〜四つ木昭和期の風景A〜


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地図 昭和33年(1958年)測量図
 出典:国土地理院


コンサイス東京都35区区分地図帖
−戦災焼失区域表示−
日地出版株式会社(1985)より作製

 
 
今回は昭和中頃の四つ木についてです。
 この時期には、 四つ木そして日本を変える大きな出来事がありました。全土で1000万人にものぼる罹災者を出した、太平洋戦争です。昭和16(1941)年から昭和20(1945)年の事でした。
 この戦争によって東京は、130回にものぼる空襲をうけ、死傷者行方不明者約25万人、罹災者は約300万人にものぼる被害を受けました。東京都の半分以上が焼け野原になり、罹災、疎開等で、都民の約3分の2が東京を後にし、それによって開戦時に687万人だった東京の人口は、終戦時には253万人にまで減少しました。
 では、葛飾区ではどうだったのでしょう。東京各地が空襲で大被害に見舞われた中で、幸いなことに、死傷者行方不明者は312人と区内での被害は極めて小さいものでした。そして、四つ木でもほとんど被害を受けることはありませんでした。
 そして戦後、東京では戦災復興で2万haにも及ぶ壮大な土地区画整理事業の計画が立てられ、四つ木も含め東京各地で基盤整備が行われるはずでした。しかし、実際には限定的な一部の地域(1274ha)でしか行われず、戦災復興事業の行われなかった四つ木では昔からの狭く曲がりくねった道のまま、急激な人口増加と市街化をとげる事となり、現在のような狭い道路と建物の密集した街となって行きました。左下地図のように戦後になると、これまで主要道路沿いにしか見られなかった建物は、内部の狭い道路沿いなどにも広がっていることがわかります。
 地域の大きな変化として、その他には、昭和27(1952)年に水戸街道と続く新四ツ木橋(鉄橋、現・四ツ木橋)、また昭和32年(1957)年には平和橋通りが開通し、これにより徐々に現在の道路体系に近づいていくことになります。そしてこれまで葛飾区と墨田区方面を結ぶ唯一の橋として、皆に親しまれ、長年大きな役割を果たしてきた四ツ木橋(木橋 京成線の南側)は、徐々に役割を終えることになり、橋の変化と共に、人の流れも徐々に変化して行くことになりました。
 さて、西光寺の境内では、昭和30(1955)年に都内では珍しい針供養塚が建てられました。針供養とは針を休めて、折れたり古くなった針を豆腐に刺して供養し、併せて裁縫の上達を祈るものです。現在では行われなくなってしまいましたが、昭和の後半くらいまでは、毎年2月8日に盛大な針供養が行われ、各地から多くの人々が針供養に訪れたそうです。そしてこの日は針を包んで、縫いものをしない事になっていたそうです。