黎明期文章
過去のコンテンツを一つにまとめました
元来、勿体ながり屋の僕は、ホームページを作りたての頃からの文章すら大事に扱っている
普通は描いた絵の方を大事にするものですが、僕的には文章の方が大事なのです
結構、後から文章を手直しにすることも多いんやけども、やっぱり心は痛む
何故かと言うと、その時書いた文章には、その時に文章を書いた時なりの思い入れがあるからや
せやから、あんまり変えとうはない。
ここには、過去に書いた文章を載っけた
絵は意図的に無くした訳やけど、文章は全然変えてはいない
個人的にその時の感情を懐かしむ為である
日常劇場
現在のドモ日記のような、何でも書ける場所を目指していました。

パソコンの事

 
言うまでも無く、私はパソコン初心者で御座います。ある程度は使えるようになってきた次第では御座いますが、インターネットにまで来ると流石に無理が出てくるものです。この度ホームページを発表する事に致しましたが、何分初心者のこと、綱渡り状態で御座います。いやもう四苦八苦の連続。このホムペも形が未だに定まらない始末です。しかし、時流に乗り遅れる訳に行かず、拙いながらも努力する所存に御座います。
 しかしながら、書くことが無い。本当に無い。私の日常ってこんなに味気の無い物だったのかと、今更ながらに感じている始末。情けなや。

鳩のこと

 書くことがあるとすれば、ベランダの鳩のことですか。
  私のうちのベランダに毎年鳩が卵を産みに参ります。ベランダの散らかり具合が鳩にとってちょうど良い住み心地のようで、今年も2羽が無事に卵から孵りました。鳩の糞の始末をする私の気持ちを慮ることなく、すくすくと成長しましたが、なにやらもう、巣立ったみたいです。こんな都会の片隅で命の神秘のドラマを見ることになろうとは…。
 …鳩って、こんな風に増えるのか…

韓国の事

 もう世間様じゃ国際化ってのが死語になりつつある今日この頃。語学ってのが重要だなと感じて韓国語を習い始めました。なぜ韓国語なのか。知るかそんなの。…冗談です。まあ隣国だし漢字圏だし都合の好い事が多いからであります。習って見ると日本語とあまりに似ててビックリしました。中国語が英語に似てるように、韓国語は日本語にくりそつ(死語)なんでごわす。やったね。
 韓国という国を今まで私は驚くほど知りませんでしたが(って言うか私は大抵の物を知らない…)、これは歴史的今日的に日本と関係が深い為でしょうか。深過ぎるために眼をつぶって来た。そんな気がします。知ってみれば結構日本にも馴染みやすいお国柄で、歴史的背景から見ても、共に米国の影響が色濃い事がわかります。
 よく聞く話ですが、情報技術に関しては不気味なほど韓国が抜きん出ている。日本が駄目過ぎるって言う方が正しいんですが、これはかなりの武器となる。情報技術の高度化は、社会生活、経済活動の高速化につながると、私は考えている。これは『竜の卵』(SFです)じゃないんだろうか。…やばいぞ日本。
 仲良くしといた方がいい国のような気がしてきた。

ブローバンド

 なんと、私の家にもつなぎ放題の波が訪れました。残念ながらブローバンドとまではいかないのですが、それでもその恩恵は大きいです。ネットに対するイメージがまた変わって来ました。
 前に述べた韓国ではほとんどの家庭に高速回線が繋がっている事に対し、日本はこの有様。接続を確保するのが本当に大変なのです。日本でも各社が頑張って高速回線サービスに力を注いでいる今日、しかし様々な問題があって普及もたどたどしく、なんとも頼り甲斐がありません。何とかならないものだろうか。
 接続環境が整ったPCは本当にいろんな事ができる。例えば、…ん?…いや、ちょっと待って、ええと、んんん…(汗)。
すごいよ!本当に…
読書感想
本って、人生で一番思い入れのある事象だ。理由は未だに分からんけど

義経/司馬遼太郎

 何故か私は昔から源義経が好きで、中学の頃からその手の本を良く読んでたりします。かといって詳細に詳しい訳でなく、大人になった今、また読んでみようかと手にとりました。
司馬遼自体あまり読まない方なんですが(『峠』から二冊目)、なかなか面白く読めました。平泉に落ち延びる過程などは描いてなく、また弁慶も地味に描かれてたりしますが、義経という人間に焦点を絞り、その人間性から歴史を搾り出していく過程に巧さを感じました。
ここに描かれている義経のキャラクターはかなり突飛なものです。人によりいろいろな解釈をされる義経ですが、歴史を踏まえた上で考案され、その人間性から論理的に歴史物語を構築させていく為、違和感を感じませんでした。結果からして救われない物語ですが、最期の一文に光明がありました。

魔界転生/山田風太郎

 感想って書いておきながら全部まだ読んでなかったりする。面白くないからではではなく、その逆。ひどく面白い。面白い分時間拘束率が高い。量も多い。量が多いと読み終わらないからとても嬉しい。読み終わるのが嫌だから他の本を読む。読み始めてから何だかんだと1年以上経ってしまっている。そんな本だ。
 これはかなり古い本で、映画にもなっている。まず、プロットが面白い。武蔵、荒木又衛門といった歴代の剣豪が一時期に復活し、柳生十兵衛と剣劇を繰り広げる。このプロットは今でも多方面で利用されている秀逸なプロットだ。好きな人はこれだけで読もうと思っちゃうだろう。あたいもそうなの。
 でも読んでみるとそんなもんじゃなかった。凄過ぎる。前半のほとんどが敵方の編成に費やされているのだが、その編成方法が魔界転生。魔界転生とは剣豪達を魔人として復活させる方法なのだが、それには生に対する妄執が必要となるのである。この妄執の部分が凄まじい。人物とされる老いたる武蔵からさえも、獣のような生への執着を引き出すのである。またその描写が迫力に満ちていて、いやホント、まぢでビビっちゃいました。風太郎が面白いって言われるのがよく分かったような気がします。
 違和感を感じるところもある。この作品で言う忍法はいわゆる魔術の類であって、カムイ伝(白土三平)風の忍術に慣れたうちらにとっては、阿呆らし、ってな感じを受ける。この点は古いから仕方ないって言うしかないかな。でもまぁ、こういった変な魔法の出てくる話で大の大人を唸らせるっつうのは、なかなかできることじゃあない。本当に凄い作品だと思いました。

