老のように腰が曲がるくらいの高年まで生きるように、との縁起である。
しかし、知性が進んでくると、そうした信仰に対してふっと疑問を生ずることもある。節分に豆をまくのは、鬼を追いはらうためであることは明らかである。柊の葉にはとげがあるから、これが鬼を防ぐと考えられたのであろう。しかし鰯の頭をなぜ飾るのか、それはわからない。似たような、わけのわからない信仰はほかにもあろう。そういうものに対する批判が、「鰯の頭も信心から」である。(2003年3月9日)
い
う 嘘つきは泥棒の始まり (テーマ:嘘)
嘘は盗賊の始まり
嘘は盗みの基
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嘘つきは泥棒の下地
嘘つきは盗人の苗代
じほまけ(嘘つき)は盗人
Lying and stealing live next door to each other.
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=嘘つきと盗人は紙一重
嘘はついてはならないということのたとえ。
ことわざの世界では、嘘に対して肯定的な扱いと否定的な扱いがあるが、否定的なものの代表格がこれ。異表現「嘘は盗賊の始まり」が幕末のことわざ集『諺語』にある以外は明治以降のもので、「嘘は盗みの基」が『金諺一万集』(1891年)、見出し形は『新選俚諺集』(1901年)に、ほぼ同じ「嘘は泥棒の始まり」が古典落語『くしゃみ講釈』に見られる。
外国のものの翻訳の可能性も考えられ、イギリス、ドイツ、北欧のサーミ語で「嘘をつく者は盗みもする」、ブルガリアで「嘘をつくことが好きな者は盗むことも好き」、エストニアには「嘘は泥棒の始まり」と、ほとんど同じものがある。
平気でうそを言うものは、盗みをも恥じなくなること。
という科学的な証拠は何もないけれど、うそつきはいけませんということを教えるために、ちょっとオーバーにこういう作り話をする。つまり、うそつくわけ。そして、うそつきが必ずどろぼうになるとは言い切れないが、どろぼうはよくうそをつくということはある . . . 。「どろぼうはうそつきのはじまり」(2003年4月6日)
嘘も方便 (テーマ:嘘)
嘘は世の宝
嘘も追従も世渡り
嘘も誠も話の手管
嘘は、使う目的がよこしまでなければ、必要なこともあるということ。
「方便」は、仏教で衆生(しゅじょう)を救うために用いる巧みな手段や方法。嘘を是認することわざとしてよく知られているが、近代以前の文献では、江戸中期の咄本(はなしぼん)『聞き上手』に「されど仏に方便といふ嘘あり」と見えるのが古いもので、見出しそのままの形となると、幕末の河鍋暁斎(きょうさい)のことわざ覚書『狂斎百図手控』くらいで大変少ない。
うそは罪悪ではあるけれども、物事を円滑にはこばせるための手段として必要な場合もある。(2003年4月6日)
梅伐らぬ馬鹿桜伐る馬鹿 (テーマ:桜)
桜伐る馬鹿梅伐らぬ馬鹿
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梅は伐れ桜は伐るな
樹木を剪定する時、梅の木は伐った方がよく、桜は伐ってはいけないということ。
梅の花芽は、短い新しい枝につくから、古く長い枝を切って形を整えても問題はない。しかし、桜の場合は古い枝に花芽がつくので、切ってしまったら花が咲かなくなるばかりでなく、切り口から病原菌が入り木が腐りやすくなるので、枝は切らない方がよい。園芸の心得を伝える代表的なことわざの一つである。近代以前に用例は見出せていないが、江戸後期の『譬喩尽(たとえづくし)』に「桜の枝を伐る安方(あほう)と梅の枝を伐らぬ安方」とあり、『俚言集覧』に「梅を伐らぬ馬鹿もあり桜を伐る馬鹿もあり」と収載されている。
私は盆栽が好きで、今はソロを育てています。初心者向けで、近所の園芸園で買いました。そこのご主人が私の盆栽の師匠です。マンションのベランダで育てていますが、通気性の悪い、というより密閉性のベランダなので特に夏は最悪です。いろいろな工夫をしていますが植物達は喜んでくれません。師匠の教え、「枝をバシバシ伐りなさい。伐れば伐るほど木は元気になり、葉が茂るよ」との教えに従って伐ると、私の盆栽は元気を失うのです。去年の夏は師匠の庭で養生させてもらいました。直射日光を当てないこととベランダの通気性をよくすること、これが私の大きな課題です。このことわざで私は自分の未熟さを痛感するのです。(2003年3月30日)
え 海老で鯛を釣る (テーマ:鯛)
海老で鯛
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雑魚で鯛釣る
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しゃく(尺取り虫)で鯉を釣る
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しゃこで鯛つる
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麦飯で鯉を釣る
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瓜を投りて瓊を得
蝦を将つて鼈を釣る
鼻糞で鯛を釣る
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Throw a sprat to catch a whale.
sprat =小鰯
Venture a small fish and catch a great one.
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venture =思い切って投げる
You must lose a fly to catch a trout.
