『大日本帝国』 1982年 日本映画/東映 監督:舛田利雄 脚本:笠原和夫
友人から「人を信じられる、お勧め映画を」とメールが来て、頭に浮かんだのがこの映画『大日本帝国』だ。
戦争の悲しさを伝える、ある意味でありきたりな映画だが、ラスト・シーンが好きだ。 メソメソ泣く子供を叱りつけ、行商姿でやつれた女(関根恵子)が、たくさんの荷物を背負い、浜辺を疲れきって歩いている。女は、徴兵にとられた夫(あおい輝彦)をサイパンで失い、いちどは子をおぶって、海深く身を進め、死を選んだこともあった。 その時、女は、死なない、と決めた。空襲を死んでなるものかと、子供と二人生き抜いた。 女が子供を慰め、顔をあげると、遠くを復員兵が歩いてくる。次第にあきらかになるその輪郭、その目、鼻は、まぎれもなく女の夫である。
戦中、いちど除隊になった夫は、仲間の死ぬ中、生き残った自分をすまないと思い、すぐに原隊に復帰し、死にたいと願う。女はそれをどやす。 「あんたは床屋なんだよ。床屋が床屋に戻って誰にすまないのよ。しっかりして!戦争で死んでいくほうが男らしいだなんて!」 夫は死なないと決める。 再び召集が来てサイパンに向かうが、夫は決して死なない。民間人を守り、生き抜く。 「信じる」ということに最適な映画なのか、自分でもよくわからないのだが、この二人の生き方は、信じた先にある幸福みたいなものを描いているように思う。
信じることは、賭けみたいなものだ。あまり根拠のない何かに頼っている。 例えば恋愛関係にある男女の信じる信じないは、移ろいやすい人間の、それも他人の感情に任せている。人にお任せの他力本願な行為で、 [馬鹿馬鹿しい行為=信じる] と思っているわけではない。
堅苦しい言葉で言えば、信じるということは自分を生きる、ということなのではないかと思う。例えば恋愛では、移ろいやすい人間の、それも他人の感情に依拠するのではなく、移ろいやすい人間の、それも他人の感情に惚れる自分の感情を大事にすることではないだろうか? 相手に裏切られる日が来たとする。しかしそれは大したことではない。惚れた感情を大切にした自分は、誰に対しても誇れる人間だ。
『大日本帝国』の女と夫は、誇れる二人だ。生きる自分を大切にした人だ。二人は再び出会わなくても出会っても、自分を生きただろう。 それが「信じる」ということのように思える。 『大日本帝国』において、この二人は群像劇の一部だ。他にも色々な奴が出ている。 キリスト教の信者で迫害を受け、どうせ徴兵が来るならと志願し士官になる者。彼は愛した女に似た出征先の女を死に追いやり、罪はないが、戦後の軍事裁判を受け入れ、銃殺される。出征先の女は殺したことは、愛した女を殺したことだ、そう貫いて死ぬのだ。 夫が使えた中隊長は、軍の上層部の方針に合点がいかない。彼は自分の部下を、そして民間人を守ることで軍人をまっとうする。最後は、民間人を米軍に助けてもらうように掛け合いに行く途中、日本兵の頭蓋骨でフット ボールに興じる米兵カップルに怒りを感じ、男を撃ち殺し、女に撃ち殺される。 決して好きではないが、開戦に踏み切った東条英機は、天皇を守り、しかし天皇も開戦をしぶしぶ同意した事実を告げ、そして独立国としての権利として宣戦を布告した正当性を主張し、死んでいく。 鬼の兵曹長の戦闘機乗りは、若い頃に打ち落とした中国人のパイロットのためにも、誠心誠意、軍人たらんとして、敵を殺しまくる。
戦争は決して良くない。 僕自身、世論が北朝鮮をぶっ潰しても構わないように感じていることに危惧を感じる。ぶっ潰す理由はわからないでもないが、爺さんを戦死で失った僕は、経済封鎖や戦争で、北朝鮮の人々が死んでいくのに割り切れない気持ちがある。 しかしながら『大日本帝国』は、戦争の悲劇とともに、戦争に巻き込まれた人々の意地を描いている。 生きる自分を大切にした人々を描いた佳作である。>』
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