2017.8.1. リニュアルオープンしました 皆さんお元気ですか 私達遊んでいます  musick sweetomimori (松田聖子))

このページは2007.3.1.公開したものですリニュアルして紹介しています

       上瀧家のルーツを探る



1800,~2007,8.3 スタート   佐賀県小城市牛津の先祖へお参り


祖先が眠る佐賀県小城市の旅 父連れて行ってくれた町は今
  
知らない祖父はどんな人か 父松義の生き方。その信仰心
   上瀧家と、内村家のつながり 豪商 内村家の衰退。
          稿 上瀧勇哲




 
2017.7.10.よりしいページ配信中です
「上瀧勇哲のホームスタジオ」から「上瀧家のルーツを探すをご覧下さい







上瀧とは「じょうたき」と読みます。
略字で「上滝」と書いても同様なあつかいで通用します。

上瀧家の先祖が多い佐賀県小城市、
もしくは佐賀市でも二通りの名前がありますが全て親戚筋です。

上瀧家のルーツは江戸時代初期から佐賀で始まるそうですが
詳しいことは分かりません。

昭和56年7月、家族で祖父(長二郎)の故郷に行き、
寺参りと親戚訪問をしたことがあります。

このとき父のいとこである上瀧○○さん家に行き、父はここで二泊しました。

この方の息子さんが、かの有名な競艇選手、上瀧和則さんであることを後で知ります。

その後この地の訪問はなく親戚付き合いが途絶えています。
そして・・・・・・・・


平成20年8月1日訪問。益田カネヨおばさんと祖父、
上瀧長二郎の写真を見せてもらいます。


祖父 上瀧長二郎おじいちゃんのこと

祖父 上瀧長二郎おじいちゃんのこと


私が生まれる前に亡くなった方で、カネヨおばさんが言うには、
若いころは陶芸師であり、仏師として日本全国を旅した方とも聞きました。

そして北九州市小倉で内村チエさんと知り合い、
結婚して父が生まれ、カネヨおばさんが生まれます。

しかし、病気がちで早死したと聞きます。

そんな長二郎さんのことを知る父が、もうこの世に居ませんから、さて困りました。

そんな時、益田カネヨおばさんから大切にしている
長二郎おじいちゃんの写真を見せてもらいました。

写真の裏に昔住んでいた佐賀の住所が書いてありました。

写した写真屋さんの住所も佐賀、小城市牛津駅そばにあることが分かりましたので、
三度目の訪問を洋子ちゃんと、することになります。



佐賀県小城市牛津町、永福寺と上瀧家先祖の墓へ洋子ちゃんとお参り、
平成21年2月29日(日)雨でした。


父、上瀧松義の誕生から、その生き方

父、上瀧松義の誕生から、その生き方

チエおばあちゃんのお腹で6人の子供が生まれ、
その5番目が父、松義となります。

戦時中であったり、女手で子供を育てる中で大変な苦労があったようです。

詳しいところは内村家のページで紹介しています。

チエおばあちゃんは上瀧長二郎さんと再婚し、父、松義が生まれます。

その妹はカネヨおばさんで、益田家に嫁ぎます。

父の義理の兄となる内村久雄さん、白石キクエさん、末松なみえさん、
うめ子さんの6人は、それぞれのページで紹介しておりますが、
6人の子供を育てたチエおばあちゃんは、父が最期まで看取り、
私が小学校3年生のとき亡くなりました。

