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ふるさとは、いま
いざ帰らん、宝珠山村に
〜 宝珠山の春'2001 〜
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2001年5月20日
いざ帰らん、宝珠山村に
親父の13回忌を機に私が生まれ育った懐かしいふるさと宝珠山村に里帰りすることにした。1958年(昭和33年)1月、高校受験のためこの小さな村を離れた。以来片時も忘れたことのなかったふるさとは、どう変貌しているのであろうか。道路や建物は変わっていても、ふるさとの山河は私の脳裏に焼き付いているそのままの状態かも知れない。しかし、もう2年もすれば60歳になる、私自身が変わり果てている。
私は1996年(平成8年)11月にインターネットを始めた。翌年春に当時大阪教育大学教授の太田富雄先生が発信する
「宝珠山村を紹介するページ」を発見し、すぐさまメールを送ったところ、思い掛けなく電話を頂いた。早速お会いして「懐かしいふるさと」の話に花を咲かせた。その後もメールを送り、太田富雄先生からは数々の宝珠山の写真を送って頂いた。その時メールで交わした話が「忘れがたきふるさと」の原点である。そして太田富雄先生は福岡教育大学に異動され、1999年(平成11年)秋、私の同級生を捜すため「宝珠山村ふるさとフェア」会場を訪れて下さり、同級生梶原昌弘くんが村役場の助役さんであることを知らせて下さった。
1999年(平成11年)12月、太田富雄先生に触発されて、わずか1ページの稚拙な「忘れがたきふるさと」が衝動的に誕生した。その後、リンクをお願いした「カネダイ」の井上靖子さんには、村の様子や同級生の情報を伝えて頂き、あの懐かしいふるさとの味覚・カネダイの醤油と味噌を贈って頂いた。この頃「風のように、旅へ」のコーナーで「岩屋神社御神体」について書かれた元フクニチ新聞編集局の渕上孝文氏のホームページ
「fpress」に無断でリンクを張っていたが、検索エンジン「Yahoo」を経て、渕上氏の知るところとなり、メールを頂いた。
当時宝珠山小学校の藤田良治教頭先生に初めてメールを頂いたのは、2000年(平成12年)1月27日、「友人渕上君の紹介で」とあり、「宝珠山小学校のパソコン教育の現状」が詳しく書かれていた。メールに添付された写真には、懐かしい宝珠山の風景があった。再度、「fpress」を訪れてみると、渕上孝文氏が「朝倉高校同窓生の広場」のページ上で、同級生の藤田良治教頭先生に「私のふるさと 宝珠山村」を紹介して下さったことを知った。その後も毎週のように、藤田良治教頭先生から数々の情報と写真を頂き、「これは、このままにしておくのはもったいない」と思い、「宝珠山小学校は、いま」のページが出来上がった。
2000年(平成12年)4月、藤田良治教頭先生は北筑後教育事務所に異動され、その後の宝珠山小学校情報は宝珠山小学校にパソコン教育担当として派遣された芦刈早苗先生(現エディスパソコン学院日田校校長)が、学校の様子を伝えて下さいました。芦刈早苗先生が派遣を終えられた10月以降は、デジタル写真の技術を修得された熊谷眞理子教頭(現小石原小学校校長)先生が写真や情報を伝えて下さいました。
今回の宝珠山帰省の目的は、私のホームページに深く関わって下さった方々に直接お会いし、一言お礼を申し上げ、近況をお聞きし、今後の御指導をお願いすることでした。
2001年(平成13年)4月18日(水)、
我が家の三男坊・小太郎を近くの動物病院に預けることから、この旅は始まった。ちょつと可哀想だが仕方がない。新大阪駅で駅弁と缶ビールを買い午前10時40分の博多行きレールスターに乗る。愚妻と二人だけで旅行するのは何年ぶりであろうか。目指すは福岡県久留米市の北筑後教育事務所だ。ここの生涯学習課に宝珠山小学校の元教頭先生で、ふるさと情報満載のメールを頂く藤田良治先生が赴任されている。
藤田良治先生、こんにちは

藤田先生は数日前のメールでは身体の調子が悪く、出張も重なっている、と言うことだったが、私にとってこんな機会はめったにないので、藤田先生の御迷惑を顧みず訪れることにした。午後3時頃、久留米駅から電話をしたところ、運良く藤田先生がおられた。タクシーで北筑後教育事務所に着き、待っておられた先生に始めてお目にかかった。メールでのやり取りも永く、御子息の陽生さんにもお会いしたことがあり、初対面という感じは、まったくなかった。これは、この後お会いすることになる初対面の方々にも共通する感情であり、不思議な気持ちだが、心地よい。
出張などが多くて忙しい、且つ、身体の具合はまだ本調子ではない藤田先生ではあるが、久留米を案内して下さる、とのお言葉に甘えて、先生の車に乗り込んだ。
久留米市は筑紫次郎の別名を持つ九州最大の一級河川・筑後川の中流域に発達した街で、私の生まれた宝珠山村はその上支流にあたる。その昔、久留米師団が置かれており、私の親父は1943年(昭和18年)、私の1歳の誕生日を待たずしてこの師団に入隊し、中国大陸に出兵した(この項は
「親父の遺稿 不思議な運命」参照)。
ワイドショー的な情報では、松田聖子さんや藤井フミヤさんの出身地であり、藤井フミヤさんは地元の放送局・
福岡放送のロゴマークを製作されている。またソフトバンクの孫正義氏はこの地にある進学校・久留米大学付属高校を1年生の時点で中退し、アメリカに渡った、という。有名なタイヤメーカー・ブリヂストンタイヤの発祥の地元でもある。
始めに案内して下さったのは、千葉県の大本山成田山新勝寺から御分霊を招請して開山し、総工費20億円を投じて建立された「
慈母大観音像」である。以前メールでその写真を送って頂いたことがあるが、高さ62mの鉄筋コンクリート造りのかなり巨大な観音像で、抱かれている幼児は13m。
眉間には30cmの金の延板上に、3カラットのダイヤモンド18個が、また、胸には水晶と翡翠56個が配されている、とか。胎内は螺旋状の階段で登れ、眺望窓があり遠く雲仙も望めるそうです。

