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 ■石川の自由民権

石川の自由民権運動は、明治8年に有志会議(後の石陽社)が結成されて、
河野広中を中心に、吉田光一、鈴木重謙らとともに活動したが、
政府の弾圧によって明治13年に政治結社の石陽社は解散している。

「日本最初の民主主義国民運動」に、私達の祖先たちが、東日本の先陣を切って加わった
ことは、郷土の誇りとして語り継ぐべきで史実である。

※詳細は石陽社顕彰会のホームページをご覧ください

●石川地方での自由民権運動の流れや、各種し資料、「わかりやすい石川の自由民権運動」、「市川地方自由民権運動年表」、「「石川地方の自由民権まっぷ」「石川街大正14年地図」などのダウンロードができます。


 平成27年度自由民権史跡めぐり資料
 平成26年度自由民権史跡めぐり資料
 記事「自由民権学習会開催」(2015/2/28)


パンフレット「石川の自由民権運動」を発刊

2014年6月、石陽社顕彰会が中学2年生の配布し、自由民権運動にかけた先人の活躍を知って継承して
もらおうとして、「石川の自由民権運動」を発刊しました。
石川地方の自由民権運動を知る入門書です。





今年の平成26年3月、念願の自由民権史跡「鈴木家門」が復元



 鈴木家は江戸時代、下泉村の庄屋及び石川の大庄屋でありました。明治時代になって、当主の鈴木荘右衛門は酒の醸造業を営み、小7区石川の副区長を務め、自宅は石川会所の事務所として使用され、石川地方の行政府でした。

 明治8年8月に有志会議、そして同11年に改称し、石陽社が結成されると、荘右衛門はその幹部として活躍しました。同15年になると石川でも演説会が盛んにおこなわれましたが、鈴木家はたびたびその会場として使用されました。

 養子重謙は岩瀬郡長沼村の生まれであるが、養父と共に自由民権運動に参加し、石川自由党の中心メンバーとして活躍しました。各地の演説会では、青年弁士として、活躍し、官吏侮辱罪で告発もされました。

 国会が開催されてからは、河野広中の政治団体石川民会の事務所でもありました。また、石川町役場も屋敷内に置かれました。

 その後、荘右衛門は第2代石川町長、重謙は県議会議員、そして、石川町長を務めました。
このように、鈴木家は江戸時代から明治時代における石川地方の政治の中心となったところであり、門や主屋は現存する貴重な史跡です。

 このようなことから、平成7年に町指定文化財となり、復元する目的で翌8年に解体しました。
しかし、復元はされずにいましたが、平成26年3月、門が復元しました。実に、18年が経過しました。

 今後、主屋が1日も早く復元されることを念願しています。




■石川の民権家たち


吉田光一

 石川町字下泉に、弘化二年(一八四五)九月一七日生まれである。神官。
 光一は小さい時から論語など漢文、算術、神学などを学び、一九歳の時、白河藩儒員檜原源助の門に入り、漢学を修める。明治七年(一八七三)には祢宜に任じられており、神官の仕事に傾注しているが、病気になり、本官と職を免ぜられている。
 この病気の時、民約論を読み、政治に志を持ったようである。(町史四二九七)
同年八月には、三春から区長として赴任してきた河野広中は、光一ら地元有志の人たちと、東北最初の政治結社「有志会議」を設立する。(町史四一八六、一八七)
有志会議が発展し、明治一一年一月に石陽社と改称する。光一は石陽社の幹部、幹事として精力的に行動する。
また、光一は石陽社の活動方針というべき、立志社の視察、交流や他の政社との交流、さらに、新聞発刊の必要性を石陽社に提言する。又、自らも、同一一年六月には内外情勢の把握、他社との契約などの目的で東京に出張する。
光一は三春の三師社や石川の第二嚶鳴社との交渉、河野の大阪、高知行きの委任状でも、石陽社を代表する形で署名しているので、河野の次ぎに社を代表していたと思われる。(町史四二一三、二〇八)
また、第三回愛国社大会の決定により、立志社員山本幸彦と共に、同一二年二五日から厳寒の奥羽遊説を行っている。須賀川を出発し、青森に着いたのは 翌年二月二日である。帰りは盛岡、角田を回り、四月八日に帰宅する。
それにつけても、遊説費用一〇〇円の捻出は容易ではなかったようであり、出発前の光一の行動を見れば、同志への金策にかけずり回る日々が続いている。(町史四二三二)
遊説に出発する前夜、石陽社員と第二嚶鳴社員、遊説に同伴する立志社の山本とで、祝宴が催され、光一は遊説の決意を和歌に詠んでいる。
 会津嶺の雪蹴散らして吾ハもよ
 吾ともかきの戦しらせん
そして、奥羽遊説の疲れも癒えないうちに、今度は愛国社東京支社の常備員として、四月五日から東京に出張する。三六歳の時であるがこの行動力には驚かされる。(町史四二四四)
同一四年一月には県会議員となる。同年一二月には自由党福島部も結成されると、光一も党務委員になり、活躍の場を広げていく。石川村でも党員五一名が記録されている。(『県史一一』一〇七、二六二)
そこに、「自由党撲滅の命を受けて」山形県令から三島通庸が福島県令に着任してくる。同一五年二月のことである。三島は会津三方道路開鑿の強行と警察署長・郡長の入れ替え人事の強行、そして、徹底した県会軽視の立場をとった。河野を議長とする県会は、遂に、同年五月、毎号議案否決を可決し、対抗した。
この時、口火を切ったのは吉田光一である。「・・議会を軽視し専恣を極むるものというべし、故に県令の出席を要す。もし県令出席し能わざる程重大なことあらば、書記官あり、必ず之に代わらんことを請う。否ならば本員は本議を開くこと欲せざるなり」と。(『福島民権家列伝』福島民報社)
更に、同年一一月、喜多方で事件が起きると、県令はこれを好機と、県内自由党の一斉逮捕を行った。光一は、一二月一〇日、石川警察署に「内乱陰謀」によって拘引され、若松に護送、更に、「国事犯」として、東京の高等法院に送られる。
東京への護送は、八人一組にして、風雪の中行われた。与えられたのは竹皮の笠とござ一枚というものであった。光一は二月七日に出発、同一二日鍛冶橋監獄に着いている。特に膝が痛く歩くのも困難となる中、ようやく、馬に乗ることが許されたという。(町史四二九六)
高等法院では、四月一二日、免訴が言い渡される。しかし、三島県令は、これを不服として、五月一九日官吏侮辱罪の拘引状を発し、白河で逮捕の待ち伏せをする。これを知った光一は自宅に戻らず、二年近く逃亡生活をするが、同一七年(一八八四)一二月一三日、自宅に戻ったところ、石川警察署に拘引され、再び、福島監獄につながれてしまう。
逃亡中の様子は、明治一七年九月の須賀川及び若松警察署の景況上申書で「過般河野広躰は出京の途中川辺村において吉田光一と秘密の契約を為したり模様あり」、「光一は目下西白河郡白河町字天神町多治比廣方に潜伏の由に付松本警部へ探索方依頼致置たり」そして、「吉田光一は藤川耕蔵と変名致候由なり」と報告されている。
意外と近いところに潜伏していて、同志との連絡もとっていたようである。又、警察も常に動向を察知していたことが分かる。(『栃木県史資料編四』六一一)
同一八年二月一一日、保釈金一〇円を納め、保釈が認められる。しかし、一二月三日官吏侮辱罪が確定し、軽禁固三ヶ月と罰金五円が課せられ、再び、監獄に入ることとなる。出獄は翌年三月三日である。そして、一〇月一日、県会議員に再度、選ばれる。(町史四二九四)
一方、二〇年六月、石川郡蚕糸業組合組長に選出、同年五月に石川郡勧業会々員に当選、さらに、郡産馬組合組長、県官有地を払下げ請願協議会長など務め、地域の産業振興に力を注いでいる。
しかし、吉田が最も力を注いだのは、教育である。同二二年六月に石川村長になると、二五年(一八九二)六月に石川地方の青年教育を目指して、石川義塾を創立し、自ら塾主となる。
設立にあたって、吉田は、わらじ履きで郡内を歩き有志三七人から六百三三円六〇銭を集めている。当時の六百円は大変な大金である。(町史六)
 同二五年三月にも四度目の県議会議員となる。しかし、一〇月に辞職している。
そして、二年後の二七年(一八九四)、町政施行された初代の石川町長に就任する。活躍がこれからという時、町長就任、わずか一年の一〇月一七日、五一歳で死去する。
 光一は、石川町は勿論、石川郡の行政、産業、教育文化において、その発展に、生涯を捧げ、本町の基礎を築いた人物である。
鈴木荘右衛門
鈴木家は、代々石川の大庄屋を努める大地主であり、江戸時代に苗字帯刀を許された郷士である。荘右衛門は天保一三年(一八四二)に生まれ、二五代目であり、酒造、味噌醤油の醸造を営んでいた。
明治七年二月、荘右衛門は、西牧周吉等と磐前県令村上光雄に、養育費、出産費の援助、産業の振興、教育養成人材確保などを求める意見を具申し、地域のリーダーとしての行動を示している。(近代T五七)
 磐前県時代、小七区石川の副区長の役職を担っている。福島県になってからも、副区長職を担っていたようである。
 又、明治一二年二月四日、石川郡役所が開庁するまで、荘右衛門宅は第二一区石川会所の事務所として使用し、石川地方の行政府であった。(近代T一二一)郡役所ができると、荘右右衛は添田一二等と書記として、石川地方の行政事務を担当する。(近代T一〇五)
 一方、荘右衛門は明治一一年、今までの有志会議から石陽社が結成されると、吉田光一、鈴木嘉平らと石陽社幹部として活躍する。
 石陽社結成から間もない、明治一一年五月に、社の活動を盛んにするために、吉田光一を東京に派遣し、石陽社の総代として活動できるように、溝井幸七らと社を代表して署名している。また、同年一〇月二一日に、石陽社のその後の活動で、基本となる意見書及び同月二二日に新聞発行の提言書が石陽社宛に提出されるが、代表は荘右衛門ほか河野広中など六名である。(近代1一九六、二〇九,二一〇)
 このほか、河野が高知の立志社訪問、大阪の愛国社大会への出張中、その状況を知らせるの手紙が吉田家に多数残されているが、何れも、吉田光一、鈴木荘右衛門、吉田正雄、鈴木嘉平宛になっているものが多く、荘右衛門は石陽社を支える幹部の一人であった。
 明治一二年(一八七九)一二月二四日、吉田光一が奥羽遊説に出立する前日、荘右衛門は添田、吉田ら石陽社員、第二嚶鳴社員とともに激励会を開いている。(近代1二三二)
 しかし、明治一三年に石陽社が解社し、自由党結成に発展するが、荘右衛門の活動の姿が見えてこない。代わって、養子である重謙が、演説会などで大活躍し、福島・喜多方事件では拘引逮捕されている。
 演説会では荘右衛門長屋でたびたび開催されており、会場の提供をしているが、活動の表舞台は重謙に任せ、裏で支えたのでないかと思われる。
 明治二六年(一八九三)、石川村長吉田光一を支える助役に就任し、同二八年吉田光一が病気で亡くなると、その跡を継いで、石川町長になる。残任期間と更に一期努めている。(『町史上巻』)



