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我が半生の歩み(my history)(回顧)
出生地---- 1929年10月22日・東京府東京市滝野川区滝野川町1838番 (当時の呼称)
6歳~7歳の時 ----「鳩の家・幼稚園」 (園長は木内 キョウ先生) 我が国最初の 女性参議院議員 ----
小学校---- 滝野川第二尋常小学校(昭和11年4月に入学 ~ 昭和17年3月に卒業)
六年生の時、----昭和16年12月8日未明に、太平洋戦争(当時の呼称は大東亜戦争)に突入したため、修学旅行は中止になる。
校名も瀧野川第二国民学校に変更される。
中学校(当時は五年制)>----昭和17年4月 駒込学園(天台宗中学校)に入学
中学一年生----(昭和17年7月)---- 母が、入院先の療養所(千葉県市川市国府台の療養所で死去(36才)
中学二年生の時(昭和18年7月)政府の命令「学徒動員令]を受けて、二学年の一学期終了後の同年8月から、 終戦(昭和20年8月・当時・中学4年)までの2年間は、 夏休みも無く、毎日、軍需工場で、 兵器の生産に従事する。
軍需工場で得た収穫は、グラインダー、旋盤、フライス盤、溶接等の操作が出来るようになったこと。
終戦までの二年間----(地理)と(歴史)と(理科)は、 父が買ってくれた参考書で独学。(顕微鏡も父が用意してくれた。) (英語)と(国語)は父から、(数学)は兄から学ぶ。---
中学四年生の時(昭和20年8月)----敗戦----やっと二年間の工場生活から開放されて学校には戻れたが、 校舎も戦禍 を受けており、授業は行われず、毎日、学校周辺の、町の焼け跡の整理をさせられ、学校での授業は翌年の1月までお預け。
翌年3月の、中学四年修了時----に、東京物理学校(東京理科大学の前身)----<応用物理学科>を受験して合格、当時の中学は5年制だったので、学友達の卒業に合わせて、卒業証書は、翌年の三月に、中学校から送付された。
物理学校二年生の時----逗子市の現住所(当時の呼称は<三浦郡逗子町九三一番地>)に移住する。
当時の逗子町の人口はおよそ5万人
一年生の夏休み中一ヶ月間、 東京都文京区駒込のYシャツ工場で、女工さん達に混じって ミシン掛けのアルバイト。
二年生の時は----埼玉県成増の米軍施設(名称ブラッシュブラザーズPXガレージ)---軍用車修理工場でクラーク(書記)として勤務---[ 扱っていた車種は、ホート゛・ダッシ゛・クライスラー・ビュイック・ジープ・ウエポン(前方に機関銃を装着できる大型のジープ)など で
修理工具器具備品の管理事務のアルバイト。そこで働く90人のメカニック(修理工)は総べてアメリカ人)でした。
此処で得た収穫は、自動車のエンジンの他各部分の名称や構造の多くを学べたことと,
自動車、特に、ジープやウエポンの運転が出来るようになったこと。
物理学校卒業時に中学、高校の[数学][理科](物理・化学)の教員免許を取得したが、 兄の依頼で、
当時、福島県の平(タイラ)(現在名は-いわき-)で、兄が経営していた炭鉱の東京事務所での、営業の事務を2年間担当することになる。
1952年4月に、日本大学・工学部・建築学科に入学。(当時二十二才)
一学年の夏休み中は、
日本鋼管(現在の新日本製鉄K.K)でアルバイト, 此処でコークスの製造方法を知る。
, ニ学年の時は、
川崎電気k.kで、カタログにのせるための照明器具の製図のアルバイト,
三学年の時は、
丸善k.kの機械部でアルバイト。 このときに得たアルバイトの収入で、ROYALタイフ゜ライター(made in USA)を購入
----記念として、現在も大切に保持保存している。
大学卒業時に
----中学、工業高校の[技術科](当時の呼称は職業科)教員免許状を取得。
大学卒業後は----福岡市の西南学院で、三十七年間、(理科、数学科、技術科を歴任)教員生活を送る。
定年(六十二才)後は----逗子に戻り、教会の執事として、 礼拝や教会の奉仕、教会の方々との交わり、を大切にしながら、 充実した余生を送っている。
1996年(平成8年)に旧家屋を解体して、私がデザインした20㎝角の重量鉄骨造(施工は住友金属 K.K)
のマイホームを建設。
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