次に訪れたのは、耳納連山の最西端、標高312mの高良山に鎮座する旧国幣大社で、筑後一の宮であった高良大社(こうらたいしゃ)です。この高良玉垂宮の創建は、履中天皇元年(西暦400年)と伝えられ、寛平九年(西暦897年)には正一位を授けられ、また延喜式内の名神大社として高い地位にあった、という。中世にはその勢力は国司と拮抗するまでになり、南北朝のころは征西将軍懐良親王の祈願をうけ、山下に征西府がおかれる由緒ある社です(と、
久留米市のホームページに書いてあります)。展望台からはおよそ23万人の生活する久留米市内と、そこを流れる筑後川が一望出来、裏手にある久留米森林つつじ公園からは、筑後川と甘木、朝倉方面を遠望することが出来ます。
更に筑後川を上流に向かって遡ります。筑紫平野を雄々と流れる
筑後川は、阿蘇外輪山にその源を発し、熊本、大分、福岡、佐賀の4県を潤し、不知火燃ゆる有明海へそそぐ、全長143kmという九州一の大河です。利根川の「坂東太郎」に次ぐ「筑紫次郎」の名があり、日本を代表する河川として知られている。その悠々たる流れ、清らかな水脈と豊かさは、九州のシンボルであり、母なる川として地域の歴史や文化を育んできた。藤田先生から送られた写真にもあるように、菜の花の咲く頃は、河川敷が黄色一色に彩られる。
次は甘木市にある「平塚川添遺跡」です。「平塚川添遺跡」は低地に多重の環濠(水堀)を伴ってつくられた弥生時代の大規模な集落で、当時の「くに」の拠点的な集落跡と考えられることから、「邪馬台国=甘木朝倉」説によると、3世紀頃の女王「卑弥呼」の居た「邪馬台国の中心的集落」とも言われています。現在、歴史−自然公園づくりが行われており、私達はその周囲を観て廻りました。平成13年(2001年)5月の開園を予定している、とか。弥生時代の集落の様子がわかるだけでなく、弥生時代の森や水辺の自然環境の中でいろいろ遊べる公園になるそうです。
「平塚川添遺跡」については、藤田良治先生の友人・井上修一氏が
「邪馬台国大研究」というホームページの「全国遺跡旧跡案内」に詳しく発表されており、そこには藤田先生が撮影された写真も数多く載せられています。
その後5月12日(土)、「平塚川添遺跡公園」(大分自動車道・甘木インターそば)がオープンし、それに合わせて、市民の祭り「邪馬台国inあまぎ」(同祭り実行委員会主催)が、同日から同遺跡公園で始まったことを、
「西日本新聞ウエブ版」で知りました。邪馬台国のロマンに地域おこしの思いを乗せ、「卑弥呼の里あまぎ」を発信する多彩なイベントが繰り広げられたそうです。おそらくその中に、藤田先生と井上修一さんの姿もあったはずです。

以前藤田先生から送られた写真に「朝倉の三連水車」の写真がありました。今は時期的にその役目はないのですが、見てみたい、と思い案内して頂きました。御覧のように活動休止状態で、その勇壮な回転を見ることが出来ませんでした。
さらに遡ると、大きな河川敷がありました。この河川敷にごみ処理場を建設する話が持ち上がり、地元でも反対の声が上がっています(
「中島探検隊」、
「筑後川の中州にゴミ処理施設の建設計画」)。確かに「ごみの問題」は今後、私達が心しなければいけないことではありますが、何も筑後川の河川敷に建設することはないのではないか。
原鶴温泉「リヴァ・ハウス小の」
とうとう、忙しい藤田先生を原鶴温泉まで同行させてしまいました。お身体が本調子でない藤田先生に、結果的に久留米から原鶴まで送って頂くことになってしまい、申し訳ありません。今夜私達が宿泊するのはインターネットで見つけ、インターネットで予約した
「リヴァ・ハウス小の」という総客室数18室という小さな宿です。
110年以上の歴史を持つ原鶴温泉は、その昔川釣りに来た来た人が、一ケ所だけ雪の積もっていない場所を見つけ、そこを掘ると温泉が湧き出た、と伝えられています。原鶴温泉のある
朝倉郡杷木町は、宝珠山村の隣にあり、小学生の頃朝倉郡の写生大会があり、筑後川の河川敷で写生したことを思い出します。ほんのひとつ峠を超えるだけで、私が生まれ育った懐かしいふるさと・宝珠山村があるのです。