●鈴木重謙
 安政五年(一八五八)、長沼町の豪農矢部家に生まれ、石川の大庄屋鈴木荘右衛門の養子となる。
 石川では東北最初の政治結社有志会議(後に石陽社に発展)が設立され、国会の開設に向けた運動が盛んに行われていた。
 重謙は自由党が結成されると、石川郡自由党の中心メンバーとして活躍する。
重謙が現在残されている資料に登場するのは、明治一五年に入ってからである。三月一四日夜、諸岡直蔵宅で自由演説会が開かれ、重謙も河野の後を受けて、演題に立ち、「殺気を振起する論」という演題で講演している。石川警察署の巡査が臨検のため会場に入ってくるのを見ると、「烏のような黒い服を着て、黄色な筋を付けた巡査さんはこの席に,いりやしません」といったので、官吏侮辱罪で石川警察署に拘引され、白河軽罪裁判所に告発された。裁判所は四月八日、「証拠なし」として免訴にしている。この時、重謙は二三歳であった。(『県史一一』二三八)
重謙は、これにひるむことなく、盛んに行われる石川の演説会で頻繁に弁士として、雄弁をふるっている。
「酒は呑むべし、魚は喰ふ可し」などの演題で、四月二日と一二日、二〇日、五月八日に、弁士で登場している。
 明治一五年の石川警察署からの石川郡内民権党の概況では、石川郡自由党員として吉田光一や笠原忠節等と共に、重謙が報告されている。若手の活動家として、警察からもマークされていたようである。
 同年一一月に、福島・喜多方事件が起きると、一二月二八日石川警察署に拘引され、翌一月、会津若松に護送された。石川警察署長が、三島県令にあてた上申書によると、「兼ねて自由主義を主張し、暗に結合をなし、今般の事件に付ては、河野広中、その他の者と通牒し、専ら該件に尽力せしものと思料に付、昨二八日拘引状を発し、鈴木重謙は即日拘引・・」と述べている。(『県史一一』六三三)
 しかし、福島軽罪裁判所若松支庁は二月五日、「証憑重文ならざると以て、免訴とする」と判決した。
 同志への支援も行っている。会津若松では無罪放免後、吉田光一に衣服及び金員を差し入れたり、仮出所の保釈金六円に一円を工面している。(近代T二八八)
 その後も、ひるむことなく活動展開している。明治一七年(一八八四)九月一九日の須賀川警察署長の景況上申書によると、「石川村鈴木重謙、西牧金蔵の両人も過般出京の所当今何れも帰村せり」、そして、「重謙や西牧金蔵、川辺村吉田正雄等は死を覚悟した事を企てている。そのため不動産等の抵当入れで募集金を工面している」と報告されている。
そして、同年九月加波山事件が起きると、関係した容疑で、同月二九日須賀川警察署に引致され、取り調べを受けている。(『栃木県史資料編近現代』六一)
 その一方で、重謙は石川村の戸長、議長、そして、明治一九年一〇月二七日から西牧周吉の後を継いで、石川村外4ヶ村戸長(赤羽村、新屋敷村、沢井村、双里村)になって、各村と郡役所の中間、戸長役場の長として、活動する。
 また、同二〇年三月五日石川郡議事堂建設にあたって、石川郡連合村会議員三名と石川村外四ヶ村戸長鈴木重謙が定約書を締結している。これは、石川郡議事堂を字大室五〇一番に建設するが、その費用の内二〇〇円を石川村戸長役場で寄付すること、応分の人足も寄付すること、屋根の葺き替えも行うこととなっている。ただし、二階及び議員控所を除いて、石川村戸長役場事務所に無賃貸している。
 議事堂は明治二二年(一八八九)一月頃に、完成したようである。(近代T一四一)
 同二三年三月には県会議員に当選し、二期勤め、二五年五月に辞職する。
 同二三年第一回衆議院議員選挙が行われるが、重謙は候補者選定にも深く関わり、石川郡の中心となって動いていた。また、二五年に石川民会が結成されると、事務所を下泉一六三番地の自宅に置き、石川地方の民党(野党)運動の中心となって活動した。
 同二七年(一八九四)石川村は町制を敷いたが、翌年に一〇月、役場を大室四九番地から鈴木屋敷の一角、下泉一六五番地に移転する。(町史下)
 同三九年(一九〇六)九月、四八歳の時、かっての自由民権運動で、行動を共した前町長添田一二を破って、石川町長に当選する。町長時代には、特に青少年教育に力を注いでいる。私立石川中学校や石川実科高等女学校の設立に奔走した。
 同四〇年、石川義塾塾主松浦勇弥並びに塾長森義種、石川町長鈴木重謙から文部大臣に私立石川中学校設立願が提出され、四月一一日認可された。義塾生の編入試験で合格した二五〇人が入学、県立では例のない一年から五年までの七学級が一度に誕生した。(学法石川高校百年史)
 二〇歳代から自由党員として憲法制定や国会開設のため、政府と真っ向から対決しながら、弾圧にも屈せず、地方行政に尽力した鈴木重謙であったが、昭和四年、七二歳で亡くなる。



