その昔、掘り出した石炭を、馬が曵くトロッコで「大行司駅」近くの集炭場まで運んでいた頃、冬になると、石炭ストーブの燃料確保のため、散発屋の親父さんは、散髪の合間に、トロッコから落ちた石炭を拾っていました。しかし、トロッコが落とす石炭が少ない場合は、そのトロッコを追っ掛けて飛び乗り、積んである石炭を失敬していました。のんびりとした時代です。

山側には「鍛冶屋」がありました。小学唱歌「村の鍛冶屋」そのままの風景です。「小間物屋」「米屋」もありました。この「小間物屋」で、正月には真新しい高下駄を買って貰い、「宝珠山劇場」に映画を観に行くのが楽しみでした。「大行司橋」を渡ると右手に「安岡旅館」があり、左が「大行司小学校」の正門で、その近くに「樋口」という文房具屋さんがありました。「安岡旅館」の息子は同級生です。「樋口」という文房具屋さんは、夏になると魚捕りの網を売っており、お袋に買って貰い、小魚を掬って遊びました。「樋口」の並びに「アイス・キャンディ屋」があり、ここが「宝珠山劇場」の小屋主さんでした。さらに真直ぐに行き、左に折れると「大行司駅」に向かいます。その途中が宝珠山中学校の正門でした。「安岡旅館」の並びに神社があり、お祭りには、露店も開かれ賑わっていました。大相撲の巡業が来た事もありました。この神社の下の川べりに「カネダイ醤油」の工場があり、釣りのエサにするミミズを掘りました。神社をさらに行くと「和田電気」があり、中学2年から通信教育で始めたラジオ作りの部品を分けて貰いました。

毎年春になると、岩屋神社のお祭りに行きました。臨時バスが運行されていたように記憶していますが、大抵は徒歩です。宝珠山川(別名、ホタル川)沿いの県道52号線の途中には、JR日田彦山線の「めがね橋」が3ッ見えます。近年、宝珠山の自然を生かした「棚田親水公園」が完成し、「こいのぼりプール」や「ほたるの小川」などがあり、賑わっている様子です。岩屋神社拝殿には、宝珠石「村俗・星の玉」が安置され、これが村名の由来とされています。露店が多く並び、貰った小使いで駄菓子を買うのが楽しみでした。このあたり一帯は「岩屋公園」と呼ばれ、高さ
54mの権現岩をはじめ、馬の首根岩、重ね岩など迫力のある巨岩奇岩がそびえ立ち、その昔、修験道場の宿坊でもありました。近くに、キャンプ場もあり、「耶馬日田英彦山国定公園」に指定されています。
夏には炭坑の広場で、盆踊り大会が開かれ、賑わいました。もちろん「炭坑節」です。素人ながらも、喉自慢の音頭とりが、焼酎ビン片手に、一番の歌詞「三池炭坑の上に出た〜」は「宝珠山炭坑の上に出た〜」と歌っていました。
秋には小、中学の運動会、炭坑労働者慰安のための運動会があり、露店でおもちゃのピストルを買ってもらったりしました。また、中学校の校舎を貸し切りにして、村内の農作物の展示、即売会が行われ、その時、炭坑内部掘削現場の模擬人形や機械が展示されていました。
現在、宝珠山村の人口は、1,847人ですが、私が住んでいた頃は、宝珠山炭坑があり、今の3倍、およそ6,000人が住んでいた。宝珠山炭坑は、明治20年頃に本格的な炭鉱事業が展開され、その閉山は昭和38(1963)年。私が住んでいた当時の村長さんは、井上佐太郎さんという方でした。

当時学校は、千代丸に宝珠山小学校、大行司に大行司小学校、宝珠山中学校がありました。高校に通学するには、県外への越境入学も認められており、大分県日田市の日田高校、日田林工高校(林業も学べる県立高校です。野球の強い学校で、甲子園にも出場しています)に進学した先輩も数多くいます。現在は、小中学校の統廃合により、大行司に宝珠山小学校、そこから西に離れたところに東峰中学校が新設されています。
右の写真は、現在の宝珠山小学校ですが、当時は奥が大行司小学校、手前が宝珠山中学校で、運動場は段差があり、真ん中に農業用水路がありました。私が中学生の頃、小学校、中学校の運動場が駐留米軍のブルドーザーによって平らにされました。アメリカ人が珍しかったので、宿舎にしていた民家に遊びに行き、中学校で習ったカタコトの英語を使って会話しました。米軍の高官が視察に来た時、ヘリコプターの離発着を初めて見ました。ジープに乗せて貰い、あちこち行った事もありました。
そうそう、小学校の遠足は、決まって日焼け原(ひやけばる、と発音)でした。
このように、福岡県の地名には、「原」を「はら」ではなく、「はる」と発音する地名が多くあります。原田(はるだ)、原町(はるまち)、油須原(ゆすばる)など。これは、お隣・韓国の発音に影響されている、と聞いた事があります。

