| 妖しが沼の怪(地の章)04/8/10 |
地の章渡し守妖しが沼の暗く濁った水面は陰鬱とした重い霧に阻まれその姿を隠し、夜半の寒気に凍てついた鬼蓮が軋んだ音を立てている。時折得体の知れぬ獣の、金を切るような獰猛極まりなき叫び声が聞こえ、黒い斑紋のある葉を持つ不気味な柳の枝をゆらゆらと蠢かす。この妖しが沼は木曽山脈の山深き場所にあり、悠久の太古、不可思議な地殻変動によって生まれたと言われる。連なる山々の狭間、深く落ち窪んだ場所にあり周囲を切り立った崖に囲まれ外界から隔絶された深き森の中にひっそりと息づいている。日がな一日陽光の差す事の無い沼であり、その全貌を見たものはまだ一人もいない。しかし、その深く濁った泥水のそこには巨大かつ邪悪な生物が存在すると言う。 妖しが沼は鬱蒼と繁る陰樹林の森に覆われており、その陰樹林も沼の毒気に当てられてか他に見られぬ独自の進化を遂げ、怪しさを増している。得体の知れぬ野獣も多いため訪れる者は殆どいないが、しかしこのような秘境にも人が住んでいた。 夜も更け、暮れ五つになろうとしているにも拘わらず、沼の縁には深く傘をを被った渡し守が腰を曲げ佇み、血の気のない唇の端を卑しく曲げ薄ら笑いを浮かべている。その笑いはまるで今まさにやって来た旅人の運命を見透かしている為のようであった。 旅人はまだ若く、暗い森の瘴気に押されつつもその双眸には希望の光が宿っていた。粗末な傘と蓑を身につけ、脇差のような包みを腰に挿している。 「ほっほ、死相が出ておるぞ、若いの。」 老いた渡し守の白く濁った目が旅人の顔を覗き込むが、男は顔色一つ変えない。 「俺には少なくとも、あんたの方が早くおっちんでしまいそうに見えるぜ、おやじ。」男はにやりと白い歯を見せる。屈託の無い明るい笑顔だ。 渡し守は気分を害した風でもなく、微笑を返しながら興味深げに旅人の姿を見やった。渡し守の目を引いたのは旅人が帯に差した二本の包みだった。脇差のように見えるがそうではなかった。棒状の物が大切そうに布にくるまれている。 渡し守の視線に気づいた旅人はその包みを開けて見せた。粗末な包みから出て来た物は、四尺ごとに分かれた竹製の見事な釣竿であった。全部で六組あり、全てを継いで三尋の長さになる。丹念な塗り物をしており鈍い光をはなっている。そして竿の手元には定光と銘が彫ってあった。 「見ての通り、俺は釣り師だ。凶次って呼ばれている。この竿は相棒の定光だ。この沼に化け物みてえな魚がいるって噂を聞いたんで早速駆けつけたっていう寸法だ。」 凶次の親しげな自己紹介を、まるで無意味な事を聞くように冷ややかに受け止めた渡し守は、またいやらしい笑みを浮かべた。 「ふふ、そうかい。釣り師かい。なるほどねえ。どうりで今までの来訪者とは感じが違う訳だ。しかし、くく、この沼にいる魚を釣ると言いなさったか。化け物を釣ると言いなさったか。」 含み笑いを始めた渡し守をいぶかしげに見つめながら凶次は竿をしまった。 「おい、ところであんたは何をしてるんだ。こんな所で渡し守をやってても客はこねえし、いったいどこに乗せて行くつもりなんだ。」 凶次の質問に笑いをおさめた渡し守はじろりと相手を見据えた。 「人は住んでいる。この沼の対岸にな。そこに連れて行くのがわしの勤めよ。」 意外なことを聞いた。人里を遠く離れ、また旅人も恐れて近づかないこの森に人が住んでいるとは思わなかったのだ。凶次は興味深げな目でその言葉を受け止めた。 「そうか。おもしろい。俺もそこへ連れて行って貰おうか。渡し賃はいくらだ。」 「ふん、金などいらんわ。そんなもの貰った所で何になる。早く乗れ。ただし、命は諦めることじゃ。」 命を諦める。意味深な言葉に鼻を鳴らして返し、凶次は何も言わず舟に乗り込んだ。 顎(あぎと)ぎぃこ、ぎぃこ、舟をこぐ音が陰鬱に木霊する。その音の、まるで地獄へいざなっているような調子に、凶次は不吉なものを感じていた。