思い出すままに

私の親父、正英のこと

 

平成12(2000)年8月15日(55回目の終戦記念日)

 平成15(2003)年10月13日(筑豊鉱山学校の項加筆)

平成20(2008)年5月28日(筑豊鉱山学校の項加筆)

平成元年5月、私の親父は癌で亡くなった。前年の夏、定期健康診断では発見されず、咳がすると言う事で通院した病院で検査を勧められ、検査の結果、癌と診断された。親父には癌であることは、絶対に告知せず、「カビが出来た状態」であると偽り、11月に手術した。しかし、除去する事が不可能との診断で、半年の余命と宣告された。こんな結果なら、痛い目にあわせなくてもよかった、と悔やんだが、手術してみなければ解らない癌の恐ろしさである。

親父は筑豊鉱山学校(現・筑豊工業高校)卒業後、直ぐに炭坑労働者として働き始めた。この地方では、耕す田地田畑もなく、まして資力もない家庭に育つた若者たちが選ぶ、死と隣り合わせの危険な職業である。しかしながら、炭坑は働く意志さえあれば、その日から住宅を与えられ、裸一貫、着のみ着のままで働ける場所でもあった。私が1歳誕生日直前の昭和18年には召集され、「久留米積54部隊」に入隊後、中国大陸に渡った。その軍隊生活を綴った「不思議な運命」が親父の遺稿である。終戦後、復員してからも、炭坑に勤め、生涯を地の底で働いた生っ粋の「ヤマの男」である。

平成15(2003)年10月の初め、福岡県立稲築高校の2年先輩で、川西市で建築事務所を開かれているMさんから次のようなメールをいただいた。
『私の手元に昭和38年3月に作成された筑豊鉱山学校の同窓会名簿がありますが、貴殿の父上の田口正英様の名前を発見しました。

筑豊鉱山学校に附設された直方石炭鉱技術員養成所(昭和13年4月から昭和22年4月まで開設)を、第5回生(昭和15年9月30日)として116名の仲間と共に卒業されていました事を報告します。大正4年1月19日生まれの私の父は、昭和9年3月に23名の仲間と普通科第3回として卒業していますが、存命者は静岡のHさんと西宮のHさんの2人だけとなっています。

今の筑豊工業学校も他校と合併されるようで存亡の危機となっているようです』

親父の卒業名簿であれば一度見てみたい、と思い、「スキャンしてメール配信して下さい」とお願いしたところ、2度に渡って「卒業名簿」や「学校沿革」「科別回期別会員数一覧表」が送られて来た。

私達4人兄弟妹は親父の若かりし頃の話を聞いた事はない。苦しく貧しい時代の話は喋りたくなかったのかも知れない。恐らく貧乏な家庭に育ち、若い頃から金を稼ぐために死と背中合わせの危険な炭坑で働くようになったのであろう、と容易に想像出来る。筑豊鉱山学校を卒業したことはお袋に聞いたが、それが何年であるのかは全く解らなかった。

親父の事を書く前に筑豊鉱山学校とはいかにして設立されたのか、学校沿革(詳細)を見てみよう。大正6(1917)年12月11日、親父が生まれた2年後のことであるが、筑豊石炭鉱業組合臨時総会で筑豊鉱山学校の設立が決議された事に始まる。石炭がこの国のエネルギーの中心であり、不足していた炭坑労働者を手っ取り早く養成する必要に迫られたのであろう。大正8(1919)年4月1日に開校し、第1回本科生が入学。(中略)

昭和9(1934)年4月、社団法人筑豊石炭鉱業会の経営に移管。昭和13(1938)年4月1日、直方石炭鉱技術員養成所を附設。昭和17(1942)年4月、石炭統制会の経営に移管。昭和21(1946)年10月、校名を筑豊鉱山工業学校と改名。昭和22(1947)年4月、直方石炭鉱技術員養成所を廃止。昭和23年4月、校名を筑豊鉱山高等学校と改める。昭和25(1950)年4月、福岡県営に移管し福岡県立筑豊鉱山高等学校となる。昭和36(1961)年4月、校名を福岡県立筑豊工業高等学校と改名。平成15(2003)年4月、県立西鞍手高、鞍手農業高、鞍手商業高と統廃合され福岡県立鞍手竜徳高等学校として開校。福岡県立筑豊工業高等学校は平成17(2005)年3月に閉校。(2008/05/28、閉校の項加筆)

