東西神社東西神社

注連石の碑文
(右)降神靈萬邦教稼穡黎元
(左)為幽冥主宰讓顯世天孫
であろうか?


| 月 | 地域 |
|---|---|
| 1 | 大和國 |
| 2 | 山城國 |
| 3 | 河内國 |
| 4 | 摂津國 |
| 5 | 和泉國 |
| 6 | 東海道 |
| 7 | 東山道 |
| 8 | 北陸道 |
| 9 | 山陰道 |
| 10 | 山陽道 |
| 11 | 南海道 |
| 12 | 西海道 |
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讃岐國善通寺所司等解申 右寺は此弘法大師御先祖無止前跡也云々 善通寺政所 天喜四年十二月五日 證成大行司 住僧在判 大麻大明神 大法師在判 雪気明神 大法師在判 塔立明神 大法師在判 蕪津明神 判 (以下、略) |
| 年代 | 資料 | 記事・内容 |
|---|---|---|
| 天喜4年 (1056,平安時代中期) | 東寺百合文書 | 善通寺政所の文書に「塔立明神」が出てくることから、この頃は誕生院善通寺の近郷に「塔立明神」があった。 (五社明神の1つだったかどうかは書かれていない。) |
| 明暦3年 (1657,江戸時代初期) | 恒例修正月勧請神名帳 | 南海道6ヶ国のどこかに「塔立明神」があった。 |
| 天明六年午(1786)二月 (江戸時代中期) | 津森組多度郡村々寺社帳 | 五所明神2社 誕生院伽藍の内に在り 北一社合殿蕪津大明神、大麻大明神、南一社合殿大歳大明神、雲気大明神、廣濱大明神 |
| 文政戊子(1828年) (江戸時代後期) | 「全讃史」 | 「塔立明神」は出てこないことから、江戸時代後期には「塔立明神」という名前は消滅していた。 大楠の下に五社明神祠あり。大年・大麻・雲氣・加富羅津・廣濱と。是れ皆近村所在の名祠にして、誕生院の祀る所なり。 |
| 安政5(1858)完成 | 「西讃府志」 | 「塔立明神」は出てこないことから、江戸時代後期には「塔立明神」という名前は消滅していた。 |
| 明治10年頃 | 「讃岐國官社考証」 | ・證成大行司というのは、仏教徒が熊野大神のことをこう称していると聞いた。近郷に熊野権現は数社あるがどれを指すのか、近いのは中村。 ・塔立は今は定かでない。吉原村に東西神社というのがあり、それだろうかという説がある。この神は正月勸請神名帳にも載っている。 ・東寺文書の5社は全讃史に書かれた五社明神と食い違っている。 |
| 大正7年 | 「仲多度郡史」 | 東西神社は塔立明神とも称して正月勧請神名帳にも載っている旧社である。 天喜四年の善通寺政所に五社明神を記した中に塔立明神があり、多度郡内で弘法大師にも縁由があるから塔立は東西神社であろう。 (と推定している。なぜ東西神社が多度郡内で弘法大師にも由縁があるのか? 青龍神社ならわかるが。) |
| 昭和13年 | 「香川縣神社誌」 | 東西神社は古くは塔立明神と称して、天喜四年の善通寺所司解申、五社明神を記した中に塔立明神とあって、雲気、加富良津と共に昔は大社だった。 (ここに至っては天喜四年の文書が何なのかも理解していないと思われる。) |
| 最近 | (海岸寺ホームページ) | ・東寺百合文書抄の天喜四(1056)年の解申に五社明神についての記述があります。 ・證成大行事は、現在中村町にある木熊野神社で、大師自ら熊野本宮から勧請したとされます。本宮にある證証殿からこのように呼ばれます。 ・塔立明神は碑殿町にある東西神社です。 (今まで疑問を含んだ表現だったものが、なぜかすべて断定されている。) |


