2017.8.1. リニュアルオープンしましたさん お元気ですか お電話下さい musick (カーペンターズ)13

1995.1.15. ユーミン成人式は北九州市小倉南区志井で。ツタエ母さんから見繕って頂いた着物でお祝いしました。
その傍に、西野 寿おじいちゃんの形見、慈母観音像さまが観ています。


  
2012.1. お正月 公開



 不思議慈母観音像お話 パート 2

この稿は平成16年、お正月の年賀状として250件の親戚、お友達に読んで頂きました。

その後、お盆とか、お正月に続編として、数度読んでいただきましたが、平成18年10月にインターネット「上瀧勇哲、洋子のポートフォリオ」で配信し、少しずつ更新しながら今日に至りました。

今度は、私17才の頃より撮りためていたフイルム写真を全てデジタルに組み替え、古い写真をたくさん紹介しながら私達家族、親戚皆さんが懐かしみ、楽しかったあのころを想い出し、再現して見ました。

その上で慈母観音像との関わり合いを細かく、優しく紹介しながら、人生の歩みを、皆さんと、共に考えて頂けたら幸です。


                                   ペンネーム 大和三郎丸 (上瀧勇哲)

  
ペンネームの大和は、日本の、三郎丸は住んでいた地名です。




ユーミンの成人式お祝い。洋子ちゃんとツタエお母さん。神社、実家、そして志井の古家で。


   はじめに


無我夢中で生きてきたこの時代、若かりし青春時代の想い出を、ここで再現することは実にロマンがあって心地良いものです。
それは、その時代に出会った人々から、たくさんの愛を頂き、その環境の中で、育くみ、成長できたことそのうえで若いから、という事で、必要以上にアクションを求められたこと、たくさんありました。
そのことを、熟してゆく過程で、多くの先輩、師匠、親戚、人々から好かれ、想い出があります。

少々自信過剰かも知れませんが、愛しい女性を妻にし、二人の子供をもうけ、生活の為、幸福の為、人生を一生懸命、歩み始めた時、慈母観音像さまに巡り合う事ができました。
私達、家族のライフスタイルを一部始終見つめ、微笑んでくれた慈母観音像さまは、家族愛から、親戚、ご先祖様を繋げる、何かを私達に与えてくれたような気がします。

不思議な事を現実に体験したり、感じたり、あるいは、もっと複雑で入り組んだ何かを問いただす、言いたげな慈母観音像さまに、揺り動かされたことを、一部始終、このページで紹介してみたいと思います。

そして、神様、仏様を信じ、手を合わせることを私達夫婦はしています。

優しい慈母観音像さま、のお姿を、しっかり心の中で書きとめ、お世話になった、たくさんの人々に感謝しながら、毎日毎日を務め、今の幸福を慈母観音像さまに感謝しています、この頃です。




1980.10.若松浜町小学校運動会、ユーミン2年生。父、母、西野寿爺ちゃん、ツタエ母さん。洋子ママは、毎年PTA役員のバザー。それでも洋子ママ手作りの重箱お弁当は豪華で愛情こもったものでした。
それで父、母がいつも 『洋子ちゃんは料理上手!!』 と言います。 これも西野 寿おじいちゃんから教えてもらった、お弁当作り、エピソードがたくさん詰まっている、お宝なんですね。



 西野 寿 おじいちゃん と 出会い



このストリーの始まりは、私が浦本洋子さんに恋をした時から始まりますから、もう30数年が過ぎたことになります。

私は1950.2.北九州市小倉生まれ、浦本洋子さんは1955.2.北九州市若松生まれで、二人の出会いは若松の吉田印刷所となります。そのきっかけをくれたのがお兄さんである浦本英二さんで、釣りを趣味にしたところが縁となり、二人はここで結ばれます。

その結婚に至るところには西野 寿さんという、若松では有名な、おじいちゃんが居ました。
おじいちゃんは洋子ちゃんの親代わりであり、優しいお人柄で、たくさんの方から親しまれていました。
そのおじいちゃんとの出会いが、この不思議なお話しの始まりなのです。

彼女と二年ほど交際している間は、随分彼女の家で、おじいちゃんの手料理とツタエお母さんの愛情を頂き、我が子のように可愛がってもらいました。
正直、自分の家に居るより、こちらに居る方が楽しくてしょうがなかった時代でもあります。
勿論大好きな洋子ちゃんが、そばに居たかもしれませんが、それだけ彼女の家は笑いが絶えない、楽しいお家でした。

若い二人は、おじいちゃんの色々なアドバイスで、1974.3.16. 若松の婦人会館で結婚式をあげ、新婚旅行は長崎市と、雲仙に行きました。
新婚生活は吉田印刷所が持つ鉄筋4階建てアパート2棟、奥の2階に住むことになり、私達は10年間ここでお世話になります。
同じ町内には、若松のおいべっさんで有名な海の神様、商売繁盛の、恵比須神社があります。
勿論お祭りには、氏子として神輿を担いだこともあります。

結婚して10ヶ月の1975.1.裕美が生まれ、その5年後の1980.6.には真一が生まれます。
みんな西野 寿おじいちゃんが、倉内産婦人科医院の院長さんと掛け合い、何もかもお世話してくれました。
裕美は上瀧家、浦本家にとっての初孫であり、お宮参りの恵比須神社には色々な行事で通うことになります。