冥界に渡るという三途の川にも同じように渡し守がいると聞く。その三途の渡し守と、今自分の後ろにいる渡し守が、同一化するような錯覚を覚えさせるのである。今、俺が向かっているのは地獄なのだろうか。この渡し守は命を諦めろと言った。陰気な思いにかられ凶次の手は無意識に使い慣れた釣り竿を撫でていた。「名を教えてやろう。」 突然今まで押し黙っていた渡し守が口を開いた。凶次は尋ねるように目線を送った。「お前が釣ろうとしている奴の名じゃよ。」若者は無言のまま促した。 「ふなくびり」 老人の声は呪詛の如く湖面に響き渡った。 「かの者は魚に似た姿をしておるが魚ではない。まともな生き物ですらない。いつからこの沼におるかさえ知らぬ。だが遥か太古の昔じゃ。われわれ人間が大地に芽生える以前から生きておる大いなる種族の眷属なのじゃ。人の力など、かの者の前で何の役に立とう。姿を見ただけで魂が壊れてしまうだろう。わしもかの者の本当の名は知らぬ。しかしここに住む者は畏怖の念を込め、かの者をそう呼ぶ。身の丈七畳に至る暗色の怪魚じゃ。」 凶次は自分の腕が自然と震えてくるのを感じた。武者震いではなかった。また、老人の言葉に脅かされたのでもなかった。・・・湖面。何か強烈にまがまがしいものが己を見据えているように感じるのである。沼の中からであろうか。濁っている為に暗澹たる沼の深淵までを推し量ることはできない。ただ、深さはかなりのものがあるようだった。その限りなき深淵から自分を覗いているものが居るのである。それが、人間の持つ根源的な恐怖心を揺り起こすのである。 「何か、いやがる。」 絞り出すように凶次は呟いた。不吉な思いを振り払って湖面を眺めれば、確かに濁った水面が揺らめいている。何かが動いているのだ。凶次は反射的に釣竿へと手を伸ばした。それは釣り師としての本能だった。沼の中にうごめく何か得たいの知れないもの。その正体を暴く術が、この釣竿であった。凶次は急いで竿を繋げ、即興で仕掛けを拵えた。その厳しい修行に裏打ちされた早さと確実さに、渡し守も思わず感嘆の眼差しを向けた。 「ふふ、餌はちゃんと捕まえて来てるんだぜ。」 若者は帯につけた袋を取り出すと、その中身を渡し守に見せた。 「ほう、肉虫かい。」老人はにやりと笑う。 若者の手の中にあるそれは、何とも奇怪な生き物であった。人肌の色をした一寸程の芋虫。まばらに生えた黒く硬い毛のいびつさもあいまって、一見すると人の指のように見える。若者はこの不吉な森の中でこの虫を見つけ、捕らえて来たのであった。 凶次の手の中で肉虫はもぞもぞともがいている。凶次はその動きを押さえて、おもむろに釣り針を肉虫の体内に埋め込んだ。気味の悪い朱色の体液を散らしながら、肉虫はきゅうきゅうと鳴き声をあげる。凶次は無表情にそれを見つめ、釣り針の隠れたことを確認してから、沼の中に放り込んだ。 水を打つかすかな音が聞こえ、そして、耐え難い静寂が辺りを支配した。道糸も十尺はあったのだろうか、するすると音無く水中に引き込まれて行き、そして動きを止めた。渡し舟も進むことを止め、船上の二人も動きを失った。渡し守はどことなくそわそわした目付きで凶次を見つめ、顔を動かさないまま視線を道糸の消える先へちらりと送る。凶次はただ黙々と水面を見つめている。その迷い無く竿をもつ姿勢は、地に深々と根を張る一塊の巌を思わせた。こやつ只者ではない。老人は若者を見返してから、視線をそのまま湖面へと送った。 この静寂はどことなく怒気を孕んでいる。凶次は釣ることに没頭しながらも、肌でそれを感じていた。沼の奥深くから、遠目に見える岸の木々から、星の無い曇天から、辺りを支配するあらゆる闇から敵意を向けられているのである。竿を持つ指先は毒気にあてられ、ともすれば力が抜けそうになってくる。しかし、凶次はある確信を感じながら竿を支え続けた。何かがやって来つつあるのだ。 ゆらゆらと、しかし確実に水が動き出した。波紋は立たないが、視覚とはまた違う感覚を持って凶次はそれを感じ取っていた。