外国語を学ぶとはどういうことか

(1)外国語とは


 外国語を学ぶとはどういうことかを考えるにあたり、まず、外国語とは何かを考えてみよう。

◎母語と母国語
 人間は生まれたときから徐々にことばを獲得していく。 このことが人間の本質であるという意見もある。このようにこ とばというものは、人間の本質と深い関わりを持っている。普 通、生まれた赤ん坊は一つの言語を獲得する。ごくまれに生ま れたときから複数の言語を獲得する場合もあるが、普通は一つ である。その一つの言語を母語と言う。近代国家ではその国の 共通語を覚えさせられる。それは母語ではない。母国語であ る。

◎外国語は意識的に努力して覚えるものである
 外国語、ここに「国」という文字が入っていると、話がややこしくなる。「外語」とも言うが、これは「外国語」をくずした言い方であって、概念は同じである。英語で foreign language というが、これには国を表す概念は入っていない。
 foreign の本来の意味は、“隔靴掻痒”の感じを表すものであろう。つまり、身にぴったりくっついていなくて、何かもどかしいという感じ。身にぴったりくっついているという感じがするものは、母語である。母語以外は、学習して覚えなければならない。
 つまり、「外国語」は意識的に努力し、学習して覚えるものである。文字で書かれたテキストによって、録音テープによって、テレビやビデオによって、マルチメディアのコンピュータによって、学ばなければならない。これが外国語である。

◎日本語教育は外国語教育である
 以上の考察を踏まえれば、外国語を学ぶということは、「母語以外のことばを意識的に学ぶこと」と分かる。
 日本語教育は「日本語を第一言語としない者に対して……」という定義があるから、「日本語教育は外国語教育である」ということが理解できるであろう。「外国語としての日本語」という言い方もあり、こうすればもっと分かりやすくなる。

(2)なぜ外国語を学ぶのか


 次に、外国語を学ぶにあたってのコスト(時間、努力)とメリットについて考えてみよう。

◎外国語の学習には莫大なエネルギーが要る
 外国語の学習には莫大なエネルギーを使う。この場合、エネルギーというのは、お金、時間と気力(やる気)のことである。語学校に通ったり、個人教授を受けたりすれば、大変なお金がかかる。
 独習、あるいはラジオ講座を聞くくらいなら、お金はたいしてかからない。しかし、ものになるようになるまでには、膨大な時間が要る。
 1000時間も集中して勉強すれば、まあ、ものになると言われている。この数字は、留学生のための日本語予備教育での授業時間数から割り出せる。
 1日6時間として、週5日で30時間。1年に36週授業があるとして1080時間となる。
 自動車の普通運転免許試験には30時間ぐらいで合格すると言われている。それに比べて外国語の習得には1000時間も必要とは。
 時間をお金に換算する方法は難しいが、仮に1時間1000円のアルバイトの時間を外国語習得のために使ったとすれば、 1000時間は100万円となる。お金があって時間があっても、やる気がなければだめである。やる気を維持するのは大変なことである。

◎なぜ学ぶのか
 そのようにお金と時間を使ってまでして、なぜ外国語を学ぶのか。それに見合う利益があるのか。なぜ学ばなければならないのか。学ぶことにどんな意義があるのか。
 従来よく言われていたのは、外国の進んだ文化や技術を採り入れるため、ということであった。しかし、「進んだ文化や技術を採り入れる」というのは国家レベルの問題であって、個人の問題ではない。つまり、個々人が一個人として「外国の進んだ文化や技術を採り入れてやるぞ」と思って外国語を学ぶわけではない。
 個人のレベルと言えば、商売のため、というのが当てはまると思う。「よし、外国語を学んで商売でもうけてやるぞ」「○○地域で取り引きするには、○○語を習っておかなければならない」「○○語を習っておけば、商売が有利に運べるぞ」と考えるのは個人の問題である。しかし、従来、こう考えて外国語を学ぶ人は日本には少なかったと思う。
 外国語は学校の科目に採り入れられ、入学試験などで選別のために使われている。これは外国語が体制維持のために学ばせられている例である。
 外国語をパズルか数学の問題のように考えている人もいる。ラジオ講座で日本語外国語訳の問題をすることを、あたかも数学の問題を解くかのように「次の問題を解いてみましょう」と言っている講師がいた。そう、外国語の問題を解くことを趣味と考える人もいるわけである。
 外国語は一種の暗号である。台湾では年配の人は日本語が分かるが、子どもの年代になると分からないと言う。そこで、老夫婦が子どもに知られたくないことを話すとき、日本語を使うそうである。
 「教養のため」という言い方がある。しかし、これでは捉えどころがなく、具体的にどういうことを言っているのかよく分からない。これを「世の中にはいろいろな考え方があるということを知ること」と考えたい。世の中には自国語と異なる考え方をする言語があるということを知ることは大切なことである。重要なのは「知る」ということであって、その外国語に自分の考え方を「合わせる」ということでは決してない。英文中で日本人の名前を表す場合、姓名の順を逆にするのはおかしなことである。英語の習慣に合わせる必要はない。
 以上 述べたことを次の表にまとめておこう。
外国の文化や技術を採り入れるため個人のレベルの問題ではない
商売のため個人のレベルの問題だが、こう考える人は少ない
体制維持のため学校教育で科目に採用され、入学試験などに使われること
趣 味高級なパズルとして
暗 号 
教 養世の中には自国語と異なる考え方をする言語があるということを知ること

(3)外国語学習の魅力


◎外国語学習の魅力
 外国語で自分の言いたいことを言って相手に分かってもらえた快感、つまり、外国語を使って通じ合えた喜び。これに勝るものはない。これが外国語学習の最大の魅力ではないかと思う。ところが学習中は、なかなかこういう機会がない。日本人同士で外国語会話の練習をしても「日本語で言えば分かるじゃないか」ということになって、本当のコミュニケーションにはならない。 「ことばはコミュニケーションのためにある」とか「外国語を学ぶことはコミュニケーションの方法を学ぶことである」とか言われているが、実態はなかなかそうなっていない。 外国語学習とは、与えられたものを訳すこと、括弧(  )内に何かを補充すること、という認識しかないことになってしまう。その内に、実際に役立たせられないまま時間が過ぎてしまうのである。

◎学んでから行くより、行って来てから学ぶ
 現在は海外旅行が盛んになって、外国人とコミュニケーションをする機会が以前よりも得やすくなった。それで、海外旅行から帰って来てから行った国の言語を学びたくなったという人が多い。 以前は海外旅行など考えられなかった。それでも、外国語を学ばせられた。あるいは、趣味で学んでいた人が多かった。莫大なエネルギーを使って学んだものだから、これをなんとか役立てたいと思うのが普通であろう。それで、せめてその言語の話されている国に行きたいと思ったものだ。 つまり「以前は言語を学んでからその国へ行く、現在はその国へ行って来てからその言語を学ぶ」というパターンが多くなった、ということである。
 日本語教師も「日本語教師をしていて、生徒のことばを習っておけばよかった、と思うことがある」と言う人が多い。これも、行って来てから学ぶという例である。