親父の遺稿

不思議な運命

起稿日不詳

元・久留米師団五四部隊   

田口 正英(平成元年没)

 

戦争のことは忘れたい!

戦争中のことは忘れよう。日本人全員が忘れるべきである。そして決して戦争なんか二度と起こすべきでない。日本人、いや世界の人が念願しているだろう。

味わいたくない、味あわせてはならない。この世に人命程尊いものはない。それなのに、例え人種が違っても、人が人を傷つけ、命を奪うなんて、以ての外ではないだろうか。軍人だけではなく、非戦闘員の命を奪い、傷つけるなんて・・・。

長崎で原爆の被害を受けた長崎大学の故永井博士の「この子を残して」の一節に、「人類よ、戦争を計画してくれるな。原子爆弾のある限り、戦争は人類の自殺行為にしかならないのだ」と書かれている。

ソ満国境の一発の砲声が満州、上海、日中事変、大東亜戦争へと発展。殊に大東亜戦に於ける冷酷悲惨極まりないビルマ、ガタルカナル、比島(フィリッピン)、ニューギニヤ、等、南大平洋諸島のあの悲惨な状況は・・・。今日の平和は数知れぬ犠牲者の上にある事を忘れてはならない。故に、当時を想い出し乍ら、要所のみピックアップして記す。

只、自分中心であり、絶対的なものではなく、又一部想像的思考があり、事実と多少前後している部分がある。

赤紙が来た

「11ガツ8ヒゼン9ジクルメ54ブタイニニユウタイスベシ」

臨時召集令状来る。昭和18年、我、31歳、妻ヒサエ27歳。善敏、後2週間で誕生日。母、妹、ペルーより日本語の勉強に来日していた田中緑(当時小学校の教員)を残して、万歳万歳の歓呼の声に送られる。行く俺も、残る家族、特に妻なんか涙一つ見せられない別れであった。

若し、誰も居なかったらキット抱き合い、泣き叫んでいたろう。「善敏、大きくなれよ」と、スヤスヤと眠っている我が子に・・・。

久留米五四部隊に入隊

久留米五四部隊(**隊、二文字不明)第一中隊第4班に配属となる。師団長・伊佐中将。部隊長・瀬川少佐。中隊長・松藤中尉。少隊長・西田少尉。班長・田淵伍長(後、田中軍曹となる)。敬称略、以下も同じ。

註。兵団とは師団のこと。久留米師団(菊)十二師団であるが、入隊時既に師団全員満州に遠征し、久留米師団は留守師団であった。この事は後に少し述べて見る。

入隊後1週間程は別に訓練なし。中隊の母と云われていた山崎准尉から、一人一人事務室に呼び出され、家庭の状況、履歴を問われる。

入隊者全員営庭に集合。中隊長の訓示、並びに所属の少隊長、班長の紹介があり、被服、長靴、編上靴、作業用服、銃、短剣が渡される。自分の持ち馬が決まる。小さい俺に皮肉にも背の高い馬に当たる。馴れてみるとおとなしく俺の云うことをよく聞いてくれた。特に、障害物飛びはうまいもので、乗馬ではよく誉められたものだ。

朝昼晩と自分の食事の前に馬の手入れ。餌を与え、夕方7時には水を呑ませる。水呑みの回数を計り記録。異常の時は班長に報告、指示を受ける。人間も同じであるが、馬も運動不足になると腹痛を起こす。腹具合なんか考えないでドンドン食べるので腹痛を起こす。水呑みの回数が馬の健康状態のパロメーターである。万一、馬が腹痛を起こすような事があると、寝らずに介抱する。又、怪我などさせたら軍隊にいる限り冷や飯を喰わされ、頭は上がらない。馬が病気怪我の時は、訓練が出来ないので見学となる。

入隊6ケ月の間の成績が大きく左右し、上位であれば上等兵・兵長への昇進の途が開かれる。その上、兵精勤章授与することができる。入隊6ケ月して第一期検閲があり、この成績で直ちに一等兵、及び兵精勤章を授与。精勤章を受けた者は上等兵候補となる。俺はこの検閲を受けなかった。

前述したように、久留米師団は留守師団であり、十二師団(後に菊兵団と命名)からの情報、部隊の移動、兵員数、戦況の概況、戦病死名と年月日、時、場所・・・、等が記録されている。時々検印がしてある。十二師団と久留米師団が一緒に記録されている。入隊前の久留米師団は留守師団ではなく、十二師団より独立分離していたようである。故に、書類を別個に保管が必要となり、十二師団の情報を抜粋して久留米師団用とするため、(俺が)中隊から只一人選抜され、他の中隊から3名(内一人は製本経験者)。部隊本部の兵長監視付きで一室に閉じ込められ、起床から就寝迄、時には12時過ぎまでも抜粋事務。訓練もやらず、見ては書き写すだけ。時々、本文中に○○○、叉は×××、△△△、等の符合が出て来る。これは場所で機密らしく、本部付曹長に尋ねに行くと、戸棚の中から分厚いものを繰り広げ教えてくれるので、○×△に宛てはめて書く。以上の関係で一期の検閲は受けていない。

一等兵に進級

検閲後の発表には上位の成績で一等兵に進級。同時に精勤章まで授与したのには、自分乍らビックリした。何が幸いしたのか。

(昭和)19年9月、突然編成替えがある。この頃、南大平洋諸島に於いての戦況は、我が軍にとって暗いニュースを聞く。久留米師団に「積」兵団が誕生。我々は「積◯◯◯九兵団」に編入。今迄の人員の半分に分割され、兵団長、部隊長、中隊長、少隊長は今迄通り替らないが、他の隊の者が我々の中隊に来たけれども、人員は100人程に縮少され、益々戦時体制となり、五四部隊の数字は抹消。「積九・松藤隊・西田隊」となり、自分の左胸に「九」「マ|氏名」の布片を縫いつける。俗に云う「天保銭」、卵型の番号が刻印してある認識表が支給される。この番号が所属部隊、氏名を表すもので、之は常に身につけている。

この前後、入隊する者が一段と激しくなり、入隊する者、又、何処かに出兵するのが毎日の様である。出兵するのは夜間で不明。我々にも緊張感が高まる。

非常呼集命令

或夜、突然我々の部隊の非常呼集の命令。朝方の寝心地のよい時間。夜中でも電気をつけてはいけない。暗やみの中で完全武装で営庭に集合。人員点呼の上その侭先頭に続いて、行き先不明。声も出してはいけない。隣の戦友とヒソヒソと噂話をするのみ。周りは田畑、遠くに山のあることは判る。広いたんぼ道のようである。着いた所は荒木駅(午前四時頃)。

20人程の地方人(軍人の家族と思う)が軍人と立ち話をしている。我々も知らないのにどうやって家族と連絡をしたのだろう。妻、叉は家族と最後の別れを・・・。暫時休憩後、線路の内側に集合。前方には客車と貨物(車)が10車両程あり、貨車には既に馬が乗せられていた。此処で先に到着し家族と別れた者が配属になり、我が班に8人程編入された。聞けば彼等は久留米師団に入隊、中には朝鮮兵(朝鮮では大学生)学徒動員で、将校になる希望もあり、又そのように聞かされていたようである(朝鮮兵は全員釜山で逃走した)。俺と初年兵の名が呼ばれ、一歩前進。次々と二人一組で六組の名が呼ばれ、以上は馬の監視員を命ぜられ、各々の貨車へ乗車する。