得たいの知れぬ凄まじさをたやすく予感できる。凶次の両腕に力がこもった。渡し守の双眸は今や畏敬の念を称え、道糸の先を凝視している。 不意に凶次のさお先に、ある感覚が伝わって来た。微かな、しかし確かな水の動き。凶次は瞬時にそれを読み取った。そして凶次は水の中の動きを読み、ある瞬間、さおを一気に引き上げた。当たりだ。そこまでは普通の引きと何ら変わらなかった。しかし。 急に道糸がたるみ、それと同時に一畳ほどの水面が不自然に持ち上がった。粘り気のある飛沫があがり、そのなかから黒い、人ほどの大きさの肉塊が姿を見せる。その肉塊が二つに裂けたかと思うと、その裂け目から無数に生えた長く汚らしい牙が薄緑の粘液を滴らせながら蠢いた。 「おおあぎとじゃ」渡し守は絶望的なうめき声をあげた。 それは悪夢にも見れ得ぬ巨大な顎であり、口であった。何重もの層になって生えた牙は一本一本が別個の生き物のようにあらゆる方向へ向きを変える。それが他の牙と擦れ会いがちゃがちゃと音を立てている。 「なるほど、でかい口だ。」凶次はその狂気じみた風景に一瞬目をむいたが、すぐに目を細め竿を引いた。その得たいの知れぬ化け物は水面に姿を現したまま、天に向けられた巨大な顎を震わせている。凶次は冷静にその姿を見据えた。それは巨大な顎だけの化け物なのであった。水面から出ている二尺の顎、それがこの化け物の全てであり、水中に隠れた姿は存在しないのである。つまり、奇妙なことに、この化け物は水面に立っていることになる。 黒い肉塊の表面が一部開かれたかと思うと、そこに大きな眼があった。不気味なことにその形は人間の目を模してあり、黒い瞳がこちらを覗いている。その瞳が急に緑色に転じた。 凶次は戦慄を感じながらも竿を自らの後ろへ正確に引き、直に道糸を手でつかんだ。道糸の先は大顎の喉元へ続いている。その方へ注意をやりながら凶次は糸を手繰った。それに呼応してか大顎は口を閉じ身を捻った。凶次は糸を緩める。猛烈な勢いで引かれる糸の摩擦で凶事の握りこぶしから鮮血が舞い散った。化物の口蓋に釣り師の針が刺さっている。浅い。見て取った釣り師は竿を素早く振る。瞬間道糸は鞭の様にしなり針は外れ、化物の喉に滑り落ちた。釣り師は気合と共に竿を引く。針は深々と喉元に突き刺さった。化物の怒号が沼中に響き渡る。大顎は釣り師に向き直った。危険を感じ渡し守は色を失う。 大顎は体を捻っただけで逃げる様子はなかった。それを見て取った釣り師は、道糸が限界まで引かれたのを感じるや否や間髪入れず糸を引いた。力のみで引けばびくともしない巨体である。しかし幾多の修羅場をくぐり抜けて来た凶次は並の釣り師ではなかった。引き手を絞った凶次はその手を下方にやった。それと同時に黒い肉隗はまともに重心を崩され水面に水しぶきを上げながら倒れ込んだ。 老人は思わず目を見張り、釣り師の姿を見返した。ここまでの技を見たことが無かったのだ。大顎との大きなすきを見て取った凶次はさおの端を帯に突っ込むと、右手で糸を手繰り自らの左手に巻き付けた。勝負の決着が見えて来たのだ。大あぎとが屈辱をこらえているようにむっくりと起き上がった。人の目に似たそれを細めて、自分ののどに異物を引っかけた釣り師をねめてけている。 「…おまえは…」突然化物の口から言葉が発せられた。「…しぬ…」それは重く、くぐもった威圧感のある声だった。運命を決定付けるかのようなその声に凶次の腕一面に粟が立った。 大顎はゆっくりと、そして大きく叫声を上げ、大きすぎる口を凶次に向けて、一気に突っ込んで来た。激しく水しぶきを上げながら突っ込んでくる肉塊の迫力に押され沈黙を守って来た渡し守が恐怖のうめき声を漏らした。 凶次はその鬼気迫る光景を前にして、しかし船上に立ち微動だにしなかった。ある瞬間を待っているのだ。渡し守は凶次の方へ目をやった。この男はどうしようというのだ。竿以外の得物は何も持っていないではないか。 