そんな優しい父が生まれ育った環境は非常に厳しいものがあります。

大正から昭和にかけての時代は、国内外の政治が乱れ、戦争が多発し、
厳しい生活が子供達にも及んだときでもありました。

幼子を6人育てるチエおばあちゃんは、松義を石屋に奉公させます。

そのときの苦労話しを耳にタコができるぐらい父から聞かされました。

それは毎朝5時に起き、石磨きから職場の掃除。学校から帰って、
たくさんの雑用があり、厳しい、辛い思い出がたくさんあったようです。

それと、もう一つ辛いことは右目が見えないことです。幼いとき病気で失明したのです。

でも、そのおかげで兵隊に行かなくてすんだのでした。

その後、畳職人として弟子入りし、一人前になります。

群児島定二さんとか、津島さんは兄弟弟子で仲の良かった方でした。

そして30才ごろで母、ヨシエと見合い結婚することになります。

その翌年の二月、私が小倉守恒で生まれることになります。昭和25年のことです。

その後、家を購入したり、畳床の機械を買つたりし、
職人さんが5~6人いましたので、かなり頑張ったようです。

しかしながら高金利で金を借りていたので、返しきれず倒産になります。

ここで母方の牛島栄六おじいちゃんが、家だけは買い戻してくれますが、
この頃より段々と自営業がカラ廻りするようになります。

そんなとき家の近くに浄土真宗の教えを広める
滋賀県大津市から仏師がやって来て大きな家を建てます。

その仏師が畳の注文をしてくれますし、色々な表具の注文をもらい、
仕事を重ねている内、父がその仏師と親しくなり、
浄土真宗の教えをその道場で聴くことになります。

当然、母や私達も通うようになりました。

10年ほどして、その道場が北方に移転しますが、
この辺ごろから父と道場門下生とのいざこざがあり、
段々と道場から遠ざかってゆく姿を見ますが、
それでも毎日仏壇の前でお経を唱える父がいました。

母は肺結核という病気で、国の保護を受けながら入、退院の繰り返しです。

私が小学校から中学、高校までずーっと父が、自営業をしながら家事をし、
私達兄弟がそれを補ってきました。

私達が働き、家計が良くなり、母も病気が治り幸福な生活がしばらくありました。

ある日、私が妻にする洋子ちゃんを紹介しますと、
親父が驚くような視線で奇麗な洋子ちゃんを見てくれたことを想い出します。

その後、脳梗塞で倒れ半身不随になり入院。

7年間病床で過ごし、洋子ちゃんが見守る中去ってしまいました。

父の葬儀は行橋市宮ノ杜に家を建てた弟、哲郎と一緒に住む母の元で葬式をします。
母が気に入っている正山寺 住職の生土昌行さんにより、
安らかに阿弥陀様の元へ行かれました。

平成10年12月14日、76歳でした。



平成21年2月29日、佐賀県小城市牛津町、永福寺へお参り、臨済宗のお寺では古く、歴史のある本殿に手を合わせました。
   


父は畳の芸術家、趣味お念仏をいただく信仰

父が一番自慢していたこと。それは仕事です。


畳職という地味な手仕事なんですが、昔から鍛え上げられた技術は、
他の職人さんよりズーッと上手で「松義さんの仕事は気持ちがこもって素晴らしい」
と評判の畳職人さんでした。

しかし、畳1枚仕上げる工程に時間をかけ、念入りにしても1枚いくら?となると、
上手でも悪くても値段はそう変わりません。

     

良い仕事をしたからと言って、たくさんお金を頂ける商売でなかった為、
親父はいつも損ばかりしていました。

「正直で生真面目な性格は商売人にはなれない」そう母が言っておりましたが、
とうとう最後までこの仕事を続けました。

そんな親父の性格を半分くらい私が背負っておりますが、
父の真面目と、一つのことをやり遂げるガンバリは凄いものがあります。

 

親父の趣味であり、生甲斐となったのは阿弥陀様を信じる信仰でした。

40歳の頃から始めた念仏に、
命をかけるぐらいの意気込みを感じたのは私だけではありません。

朝と晩、お経を唱える父の声はすごく迫力があります。

その辺のお寺さんのお経よりズーッと力強く、念仏の一言々々に気合を入れ、
唱えている父に「何かにとりつかれている」そんな気さえしました。

しかし、お経を上げているときとは対象的に、食事のときは優しさに満ち溢れており、
毎日、毎晩、子供達に仏様のお説教をするのですね。

正直、ウンザリするぐらいで、半分も聞いていませんけど、父は一つも怒りません。

豊かな生活ができなかったのは、全て父に責任があるわけではありませんが、
一生懸命生きた時代の中で、上手に世の中を生きてゆく
「知恵」がなかったから、そう想います。