九州を南下

汽笛と共に発車。同乗の初年兵は2ケ月程前入隊。当時の教育召集(白紙)で、3ケ月の訓練が終わると帰郷する制度の召集である。俺は思う、2ケ月位の訓練では不充分で、未知の軍人と同じ。時々地方言葉が会話中に出る。「家族の者と面会して来たか?」「自分は長崎から来た者で、会っていない」と答える。おそらく彼等は、教育召集と喜んでいるが、教育召集解除同日臨時召集と切り替えられるだろう、と思ったが、彼には話せなかった。「早く地方言葉を止め、軍隊口調になれ」と・・・。

列車は各駅には停車しない。通過する駅の方が多い。停車駅には必ず婦人会、学生、団体等の人が、日の丸の旗を振り、万歳万歳と声援し、国防婦人会のタスキをかけた人は、茶や菓子の接待をしてくれる。握り飯をくれた駅もあった。行き先は判らないが、鹿児島方面に進んでいることは、駅名で想像する。

列車は鹿児島経由で宮崎県都城駅で下車。馬と共に4キロ程離れた中郷村青年学校が我々の宿舎。馬は校庭に仮に繋いで、交代で馬監視兵が勤務する。翌日、西田少隊長の当番兵の命令があり、早速少隊長の下着類の洗濯、馬具の手入れと、これ迄以上に忙しい(久留米師団の時、部隊本部の音成少尉の当番をした事があるので、その関係かもわからない)。

食糧輸送が、我々の任務

我々は更に南下する。一個少隊西田少尉引率で今迄の少隊の中から二個分隊18名となる。同じ宮崎県であるが、下郷村役場下の公民館を基地とし、志布志湾を取り巻く20キロ四方に分散し、陣地構築をやっている歩兵部隊の食糧輸送が、我々の任務。今日は東、明日は西、と5〜6名程度の班に分かれての輸送が続く。秋とは云え10月頃の日中は相当に暑い。雨の日とて休むわけにはいかない。俺は少隊長に附いている丈、それでも人も馬も可成り疲労してきた。少隊長の訓示があり「後しばらくすると交代制にするから、皆んな頑張ってくれ」と。

11月に入ると涼しくなり、随分と楽になる。その上、輸送も少なくなり、休養日が多くなり、週1〜2回程度となり、同志の雑談が多くなる。この地方は雪は降らないようだが、霜が激しいとか。小学生はみんな素足。「足が冷たくないか?」「兵隊さん、足は冷たくないが、手が冷たい」と、手を真っ赤にしていた子もいた。

村の人達も親切で、自家製の芋焼酎をバケツに入れて持ってきてくれる。焼酎を半分程入れ、水を入れて薄めて「どうぞ」「どうぞ」と湯呑に注いでくれる。舌先で舐めてみるとビリッと強すぎて、とても喉を通らないようだ。現地の人は平気でグィグィと呑む。強い芋焼酎に馴れているようだ。婦人会が甘酒を作って持って来て呉れる。青年(団)及び少女会が芋、ヨモギを混ぜ合わせて餅を作り、きな粉をかけたものを、又焼き芋、蒸かし芋等の差し入れもしてくれる。

村には珍しく役場の附近は可成りの商店で、珍しく銭湯があり、役場の厚意であろう、兵隊は無料で入浴した。

12月上旬頃、中隊に帰ることになり、全員下郷村に別れを告げ、中隊長の「ご苦労」の声に今迄の苦労を忘れてしまう。別にすることもなく、馬の手入れ、馬具の補修、少隊長の洗濯物、等。都城に映画見物、演芸会などやる余裕があった。この頃だったと思う、一度帰郷が許されて帰宅したのは・・・・。

大陸出兵命令

昭和20年1月早々、俺達一個中隊に大陸出兵の命令が出る。初年兵、その外120名程残留。今迄中隊一個少隊に縮少、中隊長松藤中尉、少隊長西田少尉とし、熊本城に向う。熊本で再編成。宮崎、鹿児島、大分、熊本、混成編成。彼等は主として召集兵が多く、軍人は全く初めて、と云うものも大勢いたようである。これは後で上海で聞く。

熊本で出陣式があり、門司で5日程民家に分宿、輸送艦を待つ。民宿した奥様に相談し、名前を借りて最後の手紙を妻に送る。

さらば祖国よ、栄えあれ

昭和20年1月19日午後8時、輸送艦に乗り込む。艦は静かに港を離れる。周辺は真っ暗であるが、ボンヤリと港が見える。シッカリと見ておこう、またと見られない日本。残してきた家族はどうなるだろうか。今ヤット(2歳の)誕生を過ぎたばかりの善敏・・・。俺は軍人と云う大義名分に消されているが、妻はこれから次々とくる苦難な生活が続くだろう。まして乳呑み子を抱え、年老いたる母と・・・。軍服を脱いだ自分の本当の姿に戻り、見せてはならぬ涙で港が見えなくなる。眼には見えないが、頭の眼(まなこ)はシッカリと過去から将来へと駆け巡る。俺はこの時程情けない思いをした事はない。現在でも、当時を想うと何故か涙がひとりでに落ちてくる。書いていても、何度ペンを置き天井を見つめる。

釜山港、平壌、奉天へ

一路艦は釜山港へ。前に記した通り、朝鮮兵は逃走。これから軍用列車(貨物)で平壌へ、奉天へ。奉天駅で朝食、約1時間程停車する連絡があり、用便に行く。線路と線路の間に民家5軒位の長さの便所が建っている。如何に中国が広いか、駅の長さも広さも改めて大陸と云うことを感じさせられる。便所の入り口に1〜2メートル位の棒が置いてある。何をするのだろう、と思いながら戸を開けると、真直ぐに突き立っている前の者の用便を、入り口の棒で叩き折って用を足す。(寒さの為、凍りついて)決して垂れない。小便も流れない。僅かに30センチ程度拡がるだけで、コンクリートの上は用心しないと滑り転がる。

水道の水は常時開き放し。それでもチョロチョロと落ちるだけ。食器を洗い、3個目の食器を洗い終わりと同時に、最初洗った食器を素早く取らないと、凍り付いて取れなくなる。食器3個洗うのが精一杯、これ以上は凍傷となる。

北京、南京、上海、汕頭(スワトウ)へ

奉天-北京-南京-上海へ。ここで熊本で編成した部隊と合流。呉淞(ウソン)から再び艦で各隊ごとに分乗。身動き出来ない程積み込まれ、我々を乗せた艦は海岸線に沿うて南下。遠く沖の方から海軍の駆逐艦が護衛、空からは飛行機が護衛に当たる。この艦の中で西田少隊長が肝炎を起こし、軍医の命令通り胸部湿布をする。チョイチョイ湿布を取り替えねばならない、頭は冷やさなければならない。衛生兵でも付き添わせればよいのに、と思う。睡眠不足で俺の方が参ってしまいそう。止む得ない当番兵の任務。

汕頭(スワトウ)に着き、(西田少隊長は)その侭陸軍病院へ入院。当然俺も当番兵として付き添いに残される(2月2日頃)。他の者は更に目的地に向う。目的地は不明。中隊長もわからない。上層部からの命令通り行動する。

上海、呉淞(ウソン)あたりまでは寒かったが、汕頭(スワトウ)は、夏自(ハモイ)と香港の中間に位置し、気候がいい所である。夏服姿でもよい所で、真夏でも海岸近くの浜風で涼しい所。病院の前方は海で見晴しのよい所。病院は戦前より可成り有名な中国の孫先生が創立した汕頭(スワトウ)随一の病院で、設備も完備充分。将校病棟と兵隊病棟は大きな道路に依りて区切られ、隔離室、浴場、グランド等もあり、広東病院の分院に当たる。看護婦宿舎もあり、多数の看護婦がいたようである。軍医長は少佐であった。