肉塊が舟にぶつかるまさにその瞬間、それは凶次の間合いだった。釣り師はすばやく右手を竿の端へもっていった。定光と銘打たれたその竿端へ。 そして一閃。 凶次が右手を振り上げた瞬間、大顎の縦に開いた口は横に切り裂かれた。二つのあごの先端は、さらに四つへとその数を変えた。肉塊の粘ついた血液が釣り師の身体へ大量に降り注ぐ。大顎は、信じられないと目を大きく見開き虚空へと視線を送っている。渡し守も大きく目を開き釣り師の右手へ視線を送っていた。その右手には刀身が握られていた。刃体には奇妙な文字が彫り込まれ鈍い鉄の輝きを放っている。そして、その竹のつかには定光と銘があった。仕込み刀だったのだ。 「さあ、案内してもらおうか。」肉塊を無造作に水中へ蹴落とすと、凶次は渡し守に向き直った。 「き、貴様ただの釣り師ではないな。」渡し守は驚きを隠しきれず呻くように呟いた。 凶次は刀身を納めると、にやりと笑った。「ただの釣り師さ。獲物は少し変わっているがな。」 村舟は静かに沼を進み続ける。舟上の二人は無言だった。辺りに漂う邪悪な気配は今だ消えず、さらに強くなりつつある。凶次は舟の行く先を見つめていた。渡し守は沼のほとりに住む者がいると言った。到底信じられる話ではない。しかし凶次の胸には不吉な予感がよぎるのである。と、眼前に変化が起こる。霧の中から沼の対岸が見えてきたのだ。凶次は思わず目を見張った。茅葺きの様な粗末な屋根。土塗の壁。そこには十数軒の住居が密集する小さな集落があったのである。「な、村だ。何故こんな所で暮らして行けるんだ。」 「呪われた村よ。」凶次の問いに渡守は無表情に呟く。 凶次は近づいて来る村を注意深く観察していた。ひと気はない様だ。しかし、凶次は気付いた。沼のほとりに布切れを体に巻き付けた二つの人影があることに。だが次の瞬間、ざぶっという音と共に、二つの人影は沼に飛び込み消えてしまった。人間だったのか?凶次は疑問に思った。人間でなかったとしたら…。凶次は暗い考えに見を沈めた。 船は静かに村のほとりに着いた。渡し守が、にやついた顔で凶次を促した。凶次は重い足取りで船を下り、村を見回した。荒れ果てた粗末な住居だが、注意してみると奇妙な魚の干物が吊るしてあったりと生活感も見て取れる。しかしこんな所に住む者が尋常である筈が無い。凶次は用心深く足を進めた。 ふと、左手の壁際に人影がある事に気付いた。木綿の布を無造作に頭から被っているため人相は分からなかったが、壁にもたれる姿は明らかに人間のものだった。 「あんた、この村の人間か。」 間抜けな問いだったが他に適当な言葉も思いつかなかった。凶次に声をかけられた人影は、ゆっくりと顔を持ち上げた。木綿の隙間から瞳が覗く。凶次は眼を細めた。その白濁した瞳は少し大き過ぎ、異様な感じを凶次に与えた。人影は凶次を見たまま暫く呆けたように無言だったが、突然くぐもった様に声をあげた。 「外の、人、か。」極めて聞き取りにくい声だったが凶次は無言で頷いた。 人影はまた暫く呆けた様に凶次を見ていた。その瞬き一つしない眼に不快な感覚を抱きつつも凶次は言葉を探した。 「何人くらいここに住んでるんだ。」凶次の問いに人影はゆっくりを腕を上げ、村の奥を指差した。 「向こう、村おさ、いる。」指の先の住居からは細々と煙が出ていた。かまどの煙だろうか。凶次は一つ礼をしてその建物へ足を進めた。村長の住居は他の住居に比べ少し大きい程度だったが、人間の住処としては申し分のない雰囲気を持っていた。中から人の声も聞こえてくる。 「ご免。」 凶次が声を掛けた瞬間ぴたりと声が止んだ。静かな緊張が伝わってくる。ふと窓から人の顔が覗きまた隠れた。そして小さな声で「何だ、あんた」と無愛想な返事があった。 「旅の者だ。話がしたい。」 凶次の声に暫く考えていた様だが、少しして、しんばり棒を取り除く音がして戸が開いた。土間に用心深く立つ壮年の男は粗末な格好をしていたが意思の強そうな、まともな男に見えた。