早速、温泉に浸かりました。ガラス戸の向こうには露天風呂もあります。ただひとり湯舟に浸かり、藤田先生に感謝するのみです。風呂上がりにビールをどうぞ、のポスターを横目で見て、客室に戻りビールを注文しNHKBSのダイエー対千葉ロッテの試合を観る。先発のルーキー長崎が序盤2回までに8点を取られ、本日も「京葉幕張貧打線」であった。結果は言いたくない。しかし、まだトップを走っている。昨年のこの時期は多額の借金を重ねていたことを考えると、夢のような気がする。この辺りの皆さんは恐らくダイエーフアンか、西武(元西鉄ライオンズ)フアンであり、中には巨人フアンもいらっしやるであろうが、私のように隣村の時代から千葉のチーム(元毎日オリオンズ)を応援している変わり者は、まずいないだろう。
酔い覚ましに浴衣掛けで散歩に出た。が、少し肌寒い。日中は暑くて上着を脱いだが、夜はまだ寒い。温泉街はこの時期客足も少なく、引き返して再び浴槽に身を委ねた。風呂上がりにロビーで涼んでいると、支配人の木戸敏勝さんに声を掛けられた。支配人は大阪の出身だとか。宝珠山の出身で、ホームページからこの宿を予約しました、と言って、ひとしきり宝珠山の話やインターネットの話をする。木戸さん自身も
ホームベージを持っているらしい。HPのURLを交換し、部屋に戻った。明日は天気だろうか。
熊谷眞理子校長先生、おはようございます
翌朝19日(木)快晴。今日は当初の予定では、JR久大本線で日田市に向かい、元宝珠山小学校のパソコン担当派遣教師であった芦刈早苗先生を訪ねる予定であった。しかし、宝珠山小学校の熊谷眞理子教頭先生が、4月の異動で小石原小学校に校長として赴任されていることを、藤田先生のメールで知った。従って、小石原に行くのは、原鶴からの方が近いので変更することにした。アポもなくいきなり訪問するのはどうか、と思い、9時過ぎに小石原小学校に電話をする。熊谷眞理子先生とはいつもメールだけの会話であり、お声をお聞きしたのは初めてであるが、実に若々しいお声が受話器から届いた。

9時半にタクシーを呼び、一路
小石原村を目指す。杷木町からちょっとした峠を越え小石原に向かう途中に「塔の元」という西日本鉄道のバス停があり、ここが国道211号線との合流点である。右に行けば私の生まれ育った宝珠山村を経て、大分県日田市に向かい、左に行けば小石原村を経てお袋の生まれ育った嘉穂郡嘉穂町に入り、飯塚市に至る。整備された道路を左に取ると上り坂になり、鼓の里を越え、峠を登り切った右手の高台に小石原小学校があった。左手は村役場、物産品の即売場がある。この国道211号線は、親父の出征中に、母方の祖父、故・若狭善太郎爺さんが嘉穂町から米俵を担ぎながら宝珠山に向かい、そしてまた帰って行った道だ。私も幾度となく小さな草鞋を履いて、善太郎爺さんの後ろに着いて嘉麻峠を越えて行った。「いつか来た道」である。
筑豊の峠…嘉麻峠(07年2月23日掲載)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/fukuoka/kikaku/076/26.htm
10時過ぎに小石原小学校に到着。受付で熊谷校長先生への面会を求めると、すぐさまお出になり校長室に招き入れられた。名刺を差し出し、急な訪問をお詫びし、今までの情報提供のお礼を述べた。熊谷眞理子校長先生とも初対面であるが、そんな感じは一切ない。熊谷校長先生は「宝珠山小学校よりも少し通勤時間が掛かるようになりました」と笑っておられた。
小石原小学校は児童数70名で、105名の宝珠山小学校より少なく、遠い山道の通学にはスクールバスが使用されているとか。校舎内に展示された生徒達の作品を説明して下さり、我々を校庭に植えられた石南花の咲いている花壇に案内して下さった。ここ小石原小学校は標高が500mで、校庭でも高山植物が花開く。生徒達は我々の姿を見つけると、大きな声で「おはようございます」と挨拶し、校長先生もまた子供達になにかしら声を懸けていらっしゃる。都会の学校ではもう無くなってしまつたであろう光景が、ここにはあった。数枚の写真を撮り、お暇をすることにした。帰り際に御当地小石原焼き(
1、2、3、4)の陶器を下さいました。熊谷校長先生、ありがとうございます。
ただいま帰って参りました、宝珠山村に

国道の坂道を下り、「塔の元」のバス停を左に折れると、そこはもう
宝珠山村だ。少し行くと右手に校舎が見えて来た。ここが「東峰中学校」だ。「忘れがたきふるさと」開設当時、宝珠山小学校のパソコン部長で、初めて私にメールをくれた井上和枝さんが通っている学校である。あれからもう2年半の歳月が過ぎている。さらに進むと旧「保坂商店」が右手にあり、役場が見えて来た。そして、あっと言う間に「大行司橋」と「文房具屋さんのひぐち」「坂本食堂」が見えた。「高木神社」の前を左に折れ、JR大行司駅前の「釈迦岳旅館」に到着した。
カネダイの御主人・井上邦康さん、初めまして
釈迦岳旅館に荷物を置き、まず村役場を訪ねた。同級生の梶原助役は所用で外出するところであった。次に
「カネダイ」の井上靖子さんを訪ねた。靖子さんには20日にお会いしましょう、とメールを出したが、日田市に行くディーゼルカーの待ち時間を利用して、取りあえずの御挨拶だけのつもりだ。あいにく靖子さんは外出中だったが、御主人がお仕事中でお目にかかることが出来た。靖子さんとはメールの交換をしたことがあるが、御主人の邦康氏はインターネットはなさらないので、本当に初対面である。しかし、「忘れがたきふるさと」の情報で、私の身辺調査は充分だったのであろうか、名刺を差し出すと「あーあ」と言った感じで、我々を事務所に招き入れて下さった。
実は、昨年の11月8日(水)、宝珠山のブランド・味噌と醤油の「カネダイ」工場を、宝珠山小学校の3年生が見学した時の写真を、当時の熊谷眞理子教頭先生から送られ、紹介したことがあった。もちろん、靖子さんにはメールでお知らせしたし、その時御主人のお名前もお聞きし、写真ではあるがお顔も存じ上げていたが、正真正銘の初対面である。しかし、初対面の感じは全くしなかった。宝珠山の現状から御自身の人生観まで、明解な言葉で述べられる4歳年下の三代目当主・井上邦康氏に、私は好感を持った。