幼稚園から小学校入学、そして運動会等、いつも西野 寿おじいちゃんがそばに居てくれました。
そんな、おじいちゃんが、ある日 「私の形見として大切にしてほしい」 と、頂いたのが、お話しの慈母観音像なのです。
このときは、私の実家や仲人をしていただいた益田 勝さん、洋子ちゃんの兄、英二さんにも、形こそ違うものの、像が贈られています。
そして昭和55年 初夏、82才で亡くなりました。





1976.10. 大分県安心院のアフリカンサファリと、宇佐神宮へ家族旅行しました。西野 寿 爺ちゃんと、浦本ツタエ母さん、英二さん、洋子ちゃんと私。ユーミンは1才と9ケ月のさきです。



  西野 寿 おちゃんの遺言 (原文のまま)


   上瀧勇哲・洋子 様

 爺が長生きして、大変御世話様になりました。
 有難う、御礼申し上げます。

 実子以上に温情ある行為、旅行、御馳走、
 心からの御土産など感謝の外ありません。

 洋子さんを、友白髪までよろしく頼みます。
 気の強い面はあるが、あなたを心身共に、したい、頼りにしています。

 裕美ちゃんの幸福を陰ながら祈ります。
 洋子さんには筆舌に尽くせない御世話になりました、有難う、〃、〃。

 私が亡き後、母さん「ツタエ」の力となって、やって下さい。
 尚、英二君の良き相談役とも頼みます。

 小倉の御両親始め、哲郎さん、周作さんへ、様々御世話になりましたと、
 あなたより、よろしく御礼を申し上げて下さい。

 あなたは上瀧本家の跡継ぎですから、将来共に忙しいことが多いでしょう。
 一生懸命がんばって幸福なる一生を過ごせされますよう祈ります。


 翁、最後の言葉として遺します。






洋子ちゃん17.18才のときから交際、19才で、すぐに結婚、19才でユーミン誕生。優しく見守ってくれた西野 寿爺ちゃん。


 動く、慈母観音像

若松で新婚生活を始めますが、3DKの一室に、洋子ちゃんのお嫁入り道具の中に、おじいちゃんから見繕っていただいた、応接台があり、この応接台の上に、慈母観音像を置き、鮮やかな造花の花瓶を置いて、気分良く釣りの原稿を書いておりました。

ある日、何を想ったか、私は玄関の下駄箱の上に慈母観音像を置き、後方に姿見の鏡を掛けておりました。
玄関に慈母観音像を置くことで、毎日出入りする私達や、お客様に見てもらうつもりでいましたが、その観音様が何気なく動くのです。イヤ、動いている気がするのかも知れません。

それにしても、その動き方が変なのですね。
下駄箱から落ちそうなんです。
でも重さ10㎏もある重いものですから、そう簡単に動くことはないし、誰か触っているのでしょうと想い、再び、きちっと台座の上に、正しく置くのです。

そして毎日、慈母観音像様を見ながら会社に行き、週末はお魚釣りに励むのです。
ところがある日、その像がドスンと落ちたのです。
高さ1mもある下駄箱から落ち、ちょうど娘が幼稚園から帰ってきたところなので、もう少し時間がズレていたら、娘の上に落ちたかも知れない!! と、洋子ちゃんから聞きます。

「でも、まさか?」 ということで、再び下駄箱の上に置くのですが、数日後、再び落ちて、今度は観音様の右手に持つ徳利の口の部分が折れてしまいました。

何か不安をいだく洋子に比べ、私は誰か悪さをしたんだ、という腹づもりで信じていません。
でも危険ですから、今度は応接間にある、大きなステレオのスピーカーの上に置きました。

その室には終日、日が入り、暖かく広い空間がありますから、慈母観音像が安心したのか、動く様子はありませんでした。
そのような予感はしますけど、まさかそんなことはない、と、想うようになります。



1980.4.5.ユーミン浜町幼稚園入園式。付添いに西野 寿 爺ちゃんと、英二さん。




住んでいた吉田印刷アパート前で。何かの時いつも頼りにする西野 寿 爺ちゃんと英二兄さん。



 北九州市小倉南区志井 引っ越し


私が34才になった年、思い切って小倉南区志井の中古住宅を購入します。
もちろん有り金全部はたきローン組み大変ですが、男として一生に一度は考えなくてはならない事ですし、優しい妻や子供達の事も考えれば、そう想い、誰の手助けも借りず、すんなり志井に引っ越します。

引っ越しは浦本英二さんが会社のクレーン付き大型トラックを借りてきて、親戚、釣り仲間が大勢加勢してくれました。
住いは翌年開通される北九州都市モノレール志井駅から、わずか5分足らずの便利の良いところで、娘は歩いて25分の志井小学校に転入。

真一は翌年の4月、志徳幼稚園に入園することになり、私達家族は、これより17年間この地でお世話になります。

慈母観音像さまは、一階和室の床の間中央に置きますが、我が家には、仏壇がありませんので、お正月には若松の時より、オモチと葉ミカン、そして、塩と、お水を、お供えし、仏様代わりとしています。