●鈴木嘉平
 石川町字新町六〇番地、嘉永五年生まれ、高田村の庄屋。父は慎之助。
明治七年(一八七四)には小七区下泉の用掛を努めている。
嘉平は、同年四月二六日の高田町村と外槙村の開墾を巡る争いの協議書には戸長として署名している。(近代T五九)
同年九月には、常葉から石川会所の区長として、河野広中が赴任してくる。戸長であった嘉平と上司の区長河野との関係がこの時からつくられていったと思われる。
同八年三月一〇日、新町に開設した石川郵便局の初代局長に就任している。(町史下巻)
同八年八月、区長の河野を中心として、国民会の基礎と立たせるために有志会議が設立される。同一一年一月に石陽社に改称されるが、嘉平は吉田光一と共に幹事となって活躍する。河野を高知の立志社へ派遣することを決めた内会議決定書には、吉田正雄、吉田光一、酒井成師、鈴木嘉平の4人が署名しているし、同年五月、吉田光一の東京出張時の委任状も鈴木嘉平が署名している。
また、石陽社の活動に大きな影響を与えた同年一〇月二一日の石陽社幹部からの石陽社
への意見書には、河野広中をはじめ社員六名が署名しているが、嘉平はその先頭に署名している。さらに、同一二年八月、河野が高知の立志社と大阪の愛国社の交渉に当たって、石陽社の委任状を発しているが、嘉平は石陽社社員総代として署名している。
さらに、河野広中が石陽社社長を辞してから、一時社長を務めているように、石陽社の
中心幹部であった。
しかし、第二嚶鳴社の設立で、石陽社から第二嚶鳴社に加盟する者等もあり、石陽社の
衰退を止められなかったようである。(『県史一一』二六三)
同一二年四月七日、石陽社と第二嚶鳴社との盟約の締結では、石陽社側が委員鈴木嘉平
と吉田光一で締結している。(近代1二一三)
このように活躍した嘉平も、石陽社の解社と共に、活躍の舞台から姿が見られなくなる。
その後、自由党の結成によって、自由党福島部石川組が結成され、政談演説会なども盛
んに行われるが、嘉平が活動したことを示す資料は見つかっていない。



●添田治兵衛
添田家は、石川町字南町にあり、資産家であった。治兵衛は文政五年(一八二二)生まれで、明治元年には四六歳になっており、明治政府の元で、伍長や用掛、戸長など官職を歴任している。
 明治六年(一八七三)二月に内槙村伍長、明治七年二月に高田町・内槙村戸長、そして、用掛、さらには、明治九年一二月二八日に福島県第二一区石川村用掛(「辞令書」添田家蔵)、同一〇年六月に中野村・塩沢村用掛になっている。(町史下)
 当然、明治七年八月二七日に、河野広中が石川会所区長に赴任してきているので、治兵衛との交流もここから始まったと思われる。
 治兵衛は、明治八年設立の有志会議に参加したかどうかは、不明であるが、明治一一年有志会議が石陽社に改称した時には、当初からの社員として、河野、赤坂、鈴木、長島の次ぎに養子一二とともに名を連ねている。
 しかし,同年五月に、第二嚶鳴社が学区取締門間尚経を中心に設立されると、治兵衛は石陽社から第二嚶鳴社に移ったようである。明治一三年三月一〇日の白河警察署から本庁警保課宛の探索報告では、治兵衛は門間、村社、添田(周)と共には第二嚶鳴社の幹部になっている。(『県史一一』三)
 また、石陽社から第二嚶鳴社に志を傾け、入社する者が多くなり、両社間でトラブルが起きていたようであり、明治一二年に結ばれた石陽社と第二嚶鳴社の仮盟約でも、脱退加盟をする場合は承認を得ることが明記されている。治兵衛もその一人であったと思われる。(町史四二一三、二六三)
 明治一五年一二月、東京嚶鳴社長の沼間守一が東北遊説で、棚倉遊説にきた時、沼間が直接、治兵衛に参加するように要請していることからも、石川地方における治兵衛の重要な立場がよく示されている。この時、治兵衛は、石川郡連合会議長であり、議会開会中のため、参加はできなかったようである。
 一五年、石川地方で演説会が盛んに行われるようになると、治兵衛は五六歳であったが、青年弁士と共に、熱弁をふるっている。
 四月七日の母畑村、渡辺忠兵衛宅では「演説の旨意」、五月一日、石川村鈴木荘右衛門長屋では「代議士選挙法を論す」と題して、聴衆に訴えている。(『県史一一』二五一)
 その後、治兵衛は石川村や石川郡連合会の議員、議長として地方政治の進展に活躍した。
 「明治一五年一一月一七日の石川連合会議員連絡記」では、連合会議員三六名の議長であった。その後も、明治一七年八月八日に石川村々議員に、同年一〇月には石川村外4ヶ村連合議員に、同一八年(一八八五)一月七日には石川郡連合会議員に、さらに、二〇年には再度石川村々議員に当選している。
同一九年には石川郡役所から繭・生糸・煙草共進会の世話係も命じられている。(町史五三五一)
 また、同二〇年の須賀川警察署石川分署新築や石川郡連合会議事堂新築には、世話係として、奔走している。二〇年には石川郡勧業会々員に当選している。 このように、地域の振興に尽力した治兵衛であるが、明治二六年七一歳で亡くなった。



●添田一二
  一二は嘉永五年(一八五二)に、石城郡窪田村に生まれ、石川村字南町の添田治兵衛の養子となる。
 一二は明治一一年(一八七二)1月、石川に設立された政治結社有志会議が石陽社と改称し、石陽社盟約を結んだ時、養父治兵衛とともに社員となっている。歳二六歳である。この社員名簿は入社毎に、書き加えられたが、一二は当初からの社員であると思われる。
 明治一一年七月一〇日の石陽社幹部の吉田正雄からの書状宛先に、酒井成師、吉田光一、鈴木嘉平、西牧周吉、溝井幸七と共に、添田一二宛になっている。当時の石陽社にとっての大きな課題であった福島新聞社引請に関する書状であり、大事な相談相手の一人であったと思われる。(町史四一九八)
 明治一二年二月、今までの石川会所が石川郡役所に替わると、石陽社員である鈴木荘右衛門、木戸郡一郎ら共に書記として、採用される。しかし、理由は不明であるが、一二月には郡書記を辞職する。(町史四二三三)
その後の活動は不明であるが、明治二〇年(一八八七)一二月九日の地押検査随行日誌によれば、一二は郡書記として、随行しているので、再び、郡書記に採用されている。(町史四一四五)
 一二が力を発揮するのは、明治後半になってからである。明治三四年(一九〇一)九月から大正一〇年(一九二一)九月まで石川町長を四期、一六年間努める。この間、中間に一期だけ、昔の同志鈴木重謙に譲るが、再び返り咲き、長期に亘って、石川の発展に寄与する。
 特に、昭和九年(一九二七)開通の水郡線建設に尽力する。 又、明治四四年一〇月一日の石川町への電話開通では、これに尽力、率先設置した町民を表彰する諮問案を議会に提出するなど、その奨励に努めた。(町史六)町への電灯の点火も、添田町長の時に行われている。
このように石川町の基礎となる電気及び電話の開通、水郡線開通などの事業に尽力している。
 昭和一三年九月、八六歳の生涯を閉じる。


●西牧周吉
天保三年(一八三二)北町に生まれる。
周吉は、明治元年には三六歳になっており、高田村の代表として、活動していた。明治七年(一八七四)二月、周吉は高田村の代表として、鈴木嘉平、下泉村代表の鈴木庄右衛門とともに、磐前県言令村上光雄に養育費、集散費の援助、産業の振興、教員養成人材確保など建言しているし、同年4月、高田町村と外槙村の開墾騒動の示談協議書にも総代として、署名していることから、高田村を代表する一人であった。(町史四五七、五九)
 明治八年(一八七五)八月、周吉は石川に区長河野広中を中心として、吉田光一らと共に、国会開設の基礎をつくるため、東北最初の結社、有志会議(後に石陽社と改称)を結成する。
 有志会議には、議長、幹事長、幹事、書記の役員が置かれたが、周吉は議長河野広中の下で、書記として活躍する。(町史四一九〇)
 明治一一年、有志会議から石陽社に改称した時の有志会議書類目録を見ると、約束書一冊、日証一冊、連署糞書一冊、議案綴一冊、仮日誌九冊、傍聴人名簿一冊、抽籤番号簿五冊、出納表三枚、投言書四枚と、整然とした書類の整備には驚かされ、書記周吉の活動の跡が見える。
 石陽社に改称してからは社員であったが、役員にはならなかったようである。周吉は、区会所が廃止され、郡役所が置かれると、明治一二年(一八七九)に石川村の戸長になっている。そして、明治一六年四月からは引き続き石川村外四ヶ村戸長に就任し、同一九年一〇月まで努めている。(町史下)
 明治二二年六月、吉田光一が石川村長に当選し、県への許可進達は石川村々会議長西牧周吉が行っていることから、周吉は村長吉田光一の時代、村会議長として活躍している。
 さらに、明治二二年五月、石川郵便局長に就任する。このように周吉は長期間、石川村の政治の中心にあり、激動の時代、石川村の舵取りを担ってきている。(石川町史下巻)
 第一回衆議院選挙が行われ、国会が開設された明治二三年(一八九〇)一二月、五八歳の生涯を閉じた。




