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今日も映画の風が吹く2005年3月号

2005年3月19日 (土) 「公共性」とはなんですか?
 ライブドア、フジテレビのどちらにも肩入れするつもりはない。個人的な利害を隠さず述べれば、教え子の数人がフジテレビの関連会社に雇われている。彼らの雇用が守られる決着を望んいるのも事実だ。
 「放送の公共性」ということが、この問題で論点になることが多い。これは良い機会なので考えてみようと、思いをめぐらせている。

 例えばフジテレビに限らず民放は、映画製作に多く投資するようになった。昨年の映画ベスト・テンの中には、8本ほど、民放が出資したものが入っている。
 テレビ局が映画に出資するには様々な理由があるが、一つは放映権料を払わずに、その映画を放映することができるメリットがある。
放映権料は年々高騰しているようだから、その点は放送に寄与しているし、なにより映画を放映するということで、視聴者の利益へ寄与しているように思われる。
 しかしこれには大きなリスクもある。韓国映画の隆盛の裏には、国策とともに映画を投資ビジネスとして定着させたことが大きい。
 日本でもこのごろは、これに倣う傾向が強くなっている。つまり映画は、当たればデカイが、当たらなければデカイ損も生まれるのである。
 果たしこのような投資活動に躍起になる民放に、どこまでの「公共性」があるのだろうか?

 民法に損が生じた場合、それはどのような形で表れるのであろうか?現在、テレビ局から実際に番組を制作する制作会社への予算配分は、よろしくない。ということは、その制作会社が、カメラマンなどを雇う技術会社へ支払う金額も落ちている。
 例えば9年前、僕がワン・チェーンと呼ばれる[カメラマン、ビデオエンジニア、撮影機材一式、ロケ車両]を依頼する際の金額は1日13万円だったと記憶しているが、現在は10万円。
 いっぽうで民放職員の給料が下がる一方だという話は聞かない。NHKを擁護するつもりはないが、NHK職員と民放職員とでは、給料に雲泥の差があってNHKが低い。その代わり、制作会社や技術会社に支払われる金額はそれなりに納得のいくものである。
 残念ながら、この度のNKの不祥事により受信料未納が急増。職員給与をカットする見込みであるから、そのとばっちりが我々に来るのも仕方がないと諦めている。
 
 「公共性」の拠り所の一つに、「報道機関」ということを口にすることもあるが、民放各社は一日のどれくらいの時間をそれにあてているだろうか?自衛隊の活動範囲をめぐって、改憲論議が盛り上がる中、イラクに特派員を送っているのは新聞も含めNHKのみ。民放の多くは外信、つまり外国の報道機関の報道に頼っている感じが否めない。
 民放の報道は、芸能番組などに比べ手薄な印象を持ってしまう。

 民放各社は近年、株式を上場した。デジタル化に向けた資金調達といった、放送局を運営するために必要な側面は認める。
 しかし、上場したからには市場の原理にならい、株主の利益を追求せねばならない。フジテレビは敵対買収防止の一策として、昨年は実績1200円ほどの配当を5000円にするという。理由はなんにせよ、株主の利益アップ。株価も上がっていて、僕なんぞ買っておけばよかったとため息がもれる。
 しかしこの5000円はどこから出てきて、何を削って生まれるものなのか?この会社は儲けた金で何をしようと考えていたのか?

 経済活動は複雑で、あれをやっているからこの会社はダメだ、などと一言で断じることはできない。同じように「公共性」も一言ではなかなか語れるものではない。
 公共性が高いとされる電力会社だって電話会社だって上場しているし、いま小泉内閣が躍起になる郵政民営化も、現実のものとなれば、利潤を追求する企業となる。
 改憲論議の中でも「公共の福祉」が、基本的人権よりも尊重される優先されるものかどうかが議論を呼んでいる。
 今回のライブドアとフジテレビの問題は、メディアの問題だけにとどめて考えるのではなく、「公共性」という言葉をキーワードにもっと深く追求する姿勢が必要に思う。この言葉の意味が真に理解できるような状態になれば、フジテレビであろうがライブドアであろうが、どちらがテレビ局を運営しようが構わないのではないだろうか?