新しい家に引っ越してからは何事もなく、子供達に関連するPTAや、町内のお世話係から、魚釣りに夢中になれる日々が続きます。

ところが、ある夏の日曜日の出来事です。
早朝の日差しがカーテンごしに入り、床の間に近いところで寝ている妻の赤い布団の上に、慈母観音像が立っていたのです。
普通なら転げ落ちて、布団の上で横たわっているのならいざ知らず、まさか立っていようとは夢にも想いません。

それで私が妻に聞くのです 「布団の上に観音様を置いたん?」 
すると 「そんなことするわけないヤーン」 と ケンカする始末。
子供達二人は二階の室で、それぞれ寝ています。

この時、娘は志徳中学校に通い、息子は志井小学校2年生ぐらいですが、だれも悪さしたとは言いませんから、この時はこのままで済ませます。



1983, ユーミン誕生会、若松。
 
   家族でクリスマス若松。


1984.正月、長崎大村市、見明直雄さん家で泊まって長崎市内観光。





 水 慈母観音像さま



西野 寿おじいちゃんが亡くなってから6年が過ぎ、形見で頂いた慈母観音像は色、艶も良く、ピカピカに光って見えます。
おじいちゃんが手書きした仏像台座の文字は、はっきり見えますが、ちょっと残念なのは、右手で握っている徳利の口の部分が欠けている事です。それ以外は奇麗な顔立ちで洋子ちゃんに似ていると、私は想っています。

それと、おじいちゃんから貰った浮世絵の美人画は、かなり古いもので、来るお客様は皆これを欲しがります。
けど、数十万円する磯竿より、こちらの方がズーッと宝物で大事にしています。

そのような宝物に加え、また一つ頂いたのがツタエお母さんが絵いてくれた、山水画の掛け軸です。
これはタタミ一畳の大きさで、カラーで描かれ、色合いが奇麗で明るく、構図から筆づかいのタッチが微細で、とにかく見る人を、絵の中に引きずり込ませます。その絵を床の間に飾り、その前に慈母観音像さまを置いていました。

そんな夏の日の日曜日、大変なことが起こります。
いつものように床の間に近いところに妻が寝て、その隣に私が寝ています。
朝日がカーテン越しに差し込む早朝、何気なく目が覚め起きると、朝日の中で仏像が妻の布団の上に立っているのです。
驚いて飛び起き、台所で弁当を作っている洋子を呼びつけます。

この前の再現を見ているようでしたが、今度はもっとびっくりします。
慈母観音像が立っている赤い布団がびっしょりなのです。
なんで布団が濡れているの?で、よくよく見ると、床の間に掛けてある山水画の川から流れ出たような水の形跡があり、床の間から川となって妻の布団に注がれている水の帯があるのです。

洋子が仏像を手にとって見ますと、仏像の足下から水が流れ出た跡があり、ヒタヒタと仏像から水滴が垂れているのが分かるのです。
赤い掛け布団を取り、敷き布団から、その下のタタミまでたっぷり水がしみ込み、しばらく唖然として声もでません。
このときは子供達も起こし、事情を説明するのですが、こんなことをする分けもありません。

このような不思議なことをする仏像に驚きながらも、お清めの塩と米、新しい水を供え、奇麗なお花を飾り、大きな水彩画の絵がある床の間が見違えるように綺麗になりました。

そして、このようなことをした慈母観音像の出来事を、親戚の方々にお話しするのですが、誰も信じてもらえなくて良い、と想うのですが、黙ってはいられないのですね。


 見明直雄さんにいでいた 母水彩画


志井の古家には、なぜかしら人の出入りが多く、たくさんの人々が遊びにやってきます。
特に多いのが趣味によるお魚釣り仲間、そして兄弟、親戚なんですが、一番歓迎するのは、やっぱり洋子ちゃんのお母さん。

今住んでいる長崎大村市では、西野 寿さんの弟である、見明直雄さんと再婚して、すごく幸福なんですね。

(別ページで紹介している、見明ツタエ・ポートフォリオでは、この時の作品を紹介しています)

それで年に数度、家族で大村市の見明さん家に、泊まりがけで遊びに行くのですね。
その家から歩いて5分が、大村市の銀天街です。
そばの浜屋デパート屋上の遊園地は、子供たちの人気ターゲットですから、裕美と真一は、しょっちゅう行きたがるのです。

又、見明さんも志井の家に泊まってくれて、あっちこっち案内したりするのですが、問題の慈母観音像と山水画は目もくれようとはしません。でも皆が病気一つせず遊べる環境がたくさんあり、幸福な毎日でしたから、私達ファミリーは順風満帆でした。

そんなとき大村市から見明直雄おじいちゃんの危篤、洋子ちゃんは母と10日間ほど付っきりで看病、私は子供達と最期を見送ることができました。

西野家は7人兄弟で、寿さんは3番目、長男は東京都に住み、直雄さんは末子として養子に行かれて見明家を継がれました。

その見明家を、もう少し詳しく紹介しますと、

見明家は代々神主で、大村神社ゆかりの方であり、直雄さんは戦時中、軍の命令で、台湾の高雄で高雄神社を創建し、神主となり、10年ほどお勤めをしました。

ここで二人の子供を育て、敗戦で大村市に戻ってからも神主をしておりましたが、先の奥さまが亡くなられた後、ツタエ母さんと再婚しました。そのときツタエ母さんが、100枚ほど描いた絵の1枚が、床の間に掛けてある、大きな山水画なのです。


