店員一人しかは入れないような串焼き屋の前で、大学生くらいの可愛らしい服装の女性が、串焼きを喰らっていた。ムシャムシャと。 ジェラードやクレープを、洒落た通りで口にしているのではない。大学へ通じる薄汚い通り。それも駅の裏口で人通りはそこそこある。そんなところに似合う串焼き屋の前で、似つかない女子大生がムシャムシャ。 珍しい… それもそうだが、美しい… 彼女はそんなところで串焼きなんぞを喰っていたということは、きっとそいつによほどかぶりつきたかったに違いない。 大学時代に見た、忘れることのない思い出深い光景だ。
藪で蛇を踏んだら、その蛇が女になって母だといって部屋に住みつく珍妙な『蛇を踏む』で第115回芥川賞を受賞した、川上弘美にはまっている。いま読んでいるのは2001年に谷崎潤一郎賞を受賞した『センセイの鞄』。38歳になる主人公はいきつけの一杯飲み屋で、高校時代の教師に出会い、待ち合わせることもなく度々隣り合わせる。 出会いはこうだ。 「まぐろ納豆。蓮根のきんぴら。塩らっきょう」カウンターに座りざまにわたしが頼むのと同時に隣の背筋のご老体も 「塩らっきょ。きんぴら蓮根。まぐろ納豆」と頼んだ。(文春文庫 2004年9月15日第二刷)
この小説はとにかく喰らう。どれくらいくらうかというと、先生の出て行ってしまった妻は、山にハイキングに行ってワライタケを発見する。茸の本と見つけたワライタケを見比べてワライタケと確信する妻に向かい先生は、
「ワライタケだとわかったのはいいが、それをどうする」とワタクシが聞きますと、「食べるにきまっているじゃないの」と答えました。(文春文庫 2004年9月15日第二刷)
と言って食ってしまい、医者に担ぎこまれる。 この小説ばかりではない。川上弘美の小説は、とにかく喰らうのだ。 川上弘美の小説は、物語の中で食べることにどんな意味があるのか、などという野暮ったいことに気をまわさせない。食べることがとてつもなく面白い。食べることが登場人物に惚れさせる。
映画で食べるシーンを思い出す。大林宣彦監督『異人たちとの夏』は、幼い頃に亡くした両親が中年男の前に現れる。不審に思いながらその両親の元へと通う男。そこでよく食べる。 最後にすき焼き屋で両親を持てなす。両親は旨そうに香るすき焼きを前に、28年間、親なしで育った彼を労い、「あんたをね、自慢に思っているよ」という言葉を残して、箸をつけることなくゆっくりとあの世に消えていく。男は二人の箸を大事そうにくるんでその場を去る。
小津安二郎監督の映画も食べる。定年を間近に控えたであろう大学の同級生が、どの映画でも同じ小料理屋で酒と肴を囲む。 それは同窓会の相談だったり、娘たちの見合いの相談だったり、時にゆっくりとビールの注がれたコップを持ち上げ、時にお猪口で実に旨そうに酒を嗜む。そして徐々に猥談へと転げ、悪ガキ達の集いへと変質する。
小津の映画では、しばしば指摘されているが、学校の教師だったものが、退職後、場末でラーメン屋などの飲食店を営み、出生した卒業生が訪れる。 有名な『東京物語』では、東京へ出てきた老夫婦を唯一もてなす戦死した三男の嫁が、狭いアパートに二人を迎え、カツ丼のような店屋物をとる。女の一人暮らし。酒の買い置きもなく、隣の若い妻から酒を借りる。切らしていた醤油を借りる。 義父はゆっくりと酒の注がれたコップにとても美味しそうに口をつける。ゆっくりと丼の蓋をあける。
食べることにさしたる意味はない、と思う。しかし食べる時に醸し出す雰囲気というのは、現実の中で生きる僕らが、うっかり本音をさらしてしまうに等しく、小説や映画の中の人間も、何かを晒してしまう。 食べることの“雰囲気”を、さらりと演出してしまう作り手は“生きた人間”を描いているのではあるまいか、と思うこのごろである。
TOPページは『映画館に行くべし行くべし』 |