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今日も映画の風が吹く2005年1月後半号

2005年1月31日 (月) しぶといカメラ。にんげんドキュメント
『ピース5歳〜日本発ホッキョクグマ哺育物語〜』
にんげんドキュメント『ピース5歳〜日本発ホッキョクグマ哺育物語〜』
 放映日:2005年1月28日(再放送:2005年2月2日25時〜) 制作:NHK松山

 もどかしい時間というやつがある。僕の場合、土曜日の30分間。『美しき日々』と『E.R』の間である。本命は『E.R』。待ち遠しくてたまらない。
 30分は長い。
 小説でも読んでればいいのだが、寒いこの季節は、布団にもぐりこんで読む癖が抜けない。うっかりそんなことをしてしまうと、うとうとするとも限らない。熱中するとも限らない。というくだらない理由をつけて、怠惰にTVの前から離れられない。

 まぁRECしてあるビデオでも見よう、ということになる。昨日このHPでも紹介した『ピース5歳』を再び見る。面白い作品というのは、長くても短い。最後まで見てしまい、結果『E.R』を途中より見る。
 ところで『ピース5歳』だが、アップを多用している。人も動物もアップが多い。単純にアップを狙っているかというと、そうでもない。どうもカメラマンが意図的に狙っている節がある。
 
 「目」だ。
 動物の、飼育係の高市さんの目に、視線がいってしまう。
 「目を見れば動物だって分かる」「僕には優しい目に見えるんですけどね」高市さんは、「目」を強調する。
 カメラマンは、高市さんの目でこの物語を表現しようと、狙いを定めたのではないだろうか?確かに高市さんは、様々な感情を、豊かに「目」で表現する人物だ。

 愚痴を言う。
 学生を指導していて、彼らに足りないのは粘りだ。映像には台詞だったりナレーションという言葉がある。言葉は長い年月を経て、使い方を知っている。だから言葉についつい頼ってしまう。
 しかし映像は本来、言葉ではなく、または言葉で表現できないことを、表現しようとする手段でもある。だからこそ言葉を減らす粘り、映像で「これを見てくれ!」と訴えんばかりの粘りを期待している。

 写真家の宮嶋茂樹氏は、砒素入りカレー疑惑で裁判中のかの被告が、まだ自宅に住まう頃、彼の目で疑惑を確信し、その目を撮りたいとカメラを構えた。
 疑惑を、言葉で否定する彼女。
 言葉に勝る表現手段として、宮嶋氏は映像表現を使って目を捉えた。
 NHK・OBのベテラン・カメラマンは、こう語る。「記者会見の後を粘れ」と。なんとか会見を乗り切った会見者のホッとした表情にこそ、会見の真偽を伺うことができる。

 映像は言葉に劣る表現と、言葉に勝る表現を備えている。皮肉だが、言葉とコンビを組んだ時こそ、その表現は力を発揮する。
 『ピース5歳』のナレーションは短い文章で綴られる。そして高市さんは再三「目」について語る。
 抑制された言葉と、狙いが定まり粘る映像が、うまく組み合わされた表現が、このドキュメントにはある。
 そしてまた動物は喋らない。行動で示す。題材の妙もあるが、なかなかの作品である。

ドキュメンタリー映画、TVドキュメンタリー一覧『ドキュメンタリーを見るべし!
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2005年1月29日 (土) 絆は育むもの。にんげんドキュメント
『ピース5歳〜日本初ホッキョクグマ哺育物語〜』
にんげんドキュメント『ピース5歳〜日本発ホッキョクグマ哺育物語〜』
 放映日:2005年1月28日(再放送:2005年2月2日25時〜) 制作:NHK松山