マナリヤ病を発病し、汕頭(スワトウ)陸軍病院に入院

西田少尉の病状も快方に向い、ボツボツと散歩ができる程度になった頃、(俺は)緊張感の弛みと疲労のため発熱。マナリヤ病となり兵隊病棟に入院。その後、西田少尉の病状は順調に快方に向い、原隊(中隊)復帰となり、俺の病床に尋ねて来られた。手をシッカリと握り「早く元気になって俺の元に戻ってきてくれ」と涙ながらに・・・。俺も思わず涙が出た。毎日42度の高熱が続いていた時であり、起き上がることもできず、敬礼することもできず、辛い別れ。

付き添い人無し、毎日1回衛生兵が「どうか」と検温、脈拍を調べるだけ。病室の16人は自分で検温脈拍を計り、衛生兵に伝えていた。彼等は比較的元気で、ブラブラと動き廻っていた。1週間毎に軍医の診察があり、他の者は診察室に行くが、俺は歩けないので軍医が病室で診察する。3度の食事の粥さえ口にすることもできなくなり、日に何回も下痢で便所にも行けないので、病室の片隅に専用の便所(桶)が置いてあった。間に合わずに何回か失敗したことがある。病室の者は誰も「いやらしい汚い」等とは思ってくれなかったのが、俺はうれしかった。

この下痢も4〜5日位から止まった。止まった、と云うより、出るものがない。腹の中は空ッポになったのであろう。毎日衛生兵が両大腿部に注射(リンゲル)をする。始めは注射針を刺す時は痛かったが、その痛さも感じない程身体は衰弱していた。枕元には10センチ程の赤い丸印が貼られていた。この丸印は重症患者で、敵襲の際の担架輸送患者の印である。この病室には俺一人であった。

不思議な運命

先に記した宮崎県中郷村の「積◯◯◯九兵団」。人員を縮少された我々一個中隊は(中国大陸に向けて)出兵した。が、残留組はその後沖縄に進出したそうで、その後の状況は全く不明である。史上に残る、今に語り続けられる敵の上陸地点。若し俺が残留部隊であったら・・・。

空襲

汕頭(スワトウ)病院入院中、空襲は毎日のようにB29が飛来。警報と共に衛生兵2名、俺を担架に乗せ、防空壕へ。ある日、いつものように担架に乗せられ避難中、B29が最低空飛行し(操縦士が見えた)、機関銃でバラバラバラと打ち、砂が舞い上がった。衛生兵は担架を投げ捨て、俺をそのままにして、自分たちだけ防空壕に逃げ込んだ。担架に乗せられたまま、どうすることもできない。弾丸は俺の周辺、特に足元附近が激しかった。

衛生兵とは傷病兵看護はもちろん、自分の身を犠牲にして救護に当たるのが本分だが、いざとなれば自分の命が大切。彼等にも妻や子供、家族もいるだろう。人間の心理はみな同じだなァ、と思うと、彼等を憎む気にはなれない。俺はこんな身体だ。俺もお前たちと同じだ。妻や子供に会いたい。妻の手をシッカリ握り、子供を胸に抱き・・・。仏教ではないが、一種の悟りみたいな考えが浮かんだ。もう駄目だ。これで一生は終わった、と思った。いつの間にか、俺の手は胸に合掌していた。

敵機が飛び去ったが、誰も出てこない。敵機のようすを見ているのだろう。防空壕の方から人の気配がする。最後に衛生兵が担架を病室に運び、ベットに寝せられる。この時は衛生兵も丁重に取り扱い、いつもと違った感じであった。俺の身体は空ッポになった様に憶えた。植物人間のように、ただ心臓ののみが密かに動いている状態。あの弾丸の中で、よくも助かったものだ。

食べなければ、いつまでも、元気になれませんよ

当時はまだ汕頭(スワトウ)には、日本に帰れない人が残っていたらしく、病院へ慰問演芸に訪れた。他の患者は演芸会場に行き、病室で一人、動けない身体をベットに横たわらせ、目だけキョロキョロさせていた。慰問団員婦人3人を看護婦が制服制帽姿で(案内し)、一人残っている俺に手を差し伸べ、「早く快くなって下さい」と声をかけた。「食べなければいけませんよ。食べなければ、いつまでも、元気になれませんよ」と、慰問袋の中から飴玉を1ッ、口の中に入れてくれた。思わず涙が流れ出した。「有難う」の声も言葉にならず、ただ首を僅かに前に傾けただけ。

時昭和20年3月下旬頃、一滴の水も、一粒の米も、何も口に入れなかった。毎日2本の注射が俺の命を守ってくれたのだ。いや、妻や子供が俺を守っていてくれるのだ。生きよう。看護婦が云ったように食べよう。食べさえすれば、キット妻や子供が俺の生命を守ってくれる、と・・・。

マナリア病は高熱が続くが、7〜10日もすれば大体落ち着く。一度マナリア病になると免疫性ができ、次回から発病前に自分で察知するようになり、家族や周りの者が心配する程、本人は最初の時のように苦しくないようになる。ただ、高熱が続くので、他の病気を併発するのが恐ろしい。俺もどうも胸部をやられたらしい。

軍医は云わないが、同病室の者が2名、隔離室に移され、倒れたと聞く。あんなに歩き廻っていたのになァ。

はじめは寝ながら、隣の人に粥をサジ一杯口に入れてもらい、噛み締めながら27〜30回程噛むとなくなってしまう。3日程して二杯と少しづつ量を増し、空腹ではなくても食べることに専念する。

その後も空襲はあるも、機関銃で弾丸発射することはなかった。5月頃になると、爆音はあるも空襲とまではいかなかった。

もうベットに起き上がり、自分で食べられるようになり、歩行練習をやると腹がへり、軍医に申し出て普通食にしてもらう。今度は体力作りと考え、散歩散歩。元気になったこの姿を、あの時の看護婦さん(特に「さん」と呼ぶ)に見せたいと思う。食事の時間が待ち遠しく、炊事場附近を覗きに行ったのする。食べる夢ばかりを見る。

転院命令 ここは御国の何百里

昭和20年7月の中旬過ぎ、この病院から12名、転院下命。どこの病院かわからないが、元気なものばかり(が選ばれた)。考えてみると、ここに来てからもう半年が過ぎていた。

港には艦が停泊し、その艦にはすでに歩兵部隊が乗船。中には将校、下士官もいたが、知っている者はいない。この艦はどこかに移動する部隊のようで、これに便乗しているのだ。艦はなかなか動かない。夕方になって、静かに静かにユックリと岸辺に沿って進行しているようだ。

何と云う処か知らないが、汕頭(スワトウ)からきた12名は、小さい舟に乗り換えた。歩兵部隊は下船しなかった。陸地に降りて初めて大陸にシッカリと足を踏み止まった感じがした。我々12名の指揮(官)は曹長であったが、(その)所属部隊や名前は知らない。汕頭(スワトウ)より一緒だったことは覚えている。

約2キロ程歩いて連絡所で休憩、中食する。「今日はここで泊まる。明日は可成りの強行軍となるので、今夜は充分睡眠をとるように。明朝は朝食後直ちに出発する」と、行き先は云わなかった。曹長は知っているのだろうが、我々には伝えなかった。汕頭(スワトウ)病院と違い、環境が悪くなかなか眠れなかった。

翌朝の7時30分頃出発。広々とした田畑もなく、民家もない。遠くに山が見える砂漠のような荒野。殺風景な道を、砂埃をたてながら歩いた、歩いた。思えば行軍は門司港出発以来の事で、銃、背嚢が肩に喰い込む。元気になったとは云え、まだ病み上がりの身には相当な辛さ。俺ばかりじゃない、みんなも同じだ。歯を食いしばる。午前中は元気に歩いていた曹長も、午後からは軍刀を杖にして歩き、「ひと休みしよう」が多くなった。