 慈母観音像さま の 赤



私家にしょっちゅう遊びに来る弟の周作家族が居ます。
奥様の高子さんは信心深い方で、毎朝 「般若信教」 のお経を唱え、家族を大切にする心の優しい方です。

ある日、中学生になった奈菜ちゃんと遊びに来た高子さんが、慈母観音像を見て 
「アッ、お姉さん、目から涙を流しているョ」 と 叫んだそうです。
洋子ちゃんは 「まさかでしょう」 なんて言います。
けど、奈菜ちゃんも 「おばちゃん、赤い涙流しているョ」 と言いますので、

しばらくは親戚兄弟揃って 「これはタタリじゃー」 なんて驚かすのですね。
そのときは新しいタオルでお顔を拭き、奇麗にしてから美味しい水と塩、お米を捧げ、皆さんで手を合わせたそうです。

しかし不思議なこともあるものです。
慈母観音像さまは西野 寿おじいちゃんから頂いて、もう15年ほどになりますがサビ一つなく、いつもピカピカ、色艶も良く、凄く奇麗な顔立ちで、ピカピカ光って見えるのは私だけでしょうか。

おかげさまで来客する人はみんな 「奇麗な慈母観音像ですね!!」 と褒めてくれます。


 母応援念願 新築


中古で購入した家も、新築から26年もたつと、あっちこっち、手入れが必要となり、屋根瓦のペンキ塗り、外カベの張り替え、台所から洗面所のフローリング、内装のカベ張り等、材木屋さんと、お友達になれるぐらい、全て自己流で補ってきました。

しかし購入時から雨漏りする原因が分からず、とうとう新築する決心をしました。
資金はないけれど、生命保険の解約でどうにかなると思っていたところ、洋子ちゃんのお母さんから、たくさん応援を頂けることとなり、私達は新しい家の設計図を書いてみました。

30坪の土地をフル活用して、一階は車二台を置けるスペースを作り、和室と水廻りの台所、リビングとし、二階は5室とし、念願の書斎を確保し、角地を利用して道路沿いの長さ12m、幅1mの長いベランダを付け、日差しが全室に入る明るいオープンな家を考え、小倉南区の大石建設さんにお願いし、社長自ら私達が希望する設計図を作成してもらいました。
家作りは春から年末にかけて完成し、その間は家の近くの堂園さんが入居している店舗 兼 アパートで暮らします。

その、お店となる20畳ほどの玄関に、慈母観音像を置いていましたが、何事もなく、娘は小倉南高校を卒業し、小倉KMMビルにある会社の事務員として勤めていましたが、友達の誘いでイギリスへ英語の勉強に行き、真一は志徳中学から八幡の九州国際大学付属高校に通う毎日でした。
そして念願の新築に正月前、引っ越します。


 戸ける 慈母観音像さま


一階和室の中央に仏間、右に床の間がありますが、問題の慈母観音像は仏間に入れて、仏様代わりとしました。
もちろん塩と水、お米をお供えし、榊を両サイドに置き、神様らしくなりました。

しかし、ここから不思議なことが始まります。
家族が寝静まると決まって、カタン、コトン、グギッ、グーッ、ドーンと家がきしむような音がします。
私達家族はみな二階で寝ていますから、「おかしいョー」 と 娘が言います。
息子も 「変な音がする」 と言い張りますので、私は新築の家だから木と木が内気と外気の温度差で、きしんでいる音だと説明するのです。

そんなことを言っている、ある日の朝です。
仏間を見ると閉めておいた仏間の開き戸が開いているのです。
中には慈母観音像が優しく微笑みかけてくれます。
で、妻に「開けたんネェー」
「イヤ開けんョー」  「そうか?」 で再び閉めてしまいます。
普段は仏間に用事はないので閉めているのです。
床の間は狭くなったので、お母さんが描いてくれた大きな山水画は飾れません。

そして数日後、再び仏間が開いているのです。
妻に 「開けた?」 「イヤ開けんヨォー」 でチョットおかしな雰囲気になってきました。
「夜になると誰か歩くような音がするし」 「仏間の戸が開いている」 等々で夕食時、家族会議です。
誰も知らんことですから、たぶん慈母観音像が暗い仏間をイヤがって開けるのだということにして、慈母観音像を床の間に置くことになりました。

半畳ほどの狭い床の間に、お祝いで貰った置物もありましたので、慈母観音像は小さな掛け軸のカベぎわに置き、いつものように塩と米、水を供えます。
前には藤崎好夫さんから頂いた可愛いお人形ケース等置いていました。

しかし、ここも像がイヤがってか、台座から転げ落ちそうになるぐらい前に来ているのです。
これが三度も置きかえると、さすがに不安になります。
それで陽の光が差し込める一番前に置き、家族や来客する方が一番良く見えるところに置いてやると、それからは何事もなかったように慈母観音像が私達に微笑んでくれるのです。
もちろん仏間の扉は、その後一度も勝手に開いたことはありません。


 行橋市元永 引越

小倉南区志井で大変お世話になった毎日新聞徳力販売店を経営する末永さんは、私の祖父母が終戦当時、八幡から守恒に移り住み、山林を切り開いて農場を経営していた当時からの知り合いだそうです。
私は母方のおじいちゃん、おばあちゃんが住む守恒で生まれましたから、すごーく親しいお付き合いした方です。