佐賀県牛津町、永福寺へお参り。


父、松義がくれた大切なもの

「子供は宝、子供の幸せは親の幸せである」と父は言います。

父の会話の中には、必ず仏様のお話が入ってきます。

人を信ずるとか、仏の道とか、信仰の力とか、お釈迦様や念仏、
中国の偉いお坊さんの話し、色々。

これ等は父が信仰をしている道場で聞いてきたことを私達に教えているのでした。

偉い先生のお話しを、子供に聞かせることで、自分自身の勉強をしていたのかも知れません。

その心を優しく感じていると、父の人柄が良く分かります。

父からもらったものはたくさんありますが、子供をしからない、
手を上げない人。人から好かれ、多くの人が我家に出入りしています。

父の人間性は、優しさとお人好し、そして仏様を信じる迷いの無い心でした。

    

それがゆえに生活苦もありましたが、その分、私達子供が力強く育ったと想います。

晩年は脳梗塞で半身不随になり、7年間入院生活をしましたが、
母が毎日のように看病に行きましたけれど、
私達はそれに甘えてほとんどしてやることがありません。

寂しい運命であったことを偲びます。

上瀧松義、改名 釈義円

 


 母、上瀧よしえのこと

母、上瀧よしえのこと

母の生まれ育った環境は、牛島家のページで紹介しておりますが、
父、松義と結婚し、しばらくは幸福であったと想います。

しかし、戦後から復興の時代で、世の中みんな貧乏でした。

そんな仲、働き盛りの父は畳職として事業を起します。

当然母も一緒になって、朝早くから夜遅くまで仕事に精を出します。

畳屋さんはイグサ床を何重にも重ね合わせ、厚さ8㎝ほどの床を作りますが、
この作業が大変なんです。

母も一生懸命父の加勢をします。

床ができたら職人さんが表イグサを張り、ヘリという生地で両端を留め、
畳一枚がやっとできます。

ただ、その畳の重たいことです。そんな重労働があり、母は病気になります。

肺結核といって、私が小学校低学年から10年間、入退院の繰り返しでした。

もちろん父も家事をしながら、子供達の世話をしてくれました。

母も元気があるときには、トウフ屋さんのバイトや色々なアルバイトをして家計を助けます。



そんな母の趣味は踊りでした。夏の盆踊りがきっかけで、
町内会から趣味のクラブにも参加し、老人会の慰問から学校、
PTA等の行事参加をしていました。

そして私達子供が大人になり社会にでると、やっと暮らしが楽になり、
母の病気もほぼ完治され、北九州市や小倉の街の色々な
イベント行事の踊りには必ず母が居ました。

そんなとき父が脳梗塞で倒れ、入院します

7年間の病院通いがありましたけれど、
病気一つせず元気な母が弟と共に行橋市に引越しし、
ここでも「英」という踊りの会に入り、町内から校区、行橋市等の祭りから、
年に一度の行橋市民会館で踊りの発表会等ありまして、
けっこう充実した楽しい一生を終えたと想っております。

母の生き方は、友を多く作ることが上手で、何事もまっすぐに生き
、身体を張った言葉の中で、
その重さを伝えながら友と一緒に遊ぶことが上手であったと想います。

行橋宮の杜に引越して8年あまり、今川の正山寺さんとの密接なお付合いを頻繁にしながら、
松本のじいちゃん、山田のばあちゃん、英先生や町内会、老人会、
たくさんの人々から愛され、私達家族が見守る中、優しい笑顔で去ってゆかれました。

平成17年7月12日、改名 釋尼慈光 80歳。


佐賀県佐賀市兵庫、禅宗  寺、牛島家へ先祖のお墓参り、平成21年2月29日



内村チエ(祖母)と内村家のお話し

内村チエ(祖母)と内村家のお話し


私が9才のころ亡くなったチエおばあちゃんは、孫(私)を抱き、
手をとって片野の浄土真宗 正圓寺や泉寺に良くお説教を聴きに行ったそうです。

法話を聞かせてくれる仏師の中で、小手川勇哲さんというお坊さんが大好きで、
そのお坊さんの名を頂いて私の名前が、勇哲と名づけられたと、親父から何度も聞かされます。

内村チエおばあちゃんは、山口県大島郡大島村の内村家の長女として生まれますが、
次女のクラ、三女のカネの三姉妹であったため、
長女チエは18才のとき婿養子をもらうことになります。