4歳年下ということは、私の弟と同学年であり、弟を御存じありませんか、とお伺いしましたが、記憶にはない、とのことでした。しかし、当時我が家の隣に住んでいた久保山千晶くんの名前は憶えておられました。久保山千晶くんは、大行司小学校を卒業し、確か宝珠山中学校も卒業したのではなかろうか。私の弟は大行司小学校を転校したので、御当主の記憶にないのだと思います。久保山千晶くんは後年、私の大学の同じ学部学科に入学し、私の後輩になります。
カネダイの御当主の話は、誠に面白い。昔炭坑が栄えていた時代の宝珠山の話から、最近のイベント「宝珠山百年の森」まで、ひっきりなしに架かってくる商いの電話対応をされながら、とうとうと語られる。北海道からの電話もあり、これは私の想像だが、宝珠山炭坑時代にその味に親しんだ炭坑マンの家族が、カネダイの味を忘れずに注文しているのではないだろうか。次々に出てくる話題に時間を忘れた。
しかし、この結果、我々はこの後、己の体力の限界を知らされることとなる。その原因は大行司駅の構造を忘れていた私にある。お暇をして駅舎までかなりの早足で来たが、ピー、というディーゼルカーの音がしたので階段を駆け上がった。最上階の階段に達した時、すでにディーゼルカーはホームにいた。走ろうとしたが足が言うことを聞かない。やっとの思いで滑り込み、座席に倒れ込んだ。妻も同様である。汗ばんだ肌に開かれた窓から吹き込んでくるふるさとの風が心地よかった。
お母さん、御覧。これが私のふるさとですよ
JR日田彦山線は、大行司駅から日田駅に向かうと下り勾配になるが、駅を出るとすぐ右手眼下には、ふるさとの山と川が車窓に飛び込んでくる。子供の頃魚釣りをした大肥川やバッタを追った田畑も懐かしい。猿喰(さるばみ)や下郷(しもごう)という地名を思い出した。道路はすべて鋪装されてはいるが、地形も昔のままのような気がする。国道211号線のガードを渡ると左手にはお寺の屋根が見える。確か西念寺と呼んでいたように思うが、間違っているかもしれない。どなたか正確な寺名を教えて下さい。このお寺には幼い頃、父方の祖母に連れられてお参りした記憶がある。
宝珠山駅も懐かしい。戦時中、ここの駅前の病院で診察を受けていた時、B29が爆音と共に飛来し、慌てて着ていた着物の前を合わせ、防空壕に避難したことを、お袋が話してくれたことがある。ここには宝珠山炭坑の第二坑口があり、大学時代一緒に生活した平野拓男(当時は一美、後年改名。村役場の梶原助役さんと高校時代の同級生。粕屋郡原町在住)くんが住んでいた。炭坑の集会場で「ポンプ男=両刃カミソリの刃を飲み込み、吐き出す芸とか、碁石を飲み込み観客の注文で白か黒の碁石を吐き出す芸や、水を大量に飲み、点火したガソリンの火を消す芸」なる珍芸を観に行ったこともあった。
JR大鶴駅、今山駅、夜明駅(JR日田彦山線は、ここでJR九大本線に連絡。また、宝珠山村を流れ出た宝珠山川は、このJR夜明駅前で筑後川に合流します)、光岡(てるおか)駅、そして日田駅も、みんな懐かしい駅名だ。我々の学んだ大行司小学校(現宝珠山小学校)、宝珠山中学校の遠足は、決まって日焼け原(ひやけばる)だった。日焼け原で確か学生帽を忘れ、後日汽車に乗り捜しに行ったこともあったなあ。日焼け原の最寄り駅はどこだったのだろうか。カネダイの御当主によれば、日焼け原は植林され、もう原っぱではないらしい。
芦刈早苗先生、こんにちは
12時過ぎに大分県
日田市に到着。日田市は筑後川上流にある、その昔天領として栄えた街で、宝珠山から一番近い都会です。水郷の里とも言われています。終戦直後の子供の頃、眼病を患い、お袋の背に背負われながら、客車ではありません、貨物を運ぶ列車で通院したことを今も記憶しています。日田市内の田んぼの畦道で弁当を食べ、ニッキの皮を齧ったことを思い出します。私の子供時代は日本が戦争に負け、日本中が貧しい時代でした。