 ホッキュクグマの「ピース」はもう一頭とともに生まれた。しかし母グマは、動物園暮らしが長く、子供の育てかたを知らず、パニックに。ピースを口に咥えてウロウロしているうちに、もう一頭を踏み潰してしまう。
 すきを見て、母親から飼育員の高市敦広さんの手に渡ったピース。高市さんは仕事が終われば自宅へピースを連れて帰り、3時間おきにミルクを与える。最初の一月、雑菌に対する適応力のないピースは、高市さんの家族が触れることもできなかったが、翌月からは奥さん、そして幼い子供二人も加わってピースの世話をする。

 我が赤ん坊に接するように風呂上りのピースの体を拭く奥さん。ピースも気持ちよさそうにおとなしくしている。娘さんの横にいるとスヤスヤと眠りにつくピース。「ささなき」と呼ばれる甘え声が高市家に響いている。
 高市さんは生後104日間、ピースを連れて自宅へ帰り、育てた。

 高市さんの家に今も残る、ボロボロの畳。ピースが引っかいた痕だ。
 「柱の傷はおととしの 五月五日の背比べ」という歌があるが、あのボロボロの畳をそのままに暮らす高市一家の姿は、ピースを大切な家族の一員だと思っていることを物語っている。
 こうしてピースは日本初、世界で3例目のホッキュクグマ人口哺育の成功例となった。

 110日目、高市さんは、ピースが動物園に慣れるようにと、家に連れて帰らない決断をする。一晩中、「ささなき」とは違う悲壮な声をあげるピース。
 親の姿を見て覚える泳ぎを、必死になって教える高市さん。水に怯えるピース。
 140kgを超えたピースとスキンシップをはかり、ストレスを発散させようとするものの、安全上の問題から上司に禁止を申し渡される高市さん。
 ピースの成長に伴って訪れる様々な苦難。しかしピースは、檻の前に高市さんが居ると、決してその場を離れようとはしない。高市一家は、ピースの誕生日、家族でケーキを焼いて、その場にはいないピースの誕生を祝う。
 離れていても、家族であることの絆。人間同士ではないが、共に生きている姿が描かれた作品である。

 さて来週のお勧め番組を一つ。
 テレビ東京系1月31日(月)PM10:00〜は、ザ・ヒューマンD『ぼくの声が聞こえますか?作家・志茂田景樹の伝えたいこと』。
 最近、見ないなぁ〜と思っていた志茂田景樹。小学校などを廻り、朗読を行っているとのこと。以前の奇抜な衣装でTVに出ていた頃とは、違った彼の一面が見れるのでは?楽しみにしています。

1月31日も、この作品について書いています。

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2005年1月26日 (水) 食べる食べる食べる。。。小説家・川上弘美と映画監督・小津安二郎
 店員一人しかは入れないような串焼き屋の前で、大学生くらいの可愛らしい服装の女性が、串焼きを喰らっていた。ムシャムシャと。
 ジェラードやクレープを、洒落た通りで口にしているのではない。大学へ通じる薄汚い通り。それも駅の裏口で人通りはそこそこある。そんなところに似合う串焼き屋の前で、似つかない女子大生がムシャムシャ。
 珍しい…
 それもそうだが、美しい…
 彼女はそんなところで串焼きなんぞを喰っていたということは、きっとそいつによほどかぶりつきたかったに違いない。
 大学時代に見た、忘れることのない思い出深い光景だ。

 藪で蛇を踏んだら、その蛇が女になって母だといって部屋に住みつく珍妙な『蛇を踏む』で第115回芥川賞を受賞した、川上弘美にはまっている。いま読んでいるのは2001年に谷崎潤一郎賞を受賞した『センセイの鞄』。38歳になる主人公はいきつけの一杯飲み屋で、高校時代の教師に出会い、待ち合わせることもなく度々隣り合わせる。
 出会いはこうだ。
  
「まぐろ納豆。蓮根のきんぴら。塩らっきょう」カウンターに座りざまにわたしが頼むのと同時に隣の背筋のご老体も
「塩らっきょ。きんぴら蓮根。まぐろ納豆」と頼んだ。(文春文庫 2004年9月15日第二刷)