屍鬼/小野不由美

 僕は小さい頃から怖い話というものが大嫌いだった。漫画や映画なんて勿論、怪談本の傍に寄る事さえ嫌だった。理由は単純、夜一人で眠れなくなるからである。昼間に見聞きした恐怖の火種は暗い寝室の中で赤々と燃え上がり、闇に透ける天井や、家の軋む音、それら全てが想像の舞台となって僕を苦しめるからだ。
 だからこそ僕は、怖いものをなるべく見たり聞いたりしない様に努力して暮らしていたのだが、それでも人間には怖いもの見たさという得体の知れぬ欲求がある。結局は見てしまって、真夜中に深く後悔する悪循環を繰り返していた。憎むべきはホラーの作り手達である。まったくこれほどに人迷惑な話も無かったものである、と思ってた。
 しかし、転機はあっさりと訪れた。高校の時、『スタンドバイミー』という映画にひどく感動した。それは、その時の僕の心境に、するりと入り込むような共感を与えた。当然、その作り手に興味を持つ訳だが、その原作者がS.キングというホラー小説家だったのである。僕は惚れ込んで、キングの作品なら恐怖小説であっても読みたいと思うようになった。その時からホラーという分野に対する見解は、180度転換したのである。作品が人に感化を与えるという目的で作られたものならば、恐怖が目的でも、また然り。その恐怖を与える為に試行錯誤する面白みに気付いたのであった。
 そして現在に至り、恐怖小説ライフを満喫していた僕は、書店でこの『屍鬼』を見つけた。帯にはS.キングの名が宣伝に使われている。かねてより、現代日常生活における超常現象的恐怖を、日本を舞台としてキングばりに描けないものかと考えていた僕は、すぐにピンときた。軽い嫉妬にかられながらも文庫の1巻を買った。
 舞台は山中に位置する現代の村。地形的に閉ざされてはいるものの、村に住む人々は高校生や医者、主婦等といったありふれた面々。村にある施設も病院や図書館、役場といったもので、村の歴史にも特別なものはない。それら全てが詳細に設定されていて、現実感を増している。その村が未曾有の恐怖に圧倒され崩壊して行く様は、非常に読み応えがあった。正直、面白い。
 一つの超自然をテーマにして、ここまで書き込み、話を展開して行けるというのは並大抵のものではない。その過程だけでも十分満足できるというのに、その上さらに興味深い主題をいくつか扱っている。本当に感心した。
 ただし、一つだけショッキングな出来事があった。読み始めた頃に何となく、サブタイトルを見つけたのだが、それで全てネタばれになっていた事。気持ちはわかるが、あれさえなかったら、もっとドキドキしながら読めたんじゃあなかろうかと思う今日この頃。まぁ、だからこそいいとも言えるのだけども・・・。ショボン

坂の上の雲/司馬遼太郎

 歴史小説は、基本的に読まなかったのだけども、最近よく読んでいる。全部、遼太郎のせいだ。めちゃくちゃ面白いっていう訳ではないのに、さほど興味がある訳でもないのに、必要以上に好奇心を満たしてくれる快感が、膨大な資料から歴史を紐解いていく歴史学的探究心が、我々にとって普遍的なものを知り得ることの意義が、読書家たる僕の背中を押して押して押しまくって止まない。『竜馬が行く』、『翔ぶが如く』・・・いつになったら終わるのか、泥沼状態の日々が続いている。
 この『坂・・』は、愛媛県産まれなら読まなくてはならないと、とある人に薦められたのが読んだきっかけだ。全然興味が無かったことも相まって、さっぱり分からなかった。読むのが苦痛で投げ出したのだが、もう少し前の時期から読んでみたらいいのではと思い立ち、『竜馬・・』を読んだ。それがとても面白かった。竜馬という人物が好きというのも理由の一つだが、全く知らなかった明治維新という歴史的事件の物凄さに度肝を抜かれた。封権制からの革命は世界史で知ってはいたが、日本の革命は帝国主義吹き荒れる列強の圧力も加わり、あまりにも劇的である。武士達の血生臭い闘争、奇跡的人物竜馬の活躍、胸が熱くなった。
 そして、次の時期は『翔ぶ・・』で読んだ。劇的に成立した明治新政府と巨頭西郷の運命が西南戦争を通じて描かれている。様々な思惑が絡み合い、多くの人々が生まれたばかりの日本という国の為に散って行く。胸がさらに熱くなった。
 そして、とうとう『坂の・・』である。ここまで歴史が盛り上がって来れば、本を読むスピードが落ちる筈が無い。もう、息もつかせずに読みました。
 ここで盛り上がるのは何と言っても日露戦争。西欧をも黙らせる列強中の列強、世界最大の陸軍国ロシアと、東の果ての新興国家、小さな島国日本との国の存亡を賭けての戦争である。もともと、列強の侵略に対抗するための明治維新であったし、竜馬が私設海軍を結成させたのもこれに関する事だった。
 だから、クライマックスとなるバルチック艦隊と連合艦隊との大海戦の盛り上がりは、ハンパなもんじゃない。日本海海戦前に連合艦隊側で搭乗員達宛に流れた艦内放送を聞いたらもう、おじさん、涙でちゃったよ。今度は胸だけじゃなくって、目頭まで熱くなっちまったって寸法だ。
 歴史小説ではあるが、これは青春小説でもある。明治の時代を生きた秋山真之は、文学への志を断念し、海軍へと道を決める。友人である正岡子規との関係もあり、そこには今までの作品とは、また違った感動がある。
 また、この作品の見所は陸軍の戦略にもある。興味なんてなかったが、この緻密な戦略、戦術の応酬には本当に恐れ入った。わけのわからん地名やら数字やら、僕の知らなかった有名な戦闘が多く出てくるが、飽きることなく読む事が出来た。
 いろいろな魅力がある作品であるから、他の作品とともに読むことを強く勧めたいと思う。現在の我々の社会が、いかなる艱難辛苦を経て来たものであるのかが、骨身に沁みるだろうから・・。

姿三四郎/富田常雄

 照れくさいほど好きな本で、もう何度も再読している。
 大学の時、愛媛から広島にかかる芸予列島を通って瀬戸内海を徒歩で横断した事がある。4日間という無駄に長い過酷な時間は、共に歩く仲間との人間関係を、固く結びつけるのを通り越して殺意を抱かせるほどに引き裂いてしまう。殺伐とした雰囲気のまま広島の尾道に到着した僕らは、だからこそ一層、尾道の街を素晴らしいものと受け取ったのだと思う。尾道で幸せな時を過ごしていた僕は、宿の親父から姿三四郎の墓に参って来いと言われた。つまり、山嵐という技で有名な明治の柔道家、西郷四郎の墓があるということだった。僕はあまり知らなかったのだが、黒沢明の映画にもなってるらしく、それが妙に記憶に残った。
 その後、たまたま図書館で文庫本をを見つけたのが、この小説との出会いである。いざ読んでみると、面白いのは勿論だが、小説全体を通して流れている気分が当時の僕にとってあまりに近く、瞬く間に好きになってしまった。
 『姿三四郎』は明治開化期を舞台にした青春小説である。欧化政策によって没落して行く柔術家たちの中、新たに絋道館柔道をたてた矢野正五郎の指導の下、柔術家、唐手家達と闘う三四郎の姿を描いている。お気づきと思うが、絋道館は講道館、矢野正五郎はその創設者たる嘉納治五郎に通じる。講道館四天王も同じ様に登場するが、特筆すべきはその内の富田常次郎が、この小説の作者である富田常雄の父親ということ。ぶっ飛んだ。冒頭から出てくる絋道館筆頭の戸田雄次郎が父親を描いた姿とは。
 しかし、この小説はドキュメントではない。モデルはあってもあくまで青春小説として、その理想を追っている。三四郎は山嵐を得意とする天才的柔道家だが、明治期を生きる一人の青年として悩み、苦しみ、そして喜びながら日々を送っていく。職業は俥屋。人力車を牽く単純労働者である。時には道場を破門になり、憎まれた末に何度も殺されかけ、愛する人には逃げの一手、そして時には外人をぶちのめす。そうして淡々と生きていく三四郎の姿がたまらなくいい。全体を通して三四郎は常に悩んでいる。何で憎まれるんだろうとか、人情というしがらみに捕われそうになったり、自分は運がいいだけで勝って来たんじゃないだろうか、とか。そういった等身大の姿が共感を呼ぶ。そいでそういった悩みを全部柔道で片付けてしまうのもスカッとする。
 三四郎の一番の魅力は、他に歩むべき道があるにもかかわらず、最後まで俥屋として修行の人生を歩む事。自分の事に対してほとんど何も決めれてはいない。つまり、モラトリアム。どっかの本で日本人はモラトリアムを好むと書いてあったが、僕もそうみたいである。可能性を秘めたまま、何かになり切ってしまうのではなく、何にもならずに観念だけを追っていく、そういった姿がいかにも情けなくて、格好いいのである。
 この作品は戦時中から戦後にかけて書かれただけのことはあり、やっぱり少し偏ったところが無いではない。勧善懲悪の気があって、三四郎の相手もかなりひどい描き方をしている。ライバルである檜垣源之助には哲学があったが、その兄弟の唐手家はほとんど狂人で、ボクサーやレスラーといった外人にいたっては、ただ毛むくじゃらの生き物といった描かれようである。三四郎がはっきりしない性格だから、作品全体からはそんな感じがしないけれども、ところどころやばいところがある。そこがまたいいともいえる。(^^;
 また、明治という舞台が非常に浪漫溢れていて素晴らしいのである。欧化主義、国粋主義の対立も扱っているが、大きく見ると非常に混沌としていて、定まらない時代である。そういった時代的な魅力を遺憾無く発揮しているのもこの作品の評価すべきとこになるだろう。
 褒めちぎって来たが、この小説は書店で見つける事ができないような気がする。版を重ねてはいるものの、文庫の新装版、もう発行されないのではないかと思う。だから、読みたいときは、図書館か、古本屋を探さなくてはならないだろう。でもそれくらいの価値はある作品だ。