詳しく説明しますと、内村家は代々の庄屋さんで米問屋をしていました。

明治時代は米や醤油、塩、漬物まで幅広く営み豪氏でもあったことを聞きます。

その内村家に婿養子に来る久助さん家は船問屋。

今で言う貨物船を3~4ハイもち、広く商いをしていた貿易商で、
その次男か三男?の久助さんと結婚します。

そして4人の子供が生まれました。

①長女のキクエおばさんは、白石武雄(小倉北区)に嫁ぎます。
②長男の久雄さんは内村家を継ぐことになります(小倉北区三郎丸)
③次女のナミエさんは末松岩之助さん(八幡西区)に嫁ぎます。
④三女うめ子さんは 

どうして北九州市にやって来たのか分かりませんが、
その久助さんは子供達を置き去りにして、
どこかの街で再婚したと聞きます。(益田カネヨおばさんの話)

その後、縁あって上瀧長二郎(私の実の祖父)と内村チエさんが結婚します。(再婚)

⑤そして私の父、上瀧松義が生まれます。

⑥妹にカネヨさんが生まれ、のちに益田 勝さんに嫁ぎます。

古い戸籍には山口県大島郡大島(瀬戸内海の周防大島)から、
代々継がれる内村家の長女、内村チエとして生れ、昭和34年、
小倉三郎丸で82才の生涯をとじたのです。

◎内村クラ(チエ祖母の妹で次女)さんのことは分かりません。

◎内村カネ(チエ祖母の妹で三女)さんは、
北九州市小倉で林 千代吉さんと結婚します。

林家は代々継がれるこの地の名家です。
材木問屋をしておりました実家があり、
カネおばさんは幸せに暮らしていたと聞いております。


北九州市の内村家は絶える?

私が知る内村家の後継者は居ません。
もしかしたら次女の内村クラさんの
ご先祖が周防大島で内村家を継いでいるかも分かりません。

カネヨおばさんが話すには、山口県大島の米問屋等、
広く商いをしていた内村家祖父はたくさんの証文貸付金を全て放棄し、
多くの人々にほどこした!! そうです。

内村家、上瀧家の人々を見ると分かりそうな気がします。

小倉、内村家のお墓は、小倉北区○○寺にありますが、
私が知らないもっと古い過去がありそうです。

その歴史を知るにはまだまだ時間がかかります。


内村チエ(祖母)おばあちゃんの子供たち

①長女の内村キクエさんは、北九州市小倉三郎丸で白石武雄さんという軍人さんと結婚します。

5人の子供ができ、長男の白石武治さんと私は義理の従兄弟になる方でお元気でお過ごしです。

同じ町内である為、子供の頃の私は随分キクエおばさんから可愛がられたものです。

②長男の内村久雄さんが本来、内村家を継ぐことになりますが、
結婚されてまもなく奥様が亡くなられ、光弘さんを養子にされます。
光弘さんは従兄弟にあたりますし、同じ町内でもありました。
結婚されて女の子が三人できましたが、早く亡くなられ、
奥様、子供さんとも実家の佐賀に帰られ、消息が途絶えました。

③次女の内村ナミエさんは、北九州市八幡東区の末松岩之助さんと結婚され、
太一郎さんと妹さんである○○さんが生まれますが、
この方が全日本ミスユニバースの九州代表に選ばれた大変奇麗な方と親父が自慢していました。

④三女の内村うめ子さんについては分かりません。

⑤上瀧松義。
内村チエ(祖母)さんには上の4人の子供が居ましたが、
結婚相手の久助さんが子供を置いて家を出てしまいます。

その後、上瀧長二郎さんと知り合い、再婚することになります。

そして私の父、上瀧松義が生まれます。

⑥二年ほどして上瀧カネヨさんが生まれます。
カネヨさんは小倉造兵所に勤めていたとき、憲兵をしていた益田 勝さんとしりあい結婚しますが、
こちらは益田家のサイトで紹介しています。

⑦前夫の内村久助さん、再婚した上瀧長次郎さんとの間に6人の子供を育てた
チエおばあちゃんは、たいへん苦労されましたが、晩年、孫の私や哲郎を連れて、
お寺参りを良くしたことを聞きます。