 この小説はとにかく喰らう。どれくらいくらうかというと、先生の出て行ってしまった妻は、山にハイキングに行ってワライタケを発見する。茸の本と見つけたワライタケを見比べてワライタケと確信する妻に向かい先生は、

「ワライタケだとわかったのはいいが、それをどうする」とワタクシが聞きますと、「食べるにきまっているじゃないの」と答えました。(文春文庫 2004年9月15日第二刷)

と言って食ってしまい、医者に担ぎこまれる。
 この小説ばかりではない。川上弘美の小説は、とにかく喰らうのだ。
 川上弘美の小説は、物語の中で食べることにどんな意味があるのか、などという野暮ったいことに気をまわさせない。食べることがとてつもなく面白い。食べることが登場人物に惚れさせる。

 映画で食べるシーンを思い出す。大林宣彦監督『異人たちとの夏』は、幼い頃に亡くした両親が中年男の前に現れる。不審に思いながらその両親の元へと通う男。そこでよく食べる。
 最後にすき焼き屋で両親を持てなす。両親は旨そうに香るすき焼きを前に、28年間、親なしで育った彼を労い、「あんたをね、自慢に思っているよ」という言葉を残して、箸をつけることなくゆっくりとあの世に消えていく。男は二人の箸を大事そうにくるんでその場を去る。

 小津安二郎監督の映画も食べる。定年を間近に控えたであろう大学の同級生が、どの映画でも同じ小料理屋で酒と肴を囲む。
 それは同窓会の相談だったり、娘たちの見合いの相談だったり、時にゆっくりとビールの注がれたコップを持ち上げ、時にお猪口で実に旨そうに酒を嗜む。そして徐々に猥談へと転げ、悪ガキ達の集いへと変質する。

 小津の映画では、しばしば指摘されているが、学校の教師だったものが、退職後、場末でラーメン屋などの飲食店を営み、出生した卒業生が訪れる。
 有名な『東京物語』では、東京へ出てきた老夫婦を唯一もてなす戦死した三男の嫁が、狭いアパートに二人を迎え、カツ丼のような店屋物をとる。女の一人暮らし。酒の買い置きもなく、隣の若い妻から酒を借りる。切らしていた醤油を借りる。
 義父はゆっくりと酒の注がれたコップにとても美味しそうに口をつける。ゆっくりと丼の蓋をあける。

 食べることにさしたる意味はない、と思う。しかし食べる時に醸し出す雰囲気というのは、現実の中で生きる僕らが、うっかり本音をさらしてしまうに等しく、小説や映画の中の人間も、何かを晒してしまう。
 食べることの“雰囲気”を、さらりと演出してしまう作り手は“生きた人間”を描いているのではあるまいか、と思うこのごろである。 

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2005年1月24日 (月) 好きな仕事も簡単ではない。平成若者仕事図鑑あしたをつかめ『磨け!命をつなぐチームワーク‐レスキュー隊‐』
平成若者仕事図鑑あしたをつかめ『磨け!命をつなぐチームワーク‐レスキュー隊‐』
放映日:2005年1月17日 制作:NHK

 世の中にある様々な仕事を、ドキュメンタリー・タッチで紹介する番組。毎週楽しみにしている。

 先週は『レスキュー隊』。24歳の若いレスキュー隊員・今中さんを追ったものだった。
 冒頭から彼は叱られる。得意の梯子登りを披露するがバテバテ。「気合だけじゃなにもでけんのじゃ。自分の体調もあるやろ。デキヘンのにデキル言うからや、アホ!」と隊長に一喝。
 隊長は後半、インタビューで語る。「阪神大震災のときに感じたが、自分が助かっていなければ、人を助けることはできない」と。
 「死に行くんか、お前は」
訓練の際、脱出路を確保せず火災現場へ飛び込もうとする今中さんはドヤされる。