警視庁草紙/山田風太郎

 また、風太郎が出てしまいました。でも、『坂の上』『姿三四郎』と来たら、同じ明治期ものとして出さないではいられない。それくらい、この作品も明治の魅力を引き出している作品なのである。
 タイトルと粗筋見ると、歴史小説とも思われるが、これはれっきとした探偵小説である。・・・懐かしい響きだ。
 小説の冒頭は、征韓論破れた西郷がひっそりと薩摩に帰って行くところから始まる。西南戦争に向けて歴史が再び激震し始めた場面である。それを止めようとする川路大警視。後に明治のフーシェと言われる程に密偵使いの名手であり、大久保側につく彼も、この時は大恩ある西郷に付いて行こうとするのである。だから、川路利良の話だと思ったのだけれども、実際はその逆だった。
 主人公は元八丁堀同心であり、御一新以来無職になってしまった千羽兵四郎である。西洋嫌いで未だに髷を結っている彼は、警視庁の取締りに苦しむ人々に泣き付かれ、警視庁の巡査に対し、悪戯を仕掛けることになる。対する巡査は元千台藩藩士の油戸杖五郎。六尺棒の達人である無骨な万年巡査だ。彼ら魅力的な登場人物に加え、歴史上に名を残す人物が、盗賊から政治家、文豪に至るまで続々と出てくるのである。
 そして内容は読み切り型の探偵小説。明治独特である銀座の煉瓦通り、横浜行きの機関車、市ヶ谷監獄といった風情ある(?)場所を舞台にして妖しく猟奇的な事件が起こるのである。そして所々に出てくる風太郎ならではのエロ。これでいいのかチックな楽屋落ち。ここまで書くと荒唐無稽な話なのではないかと思えるが、不思議に辻褄が合うのである。というよりも、笑えるくらい無茶苦茶しているにもかかわらず、知識を総動員してまとめ上げている恐るべき構成力。無駄ではないかというほどに張り巡らされた伏線を一本にまとめ上げている芸術性。これぞまさに文芸というくらいに素晴らしい作品になっているのである。いろいろな意味で大人の読み物だった。
 隙だらけのようでいて、どこにも隙が無い作品であり、歴史的な事実もうまく抑えてある。この作品自体が西郷の薩摩落ちから西南戦争勃発にかけての混迷時期における川路の密偵活動を下敷きにしており、それがキモであるだけに抜かりは無いのだが、特に印象に残ったのは警視庁の薩摩帰郷組である。西郷に対する暗殺団とも言われ、歴史的にもはっきりしない部分だが、この作品では川路の命令で、暗殺団として行くことになっている。しかも凄まじいのは捕まって拷問の末にゲロる予定の刺客である。つまり、薩摩人にとって神にも等しい西郷の刺客である不名誉を受けながら死ねという命令である。風太郎節炸裂である。もう大好き。
 大人のための文芸作家として、これほどの天才はいないのではないだろうかと思う。すごいぜ、風太郎
映画感想
映画って本当にいいもんですよねw。皆が楽に見れるし、娯楽としても芸術的にも最高です

ハンニバル

 『羊達…』を大変面白く感じたのは、皮剥ぎビルに迫るプロファイルの過程が秀逸だったからだと思う。ああいうのに僕は弱い。ただ、レクター博士と捜査官の交流、異常心理というプロット無くしては、あまり見る気もしなかった様に思う。
 で、今回の作品だがそのプロファイリングからは離れて(っていうかプロファイルって死語?)主人公二人を取り巻くサスペンスになっている。大丈夫か?レクター博士だけで客を呼べるのか?でも見に行きました。リドリー監督だもん。
 で感想はというと、とっても良う御座いました。原作をうまくまとめてあり、ある意味凄まじい原作のラストとは変化した、含みのある終わり方にも好感を持ちました(でも両方好きです)。
 映像も良う御座いました。原作にある描写も緻密なんですが、映画の方も一々心に焼きつく物がありました。フィレンツェの暗さ、庭園の湿り気のある緑、いいっすね。雰囲気があって、それだけでドキドキするシーンもありました。
 全体的に見て、怖いと言うよりはカッコイイ映画だったっすけど、ちびりそうになったシーンもありました。さすがR15指定。少年が見たらトラウマになりそうだ(小さい子連れてジュラシックパーク見に行ったことがあった。悪いことをしました)。でも、良い映画でしたよ。見に行ったらいいと思う。映画館にね。

スターリングラード

 映画の予告見て、行かなければ、と思った訳でもない。戦争映画はあまり見ない。でもキャッチコピーにキャッチされたのは一方の真実。あのコピーは格好良すぎるもん。他に見る映画無かったんで見に行きました。
 で、感想はと言うと、ひたすらに格好良かった。狙撃班ってのは馴染みがないんすけど、あれはあれなりに駆け引きがあるもので(言葉悪いかな)、そこが先ず良かった。渋すぎです。ジュード・ロウも敵役のエド・ハリスも本当に格好良かった。感情移入しまくりで、こりゃやばい。センスが良いですね。マント(?)被ってライフル構えて標的を待つ目が良い(そのまま寝てしまうシーンもあったが)。痺れてしまった。
 戦争映画としては冒頭のシーンが忘れがたい。輸送列車を降りた兵士達の眼前に迫る対岸の最前線スターリングラード。あれは、映画館で見なくては駄目です。テレビに映る画像を想像しただけでトホホな気分になってしまう。
 監督後から知ったんすけど、『バラの名前』撮った方なんですね。そうと知ってたら真っ先に見に行かなければならなかった。ロン・パールマンも両方出てましたし。凄い監督だす。
『薔薇の名前』も映画館で見たかった。この映画も映画館で見るべきだと思います。