lose=失う fly=蠅 trout=鱒
小さな元手で大儲けをしたり、わずかな労力や粗末なもので大きな収穫を得ることのたとえ。
鯛は日本では魚の王様。その鯛を釣る餌が海老。といっても伊勢海老のような大きなものではなく、小さな海老である。ここで言う「海老」は、価値は低く小さなものを言っていることになる。同義でたとえる物を異にするものは多い。魚類では「雑魚(ざこ)」「蝦蛄(しゃこ)」、虫類では「虻(あぶ)」「蝗(いなご)」「尺(尺取虫とも)」、穀類では「麦飯」「飯粒」があり、なかにはとても本当とは思えない「鼻糞」としたものまである。古いものは江戸初頭の『日葡辞書』に「尺」の形が見られ、「海老で鯛を釣る」は江戸中期から常用されるようになる。
少しのえさで大きな獲物を捕らえること。わずかの元手で大きな利益を得るたとえ。
この場合の「海老」は価値が低く小さなものだったのですか。知らなかった。私は今日の今日まで、価値の高い海老を犠牲にしてまで、もっと価値のある鯛を釣るものとばかり思っていました。ことわざの世界は深いです(=単に自分が無知なだけ)。(2003年3月1日)
お鬼に金棒 (テーマ:『ことわざ絵本』から)
ただでさえ強い鬼が、さらに金棒などを持てば、もうまったくすごく、敵なしだ。
というわけで、たとえば、美人でかしこいその上に、体力までそなわっていれば、ま、文句のつけようがない、というわけ!「美人に体力」(2003年6月16日)
親の心子知らず (テーマ:親子)
@ 子を思う親の深い気持ちを知らずに、子供が勝手気ままに振る舞う意。A 親にならなければ、親たる者の気持ちは推し量れるものではないということ。
とかく親というものは、自分は子供のことを十分過ぎるくらいに思っており、常々、何事も子供のためと考えていると思いがち。ところが、そうした子への思いは現実にはしばしば裏切られる。その失望の一端を表白したものであろう。江戸初期の仮名草子『可笑記』をはじめ江戸中期以降に頻出するが、逆に子供の立場から「子の心親知らず」と切り返した言い回しのものも、同じ『可笑記』に対の形で用いられているから面白い。
親の深い心を知らずに、子はかって気ままなふるまいをすること。
『義経記』:「弁慶聞きて、あはれや殿、親の心子知らずとて、人の心は知り難し」
子に対する親の愛情や苦労は子に通じにくく、子は勝手なふるまいをするものだ。
『義経記』: 同上
『社会百面相』(うちだろあん):「真箇(ほんたう)に真箇に呆れ返る、親の心子知らずとは能く云ったもんだ」(1902年)
親の気持ちなんかちっともわかってくれない。子どもはみんな、まったく勝手よ!、ということなのであるが . . . 。子どもなら当然、親の気持ちがわかるはずだ、と考えてしまうのが親の甘さというもので . . . 。そしてまた、親なら当然子どもの気持ちがわかるはずだと、期待してしまうところが、子どものだらしなさ . . . 、というわけ。『子の心親知らず』
そうかと言って、あまり親の気持ち通りに従うというのもちょっと気になりますね。多少反抗的な気持ちがあった方が健全かなとも思います。(2004年1月11日)
か 蛙の子は蛙 (テーマ:親子)
乞食の子は乞食で終わる
がんちゃ(蟹)の子はがんちゃ(香川)
瓜の蔓に茄子はならぬ
@ 凡人からは、やはり平凡な子が生まれる意。A 親子は似ること。
両生類の蛙は卵を産む。孵化したおたまじゃくしは親の姿形とは似てもにつかないが、やがては親と同じになる。始めは親に似てないものがそのうちには似るようになる、という意味が裏に隠されている。「大酒に性根を乱し、放埒なる身持、日本一の白痴(あほう)の鏡。蛙の子は蛙に成(なる)はい。親に劣らぬあの力弥めが大白痴(たわけ)」(浄瑠璃『いろは歌義臣かぶと』からも分かるように、言われはじめた江戸中期頃はよい意味で使われることは少なかった。近年では、立派な親から優れた子供ができた場合にも用いられるようになり、当初のよくないニュアンスは薄らいできている。
おたまじゃくしは親と違うようだが、後には親に似る。結局、子は親の歩んだ道を歩むものであるということ。凡人の子はやはり凡人であるというたとえ。
『籾井家日記』:「信長は底意のむごき大悪人に候。信忠の世にさへなり候はばと、かねて存じ暮らしても候が、蛙の子の魚に似て蛙になるを見れば、頼みなし。」
『仮名手本忠臣蔵』:「蛙の子は蛙の子になる、親に劣らぬ力彌めが大たわけ。」
オタマジャクシの時は魚に似ていてとても蛙の子とは思えないが、結局は蛙になることから、何事も子は親に似るものだ、子は親の進んだ道を歩むものだということ。また、凡人の子はやはり凡人であるなどの意にいう。
『仮名手本忠臣蔵』:同上(1748年)
『夜行巡査』(泉鏡花):「蛙の子は蛙になる、親仁(おやじ)も旧(もと)は此家業をいたして居りましたから」(1895年)
『腕くらべ』(永井荷風):「母の十吉は諺にも蛙の子は蛙と云ふから、もう中年ではあるが何か芸を仕込んで芸人にした方が間違ひあるまいと云ふ」(1916年〜17年)
かえるの子はなにしろかえる。親に似て、およぎはうまい . . . というわけ。でもそれは、なにはともあれ子は親に似る、ということであって . . . 、けっして、ほめられることばかりではありません . . . 。『ぐうたらの子はぐうたら』
ほとんどの辞典では、従来の否定的な意味での解釈をしていますが、『岩波ことわざ辞典』は「近年では、立派な親から優れた子供ができた場合にも用いられるようになり、当初のよくないニュアンスは薄らいできている」と説明しています。私もそう感じます。言葉というものは変化しているのですね。(2003年1月11日)
火事と喧嘩は江戸の花 (テーマ: 喧嘩)
大火事と喧嘩は江戸の町の特色を表した名物だということ。
今日よく耳にするわりに近世には用例などが見えず、文献上は明治になってから現れている。
『故事ことわざ辞典』には、「火事は江戸の花」の形で収録されており、意味として「江戸は大火事が多く、火消しの働きぶりがはなばなしかったのをいう」とある。(2003年4月20日)
風邪は万病の元
風邪は百病の本
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ありとあらゆる病の根元は風邪に発しているということ。
風邪はあらゆる病気のもとになること。
風邪をひいている私には実感あるのみです。(2003年11月30日)
可愛い子には旅をさせよ (テーマ:『ことわざ絵本』から)
可愛い子供は手もとにおいて大事に育てたいものだけれど、あえて旅に出して苦労をさせるほうがその子のためになるものだ ...という意味であって、
けっして、「子供を旅行に連れてゆけ」という意味ではない! なにしろ、子供に苦労させて、いろいろなことを学ばせる、ということなのであって... 「可愛い子には留守番させよ」(2003年6月16日)