その末永さんは若いころ行橋市元永の山林から材木を伐採したこともあり、とても旨い水が出るところだと教えてくれました。
その元永に引越す、きっかけは勤めていた会社が倒産し、行橋市の田中印刷所に勤めることから始まります。
行橋市宮の杜には弟と二人暮らしの母が居ますし、三男の周作も、すぐそばの、みやこ町勝山に住んでいます。
それで兄弟仲良く母の元で暮らしたい、それに都会の狭っくるしい生活環境がイヤになり、引越すことを夫婦して決意したのです。
それでも、せっかく新築したのにと、皆から言われるのですが、子供達も大きくなったので、無理なく新しい環境に、とけ込むことを決心したのです。

それで家探しの方ですが、新聞や不動産を読みあさり、たまたま特売物件で早物勝ちの、この家を、妻が決め、㈱すえまつ興産の友枝さんによるお世話で購入し、新築した家も売りさばいていただきました。

引越しには、釣りクラブの、川原さんご夫妻が自慢のクレーン付きの10トントラックでしてくれることとなり、釣りクラブ会員さん達が15人も加勢に来てくれ、おまけに彼達のワゴン車9台も引越し荷物を山積みにして運んでくれましたので一気に引越しできました。
大切な慈母観音像は私の自家用車で運び、床の間に置きます。

その床の間は6畳の和室と洋室につながり、リビングまで見渡せる広い空間があります。
しかも、東の周防灘から朝日がガンガン入り、中庭の芝生広場から新緑の香が入ってきて、心地良い風が観音様に触れてゆきます。そんな住いの環境に慈母観音像さまは大変嬉しそうに微笑を浮かべています。

その後、弟が勤めるTOTO機器より社員価格で、水周り用品を全て取り換え、代理店の神埼工務店さんの色々なアイディアでリフォームしました。
さらにその2年後は、そばの築上航空自衛隊があることで、国費による防音工事が出来ることになり、更にリフォームされ現在に至っています。

田ンボの中の一軒家で自然美に囲まれた優しい環境があります。
そして、何事もなかったかのように慈母観音像さまが広い床の間を独り占めして、優しく私達を毎日見つめています。


 家族つめ、 やがて27年


洋子ちゃんが言います
「この観音様、西野 寿おじいちゃんが、のりうつっているのかナァー」

私はそうは想いません。
優しいお顔はいつも愛情で一杯。
ときどき奇麗なタオルで拭いてやるのですが一つも汚れてないのが不思議なぐらい。
しかも、お体全体、サビ一つなく、とても奇麗だし、見ていても飽きがこない。
毎日見ているせいかも知れませんが、その姿を見るだけで心がスーッとカラッポになってしまうのですね。

これまでの沢山の不自然な出来事を振り返りますと、その要因は私達家族にあったような気がします。
家庭不和は表に出さないけれど、たくさんあります。人様に紹介できない家族のケンカは数知れず。

若いころケンカして洋子ちゃんが実家に帰ってしまいます。
すると寿おじいちゃんが 「夫婦ケンカは犬も食わん」 と言っては、いつも美味しい手料理をご馳走してくれ、仲直りしては帰宅したものです。

おじいちゃんが亡くなってからもズーッと私達の私生活を見てきた慈母観音さまは、ときどき何か言いたげな顔をされることがあります。
しかし現実には変えられません。やっぱり色々なところで諍いを繰り返していました。

もちろん今でも飽きずに喧嘩をやっていますが、その内容は、お金とか女とかギャンブル等といった、ことのケンカは一切ありません、全て家族なんです。

チョット変なところにお話が進んでいきそうですが、私達家族を余すことなく、全てを見て、戒めてくれた観音様が現実に居てくださることを皆様に紹介し、生きることの難しさ、人間模様のありようを問うてくれることに感謝し、神様、仏様を信じることを今一度確かめ、礼を尽くすことを、私達はしないといけない、そう想います。


この稿のスタートは、平成16年12月25日に書き上げたものですが、2度、3度、手直しされ、ホームページに於いても、追加編集されています。


  慈母観音像

優しい顔立ちの観音様は女性ですが、母が子を想う心を見つめ、育てるお姿と想います。
雲の上に立ち、お月様の明りで人間界を観、子を育てる泉の徳利を持ち、私達に優しく注いでいる様子を描いた観音様です。



  慈母観世音菩薩 
   大慈大悲の徳があり
    救いの求めに応じて 
     姿を現す菩薩なり

                       西野 寿



 母いた水彩画から 慈母観音像
   
その不思議出来事秘密発見 !!