私が生まれた昭和17(1942)年、私の親父は、日本炭業株式会社・宝珠山鉱業所の発破係りとして勤めていました。宝珠山鉱業所は二つの坑口があり、その周辺が炭住街です。私たちが住んでいたのは、大行司と鼓川を挟んで向い側の第一坑区の職員社宅です。第二坑口は「宝珠山駅」の近くにあり、大学時代の4年間、生活を共にすることとなる同級生のHくんが住んでいました。職員社宅と言っても、いわゆる炭住と呼ばれる長屋ですが、我が家の敷地の裏には一寸した庭があり、富有柿の木が1本、泉水には金魚や鯉、鮒が泳いでいました。鼓川(大肥川、左の写真の橋は鼓川に架かる橋)の傍(写真左手奥)に小さなボタ山があり、その傍に共同浴場がありました。銭湯ではないので、お金は要りませんでした。
三軒長屋の真ん中をぶち抜いて住んでいた我が家のお隣はKさんという一家で、昭和38年の炭坑閉山に伴い、北海道の留萌郡小平村達布(以前、赤平市と書きましたが、間違いです。お詫びして訂正します。2000年1月15日)に引っ越しました。ちょうど、私の大学在学中のことで、東京駅まで会いに行きました。その後、又福岡に戻って来られました。長男Cは、私の弟と同級生で、私が卒業した年、神奈川大学工学部電気工学科に入学しました。この小さな宝珠山村の、しかも隣同士の人間が、そろって同じ大学の、同じ学科の卒業生とは、全く偶然の出来事です。
私が宝珠山中学校3年生の時、親父が嘉穂郡稲築町の新山野鉱業所に転勤になりました。下の弟も大行司小学校に通学しており、期半ばでの転校はよくないとの判断でしょう、親父一人が単身赴任しました。当時、私は、越境入学も認められていた大分県日田市の県立日田高校に進学するつもりでしたが、親父の転勤先の近くの山田市にある福岡県立山田高校を受験する事にしました。そこで、中学3年生の2学期まで宝珠山中学校で学び、正月明け早々に、嘉穂郡嘉穂町大隈中学校に転校しました。高校受験のための転校です。私の脳裏にある「ふるさと・宝珠山村」は、中学生の頃のまま「永久保存」されています。
ここに掲載した写真は、福岡市在住の太田富雄氏のご好意により公開しました。太田氏と私は、1998年春、インターネット上で知り合いました。太田氏が大阪に在住の頃、お会いしたこともあります。下戸にもかかわらず太田氏は、酒飲みの私に付き合ってくれました。この「私のふるさと・宝珠山村」は、太田氏の「ふるさとを大事にする心」に触発されて生まれました。感謝の言葉を贈ります。

1999年秋「第16回宝珠山ふるさとフェア」が開催された。太田氏は私の同級生を捜し出し、宝珠山に8名の旧友が居ることを教えてくれました。その後、「リンクを張らせて下さい」とお願いした(有)カネダイの井上様御夫妻の情報収集により、13名の消息が判明しています。
そして1年後の2000年10月、宝珠山村役場のメールアドレスを知り、同級生である梶原昌弘助役(左の写真)にメールをし、電話連絡がとれました。私は彼の事をよく憶えていましたが、梶原助役はメールを見た後、宝珠山中学校の卒業アルバムで私を捜したそうです。残念ながら私は卒業を前に転校した為、卒業アルバムに私の写真はなく、彼の記憶にはないとのことでした。そりゃそうでしょう、なにしろ40年前の話ですからね。私の同級生が生れた土地の村役場で頑張っているって、素晴らしいことですよね。梶原助役、私のふるさと・宝珠山の舵取りをよろしくお願いしますよ。そう言えばもうすぐ「宝珠山ふるさとフェア」ですね。ふるさとを離れた私たちの同窓生も、久し振りに宝珠山に戻って来て、酒を汲み交わしながら昔話に花を咲かせることでしよう。つつがなしや友がき。私もそのうちに・・・。
いつの日にか、いざ帰らん、我が心のふるさとへ。
宝珠山村に関係のある方、あった方、どうぞ、メールを下さい。「ふるさと・宝珠山村」を語りましょう。お待ちしています。