き 聞くのは一時の恥、聞かぬは一生の恥 (テーマ:『ことわざ絵本』から)
分からないことを人に聞くのはちょっと恥ずかしいことだけど、聞かないで一生わからないままというのはもっと恥ですよ、ということ。
ま、なにしろ、わからないことは素直に聞きなさいということ。「わからぬことは子にも聞け」(2003年6月16日)京に田舎あり (テーマ:京都)
京に田舎あり、田舎に京あり
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都にも田舎
山に里あり、京に田舎あり
@にぎやかで華やいだ都にも、田舎めいた場所や風俗が残っているものだということ。転じて、A総じてよい所にも部分的に悪い場所があるという意。
現代では都市と地方、都会と田舎の落差は小さくなっているが、ことわざのできた中世や、江戸後期では、両者の間に大きな差があり、大げさに言えばお互いが異文化社会という面があった。
繁華な土地にも、開けぬいなかめいた所(風俗)が残っていること。(2003年4月27日)
京のお茶漬け(テーマ:京都)
なんなら茶漬け
遠州の何なら茶漬け
京の人は根はしわいが、口先だけは世辞がよいとそしることば。客の帰りがけに、お茶漬けでも食べて行けと勧めること。
『医者気質』:「京の人は知るべの者が見舞いに立ち寄ると其人が帰らんと暇乞ひして座を立つ時、時分になりましたが御仕度はどうで御座る、御酒でも進ぜませうものといふ」
「江戸のお茶漬け」はないのですかね。(2003年4月27日)
京の着倒れ大阪の食い倒れ (テーマ:京都)
京は着て果て、大阪は喰って果てる
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阿波の着倒れ、伊予の食い倒れ
尾張の着倒れ、美濃の系図倒れ
関東の着倒れ、上方の食い倒れ
大阪の食い倒れ、堺の建て倒れ、尼ヶ崎は履いて果てる
京都の人は着る物に、大阪の人は食べる物に贅沢をするという土地の気風を表す言葉。
早い例は、江戸中期の浮世草子『元禄曾我物語』の「京は着て果て、大阪は喰うて果る」という表現にある。なお、土地の名を揚げた同様の言い回しは全国各地に見られる。
京都の人は衣服にぜいを尽くし、大阪の人は飲食におごるふうがあるということ。
『故事ことわざ辞典』には異表現が11例記載されています。(2003年4月27日)
く 腐っても鯛 (テーマ:鯛)
ちぎれても錦、腐りても鯛
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切れても錦
腐っても鯛の骨
沈丁花は枯れても香ばし
ぼろでも八丈
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八丈=八丈絹
破れても小袖
小袖=絹の綿入れ
大鍋の底は撫でても三杯
大鍋の底に残った料理は、撫でるように軽
くよそっても、まだ三杯分はたっぷりあるの意。
An old eagle is better than a young crow.
crow =カラス
本当に優れているものは、多少、落ち目になったり傷みがきてもそれなりの価値があるという意。
日本では昔から真鯛が魚の王様。形よし、色よし、味よしの三拍子がそろっていて申し分ない。「めでたい(鯛)」と駄洒落にもなるように、縁起のよい魚として珍重され、正月の飾り物にも使われた。この飾り物の鯛は、正月も過ぎた1月20日になると焼いて食べる風習があった。腐りにくく、また少々臭気がしても食べられる鯛が向いていたということでもあろう。生き腐れすると言われる鯖では、「腐っても」の意が効いてこない。江戸初期からたくさんの用例があり、俳諧『鷹筑波集』には「くさつたれと身はよしのかな桜鯛」とある。
元来よいものは、たとえいたんでも、それだけの値うちがあることのたとえ。
『親仁形気』:「布子(ぬのこ)着せても美人には人が目を付ける。腐つても鯛とはよういうた物ぢや。」
『風狂文草』:「こけても砂と言はれんよりは、寧ろ腐つても鯛と呼ばれまほしけれ。」こけても砂=たとえころんでも、そのあたりの砂を握ってからでないと立ちあがらないこと。転んでもただでは起きぬこと。
鯛は日本では魚類の王である。からだは相当に大きいし、形はりっぱだし、色はみごとである。それになによりも味がよい。だから鯛は古くから珍重されて、七福神の一人えびすさまもこれを釣って大満悦である。だから少々は腐っても、鯛は鯛でやはり価値がある。
本来すぐれた価値をもっているものは、たとい悪い条件のもとに置かれても、やはり価値がある、と感ぜられた時、その感嘆の情がこの短いことわざによって表わされるのである。
外国にも、たとえばイギリスにも、鯛はいくらもいるそうだが、まずくて食えないそうである。そんなところでこのことわざを聞かせたら、なんと解することだろう。これはやはり日本のものである。
『親仁形気』: 同上
ことわざのホームページを始めてから、よく辞書を引くようになりました。今回の「腐っても鯛」などは意味も分かっているし、サラッと済ませるだろうと思っていましたが、いたるところで自分の知識のなさが露呈します。「ぼろでも八丈」の「八丈」って何?、「破れても小袖」の「小袖」って何だろうという具合です。その度に辞書を引きます。「大鍋の底は撫でても三杯」ということわざなどは、初めて聞くことわざです。これもまた調べます。「布子」?、「こけても砂」?、「そんなもん知らんよ」となってきます。こんな具合ですから全然先に進みません。でも、回り道をしながら、寄り道をしながら、道草を食いながら、楽しみたいと考えています。(2003年3月9日)
こ 故郷忘じ難し (テーマ: 故郷)
越鳥南枝に巣をかけ、胡馬北風に嘶く
(=中国南方の越の国から渡って来た鳥は樹木の南側の枝に巣をつくり 、北方の胡の国から来た馬は、北風が吹いてくると故郷をなつかし んでいななくという『文選』の古詩から。)
ふるさとはいつでも懐かしく忘れられないこと。
このことわざは、昨日今日できたものではなく狂言『鈍太郎』に用例の見える古いもので、中世からずっと言い慣わされてきたというところに人の深層心理の一端をのぞくことができよう。
故郷はなつかしく、いつまでも忘れがたい。
『狂言鈍太郎』: 「イヤ誠に故郷忘じ難しとはよう申したものでござる」
ふるさとと言えば、室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの」、そして石川啄木の「ふるさとの山に向ひて言ふことなし、ふるさとの山はありがたきかな」が頭に浮かびます。表現的には、犀星の詩には屈折を感じ、啄木の詩には素直な感情の吐露を感じますが、私には根本的には同じ想いに思えます。ふるさととは、肯定的にも否定的にも、払拭できない存在なのだと思います。