駅員さんにパソコン教室の場所を聞くと、駅前の交番の隣にある観光案内所を教えられた。観光案内所で聞くと、目の前のビルがそうらしい。時計を見ると午前12時を廻っていた。芦刈先生は昼食のため外出しているかもしれない、と思いながら、教室に通じる階段を登るとそこに事務所があり、事務員さんたちが昼食をとっていた。名刺を出しながら「大阪の田口と申しますが、芦刈先生は?」。一人の背の高い事務員さん(?)が口元を押さえながら「芦刈です」「ええっ」と絶句した。
今回訪問する方々で、写真も見たことがない方は、小石原小学校の熊谷眞理子校長先生と芦刈早苗先生であった。芦刈先生は最初にパソコンクラブの池田先生と部員の写真を送って下さったが、「パソコンクラブの芦刈です」とメールに書いてあったので、池田先生を芦刈先生と間違えて、写真に「芦刈先生とパソコンクラブ部員」と入力してしまったことがあった。
事務室とパソコン教室は同じフロァーにあり、パソコンがずらりと並んでいた。朝から夜の9時まで教えられる、とか。手渡された名刺には「日田校校長代理」とあったが、その後メールを頂き、めでたく「日田校校長」に昇進されたそうです。忙しくてパソコンをする暇がない、と言われましたが、「校長」になれば、ますますその時間がなくなるのではないでしょうか。しかし、時々は「風光明媚な日田の風」を高槻に届けて欲しいものです。それは「よだきい」ことでしょうか、芦刈校長先生。
私が住んでいた炭住街跡

日田のバスセンター近くの食堂でビールを飲み、大行司に戻った。当時住んでいた第一鉱区の炭住街跡を訪ねた。役場のあるところは当時、「微粉炭の天日干し場」で、この中で遊んで怒られた事もあった。
「微粉炭」とは、掘り出した石炭を「選炭場」で、ボタと石炭を選り分け、石炭を洗うと細かい石炭の粉末が入った泥水が出来る。それを一ケ所に溜て天日干しし、まだ柔らかい内にレンガ位の大きさに切り、一度蒸し焼きすると家庭用の燃料になる。まあ、大形の豆炭を想像して下さい。
現在役場の側にある鼓川(大肥川)に架かる橋を渡ると、当時右手は微粉炭を露天で蒸し焼きにする広場になっていた。少し登り坂になり、登り切ったところに農業用水路に架かる小さな木橋があり、その橋を渡るとそこに私が住んでいた炭住街があった。炭住街は3〜4軒が連なった長屋だが、小さな裏庭がそれぞれにあった。左手に小さなボタ山があり、農業用水路を挟んで無料の風呂場があり、側には飲料水を汲み上げる手動のポンプがあった。しかし、いつの頃だろうか、水道が各家庭に引かれ、手動のポンプは使われなくなった。
風呂場の側には広場があり、炭住街に住む子供達の遊び場であった。暗くなるまでここで遊んだ。ぱっちん(べったん、めんこのこと。)、釘倒し、ラムネ(ビー玉)、輪ゴム取り、缶蹴り、鬼ごっこ、輪回し(自転車の車輪を竹の棒で回しながら走る遊び)、独楽回し、凧挙げ、蝉捕り。高学年になると、自作のソリで雪すべり、魚釣り、魚突き、メジロ捕り、雀捕り、あけび取り、いかだ遊び、水泳、草野球、など。パソコンもテレビもなく、ラジオと映画が愉しみだった。

そんな思い出が一杯詰まった炭住街だったが、今は木工製品を製造するナガノインテリア工業(株)の工場になっている。我が家の跡を確認したかったが、工場の敷地の中にあり、それは出来なかった。しばらく行くと「JAあさくらの宝珠山集荷場」があり、その上にある畑の手入れをしていたご婦人に話を伺うことが出来た。子供達はみんな成長し、この村を出て行ったが、元気な内はここを動きたくない、と言う。私はこの小さな村を出発点にして、世の中に出た。58歳の老境にさしかかり、こうして今生まれた場所の地を踏んでいる。ふるさとは、この宝珠山しかない、と言う思いが益々強くなった。
役場の前を通り旧「保坂商店」と言う雑貨屋さん(旧「保坂商店」の息子は、私の同級生の下川くん。棚田親水公園の近くで「ほたるの宿」という民宿を経営しています。明日会う事になります)のところを左に折れ、橋を渡るとそこは第一抗区の鉱員社宅があった炭住街跡である。当時は橋を渡った右手に炭坑の購買部があり、左手の急な坂を登り、道路に架かる橋をわたるとそこが炭住街であった。子供の頃はここにあった散髪屋さんに来ていた。現在は宝珠焼きの窯元があり、宝珠山荘という旅館があったが、今は営業を停止している。
ひぐちのおばちゃん、こんばんは