薄暗くなってヤットの思いで目的地に着いた。一寸した街のようで、民間人も自由に往来している。お堂のような処で、附近には民家があった。持ち主は中国人だろうが、どこかに移住避難したのだろう。赤いトンガリ屋根の洋館建ての住家もあり、別荘地帯のような気がしたが、人は住んでいない。その後日本軍が使用しているのだろう。前線の野戦病院らしい(建物に)、曹長が入り何か打ち合わせ。俺達は背嚢を降ろし、ドカッと腰を降ろした。各々2名づつ院内の者の中に仲間入り同居することになる。翌日、軍医の診察があり、身体に異常のないことが解りホッとした。完全に元気になったのだと嬉しかった。

中隊復帰行

当病院から自分の中隊に帰る者が、同じ方向に一定の人員に達すると、自動車(トラック)叉はクリーク(注)を利用して、自分の中隊に帰る。俺は自己退院の許可を申し出て、中隊に帰ることにした。3日間当病院に泊まった汕頭(スワトウ)から来た者とは別れ別れになってしまうが・・・。

(注)クリークとは、日本で云う河(川)のことである。

当時の中国の交通と云えば、軍のトラック、叉は中国人個人の舟を雇い、クリークを利用した舟による輸送であった。大きな部隊は別として、三三五五この舟に5〜10人(舟の大きさによって違う)分乗して移動。最も舟はロープで繋ぎ、舟には2人の船頭がいて、浅い所は竿で差し、深い所は岸辺からロープで引っ張って進む。ノンビリとしたものである。

敵襲 敵の弾丸雨あられ

突然砂糖キビ畑の中から敵が機関銃で打ってきた。弾丸が俺達の舟に向って、激しい弾音と共にジャボジャボと水面に落ちる。急な夏の夕立のように、大粒の雨のようであり、「弾丸雨あられ」とはよく表現している。我々は舟の中に置いている銃に弾を込め、「岸に着けろ」と各自船頭に叫び、敵の爆音の方角を睨む。いつでも飛び出せる姿勢。心臓は大きく波を打つ。胸に手を当てると、自分ながらビックリする程伝わってくる。舟に一緒に乗っている戦友の顔を見ると真っ青に・・・。自分の顔もキット青くなっているだろう。

岸近くになったので「ヨーシ」と水中に飛び込む。「しまった」まだ深くて腰まで水があり、なかなか歩けない。しかし、進むしかない。我々の周辺には相変わらず、いや前よりも爆音が激しくなった。「駄目だ、弾に当たる」。無我夢中にただ進む。誰も声を出す者もいない。耳に入るのは弾音と着水する音だけ。やっと岸に着き、直ちに腹伏。頭は上げずに左右に首を廻す。戦友がいると心強い。自分より前進した者がいるようだ。遅れると心細くなるので腹伏前進。勇敢?、そんなものではない。狂気のようだ。

何が何だかわからない。恐ろしいとは思うが、何も考えない。頭に血が昇ったとでも云うか。頭は上げず、銃だけ前に突き出し、引き金を引く。一発毎に操作しなければ弾は出ない。敵の銃音に向って発射するのみ。隣の者が前進すれば、我もまた前進。敵は軽機関銃だから一度に30〜50発、ダダダダダダダダ、と打ってくる。これに応戦するのは容易なことではない。しかも、機関銃は左右自由に動かせるので、これに当たらない方が不思議なくらい。

敵弾の音が止んだようだ。我々もしばらく様子を見るため、打ち方を止める。腹伏のままジットしていた。ドッと流れる汗。背中から焼け付くような太陽の熱で汗と砂混じり。腹の方は泥まみれになった。まして腰から下は水中を歩いたので、なおさらのこと熱気でたまらなくなる。「おい!」と、小さな声を聞いたので、頭を上げ、しばらく見廻す。中腰になって見廻すと、随分と遠くに友軍がいて、実に心強かった。始めからこんなに友軍がいる事を知っていたら、交戦中もっと心強さもあり、恐さも少しは安らいでいたかも知れないと思った。一個中隊位の兵員に匹敵する程の人員であると思う。「異常ないか?」と、次々に伝令する。幸いみんな異常はなすようだ。

再び乗船。舟に帰った頃から、永い戦友のような間柄となり、互いに話し合うようになった。この船団は南から来たらしい。移動先は知らないが、広東、いや南京・・・。舟はまた進行を開始する。戦闘の疲れで話の合間にもコクリコクリと居眠りをする。

思うに、我々は移動中の部隊の中に入れられ、付き添われるような形となって動いているようだ。先程の交戦でも判るように、小さな舟の我々が狙われていたのかも知れない。一発づつの弾も、数にすれば大きなものになる。これで敵は引揚げたのであろう。移動中の部隊よ、有難う、と感謝の念で一杯だった。

我々に発砲したのは、べんい隊(ゲリラ)で、極く少数であった、と聞く。

想うに、大陸出兵命令当時残留部隊でなかったこと、入院中に空襲弾に当たらなかったこと、そして病に打ち勝ったこと、ゲリラ隊との交戦に幸い無傷であったこと、俺の生命の強さ、これを運命と云うのだろう。

終戦を知る

連絡所から連絡所までトラックで訪ねる。20年8月19日夕方、2回目の連絡所で終戦の話を聞く。彼は言葉に訛りがあった。「日本は世界にない物凄い爆弾が落とされ、日本は全滅しているらしい」と。日本敗戦話は噂を呼んでか、次々と暗いことばかり。但し、米軍の沖縄上陸の事は知らされていない。

俺は考えた。全滅と云っても、宝珠山のような山の中までは、と・・・。(ただ、自分が)捕虜となり、どんなことをさせられるのか、それが心配だった。中隊へ急ごう。少々な事なら歩こう。歩いてでも中隊へ帰ろう。久留米時代からの戦友の仲間に入れば、心強い。一段と心強さが増すであろう。

中隊に復帰

(昭和20年)8月21日、なつかしい、そして念願の中隊に辿り着く。松藤中隊長、西田少隊長、戦友達がみんな喜んで、俺に抱き着き手を握る者、肩を叩く者、重い背嚢を後ろから降ろしてくれる者。少隊長の眼に涙が光っていた。俺も泣いた。汚れた手で涙を拭き、「長い間ご心配をかけましたが、田口は今みなさんのお陰で、無事帰隊でき、こんなに喜んでもらってほんとうに嬉しいです。どうか今後とも宜敷く」と、涙乍らに声詰まらせて挨拶した。

一先ず中隊長指揮の功績係となり事務を執る。西田少隊長曰く、「田口は疲れているから、当分休ませろ」と。他の戦友達もよく気遣ってくれた。久留米からの戦友であればこそだ。嬉しさと疲れがドットきたのか、昼も夜も眠った、グウグウと・・・。

大谷伍長、吉川軍曹、熊本上等兵、青木一等兵の病死を名簿で知る。俺は心の中で合掌する。中隊は敵襲もなく、交戦することもなく、行軍したらしく、名簿には見当たらない。しかし、炎天下の行軍は苦しかったであろう。下士官の殆どが行軍中に、内地から持ってきた私物の軍刀を捨てたとか。将校も馬ではなく、兵隊同様歩行。しかも長靴で土砂降りの雨の中を、泥んこになって歩き、野宿で背嚢枕に寝、相当悩まされたらしい。中隊長以下みんな苦しみを味わったものだナ。病死の者も設備の完備した病院で、早く治療を受けていたら、あるいは・・・。