石川啄木の詩集にちょっと目を通してみましたが、「ふるさと」を詠った詩が多いことに改めて感じます。その幾つかを。
「今日もまた胸に痛みあり。 死ぬならば、ふるさとに行きて死なむと思ふ」
「ふるさとの訛なつかし停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく」
「ふるさとを出で来し子等の相会ひて よろこぶにまさるかなしみはなし」
「汽車の窓 はるかに北にふるさとの山見え来れば襟を正すも 」
「ふるさとの土をわが踏めば 何がなしに足軽くなり 心重れり」
(2003年3月16日)
故郷へ錦を飾る (テーマ: 故郷)
故郷へは錦を着て帰れ
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故郷へは錦を着る
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故郷へ錦
故郷には錦の袴を着て帰る
故郷へ花を飾る
帰るには錦着て行く
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立身出世を遂げて故郷へ帰ること。
『後撰集』(巻七):「もみぢ葉を分けつつ行けば錦きて家にかへると人やみるらん」(紀貫之)
『平家物語』:「故郷へは錦を着て帰れ」
出世して故郷へ帰る。
『平家物語』: 「事のたとへの候ふぞかし。故郷へは錦を着て帰ると申す事の候へば」
(2003年3月16日)子供に優る宝なし (テーマ:子供)
子に過ぎたる宝なし
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子供は人の世の中で最高の宝物だということ。
『万葉集』:「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに優れる宝子にしかめやも」(山上憶良)
『保元物語』(鎌倉時代):「人間の宝には子に過たる物こそなかりけれ」
『平家物語』には異表現が登場する。
御伽草子『唐糸草紙』(室町時代):「子にましたる宝なし」
『世話尽』(江戸前期):「子は第一の宝」
人情本『仮名文章(まじり)娘節用』(江戸後期):「子宝とさへいふものを、大切な金銭よりも、子ほどまさつた宝はないと、誰しもしつた世の常言(ことわざ)」
子は人生最上の宝である。
『万葉集』 : 同上
『平家物語』: 同上
『宝物集』 : 「只人の身には子にすぎたる宝なし」
「子供の日」にふさわしいことわざです。随分古くから使われていたのに驚きました。
(2003年5月5日)子どもは風の子 (テーマ:子供)
「子どもは風の子元気な子」だから外で遊びなさい、という具合に、家の中でゴロゴロしている子どもを外に追い出すわけ。そしてすぐに風邪をひいちゃったりするわけ。「子どもは風邪の子」(2003年5月5日)
紺屋の白袴
紺掻白袴
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医者の不養生
易者身の上知らず
自分の専門のことや技量を自分には用いないことのたとえ。「紺屋」は藍染めの職人や染物屋のことで、中世は「紺掻」と呼ばれていた。染物を職業としている者が、自分は染めていない白い袴をはいていることから。
他人のためにばかり忙しくて、自分自身の上をかまうひまがないたとえ。
自分の技術が他人のためばかりに使われ、自身にまで及ばないことのたとえ。一説によると、昔、紺屋が多く白い袴をはいていたのは、染色の液を扱いながら白い袴に、しみ一つつけないという職人の意気を表したものだともいう。
紺屋さん(染め物屋さん)はお客さんの着物などを染めるのに忙しくてとても自分の物を染めているひまがない。だから紺屋さんの袴は白のまま、というわけ . . . 、それはつまり、ひとのために精を出しているとなかなか自分のことまで手がまわらない、ということ。ひとの旅行につきあってばかりの運転手さんも、自分の旅行となると . . . 「運転手さんの旅知らず」
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『ことわざの読本』には「職人気質説」も挙げています。
『故事ことわざ辞典』の『新編故事ことわざ辞典』にも、「また一説に、紺屋は藍汁の中に布を入れて何度も浸すが、静かに手際よくやるので、白袴が少しも汚れることもなく、いつも白いままであるという意ともいう」職人気質説を挙げています。私はこの「職人気質説」の方に惹かれます。「医者の不養生」的な解釈とは違う感じを受けます。「紺屋」と「白袴」の言葉に深い日本の文化を感じるのです。(2003年11月24日)
さ 桜は花に顕れる (テーマ:桜)
ふだんは常人と変わらないように見える人が、何かの折りに優れた才能を発揮することのたとえ。
ほかの木に交じっている桜は、ふだんはまったく目立たないが、一旦、花が咲けば一目でそれと分かるということから。平安時代の『詞花集』に「みやま木のその梢とも見えざりし桜は花にあらはれにけり」と詠まれており、この歌は『平家物語』などにも見られる。近世では常用されていたことわざである。
花の咲かぬうちはなんの木とも知れなかったのが、花が咲いたので、桜であったことが知れる。平生は常人と変わらないが、何かの際に優れた天分を現すことのたとえ。
『詞花集』:「深山木(みやまぎ)のその梢とも見えざりし桜は花に現はれにけり」
『梅若丸一代記』:「地女の風俗には一きはすぐれて、今捨てし身なれど、桜は花に現はれ、どこやらにいやといはれぬ美形残りて」
般若心経の核心思想「色即是空、空即是色(色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり)」は、私にはまだまだ理解できない思想ですが、このことわざに触れると何か連関を感じます。枯れ木状態の冬の森に花を求めても何も見つからない(=色即是空)、でも春が訪れると枯れ木の様に見えていた桜の木は花で溢れます(=空即是色)。思想の一端に触れた思いになるのです。
桜のことわざは他には「桜三月菖蒲(しょうぶ)は五月」「桜は七日」「桜を折りたるよう」(=美しく飾ることをいう)というのがあります。(2003年3月30日)
し 失敗は成功のもと (テーマ:『ことわざ絵本』から)
失敗を重ねても、がんばっていればそのうち必ず成功するさ!ということ。とはいっても、なんとなく、失敗をした人への「なぐさめ」という感じがするね . . . 。「なぐさめは、あきらめのもと」(2003年6月16日)
十人十色
十人寄れば十色
Many men, many minds.
So many countries, so many customs.