これまで不思議な慈母観音像の出来事を紹介してまいりましたが、なぜ山水画の川から水が流れ出したのでしょうか、なぜ母が描いた掛け軸なのでしょうか、分からない不思議なことがあるものです。

その秘密を知るきっかけは、絵を描いた母から知ることになります。


 ツタエさんがいた 山水画秘密

平成18年8月 盆。
長崎大村市から見明直雄おじいちゃんの長男である正臣さんと一緒に、ツタエお母さんがやって来ました。
毎年の盆は、2~3週間、お母さんが私達家族と一緒に過ごします。

今年は特に大動脈瘤乖離という病気で入院し、生死をさ迷った時期もありましたが、義理のお兄さんである見明正臣さんの必死の看病と、洋子ちゃんの二ヶ月余りの付添いで、何とか命を取りとめ、四ヶ月間の療養から無事退院され、初めての我が家です。

そのツタエお母さん、いつものように買い物に行けるほど元気になり、驚いています。
そして、お盆の間、色々な、お話を聞くことができました。

今度は特にホームページを立ち上げ、見明ツタエ集のページも作りますし、見明家や浦本家等のお話しをたくさん聞いて、ノートに書きとめています。
その中で山水画を描いた掛け軸にまつわる、お話しを改めて聞きます。
すると驚くことを言い始めました。


 西野家 松浦藩蘭学者、玉置十郎子孫


釣りで通っている長崎県北松浦郡平戸島は、昭和38年開通した平戸大橋を渡って南の宮野浦港、沖の磯釣りから、サーフのキス釣りで、30年近く通っているホームグランドです。

その平戸大橋そばの山頂に平戸城があります。

まだ一度もこのお城に行った事のない私は、今夏、どうしても行かなくてはならない事情を秘めていました。
それは、洋子ちゃん、育ての親と言っても過言ではない、西野 寿おじいちゃんのご先祖様が、このお城に仕えていたからなのです。

平戸藩おかかえの玉置家は、数十石の家柄でした。
江戸時代末期、最後の藩主である松浦○○に、仕えていた玉置十郎は、江戸づめの武士で、藩主おかかえの蘭学者であり、藩の教育者として、多くの門下生が居ました。

幕末、藩廃置県の改革により、玉置十郎が江戸から帰り、平戸城そばに住み、寺子屋を築きます。
その詳しい内容は亡くなった、西野 寿おじいちゃんから、少ししか聞いていませんし、寿おじいちゃんの直結的な、お父さんは明治時代、西海橋に近い針尾島の学校の校長先生でした。
詳しい家系や玉置家から西野家に移り変わる時代絵巻図を、聞いただけで、少し、しか知りません。
そのことを多く知る為にも、平戸城と平戸藩主、松浦家代々の資料を収めた松浦歴史博物館に行くことになったのです。



 山水画掛け軸、玉置十郎漢文碑

西野 寿おじいちゃんが元気な時、浦本英二さん、ツタエ母さんと平戸城内にある玉置十郎が書いた漢文、タタミ一畳ほどの記念碑文(石碑)を見に行きました。

この碑文は玉置十郎、亡後の門下生が築いたもので、その生徒さんと玉置家、西野家、見明家等の交流で西野 寿おじいちゃんが記念に10枚ほど碑文(石)を拓本しました。

拓本は墨と赤色で、それぞれを掛け軸にしました。
その掛け軸を西野 寿おじいちゃんの子供達6人に贈ります。
その内の1枚をツタエ母さんが貰ったのですが、朱赤文字であるため、淡く消え、冴えない事情で、お母さんがこの拓本を真っ白く塗りつぶし、その上から問題の山水画を描いたのでした。

私が知りたいのは、その石碑文の内容なのです。
どのような文句の漢字なのか、碑文の意味を知りたいのです。

それで平成18年6月に妻と平戸城へ行きました。
初めて登った天守閣、平戸港から外洋瀬戸の眺望は素晴らしいものがあります。

城内を案内してくれた平戸市観光課の占部さんに、色々なことを聞きましたが、平戸城内は観光的に模様替えされ、石碑は移転したとのことです。
その移転先の歴史資料館に行ってみましたが、ここでも移転され、まだ碑文は探しあてていないのが実情です。
いずれ平戸市観光課の占部さんから連絡があるので、分かりしだい取材に行くことになっています。

    2007.10.1.


 平成19年夏、慈母観音像いた


小倉南区志井から行橋に引越して早7年が過ぎました。
その間、家族の中には色々な出来事がたくさんあります。
良いことも、悪いことも沢山あります。

人間ってなぜ苦労して生きていかなければならないのだろう。
どうしてこんなに悩みごとが続くのだろう、と、
ふと人間がイヤになってしまうことがあります。

その要因が家族であれば、なおさら思いが強くなります。
自分勝手な思い込みかも知れませんが、私は家族を大切に想い、妻や子供を愛しています。

人それぞれ一生懸命生きているのは分かりますが、どうしても自分本位に物事を考え、動作と言葉で表現してしまいます。
それ故、ことの現実を受け入れてもらえない、わがままから悩み、苦労が生まれます。

そんな生活の中で、物質的に理解できない事があります。
それは慈母観音像が動くことなのです。

床の間に置いてある慈母観音像は、普段使われない、お母さんの部屋でくつろいでいます。
和室6畳と洋室6畳をフローリングにした12畳の部屋に居ますが、そこにお母さん用の電動ベットに3人掛けのソファー、お母さんのタンス、それに42型のテレビにDVDカラオケをセットして、お母さんが大村市から帰ってくるのをいつも待っています。

その、お母さんの部屋から続く縁側と、その先には広い芝生広場があり、噴水と花壇が彩りを増し、サンゴジュとアカメの垣根から高さ10mほどのクロガネモチの木が3本あります。