兵隊は食糧の授領、薪の授領(薪は大木の根ばかり)、薪割り、炊事等を各班別に分担し、その他の兵隊は別にすることもなくブラブラしていた。

皆んな半ズボン、半袖姿で、ツッカケ、下駄姿。長袖長ズボンは俺一人。ある日戦友が半袖半ズボンを、少隊長からだ、と云って持ってきてくれた。有り難い。呉淞(ウソン)から汕頭(スワトウ)病院への少隊長看護が、今俺に戻ってきた。少隊長の心遣いがうれしかった。早速、西田少隊長にお礼に行き、病院での生活、それから中隊に帰るまでの事を聞かれた。「お前も随分と苦労したナァ。これからは俺が見守るから、安心して共に日本の地を踏もう」と、・・・。

昭和20年9月の初め頃、中隊は移動した。広東まではそう遠い距離ではなさそうだった。此処で熊本で編成した時の者(彼等とは一度上海で合流したが、以来別行動だった)と合流し、一個中隊となった。中隊長は鹿児島出身の竹田大尉。今迄の松藤中隊長は中隊附けとなる。

囚虜所生活

それから1ケ月が経過、武装解除となり、捕虜生活の第一歩を踏み出す。中隊の炊事班事務係となり、班長・稲村伍長、炊事班長・岡村軍曹となる。

日中はまだ暑く、木陰に居れば涼しく感じるが、炎天下では汗が流れる。囚虜所と呼ばれていた当範囲は周囲300メートル位で、その区域は自由に行動出来るが、人家に立ち入ってはいけない。中国人民家もあり、彼達は自由に往来していた。商人はよく俺達の事務所に来ていた。日本語を使い、又俺達も彼に頼むこともある。この商人を通じて、物々交換をしていた。いわゆる仲買人で、彼も可成りの利益を得て生活しているようだ。

囚虜所の周囲は、中国の兵隊が我々を監視している。彼等の前を通らないと商店街には行けない。1ケ月もすると、彼等とあやふやな中国語と手真似で話をするようになり、我々に対して危害を加えることはなく、敬礼をすると彼等は上機嫌のようである。時には、彼等から飯を要求することがある。握り飯をやると、「天下下(テンカカ=有難う、上等、よし、と云う意味)と云って喜ぶ。後には彼の方から「自分の前を通って行け」と、指で示すようになり、酒好きの兵隊は中国の焼酎を飲みに行く、また買って来て同志が集まって飲む。

ある日、中隊長に同伴。稲村伍長、俺、他に兵隊5人、トラックに乗せられ広東に行く。南支派遣軍総司令部が広東にあることを初めて知る。広東病院にモモエ婆ちゃんが若い頃、従軍看護婦としていた事を聞いていたので、病院を訪ねたが、懐かしい思いがした。時々中国の兵隊が通るので敬礼すると、ニッコリ笑って通り過ぎる。民家の軒先きには中国の旗が揚げてある。(日本は戦争に)負けてはいるがこの場面を見ると悔しい。

野戦倉庫の物資運搬大作戦

当時、広東の野戦倉庫はまだ日本が保管していたが、いずれ接収される事は誰もが想像していた。ある日、中隊長が慌てて炊事事務室に飛んで来て、「近々広東野戦倉庫が接収される。依って今なら自由に持ち出してもよい、と連絡があった。食糧を主体として運搬しよう」と。どうして運搬するか、と相談する。一人一人担いで運ぶのは容易な事ではない。と云って、どこの部隊でも(食糧が)欲しいので、今更総司令部にトラックを頼むのもどうか。持ち出してもよい、と云うことは、総司令部として命令を出されない筈だ。これは倉庫担当将校の厚意で、総司令部は知らぬことになっているのだろう。知っても知らぬ顔、と云う訳だ。中隊長もよい考えを想い浮かばれたものだ。トラックを借りるのは止めた方がよい。では、どうするのか。長い詮議も結局は空論で終わる。

当時囚虜所人員に対し、一人一日主食0.7合(但し、日本の半分程の量である)、副食費75円が支給されていた。しかし、満足した食糧ではなかったので、どうしても食糧が欲しかった。副食費75円では、当時汁物ばかりで、時々野菜の切れが入っている位のものしか用意出来なかった。

2日程経った夕食後、俺は西田少尉に会いに行った。松藤中尉と談笑されていたが、「珍しいではないか、お前が来るなんて」と。そこで「実は、内密ですが」と前置きして、恐る恐る俺の考えを相談する。食糧運搬については、商人を通じて苦力(クリー)と舟を雇い、これ達を使って運搬する方法を提案する。彼等は中国人の商人であるから、この仕事に危険は確かにある。しかし、今はこの商人を信用する以外に、途はないことを説明。松島中尉、西田少尉は「困ったナ」と云う顔だったが、しばらくして「商人については、俺達は知らないが、お前達の方がよく会っているので、充分分かっている、と思うが、それがよい、とは此処では云えない。それとなく、中隊長に話して判断してもらうしかない。旨くいって元々、もし失敗した時は、中隊長の責任でもあり、中隊全員のこれからの問題だからなァ」と。

数日後、稲村班長が中隊長から呼ばれて、野戦倉庫からの運搬問題について、「商人の信用性はあるか?」「何%の信頼性か?」と聞かれ、戻って来た。俺は班長に「商人に会って、この事を話してみたら如何。どう反応するか」と・・・。商人に会って話すうちに、商人の顔に明るさが見えた。商人も意外に大賛成。自分一人では信用出来ないので、親方(元請け人)と一緒にもう一度、面会に来ます、と早々に引き揚げて行った。「この商人を中隊長に会わせよう。そして判断してもらおう」と、俺は班長に進言、班長も承知。実は、班長は俺が西田少尉を通じ、中隊長に相談した事は知らないようだった。中隊長と商人との面談の時、稲村班長、岡村班長が同席し、俺はその内容は知らない。班長は後で云っていた「俺も商人を使うほかはない、と考えていた」と・・・。俺だけでなくあの場合、商人を使う以外に方法はない、と誰だって考えていただろう。しかし、責任と云う大きな肩の荷物を担ぎたくなかったからであろう。後で、西田少尉が「よく俺に相談してくれた。中隊長から成功を誉められたよ」

それから一週間も過ぎた頃、商人がやって来た。舟と苦力(クリー)の手配が出来たので、いつ取りに行くのか、班長は中隊長に報告。2日後と決定。主食、副食物(乾燥野菜、梅干しの塩漬け)、乾パン、砂糖、甘味物、衣類(軍服)、靴下、煙草、日本酒(濃厚酒と云って2倍に薄めて飲む)。炊事倉庫は満杯。なお、主食、軍服は分隊の宿舎の片隅に保管するようにした。これを見て、中隊長が「当分食糧の心配がいらない」と上機嫌。

商人とは物々交換で話し合う。商人も抜かったことはしない。俺達との物々交換位では満足しない。一艘分位は闇流しをやっているだろう、と思うが、それはそれとして我々の目的は達成したのだから、別に問う必要はない。それよりも、よくやってくれた、と誉めたいぐらい。この頃、初めて菊の紋の入った恩賜の煙草を、心ゆくまで吸った。

今考えてみると、シベリヤに抑留された者に比べると、天国と地獄の差。人は苦しい時、楽しい時に想いを寄せる、と云うが、家族の者はどうしているのだろうナ。善敏も随分と大きくなり、歩き廻っているいるだろう。いや走り廻っているだろう。多分(妻)ヒサエも働いているだろうが、苦しい生活を送っているだろう。俺も死を覚悟した時もあったが、今はこんなにノンビリと食糧の中に埋まっているなんて、想像もしないだろう。しかし、捕虜の身、いつ何時重労働に服従しなければならない時がくるだろう、と・・・。