 今中さんは「自分は本当に(立派なレスキュー隊員に)なれるのだろうか」と焦っている。
 今中さんが高校時代、進学すべきか迷っていたときに目の前で大事故が発生。「早く被害者を助けて欲しい」というその場で、レスキュー隊が救助活動をしていた。これがきっかけで彼はレスキュー隊員を目指した。
 
 希望がかなってレスキュー隊員になった今中さん。希望とやる気があっても、一筋縄ではいかない現実。
 この番組は、仕事の細かい中味を紹介するよりもどんな困難を乗り越えるのか?どんなところで工夫しながら仕事をこなしていくのか?を見せる。

 先週から朝日新聞の求人欄に落語家・立川談志のエッセイが四週に渡って掲載されている。

  「…若者に向かって、個性を生かして好きな仕事をしなさい、などという。親も、周囲の大人もマスコミも口をそろえて、自由に選べば君の仕事になるなどとあおる。大人も悪いけれど、それは違っていやしないか。…」
(2005年1月16日 朝日新聞朝刊)

 先日、別の専門学校で教える同業のディレクター(D)と話をする機会があった。いま映像制作現場で悩みの種は、アシスタントがすぐに辞めてしまうこと。彼の悩みもそこにある。
 なぜ辞めてしまうのか?
 経験談から言うと、僕がこの業界に入ったとき、同期は10人いたが、半年後には僕も含めて2人になっていた。理由は「こんな仕事をしたくて入社したわけではない」。ではこんな仕事とは、まずDを目指す諸君の登竜門であるアシスタント・ディレクター(AD)の場合、撮影の際の弁当の発注、香盤表と言われるロケ・スケジュールの作成、取材先に取材時間の確認などなど、あれもこれも雑用。
 「俺はディレクターになりたくて入社したんだ」そう言って同僚は辞めていった。
 
 「学生同士で作品を作らせるのがよくない」
 前出のDが言った。学校では、生徒同士でクオリティの低い作品を量産させる。なまじっかDを体験してしまうから、ADの仕事に耐えられない。
 なるほどと思う。
 学生達が体験するDは、ADを体験していないからデタラメだらけ。「雑用」とされる様々な段取りをすっ飛ばして、カメラを向ける。他人、例えば取材対象を巻き込もうとする。
 うまくいくわけがない。
 ADの仕事というのは関係だ。同じ弁当が続けばスタッフは飽きる。では今日の弁当は何にするか?取材先と良好に仕事を進めるには何が必要か?
 雑用と呼ばれるその中に、作品づくりに欠かせない他人との関係を築くための大切な要素がつまっている。我々の仕事は個性も大切だが、それは社会との関係性を保っていてこそである。

  「仕事をするというのは社会とつながること。好きな仕事であってもそうなれる努力をしなくてはなりません」(2005年1月16日 朝日新聞 立川談志・談)

 『あしたをつかめ』では、先輩や仕事で出会う人達に諭され怒られ、踏ん張りながら自分の夢を実現しようとする姿がある。
 甘くはない現実を、楽しめる番組だ。

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2005年1月21日 (金) 水掛け論じゃあきあきする。「NHK番組改編問題」
 朝日新聞が報道した「NHKの番組改変問題」は、当事者である朝日新聞、NHK、政治家ばかりでなく、他の報道機関も巻き込んで大変なバトルになっていて興味深い。
 産経新聞は、前から「対朝日新聞」的な社説を載せ、これに朝日新聞も答えるかのような記事を載せていたので、今回も「おっ、またやってるね〜」と眺めている。
 当事者のお三方(朝日新聞、NHK、政治家)は、「言った言わない」という水掛け論になってきている。NHKを弁護する気はないが、朝日新聞もある程度この状況を予想できなかったのか?脇を固めてから報道すればいいのではないか?そんな疑問が生じている。

