平面国からの手紙

第一部 この世界

平面国の性質について

私はこちらの世界のことを平面国と呼ぶことにしますが、それは私たちがそう呼んでいるからではなく、あなたがた立体国に住むことの出来る幸運な読者のかたがたにとって、話を分かり易くするためです。

広大な紙の上に、直線や三角形や四角形、五角形や六角形、その他の図形が描かれているとします。図形はその場にじっと留まっているのではなく、紙の上ないし紙の内部を自由に動き回ることが出来るのですが、影法師のように――もっとも影法師より硬く、縁が薄く光っていますけれど――その場所から上へも下へも行くことができない、という世界をご想像下さい。そうすれば、私の国やそこに住む人々のことが随分しっかりとお分かりになるでしょう。いやはやそれにしましても、数年前になら私はこの国のことを「この宇宙」と呼んではばからなかったのでしょうが、今や私の精神はもっと高次の眺望に向かって開かれているのです。

さてこのような国には、あなた方が「立体」と呼ぶようなものは何も存在し得ないということが、直ぐにご理解頂けるでしょう。しかし、思いきって言ってみますが、先ほど私が説明した三角形や四角形や、その他の図形を見分けることくらいは出来るだろうと、あなた方はお考えでしょう。所がそうではなくて、私たちはそういった形を見ることは出来ず、ある図形を他の図形と区別することは不可能なのです。直線という例外を除いて私たちに見える形は何もないし、そもそも見えるはずもないのです。そのどうしようもない理由を、これから手早くご覧に入れることにしましょう。

ペニー硬貨を一枚、あなた方の立体世界のテーブルの中央に置いて下さい。その上に覆い被さるように上体を曲げて硬貨を見下ろして下さい。硬貨は円の形に見えるでしょう。

しかし今度はテーブルのへりまで後ずさって、目の位置を少しずつ下げていって下さい(そうすることで、あなたは平面国の住人の状態に近づいていくのです)。するとあなたの目には、ペニー硬貨はどんどん楕円の形になってくるでしょう。そして終に目がテーブルのへりと同じ高さになったとき(つまり今、あなたは実際に平面国人となったのですが)、硬貨はもう楕円の形ではなく、あなたの目には直線に見えるのです。

三角形や四角形、その他厚紙から切り抜いて作った色々な図形を使って同じやり方を試してみても、まったく同じ事が起こるでしょう。テーブルのへりから図形を見てみるやいなや、それはあなたの目にはもう図形でなくなり、見かけ上は直線に見えて来るのです。例えば正三角形を使ってやってみましょう――この形は私たちにとって、卑しからざる階級の商人を現しています。図1は、この商人の頭上に覆い被さって、上から見た彼の姿を現したものです。図2・3はテーブルの近くから、若しくはテーブルすれすれの高さから見た商人を現しています。そしてあなたの目がテーブルと全く同じ高さにあるのなら(そしてこれは、私たちが平面国でどのように彼を見ているかなのですが)、あなたは直線しか見えないのです。

私が立体国に行ったときに聞いたのですが、そちらの世界の船乗りが海を横断し、遠方の島々や海岸を水平線の上に認めるときに、これととてもよく似た体験をするそうですね。その遥か彼方の陸地には、入江も岬も凸凹した角も大小無数にあるのでしょうが、遠く離れたあなたには(あなた方の太陽がそれらの頭上を照らし、突起や陥没を陰影によって映し出さない限りは)、水の上に途切れのない灰色の一本線が見えるだけです。

とまあこれが、平面国で三角形やその他の知り合いが近づいて来るときに、私たちの見ているものです。ここには太陽も他の天体もありませんし、影を生み出すその種の光源は一切ありませんので、立体国のあなた方が持っているような視覚を得ることは出来ないのです。私たちの同胞がこちらに近づいて来るときには、彼の直線が大きくなっていくのが見えます。離れるときは、小さくなっていくのです。彼が三角形であろうと四角形であろうと、五角形でも六角形でも円形でも、その他のどんな形であろうとも、あなたに見えるのは直線であり、それ以外の何者でもないのです。

そんな不便な状況下で、どうやって私たちは自分の友人を他の人々と見分けることが出来るのかと、お尋ねになるかも知れません。もっともな質問ですが、それについては平面国の住人を説明する段になってからの方が、もっと簡単適切にお答えすることが出来るでしょう。