奇麗で優しいおばあちゃんであったそうです。
       

内村家、上瀧家に関わる内村チエ(祖母)総括

内村家、上瀧家に関わる内村チエ(祖母)総括

ここでのお話は父、母はもちろん私の記憶と白石武治さん、
益田カネヨおばさんから多く聞いたことを記載しています。

小倉北区三郎丸の上瀧松義家の周りには多くの親戚が居ます。
みんな血のつながりのある方ばかりでしたが、親父のへんこつ、と、優しさ、
人の良さが裏目にでて、この地を去ることになりましたが、私にとっては故郷です。

今、三郎丸は都市の一環となり、多くの親戚縁者がこの地より分散しました。

寂しくなりましたが時折この地を訪れ昔を想い出すことがあります。

昔、内村久雄おじさんが毎晩のように風呂に入りに来ます。

「勇哲、哲郎、周作」と可愛がってくれ、良くお小遣いをくれました。

「ワシが死んだら後のこと頼むゾ!!」と言って去ってしまいました。

しかし、内村のおじさんの後を継ぐ方が居ません。

白石キクエおばちゃんが言います。

松義さんには三人の男の子が居る「子供は宝ジャー」と言って、
貧乏を励ましてくれたこと、たびたび、子供ながら聞きました。

優しい大声のおばさんから、たくさん励ましてくれたことを思い出します。

内村久雄おじさんが口癖のように言っていました。

「死ぬ前に一度、周防大島に行ってみたい!!」と。

あの元気なとき連れて行ってやればよかった。と悔やまれます。

その気持ちを平成21年の今年、周防大島に行き、
どこか分からない内村家祖先のお墓参りをしたい、
おじさんの好きだった「栗まんじゅう」を持って。

もしこのサイトを見て「内村家のことを教えていただける方」がありましたら是非お電話下さい。
こちらから伺います。
℡.F0930-24-0199です。よろしくお願いします。