釈迦岳旅館に戻り、温泉に入り、ビールを飲む。風呂上がりのビール、これが何処でも最高です。食事の後、酔い覚ましの散歩中、文房具屋さんの「ひぐち」のガラス戸越しに店先を覗き込んでいると、「ひぐち」の若奥さん・則子(のりこ)さんに声を掛けられた。「怪しい奴」。それはそうでしょう、釈迦岳旅館の浴衣で店先を伺ってる他国者ですからね。
宝珠山村の出身で、久しぶりにふるさとを訪問している者です、と自己紹介すると、奥から大奥様のよし子さんがお出ましになられた。この方が「ひぐちのおばちゃん」です。伺ってみると、私のお袋を御存じだ、ということが解りました。古いお話をして下さいましたが、一番聞きたかったことをお聞きしました。宝珠山劇場が潰れたのは何時ですか、と。昭和38年の冬、大雪の為大屋根を支えていた柱が折れ、そのまま文字通り潰れてしまった、とのことでした。私はてっきり、炭坑閉山がもたらしたもの、と思っていましたが、そうではなかったんですね。
この映画館にはよく通いました。前方は畳敷きの席で、後方と2階は椅子席で、スクリーンの裏手に廻ると芝居の小道具、等が置いてありました。映画「原爆の子」「広島」「鐘の鳴る丘」「おらぁ三太だ」宇野重吉の「しいのみ学園」は小学校の映画鑑賞で観ました。小学校高学年になると、映画がある日の夕方はそわそわして落ち着きません。美空ひばりの「リンゴ園の少女」、「少年探偵団」、「名探偵明智小五郎シリーズ」、中村(後年、萬屋)錦之介・東千代之助の「新諸国物語・笛吹き童子」、片岡千恵蔵の「多羅尾伴内シリーズ」、大河内右太衛門の「旗本退屈男シリーズ」、鶴田浩二・岸恵子の「弥太郎笠」に「ハワイの夜」。この頃、三益愛子の「母もの映画」を観ては悲しくなり、入江たか(?)子の「化け猫映画」を観ては、夜恐くてトイレにいけなかったこともありました。金子少女歌劇団のお芝居も観ました。テレビの放送を初めて観たのも、この映画館でした。この映画館が私の職業を決めてくれたのかも知れません。
高倉健さんが宝珠山村に
俳優の高倉健(69歳)さんが宝珠山村を訪れたお話もお聞きしました。

高倉健(本名、小田剛一)さんの父親・小田敏郎さんは、宝珠山村にあった大正鉱業時代、労務課長をしていた。父親の同僚・熊谷正勝さん(85歳)が健在で、千代丸デーサービスセンターにいることを知り、日田市の旅館から前日に電話で連絡し、1999年11月12日、突然訪問された。電話は本名でかかって来たので、熊谷正勝さん自身会うまでは高倉健さんとは分からなかったらしい。父親と一緒に働いていた人たちの消息などを尋ねられたそうだ。
熊谷正勝さんが千代丸デーサービスセンターの広報誌「ほたる通信12」に書かれた手記には、「高倉健さんは小学3年生の頃、一時宝珠山村に住んでいたとのことで、子供の頃小松橋の付近が遊び場でした、と懐かしそうに話された」とか。また、「鮭の稚魚が新川の水をしたって大海で育ち、或一定期間で育ったら、古い水をなつかしんで帰ってくる、という諺が頭に浮かんできました」と綴られています。
この話題はその後2001年1月22日(月)「西日本新聞」朝刊の一面にある「春秋」というコーナーに取り上げられています。
春秋子曰く『俳優の高倉健さん(69)が毎年1回、2時間のラジオ番組を持っていることを、最近知った。日本人の心について自らの思いを語ってきたという。「不器用ですが・・・」の"健さん節"を想像する。▼番組名が「旅の途中で」と聞いて、ふと思い出した。1年近く前、福岡県宝珠山村に行ったときのこと。取材先で「実は去年の秋、高倉健がこっそり、この村に来たんです」と、聞かされた。▼(中略)▼主演の新作映画「ホタル」の鹿児島ロケが始まった。戦争の傷跡を引きずりながらも昭和を生き抜いた夫婦の愛がテーマ。高倉さんは語っている。「わすれてはならないもの。やっておかなければならないことがあるんじゃないかと・・・」。宝珠山村を訪ねた「小田剛一」の姿が、だぶる。』
ひぐちのおばちゃん、いい話をありがとう。いつまでも長生きするんですよ。元気でいて下さい。
梶原昌弘助役、憶えていますか、私のことを?
4月20日(金)、9時に宝珠山村役場に中学時代の同級生・梶原昌弘助役を訪ねた。昨日宝珠山に着いて役場を訪ね、車で出かけようとする助役に挨拶だけはしたものの、挨拶と立ち話だけだった。宝珠山中学3年以来の再会である。もう43年前のことだ。当時小学校は千代丸に宝珠山小学校があり、大行司には大行司小学校があった。梶原助役は宝珠山小学校の出身で、私は大行司小学校の出身だ。このふたつの小学校が野球とソフトボールの試合を同日にしたことがあった。その時、宝珠山小学校のバッテリーを組んでいたのが梶原−井上くんで、野球とソフトボールの試合ではそのバッテリーがそっくりそのまま交代していたことを、何故か今日まで鮮明に憶えていた。そのことを彼に話すと、よう憶えてますな、と笑った。

昨年の秋、村役場のメールを拝借して、同級生の者ですが、と発信したところ、会社に電話を架けてくれた。私のことを宝珠山中学校の卒業アルバムで調べたが、載っていなく、私のことは何も憶えていない様子だった。そりゃそうでしょう、私は宝珠山中学校を卒業せずに、3年の3学期に転校して行った訳だからね。
梶原助役とバッテリーを組んでいた井上くんは、頭部に大きな傷がある大柄の男だったが、やさしい気持ちを持った人だった。中学の頃、雀の子を育てることが流行っていた。彼の家に雀の子がいるというので、岩屋にあった彼の家に捕りに行ったことがあった。しかしながら、井上くんはもう亡くなられたそうです。
村のインターネット状況を聞きたい、というと、総務課の眞田秀樹次長を紹介してくれた。
宝珠山村役場のインターネットは、平成9年に「地域インターネット導入促進事業」として取り入れられ、昨年の夏に村役場にサーバーを設置し、9ケ所ある公民館単位の地区までは有線放送のケーブルを利用して接続し、その先は無線で接続するらしい。
村内の5百数十世帯にあまねくインターネット接続可能な環境を構築するには、もう少し時間がかかるのかも知れないが、ぜひとも100%に完成させて、デジタルデバイドの問題を生じさせないように頑張って貰いたいものです。
ネット村民として登録