 「裁判でハッキリさせればいい」という人もまわりにあるが、それはどうだろうか?政治家を抜かせば、互いに特ダネなどをすっぱ抜き、時には警察などよりも情報を握る日本を代表する報道機関。裁判で両者が争うようであれば、なんだか寂しい気がする。
 新聞の社会欄、ニュース番組の特集企画は、「法」で論じきれない人々の気持ちや、社会のやるせなさを掬い上げている。なんとか互いを守るためだけではなく、互いの取材力を活かして、この問題も自前で解決して欲しいと考えている。
 
 しかし政治家の方々も自分の発言の影響力には注意したほうがいい。何を考えてもそれは勝手だが、「公人」であるということの意味は、その発言も重いということは心してもらいたい。
 「公人」としての発言の重みは、何も国際問題ばかりではなく、このような国内問題も生むことを、今回「言った言わない」は抜きにして、肝に銘じてもらいたい。

時事問題一覧あれも時事?これも時事?
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2005年1月20日 (木) デンゼル・ワシントンのコスプレショーはいかがですか?
エドワード・ズウィック監督『戦火の勇気』
『戦火の勇気』 1996年製作 アメリカ映画
 監督:エドワード・ズウィック 出演:デンゼル・ワシントン、メグ・ライアン、ほか

 主人公は自分の誤認によって部下を死なせてしまったサーリング中佐(デンゼル・ワシントン)と、救護班のヘリコプター・パイロットとして戦死したウォールデンィング大尉(メグ・ライアン)。ウォールディン大尉が名誉勲章に値するかしないを調査するのがサーリング中佐の役目。この二大スターは、ワン・シーンたりとも絡みません。

 題材は湾岸戦争。メグ・ライアンが出演するシーンの多くは、ヘリ墜落後の砂漠。ほとんどが戦闘服での出演。
 ところがどっこいデンゼルさんは、戦闘シーンはあるわ家庭のシーンはあるわ、調査へ赴く際のスーツ、それに軍服姿も数種類。メグさんと比較してしまうと、デンゼルさんのコスプレショーなのかしら?と感じてしまう映画だ。

 バカにしているわけではない。とてもお気に入りの映画。戦闘シーンなど扇情的なところもありますが、それよりもなによりも見ているこっちがドキドキハラハラするのは、「何が真実なのか?」と惹きつけられていくサスペンスの妙にある。
 ウォールディング大尉は勲章に値する立派な軍人だったのか?
 大尉とともに見方を援護して墜落したヘリ・クルーそれぞれの大胆に違う証言を、丁寧に映像で再現していく。さっきとは違うその再現を見せ付けられる度に、本物のウォールディング大尉の姿は正義の人?弱虫?と、疑問が渦巻きながらグイグイ映画に引き寄せられていく。

 この忠実に再現されていく映像が、まさに黒澤明監督『羅生門』のようだ。『羅生門』も、藪の中で起こった殺人事件の証言が四者四様。それぞれ再現されるたびに、なにが本当なのか分からなくなっていく。
 どちらもアクションシーンを盛り込みながら、しかしその人間の「業の深さ」みたいなもので話を紡ぎ見る者を興奮させる点は、よく比較されており、そして良質なサスペンスだと思う。

 『戦火の勇気』は素晴らしい描写にも富んでいる。例えば軍律に忠実で部下に厳しいウォールディング大尉だが、咄嗟の襲撃には部下の頭に体ごと被さって部下の身をかばう。ヘルメットが一つしかなければ「早く被りなさい」と、自分は最後まで無帽を貫く。ふとしたシーンに、ウォールディングの人柄が描かれているところが好きだ。
 迫力のあるシーンだったら、デンゼルが止めるのも聞かず機関車に車を正面衝突して死ぬ男のシーン。車を追うのを止め、立ち止まるデンゼル。衝突。そして惰性で燃え上がる車を押しながらデンゼルの脇を通過する機関車。迫力があり、そして寂しい絵だ。
 
 派手さとは違った、なにか昔のハリウッド映画が持った重厚さ、優雅な話ではないが、映画としての優雅さを持った映画だ。
 それはやはり、アクションやトリックではなく、「人間」というものを描いて見せたサスペンス映画だからではないかと思う。