傍らには幼い少年が一人寄り添っている。さっき話し声が聞こえたのは、この二人だったか。 「あんた、外から来たのか?何しに来たんだ。」不躾な質問に凶次は答えた。 「釣りだ。」 妙な答えに男は暫く何と言っていいか考えあぐねた様だったが、周りを見回すと凶次を家の中へ招き入れた。家の中は粗末だったが、旅に疲れていた凶次は安堵感を覚えた。外からみえた煙はかまどの煙だったが、生臭い匂いから何を煮ているのか容易に想像できた。男は戸締りをしてから凶次に向き直った。「私がこの村を取り仕切っている弥平というものだ。あんたがどういうつもりで来たのか知らんが、歓迎しよう。」 「それは有難いな。じゃあ一つ教えてくれ。何でこんな所で暮らしてるんだ。」 村長は眉をひそめた。 「あんた、何も知らないで来たのか。わしらは住みたくて住んでるんじゃない。飼われているんだ。奴らにな。」村長は沼の方向を睨んだ。 「どういうことだ」 「あんた、知っているんだろう。沼の奴らのことを。だからここまで来たんだろう。」 凶次は腕を組んだ。 「人を喰うのか。」 「それだけじゃない。奴らはわしらの心を喰う。絶望を喰らって喜んでいる。」村長は部屋の隅に蹲っている少年に目をやった。 「俺は奴らを釣りに来た。」 「あんたの様な者はたくさん来た。だが誰も手も足も出なかった。わしらの血を薄める役にしかたたん。」 「血を薄める?」凶次の問いに村長は目をそらした。 「そのうち分る。どちらにしろあんたは帰れないからな。」 凶次は眼を細めた。 「あんた、渡守に乗せられて来たのだろう。あれは片道と聞いたろう。」 「命を諦めろと言ったな。あの爺は何者だ。」 「わしにも分らん。わしもあいつに乗せられてきた。十年も前だ。あんたの様に、この村を救いに来た、つもりだった。」 「なるほどな、奴も尋常じゃないって事か。」凶次は笑みを浮かべた。 「あんたこれからどうするつもりだ。」 「俺は俺のやり方でやるだけさ。しばらく村へ厄介にはなるがな。」凶次は竿をつかみ戸口に立った。 「俺はあんたらを助けに来た訳じゃない。釣りに来ただけだ。」不適に言い放つと凶次は表に出て行った。彼を送った村長は絶望の深いため息をついた。 白音沼のほとりに立つ凶次は一人考えにふけっていた。どうやらここには予想以上に多くの魔物がいるらしい。情報も、協力も必要だと感じた。どうやって奴らを釣り上げるのか、未だその案も立たないのである。長い戦いになりそうだった。村の者にも厄介にならなくてはならない。すぐ釣りにとりかかりたかったが、凶次は先ず村や周りの状況を探る手を選んだ。暫くいると、以外に村人は多くいることに気付いた。子供も多い。不安げな眼をしているが凶次にすれば、ここの大人より接しやすかった。大人は村のほとりにある痩せた畑を耕したりもしているが、ほとんど外をうろつかない。最初に会った村人のように体中を布で巻いた者も多かった。 凶次は少年の一人と仲良くなった。村長の家にいた、物静かな少年だ。村を歩く凶次を好奇な眼差しで見ており、少年の方から話し掛けてきた。「それ、何?」凶次の脇に挿した竿を指差す無造作な問いに凶次は笑みを浮べた。「釣り竿だ。これでろくでなしを釣り上げる。」 少年の名は弥助といった。どうやら村長の息子らしく凶次を驚かせた。よく気が付く利発な少年で、村のことを凶次に教えてくれた。他の村人と同じく沼を恐れる事に変わりは無かったが、良い協力者になってくれそうだった。 弥助と凶次は二人連れで村を歩いた。村の案内をしてもらっている。 前から気になっていることがあった。何故この村から出れないのか。渡し守が何故必要か。それは尋ねてみて、すぐにわかった。島なのである。沼の真ん中、中州のようにこの村は外界から謝絶されている。「鳥篭だな」凶次は呟いた。しかし、なんて広い鳥篭なんだ。 ふと視線を感じた凶次は一軒の窓へと目をやった。窓の中には一人の女がいた。