「忘れがたきふるさと」は、トライポッドという会社の無料サーバーを拝借して配信していますが、眞田次長のお話では、アダルト情報が含まれているサーバーだそうで、それには私も驚きました。一応村のサーバーではトライポッドへの接続を制限してはいない、とのことですが、出来ればネット村民として、この村のサーバーに引っ越ししませんか、とのありがたいお話を頂きました。「houshuyama.fukuoka.jp」が入ったメールアドレスも貰えました。これは最高の名誉です。この話を福岡教育大学の太田先生にしたところ、ネット村民税を払いなさい、と言われてしまいました。
村役場のサーバーを管理するのは、総務課です。総務課長は「ひぐちのおばちゃん」の息子さんの樋口朗さんです。昨日は夜分お騒がせ致しました。ネット村民にして頂き、ありがとうございました。
あっと言う間の2時間でした。忙しい松本善男村長さんにご挨拶をして、役場の玄関で記念撮影をし、村役場をお暇しました。
次は、宝珠山小学校に校長先生を訪ねました。私はこの小学校の卒業生ですが、当時は大行司小学校と呼んでいました。この校庭には懐かしい「二宮金次郎の銅像」があります。

パソコン担当の先生にパソコン教室を案内して貰い、校長室で松村栄治校長先生とお会いしました。長身の松村校長先はかっこいいジャージを着ておられましたが、一見するとレーサーかと思われる若々しい方です。学校の話や宝珠山の話をし、お暇しました。
お昼は同級生の安岡くんのお兄さんが経営されている坂本食堂です。御主人に太田先生が写された写真を見せて、安岡くんのことをお聞きしました。久留米にいる、とのことでした。
カネダイの靖子さん、こんにちは
一旦宿に引き返し、一服してから、
カネダイの井上靖子さんを訪ねました。靖子さんは「忘れがたきふるさと」を立ち上げた時、大変お世話になった方で、私の同級生の消息を調べて下さったり、ホームページのPRまでして頂きました。また、懐かしいふるさとの味噌・醤油を送って頂きました。もちろんお会いするのは今回初めてです。しかし、メールでは何度かお話していましたので、初めてお会いした、という感じはまったくありません。直ぐに事務所に招かれ、御主人と一緒に昨日の続きです。ワサビの漬け物を頂きました。これは珍味でした。お土産に頂き、大阪でビールの友にしています。

井上靖子さんは昨年まで宝珠山村婦人会の会長、朝倉郡地域婦人会の役員を勤められ、地域に根ざした日常活動を実践する活動的な女性です。また、インターネットで知り合った女性5人で「eブック工房」を設立し、
「ネットたまりば」を企画運営し、多くの仲間達と連帯しています。
「eブック工房」では、「今日からあなたもメール美人」という暮らしに役立つEメール文例集を出版されました。
車で案内して頂くことになり、岩屋に連れて行って貰うことにしました。
県道52号線をJR日田彦山線に沿って北に向かいます。「めがね橋」が右手に見えてきました。始めに旧宝珠山小学校があった場所を見ました。梶原昌弘助役はここで学んだのです。校舎もそのまま残されており、宿泊も出来るようになっています。この場所に「千代丸デイサービスセンター」があり、高倉健さんが父の同僚であった熊谷正勝さんを訪れた場所です。道路を挟んで「伊東屋旅館」があります。
更に北に向かうと右手に「棚田親水公園」が見えてきます。ここがホタルの名所です。さらに行くと「民宿ほたるの宿」があります。この民宿の経営者は私の同級生の下川くんです。私が憶えていた同級生の一人が下川くんです。もう一人は安岡くんでした。訪ねてみると、運良く在宅していました。名乗りましたが、記憶にはなさそうです。そりゃそうでしょう、40数年前のことを思い出すには時間がかかります。写真を撮り、お暇しました。