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2005年3月13日 (日) 相手に裏切られた日が来るとする。自分を誇りに思えばいい。舛田利雄監督『大日本帝国』
大日本帝国』 1982年 日本映画/東映
監督:舛田利雄 脚本:笠原和夫

 友人から「人を信じられる、お勧め映画を」とメールが来て、頭に浮かんだのがこの映画『大日本帝国』だ。

 戦争の悲しさを伝える、ある意味でありきたりな映画だが、ラスト・シーンが好きだ。
 メソメソ泣く子供を叱りつけ、行商姿でやつれた女(関根恵子)が、たくさんの荷物を背負い、浜辺を疲れきって歩いている。女は、徴兵にとられた夫(あおい輝彦)をサイパンで失い、いちどは子をおぶって、海深く身を進め、死を選んだこともあった。
 その時、女は、死なない、と決めた。空襲を死んでなるものかと、子供と二人生き抜いた。
 女が子供を慰め、顔をあげると、遠くを復員兵が歩いてくる。次第にあきらかになるその輪郭、その目、鼻は、まぎれもなく女の夫である。

 戦中、いちど除隊になった夫は、仲間の死ぬ中、生き残った自分をすまないと思い、すぐに原隊に復帰し、死にたいと願う。女はそれをどやす。
 「あんたは床屋なんだよ。床屋が床屋に戻って誰にすまないのよ。しっかりして!戦争で死んでいくほうが男らしいだなんて!」
 夫は死なないと決める。
 再び召集が来てサイパンに向かうが、夫は決して死なない。民間人を守り、生き抜く。
 「信じる」ということに最適な映画なのか、自分でもよくわからないのだが、この二人の生き方は、信じた先にある幸福みたいなものを描いているように思う。

 信じることは、賭けみたいなものだ。あまり根拠のない何かに頼っている。
 例えば恋愛関係にある男女の信じる信じないは、移ろいやすい人間の、それも他人の感情に任せている。人にお任せの他力本願な行為で、
 [馬鹿馬鹿しい行為=信じる]
と思っているわけではない。

 堅苦しい言葉で言えば、信じるということは自分を生きる、ということなのではないかと思う。例えば恋愛では、移ろいやすい人間の、それも他人の感情に依拠するのではなく、移ろいやすい人間の、それも他人の感情に惚れる自分の感情を大事にすることではないだろうか?
 相手に裏切られる日が来たとする。しかしそれは大したことではない。惚れた感情を大切にした自分は、誰に対しても誇れる人間だ。

 『大日本帝国』の女と夫は、誇れる二人だ。生きる自分を大切にした人だ。二人は再び出会わなくても出会っても、自分を生きただろう。
 それが「信じる」ということのように思える。
 
 『大日本帝国』において、この二人は群像劇の一部だ。他にも色々な奴が出ている。
 キリスト教の信者で迫害を受け、どうせ徴兵が来るならと志願し士官になる者。彼は愛した女に似た出征先の女を死に追いやり、罪はないが、戦後の軍事裁判を受け入れ、銃殺される。出征先の女は殺したことは、愛した女を殺したことだ、そう貫いて死ぬのだ。
 夫が使えた中隊長は、軍の上層部の方針に合点がいかない。彼は自分の部下を、そして民間人を守ることで軍人をまっとうする。最後は、民間人を米軍に助けてもらうように掛け合いに行く途中、日本兵の頭蓋骨でフット
ボールに興じる米兵カップルに怒りを感じ、男を撃ち殺し、女に撃ち殺される。
 決して好きではないが、開戦に踏み切った東条英機は、天皇を守り、しかし天皇も開戦をしぶしぶ同意した事実を告げ、そして独立国としての権利として宣戦を布告した正当性を主張し、死んでいく。
 鬼の兵曹長の戦闘機乗りは、若い頃に打ち落とした中国人のパイロットのためにも、誠心誠意、軍人たらんとして、敵を殺しまくる。