平面国の気候と住居について

そちらと同じように、私たちの所にも東西南北の方位があります。

ここには太陽もその他の天体もないため通常の方法で北の方角を知ることは出来ませんが、私たちには私たちのやり方があります。こちらの自然法則により、常に引力が南に向かって働いているのです。温暖な土地ではその力はとても微弱で、女でさえ健康ならば苦もなく北方向に数キロ歩けるくらいなのですが、それでもこの南に引きつける力は、この世界の何処ででも、コンパスとして使うには十分なのです。それに加えて雨(いつも同じ間隔を置いて降ります)は常に北から降ってくるので、これを使うことも出来ます。町では家を見て方角を知ることが出来ます。当然ですが、家の側壁はほとんどの場合南北に走っていて、北からの雨を屋根が防げるようになっているのです。家の建っていない田舎においては、木の幹を参考にすることが出来ます。要するに私たちが方角をつかむのは、あなた方がお考えになられる程困難ではないということです。

しかしもっと温暖な地域においては南向きの引力はほとんど感じられないくらいに弱く、導きになる家も木もない全く荒涼とした平原を歩くとき、私はしばしば旅を続けるために雨が振り出すのを何時間も待ちぼうけなくてはならなかったものです。虚弱な者や高齢者、特にか弱い女にとって、引力の影響は強健な男性よりも大きいものですから、作法として道で会った女には北側を歩かせてやるのです。こちらの体調の優れないときや、どちらが北か南か分からないような地方で、すぐさまこのように振舞うのはなかなか簡単なことではないのです。

私たちの家の中に窓はありません。それは家の中でも家の外でも、昼夜の区別もなく、何時でも何処でも光は同じように照っているからなのですが、それがどこから来るのか私たちは知らないのです。昔の教養人たちは「光の源は何であるか」と言う興味深い、頻繁に語られる問を発しましたが、その結果は問いを解き明かそうとする人たちで狂人収容所が満員になっただけでした。重税を課して間接的にそのような考究を抑圧しようと、実りのない試みを続けた後、近年になって議会は完全にそういった活動を禁じたのです。今や私は知りすぎる程――ああ、平面国では私だけが――この不可解な疑問の回答を知っているのですが、私の知識を明確に理解できる同国人は誰一人としておらず、私は物笑いにされてしまったのです。立体世界の真相と、三次元の世界からやって来る光についての理論の、唯一の保持者である私を、まるで手のつけられない狂人のように扱ったのです! しかしこのような辛い余談は止めにして、私たちの家がどうなっているかの話に戻りましょう。

最も一般的な家の形は、五辺形若しくは五角形で、次の図のような形をしています。北側の二辺 RO と OF は屋根になり、ほとんどの場合扉は付いていません。東側には女用の小さな扉があって、西側にはもっと大きな男性用の扉があります。南側は床で、扉はありません。

四角形と三角形の家は許可されていませんが、それには次のような理由があります。四角形の角は(正三角形ならばもっとそうですが)五角形よりも甚だしく尖っており、加えて無生物(例えば家)の線は人間の男性や女に比べてぼやけているため、四角形や三角形の家の住人は、軽率でぼんやりした旅行者に、角で深刻な怪我を負わせてしまう危険があるのです。ですから私たちの世界で言う十七世紀にはもう、三角形の家は全国的に法で禁止されました。例外は弾薬倉庫、要塞、兵舎、その他政府関係の建造物だけで、こういう所に一般人が迂闊に近づくのは好ましくないのです。

その当時四角形の家は、特別税が科せられたもののまだ何処ででも許可されていました。しかし三世紀が経った後、人口一万人以上の町では五角形が公共の安全と両立する最小の角であると定められました。民衆の良識は議会の運動を支持し、今や田舎においてさえ、五角形の建物は他の形に取って代わりました。そしてほんの時折、僻地や後進の農村地域で、好古家が未だに四角形の家を発見することがあるくらいなものなのです。