きょうも暮れゆく異国の丘に

(昭和20年)11月も中旬を過ぎると、日中は暑いが、夜中頃からはヒンヤリとして毛布を冠って寝るようになる。朝起きると半袖から出た両腕をさすり乍ら体操をやる。野戦倉庫から運んだ食糧を、支給されている食糧に添加し、裕福な日を送る。農家出身の者が空き地を耕し、野菜を作る。兵隊の残飯整理のため、小豚を3頭を養う。しかし、豚は正月にはミソ汁となった。水牛の肉を食べたが、これは食えない。ボロ布を噛むようで、歯切れが悪く、味も全くない。とても食えたものではない。

中国人に食器一杯の飯をやると、バナナやパパイヤを喜んで持ってくる。天然に熟したもので、とても味がよい。善敏に食べさせたら、さぞ喜ぶだろうなァ、と思う。食糧が豊富になるといろんなアイデアが浮かぶようで、厚紙に絵を描いて花札を作り、大流行になった。又、碁盤や将棋盤を作り、ある者は靴下を解き胴巻きを編む。雑談する者、ゴロリと練る者、ブラリと商店街を歩き廻る者。

残飯が多くなり、喜んだのは豚だけ。で、少し量を少なくし、間食用に乾パンを配給したが、面白半分にこれを投げつけて遊ぶ。中隊長から大目玉を喰った。そこで、これを油で炒め、砂糖をつけて配給すると、兵隊から受けた。中隊長からも、よい考えだ、と誉められた。しかし、これも長くは続かなかったようで、点々と捨てた跡があった。これを中国の小ハイ(小供)が拾って食べていた。程なくこの間食も止めた。食事の献立に悩む。家庭で三度三度作ってくれる妻の苦労がわかる。

当時、軍足一足で200円から300円で売れた。中国人は直ちに解いて、何かに使うのだろう。私物品はほとんどの者が売ったらしい。俺も内地から持って来た万年筆を3万円で売った。(兵隊達は)主に煙草を買っていたようだ。捕虜には(原則として)煙草、酒等の支給がないが、煙草だけは時々配給されていたが、これでは足りない。

倉庫から米を盗んでいた者もいたようで、報告があっても俺は別に取り上げなかった。でも、同一人物である時は、「用心しろ」と、注意を与えた。

囚虜所の相撲大会

囚虜所内でこんなことが出来るなんて、想像もしないだろうが、事実は曲げられない。

ある日、中隊長から全員に注意の訓示があった。「元気でいれば必ず日本へ帰れるので、病気をしないように・・・。運動不足になり勝ちと思うから、所内で駆け足や体操をせよ。中国人とのトラブルは絶対に起こすな。言葉が充分通じないから、自分の態度に気をつけよ」

以後、中隊長の命令で相撲の3人、5人勝ち抜き合戦、叉は班別の相撲大会、寸劇、のど自慢、漫才等、盛んに行うようになった。相撲優勝班、演芸個人賞、等を設けて、その者には特別に煙草や甘味品、酒等の賞品をやった。

食糧を商人と換金し、兵隊と同じ食事であった将校に、将校食として一品多くした。西田少尉には、俺が内密に煙草や酒を時々持って行ってやる。松藤中尉と同室であったので、二人共とても喜んでいた。

囚虜所の餅搗き

(昭和20年)12月中旬頃、中隊長が「正月に餅を搗くように考えよ」と、云われ、石屋経験者に臼を作らせた。米で酒も作ろうと云うことになる。臼が小さいので、3日位かかって餅を搗いたと思う。

(昭和21年の)正月が過ぎ、山本伍長他5名、中国の要請で蹄鉄(馬のひずめを保護するU字型金具)を打ちつける指導に派遣された。彼等は1ケ月余りで、煙草をもらって帰隊した。

「旧正月にも餅を搗こうじゃないか」と、中隊長に云われて、「ヘェ、まだ日本へは帰れないのか」と、ガッカリした。

(昭和21年の)3月初め頃、近いうちに帰られるようだ、とどこからか噂が流れた。みんな慌ただしく身辺の整理を始めた。背嚢、雑嚢(後年この雑嚢は、善敏の通学カバンとなり、よく大行司小学校に通ったもの)に積み込めるだけ、足で踏み込み踏み込み詰め込んだ。その後、何の音沙汰もなく、ただ単なる噂に過ぎなかった。

炊事事務の機密の出納簿に随分と余裕があるので、班長とコッソリ煙草を買い、西田少尉にも渡した。随分と太ってきたのが、自分でも判るようになっていた。調理室に頼み、飯の炊き上がり前の糊のようなものに砂糖を入れて、よく食べたもんだ。物的金銭的に可成りの余裕があるので、肉類を多く使うようになり、皆んな喜んだ。豆腐のミソ汁、肉と野菜の油炒め、何でも出来る。こうなると、炊事班が忙しくなるので、2名増員してもらう。この頃の俺は酒は飲まない。煙草は日に10本程で足りていた(復員後、特に職員組合連合会会長時代から、酒と煙草の量が多くなった)。

帰国の身辺整理

(昭和21年)4月下旬に入って全員集合の命令。中隊長から、「身辺の整理をすること。乗艦の折は一人一人の所持品を検査される。一人でも不心得者がいると、中隊全員が乗艦出来ないので、充分心得よ。持参して乗艦出来るのは全品目で三ッ以下。但し、私物品は事前に届け出ること。酒類は禁止。最後まで日本軍人らしい態度で、中隊全員、解散地まで規律ある行動をすること」。みんなの顔が明るくなった。明日にでも家族との再会が出来るかのように、その晩は遅くまでアチコチと輪になって、語り合っていた。

当地方の中国人について

男の子を「ショーハイ(小供)」と呼び、上衣は着ない者が多く、半ズボンで素足。未婚の女性を「クーニャン(姑娘)」と呼び、髪の毛は尻の辺りまで延ばし、両方に分けて組み、毛先に色物の布で結んでいる。中年になるに従い、髪の先を少しづつ短くするようである。髪の毛先が切れるのだろうか。上衣と下衣は別々であるが、肌が見えないように重なりあっている。ズボンは足首まであり、ツッカケ下駄を履き、一般にやせ型が多い。

既婚者は上衣と下衣の間が、僅かに肌が見える位の服装。ズボンは足首辺りで結んでいる。男女共に黒色で無柄。夕方クリークで水浴をするが、着服のまま入り、身体を洗い、そのまま家で着替える。老人、既婚者共に爪先と踵だけにかけて履くズックの底は*(一字不明)くて軽い。家の周辺の道路は、殆ど石畳であることと関係していると思う。

中流以上の服装は黒色ではあるが、男は上衣が長く膝まで位あり、詰襟が多い。クーニャンは胸の辺りに同色(黒)で花柄模様があり、左側の方に隠しボタンが腰下まで位ある。それより下は、歩く度に、風でピラピラ揺れて、如何にもクーニャンらしい服装である。もっとも布地も違うようであるが・・・。履物も一般の者よりも、少し底が厚いようである。上流階級の男子の者は、拳銃を隠し持っているとか。

一般労働者階級では、食生活に追われている。中国に限った話ではないが・・・。家の入り口に立って飯を喰う。しかも、粥をドンブリ茶碗で5〜6杯は平気。副食は大根の漬け物が二〜三切れ、叉は小魚一切れ。塩(岩塩)、食油(落花生を絞ったもの)で味付けた野菜炒め。大体副食物は余りとらない。小皿一杯が3〜4人分用。男は労働作業の関係か、ドン腹が多い。

煙草は専売品ではないので、自家製の煙草と紙を別々に買って、自分勝手に巻いて吸う。道端で勝手に販売し、1本でも売る。線香が置いてあり、その場で火を付け、スパスパと(吸い乍ら)歩く。なかにはインチキ煙草があり、変な味のするもの、煙りのでないものまである。インチキ(煙草)は、ショウハイが持って売り歩いているものが危ない。お金を渡したら、受け取り急いで逃げてしまう。余り数多く種類がないが、普通の煙草10本入りが550円位。