右手に「JR筑前岩屋駅」が見えてきました。鯉のぼりが空高く泳いでいます。こんなに大きな鯉のぼりは、もう都会では見ることが出来ません。
岩屋神社に到着です。子供の頃、春のお祭りには、歩いて毎年来ました。多くの露店が立ち並び、握りしめたお小遣いで、日頃食べたことのないものを食べた記憶があります。戦争に破れ、日本中が貧しい時代でした。本殿のあるところは急な階段を登ります。今回は御辞退致し、野外ステージのある広場までにしました。それでも、大きな岩がそそり立つた様子も観ることが出来、岩屋の雰囲気を感じることが出来ました。
「宝珠山百年の森」よ、こんにちは
続いては、「宝珠山百年の森」です。「宝珠山百年の森」は、昨年秋、その森の名称を募集していたので、私はインターネットで応募しました。今年3月、「宝珠山百年の森」と名付けられ、20日(火、祝)、絶好の天気の中、約140名が参加して、記念植樹が行われました。森の名称応募のお礼として、宝珠山村長・松本善夫氏と宝珠山百年の森づくり実行委員会委員長・室井親志氏から「植樹記念のタオル」と「村のパンフ」が送られて来ました。改めて、梶原助役に「宝珠山百年の森」づくりの目的を問い合わせたところ、次のような趣意書が送られて来ました。
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「宝珠山百年の森」づくりの目的
今まで森林を支えてきた林業の不振、そして山村の過疎、高齢化による管理基準の低下、山に育ち森と触合う機会が少ない生活、このような中、長期にわたり保育する森づくりを行い森を守っていくことで、森林に対する意識の喚起を図り、その育成管理については林業者の人々の努力だけに依存すべきではないとの認識にたって、多くの人が参加し森林を育成管理する体制の確立を目指す必要があります。
そのために、森林の持つ多面的機能を再確認し、森とふれあい、したしむ森林空間を構築し、さらに、筑後川の水源地域として下流域の人々にも参加を呼びかけ、都市部との交流、体験、教育活動の場となるべき森の整備を行う。
一人ひとりが森林を自分のものと考え、それぞれの立場において可能な方法で森づくりに参加する宝珠山百年の森を創る。
宝珠山村長 松本善夫
宝珠山百年の森づくり実行委員会
委員長 室井親志
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宝珠山村役場経済課では『来年度からは、体験イベント等をとおして、岩屋神社一帯の村有林の維持管理を考えています。「宝珠山百年の森」づくりの場所は、棚田百選に選ばれた「竹地区」を、一望できる場所でもあり、竹地区では地元で棚田保全委員会も組織され、体験イベントを計画していると聞いていますので、お互いに協力して、将来は農業と林業の体験イベントが、その地域で出来るのではないか。森づくりのイベントは4月以降の実行委員会で企画し、内容が決まり次第、村のホームページで紹介する予定です』と、「宝珠山百年の森」づくり事業を力強く語っています。
私は竹地区に足を踏み入れるのは、生まれて初めてです。この「宝珠山百年の森」づくり事業が、宝珠山に自然の恵みを与えてくれることを祈ります。
続いて、日本の「棚田百選」に選ばれた「竹地区」に移動しました。葛折れの細い道路が続き、靖子さんの運転技術は相当なものでした。道路の両側に小さな田んぼが重なるように並んでいます。このような風景をいつまでも残して欲しい、とは思いますが、これを維持するには大変な労力が必要です。何かいい知恵はないものでしょうか。そう言えば、村役場の皆さんから貰った名刺は、すべて「竹地区の棚田の風景」が印刷されていました。

更に釈迦ケ岳に入り、田川郡添田に抜けるトンネルを目指します。途中視界の開けた場所から宝珠山村の位置を確認しました。幾重にも重なった山また山の向こうに、私のふるさと・宝珠山村があるのです。このような風景を放浪の俳人・山頭火は「分け入っても分け入っても青い山」と表現しています。
トンネルの手前で一服し、引き返します。棚田の風景、棚田の向こうに広がる宝珠山百年の森を撮影し、岩屋では鯉のぼりの舞う風景を撮り、今度は県道52号線を左に折れ、大分県日田市の小鹿田(おんた)に向かいます。
小鹿田は小鹿田焼き(
1、
2、
3、
4)の窯元があり、中学生の頃遠足に行ったことがありました。水車を利用して土を搗いています。昔ながらの風景です。靖子さんと知り合いの窯元にお邪魔しました。庭先にはところ狭しと作品が干してあります。作業場では半乾きの作品をろくろの上で器用に形を整えていました。見事な出来栄です。展示即売場で対の湯飲みとカッパの置き物を買いました。靖子さんには大きなお皿をお土産に買って頂きました。ありがとうございます。
再び宝珠山に戻り、棚田親水公園に立ち寄りました。宝珠山川の自然を取り入れたプールは、子供達の水遊びに最適で、夏には大勢の家族連れで賑わうそうです。この公園の中でホタルの幼虫を飼育し、6月の第二土曜・日曜日の「ほたるまつり」に開放されます。ホタルの住むような自然が、ここにはあるのです。園内にはレストランもあり、ひと休みしながら、パソコンゃインターネットの話に興じました。同じ趣味を持てば、話題にこと欠きません。
ふるさとの皆様、ありがとうございました

北筑後教育事務所の藤田先生、小石原小学校の熊谷校長先生、パソコン学院の芦刈校長先生、宝珠山村の松本村長、同級生の梶原助役、樋口総務課長、眞田総務次長、宝珠山小学校の松村校長先生、ひぐちのおばちゃん・樋口よし子さん、樋口総務課長の奥様・則子さん、「ほたるの宿」を経営する同級生の下川くん、炭住街跡でお話して下さったご婦人、そしてカネダイの御主人・井上邦康さん、奥様の井上靖子さん、本当にありがとうございました。
突然お邪魔して、御迷惑をお掛けしたことと思います。今回私の里帰りは、改めて「宝珠山村が私のふるさと」であることを、再確認することが出来ました。ふるさとの皆様、本当にありがとうございました。明日は田川市の「石炭博物館」を廻り、第二のふるさと・飯塚市に向かいます。
続報「朝倉の三連水車」
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その後、北筑後教育事務所の藤田良治先生から「朝倉の三連水車」の写真をメールで頂きました。三連水車は、来る日も来る日も休むことなく、元気に活動しています。(6月24日追記)
以前、「三輪の三連水車」と表記していましたが、 渕上編集事務所(fpress)の渕上孝文氏から「三輪町」ではなく、「朝倉町」とのご指摘を受けました。本文には「朝倉の三連水車」と書きながら、何故かこの項だけ間違えてしまいました。
申し訳ありません。お詫びして訂正致します。渕上孝文様、御指導、ありがとうございます。(2002年3月9日)
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