平面国の住人に関して

一人前に成人した平面国住人の長さ、または幅は、あなた方の数字で言うと最長で十一インチ位です。長くとも十二インチと言ったところでしょう。

この国の女は直線です。

この国の兵士や下級労働者は、一組の等しい辺を持った三角形です。二辺はそれぞれ約十一インチの長さで、底辺、つまり三つ目の辺はとても短く(大体が一インチの半分もありません)、そのために頂点は恐ろしく鋭利な角度しています。とりわけ最も生まれの卑しい者たちと来たら(底辺は八分の一インチにも満たないので)、直線である女たちと見分けがつかないくらいに頂点が尖っているのです。そちらと同じくこちらでも、この種の三角形は二等辺三角形と呼ばれ、他の三角形と区別されます。以後、彼らをこの名でを呼ぶことにしましょう。

この国の中流階級は、正三角形で構成されています。

この国の知識人と紳士は、それぞれ四角形(私はこの階級です)と五角形(ペンタゴン)です。

その上にあるのは貴族階級ですが、これには幾つかの等級があります。六角形(ヘキサゴン)から始まって多角形(ポリゴン)の名誉ある称号に至るまで、段々に辺の数が増えていくのです。そして最終的に、辺が夥しく増えて一辺一辺の長さが極度に短くなり、円と見分けがつかなくなったとき、円形、若しくは司祭階級の一員になります。これが全階級の中で最高位なのです。

この国の自然法則として、男の子はその父親よりも辺を一つ多く持って生まれ、そのため各世代ごとに(通例)階級が一段づつ上がります。ですから四角形の息子は五角形で、五角形の息子は六角形、と言うように続いていくのです。

しかしこの法則は商人には必ずしも適用されず、兵士と労働者には尚更です。各辺が同じ長さでないのですから、人間の形態をなしているとはとても言えません。ですから彼らに自然の摂理は適用されず、二等辺三角形(つまり二辺が等しい三角形)の息子は依然として二等辺三角形のままなのです。しかし全ての望みが絶たれた訳ではなく、たとえ二等辺三角形の中からでも、その子孫が終には卑賤身分から抜け出すことがあります。と言うのは、幾度もの武勲を上げた、若しくは勤勉で熟練した労働を長く続けた知性ある兵士・職人階級の中から、第三辺つまり底辺を僅かに延長し、他の二辺を縮小した姿の者が現れるのです。下層階級の中でも、知的な者たちの子女の間で行われる婚姻(これは司祭によって手配されます)によって設けられた子の形は概して、正三角形に近づくものです。

二等辺三角形の夥しい出生数から見ると極めて稀なことですが、純粋な、公に承認されるに足る正三角形が、二等辺三角形の親から生まれることがあります〔原文注1〕。このような子が生まれるための前提として、注意深く選別された婚姻を何度も行わなければならないばかりでなく、祖先数世代の長きに渡るつつましく自律した生活と、忍耐強い、体系的で持続的な知性の発達を、何世代にも渡って遂げていくことが必要なのです。

二等辺三角形の親から正三角形が生まれると言うのは、ここの人にとっては喜びのあまり何キロも跳び回るくらいの出来事なのです。保険局と社会局による厳密な検査の結果その子が等辺形であると承認されたなら、厳粛な手続きを経て等辺階級に所属することが出来るのです。彼はすぐさま誇らしげな、それでいて悲しげな両親から引き離され、子供のいない等辺階級の夫婦に養子に出されますが、彼らは今後、その子を決して以前の家に立ち入らせないよう、さらには親類にまみえることすら二度とさせないよう誓約せねばなりません。発展途上の身体組織が、そういうものを無意識に模倣することによって先祖帰りをしてしまう恐れがあるからです。

農奴の家柄から時折産まれてくる等辺形の子供は喜びで迎えられます。これは、いつも変わらずさもしい生活を送っている貧しい農奴たちが、自分たちの輝く希望の星として喜ぶだけでなく、貴族たちからもあまねく歓迎されるのです。と言うのは、このような珍しい出来事は彼らの特権をほとんど全く損なわない一方、下層階級が革命を起こすのを防ぐための最も便利な障壁になると、全ての上層階級が承知しているからです。

鋭角の大衆が例外なく夢も希望も与えられていなかったら、彼らは自らの指導者を立て、数と力にものを言わせて反旗を翻し、司祭階級の賢者たちでさえ手を焼くほどになったかも知れません。しかし賢明なる自然の摂理の定める所により、労働者階級の知性、知識、あらゆる才知が増えるに従って、同じ度合いで彼らの(肉体的な脅威となる)角も大きくなり、比較的無害な正三角形の姿に近づいていくのです。ですから、兵士階級の最も粗暴で手に負えない者たち――ほとんど女と同程度に知性に乏しい者たち――においても、彼らが自分たちの途方もない殺傷力をより効果的に使おうとして知力に磨きをかけるに連れ、その殺傷力自体は損なわれていくのです。