人の好みや考えはみな違うというたとえ。年代順に見てみると、
「十人寄れば十国の者」『毛吹草』(1645年)
「十人寄ればとりどり」浄瑠璃『傾城(けいせい)三度笠』(1713年)
「百人百色」洒落本『令子(むすこ)部屋』(1785年)
「十人寄れば十人違う」洒落本『契情買(けいせいかい)猫の巻』(1799年)
「十人が十種(といろ)」滑稽本『浮世床』(1814年)
「十人十色」人情本『清談若緑』(1835年)
ということで、見出し形ができてくるまでに200年近くも経っている。
十人おればひとりひとりが皆姿も心も違う。人はめいめい顔かたちが違うように、好ききらい・立場・考え方も皆違っていることをいう。
「蓼食う虫も好き好き」の異表現として記載。
滑稽本『浮世床』:「是でも大勢の客の内にはむづかしい人があるはな、十人が十種(といろ)をそれぞれにあしらって」(1813年)
『吾輩は猫である』(夏目漱石):「十人十色といふ人間界の語は」(1905年)
十人いれば性格も十色、それぞれみんな違うものです、ということ。だから、人間おもしろい、人間たいへん、というわけ。「百人百様」(2003年12月14日)
せいては事をし損ずる (テーマ:『ことわざ絵本』から)
気持ちがせいていると思わぬ失敗をするから、おちついて、おちついて . . . ということ。ま、マラソンぐらいなら、やりなおせばすむけど . . . 。もしも『いちばん風呂でおおやけど』ではまったく、おばかさん!(2004年2月1日)
千里の道も一歩から (テーマ:『ことわざ絵本』から)
千里(4000km)の道を行くにも、とりあえず第一歩を踏み出さなくてははじまらないということ。それはつまり、どんな壮大な計画でもまず基本的なところからスタートしなければどうしようもないということ。ま、覚悟のうえ、お始めください。『名演奏もドミソから』(2004年2月1日)
せ
た ただより高いものはない (テーマ:『ことわざ絵本』から)
「ただより安いものはない!」と思う心が甘いのである。そういうものは、結局、高くつくのだよ、という、いましめ。なにしろ「ただ」なのだから、文句のつけようもないし。
つまり、「ただ」には「ただ」の理由があるわけで、なぜ「ただ」なのか、充分考えてから、もらおうかことわろうか決めましょう。「もらった象は大食らい」(2003年7月20日)
蓼食う虫も好き好き
蓼食う虫も好き不好き
蓼食う虫も己が好き
Every one to his taste.
Tastes differ.
人によって好みとするものは違っており人さまざまだというたとえ。「蓼」は茎や葉に辛味の成分があり、香辛料として食用ともなる植物。甘い花の蜜にはいろいろな虫が寄ってくるが、なかには辛い蓼を食う虫もいる、というように人の好みは千差万別、百人百様。狂言『縄綯(なわない)』に見られ、「蓼食ふ虫は好き好きとは申せども、あのやうなお内儀によう連れ添うてはお居やる事ぢや」と男女関係の好みについて言っている。好みの対象は男女関係に限られるわけではないが、人に訴える力があるのか男女のことに多用された。
辛いたでを食う虫があるように、人の好みはさまざまで、一概には言えないことのたとえ。
狂言『縄綯(なわない)』:同上
『菅原伝授手習鑑』:「蓼くふ虫もすきずきと、あの和郎を弟子にしたり、代参におこしたりなさる菅丞相のお心が知りたい」
辛い蓼を好んで食べる虫があるように、人の好みはさまざまで、いちがいにはいえないというたとえ。多く他人の悪趣味を評していう。
狂言『縄綯(なわない)』:同上
辛味のある蓼の葉ばかりをわざわざ好んで食べる虫もいるわけで、人の好みはほんとうにさまざま。他人にはよくわかりません、ということ。「好きなんだもーんしようがない」
(2003年12月14日)
塵も積もれば山となる (テーマ:『ことわざ絵本』から)
ちりも積もればやがて山のようになる。小さな努力も、積み重ねればそのうち大きな成果が上がるよ、という意味だったらしいが、むしろ、ちりも放っておくと、山のようになってしまうから、お互いに気をつけましょう、という意味に考えた方がよさそうだね。だって、今は、ゴミ問題の方が重要だものな。「山が積もればもうおしまい」。(2003年6月16日)
ち
鉄は熱いうちに打て (テーマ:『ことわざ絵本』から)
鉄を鍛える(強くする)には、まだ鉄がかたまっていない熱いうちにバンバンたたくとよいのだそうで . . . 。同じように人間を鍛えるにも、まだ子どものうちからバンバンと、というわけ。
いずれにしても鍛えようと思う側の言い分で、鍛えられる方にしては、ちょっとつらいわけだから、このことわざは無視。ま、どうせ言うなら、おだやかに . . .「ごはんは熱いうちに食え」(2003年6月16日)出るくいは打たれる (テーマ:『ことわざ絵本』から)
全部そろっていないと、とても気になるという人がいるもので、そういう人にかかると、他よりちょっととび出したくいは、すぐに打たれてしまう。つまり、ねたまれるわけ。
でも、しかし、出るのはくいの勝手、くいの運命。打たれても打たれても、また出るのがくいの実力、くいの根性というやつ。「美人はつらいよ」(2003年6月29日)
て
どんぐりの背くらべ (テーマ:『ことわざ絵本』から)
どんぐりごときがどっちが高いどっちが低いと背くらべしたところで、どちらもどちら、たいした差はないよ . . .