●溝井周之助
 周之助は天保一一年(一八四〇)、字下泉の商家に生まれた。
周之助は石陽社の社員であり、吉田光一や鈴木重謙らと民権運動に加わっていた。
明治一五年(一八八二)一一月、福島・喜多方事件が起きると、周之助は一二月二八日、石川警察署に拘引された。拘引理由を「兼ねて自由主義を主張し、暗に結合をなし、今般の若松事件に付いては河野広中その他の者と通牒し専ら該件に尽力せしものと思料」と述べている。
 そして、数日後の翌年1月13日には、鈴木重謙、関根常吉と共に、若松警察署に送致される。(『県史一一』六三三、七六七)
 若松警察署の取り調べでは国事犯にあたる罪科は何もあがらなかったが、一月二一日には鈴木重謙らと検事局に送致されてしまう。検事の取り調べでも国事犯の罪状は出てこないので、二月一日免訴釈放されることになった。
  明治一七年に吉田光一が官吏侮辱罪で再逮捕され、福島の監獄につながれている時、仮釈放の保釈金の工面で、周之助は五〇銭を出し、同志吉田の救済に動いている。(町史四二八八)
 明治三〇年(一八九七)二月二三日、五七歳で死亡する



●笠原忠節
 忠節は、安政二年(一八五五)生まれで、石川村荒町で医者を開業している。
明治一一年(一八七八)一月に、石川の政治結社有志会議を石陽社に改称した時には、忠節はまだ、社員名簿に名前は載っていない。
 忠節の活動の痕跡が見られるのは、吉田光一が明治一二年一二月から国会開設のため奥羽遊説を行い、同一三年三月三日自宅に帰ってきた時、四日後の同月七日に猫啼温泉に一泊し、慰労会を行っている。この時、駆けつけているのが忠節と双里の丹内早人である。三人で泊まり、次の日も酒を飲んでいる。よほど親しい間柄であったと思われる。(町史四二四四)
 そして、石陽社は同一三年一一月には解社するが、翌年の一〇月になると、中央の自由党結成前に、この地方にはすでに、自由党会議が開催されており、忠節は自由党会議の役員になっている。
一〇月七日に開催された自由党会議の結果を、吉田正雄から報告を受け、忠節は国会開設同盟者の募集を一一月一〇日まで継続するので、吉田光一及び丹内早人と共に、旧六・七区の村の募集を行うように連絡を受けている。(町史四二五四)
明治一四年八月、河野らは仙台で、東北六県の自由党代表者を集めて「東北七州自由党」を結成した。この時、忠節は福島県を代表して出席し、決定事項に委員として署名している。(『県史一一』八七)
翌一五年になると、石川地方でも盛んに演説会が開催されるが、忠節は、多くの場所で演壇に立ち、雄弁家として名を馳せていたようである。高橋哲夫氏は「福島民権家列伝」の中で、次のように述べている。
「五月八日の晩、石川村鈴木荘右衛門宅二号長屋において、熱弁をふるっていると、その内容が『国家安泰に妨害ありと』と途中で中止を命ぜられてしまった。この日の笠原の演説は『国家君民成立の原因』というものであった。(中略)
その論は、『人智の開けない時代に人民は租税を君主に捧げ、兵役という血税を負担し、身体も財産も君主にゆだねて、その生命すら独り君主によって左右されていた。(中略)
しかし、これでは一国は国王の専有物で、国王は人民の生殺与奪の権を持ち、国王のために人民が存在しているようなものだ。しかし、人智が開かれた今日にあっては、一国は国王の専有物ではなく、人民の所有物であるから、君主といえども、みだりに人民の所有物たる国土を左右することはできない。君主があって、人民があるのでなく、人民があって、君主ありといわなければならない。』と堂々たる論陣であった。(中略)
この日の笠原の演説は、今日の社会にもそのまま通用する内容で、八五年も前、東北の寒村石川でこのような演説が行われていたこことに驚きを覚えた」と。
 この頃の県令三島への報告書、「石川郡内民権党の概況」には、石川郡自由党として吉田光一.鈴木重謙ら一六名が報告されているが、その中に笠原の名前があり、自由党の党員として活動していた。
 同一五年一一月、福島・喜多方事件が起きると、忠節は一二月一〇日、事件に関与した罪で、石川警察署に拘引される。そして、一五日には若松軽罪裁判所に護送される。(『県史一一』六一九)
国事犯という大罪で取り調べられるが、翌年一月一九日笠原ら四名は、若松で免訴釈放となる。
 釈放の後は、石川に戻り、医者を続けているが、自由党員として活動していたようである。(町史四三三三)
明治一七年(一八八四)五月の改正自由党員名簿には、県内党員二〇名の中で、石川郡から六名、石川村から笠原と西牧金蔵の二名が登録されている。(『志士苅宿仲衛の生涯』阿武隈史談会)
 医者と自由党員として活躍した忠節であったが、昭和二年(一九二七)、七二歳で亡くなる。



●溝井幸七
 幸七は嘉永三年(一八五〇)に下泉二七番地(馬場町)に生まれた。
明治一一年(一八七八)一月に、石川の政治結社有志会議が改称し、石陽社となったが、幸七はその社員となり、河野広中や吉田光一らと共に活動する。
同年五月、石陽社が吉田光一を東京へ派遣する時の委任状に、幸七は鈴木嘉平、鈴木荘右衛門、酒井成師とともに、その先頭に署名している。
 又、同年七月一〇日付けの吉田正雄からの書状、吉田光一及び幸七外五名の宛になっている。石陽社が福島新聞の引き請けの相談というものであり、石陽社にとって大変重要な課題であったことから、幸七は石陽社の幹部として活躍していたことが分かる。(町史四一三七)
 しかし、石陽社が解社し、自由党が組織され、演説会など活発になるが、幸七の動きを示す資料は発見されていない。
 吉田光一が明治一七年(一八八四)官吏侮辱罪で再逮捕、福島監獄につがれ、仮釈放の保釈金工面の時は、幸七は一円を寄付し、同志吉田の救済に力を貸している。
 その後は、石川村々会議員、石川村郡連合村会議員などを努めている。同二〇年三月五日、字大室に建設された郡議事堂の石川村外四ヶ村戸長役場と石川郡の定約書では、郡連合村会議員として署名している。(町史四一四一)
更に、養蚕も営んでいたようで、明治二一年四月には、吉田朝吉や添田周次郎らと石川郡蚕糸組合の議員を努め、明治一九年度決算調査員にも選ばれている。(町史四三七七)
 大正六年一月一二日、六七歳で死亡する。、



●小豆畑健吉
 健吉は天保一〇年(一八三九)、石川下泉村に生まれる。明治一二年(一八七九)一月に今までの区制の石川会所が廃止されて、石川郡役所・戸長役場が設置されると、用掛に小豆畑健吉らが任命される。(町史下)
 明治一一年一月に、有志会議から石陽社に改称した時、健吉は社員として加入している。
 同年二月一二日に行われた石川村議員選挙では、選挙事務を担当しており、村の用掛の職を努めている。
 同一五年一一月に起こった、福島・喜多方事件では、健吉は用掛兼学務委員であり、先に拘引された吉田光一の家宅捜索の立ち会いをさせられている。(町史四二九六)しかし、同志の取り調べから、連座させられ、石川警察署に拘引、会津若松に送致されている。
 この時の石川警察署の訊問調書によれば、拘引されたのは、明治一六年一月一七日であり、「かねてから、河野広中、吉田光一、川口元海、吉田正雄らと通信往来し、暗に自由党を結合し、且つ平素の挙動を見るに」今般の耶麻郡暴動事件に関係しているという理由である。
 さらに、「兼ねて石川郡内において同盟したる愛隣醵金法等に頗る尽力したるもって、見れば、必ず該事件に関与ものと思料」と石川警察署長の意見が付されて、本人否認のまま、一月二七日に送致されている。
 健吉は、石川で自由党同志の救済を目的に設立した愛隣醵金法の発起人となり、中心人物として活動していた。演説会の弁士のように華々しくはないが同志の救済という組織の結成を行い、活動を下から支えていたと思われる。(町史四二七七)
 同年二月中に、若松軽罪裁判所で、無罪放免になったようである。(『福島民権家列伝』福島民報社))
明治二〇年代に石川村会議員や学務委員を務めている。さらに、鈴木荘右衛門町長の時、収入役を務め、地域の発展に貢献する。