A.I

 実は好きなんです、スピルバーク。いろいろ言われていますが、『グーニース』や『インディ』、あの監督しか撮れません。子供のときに彼の名を聞くと、それだけでドキドキしたもんです。『ジョース』のDVD、無性に欲しかった。僕のような年代にとって特別な意味を持つ大監督であることに変わりは無いのです。刷り込みなんでしょうか。彼らしい演出を見ると今でも凄く馴染む印象があるのです。
 で、『AI』。見ますよね、当然。『P.ライアン』見なくっても、これは見る。そしてやはり裏切られた。当然ですな。彼用の脚本じゃないもん。でも周りの評判もあまり良くないんで、良いとこを見てみましょう。テーマはズバリ、愛だ!(痒いな)。誉めようとしたらこんな話になる。でも感動するためにはこれを真剣に考えなくてはならない。つらいぜ。
 まず、この話が根本的に「ピノキオ」であることに注目。「ピノキオ」は人間に成れない子供ではなく、あくまで偽物の子供だ。偽物である点に注目。主人公役の子供の演技が微妙で巧く表現できてたけど、日本人には伝わりきらないんじゃないかと思う。文化の違いですな。どっかで聞いたことあるけど日本にはロボットに愛着を持ちやすい土壌がある(漫画だ。アトム、鉄人)。逆に米国はロボットに労働問題とかで、嫌悪感を持つ傾向さえある。作中でもそれは節々に語られていた。ちょっと理解できないほど容赦なくぶっ壊されてましたよね(今気づいたけど『ブレラン』に少し似てるね、この作品)。それで当然と考えるのがこの作品を見る上でベースとなる視点じゃないかと思う。
 そう考えてみると、前半にあった母親の苦悩の深さも納得できるんじゃないかと思う。物を人間の様に愛することができるのか。客観的に見ると非常に不毛、もしくは正気の沙汰では無いようにも見える。不幸な家庭でこそできる話だ。そして幸せが戻る。ここが脚本の巧さだと思う。幸せが戻り、主人公が不要になった。しかし用意に切れない葛藤がある。子捨ての場面、客観的に見れば滑稽とはとれないでしょうか。主人公がウォーズマン(キン)の中身みたいだったら、どうだったでしょう。
 そういうのがあってこそラストが生きてくる。永遠に生きる偽者の子供が、気の遠くなるほどの祈りを経て幸せを手に入れる。本当の幸せだ。最期のかなり気の利いた一言が感動をさそ・・・いませんか?

ロード・オブ・ザ・リング

 『指輪物語』を映画化するという事で、凄いなと思う反面、どうなんだろう、とは思いました。『ハリー.』がヒットした事で、幻想文学に注目が集まるのは、とてもいい事だとは思いますが、『指輪』は映画に向かない作品だとも思ったからです。
 先ず、量の問題。原作はとにかく長い。3部作で解消と言いたいとこですが、原作は、その内容にも要素が非常に多い。削るところを間違えたら、辻褄が合わなくなるのではないかと思う。また、原作はその長さ故に価値があるとういう見方もできる。膨大な量の伝説、神話、文献による引用を作者が奇跡的な手腕でまとめ上げている作品だからだ。
 次に、質の問題。原作はとにかく渋い。様々なメディアに影響を与えている作品だが、私達が近年目にする幻想物は非常に洗練されている為、とっかかりが非常にいい。反面、原作はその祖である分、洗練さは無い。逆に幻想世界の住人達に言葉、文化を与える為、その多くを費やしている。そこに原作の妙味がある為に、それを表現できない映画には向かないのでは無いかと思う。その上、ストーリーも渋い。日常を愛するホビットという小人が、強大な魔力を持つ指輪を手にし、それを失う為の旅に出るという物だ。哲学的ではあっても、3部作映画としてヒットするのか、こんなの。
 全て杞憂でした。実際、映画見に行ったんですが、3時間で収まったのが不思議な位の脚本の妙。種族ごとの表現(やり過ぎ?)。英雄譚としての高潔な雰囲気。戦闘時の迫力。特にバルログ、トロールが強過ぎて良かった。敵の強大さがよく分かりました。っていうか、よくぞこんな物撮ったものだと思う。古典とも言える評価を持つ原作をよく理解し、まとめ、表現できている。ちょっと奇跡的だと思って感動しました。しかもこの監督。何でこの人に任せたんだろうって人です。でも、愛がある人だ。いろんな意味で。
 さて、いい作品ですが、世間の評価はどうかというと、微妙。・・確かに理解しにくいとこもあります。中途半端な印象も受けるでしょう。まあそれらは全て3部作揃ってから考えても遅くはないのではないでしょうか(3年かかりますが)。全体として整合性をとっている作品だからです。
 ただ、注意して見なければならない点を少し挙げます。まず、RPGとして見ない事。影響を与えた作品ですが、物語自体はゲームとしての原作には向かない。作り上げた世界がゲームに向くという事。次に魔法の扱い。これもゲーム的に解釈はできない。文学的なレトリックとでも言うべき。竜も。これらには文学的に様々な解釈が成り立つが、簡単に解釈するなら、伝説や神話に出てくる魔法や竜と解釈して間違いは無い、と思います。だから魔法使いの、灰色のガンダルフも人間とは言えない。魔法というものが特別な存在であって初めて、魔法の指輪が活きてくるのだ。そして最後に主人公の扱い。勿論指輪を葬るフロドだが、狂言回しと言えなくも無い。登場する全ての人物が主人公であるとも言える。特にガンダルフ。全てを握るのはこの大賢者。また、ホビット族こそ主人公とも言える。それ位、この小人達は重要な存在なのである。
 さて、最後に何を言うべきでしょうか。長々と書きましたが、これだけ信じてもらえれば幸いです。この作品は愛すべき価値ある作品だと言うことを。(・・・日本人向けではないけど。)
娯楽感想
娯楽なんて偉そうな言葉使ってるけど、ようはゲーム。楽しい事全般について語りたかった。

囲碁

 囲碁というものは見た目は非常に単純であるがやってる事も非常に単純である。なのに実際に取り組んでみると非常に取っ付きが悪い。初心者同士でやると訳の分らない状態にすぐ陥り、上級者とやると意味も分らないまま負けてしまう。悩む前に投げ出したくなるのも仕方ない。単純である分、複雑な戦略、戦術を要する好例の様なゲームである。だからこそ、これほどまでの知的遊戯を放って置くなんてトンでもない。早速やってみなくては…。
 で、やっぱり難しいものは難しい。基本は相手を取り囲む物なのですが、普通に考えれば、お互い一手ずつ打ち合うんだから、一生囲めないジャン。と、思う。1つの石に4つ必要。2つの石なら6つ。よしんば囲んだところで、お互い囲み合って永久パターン。どうすんだと途方に暮れる。
 ならば、もう一つの基本、壁作り。これはどんどん壁を作って自分の陣地を確保して行くと言う物。…ん?壁の内側に相手が壁を作ってきた。外側と内側どっちが俺の陣地なんだ?っと混乱が混乱を呼ぶ。これは本当に難しい。
 実際にはこの基本の両方を駆使して戦うものなのです。壁を作りながら相手の壁を切り、ついでに囲む。囲み方が良ければ相手に絶対取られない形になる。つまり、「目」という形ですな。これを陣地の基本にしてまた壁作りにいそしむ訳です。で、小手先の戦術にこだわり、ふと全体を見てみると…。…負けてる。大局を見て戦略を練る必要もあるのです。
 と、ルールはそれなりに納得できるし、戦略眼が必要なのは解る。しかし、本当に難しいのは別にある。それはズバリ、巧い人の打ち方だ。N●Kの実況見てると、どんどん打つ場所が変わっていく。先を見過ぎて、ストレートには非常に伝わりにくいのである。実際、序盤なんかはあっちこっちに出鱈目に置いてるような感じさえ受けるのである。でも、まあこれは慣れである。各局面に至ってどちらの陣地になるかと判断するのは、記憶した定石に依るのである。だから、素人は慣れるまでとことん打ちまくるのがいい。体で覚えるのだ。
 ただ、私の場合、そこまで飽きずにやるのが、一番難しいところではある。