学校があると聞き、観に行ったが、学校ではなく、塾だと思った。10人位の小供が室内を勝手に歩き乍ら、声を出し本を読んでいる。中には女の子も3人いた。解らない時だろう、先生に尋ねに行くようだ。先生は椅子に腰掛け机に向って本を読んでいた。老人のようである。こうした勉強の出来る小供は、中流階級の家庭らしい。

中国人は結婚しても(朝鮮も)女の姓は変わらないし、夫側の家には入らない。3〜4ケ月位は夫の方が嫁の家に往来する。普通の下級社会の結納は3〜5万円程度で、相手は親が決める。

下級社会の小供(ショウハイ)、未婚女(クーニャン)は、実に商売の気質に強く育てられているようで、この方面の駆け引きはうまい。

(下級社会の)住家は土蔵造りで、厚さ40〜50cm 位の壁で囲い、泥と砂糖キビの乾燥葉や茎を叩き潰して、石と塗り固めて造る。床は地面に砂糖キビの葉を敷き、その上にゴザを並べている。出入り口は1ケ所で、ゴザを下げている。家の中は薄暗く、天井は砂糖キビの葉で厚く覆い、外からの熱や風を防いでいる。炎天下でも家の中に入ると、ヒンヤリと感じる。熱帯地方の生活の知恵である。蚊帳はマナリヤ蚊を防ぐため、年中吊るしたまま。食糧保管にも使っている。水はすべて瓶(カメ)を利用するので、大中小と様々な瓶が置いてある。片隅にはトイレ用の瓶もある。たいした衣類はなく、蚊帳に掛けている。

中流以上になると、趣が一変し洋風式となり、住宅らしい家造りである。周囲の壁は土蔵式であるが、外面は板を張っている。屋根は比較的傾斜があり、いわゆるトンガリ屋根式である。赤系統の屋根が多いが、なかには青、白、緑もある。瓦ではないようだが、何か雨に強く、外熱を防ぐ特殊なものを使用しているのだろう。出入り口にはドア式、窓も可成り多く、間仕切りがあり、各部屋ごとにドアや窓が取り付けてあるのだろう。床面も板張りで、浴場、洗面所、炊事場はタイル張り、家によっては大理石を敷いているそうだ。井戸もあり、手押しではあるがポンプも設備されている。畳の間はないとのこと。手伝い婦を雇い、中には外周り(庭師)、下働きする男も雇っているとか。これは商売人に聞いた話。

ある日商店街をブラブラしていた時、上品な中国人に「兵隊さん、郷(くに)はどこですか?」と聞かれた。日本語のうまいのにビックリした。「福岡」と答えると、彼は福岡で戦前まで学校の先生をしていたとか。高等学校、専門学校、あるいは大学かなァ、と思った。一番下の娘は博多で生れた。今も元気でいます、と言っていた。(俺は)福岡(市内)の事は余り知らないので、一方的に彼の話を聞いた。「福岡県の人とお会い出来て嬉しい、懐かしい」と語ってくれた。「週に3〜4回は広東に行きます」とも言う。日本に対しては敵意の様子は少しも見えなかった。「中国は北京語が標準語で、北京語で話せば大体どこでも通じますよ」とも語ってくれた。これも想い出の一節として書き留めておく。

復員船 霞む祖国よ、小島の沖にや

(昭和21年)5月4日頃、我々(の帰国)は5月の第二艇団に決定。待ちに待った日本に帰る日が来るのだ。中隊長は余裕を持って早く港に着き、復員船を待つようにする。食糧は5日分各自持参、と命令が出る。炊事班長、稲村班長、俺とで話し合う。残った食糧と金は・・・。その他の物品は・・・。最後の結論。野戦倉庫から運んでくれたそのお礼として、商人に「我々が引き揚げるのを待って直ちに運び出せ」と、堅い約束をさせた。その夜、商人が野菜、肉、肴等の缶詰めを持って来てくれた。西田少尉に缶詰めをコッソリ渡した。

5日分の食糧を背嚢に詰め込むと、重い重い。涼しいうちにと少し早めに出発したのだが、港に着いたのは夕方近くになった。復員船が沖に停泊していた。あの船が出航して別の船が来るものと思っていた。すでに船には乗船していた部隊もあった。今夜はここで野宿か。何日位で次の船が入港するのだろうか、と話す声がアチコチで聞こえてくる。兎に角夕食の準備にとりかかろう。と、第一艇団に乗船する部隊がまだ到着していない、との噂が流れ始めた。中隊長が中国の復員担当官のところに、「(我々は)第二艇団に乗船する部隊である」ことを報告に行ったので、もうすぐハッキリするはずだ。我々は夕食を済ませよう。

と、中隊長が駆け足で帰って来た。「乗船準備だぞ」と、大声で叫んだ。サァ大変、夕食どころではない。「急いで片付けろ」。集合の命令。誰もが慌てた。「急げ急げ」と中隊長は叫ぶ。全員整列。中隊長は「囚虜所長殿に敬礼、頭右」と・・・。所長は少佐であった。「君等は戦いには敗れたが、日本には天皇陛下が無事で君達の環りを待っている。日本に対し我が大中華民国は援助を惜しむものではない」と通訳された。機関銃や小銃を手にした中国軍隊が、乱暴する者は直ちに発砲する、と言わんばかりに、我々の周囲を取り囲んでいる。我々は10名1組として1列に並び、身体、及び荷物の検査を一人一人受ける。船の方を指差された者から桟橋に進んで行く。桟橋は長く揺れ動いて、渡るのが恐ろしい。渡船を使用しなければ、本船は浅くて横付けすることは出来ない。桟橋から渡船に乗り込み、沖で待つ復員船に乗り換える。この港は復員船用として使用しているらしく、漁船は入港していない。

ついに、祖国日本に帰還

この復員船は宇品港に入港する予定であったが、九州部隊が多かったので鹿児島に寄港する、と乗船2日目に連絡があり、みんな喜んだ。特に、鹿児島、宮崎出身者が・・・。船は一路台湾を南下し、大平洋に進路をとり、鹿児島に入港。噂によれば、日本海近海は魚雷で危険とのこと。鹿児島入港当時、桜島が爆発中で桜島の人達は避難していたとか。港では手を振って我々を迎えてくれた。下船時、米兵が待っていたので、又荷物の検査があるだろうと覚悟していたが、陸地から桟橋に手を差し伸べてくれた。昨日の敵は今日の友か。背嚢、雑嚢を卸し、服の前ボタンを外させ、頭から白い粉(DDT)を浴びせられ、真っ白になった。

鹿児島は一面焼野が原で、山形屋デパートと朝日新聞社が残っていただけ。全部焼夷弾にやられたとか。駅舎もなく、焼け残りの客車一両を利用し、キップ発売をしていた。灯とてなく、どうにか家にしているのが痛ましく、戦争の悲惨苛酷さをまざまざと見せつけられ唖然とした。入院生活もあったが、戦うべきはずの俺は、このような無惨な光景を見たことがない。駅前の広場で解散式があり、涙乍らに声詰まらせた中隊長の挨拶があり、復員局から「日本を離れて一度も給与がなく、ご苦労さまでした」と、本日まで分兵隊一人当り5千円を受け取る。