代償の法則とは何と素晴らしいものでしょうか! 平面国の貴族制は自然の理に適っており、神的な起源さえ持っていると言えるのです! 賢明な自然の摂理の効用により、五角形や円形は、下層階級から湧き出る無尽蔵の希望を利用することによって、常に反乱の芽を未然に摘み取ることが出来るのです。法と秩序のためには策略を使うこともあります。政府の医者の手によって人為的に体を縮めたり引き伸ばしたりすることで、比較的知性の高い反乱の指導者たちを完全な等辺形に変えてしまい、直ちに特権階級に入れてやるのです。それより大多数の、標準以下の者たちについては、最終的には貴族に列することが出来るという甘言で誘い出し、生涯国営養育院で栄誉ある幽閉生活をまっとうさせることが出来るのです。

そして卑賤な二等辺三角形は計画を立てることも出来ず、指導者もおらず無抵抗のまま、司祭長がこの種の非常時のために雇っておいた、彼らと同じ二等辺三角形たちからなる親兵によって刺し殺されるのです。または、もっと多くの場合、円形階級が巧みな操作によって嫉妬と懐疑を煽ることにより、彼らは自分たちの間で闘争を起こし、互いの角によって倒れるのです。吾が国の資料には百二十を上回る数の反乱と、その他二百三十五の小規模蜂起が記録されていますが、それら全て斯様に鎮圧されたのです。

女に関して

兵士階級であるところの極度に尖った三角形たちが脅威なのですから、女たちはそれより遥かに恐るべきであると容易にお察しいただけるでしょう。なぜならば、兵士がくさびだとすれば女は針で、少なくとも体の両端に関しては完全に点であると言えるからです。これに加え、実質的に自分の姿を消すことが自在なのですから、平面国の女は決して侮れないのだ、ということがお分かりになるでしょう。

しかしここで、おそらく若年の読者の中には、平面国の女はどうやって姿を消すことができるのかとお尋ねになる方がおられるやも知れません。説明などせずとも明白な事と、私としては思うのですが。とはいえ、分別に最も乏しい方にもお分かりになるよう、多少の説明を加えることにします。

針をテーブルの上に置いてみて下さい。目をテーブルと同じ高さにして針を横側から見ると、その全長が見えるでしょう。しかし先端側から見ると針は点にしか見えず、消えてしまったも同然です。こちらの世界の女についても同じことが言えるのです。女の横側がこちらを向いているときは直線に見えますが、目あるいは口(というのも、私たちにとってこの二つの器官に違いはないからです)の付いている側がこちらを向いていると、非常に光沢のある点にしか見えません。けれど私たちの目に晒されているのが後ろ側である場合、光り具合はそれほどでもなく、それどころかほとんど無生物と同じくらいに薄ボンヤリとしているため、彼女の後端は一種の天狗の隠れ蓑として作用するのです。

私たちが女から晒されている危険については、立体国の最も理解力に乏しい方にも、これで明らかになったに違いありません。中流階級の品行方正な三角形の角でさえ危険がないとは言えませんし、労働者に衝突すれば大怪我をしますし、将校にぶつかれば深刻な負傷は免れず、兵卒は頂点に触れただけでも死の危険があるのですから、女にぶつかりでもすれば無条件で即死する以外に何が起こりましょうか? そして女が目に見えず、見えたとしてもボンヤリ光る点でしかないとしたら、たとえ最大限の注意力を持ってしても、常に衝突を避けるのはどんなに困難なことでありましょうか!