ウルテマオンライン

 オンラインゲームと言えば『デアブロ』の方が先だと思う。同時プレイという要素は遥か昔から存在したが、見知らぬ人間と徒党を組み迷宮へ入り、PKを交え仲間と駆け引きをする辺りに、PCに無知だった頃の私は、目が眩む様な羨望と興奮を覚えた。
 そしてウルテマである。これはかなり凄いと仲間内で話題になり、本当にやりたいと思ったが、できないので諦めた。ハハハ…
 で、待望のインターネット接続。理解を深め、ある程度自信がついた今、最早やるしかないっつうことで始めました。
 で、いろいろあるのに何故『ウルテマ』か?それは『初めてのウル…』があったから。マジで…。解説本と一緒に買えるなんて最高じゃないですか。それに、必要スペック低いし…。つまり、敷居が低かった。これが重要なところです。誰でも簡単に始めることの出来る点が大きな魅力だったのです。
  で、よく分からない人がほとんどだと思いますので、ちょっと説明します。このゲームは、ドラクエみたいなRPGであり、同じ様に西洋の中世ファンタジー世界を描いたものである。見た目も同じ。で、大きく異なる点は、町にいるキャラクター達のほとんど全てがネットに繋がるプレイヤー達だということ。道ですれ違う人、武器を売る人、盗賊達、釣り人等、皆現実の誰かが動かしている人なのです。だから、「おっす」って話し掛けたら、初対面なのに失礼な奴だと思われて機嫌悪そうに「話し掛けんなよ」と答える人もいる。ひと気の無いところで強盗されれば自分がカモられている事に腹が立つ。死にそうな時に身を挺して助けてくれる人もいる。大規模な戦争を起こす人たちもいる。
 つまり、現実とは別に、もう一つの生活空間がそこにあるのである。その世界に存在する事自体が目的であって、ゲーム内での目標は何も無い。自分で決めるのである。あまりの自由さに何をすればいいのか解らない人もいて、何もしなければ何もしないなりに面白いというリアルさ。人と会話するだけならチャットを使えばいいが、自分の役を演じながら話すのも、また面白い。RPGの本質であるごっこ遊びが、ここにあるのである。
 また、これだけ飽きないゲームも無いのではないだろうか。もう発売されてから4,5年は経つが今だ最初のバージョンから現役である。最近は植物栽培という要素まで入ってきている。サーバーも世界中にでき、いろんな国の人と友達になれる。もしかして普遍性をも備えつつあるのでは、と期待する今日この頃だ。
コラム
コラムって正確な意味はわからんが、何でも書いていいような気がするのでコラムって名前にしました

正しい火器の使い方

[このコラムの解説]
いきなり解説とは変な話だが、このコラムは内輪ネタなので解説しなくてはならない。このコラムが書かれたのは僕が大学の時。野外活動系サークルに入っていた僕は、この文を後輩の為に書いた。ここで言う火器とは野外で自炊する時に使う石油系ストーブの事。普通はガソリンを使うのだが、うちの部では安全の為に灯油を使っていた。その事もあってか扱いが結構難しく、火を点ける新入部員にとっては、かなり面倒臭いものだった。だからこのコラムを書いて、ちょっとでも楽しくなるようにしたかったのだが、結局未発表。この場でわざわざ解説まで付けて発表する訳は、僕がこの文章を気に入っているからである。

[本文]
(下線部分には解説を付けました)
 皆さん、火器ライフをエンジョイしてますか。小耳に挟みましたが何か炎上とか多いそうで・・僕、はっきり言って心配しちゃってます。炎上すると大変なんだこれが・・。それだけで先ず火器のパッキンがイカレてしまい、次からの調子も悪くなる。
 しかし、だからといって絶対炎上しないようにはできないんだよな、これが。僕も苦労させられました。
 炎上した時って、何より心理的ダメージが大きい。「火器は恐いからもうヤダよー」とか「何でそこで炎上すんねん、もう訳わからんわ」とか悲鳴が聞こえて来るかのようです。フフ。
 まぁその気持ちも分からなくもない。僕だってそうやった。
 しかし、火器って奴はすばらしい魅力を持っています。正しく扱えばきっとみんなに多くの喜びを与えてくれるでしょう。そこでこれから僕は、今までの僕の体験を通して、火器の扱い方について語ろうと思う。さぁ、お兄さんの話をよく聞くんだよ・・ 
 先ず、何と言っても大切なのは火器への“愛情”だろう。これがなくては始まらない。ただの遊びって感じで火器に接しては、火器にとっても、いい気はしないだろう。よしんば火が出たところで、それは偽りの炎に過ぎない。火器を扱うときは、正に己の全身全霊を以て、全力で火器を愛さなくてはならないのである。
 火器の選び方は重要である。皆がいい、いいと言っている火器でもそれが自分の好みに反していれば無理にそれを選ぶ必要はない。寧ろ選んではいけないのである。己の好みこそ重要だ。
 人にはそれぞれ好みという奴がある。激しい火を出すもの、謙虚で慎ましやかな火を出すもの、衛生的なもの、気が利いてて勝手に消火してくれるもの、スタイルのいいもの、等など好みは多数ある。好きでもない火器を扱っているといずれ破局がくるものなのである。大体、お互いつらいだけやろ。
 で、決まったらさっそく点火してみよう。炎上とか、相性とか恐れてちゃ駄目だ。そんなこと誰に解るというのだ。誰も解りはしない。君が点火してみて初めてそれが解るのだから。もう一つ付け加えるならば、一度決めた火器はなるべく永く付き合ってみることをお勧めする。永く付き合えば付き合うほど、火器も使用者も、お互いの長所、欠点が解り合えるようになるからだ。
 点火の際は、先ず火器の観察から始めよう。相手が本当に点火されたいのかどうか確かめる必要がある。それも考えずに、点けたい一心で点火してしまうと、時には破局が訪れたり、お互いに傷ついてしまったりもする。もっとも、火器の気持ちはなかなか解らない。火器には気まぐれな所もあるし、使用者にだって場数の問題がある。失敗しても気にするほどのもんじゃない。ただ、足の具合やバーナーの取り付け口等、できるだけの観察は誠意としてやっておこう。それだけでも火器の反応は違ってくるもんさね。
 点火の手順ぐらいは皆知ってるだろう。うっかり間違えて、「こいつ、初めてなんちゃうか」とか思われないよう気をつけよう。大体の原理は知っておくべきだ。「何でこんなめんどくせーことしなくちゃなんねーんだよ、よーは火ぃつけりゃいいんだろーがー」とか思ってる君、火器に嫌われちゃうぞ。火器だって、やるべきことをやってもらえないと、点く気にならないだろう。細心の注意を以て、優しく扱ってあげよう。そうすれば、きっと火器だってその気持ちに答えてくれるはずだ。
 バーナーに火を点けたら本番だ。気合を入れよう。燃料口辺りの処置をしたらポンピング開始だ!!しかし、ここで注意しておきたい。大体の奴がここで嬉しそうに勢いよくポンピングしたがる。しかし、火器にとってそれは災難以外の何物でもない。がどれだけかかってるか、わかっとんのか。マナスルかブスかでも違ってくる。手初めはゆっくり試すようにポンピングしてみる。「痛くないかい、大丈夫か。」とか聞きながらね。
 で、よっしゃ大丈夫だ、と思ったら勢いよくポンピング開始。「壊してやる、壊してやる、壊してやるぅー」とか言いながらやるといい。実はブスも勢いよくやって良いのである。圧に逃げ道があるから。そんなこんなでポンピングしてると火器の勢いも強くなってくる。感動の一瞬だ。おいしく料理しちゃおう。
 ここで言っておくと、実は大切なのはこの後だ。火が消えてからの扱い方である。一般的にこの時の扱い方が、おざなりの奴が多い。まあしかし、そういうときの気持ちも解らなくはない。
あふたあけあ。
それでもえんじょうする。
きもちはわからない。
しょうがない。