●吉田朝吉
 朝吉は安政四年(一八五七)、字下泉一三五番地(古町)に生まれる。朝吉の活動状況を示す資料や石陽社員、自由党員である資料は発見されていない。
しかし、石川で演説会が盛んに行われた明治一五年(一八八二)には、自宅を演説会場に提供したり、福島・喜多方事件で吉田光一が逮捕された時には、物心両面から献身的に支援を行い支えている。
同一五年八月七日、午後八時三〇分から朝吉の自宅で、政談演説会が開催された。先ず、外部弁士愛知県の杉山重義が「増減論」演じて終わり、つぎに、二本松の平島松尾が演壇に立ち、「是れ誰の過ぞや」の演題で演説を始めると、臨官の警察官から途中で「公衆の安寧に妨害あり」と認定され、九時一〇分頃弁士中止、解散が命じた。その夜の聴衆はおよそ二〇〇名だったという。(『県史11』三〇一)
この演説会以降、石川での演説会が開催された資料が見つかっていないことから、警察の弾圧が厳しさを増し、なかなか開催できなかったと思われる。又、弁士も以前のように地元弁士ではなく、2人とも外部の弁士であり、朝吉宅での演説会も、相当厳しい環境の中で、開催したと思われる。
明治一五年一一月に発生した福島・喜多方事件に関与したとして、一二月一〇日、吉田光一が逮捕され、石川警察署に拘引された時、同月一三日に光一の家族と共に朝吉が、面会に行っている。この時、厳寒期で光一の健康を気遣い、衣服や蒲団などを差し入れている。
又、光一が、明治一七年(一八八四)一二月一三日、官吏侮辱罪で、再び逮捕され、福島に送致されるが、その時、朝吉は光一の保釈金の工面に奔走する。残されている朝吉の手紙によれば、保釈金六〇円の工面を光一から頼まれ、多くの同志から寄付をもらい、やっと工面したようである。朝吉も一円を出している。そして、晴れて出所する同二〇年三月三日には、浅川の浅川家利と朝吉が、衣服を持って迎えにいっている。(町史4二八八、二九六)
その後、朝吉は、養蚕業を営み、川辺の添田周次郎や小豆畑健吉と共に石川郡蚕糸組合の議員を努め、地域産業振興にも尽力している。一方、国会開設後も石川地方民党の活動に力を注いでいる。明治二五年一一月八日、南町の吉見屋で開催された石川民党組合会に溝井伊右衛門、鈴木重謙らと共に出席している。(町史五二三)
昭和一一年(一九三六)二月一七日、七八歳の生涯を閉じる。



●金内伊助
 伊助は文久三年(一八六三)、新町四三番地に生まれる。住所は荒町一六三番地であり、家は酒造業を営んでいたらしい。
伊助は、石川で盛んに演説会が行われた明治一五年(一八八二)頃、一八歳の青年で、政治に強い関心を持っていたようである。
 同年七月二八日、南町の近内ハナ宅で開催された政談演説会の帰り道、巡回していた巡査によって、その言語が官吏侮辱罪にあたるとして、白河軽罪裁判所に告発される。
 その晩の演説会は、母畑村の関根常吉の演説内容がけしからんと言うことで、中止解散が命じられた。これに不満をもった聴衆は口々の巡査を罵り、しぶしぶ参会したのである。
伊助等数人が荒町諸岡健作宅前に集まり、演説会解散の憤慨して、口々に不満を述べあっていたという。町内視察中の巡査を目前にして、「言語で巡査の職務を侮辱」したというのである。
 石川警察署の調書によると「石川村金内伊助は、今日社会に不適合なる巡査などは、見るのも嫌だといひたり、実に言語をもって巡査の職務に対し侮辱したる者にして・・」と。
 警察官の悪口を言ったとして、白河軽裁判所は重禁固2ヶ月に、罰金7円に処したのである。伊助の事件は大変な時代であったことが分かる顕著な事例である。(『県史一一』二九九)



●近内勝蔵・ハナ
 勝蔵とハナは石川村字南町八六番地に居住している。ハナは勝蔵の母である。
国会開設が具体的になり、明治一五年になると、石川でも自由演説会が盛んに行われるようになると、勝蔵親子はその会場を提供している。 それも一度ではなく、四月二日、七月二八日、七月二九日 と度々提供している。四月二日は午後八時から開会し、弁士は地元の笠原忠節、鈴木重謙、関根常吉、川口元海、河野広体、須賀川の鈴木卯南である。
七月二八日と二九日には臨官の警察官より弁士中止解散を命ぜられている。二八日は午後九時開会、弁士は四人、地元関根常吉の演説で中止解散が命じられる。また、二九日には南町八六番地で勝蔵宅とハナ宅の二ヶ所で開催している。この時も関根常吉の演説で、中止解散が命じられている。そして、関根外五名が石川警察署に拘引されている。(『県史一一』二九九)
 石陽社員や自由党員であったたような資料は発見されていないが、当時演説会は、警察に事前に届け出が必要であり、演説会当日は警察官が立ち会い、度々、弁士中止、解散が命じられて、禁固や罰金が科せられるという警察と対峙するものであった。そのような演説会に三回も四回も、会場を提供したことは、自由民権運動や国会開設に対して、よほどの信念と覚悟があったものと思われる。



●西牧金蔵
 嘉永六年(一八五三)双里村に生まれ、水野久右衛門の長男である。石川村新町の西牧家の養子となり、西牧金蔵となる。
明治一五年(一八八二)に発生した福島・喜多方事件以前は、活動を示す資料等は発見されていない。
 しかし、福島・喜多方事件で多くの自由党員や民権家は、逮捕され、一時沈黙したかのように見えたが、二年後の同一七年頃になると、石川郡自由党員の活動が再燃する。
 この頃、金蔵は非常に活発に活動している。当然、警察もその動きを頻繁に探索し、景況報告を行っている。
 同年五月の自由党員名簿に登録されているのは、石川郡から六名で、石川村から笠原忠節と金蔵の二名のみである。(『志士苅宿仲衛の生涯』阿武隈史談会)
 同年九月頃の金蔵の動きは、警察署の探索によって、詳しく調べられている。金蔵は上京したり、自宅において党員の会合を開いたりしている。
 上京中は、蠣穀町二丁目泉屋に宿泊して、本部の秘密会に出席していたと思われると、警察の景況報告が述べている。理由は帰郷してから、東西に奔走もせず、他人と交渉もせず、大いに謀るところの挙動があるためだという。
 更に、探偵上申書は、「石川郡において石川村西牧金蔵・鈴木重謙、川辺村吉田正雄等は死を決して事を謀らんと不動産或抵当或書入れとなし募集金に尽力するの様子なり」と報告している。重大な決意を持って、何かをしようとしていたようである。金蔵はその一人であった。(『栃木県史資料編四』六一)
 この頃、福島県と栃木県の青年による、爆弾を使う蜂起が進められており、警察も必死の探索を続けていたことがわかる。そして、遂に九月二三日、茨城県加波山で福島、茨城、栃木の青年によって蜂起が起きるが、全員逮捕される。
この加波山事件に関連して、金蔵は須賀川警察署に引致取調べを受けている。金蔵は同月二九日に引致されている。(『栃木県史資料編四』六一)
明治二〇年頃、家督を長男伝吉に相続し、水野家に復縁する。明治三九年死亡する。



●須藤甚之助
 安政二年(一八五五)、白河町愛宕町生まれで、鍛冶職である。明治一五年(一八八二)石川村の親戚柳沼新作方に寄留していたが、同年七月二九日、石川村南町近内ハナ宅において開かれた自由演説会を傍聴し、第一席は愛媛県人杉山重義、第二席母畑村関根常吉の時、関根の演説が集会条例に違反したとして、解散をさせられた。そのとき、聴衆は不満でヤジを飛ばしたという。甚之助が発した悪口、「近頃きたやつらにして、壱弐円とかの警部、大いに威張りやがる」という言葉が、警察官を公然官吏侮辱せしものとして、石川警察署に拘引、白河軽裁判所に告発された。取り調べでは最後まで否認したままであったが、判決は重禁固3月、罰金10円に処された。
 甚之助は、その後石川に住み着き、明治一七年に、柳沼新作の娘と結婚して、石川で鍛冶屋を開業している。(『福島民権家列伝』福島民報社)