だって、なにしろ、まだどんぐりなんだもの . . . ほんとうのところがわかるのは、もっともっと先のこと、ということ。「赤ん坊の美人コンテスト」(2003年6月29日)と
泣きっ面に蜂 (テーマ:『ことわざ絵本』から)
いじめられて泣いているところに、蜂がやってきてまたチクリ。悪いことが重なるということ . . . 。そしてまた、悪いことというものはとかく重なるもので . . . 『おとしもの、迷い道、こわい犬、日ぐれ』(2004年2月1日)
な
二兎を追う者は一兎をも得ず (テーマ:『ことわざ絵本』から)
あっちも、こっちもと欲ばっているうちに、けっきょく、両方とも逃げられちゃった、というわけ。
つまり、たとえば、本も読みたい、スケートボードもしたい。そこで両方いっしょにやったところで、けっきょく、両方とも中途半ぱ、どっちも十分にたのしめない、といったようなことさ。「欲はふたつでも身はひとつ」(2003年6月29日)に
ね 猫にかつおぶし (テーマ:『ことわざ絵本』から)
大好物のかつおぶし、あげたら猫は大よろこび。目がないわけ、だらしなくなっちゃうわけ。好きなものには大よろこび。ま、単純なはなし . . . 。「親に百点」(2003年6月29日)
暖簾に腕押し (テーマ:『ことわざ絵本』から)
おもい戸や扉ならともかく、ペラペラな暖簾にいくら力を入れて押したってしようがありません . . . というわけ。
それは、つまり、象に笑い話を聞かせるようなもので、がんばったところで、何の手ごたえもない、ということ。(2003年6月29日)の
は 早起きは三文の得 (テーマ:「朝寝」または「早起き」)
朝起き三文の得
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朝起きの家に福来たる
朝起き七つの徳あり
宵寝朝起き長者の基
朝起き鳥は餌に困らぬ
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朝起き五両
朝起き三両始末五両(「始末」は倹約の意)
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早起きは三文の徳、長起きは三百の損
早起き三両倹約五両
早起き千両
早起き目の薬
早寝早起き病知らず
早起きをすれば何かしら得があり、健康にもよいということ。
電気のない時代では、社会全体が夜明けとともに労働を開始する朝型だった。早起きは自然のリズム、体のリズムにもかなっており、仕事の効率もよくなり勤勉にもつながるので、誠に重要な規範であった。(上記のように)<早起き奨励ことわざ群>とも言えるものがあることからもうかがい知ることができる。一方、これを裏側から見たものには「朝寝する者は貧乏性」「朝寝昼寝は貧乏のもと」とあって、反対側からの証明ともなっている。そして、両方を合わせたものが、「早起きは三文の得、長起きは三百の損」。
これだけ「朝起き」礼讃の連合群に出会うと、怠け者の私はただただ恐れ入る限りです。頭がクラクラしてきます。三文、三両、五両、千両と様々ですね。私は子どもの時に、「三文の得になる」ではなくて、「三文の得にしかならない=無駄骨」というのを聞いたことがあるのですが。(2003年2月22日)
ひ 貧すれば鈍す (テーマ:貧乏)
@貧乏になると賢い人でも頭の働きが鈍くなるということ。A落ちぶれるとさもしい心をもつようになるということ。
滑稽本『一盃綺言(いっぱいきげん』(江戸後期):「おれも昔のおれなら、人さまが小馬鹿にもさつしやるめへが、貧すりや鈍するの理屈で、今言たとても通らねへはなしだ」
『道中膝栗毛』:「借銭をおうたる馬にのりあはせ、貧すりやどんと落とされにけり」
貧乏すると、平素はりこうな人でも愚になる。
『醒睡笑』: 「無力すれば肩がすぼうた」(=貧乏すると肩身が狭くなる。 無力=能力、勢力、資力などがないこと)
多くの人がリストラや賃金カットに直面している現実の中にあって、このことわざは警鐘のように響きます。「襤褸(ぼろ)は着てても心は錦」の気持ちで行きましょう。
「引っ越し貧乏」というのもあります。浮世絵師・葛飾北斎は長屋住まいで 93回も転居したそうで、売れっ子絵師にもかかわらず、お世辞にも金持ちとは言えなかったとのこと。私の父は国家公務員でしたが、典型的な引っ越し族でした。山口、熊本、奈良そして東京と渡り歩き、同じ県の中でも何回も引っ越しをしました。「引っ越し貧乏」とは我が家のためにあるような言葉でした。「引っ越し三両」というのもあります。一度引っ越しすると三両の費用がかかるのですね。(2003年3月23日)
ふ 夫婦喧嘩は犬も食わぬ (テーマ:喧嘩)
夫婦いさかいは犬も食わず
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夫婦喧嘩は寝てなおる
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夫婦喧嘩と北風は夜凪がする
秋風と夫婦喧嘩は日が入りゃ止む
西風と夫婦喧嘩は夕限り
夫婦喧嘩と南風は夜に入っておさまる
夫婦喧嘩と昼の風は暮方にやむ
夫婦喧嘩と八月の風は日暮れにやむ
夫婦喧嘩は止めてはならぬ、一夜明ければ直ぐ直る
夫婦喧嘩は尻から晴れる
夫婦喧嘩と夕立あとから晴れる
夫婦喧嘩と三日月様は一夜々々に丸くなる
夫婦の間の喧嘩を他人が仲裁するのは愚かであるということ。
なんでも食う犬でも夫婦喧嘩は見向きもしないということから。夫婦は身近に生活しているから些細なことで喧嘩もするが、「夫婦喧嘩は寝て直る」ように、他人から見るとあっけなく和解もしてしまう。
夫婦げんかには犬さえも寄りつかぬ。夫婦げんかは内輪のつまらぬ争いが多く、一時的なものであるから、他人が仲裁するのは愚かなことである。
(略)もっとも、すべての夫婦喧嘩がこういうものばかりであるのではない。中には深刻なものもある。そうしてそういう深刻なものは、多くは、生活の不如意からくるのである。「夫婦喧嘩も無いから起きる」ということわざがそれを指摘している。そうしてまた夫婦喧嘩をすれば、しぜん貧しくもなる。「夫婦喧嘩は貧のもと」ということわざもある。夫婦喧嘩と貧との二つは、たがいに因になり果になって、大きくなって行くのであろう。
異表現の多さは何でしょうか。しかも風や天候との組み合わせです。夫婦喧嘩は喧嘩している時はお互いを否定していても、根本的には絆はしっかりしているのでしょう。その喧嘩が無くなった時が本当の夫婦の危機ではないでしょうか。(2003年4月20日)
ま 蒔かぬ種は生えぬ (テーマ:『ことわざ絵本』から)