他に大きなモクレンからフヨウの木、紅葉の木等、塀に沿って植えています。
そして、その先は小高い元永山、並みが続き、5㎞先には長井浜海水浴場があり、周防灘と続きます。
お天気の良い早朝には、朝日がガンガン入り、床の間に立っている慈母観音像さまは、大変嬉しそうなお姿で微笑んでいるようにも伺えます。

母が描いた山水画は床の間を引き立たせ、慈母観音像と凄く似合っている構図は、自慢の部屋でもあります。
そんな素晴らしい環境の中、慈母観音像さまは何事もなく過ごしておられました。

そして異変に気付いたのは、平成19年9月のことです。
観音様が立っている台座から転げ落ちるキワまで動いているのです。
それで最近、昔のことを思い出し、気を使いながらドア越しに観音様を見守っています。
しかし、3度も、台座の真ん中に置き直しますと、少々不安が出てきました。


 慈母観音像 歩いた


娘、ユーミンが大阪の荒木家に嫁いで1年がたちました。
9月15日は彼女の結婚記念日ですが、もう娘のお腹には女の子が育ち、11月15日は出産予定日だそうです。

大阪に嫁いだ娘とは、ほとんど電話したことがないのに、思い余って二度ほど悩みごとを聞いてもらいます。
その悩みとは最近、慈母観音像が動くことなのです。
決定的な電話は、観音様が床の間から、台所そばの、ドア前までの12mを歩いたことなのです。

今、夫婦二人暮らし。
妻は昨夜から留守をしています。
したがって私一人しか居ない家で、誰が慈母観音像を触ることができるのでしょうか。
念を押しますが私は身命に誓って慈母観音像を動かしたり、悪ふざけなことを、昔から一切したことはありません。

そのときを再現します。

9月21日、金曜日、朝、いつもどうり6時30分に起きます。
本当は5時から目が覚めているのですが、何もすることがないのでベットで目を閉じているだけです。
毎日の生活パターンは朝起きると、トイレと歯磨き、洗面。
朝食はコーヒーにトースト1枚、トーストには妻が手作りしたブラックベリージャムを付けて頂きます。

そして新聞代わりのテレビニュースを見て出勤します。
もう一つ大事なことは、お母さんの部屋の慈母観音像を、台所からガラスドア越しに見ることです。

以前は何事もなく朝の挨拶程度のチラッと覗く程度でしたが、最近は動いていないか、心配しながら観ているのです。
その、お母さんの部屋はレースのカーテンしか、していないので、朝日が眩しいぐらい入り、とても明るいのです。

そして出来事が起こります。

床の間から台所に続く12畳の母室は、大きなガラス戸に閉められています。
それでガラス越しに何気なく床の間を見ると、居るはずの慈母観音像が居ません !!

目を凝らしてもう一度確認しますが居ないのです。
だんだんと恐怖心におちいって、ガラス戸を開ける勇気がありません。

12畳の室は全部戸が閉められているので、この室から出られるはずもないし、昨晩から私一人しか居ない。
しかも昨晩の夜、私は観音様を見ているし、毎日必ず観音様が動いていないか確認するのが最近の日課にもなっているので、その観音様が居ないはずは無い、まさか !! で、戸を開けないで室をよーく見ると、私の足元、ドアの向こう側に立っているのです !!

びっくりした。
驚いた。

血の気が引いたような想いです。

玄関側から、その室に入り、その驚きの現実を見たのです。
ドア前に立っている後姿の観音様を写真に撮り、そのままの状態で、私は会社に行きました。

そして昼間、妻が帰宅してドア越しに居た慈母観音像に気が付き、私が悪さをしたのだ !! というイメージで、床の間に置いて、何事もなかったかのように妻は済ませます。

会社から帰宅して妻に問いただすも、たいして気遣うこともなく済ませるのです。
しかし、それでは気が収まらず、普段お世話になる行橋市今川の正山寺へ、その夜行き、慈母観音像についての今までのいきさつの話しを聞いてもらいます。

住職は43歳 生土昌行さんで、母が行橋市に住いを構えてから檀家としてお付合いをしています。
母が亡くなった3年ほど前から上瀧家、長男としての責任で、お寺さんと絆を深くしています。
その中で、今度の慈母観音像の話しを聞いてもらったのですが、問題はなぜ慈母観音像が動くのか !! です。

住職は「上瀧さんがそう想っているのなら本当に動いたのでしょう」とのことですが、問題の核心に至っていないのも事実です。
私は慈母観音像が家族に何か呼びかけている気がしてならないのです。
その思いは複雑なのですが、不思議な事をする慈母観音像にただ手を合わせるしかない、その現実を受け入れながら今、迷っているのです。


 皆台所鎮座する 慈母観音像さま


娘、ユーミンが早めの里帰りとなり、9月末、お腹を大きくして帰って来ました。
どうも赤ちゃんの生育が良くないらしく、帰郷して母の元で産婦人科に通うことを指示されたそうです。
帰郷して一週間、安全なお産を考えて大きな病院に入院することとなり、5日後には帝王切開して無事、女の子を出産します。
子供は1200g、保育器の中で25日間育てられ、1ヶ月後の11月初旬に無事退院。
母も子も全て良好な状況に戻り、毎日孫の美優を抱っこしミルクをやり、お風呂に入れることを楽しんでいます。