 戦争は決して良くない。
 僕自身、世論が北朝鮮をぶっ潰しても構わないように感じていることに危惧を感じる。ぶっ潰す理由はわからないでもないが、爺さんを戦死で失った僕は、経済封鎖や戦争で、北朝鮮の人々が死んでいくのに割り切れない気持ちがある。
 しかしながら『大日本帝国』は、戦争の悲劇とともに、戦争に巻き込まれた人々の意地を描いている。
 生きる自分を大切にした人々を描いた佳作である。>』

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2005年3月11日 (金) 「駅」の出現で、どう変わるか?埼玉県八潮市
 先日、生徒の取材に同行し、埼玉県八潮市を訪れた。この街は現在、埼玉県で唯一、鉄道の通っていない「市」である。ところが今年8月「つくばエキスプレス」の開通により、「駅」が誕生する。
 この取材を企画した生徒は、鉄道の開発に寄せる市の期待、商業的な開発計画などを聞き取り、ドキュメンタリーの企画を立てられるのかを、探るのが目的。
 僕はちょっと意地悪で、ばら色の計画を聞いてやろう。そしてやはり数年前に開業した、埼玉高速鉄道で初めて駅ができた埼玉県鳩ヶ谷市の事前計画と現在を比較し、公共事業へ過剰に期待する様を見てやろう、と臨んだ。
 埼玉高速鉄道は、昨年、テレビ東京『ガイアの夜明け』でも取り上げられていたが、ずさんな計画で、採算が取れていない頭の痛い存在。にもかかわらず、さいたま市と岩槻市の合併も絡んで、延伸計画が持ち上がっていて、まさに公共事業の業みたいなものが潜んだ存在である。

 やはり情報収集は、行ってみなければわからないものである。
 八潮市役所を訪れ、担当者を取材。駅前に1つテナントビルの建設が決まってはいるが、まだまだ商業的な発展計画までは話が進んでいない、とのこと。現在は駅周辺の区画を3つに分け、3つの事業体がそれぞれ開発を担当。まだ元々の地権者の移動や土地の販売が進んでいない。
 テナントビルの開発現場を見てみようと、駅前に行ってみると、駅周辺は開発中で立ち入れず、ビル建設どころかまだまだまっさらな土地が広がっていて、呆気にとられてしまった。

 鉄道が開通すれば、秋葉原まで18分。ベットタウン化を望んでいるのかな?と、それとなく聞いてみると、「人口は増えてもらわないと困ります」とのこと。しかしこれも、土地開発が済み、区画整理が終わって、マンションなどが立ち並ばないとまだまだということであった。
 「後にも先にも、八潮市としては最大の事業になるでしょう」という言葉からは、期待の大きさと、しかしながらあくまで慎重にという複雑な感情が伝わってきた。

 行政は慎重だろうが、民間は駅の開業に沸きあがっているに違いない!市側も人口増加を期待しているとくれば不動産屋をあたるかと探すが、これがなかなか見つからない。やっと見つけた不動産屋も、熱を入れて都心の近さを力説するが、紹介された物件は、商業施設のできる方角とは逆の2km先の、それも川を越えた物件。
 駅の周辺の区画整理の遅れをあげ、さらに駅の周辺は人が住みださないと、スーパーなどなど生活に必要な施設が整備されないので、お勧めできないとのこと。こちらは慎重というよりも、今後の模様を眺めている。

