〜四つ木昭和期の風景@〜



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地図 昭和12年(1937年)測量図 出典:国土地理院

 

 今回は昭和前半の四つ木についてです。
この時期には、東京都葛飾区の誕生という大きな出来事がありました。明治時代、現在の葛飾区はまだ東京府南葛飾郡という地名で、中心部の東京市の外側にありました。そして昭和7年の市郡合併によりようやく葛飾区へ、昭和18年の都制実施により、現在のような東京都葛飾区が誕生するに至りました。
 また、区内では各所で耕地整理という事業が実施されました。左地図(昭和12年)からわかるように、地図の右上(現 立石2・3丁目付近)と右下(現 東四つ木2・4(東側)や東立石1・2丁目付近)では碁盤目状に道がきれいに整理されています。葛飾区史によると四つ木でも約5haにおよぶ耕地整理が昭和4〜12年に行われたという記録が残っています。具体的な場所についてはわかりませんが、地図から推測すると現在の四つ木3丁目の北東付近ではないかと思われます。
耕地整理は農地の改良・改善のために行われたものですが、農地を宅地化する目的もあったようです。
 当時は地方からの人口の流入や関東大震災(大正12年)の罹災者の流入などの影響で、区内の人口は増加(大正9年 約28.000人→昭和7年 約89,000人)していたので、このことへの対応でもあったのでしょう。
 次に四つ木1・2丁目地区を見てみましょう。この地区でも人口が増加し、道沿いを中心にそしてその裏側にも建物が増えている事が地図よりわかります。特に、これまでほとんど建物の見られなかった、駅から続く旧四つ木街道(現 まいろーど商店街)沿いに建物が建ち始めました。これは、これまでこの地区への人の流れの中心だった立石通りと曳舟通りが、荒川放水路の開削のために分断されてしまい、大正後半に新設された京成線(四ツ木駅)または四ツ木橋から地区内へと人の流れが大きく変わった事が影響しています。これによって旧四つ木街道を中心とする現在の商店街の姿が出来はじめたと考えられます。