[用語解説
何となく解説もつけて見ました。懐かしいなあ。

炎上=火器の使用を誤ったり、調子が悪かったりすると燃料タンクから灯油が溢れ出て、それに火が燃え移って火器ごと火達磨の状態になる。迫力はあるが、勿論失敗。

パッキン=当たり前だが火器は鉄製である。しかし、それだけだと結合部分から灯油が洩れるので、各結合部にはゴム製のパッキンが、はめられている。炎上すると、このゴムが溶けて不具合の元になるのだが、この事実に気付く部員はほとんどいなかった。

火器は恐い=炎上時の迫力はハンパなものではない。数多くの部員が火傷をした。白ガス(無鉛ガソリン)使っての炎上は部室の天井まで火がとどき、壮絶。一見の価値あり。

偽りの炎=意味不明

皆がいい、いいと言っている火器=2番と9番の番号がふられていた火器。登山の際はパーティごとで取り合いになる。

勝手に消化=私の愛する6番火器は、火力が弱く頼りなかったが、うっかりしていても米が焦げる直前に自鎮していた。

破局=意味不明。退部者は多かったが因果関係は無い。

足の具合やバーナーの取り付け口=バックパックに入れるため、火器は大抵折りたたみ式である。足が不安定なら鍋ごとぶちまける事になり、バーナーの取り付けが不完全なら点火しないか、炎上する。

点火の手順=今はもう、ほとんど忘れてしまった。

ポンピング=燃料タンクに圧力をかける為のピストン運動。何故この手順だけ説明しているのかは謎。

圧=火器点火の隠れたファクター。タンク内の燃料は予備熱により気化して、バーナーから噴射される。タンク内にかかる圧力が噴射の勢いになるので、圧力が弱いと点火しないか、炎上する。

マナスルかブス=火器の種類。一瞬、躊躇するような名前だが、メーカー名なのかどうかは最期までわからなかった。この時期既に旧式だったブスを知る者が、当時何人存在していたのだろう。

以上

俺的文学日記
文学に関する個人的思い入れが、こんな文章を作らせました。まだ続けては行くつもり

02/11/22

 最近よくホームページに文章を載せていて、その文章を書いている最中に思うことがあったので、メモ程度に載せておきたい。

語句の選択

 文章を書く目的というのは様々である。しかし、どのような場合でも基本的には頭に思い浮かぶ日本語を使用して、そのまま文章にして書いて行くものであるだろう。それが最も自然な書き方であるし、書く際の苦痛も少ない。
 ただし、広く人に見せるという場合においては、頭に浮かぶそのままを書いて行く訳にはいかない。誰から見ても納得のいくように、分かり易く正確に書いて行く必要がある。そのための方法としては小論文などを書くように、伝統的な起承転結をふまえるといった文章構成の方法が第一に挙げられる。その他にも様々な技法があるが、今回は語句の選択という技法について述べたいと思う。
 言葉というものは、とかく曖昧にできていて、この世界にある様々な事象をずばり言い当てるといった言葉は少ない。
 例えば「昆虫」と言っても、それがトンボであるのか、バッタであるのか分からない。「トンボ」と言っても、それがギンヤンマであるのか、オニヤンマであるのか分からない。「ギンヤンマ」といっても、それが飛んでいるギンヤンマなのか、こっちのギンヤンマなのか、傷付いているのか飯を食っているのか分からない。
 正確に説明しようとすればするほどに、必要となる単語の量は増えてくる。そうなると文章自体分かりにくくなってしまうので、それを解決するためにはどうしたらいいか考えてみる。
 そう、改めて名前を付ければいい。「ポチ」。これによって無数にいる昆虫の中から、ポチの動きだけを追うことができる。たとえポチがギンヤンマの群れに飛び込んだとしても、そして僕が見分けつかなくなったとしても、文章の中でだけはポチの動きを簡潔に書き表す事ができる。
昆虫は昆虫の群れに飛び込んで行き、やがて昆虫の群れと見分けがつかなくなった。
ポチは昆虫の群れに飛び込んで行き、うんたらかんたら
・・・馬鹿馬鹿しくなってきたな。
 固有名詞なら、こういう風に片がつくが、もっと抽象的な名詞や形容詞だったらどうであろうか。例えば、「愛」。これだけ聞くと、やぁらしぃなぁとか思ったりする(僕だけか)。
 この「愛」の中にもいろいろある。愛着、博愛、恋愛、萌え(?)などなど。場合によって、これらの語句を選択していけば、文章の精度は増してくるはずである。
 ところで、さっき出した「愛」の種類を現す語句の中で、実は「萌え」が一番興味深かったりする。おそらく、この語句は新しい日本語だと思う。少なくとも僕は、古文や漢文、近代文学の中で「萌え」という単語を見た事が無い。昔の人が「萌え」の概念をどういう風に表現していたかは定かではないが(概念があったということを想像するのも難しいが)、この「萌え」という語句は、現代社会を表現する上で、編み出されるべくして編み出された語句であると言えるだろう。いわゆる、新しい造語である。
 造語と本来からある日本語との関係について、最近興味深い本を読んだ。といっても司馬遼太郎の小説『翔ぶが如く』である。この小説の中で、フランス帰りの中江兆民が、ルソーの『民約論』を翻訳するくだりがある。以下、引用する。
「ただ、兆民は後年、この翻訳に本腰を入れようとしたとき、本来、素養の深かった漢籍をもう一度勉強しなおした。というのは、フランス語を移しかえるにあたって、かれは古来、日本の伝統的教養のしんになってきた漢籍を再認識し、用語を新鋳せず、漢籍の中から採取しようとしたのである。」
 明治期に入ってからの文章の改革は、実にめざましかった。外国語に存在している合理的な論法に曖昧な日本語をいかに近付けるか。試行錯誤の末の、言文一致体の取り込み。そして日本には無い物体、概念の日本語化。
 そういった過程の中で生み出された造語も多々ある。手元に資料が無いので例を挙げるのは難しいが、「自由」という語句もそうではなかっただろうか。しかしながら、元々存在している語句の中から当てはめる事の出来る語句も多かったことだろう。日本固有の言葉の中から見付け出すことは難しかっただろうが、日本に入って来ていた中国の書物の中には膨大な量の語句が存在する。疑問に思う方は、お手持ちの漢字辞典を開いてみるといい。各漢字にまつわる様々な語句が無数に存在する事を確認できるだろう。それを理解し、概念に当てはめて行くというのは並々ならぬ教養のなせる技だが、それを成し遂げたと言うのが我々の先人の偉いところである。エッヘン
 そういったことをぼんやりと考えていると、自分自身も漢文を改めて勉強しなくてはならないのかなぁとか、思ったりもする。実際に文章を作っていると、思うように言葉が出ないことがある。「ああ、こういうことが言いたいのに、何だ、何て言うんだ、この言葉は」とか、煩悶してたりもする。平易な言葉を使うように心掛けていたとしても、裏を返せば難解な言葉を知らない。それはちょっと、格好悪すぎである。
 つまり、何が言いたかったのかというと、正確で分かり易い文章を書くには、語句を慎重に選ばなくてはならなくて、その語句を選ぶ余裕を持つためにも、語句を増やす努力を怠ってはならないということ。
 その前にお前は文章の構造から勉強しろっていう抗議が来そうなので、退散します。汗