11月27日現在で3200gとなり、大きな目と濃い眉毛は妻、洋子にそっくりだし、口元から頬にかけては娘、ユーミンに似て美人。
しかも長い手足。
将来ファッションモデルになりそうな美女が孫なんて信じられなーい、なんて想いながら台所で美優をあやしながら傍で観ている慈母観音像に感謝しながら手を合わせ、感謝の念を毎日送っているこの頃です。

因みに慈母観音像さまが、皆が居る台所とリビングの部屋に来たがっていたので、台所にある神棚下の電話台に置き、毎日私と顔を突き合わせ観てくれて居ます。


 不思議慈母観音像さま

もうすぐお正月、今年は初孫が生まれ、不幸なことは一つも無かった。
心配事は多大あるが、それをクリアーしたユーミン・ママと美優ちゃん(ミーちゃん・モンダ虫)
それにいつも気遣ってくれるノブノブ・パパさんに感謝。
このごろは美優ちゃんを、あやしながら 「モンジャ虫」 というあだ名をつけてやりました。

手と足をバタバタ、モグモグ、動かすのでそう名付けたのですが、抱っこしながらモンジャ虫に語りかけていると、ヒャー、フゥー、ジャーと返事してくれます。
「ユーミンがお父さんとお話しをしている」 と、そばで言っています。
そんな幸福も、お正月が過ぎれば、みんな大阪に帰ってしまいます。

私の両親は、もうこの世に居ませんが、洋子ちゃんのお母さんが元気だし、私の親戚兄弟は皆元気。
健康で病気せず毎日が幸福であることが一番の喜びだし、慈母観音像も、たぶん私達家族の一員である事を願い、動いているのかも知れません。

家の中心に広い台所、リビング。
それらを見渡せる居場所がほしかったのではないか !!
そう想いつつ、今度はここで終わりとします。

        2008.11.1.


 2009年、夏、平戸 松浦藩、蘭学者  玉置十郎記念碑して


毎年お魚釣りで、3~4度は来島する平戸島。
その釣行には必ず釣りのファン子ちゃん(妻)と一緒なんです。
その中で、ちょっと余裕のあるときは西野 寿おじいちゃんを想い出し、玉置家祖先の碑文を探しているのです。

平戸城も二度行ったし、その公園を歩いたり、歴史資料館から平戸港の散策。
そして9月には、やっと突き止めた歴史館も行きました。
ここでは住まいを構えている方から詳しく、事の真相をお話し、しましたけど石碑は庭園にはありません。

もしかしたら平戸島以外のところに有るのではないでしょうか? とも聞かされてガッカリです。
どなたか、幕末から明治維新にかけて松浦藩に仕えた玉置十郎先生のこと、そしてタタミ一畳ほどの漢文の石碑、の手掛かりを教えてもらえないでしょうか。よろしくお願いします。

 慈母観音像さま その
    ノブノブ、ユーミン、ミータン家族、行橋
出張、住まい


「世の中楽しく生きなくチャー」がモットーの洋子ちゃん、それがズバリはまって、ノブノブ家族が
21年3月より行橋市に住いを構えました。
住いは別ですが、10分足らずで遊びに行けるところです。
そして、しばらくの間は私家を遊び場として、ミーちゃんのオモチャが部屋中あっちこっち広がります。
そして夕ご飯と、お風呂まで過ごして帰宅しています。
その賑やかしい光景を慈母観音像さまがニコニコ見てくれ、昔の私達の新婚生活を思い出させてくれているようです。

つづく


 慈母観音像さま、家族つめ35年

平成12年を迎えて、新しくポートフォリオを作りかえることにしました。
それは、パソコンも6年ほど使うと、時代のスピードについてゆけずホームページ製作に様々なところで制約が生じるからです。
それで平成11年、早々に新しくSony.バイオ23型、様々な可所で更新しています。

もちろん、頭の古ィ私は、娘、ユーミンに応援してもらい、なんとかリニュアルオープンできました。
しかし、今からの製作です。

それで、まっ先に「不思議な慈母観音像のお話し」を手掛けています。
何度も文を読み返し、しょっちゅう修正しているものの、本題の内容は一つも変わりません。
正直に有のまま、動く慈母観音様を書いています。

これからどんなことをしでかすか、興味もありますが、今は静かに床の間に鎮座し、毎日の私達を見守ってくれています。
私達家族が、一つも病気せず、事故なく、健康で暮らしている事が、凄く恵まれていることなんでしょうが、それでも私(61才)、妻も(56才)、互いに年をとり、色々なハンディが少しずつのしかかってきています。
それでも、まだまだ元気で社会の為、人の為、そんなハートで、会社勤めを果たしています、このごろです。

ご親戚、皆々様には、お変わりなく、お過ごしのことと、お喜び申し上げます

今後とも切磋琢磨しながら、もう少し皆様と遊びたい、コミュニケーションしたい、と思っております。

これからも洋子ちゃんと、私が製作配信しているホームページを、よろしくお願いします。
どうぞ、いつでも遊びに来て下さい。慈母観音像さまと一緒に、お話ししましょう。♡
















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不思議な慈母観音像のお話し パート2

      稿 大和三郎丸 (上瀧勇哲)