危険を最小にするために平面国では、多くの法律が様々な時代の様々な州で作られました。南方のあまり温暖でない地域においては重力が強く、人は自分でも思いがけない不随意な行動に陥りがちですが、そこでは当然、女に関する法律はさらに厳しくなるのです。けれど法律の全体図は、以下の要約から知ることができるでしょう。

 全ての住居はその東側に女のみが用いる入り口を設けねばならない。女はそこから「適切で恭しい態度で」〔原文注2〕家に入らなければならず、男用の西側入り口を使用してはならない。

 公共の場を歩く際、女は常に〈安全音〉を発していなければならない。これを怠れば死刑とする。

 舞踏病、痙攣、激しいクシャミを伴う慢性的感冒、または不随意運動を症状とする病気を持つと正式に診断された女は、直ちにその生命を絶つ。

地域によってはさらにもう一つ法律が存在し、これを犯せば死刑となります。すなわち、女が公共の場で歩いたり立ち止まったりする際は、後部を常に左右に振り動かして、自分の存在を後ろの人々に示していなければならないというものです。また、移動の際は息子か召使か夫を同伴しなくてはならなかったり、祝祭の日以外は一切の外出を禁じたりしている地域もあるのです。しかし円形、すなわち司祭の中でも最も賢明なる者の発見したところによると、女を規則で雁字搦めにしすぎれば、それは民族の衰退をもたらすばかりでなく、家庭内殺人が増加し、厳しすぎる法律によって得るところ以上のものを失ってしまうのです。

というのは、女を家に押し込めたり戸外での活動を制約したりして機嫌を損ねると、癇癪のはけ口が夫と子供に向けられるからです。あまり温暖でない地域にあっては、女による同時多発的な暴動のため、村の男性住民の全員が一、二時間のうちに殺戮されてしまうこともありました。ですから上掲の三法は、比較的治安の良い州においては十分であり、また平面国の女性法を大まかに表していると考えてよいでしょう。

しかし結局のところ吾々の安全は、法律ではなく女自身の利害によって主に担保されているのです。というのは、たしかに女たちは後ろ歩きで人を即死させることができますが、その突き刺した先端部分を暴れる被害者の体から即座に引き抜かない限り、彼女たちの脆い体は粉々に砕け散ってしまうからです。

流行の力も吾々の有利に働きます。申し上げた通り、それほど文明化されていない州では、後ろ側を右左に振らない女は決して公共の場に立たせないことがあります。けれどこういった作法は、良く治まった州の、教養を備えていると自負する女の間では、平面国開闢以来の普遍的な習慣となっているのです。ある州の立法府が法によってこのような強制をしなくてはならないのだとしたら、州としての不名誉と見なされますし、そもそも品性のある女にとってこの行為は生まれながらの本能であると考えられているのです。リズミカルな、そして私がそう申し上げても良いのであれば、メリハリとしたうねり運動を行う円形階級のご婦人方の後ろ姿は、振り子のチクタクのような単調な動きしかできない等辺形の主婦たちの、憧れと模倣の対象なのです。そしてそのような等辺形階級でさえ、二等辺三角形の妻たちからは同様に崇められ、いかなる「尻振り」も全く必要としない家庭内でも真似られています。ですので、立場や名声のある家において「尻振り」はあたかも空気のように行き渡っているのです。そしてその家の主人や息子たちは、少なくとも女の見えない攻撃からは逃れることができるのです。

こちらの女が愛情を持ち合わせていないという訳では決してありません。しかし不幸なことに、この弱い女たちの一時の激情は、他のすべての判断力を支配してしまうのです。もちろんこれは、不幸な身体構造によって生じる不可避なものです。女たちは一切の角が無いという点において、最低の階級である二等辺三角形よりもさらに劣っており、完全に知力を欠いています。そして反省力も、判断力も、先見性も、さらには記憶力もほとんど持たないのです。ですから憤激の発作に見舞われると主張も忘れ、物事の区別も付かなくなってしまうのです。私が知る実例なのですが、ある女は家族を皆殺しにした30分後、怒りが収まり、粉々になった家族の破片を蹴り飛ばした後になって、いったい夫と子供に何があったのですかと聞いたのでした。

言うまでもなく、女が体の向きを変えられる場所にいるときは怒らせてはなりません。しかし女が保養施設に入っているときは、建物の構造が体を自由にさせないので、彼女に対して好きなことをしたり言ったりすることができます。なぜなら、その際女はこちらに危害を加えようも無く、また、こちらの生命が脅かされる原因となった出来事、あるいは、怒りを静める必要に迫られてした約束すらも、彼女は数分と覚えていないのですから。