蒔かない種が芽を出すわけはない。これ、まったく、あたりまえ。ということは、つまり、思っているばかりでは物事なにもはじまらない。ともかくスタートしなけりゃね、ということ。『ためない貯金はたまらない』(2004年2月1日)
み ミイラ取りがミイラになる(木乃伊取りが木乃伊になる)
(テーマ:ちょっととぼけたことわざ)
みいらとるとてみいらになる
ずく引きがずくに引かれる
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(ずく=ミミズク)
@人を連れ戻しに言った者がそのまま先方に留まり役目を果たさないこと。A人を説得しようとした者が、逆に相手の説得にあって同調してしまうことのたとえ。
ミイラというと、エジプトや古代マヤ文明の乾燥して固まった死体がよく知られているが、ここは、ミイラから採れるとされた油のこと。この油は実はミイラに加工する際に用いられた薬品類が元になったものであったが、中世ヨーロッパでは薬効があると高く評価され評判を呼んでいた。日本でも江戸初期にポルトガル船などで輸入され、高価ながらも万能薬として人気があり、求める人が多かったという。つまり、このことわざは、貴重なミイラ油を取りに出掛けた者自身が死体のミイラになってしまうというのが原義のようだ。
人を連れ帰るために行った者が、自分も先方に留まって、役目を果たさないことのたとえ。
『本朝廿四孝』:「どうやら斯う木乃伊取りが木乃伊になる様な御上使様」
薬用にするためにミイラを取りに行った人が、目的を果たせずに、自分がミイラになってしまう。人を連れ戻すために出掛けた者が、自分も先方にとどまって役目を果たさない。また、説得しようとした者がかえって相手に同調してしまうことなどのたとえ。
類句は「昼は目の見えぬミミズクをいじめにきた鳥たちが、ミミズクをおとりにする猟師に捕らえられる」の意。
『本朝廿四孝』:同上(1766年)
昔、ミイラは薬として高く売れたそうで、だから無理してミイラをとりにゆく人がいたわけ。でも、あまり無理しすぎて、とりにいったひとがミイラになっちゃった、というおそまつ。つまりそれは、連れに戻ってくるはずの人がそのとりこになってしまった、ということ。『むかえのむかえ』
ミイラそのものでなく、ミイラに加工するために使われた油だったとは知りませんでした。万能薬として人気があったとは驚きです。どの位高価だったんでしょうね。(2004年元旦)
身から出た錆 (テーマ:『ことわざ絵本』から)
錆が出た(悪くなった)原因をよく考えてゆくと、けっきょく、自分の中にその原因があったのです . . . というような、ちょっときびしい言い方。
つまり、たとえば、テストの時、問題がよくない、とか、生まれつき頭が悪い、とかいろいろ原因はあるけど、けっきょく、ゆうべ漫画を読みすぎて . . . 「ゆうべの夜ふかし」(2003年6月29日)三日坊主 (テーマ:ちょっととぼけたことわざ)
飽きっぽく何をやっても長続きしないこと。また、そういう人を嘲笑して言う言葉。
出家して仏門に入ってみたものの、わずか三日でやめて還俗(げんぞく)してしまうということから。現代でも巷間でよく見聞きする語だが、熟語としてとらえてあまりことわざとしての意識はないようだ。初出は案外に古く、江戸前期の俳諧『崑山集(こんざんしゅう)』に「月頭(つきがしら)それるは三日坊主かな」と詠まれている。
すぐ飽きてやめてしまう人。あきやすい人。
『世間胸算用』:「僅か朔日二日三日坊主」
いろいろやってはみるのだけど、なにしろ三日でおしまい、そういう人のこと。ま、あきらめがよいというこでもあるし、それに、いろいろやってみるのはわるいことじゃないけど、三日じゃね。ほんとのおもしろさもわかりはしないよね。せめて半月 . . . ? 『半月ママ』
新年になると「今年こそは日記を付けるぞ!」という人がいますが、正に三日坊主で終わってしまいます。何かを始める人はいつからでも始めますよね。(2004年元旦)
め 目の上のこぶ (テーマ:『ことわざ絵本』から)
目の上にこぶができたら、うっとうしいにきまっている。つまり、これがなければほんとにすっきりするのにね、という感じ。そして、気にすればするほどますます気になってくる、というわけ。「病院のわきのお墓」(2003年6月29日)
も 門前の小僧習わぬ経を読む (テーマ:『ことわざ絵本』から)
お寺の前のお店の小僧さんはいつもお坊さんのお経をきいているので、いつのまにかお経をおぼえてしまう . . . 。ということで . . . 、それはつまり、むずかしいこともその場にいるとなんとなくおぼえてしまうもの、というわけ。よくわかっているのかどうかはべつにして . . . 。『隣の外人 おともだち』(2004年2月1日)
や やなぎの下のどじょう (テーマ:『ことわざ絵本』から)
一度、やなぎの木の下でどじょうをとったからといって、やなぎの木の下にはいつもどじょうがいるものだと決めてしまうやつは、ま、おろかである、ということ。
そういえば、ほら、たとえば、一度、くじが当たったことのある店を「ここはくじが当たる店だ」などと決めてしまって、興奮してるやつが、ときどきいるでしょ。「当たりがわかれば世話はない」(2003年6月29日)
病は気から
病気は気持ちの持ち方一つで、重くも軽くもなるということ。
病気は気の持ちようで、重くもなれば軽くもなる。
気持ちがげんきをなくすと、体もなんとなく元気をなくして、そのうちほうとに病気になっちゃう。だから、気持ちを元気にしておけば、あんまり病気にかかりません、というわけ。つまりすべては気の持ち方ひとつで . . . 「気の持ちようで死人も元気」
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『ことわざ絵本』の説明は出色していますね。この本は私の愛読書になっています。(2003年11月30日)
ゆ 雪の中に筍を掘る (テーマ:雪)
雪中に筍を抜く
雪の中に筍を求める
雪中の筍
@得難いことのたとえ。Aこれ以上のないような孝行をするたとえ。
筍は春にならなければ芽を出さない。寒い冬の積もった雪の中から筍を掘り出すことは現実にはあり得ない。これは中国の故事に因んでいる。中国の24孝(24人の孝行な者)の一人、呉の孟宗が、冬に母親の望む筍を探すがどうしても見つからない。深く悲しんで天に祈ったところ、その恵みによって筍を得ることができたというもの。
他の辞書には記載がありません。ことわざとしての位置としては希薄なのでしょうか。(2003年1月17日)
雪は豊年の貢物 (テーマ:雪)
雪は豊年のしるし
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雪は五穀の精
A snow year, a rich year.