●関根常吉
 常吉は、慶応二年(一八六六)石川町大字母畑字竹ノ内一六番地関根茂八の子として、生まれる。
 常吉は医師をめざして、石川の医師であり、自由党員でもあった川口元海の元に弟子入りする。更に、青年校からも書籍の借用をし、勉強しながら、吉田正雄や吉田光一、笠原忠節らと積極的にかかわり、医学や国の政治、外国の政治情勢などを勉強し、民権運動に傾注していった。(『福島民権家列伝』福島民報社)
 また、関根家は石川町字下泉の鈴木荘右衛門家と縁戚関係にあることも、大きく影響してとも考えられる。
 石川地方で、最も盛んに演説会が行われた明治一五年には、弱冠一七歳ながら青年弁士や主催者として大活躍する。
 四月八日、母畑村樋口、渡辺忠兵衛宅では弁士として、「自由な進取させる可らさる説」「討論自由に任せて害賦」の二本。
 四月一八日、高田の長泉寺では、主催者となるが聴衆集まらず、没会となる。
 五月一日、荒町の鈴木荘右衛門第二号長屋では、主催者、弁士として登壇、題は「立者の説」である。
 五月八日、荒町の鈴木荘右衛門第二号長屋では、「口あれとも、言うこと能はさる者何ぞ」。
 七月二八日、南町近内勝蔵宅では、「誤認する勿れ」。
 五月、六月になると演説会の回数も多く開かれ、七月、八月頃になると次第に、警察との対立も激しくなって、常吉も、七月二九日、南町の近内勝蔵宅での演説会で、演説中、中止を命ぜられ、集会条例違反で逮捕される。八月二六日、未成年のため一等を減じて罰金一〇円に処される。(『県史一一』二九九)
 この頃の警察の弾圧に対する常吉の怒りを、友人の鈴木尊に宛てた手紙で述べている。
「革命の屍積んで山をなし、人血海となる如し、嗚呼、何ぞ、空々黙認するを得ん」と、さらに、「不傑不良不定の集会条例、ために舌を中断せられたること数回に及び、殊に去る二六日の如きは実に余輩の権利を剥奪して、刑罰に処せられ、殆ど人間として人間に非ず、嗚呼、これ何の不幸や」と憤慨している。演説の内容をみても、一七歳の青年とは思いない外国の事情や幅広い知識と整然たる考え方には驚かされる。(『福島民権家列伝』福島民報社)
 同年一一月、福島・喜多方事件が起きると、常吉は一二月二二日、平で逮捕され、福島に送られた川口元海の手紙を家族に届けたり、福島監獄につながれている元海に卵,綿入、魚肉、手拭、ケットなどを差し入れを行うなど、同志のため、奔走する。
しかし、常吉も平で捕らえられ、石川警察署に護送される。そして、若松への護送、さらには、最年少の国事犯として、東京の高等法院に送られる。
 石川警察署の厳しい取り調べの中で、巧みな答弁をして、取調官を翻弄している。警察は、常吉に河野広中との交際通信、自由党員であることを自白させようとしますが、あくまでも否定する。(『県史一一』八一〇)
 東京の高等法院では、翌一六年四月一三日、証拠なしで、釈放される。
 福島・喜多方事件で、県内の自由党は壊滅的な打撃を受けてしまった。さらに、中央の自由党でも離脱や動揺が広がりつつある中、奥羽有志は、同一五年一一月仙台で奥羽有志連合会を開き、東北会綱領や独立路線を決める。そして、翌年八月三〇日に開かれた東北会の会議には福島県からは関根常吉を始め、四名が出席し、かっての幹部は牢獄につながれている中、青年常吉が再起をかけようと奔走していることが分かる。(『自由民権機密探偵史料』三一書房)
 同一七年(一八八四)四月一九日、川辺村字金波二三番地矢吹柳助家に、養子に入る。
 同年九月一九日の須賀川警察署からの景況上申書によると、石川郡自由党員の活動が再燃していたようであり、常吉や鈴木重謙、吉田正雄等が死を決し事を企てるため、不動産を抵当に入れたりして、募集金を集めていると、非常に緊迫した状況を報告している。(『栃木県史資料編4』)
 この月に、茨城県加波山で発生した加波山事件によって、常吉は、事件の中心人物、三春の河野広躰の共犯人として、白河警察署に引致され、取り調べを受けているが、罪にはならなかったようである。(『茨城県史料近代政治社会編三加波山事件』)
 明治二〇年(一八八七)の三大事件建白運動の盛り上がりで、当地方からも二本の建白書が元老院に提出される。その中の一つが一一月三〇日に提出された川辺村外7ヶ村吉田正雄外一〇六名による「条約改正建言書」であり、常吉は、磯目角次郎と共に建言書捧呈委員として名を連ねており、矢吹家に入ってからも政治への熱意が衰えることはなかった。
 又、養父柳助も一〇六名の一人として、名を連ねていることから、同じ志を持っていたと思われる。(町史四二九九)
 しかし、養父母、妻に先立たれた常吉は、大正八年(一九一九)一〇月一日母畑の実家に戻り、大正一三年二月四日、五九歳で亡くなり、母畑字七森の浄光寺の墓地に眠る。



●木戸郡一郎
 嘉永四年(一八五一)一〇月二一日、母畑村に生まれる。
明治一一年結成された石陽社の社員である。しかし,当初からの社員でなく、明治一一年八月五日以降に入社したようである。
 明治一二年(一八七九)二月、今までの石川会所が廃止され、石川郡庁が開かれると、郡一郎は郡書記に任命されている。しかし、同年一二月、郡一郎は添田一二と共に書記を辞職している。(岩谷巌日記)
 翌一三年、吉田光一が愛国社東京支社勤務のため、四月五日出発し、白河に泊まった時、わざわざ、郡一郎と諸岡直蔵は面会に行っている。
 同一五年、盛んに行われた演説会や福島・喜多方事件に関して、郡一郎の行動を示す資料は発見されていません。
 しかし、明治一七年九月二三日に発生する加波山事件に絡んで、同日付けの福島警察署長から警部長宛の景況上申では、郡一郎は東京の蠣穀町二丁目袋屋に宿泊している。同時に、新町の西牧金蔵も上京し、帰郷したことが報告されている。さらに、加波山事件の中心人物である河野広体の居所も報告されていることから、何らかの活動のための上京であったと思われる。
 近くには、郡一郎と同じ志を持った関根常吉、関根健治がおり、度々集会や会議がもたれていたと伝えられている。



●渡辺忠兵衛
 忠兵衛は天保五年(一八三四)母畑村に生まれる。旅館業を営んでいる。
忠兵衛は明治の戸長役場時代戸長に任命されている。石陽社員の名簿等には名前は見えないが、国会開設が決まり、自由党など政党が結成されると、石川でも盛んに演説会が開催されるようになる。忠兵衛は演説会の会主となったり、会場を提供したり、運動に参加している。
明治一五年(一八八二)四月九日の演説会では、その自由演説会届書によると、忠兵衛が会主、会場は忠兵衛宅で行われている。午前一〇時から始まり、午後一二までの長時間の大演説会である。次の日に石川警察署長から三島県令に、演説会は届書通り行われ、不都合なことがなかったことが報告されている。
 特に、注目すべきことは、二〇歳前後の地元青年中心の演説会であったことである。忠兵衛の息子である味戸次郎松(一八歳)と渡辺忠太(一七歳)、母畑村関根常吉(一七歳)、中田万吉(二二歳)、渡辺謙治(ママ)(一七歳)、それに石川村笠原忠節、添田治兵衛、川辺村矢部親吉、須釜村大越藤蔵らであった。(『県史一一』二四六)
 このように忠兵衛は息子の活躍や青年の活動を支え、自由民権運動を側面から支えていたものと思われる。その後の忠兵衛の政治的な活動は不明であるが、明治二六年三月に母畑温泉契約書を七人の共同経営者の一人として、締結していることから、母畑温泉の繁栄のため、力を注いでいったものとと思われる。 



●味戸治郎松
 慶応元年(一八六五)二月二八日、母畑村樋田一一一番地、渡辺忠兵衛二男として生まれる。明治一二年、一五歳の時、湯郷度村味戸良助の養子となる。一七歳で湯郷渡小学校教員となるが、四ヶ月ほどで退職する。
 そして、明治一五年四月九日、生家渡辺忠兵衛宅で開かれた演説会に一八歳の青年弁士として登壇している。演題は「勉強忍耐ハ大業ノ基礎」で、いかにも教員らしい演題である。この演説会では、弟の渡辺忠太(一七歳)、渡辺健次(一七歳)、中田万吉(二二歳)、関根常吉(一七歳)と地元湯郷度村、母畑村の一〇代の青年弁士が登場し、堂々と大衆を前に演説していることは、当時の青年の政治に対する情熱を見ることができる。(『県史11』二四六)
 治郎松は、明治二六年(一八九三)には母畑村書記になり、助役を経て、明治三四年四月から村長を務めている。さらに、石川郡農会議員や石川町外四ヶ村組合会議員、学務委員、石川郡会議員などを歴任している。大正八年(一九一九)一〇月、治郎松は母畑郵便局を自ら開設し、初代局長となる。(町史六旧町村史)
このように地域発展のために活躍したが、昭和一三年(一九三八)七三歳で死亡する。 