漢文のススメ

 漢文の話が出たので、余話として・・・
 古文以上に苦手な人の多い漢文。国語の授業のときに、泣いた人も多かった事だろうと思います。僕も2、3行ずつしか出なかった中学の頃までは面白かったのに、絶句とか、長歌とか出てきた辺りからやばくなり、高校卒業時にはちんぷんかんぷんでした。っていうか、教科書開いた時の、あの漢字の莫大な量。思い出しただけでも脳が痛み出し、「あ、これで脳細胞が軽く1万個くらいは逝ったな」とか、考えないでもない。書き下し文にするとしても、レ点、一二点、、上中下点ならまだしも、天地人点。何だそれは。語呂が悪いだろう。エホッ
 今思いついたけど、クロスワードとか、ああいうパズル本にして売りに出したら売れるかもしれねぇな・・・。
 そんな漢文ですが、結構いいこと書いてる訳で、『孫子』とか現在でも現代語訳本が出てるくらいに現代人にも通用する、いい意味での古典なのです。何千年も淘汰されることなく残って来た書物なのだから。
 とは言え、やっぱり漢文は難しい。日本人であっても日本の古典は難しいというのに、ましてや中国語の古典なんて、簡単なんて言う方が狂気の沙汰です。
 しかしながら、実は奥の手があります。その名も書き下し文。さっきは筆の勢いで、思わず書き下し文の悪口書いてしまいましたが、この書き下しという技法。物凄い優れものなのです。
 大学の時に講義で初めて知って驚いたのですが、中国の古典漢籍を読むことにおいては、本場の中国人より日本人の方が、学び易いそうです。確かに、中国4千年の歴史の最初のほうの古典文語体を(亀甲文字?)中国人に訳せと言うのは、日本人に縄文土器の縄文を訳せと言うようなものではないでしょうか。言い過ぎです。ハイ
 日本の文字は皆さんも御存知の通り、中国から入ってきた漢字が元になっている訳です。くにゃくにゃと略したら、女の使うひらがな。速記するために漢字の一部だけ取り出して書いたら、坊さんの使うカタカナといった具合。
 だから当然最初には漢字だけしか無かった訳で、最初は当て字を使ったり、まんま漢文で文章を作ったりしていた訳です。
 ところが、やっぱり不便ですね。中国語と日本語は発音も文法も、まるっきり違います。主語、目的語、述語といった並び方も違いますし、助詞の使い方も違います(中国語に助詞あったっけ)。そういった中、漢文を読みやすくするために日本では、書き下しという読解技法が生まれたわけです。
 漢文にいろいろと記号をくっつけていって、書き下し文にすると、難解な中国語が、瞬く間に日本語の文語体になってしまいます。外国語の古典をこんなに簡単に読めてしまうなんて、まるで魔法のような技法です。書き下し法自体も、思っているほど難しい技法ではありません。記号を付ける目安となる漢字もあり、慣れて来ると書き下す必要も無い文章だって出てきます(勿論、難解な漢文となると、素人では歯が立ちませんが)。
 江戸時代期、日本の伝統的学問は朱子学、陽明学といった漢籍による学問でした。幕末において外人を驚かせるに至る武士の教養の高さも、そして後発とは言え世界でも類を見ない革命劇を見せた武士の思想も、これらの学問が一枚かんでいたことは、誰もが認めるととろところでしょう。
 今だからこそ、という訳ではありませんが、我々にとって漢籍に学ぶところは今でも多いはずです。だから、無視することなく、少しは興味を持ってみるのもいいのではないでしょうか。

02/11/19

 ドモ日記内で、このホームページが閉鎖的空間っぽいんじゃないの、まったく。ってな命題が提起されたので、いい機会だから主観と客観について語りたい。

主観と客観

 人間生きていると様々な挫折にぶち当たる。ぶちあたる度に人間は、その挫折そのものについて考え、新たなる道を見つけ出したり、ドロップアウトしたりする。人生の終結と転換、そして始まりには必ずそういった挫折が存在する。そうでなくても生き方を変えてしまう人間がいるが、それはそれ以前にそういう傾向があった為に転換したのであって、厳密な人生の転換ではない。挫折とは、その生き方を信じてきた者が、その生き方では生きられないことを知り、「神様ぁ」っとか言う間もなく、なおかつ生の続く苦しみに悶絶する様を言う。
 僕の最初の挫折は、主観と客観の差にあった。それは、がきんちょから大人っぽいものになる、あちこちから毛の生えてくる、第2次成長期のある夏の出来事だった。
 がきんちょの頃から自分のことを客観的に洞察する事のできる、ゴルゴ13のような人間はいない。大抵はどんなに不幸な環境にあっても、それを当然の現実として受けとめ、その中で、自分の人生観や行き方を構築していくものである。
 御多分にもれず、僕もそういったがきんちょの一人だった。中流ながらも自分の家には生活資金がたんまりあって、少ないながらも友達とは漫画の中のような友情があり、平凡ながらも未来には必ず輝ける未来があることを信じていた。だからこそ、家の中では我がままをブち、友達とは相手の気持ちも考えず悪ふざけをし合い、勉強なんかの努力もしないで、その日その日の生活を営んでいた。
 ところがどっこい、そういったがきんちょの人生観は、全くの主観的な考えであり、客観的に見れば大間違いな話である。
 中流家庭は金を使いすぎれば没落し、友達の心を傷付ければ友情をなくす。未来は誰にも等しく未来であって、幸福な人もいれば不幸な人もいる。努力をしない人間には、よく不幸の方がまわってくる。
 だからこそ僕という人間は、主観と客観の衝突によって、挫折を味わった。友人に主観的な友情を裏切られ、親も先生も友人も、その目に映る僕の姿はいつも、取るに足らない平凡なツマラナイ人間であったということに気付いた。
 佐野元春の歌、『約束の橋』にこういう一節がある。
「君は行く 奪われた暗闇の中にとまどいながら
君は行く ひび割れたまぼろしの中でいらだちながら」
 この詩を、がきんちょの頃の自分自身を二人称視点から詠った詩、と解釈するならば、まさにこういった状態の僕でした。
 というわけで、そういった主観的人生観では生きていけないので、新たな人生観を構築していくわけだが、客観性を求めれば求めるほどに自分の取るに足らなさを思い知らされるようになるという、泥沼状態。どんどん自己を縮小していって、できあがったのは野良犬のように惨めな人生観であった。なおかつ、そのできあがった人生観も結局は主観的なものであり、その後もそういった挫折を繰り返すこととなるのである。
 主観というものは、結局どこまで行っても主観であるに過ぎない。自分が客観的に見ていると思い込んでいるその双眸そのものが既に主観であり、この世にある膨大な情報の中には既に対立思考が存在しているのである。
 では、客観とは一体何なのかと思う。岩波の国語辞典調べてみる。
「【客観】主観の認識、または主体の行動の対象となるもの。また、主観または主体の作用とは別に、独立して存在するもの。」
 ゴクリ、訳わかんねえぜ、チクショウ。もう一発同様に主観。
「【主観】物事を認識する働き。外界に対する自我。俗に、自分一個の意見。」
 ふ、ふうん。僕の言ってた主観って、俗な定義の主観だったんですね。また自分の主観に、してやられましたな。ハッハッハ
 オチがついたよぉ。
エト
 でもまあ、わかったこともある。主観と客観はそれ自体が反対語であるように、常に対立していて交わる事の決してない概念なのね。一致しないなら、しないで、諦めのつくことだ。フフン
 あとひとつ。
 冒頭において、閉鎖的空間から何ゆえ主観と客観について書こうとしたかは、閉鎖的空間から村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が思い出されたからだ。
 大分前に読んだ本だから、はっきりとしないが、この小説の主人公は、自分の深層心理の中に、意図的に外界と隔絶され閉鎖された主観的世界を持っている。主人公の消極的性格の故か、その世界は安定し、外界と接触しないながらも営みを繰り返して行くことができる、という設定があったように思う。
 その設定に、僕のホームページは少し似ているなと思った。他のサイトとの活発なリンクも無く、掲示板にも書き込みが無い。そして、大した変化も無いまま独自の思考で進行していくサイト。唯一違う点は作者である僕が、日常の中で成長する事により、書く内容を変えていくというだけの部分。かといって、それもホームページとは直接関係の無い部分であって、ホームページ自体の構造は殆ど変化しない。あくまで主観に閉じられた空間だ。
 勿論それは僕の望むところではない。世界と繋がっているインターネットという分野にあって閉塞された空間というのは、あまりにも似つかわしくない。外界と接し、客観的な誹謗中傷を受けとめて、より発展していくのが健全なホームページというものであろう。第一、主観的過ぎて実は間違っているものを、当たり前のように作って見せることほど恥ずかしい事は無い。
 今日、この遊文堂を小規模ながらも検索エンジンに載せた。カウンターの数字を伸ばす事が目的ではない。っていうか、カウンターが知らないうちに増えてることほど僕をギクリとさせるものはない。つまり、誹謗中傷に傷つきたいが為に載せたのである。根本から覆されることもあるかも知れない。サイトの方針自体が曲がって行くことになるかも知れない。しかし、それがなくては、この遊文堂に発展の道は無いであろう。
 遊文堂は新しい段階に入った訳である。まだ分からない部分も多く、ホームページやって行く態度もはっきりとしない僕であるが、遊文堂の新たなる成長を目指して行きたいと思う。
 ところで、来年も続くんだろうか。このサイト。汗

