|
幼き頃の記憶はありますか? 〜 1枚の写真から 〜 |
2002年8月15日
|
|
|
|
これが最も幼い頃の、まだハイハイしか出来なかった頃の写真です。
当時私の親父は「蛇腹式のカメラ」を持っていましたが、この写真は親父が撮影したものかどうか、は不明です。あくまで記念撮影であり、日常的にスナップ写真を撮る習慣はなかったようです。きっとフイルムや現像代が高かったのでしょう。
私が生まれたのは昭和17年秋です。その前年に太平洋戦争が始まりました。戦時中とはいえ、片田舎の炭住街には、まだこのような小市民としてのゆとりある生活があったのでしょう。
今考えれば、このような写真がよく残っていたものだ、と感動すら憶えます。これは幼少時の写真すべてに当てはまることです。
|
|
|
|
これは1歳の誕生日でしょう。私の親父は私の初めての誕生日を前にして、久留米の師団に出征しました。従って、親父が写したものではないことは確かです。
私は戸籍上は次男ですが、昭和16年生まれの長男・一穂は生後9ケ月で死亡したそうです。従って、田口家では男の子として、それなりに可愛がって貰ったのでしょう。
初めての誕生日にはおそらく、お袋の実家から爺さん婆さん(お袋の両親)が、草鞋履きで米俵を担いで、お祝に駆けつけたものと思われる。
久留米の師団にいた親父に手紙を添えて、私の1歳誕生日の姿をを送ったのかもしれません。記憶にはありませんが、お袋の背に負われながら、久留米まで面会に行ったこともあったでしょう。
|
|
|
|
|
|
すぐ下の弟・雅敏と一緒に大分県日田市の写真館で撮ったた写真です。貧しくても、その頃の家庭では写真館で記念写真を撮っていたのですね。
お袋のことを想像するに、戦争が終わり、夫が無事復員した。大家族と共に生活する呪縛を逃れ、束の間の休息の為、夫と子供を連れて、一日日田に遊んだ。そんな状況が浮かびます。
しかし、いつも不思議に思うのですが、この時の写真はこれだけです。何故両親と一緒に写った写真がないのでしょう。
日本中が貧しい時代でした。継ぎはぎだらけの衣服を着て、サツマイモの蔓(つる)を食べ、飢えをしのいでいた時代です。
|
|
|
|
|
大行司小学校入学の記念写真です。今こうして小学校入学時の写真を見ると、つい最近のような錯角に襲われます。還暦目前にした今考えれば、長いような短いような、そんな歳月でした。
後年大行司小学校の校庭の片隅にあった「美星保育所」は、私の時代はまだ開設されておらず、初めての集団生活は7歳の目にどのように写ったのでしょうか。
内気で、恥ずかしがり屋で、人見知りが激しく、運動音痴の少年は、どのような小学校生活を送ったのでしょう。
この頃、我が家には蓄音機がありました。ゼンマイを巻き、鉄の針で聴く音声再生装置です。「紀元二千六百年」が歌えるのは、この蓄音機の所為です。
|
|
|
|
親父の妹の婚礼記念写真です。
前列一番左が私。その右が祖母。前列右端は「学校ねえちゃん」 後列右端は四男・博康を抱くお袋。その左は親父。その左がお袋の両親。すぐ下の三男は何故か写っていません。
左後ろの建物は炭住街の共同浴場で、その後ろの小高い丘はボタ山です。右後ろは手押し式ポンプがある共同井戸端、右端の建物は炭住の社宅です。この画像以外に当時の炭住街の様子をうかがい知る写真はありません。私の記憶をいつまでも風化させない貴重な写真です。
共同浴場辺りの広場、ボタ山、その裏を流れる鼓川(大肥川)が、少年時代の遊び場でした。この辺りは今、ナガノインテリア工場になっています。
|
|
|
|
|
四男・博康が赤ん坊の頃の写真です。3番目の弟・博康は昭和24年3月11日に生まれましたが、昭和26年1月1日に久留米医大病院で死亡しました。お袋の話では毎日「ぽんぽん、痛い」と泣いていたそうです。死因は何であったのか。今の医学では死ぬ事はなかったであろう。可哀想な弟です。
この後、長女・恵子、次女・幸が誕生し、4人兄弟姉妹になります。すべて4歳づつ離れた年齢差で、当時としてはごく当たり前の家族でしょう。
弟・雅敏が着ている着物は、どうせ私のお古ですよ。そう言えば、小学校でも着物で通学している子供もいた時代です。
|
|
|
|
|
確か小学2年生の時だと思うのですが、記憶が定かではありません。私が「学校ねえちゃん」と呼んでいた田中緑がペルーへ帰国する時の記念写真です。
「学校ねえちゃん」は当時大行司小学校の代用教員を勤めていました。
同じように先生をしていた西念寺のお嬢さんや梶原先生がしょっちゅう我が家に遊びに来ていました。恥ずかしがり屋の私は、先生達の遊び道具にされることが一番嫌でした。
左の炭住が当時の我が家です。この辺りの風景は今でも脳裏に焼き付いています。
|
|
|
|
|
|
大行司小学校2年終業記念写真。
左端の担任の先生は、まったく憶えておりません。1〜3年は井上康子先生に教わった記憶しかありません。一時的な担任ではないでしょうか。
私は先生から3人目。2列目の左端から6人目が滝本勇くんです。
撮影場所は小学校の運動場。上段が中学校の運動場で、中学の校舎がバックになっています。
この小学校と中学校のグランドの高低差は、昭和31(1956)年、私が中学2年生の時、米駐留軍のブルトーザーで平らにされました。後ろは大行司駅のホーム。左上方に貯炭場の柱が見えます。
|