あとがき

人生は長くて短いものです。
「光陰矢のごとし」とは、ときの流れの早さを言いますが、私も残りわずかです。

その中で今、私ができることはご先祖様を敬う心です。

上瀧家のルーツ、祖先とそれに繫がる親戚関係を、きちっと整理し、
次の若い世代にその足跡を残しておきたいのです。

その上でご恩報謝の心でご先祖様に感謝し、今こうして幸せであることを手を合わせ、
次の世に進められたらの願いです。




佐賀県牛津上瀧家ご先祖の訪問

昔、父母に連れられて行った、祖父の実家がある佐賀県小城市に行きます。

恥ずかしい話しですが、30数年前、自分の車で弟と4人で行ったときの寺、
墓参り、親戚の家を覚えてないのです。

それでその記憶を辿ってもう五年ほど通っています。

そして先月も弟と行って、その地を見つけ出すことが出来ませんでした。


平成21年2月15日(日)、快晴。佐賀県小城市大和町へ訪問

朝早く、弟と妻の三人で行橋を出発し、
今日は30年前撮ったお寺の写真とお墓の写真を10枚ほど準備しています。

しかも、佐賀の電話帳の切り取りと詳しい地図。

それに頼もしいカーナビがありますから、今度こそ見つかると勇んで出発します。

我が家から東九州道、苅田北九州空港インターから入り、九州道→長崎道、
佐賀大和インター下車で降りて、国道34号で小城市まで3時間ほどです。

これから洋子ちゃんと哲ちゃんの二人でカーナビをフルに活用して探訪です。

あっちこっちの、お寺参りをしながら賽銭箱にジャラジャラ小銭を入れて、
手を合わせ、お寺の住職や坊守さんとお話してコミュニケーション。

すると、皆さんから懐かしい北九州市のことを良く聞かれます。

みんな何かの縁で、小倉南区とか行橋市、豊前市、
下関市、長崎県対馬市とか大分県佐伯市等の話しをします。

これらの地域は、お魚釣り場で良く通っている場所ですから詳しい
お話しをしてやると、とっても喜んで又々お話がはずむのですね。

それでアッという間に午後4時です。

最後に洋子ちゃんのアイディアで、大和町の上瀧モータースのお店に入ります。

「同じ名前と、全日本競艇選手、上瀧和則さんの遠縁の者ですが」と言うと、
詳しく教えてくれます。

もっとも私と和則さんとの間は4つ系統離れた、従兄弟の間柄です。

顔も私に似ているそうですが、私はギャンブルは一切しませんから、あんまり興味はありません。

案内してくれたお寺さんは、善寺の臨済宗のお寺でしたが違っていました。

今日はここまでとして夕方、九州道の古賀SAでハンバーグ定食を頂いて帰宅しました。

そして、次の訪問となります。


平成21年2月22日(日) 曇のち雨。佐賀県牛津 永福寺

朝から雨、ときどき強い風が吹いてイヤなお天気ですが、
洋子ちゃんのホンダライフで出発します。

この車は洋子ちゃんのお母さんが買ってくれた新車で、
保険からカーナビ一切全てを付けてもらっています。

そんなナビに佐賀JR牛津駅にセットして出発は午前8時前。

いつものようにホットコーヒーやら菓子等をたくさん持参しています。

途中、古賀SAでお土産を5箱購入して、もしかの時の準備をしておきます。

佐賀大和ICで降りて、国道34号、牛津駅交番で永福寺を紹介してもらいます。

すると私の住所録にも永福寺のお寺さんの名があります。

これは一昨年、訪問したとき、牛津駅前の写真館さんで、
上瀧長二郎写真の裏に書いてある古い住所が戸川村で、
近辺の善寺のお寺の紹介が永福寺だったのです。

このとき、訪問したときは留守で、お墓はあまり見てなかったのです。

それにこのお寺、数年前にも来たことがありますから、今日で三度目。

もしかしたら4度目の正直になるかも知れません。

国道34号線に新しくバイパスが出来たそばの永福寺さんは臨清宗のお寺です。

広い敷地に小さな小山があります。

その山の斜面にあるお墓のなかに上瀧家の墓があります。

記憶の中と写真のイメージで、お寺と、お墓を重ね合わせてみますが、まだ分かりません。

大切なのはイグサ屋根のお寺に、正面に石の門柱が二つ並び、
その奥に家門があることなんです。

古い写真を見ながらウロウロしている洋子ちゃんが、このお寺に間違いないと言います。

そして雨の中、小さな小山に登って30数年前を想い出します。

イメージと違う中で、上瀧家の墓を三つ、四つ確認して、
お寺の玄関ブザーを押しますと、洋子ちゃんと同じ年頃の坊守さんにご挨拶し、
ことの成り行きの話しに、手元の写真を見ていただいて、はっきり確認させて頂きました。

「相違ございません。20数年前、お寺全てを建て替え、
墓地を整理して随分変わりました」と聞きます。

お寺の裏に国道ができて玄関が裏に変わったそうです。

そして、坊守さんがお寺の本堂をご案内して頂きました。

中央のお釈迦様、左右のだるま大使さま、観音様等を一つ一つ説明いただき、その下で手を合わせます。
そして別館に案内されて若住職とたくさんなお話しを聞き、温かいお茶にお菓子を頂いて、ホットな雰囲気で良かった、良かった。

祖先の親戚縁者が、この地にたくさん居ることを知ってただ感謝。後日もう一度、行橋銘菓とご仏前をお届けして、これからもよろしくお願いしますとして、お電話を頂きました。

 


佐賀県神崎、牛島家先祖のお墓参り 22日、午後2時過ぎ

父と母の先祖が、わずか50㎞離れたところにあることで、
毎年、母のおじいちゃんの先祖が眠る  寺にお
参りします。

こちらも禅宗寺のお寺ですが、坊守さんがあいにく不在でしたので、
お墓参りをさせていただいて、ご近所に住む実家にあたる牛島家と、
その兄弟親戚家に行き、簡単なご挨拶をいたします。

雨の中わざわざということでしたが、このような触れ合いもきっとおじいちゃん、
おばあちゃん、父、母も喜んでくれるでしょう。

父、母が出来なかったことを私達がして上げられること、
そしてこのようなお付き合いの仕方も北九州市、
行橋市の上瀧家と佐賀とのつながりを子供達、
親戚方が深くつなげてくれることを願って、まだまだ私達はガンバリます、
としておきましょう。

 
 





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