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2005年1月18日 (火) “ありえない”楽しさ”フジテレビ連続ドラマ『不機嫌なジーン』
不機嫌なジーン』 フジテレビ連続ドラマ
 放映日:2005年1月17日〜 制作:フジテレビ

 「読書して眠ろう」と思いながら、けっこう面白くて、寝床からついつい見ていた。
 途中、アニメを屈指したりと、オモシロオカシイ演出で、「こんなもんは人間を描いているドラマではない!」という声も頭をかすめるも、なにかそのような新しい手法を可愛らしく想い、楽しんだ。

 冒頭、喫茶店で、3つのテーブルに座る三組が、その中の一組の恋の話を聞いて直接本人に、ああでもないこうでもないと言う。
 これはありえない。
 その場は聞き流して、後に友達と「今日、こんな話を聞いたのだけれど…」ならありえる。 
 登場人物の性格を際立たせるため、そしてオモシロオカシクするためなのだろうが、リアルさに欠ける。しかし
 御伽噺だね、こりゃ。
 と思ってしまえば、まぁいいか、という気持ちでも楽しんだ。

 途中、リチャード・ドーキンスが説いた「利己的な遺伝子」という話が出てくる。学生時代だったと思うが、この理論を応用した世俗的な話題が巷に溢れた。例えば、浮気に関してはこうである。
 「遺伝子が人間の固体を操作している。遺伝子は種を保存しようとして、次から次へと女性を求めて、SEXをするように仕向ける。だから浮気をする人間が悪いのではなく、遺伝子が悪いのだ」
 まことに男性にとっては欠かせない理論である。

 ところがこれは間違いなのだそうだ。リチャード・ドーキンスが説いた「利己的な遺伝子」は、日本ではあまり広がらず、「利己的な遺伝子」というキャッチフレーズが一人歩き。「利己的遺伝子の持ち主だから、利己的に振舞えば良い」という、もっともらしい発想が生まれる。
 しかしこれが間違いだということは、普通の人間には分かるはず。生物学なんかを勉強していなくても、「浮気をする」ということを「遺伝子の特性」と捉えるのであれば、「浮気をしない」ということは「遺伝子の特性」ではないと考えることであり、つまり「遺伝子の特性」を持たない人間は、淘汰されてしまう。つまり何千年もの歴史を重ねてきた人間の歴史の中で「浮気をしない人間」は、淘汰されてきたはずで、存在していないことになるのである。

 浮気をしない人間はいませんか?
 つまり「遺伝子による操作」だけで、人間が歴史を重ねてきたわけではないのである。
 生物学は、遺伝子であれば遺伝子のみを研究している分野ではない。例えば人間であれば、人間が形成される環境、虫であればその虫が形成される環境を含んで研究している。生物というのは、その生物単体だけで生命を維持しているわけではない。様々な要因を精査した上で理論を打ち立てる。
 ドーキンスという人は立派な生物学者だったらしいので、専門家に言わせれば、そのこともふまえて書かれたのが「利己的な遺伝子」。日本でキャッチフレーズとして流布した「利己的な遺伝子」は、読み違いだというのが定説である。

 と、ドラマに戻ろう。
 実は寝不足で、ドラマは最後まで見なかった。その後どのように「利己的な遺伝子」が解釈されていたのかは分からない。しかし、生物学を学ぶ環境が舞台のドラマで、この理論が出てきた際に、登場人物の誰もが異を唱えないのはおかしな話である。
 御伽噺。
 そう片付けてしまえばそれまでだが、やはり何らかのリアリティのある作品作りは大切。それにはやはり「本当?」という執念深い取材が、ドラマ作りといえども大切であろう、と感じた。

 ありえない登場人物。
 ありえない理論。

 そのように考えてしまうと、けっこう楽しめるのがこのドラマの惹かれる点でもあるんだけどね。

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