02/11/06

 以前からあるにも拘らず、何もコメントが無かった不気味なコンテンツ、私的小説について説明しておきたい。魔法の遊文堂の方には早くから載せていたが、何とも気恥ずかしいもんで、詳しく触れずにやって来た。でも、よく考えてみると、ホムペに載せてる文は、全部恥ずかしいものなので、今は説明したいと思う。
 僕はどうも、ガキんちょの頃から物語を作って聞かせるのが好きな方で、あっちこっちから持ってきた話をパクって尾ひれを付けながら学校帰りの友達に聞かせてたりした。そういう悪癖は今でも続く。空想に走り出すと、止まらない方らしい。それを表現したものが、この私的小説である。
 見れば分かるが、これらは未完である。僕の頭の中でも未完である。つまり、熟成されず出てきたものだから、本来書き出すべきものではない。それを何故書いて、載せたのかと言うと、ネタが無いから。あと、題材というものを書き留めて置きたかったからだ。
 人が本を読む動機は様々であるが、僕の場合は大抵、題材に惹かれて読み始める。その物語が何を扱ったものなのかが非常に気になる。本にまつわる推理小説だとか、記憶にまつわる空想科学小説だとか、中世の武家にまつわる文学小説だとかといった具合に、その表現力には関係なく、扱っている題材に興味を惹かれて読み始めるのである。僕の興味は日々変わる為に、それが乱読家たる由縁になるのだが、それはそれで楽しい読書生活である。
 だから僕は非常に題材にこだわる。普段からこういうのがあってもいいのになあ、とか考えてたりする。そういうとこから生まれて、濃厚にそれを表してるのが、今回の私的小説なのだ。それぞれについて説明すると、まず、複製人間。偉そうに言ってて『ブレードランナー』の影響をモロに受けているが、原作者のフィリップ・K・ディックの和風版を目指した。次にあやしが沼のうんたら。これは分かりにくいが、H・P・ラヴクラフトの一連の怪奇小説を目指し、外れてしまった。どちらもパクリで中途半端の誹りを免れないが、まあ、真似て精度を高めるのを得意とするのが日本人だ。そのうち芽も出てくる事だろう。
 ただ、書いてて良い事もある。実際書き始めると非常にこれが厄介なもので、動作を書くときはどうしても具体的になる。読めば分かるが僕の小説の中には右手とか、左手とかやたら出てくるのを感じる。こういうのを簡潔にして、無くす為に文章をひねくりまわすのが、文章力のたしにはなると思ってる。構成とかも重要だし、何より実際に他人が読んで伝わるのかを考えなくてはならない。まだ、難しいとこは多いが、今後研究していきたいとは思っている。
 ホームページのネタとして、今後適当なのが思い浮かばなかったら、小説に走って行くかも知れないし、他のテキストに芽が出てくれば消えるかも知れないコンテンツ。それが、私的小説だ。

02/10/10

イメージ

 文学作品を読むに当たって重要な要素に、イメージがある。論文等はその理論さえ追って行けばいいのだから必要ではないだろうが、小説や詩等を読む際に、イメージを働かせず読む人はあまりいない。例えば、

トンボが飛んで来て、ひらりと僕の左手にとまった。

という文章があるとする。これだけの文章で理論を追えば、一人称の視点で、舞台が屋内とは考えにくく、おそらく左手には何も持っていないであろう。と考えられる。何の意味も無い。
 イメージはどうだろうか。暗い印象を受けるか、明るい印象か。「僕」はどんな人間か。周りの景色は街中か、郊外か。書いていなくても、自ずから受けるイメージは決まって来ると思う。それは、トンボに対するイメージや、「ひらり」、という言葉へのイメージによる。トンボのイメージは、軽快さ、素早さ、自然の空気。「ひらり」は、軽さ、浮遊感、しなやかさ、到達感。人によって個人差はあるものの、少なくともこの文章から、殺人昆虫が左手を齧りに襲い掛かるイメージを受ける人はいない。勿論、100%と言い切れはしないが・・・。
 文章を読み解く際に、語感から受けるイメージは重要な要素だ。背景描写などに、わざわざ「しみわたるような夕焼け」、「どんよりとした曇り」、「たたきつけるような雨」と書いてあるのには意味がある。その夕焼けが、夜の直前という時間設定になるという理論もあり得るが、大抵その表現が示すものは、登場人物の心情や、話の展開して行く雰囲気である。言葉で直に記すことの難しい、胸中の暖かさ、憂鬱、失望感を表現するには、書き手と読み手が共感できるようなイメージを利用するのが、最も自然と言える。
 ここら辺にも読み解くことの難しさがある。人間の個性というのは千差万別だ。だから先程も述べたように100%の読み手に100%のイメージを伝えることはできない。そこから読み手それぞれの特色のある感想が生まれて来るのだ。前文のトンボが、どんな種類のトンボか特定できないように。
 僕は基本的に、書き手がどんな意図をもって作品を書こうとも、作品は読まれた時点で既に読み手のものになっており、読み手がどんな解釈をしようとも、書き手が文句をはさむ余地は無いという、読者側の立場に立ちたいと思う。だから、語感から読み手がどんなイメージを受けても、構わないと思う。
 ただし、ある程度統一することのできるイメージが存在することも忘れてはならない。肯定的か否定的か、そういった大まかな分類は、まともな社会生活をおくっている人間同士なら共有できるはずなのだから。人間同士が何一つ共感できないのだとしたら、あまりにも悲しい話だ。
 そういった共感できる部分を持ち寄り、そして着眼点による誤解を取り除けば、大まかな主題と言うものは見えてくる。そして、その大まかな主題と言う範囲の中で、人はそれぞれのイメージを膨らませることにより、独自の豊かな解釈を生み出す事ができるのである。
 書き手さえ予測しなかった、豊かなイメージによる解釈は、もしかすると読み手の心に自分だけが感じる作品への愛着を抱かせるかも知れない。それこそが最も理想的な、作品との出会いと言えるだろう。ああ、なんていい話だ。何を書きたかったんだか忘れてしまったぞ。

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