 むむむっ!と唸らせたのは商工会議所。
 「駅を中心に商業発展する時代ではないと考えています」全国的に郊外へ大型店舗が進出する時代。「車で買物に行く時代ですから、ことさら駅が注目を集めることはないと思います。隣接する三郷市に、郊外型の大型店舗が近々オープンします。皆、そちらに行きますよ」
 八潮市は首都高速、常磐道、外環自動車道を使えば東北道へと流通の便がよく、それを持って工場や流通拠点となる倉庫が軒を連ねている。八潮市は、車の威力をどこよりも感じ取っているのである。

 「駅は脅威ですよ。市民は休日も都心へと出て行くことになるでしょう」と言って、鉄道開業で、ますます「八潮離れ」が進むことを懸念している。鉄道開業は暗〜い未来と考えているのかとおもいきや、商工会議所の方は、駅周辺の地図上の商業開発されない方向を指し示した。
 「商業ビルができる反対側は公園にします。駅を降りてすぐ公園というところは、都心から18分のところにはありません。ここで地元の農産物や工業製品を売る朝市、それから珍しい工場がありますから見学ツアーなど、逆に都心の人々を呼び込んでいきたいと思います」
 逆転の発想だ。ぜひ成功して欲しい。

 動脈と呼ばれる鉄道でさえ、それが通る地元は非常にシビアに未来を見つめている。今回の取材を通してわかったことは、既存の考え方はなかなか通用しない。そしてやはりネタは足で稼がねば、ということだ。

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2005年3月6日 (日) 新聞の意義
 お酒を飲む機会と、卒業式、生徒諸君の就職対策で、とても忙しい日々が続き、2週間働きづめだった。
 映画(ビデオでだけど)、TVは、合間を縫って見ていた。特に面白かったものは、にんげんドキュメント『ヒレをもらったイルカ』(2005年2月25日放映 制作:NHK)だ。
 原因不明の病気でヒレを切除した34歳メスのフジ。イルカのヒレは泳ぐために大事なもの。失ったフジはろくに泳ぐことができず、プカリと浮いてるばかり。
 見かねた獣医師・トレーナーは、ゴムメーカと共同で、世界初の人口ヒレの開発に挑む。水の抵抗、ヒレの強度など、様々な問題を抱えて失敗に次ぐ失敗なのだが、フジはどんどん元気になっていく。泳ぐこと、泳げる自分に、開発チームの失敗はよそに、希望を見出したかのように、生き生きとしてくる。開発チームは、そのフジの姿に圧されるかのように、、励まされるかのように、開発を進めていく。
 当初は、人間がイルカに、という元気を与えるベクトルが、イルカが人間にという、その逆転しているところに、驚かされた番組だった。
 
 先週は、東京新聞が佳い記事を載せていた。一つはTOKYO発『みんなと一緒に入学したかった』。私立の幼稚園に通う知的障害者の幼児は、皆と一緒に小学校にあがれるものと、同級生の皆の支援を受けながら、一生懸命に励む。しかし小学校側は、彼が登校するのは無理と判断した。
 彼の気持ち、母親の気持ちが痛いほどわかる。理解したくもないが、小学校の態度も分からないではない(キリスト教系の学校なのだそうだが、キリスト教の博愛精神はどこにいったのでしょうか?という疑問は大いにある)。
 彼の気持ちは、色々な意味で報われない。裁判や、正しい正しくない、といったことで片のつく問題でもないだろう。

 同じように、こちら特報部『傷癒やす最後の受け皿』も気になる記事だった。全国的に夜学は閉鎖されている。
 世の流れで、コスト削減を迫られている行政の立場も分からんでもないが、学んでみたい、そこになにかと救いを求めている人達はどうなってしまうのだろうか?

 少子化と叫ぶ昨今。産ませることも大事だが、産まれた後の社会を築くことを忘れてはいけないと思う。
 そんな忘れられた社会をきっちり描いたこの二つの記事は、新聞の本来の道であろうと思う。
 社会にはでかい問題が山積しているが、そればかりではない片隅に目を凝らすことに、本当の社会の混迷が見て取れる。そこが描かれているとても佳い記事で、これこそ新聞に求めているものだとあらためて感じた。

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