凶次の視線に怯むことなく女はじっと凶次の顔を見つめていた。弥助は凶次が立ち止まったことに気付き、凶次の視線を追った。その先にいる女性に気付くと「白音姉ちゃんだ。」と呟いた。 「しらね?」凶次の問いに頷くと弥助はそのまま押し黙ってしまった。何か事情があるのだろうか。凶次はまた窓の方に目をやったがそこにはもう誰もいなかった。美しい顔立ちだが、どこかやつれているような印象を受けた。あの家に住んでいるのだろうか。しかし、それだけでは無いような気もした。気にかかりながらも凶次はその場を後にした。 村長に話した所、寝床の心配はなくなった。人の住まない家屋はまだ二、三軒はあるらしい。元の住人については聞かなかったが容易に想像できた。食料にしても沼には魚がいる。実際、岩魚等もよくとれるらしい。山菜も食べれる物を教えて貰った。しかし何処かねじれた印象を受ける生態系ではある。出口を塞がれた湖であるから魚は独自の物であっても違和感は無い。しかし森の木々までもが異様な変化を見せているのである。何処と無く異世界にに迷い込んだ気がしないでもなかった。外界から遮絶された閉じた世界。只ならぬ悪意を感じた。 * 「あの娘だがな。」 沼に糸を垂らしながら凶次は傍らで沼を眺める弥助に話し掛けた。声を掛けられた少年は、しかし目を合わせずに誰の事かと尋ね返した。何かあるのは明らかだった。しかしそれが何であろうと凶次には関係の無い事の筈だった。だが凶次は続けた。 「死が近いのだろう。」 少年は、はっと釣り師の顔を顧みた。釣り師はただ沼を見つめている。その眼差しに向け少年は口を開いたが言葉は何も出て来なかった。一体何と言えばいいのだろうか少年には判断できなかったのだ。ただ項垂れて釣り師の傍に座っていた。 不気味な気配を感じた。眼前の水面が静かに揺らめき出した。 「ここはどれくらいの深さだ」 「そんなに深くない筈、僕でも背が立つ。」 しかし眼前の揺らめきは範囲が広い。 「でかいぞ。」凶次は用心深く半立ちの状態で糸を手繰った。手答え無く針は手元に戻ったが、揺らめきは治まらない。不安げな弥助をかばいながら後ずさった。今やりあえば弥助が危険だ。 凶次は見た。水面から蛇の様な鎌首が自分の背より高く立ち上がったのだ。浅瀬での巨体は赤茶斑の大蛇であった。凶次は瞬時に抜刀した。そして大蛇は大きく口を開け、語り出した。心に響く人の声で。 「早く逃げろ。」 一瞬、凶次の思考が止まった。大蛇は開いた口をそのままに、弥助とそれを抱える凶次に向かって襲い掛かってきた。凶次はその首に狙いをつけ、刀を大振りに薙ぎ払ったが、その刀は空を切った。 凶次は眼を見張った。眼前で大蛇の首は動きをとめた。その両目には石を削って作った粗末な小柄が、しかし深々と突き刺さっていた。 口から激しい飛沫を飛ばしながら大蛇は沼へと逃げ込んで行く。しかし凶次はそれにも目をくれず、後ろを振り返った。先程の小柄を投げた者、そして逃げろと言った者、気配を感じさせぬ故に凶次に錯覚を起こさせたその者は、深い藪に隠れ姿を見せなかった。 凶次が誰何の声を挙げようとしたその時、不意に藪より礫が飛んできた。凶次がそれを受けとめる寸前、藪のざわめく音が聞こえ、そして小さくなって行った。凶次が礫を見ると、それは垢にまみれた木綿で包まれており、黒いしみで、たどたどしい仮名が書いてあった。そのしみは血の乾いたものなのだろう。 凶次はその文字に眼を通すと、小さくなって震えている弥助に声を掛けた。さっきのやりとりに気付いていなかったのだろう、辺りをきょろきょろ見回してから、凶次を呆けた顔で見上げた。 「まあ、取りあえず方針は決まったな。」凶次は懐に投げ文を入れながら呟くと、弥助の手を引きながらひとまず村へと引き返して行った。 投げ文にはこうあった。「かいのにえ」と。 |
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