国敗れて、山河あり ふるさとの川、おだやかに流れ、山は緑、空は青く

出発時刻にはまだ2時間程あるので、取り敢えず家に打電するため、局を尋ね歩き、「電報は2〜3日を要する」とのこと。それでは、と止めて、駅で発車を待つ。午後7時30分鹿児島駅を出発。途中の駅々は真っ暗で、街も暗くて何も見えないが、熊本、大牟田市街も可成りの被害を受けた様子だ。途中下車する者、接続列車に乗り換える者等、お互いに今後の健闘を語り、別れを惜しむ。久留米駅に着いたが、駅前附近は見渡す限り焼け野が原。鹿児島程ではないが、相当な被害を受けていた。久大線の接続列車はなく、朝一番列車まで4時間近く待たねばならぬ。駅で背嚢を枕に寝たが、目の前にある我が家、妻、家族、善敏の顔が浮かんで眠れない。夜明の駅でまた2時間、待ち合わせがある。(宝珠山までは)歩いても、2時間は要するので、待つことにする。この附近は、戦前と何も変わった様子はない。駅前の日田川(筑後川)は、悲惨な事態は何もなかったように、澄み切った水がおだやかに流れ、山は緑、空は青く、五月晴れ。俺の心を癒すかのように・・・。

宝珠山は別に変わったこともなく、足取りも軽くなり、我が家に急ぐ。まだ復員していない家族の人が諸々に尋ねられるが、宝珠山の人は我等の部隊には居らず、部隊が違えば全く判らない。役場に立ち寄り、復員の挨拶と留守中の家族がお世話になった礼を述べ、我が家に着く。何故か涙が出て止まらない。母が手を引いて「よう帰って来た」とまた涙。緑が「うれしい」と叫び、また泣き出す。ヒサエは善敏を連れて、小野谷に行っているとか。重い背嚢を卸し、2年数カ月ぶりに我が家に座り込む。近所の人が「よかったね」「ご苦労さまでした」「おめでとう」と尋ねてくれる。まず無事帰った事を、小野谷に打電する。友人や知人に復員挨拶に廻り、会社事務所にも挨拶に行く。夜床に着いたが中々眠られなかった。小野谷の爺さんがやって来た。善敏が少し熱があるので、歩けないからと・・・。

勲章は?

翌日、爺さんと一緒に小野谷に行く。(善敏は)今日気分がよいようで、ヒサエが連れて遊びに出かけているとか。婆ちゃんに造ってもらった藁草履を履いて帰って来た。お父さんは兵隊さんで、勲章を貰って帰って来る、と日常聞かされていたのであろう。「善敏、お父さんよ。お帰りなさい、は?」「勲章は?」が最初の声。爺ちゃんの勲章を借りて、婆ちゃんが渡すと、嬉しそうに胸に当てて喜ぶ我が子。中国では「抱き上げたい、この胸に」と、あれ程想い続けてきた。今、それが現実となった。発熱している、とは聞いたが、以外と元気なので安心した。ヒサエは少しやつれていた。苦労疲れであろう。

追想

苛酷な戦闘に遭遇した事はないので、悲惨な状況は知らないが、読む、見る、聞いた通り、正にこの世の地獄。ソ連軍に抑留された人達を考えると、我々は特別な優遇を受けたようで、この人達に対して申し訳ない気がする。噂によれば、中国のカオーキン総司令官は、日本の陸軍士官学校出身とか。広東には中国と日本の南支総司令部があり、戦いが終わり、お互いに平和に食事し、語り合っていたとか。

今、日本政府は国の内外を問わず、戦争犠牲者、その家族、被爆者、中国残留孤児を含め、沖縄で巻き添えにされた人達に対して、責任を持って援護すべきである。

原爆は広島、長崎に落とされたが、今問題となり、世界が注目している核は、原爆以上の人類破滅の武器である。戦争の苛酷さは、もう繰り返してはならない事は、重々知り乍ら、政治家は何を考えているのだろう。自衛と云う名のもとに、一歩一歩と過去の過ちを繰り返そうとしているような気がする。

日本が誇る零戦闘機は、紀元2600年(昭和15年)頃、名古屋の三菱工業で製作された。当時は米国をアッと云わせたものだが、その後、米国はこれに優る戦闘機を製作。ホーイングB29は、日本機より一段と高い空を飛び、また硬度な金属を使用し、操縦士は絶対安全とされ、且つ、長距離の飛行が可能とされている。この為に、零戦はラバウル戦で徹底的な打撃を受けた。電波探知機によって暗号を解読され、山本海軍総司令官が倒れたのも、この頃である。本土決戦を企画されたのも、この頃だと思う。

南太平洋諸島が次々に敗れた。サイパン島は全員玉砕の地のひとつである。敵米国・B29の基地となり、沖縄を襲った。誇り続けた母艦はなくなり、残されていた戦艦大和が沖縄へ急進。沖縄へ、沖縄へと全力を集中するも、惨々たる有様。銃はあれど、撃つ弾丸もなく、ただ竹やりのみ。県民は乙女も、老若男女をとわず大和魂。

何故、我々は中国に出兵したか。当時日本はソ連と不可侵条約があったので、南太平洋に南下し、ソ満国境は空白の状態だった。中国の夏自(ハモイ)に日本海軍の航空基地があり、敵はこの夏自(ハモイ)を叩き、ここを航空基地として日本本土を襲うだろう、と考えた。我々は夏自(ハモイ)を一旦海上より通過し、南側から夏自(ハモイ)航空隊の守備をするために出兵したようである。

しかし、ソ連は不可侵条約を一方的に破棄して参戦してきた。そこで、ソ満国境へ進軍。俺が汕頭(スワトウ)病院より便乗した部隊も、このための移動であった、と思う。考えるに、死線を超え、無事帰還する事が出来たのは、中国を舞台にして、激戦地を逃げ回っていたからのようだ。

ポツダム宣言に調印した重光外相(大分県人)は、「武より外交を優先すべきである」と、常に唱えられていたとか。

了に

これを記すにあたり、長い時間がかかったが、未だ充分ではない。誤字があり、月日が前後し、叉は重複した点があるが、精一杯綴ったつもり。

戦友の歌 (後で綴り加えた)

ここは御国の何百里 離れて遠き満州の

赤い夕日に照らされて ・・・・・

ああ戦いの最中に 隣に居りし我が友が

俄にハタと倒れしを 我は思わず駆け寄りて

しっかりせよと抱き起こし 仮包帯も弾丸の中

小学校高学年、青年学校と戦時中男女を問わず随分長い間唄い続けられたものである。この歌は戦友を唄った曲だが、誰もが軍歌だと思うだろう。が、実は文部省小学唱歌で、森先生の作詞であることを、戦後書籍で知った。このことを知った時、何も知らない子供の頃から、戦争に掻きたてられていたのか、と思い唖然とした。

戦争を語り継ごう 〜 リンク集 〜

   URL http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/

西宮在住の西羽潔氏制作のリンク集 「戦争を語り継ごう リンク集」に「親父の遺稿 不思議な運命」が「軍隊」の項で紹介されています。

静岡県藤枝市在住の松浦武氏制作のホームページに「忘れがたきふるさと」と「親父の遺構 不思議な運命」が紹介されています。

目次にある「リンク集」から「大平洋戦争関係」にお進み下さい。

   URL http://isweb4.infoseek.co.jp/novel/m-take/rink.html

“スーパー爺ちゃん”元気HP

URL http://www5e.biglobe.ne.jp/~sige90/

「九州の片田舎でパソコンと闘う」スーパー爺ちゃん(福岡県飯塚市在住)のホームページのリンクに「親父の遺構 不思議な運命」が紹介されています。トップページの曲が「ふるさと」であり、私のトップページの曲と同じです。大正初期生まれであれば、私の親父とほぼ同年代です。そのお年(失礼)でホームページ制作とは驚きです。「スーパー爺ちゃん」を自称されていますが、還暦を超えたばかりの私には「超ウルトラ・エグゼクティブ・スーパー爺ちゃん」に見えます。(2003年12月21日、記)

 

忘れがたきふるさと 目次  

親父・正英のこと

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