●渡辺忠太
慶応二年(一八六六)一一月一六日、母畑村樋田渡辺忠兵衛の三男として生まれる。
 二男の兄、味戸次郎松とともに自由党の若手活動家として活躍した。当時、一七歳の青年であった。
 明治一五年(一八八二)四月七日、八幡屋会場で開かれた演説会では、弁士が地元民権家中心で開かれている。忠太はその中の一人として、弁士で登場している。演題は「各生理を安する説」である。この時は父忠兵衛、兄次郎松も弁士として登場し、渡辺家は親子、兄弟の民権家家族であった。又、同母畑村から、青年弁士として、渡辺謙次、中田万吉、関根常吉が登壇していることに注目が集まっている。
 これら青年がどこで学び、どのようにして青年弁士として登場したのか、大変興味のあるところである。



●渡辺健次
 健次は慶応元年(一八六五)二月、母畑村字樋ノ口に生まれる。全国的な自由民権運動の盛り上がりの中、明治一四年に一〇年後に国会を開設することを約束する。これを受けて自由党など政党が結成され、その活動が活発化する。
石川でも明治一五年になると演説会が盛んに行われるが、健次は同年四月七日に渡辺忠兵衛宅で行われた自由演説会の弁士として登場する。
一七歳の青年健次は、「飢過クレハ喰過キル」と題して、演題に要旨には、空腹の時、俄然食すると、健康を害することを論ずとある。(『県史一一』二四六)
健次のその後の政治活動を示す資料がなく、不明であるが、明治二五年(一八九二)一〇月、学務委員に当選している。明治三九年九月からと同四二年二月からの二期に亘り、母畑村長を務めている。
大正九年(一九二〇)に発電がはじまった母畑水力発電所建設では、村長時代の大正六年、北須川水利使用願を議会の諮問し、地方開発発展に寄与するとして議決を得た。これによって発電所建設はスタートしたのである。そして、自ら母畑水電株式会社の取締役に就任し、貢献した。
又、明治二六年三月、母畑温泉の発展を願って、七人による共同経営の契約書にその一人として参加している。さらに、大正三年(一九一四)一〇月、温泉のラジウム分析を東京衛生試験場に依頼するなど積極的に、母畑温泉の繁栄に尽力している。(町史六)
健次は政治の分野でも、温泉の繁栄や産業の振興にも地域振興に力を注いでいる。大正八年、五五歳で死亡する。



●丹内早人
早人は天保一四年(一八四三)、外槙村神官吉田義満の長男に生まれ、双里村丹内吉之助の養子となる。石陽社員であるが、名簿の記載状況から有志会議から石陽社に改称してから、明治一一年八月一五日以降に勧誘されて入社したようである。(町史四一九三)
 石陽社の中心人物吉田光一とは同じ神官ということもあり、親しかったようである。吉田は国会開設運動の奥羽地方遊説に出発のため、あわただしかった明治一二年(一八七九)一二月一八日に、早人宅を訪れ、夜の一二時過ぎまで過ごしている。金策に苦労しているので、その依頼であったのかも知れない。
そして、出発直前の一二月二四日、社員協議が開かれ、吉田の激励会が行われているが早人も出席している。
 そして、吉田は無事、奥羽地方遊説を行い、翌一三年の三月三日に帰宅するが、その四日後の七日に、猫啼温泉に泊まるが、早人と笠原も一緒に泊まっている。遊説の苦労話を聞きながら、酒を酌み交わしたものと思われる。(町史四二三二)
 明治一三年に石陽社が解社した後、同志は石川地方に「自由党会議」を開催しているが、早人は中心人物の一人であった。
 同一四年一〇月七日に開かれた自由党会議の決定事項が、事務取扱者吉田正雄から早人にも報告されている。国会期成同盟者募集は引き続き行うので、旧六区内の村々を吉田や笠原と共に担当し、募集を行うよう申し添えられている。(町史四二五四))
 明治一五年の福島・喜多方事件では、難を逃れたようである。
 その後は、石川村外四ヶ村戸長役場時代には、連合村会議員を務めている。中谷村が誕生すると、村会議員となり、地方行政の進展にも力を注いでいる。『中谷村会議事録』
 明治二三年、第一回衆議院議員選挙が行われ、帝国議会が開設されると、石川では明治二五年三月に石川民会が結成されている。一一月には南町の吉見屋で石川民党組合会が開かれ、早人も鈴木重謙や吉田朝吉らと共に出席し、民党(野党)躍進のために活動している。(町史五二〇、二三)
 一方、早人は御斎所街道の改修のため、奔走する。竹貫村根本正右衛門と共に、石川郡、東白川郡、菊田郡、磐前磐城郡、そして、県を動かし、遂に、明治二四年(一八九一)測量設計、七月に工事着工、翌二五年完成する。
 総工事費二四八五〇円で、県補助金四五〇〇円、石川郡負担金五四四一円であった。尚、この道路改修にあたって、同志であった川辺村吉田正雄と石川村鈴木荘右衛門も道路改修斡旋者になっている。
早人と根本の功績は、東白川郡、石川郡、石城郡等の人々によって、明治三六年(一九〇三)一〇月(大正4年再建立)、「修路之碑」が建立され、今なお、二人の尽力を讃えている。『古殿町史下巻』
 早人は、この碑を見ることなく、明治三〇年一月、五四歳で永眠する。



●二平光信
石川郡中野村に、弘化元年(一八四四)に生まれる。神主であった。明治九年三月二三日磐前県南須釜村用掛、同年一二月二八日石川会所南須釜村用掛になる。明治一一年(一八七八)一月に有志会議から改称した石陽社の社員となる。中野村からの社員は二瓶市重郎、柄沢国一などがいる。
 政治結社石陽社の活動をしながら、明治一三年二月二四日に中野・塩沢村の戸長、同年五月には、中野の小学区学務委員を努めている。
 特に、石陽社の中心人物吉田光一とは同じ神主同士ということもあり、つながりが深かったようである。吉田光一が、明治一二年から一三年にかけて、国会開設運動奥羽地方遊説の資金到達に際しても、光一が光信宅を訪ねたり、光信が光一宅を訪ねたりしていることからも、頼りにする間柄であったようである。(町史四二三二)
 明治一三年暮れには、石陽社が解社したようであるが、石川地方の人々は、自由党会議を設立して、国会開設のための活動を行っていた。その中で、光信は中心的に活動している。
 明治一四年一〇月七日に開催された自由党会議の報告書が残されている。会議の決定事項が事務取扱者吉田正雄から光信にも報告されている。この中で、一一月一〇日まで中野村と塩沢村を担当し、国会期生同盟者の募集を行うよう連絡を受けている。
 明治二二年(一八八九)に野木沢村が誕生すると、村長選挙に立候補するが、先ず石陽社の同志であった二瓶市重郎がなり、その後、光信は明治二六年七月一日から三一年四月二四日まで、村長を務める。(野木沢村会議事録)
 大正四年一二月一九日、七二歳で死亡する。



●草野浅治
浅治は文久二年(一八六二)、曲木村字仲ノ内に生まれる。家は農事のかたわら藍染めの紺屋であった。そのため一四,五歳のころより、石川の染物屋「小桝屋」で奉公見習いをしていたようである。
 石川で演説会が盛んに行われた明治一五年(一八八二)頃、浅治が一九歳の青年で政治にも大きな関心を寄せていたようである。
 同年七月二九日、石川村字南町近内勝蔵宅において行われた自由演説会で、最初の弁士に立った母畑村の関根常吉が「政治に関する事項」を演説したとして、「弁士中止解散」が臨席巡査より命じられた。
 この時、浅治は巡査の命令に背き、聴衆の席から立たなかった。そのため、退場しないのは命令違反ということで、石川警察署から白河軽裁判所に告発されている。
 裁判調書では、浅吉は故意ではなく、「足がしびれて起てなかった」と主張しているが、認められず、白河軽罪裁判所より軽禁固一月と裁判費用の弐円拾銭が言い渡されている。
 その後、浅治は曲木村に戻り、紺屋職となり、数人を使用した織物業も営んでいた。(『福島民権家列伝』高橋哲夫著)また、小学校の学務委員も勤めている。
 昭和一五年(一九四〇)一二月七日、七八歳で死亡する。