降雪量が多い年は豊作だということ。
中国の『詩経』に出典が求められる古い言葉で、日本でも『万葉集』(巻17)に「新しき年の始めに豊(とよ)の年しるすとならし雪の降れるは」と詠われ、新年の雪は豊穣の瑞兆とする見方を示している。根拠として、害虫の卵が凍死するとか水源が豊富になるとかいった理由が挙げられているが、現代では科学的に否定されている。おそらく、山野に積もった雪の白さによって清浄で豊かな映像が喚起されたのではないかと想像される。謡曲『難波』に用例があり、江戸時代の文芸類には多用されている。
雪が多く降るのを豊年のしるしとすること。雪がたくさん降る年は豊作であるということ。
中国でも、「豊年之冬、必有積雪」(『詩経』)といわれていた。わが国では、『万葉集』で「新しき年の始めに豊(とよ)の年しるすとならし雪のふれれば」と歌われており、「豊(とよ)の雪」とも呼ばれる。
科学的には根拠がないとは言え、『万葉集』でも詠われて、連綿と生き続けてきたこうした言葉は何らかの事実を伝えていると思うのです。英語でも全く同じことわざがあるのですね。(2003年1月17日)
よ 寄らば大樹のかげ (テーマ:『ことわざ絵本』から)
身を守るためにはとりあえず大きな樹のそばにいるのが安心である、ということ。だが、しかし、とかく、大樹というやつには、老木も多いわけで...そこのところをよくみきわめましょう。「みかけの大樹にご注意」
ちょっと待って下さいよ、この『ことわざ絵本』、本当に子供のための本なのだろうかと思ってしまいます。「大樹というやつには、老木も多いわけで」云々の文章などはまさに今の社会の問題点を見事についています。ドキリとする文章です。(2003年6月16日)
ら 来年の事をことを言うと鬼が笑う
来年を言えば鬼が笑う
来年の事言えば烏が笑う
明日の事を言えば鬼が笑う
明日の事を言えば天井で鼠が笑う
三日先の事言えば鬼が笑う
三年先の事を言えば鬼が笑う
When you talk of next year, the devil laughs.
明日のことも分からないのに、一年も先のことをあれこれ言っても仕方がないというたとえ。このことわざには多くの類似した言い回しがある。「来年」の代わりに「明日(あす)」「三日先(みっかさき)」「三年先」という表現があり、「鬼」の代わりには、「鼠」「天井で鼠」というものがある。なかには「今からすると天井で鼠が笑う」というものがある。
未来の事は、前もって知る事ができない。
『役者気質』:「人の命は明日をも知らず来年の事を言へば鬼が笑ふ」
来年の事を予測してあれこれ言うと、そんなことがわかるものか、と鬼が嘲笑する、という義である。この場合の「鬼」は、正体はよくわからない一種の魂であり、人間につきまとうものとして考えられているものである。必ずしも、「鬼」でなくとも人間の身近にいて、人間の生活をよく見抜いているらしいものなら、なんでもよいに違いない。
よく耳にすることわざですが、「天井で鼠が笑う」や「烏が笑う」というのは初めて知りました。鼠は「チュチュー、チュッチュッチュッ」と笑うのでしょうか。烏は「アホウ、アホウ」と笑うのでしょう。(2003年12月21日)
楽あれば苦あり (テーマ:『ことわざ絵本』から)
楽なことがあれば、必ず苦しいこともあるわけで . . .
ま、それが、つまりは、人生というものであって、宿題もしないで夏休みを楽しんでばっかりいたあとでは、とかく苦しくなっちゃうものさ、ということ . . . あーあ。「夏休みもあと少し」(2003年6月29日)
り 良薬は口に苦し (テーマ:『ことわざ絵本』から)
良い薬というものは必ず苦いものであって、甘い薬などというものは、体にききはしないんだよ、ということ。それは、つまり、苦いもの、きびしいもの、つまらないもの、つらいものこそが人生の薬になる。逆に、甘いもの、楽なものなどは、人生には役にはたちません、というわけ . . . ま、そういう考えもある。「良書は目に苦し」(2003年6月29日)
る 類は友をよぶ (テーマ:『ことわざ絵本』から)
同じ類のものは自然に集まってしまうものである、ということ。つまり、そこでいう類とは、性質・性格・趣味・能力などの種類ということである . . . 。『しかたないから、おともだち』(2004年2月1日)
わ わたる世間に鬼はなし (テーマ:『ことわざ絵本』から)
たとえば、落とし物が正直な人のおかげでもどってきたときなどに、「いやはやありがたい、たすかった!」という気持ちでこう言うわけ。けれど、じっさい、世間にはけっこう鬼みたいな人がいるわけで . . . 。本当の気持ちを言うなら . . . 「わたる世間に鬼がいませんように」(2003年6月29日)
笑う門に福来たる (テーマ:笑い)
笑う所へ福来たる
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笑う家に福来る
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和気財を生ず
Fortune comes in by a merry gate.
Laugh and grow fat.
苦難な状況にあっても希望をもって頑張っていれば、幸せをもたらすことができるということ。
狂言『筑紫奥(つくしのおく)』:「左様ではござれども笑ふ門には福来たると申すに依て、追つ付け御加増を取らせられ御立身を被成(なら)れうは疑ひもござらぬ。是非とも笑はせられて被下(くださ)れい」。
にこにこしている人の家には福分がまわって来る。
『筑紫奥』 : 同上
『好色万金丹』:「笑ふ門には福来るこそめでたけれ」
『旦那気質』 :「実に諺にも笑ふ門には福来り、仁ある家には徳輝き、信ある人には幸ありて」
にこにこ笑って暮らしている家には福が来ますよ、ということ。つまり、悪いことやけんかなどをしないで笑って暮らせるようにこころがけなさい、というわけ。
とはいえ、それも、あまり度がすぎると、福もどこかへ行っちゃいますよ . . . 「笑いすぎると馬鹿になる」
不景気な世の中、心が沈んでいてはいけませんね。(2003年2月8日)