【筑豊鉱山学校同窓会名簿】

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炭坑労働者養成学校としては名門校であったとおもわれるが、M先輩のメールにあるように、親父は筑豊鉱山学校の本科ではなく、そこに附設された「直方石炭鉱技術員養成所」を、昭和15年9月30日に5回生として卒業したのである。「科別回期別会員数一覧表」によれば、10回生までは「直方石炭鉱現場係員養成所」と呼ばれていたとか。実に解りやすい名称である。昭和13(1938)年4月に「直方石炭鉱現場係員養成所」として附設以来、昭和21(1946)年3月に「直方石炭鉱技術員養成所」が閉鎖される9年間の間に、実に2,340人の石炭鉱技術労働者を炭坑に送り込んでいる。また、「直方石炭鉱現場係員養成所」の入学資格は「中等学校卒業者、または実地経験のある高等小学校卒業者」とある。卒業した昭和15(1940)年9月は、親父が24才の時であり、推測だが、尋常高等小学校を卒業してすぐに炭坑労働者となり、実地経験を積んだ後、23才の時遅れ馳せながら「直方石炭鉱現場係員養成所」に入所し、1年の修業期間を経て卒業したのであろう。

  

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【5回生同期116名が卒業】

いまさら死んだ親父の卒業した学校を調べても仕方がない事ではあるが、私としては若き日の親父の姿が目に浮かんでくる。草野球に親しんだのも「直方石炭鉱現場係員養成所」時代であろうか。

この筑豊鉱山学校の同窓会は「地光会(ちこうかい)」と言う。地の底にある“掘れば出て来る”光る黒ダイヤの意であろうか。今回若き日の親父の足跡が少しでも解ったのは、同窓会名簿を作成された「地光会(ちこうかい)」の幹事さんと、情報を提供して下さったM先輩のお陰である。この場を借りてお礼申し上げます。また、長い間、校名を「直方工業高校」と間違えて公開していた事をお詫びし、訂正致します。(2003年10月13日、追加)

筑豊高:ヤマの記憶、引き継ぐ 石炭資料室を計画 /福岡(2007/11/20)

http://mainichi.jp/area/fukuoka/news/20071120ddlk40100564000c.html

筑豊高:筑豊工高OB収集の鉱物など、資料室内覧会−−一般開放、来月1日 /福岡(2008/05/26)

http://mainichi.jp/area/fukuoka/news/20080526ddlk40040213000c.html

筑豊高に石炭資料室 旧筑豊工収集の70点展示 直方市 6月から毎週日曜公開(2008/05/26)

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/24811?c=210

石炭資料室開設・・・筑豊高(2008/05/28)

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/fukuoka/news/20080527-OYT8T00693.htm

親父を一言で言うならば、寡黙な人であった。決して大声をあげることなく、争いごとの嫌いな人であった。私達は4人兄弟姉妹であるが、親父に殴られた記憶は、全く、ない。しかし、私が中学の頃、荒くれ男の多い職員組合連合会会長として、よく博多に出張していた。その為に、私はラジオ製作に欠かせない「ハンダ鏝」を買って来て貰えたのである。背は低く小柄ではあったが、野球が好きで、炭坑の草野球チームでは、遊撃手をやっていた。

炭坑を退職してからは、小さな庭に草木を植えて楽しみ、二合程の焼酎で一日の疲れを癒す毎日であった。

いつ頃であっただろうか、帰省した時、親父に言った。「自分の事を書き残したらどうか」と。

そして、夏のある日、大型の封書が届いた。それが、そのまま、親父の遺稿となった。昭和63年8月25日の消印がある。今思えば、親父は、もう、癌と言う恐ろしい病気に罹っていたのである。そして、その年の11月に手術。昭和が終わり、平成元年春、親父が死んだ。

地の底での「発破(ダイナマイト)」の懸け方は得意であっただろうが、文章を書く事はあったのだろうか。今読み返してみると、句読点がない親父の文章は、何が言いたいのか、意味不明の箇所がある。これは私自身が日本軍隊の組織に精通している訳ではなく、それ故に、ひょっとすると句読点の挿入が間違っているのかもしれない。また、達筆ゆえの判別出来ない文字、中国の地名。ところどころ旧仮名遣いもある。生きてさえいれば、聞いて正確な文章に出来るであろうが・・・。読み易いように、句読点を入れ、誤字脱字を訂正し、親父の意図に近付けるために、許される範囲内で多少の改稿をし、適当なサブタイトルを付けて公開することにした。

私は親父の文章を公開することで、ことさら「反戦」を声高に叫ぶつもりはない。しかしながら、日本が戦争をしていた時代に生れた私は、親父の遺稿とは反対に、日本が戦争をしていた事実を忘れてはいけないと思う。読んで欲しいのは、私の家族、私の弟と妹、及びその家族、そして親父を知る方々である。

平成13(2001)年春、親父の13回忌を迎える。
    

 

忘れがたきふるさと 目次  

第二のふるさと 筑豊

親父の遺稿「不思議な運命」

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