●川口元海
 元海は嘉永六年(一八五三)、安達郡本宮村生まれで、父と同じく医師であった。石川には、明治一四年(一八八一)に南町の鈴木秀助借家に転居してきている。
 元海は、医者を開業しながら、自由党に加盟し、地元の吉田光一や鈴木重謙、笠原忠節らと、さらには三春の琴田岩松、二本松の平島松尾らとも交際を深め、活発な活動を展開する。党員の拡大や自由新聞の発行にも積極的に働いている(『福島民権家列伝』福島民報社)
 元海はたびたび、吉田光一に書簡を送り、逐一石川の探偵や演説会開催の状況を報告している。また、東白川郡坂ノ下村外五ヶ村連合の懇親会が開かれことに触れ、今だいずれの政党へ団結するかは決まっていないので、花香・河野の両氏を必ず派遣し、勧誘するようにと、要請も行っている。
 明治一五年の福島県令三島への報告書「石川郡内民権党の概況」には、石川郡自由党二六一名の中で、吉田光一、鈴木重謙らと共に、元海の名前が報告されている。前年、石川にきてから一年の中で、民権家として、警察から完全にマークされていたことが伺える。(町史四二六三)
 演説会でも、度々演壇に立ち、活発に動いている。一五年四月一八日、南町近内勝蔵宅の演説会では「石川市民に告ぐ、岩磐二州の人民何ぞ進取力に乏しきや」と題し、五月一日と八日の鈴木荘右衛門二号長屋では「盗賊の昼寝」、「干渉の弊害」と題して、毎回違う題で演説している。(『県史一一』二六〇、二五一、二五四)
 この「盗賊の昼寝」はその要旨がおもしろい。つまり、夜中に他人の家に忍び込み、人を害したり、財産を盗むばかりが盗賊ではない。権力を持って自由を侵害し、営利を盗んで一身の栄養するものは、盗賊の昼寝と同一のものだと主張している。
 福島の無名館で、開かれる自由党会議にも、度々出席している。その行動力には驚かされる。元海は吉田光一と共に石川郡通信委員の立場で活躍した。(『県史11』八二一)
 又、同志の遭難救済の目的で設立された愛隣醵金法の設立発起人の一人となって、その幹事も務めている。
 母畑村の関根常吉が医師を志し、元海の門弟になっているが、医療の外に、民権運動でも師の役割を担っていたようである。(『県史11』八一〇)
 しかし、このように活躍していた元海が、突然、一五年一一月一四日、石城郡四倉村に転居する。その理由を石城地方は沼間守一らの遊説によって、改進党の勢力が急増し、そのため自由党がおされて、一身を容れざる余地なしとなっていた。そこで、石城の同志が元海の転任を進めたらしい。事実、転居するとすぐの一一月二九日、河野広中に手紙を書き、是非とも四,五日間平地方にきて、党勢拡大に力を貸して欲しいと訴えている。 転居したもう一つの理由は、元海は政治運動に飛びまわって、多額の借金がかさみ、首がまわらなくなっていたようである。(町史四二六四、二七七)
 転居するとすぐに、福島喜多方事件が起こり、元海も逮捕される。一五年一二月一二日平で拘引され、福島に護送される。(『県史一一』七一五)
しかし、福島喜多方事件に関与するはずもなく、証拠は挙がらず、元海外一七名を無罪放免とすることの情報が流れると、三島県令から横やりが入る。「川口元海の如き、其共犯人たる敢えて疑わざるものに宥之候」というわけである。それで、元海は放免されることなく、国事犯として、二月一五日東京に護送される。(『県史一一』八六五)しかし、元海は明治一六年四月、無罪放免となる。
 その後は、四倉村に戻っているようである。元海は明治一七年(一八八四)九月に茨城県加波山で発生した加波山事件に関与した容疑で、再び、平警察署に引致され取り調べを受けている。しかし、翌月の三日には釈放されている。常に、警察の目があり、その行動は監視されていたことが分かる。(『栃木県史資料編近現代』六一)



●河野広躰
 慶応元年(一八六五)三春町に生まれ、河野広中の姉シゲの子であり、叔父広中が石川会所の区長として赴任する時に、一緒に石川町に転居する。
南町の久野家長屋に住み、石川小学校に入学する。そして、三春正道館に学ぶ。
 明治一二年、叔父広中の高知行きに同行し、高知の立志学舎に遊学する。更に、翌年の大阪で開かれた愛国社大会に出席し、日本の自由民権運動、国会開設運動の最前線を目撃する。(『福島民権家列伝』福島民報社)
 同一五年には、演説会が盛んに行われるようになると、広躰は一七歳でありながら、福島、石川、三春、白河と各地で弁士を務め、青年活動家として活躍する。
 七月八日には、笠原忠節宅での演説会に弁士として登場している。更に、同月二九日南町近内勝蔵宅で開かれた演説会では会主となり、弁士関根常吉の演説が集会条例違反となるや、会主として、罰金一〇円に処されている。
明治一五年一一月に起きた福島・喜多方事件では福島で逮捕され、若松に送致、更に東京高等法院に送られている。この時の住所は東京府芝区田町四五丁目四番地、寄留地は石川村久野長藏方であり、職業は無職であった。(『県史一一』二九九、八一七)
広体の一家は明治一四年五月九日に、三春町から東京に転居している。(『加波山事件関係資料集』三一書房二八二)
 取り調べの結果、明治一六年四月一三日、石川島監獄から免訴釈放となる。(町史四二九六)
また、明治一七年九月二三日、茨城県で起きた加波山事件では、中心人物の一人であり、福島側のリーダーであった。処罰された一八名の内、福島県人は一二名であった。
 処罰は厳しく、福島県人から死刑五名、無期懲役五名、一三年刑一名、獄死一名というものであった。広躰は未成年のため、無期懲役となり、北海道空知集治監に収監される。(『福島民権家列伝』福島民報社)
 明治二七年(一八九四)一〇月、特赦で出獄する。同年一一月には須賀川、泉、石川、矢吹、白河で、大歓待を受ける。石川では入り口に歓迎大幡が立ち並び、有志数十名が出迎え、祝宴会の長泉寺では、百余名が出迎え歓待した。さらに、宿泊場所の吉見屋には同志者や旧縁あるものが次々来訪し、広体の人望の厚さを伺うに十分であったと福島民報は報じている。(町史五三三)
その後は書家として、生き、移民会社に関係しながら、星亮について渡米したこともあったらしい。石川の久野家とは亡くなる大正末まで親密な交際が続けられていた。



●横田三次郎
 三次郎は、安政元年(一八五四)三春藩士の子として生まれる。明治になって、学校の教師となり、石川及び沢井、北山形小学校、成年学校に勤務する。(石川小学校及び北山形小学校沿革)
三次郎は、河野広中と同郷ということもあり、石川小学校時代に自由民権運動に参加する。石川の政治結社、第二嚶鳴社に加盟し、幹部として活躍する。(町史四二六三)
明治一四年(一八八一)第二嚶鳴社再興ための檄文には、沢井の加藤武、曲木小学校教員江藤宥靖及び渡辺信治と共に、発起人代表として名を連ねている。(町史四二七三)
明治一六年、福島・喜多方事件の影響もあり、石川小学校を辞職し、山形県官吏となるが、同一九年に再び、石川からの招聘で、北山形少学校教員になる。
また、明治二二年に、条例改正で国論が大きく盛り上がったときには、改正論者として北山形小学校教員の職を辞して東京に赴き、奔走する。
さらに、第二回衆議院選挙の行われた同二五年にも、職を辞すなど、政治的な行動はやむことはなかった。(『功徳横田北高先生の碑』福満虚空蔵尊境内)
三次郎のこの姿勢は、師弟に大きな影響を与えた。北山形小学校の教員添田初太郎は、同二三年、教員職を辞して、三次郎の紹介状を携えて上京し、河野広中の書生になり、活躍する。後の那須雲照寺住職釈戒光である。
同三九年病のため、五三歳の生涯を終え、北山形の墓地に眠る。
明治四一年(一九〇八)九月、地域の人々により、三次郎の功績に報えるため、北山形の福満虚空蔵尊境内に功徳碑が建立される。





【その他活躍した民権家たち】

石陽社員として活躍した民権家たち
 石川村  鹿岡脩平、鈴木秀助、和気源吉、矢内小八郎、長谷川正治、斎藤蕭爾(寄留)
 沢田村  郷作之助、郷元貞、郷孫三郎、深谷広吉
 野木沢村 柄沢国一、矢吹武七、矢吹新吉、二瓶藤三郎
 山橋村  十文字伝三郎、矢内金吾、渡辺直蔵、添田清吉、迎森右衛門、小豆畑森之助、遠藤半左衛門
 中谷村  中田良助、角田藤左衛門、有賀久米吉、根本茂平、添田多兵衛、角田光之助、岡部兵橘、坂路直良、南条茂平、小木庄治、須藤堅吉、矢内由三郎、南条丑蔵、鹿岡隆治、藁谷惣治、深谷柳蔵、塩田助左衛門、深谷房之助、三森陽助、塩田義之助、三森涼之助、瀬谷綻之助、迎徳之助
 母畑村  添田源右衛門、関根健治、中田万吉、務川和田次郎、永沼要人

●第二嚶鳴社員として活躍した民権家
 石川頼賢、加藤直、江尻案

●自由党員として活躍した民権家
 諸岡直蔵、笠原米太郎、伊藤兼次               (町史四一九三、二六三)






渡邊 實

わたなべ みのる

石川町議会議員

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