全体的に見て、吾々の家族関係は至極平穏に保たれております。けれど兵士という下層階級においては別です。そこでは夫の側に機転と分別が欠如しているため、折に触れて言語に絶する大惨事が起こります。鋭角という名の凶器に頼りすぎ、良識や方便という名の防衛手段を蔑ろにするあまり、この無鉄砲な人たちは、規則に定められた女の保養施設の建設を放擲したり、軽率な言い方で妻たちを戸外で怒らせ、すぐに撤回するのを拒んだりということが、あまりにも多すぎるのです。その上、物事を字義通りに受け止めるような無愛想・無神経な態度であるため、賢明な円形ならばたちどころに配偶者の機嫌を直せるような、気前の良い約束をする気が起きないのです。結果として大勢人が死にますが、これには利点もあって、より野蛮で迷惑な二等辺三角形を排除することができます。そして、哀れな女がこのような破壊的性質を持つのは、不要な人口を抑制し、また革命の芽を事前に摘み取るために、神が行う数々の差配の一つであると、多くの円形には思われているのです。

けれども、最も規律正しく、最も正円に近い円形の家庭においてさえ、家庭生活の理想はあなた方立体国ほど高いものではないのです。確かに平和ではありますが、それは虐殺の起こらないことを指してそう呼んでいるに過ぎず、そこに風情や気晴らしといったものとの調和は少しもありません。円形は注意深く英知を用いて、家庭内での安らぎを犠牲にすることによって、身の安全を確保しているのです。すべての円形ないし多角形の家庭においては遠い昔から(そして今では上流階級の女性の本能のようになっていますが)、母と娘は常に目口を夫や男性の同輩の方に向けていなくてはなりません。名のある家庭の淑女が後ろ側を夫に向けたならば、それはある種の前兆と見なされますし、彼女の地位を失うことにもつながります。しかし、この後すぐに説明するように、この習慣には利点もありますが悪いこともあります。

労働者や堅気の職人の妻たちは、家事に追い立てられている間は夫に後ろ側を向けることが許されています。そういった家で女たちが視界に入ってこず、絶え間ない安全音のハミング以外いっさい声を出さないときは、一時の平和な時間というものが存在します。ですが上流階級の家では平穏は滅多にありません。よく回る口とよく見通す目が、いつも主人の方に向けられているのです。女の絶え間ないおしゃべりほど長く続くものはありません。女の一刺しを回避するための機転や技術も、その口に蓋をするには役に立ちません。妻の話は全く中身がないし、分別や良識や自制心から口を慎むようなこともしないので、刺されて死にかねなくとも静かな側のほうが、安全だが五月蝿いもう片側よりは絶対にましだと言う皮肉屋も少なからずおります。

立体国の読者の皆さんには、女の置かれている状況が実に嘆かわしくお見えになったことでしょうが、実際その通りなのです。二等辺三角形という最下層の男でさえ、角の鋭さが改善されて、最終的には退廃した社会階層から抜け出せるという希望を持つことは可能です。しかしどの女も、女であるという理由によって、そのような望みを抱くことはできないのです。「一度女に生まれれば、女は死ぬまで直らない」とは自然界の命ずるところであります。進化の法則ひとつを取っても、女の味方ではないのです。とはいえ望みを持てないのと同様に、女は過去に受けた惨めさや屈辱を覚えておいたり、未来に起こるそういったことを予測したりする能力も持ち合わせていないのですから、この世は上手く出来たものであると感心する他ありません。そういった仕組みは彼女らが生きていくために無くてはならず、また同時に平面国の政体の基礎ともなっているのであります。

互いの姿を認識する方法について




〔原文注1〕「何故承認が必要なのか? 四角形の息子が生まれれば、自然の法則により父親が正三角形であるのは自明ではないか」と問う立体国の批評家がおられるかも知れません。これに答えますと、どの階級の女でも、公的に承認されていない三角形と結婚はしないのです。四角形をした子供が、やや歪んだ三角形から生まれることは時々ありますが、このような場合の殆どにおいて、第一世代の不等辺形質は第三世代に発現し、五角形として承認されないか、または三角形の階級に逆戻りしてしまうのです。


〔原文注2〕立体国を訪れた際に知ったことですが、そちらの聖職者の家にも村民、農民、寄宿学校の教師の別に入り口が作られており、彼らはそこから「適切で恭しい態度で」(Spectator, Sept. 1884, p. 1255) 入ることが出来るのですね。