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今日も映画の風が吹く2005年7月号

2005年7月30日 (土) しんみりと…『絶滅危惧植物展』
絶滅危惧植物展』 主催:環境省 〔社)日本植物園協会 植物園自然保護国際機構
  新潟県立植物園(〜7/31) 福岡市植物園(8/9〜9/4) 
  広島市植物公園(9/17〜10/10) 東北大学植物園(10/19〜11/13)

 まだちょっと秋には早いのだけれど、「秋の七草が、秋の五草になる。」という話を耳にしたことはあるだろうか?「七草」とは、奈良時代に編集された『万葉集』に、秋の野に咲く代表的な花として挙げられてものである。ところが今、その中で絶滅の危機に瀕しているものがある。「フジバカマ」と「キキョウ」だ。

 大阪、沖縄、東京、そして新潟も明日で終わってしまうが、『絶滅危惧植物展』が全国を巡回している。そこで知るのは、ありふれた名前の植物たちが、絶滅の危機に瀕してい事実だ。「キキョウ」という名の植物があることを知らない人は、あまりおるまい。「ヒメユリ」はどうか?これも危機にさらされている。
 これらの植物は、園芸店などで購入することは可能である。しかしこれらは人間が栽培したもの。『万葉集』の歌人が詠んだように、自生しているものはほとんど見ることが出来なくなっている。日本の植物の1/4、16000種あまりが絶滅の危機にあるそうだ。そしてその多くが、「七草」のように、人間の生活の中で息づいていた身近な植物である。

 これらの植物が危機に瀕してしまう理由の一つは、「人間活動の増加」。開発が進み、これら植物の生育環境が悪化したためである。これは容易に想像がつく。
 そしてもう一つの理由は「人間活動の減少」。以前であれば里山などは、人間が肥料となる落ち葉を求めて、お風呂にくべる薪を求めてといったように、人間の手が入れられた。これによって自生する植物たちを覆う不必要なものが適度に取り除かれていたというわけである。
 このことは非常に興味深い。昨年、そして今年と熊が例年を上回るペースで出没しているが、これも同じような指摘がある。熊は里山を人間の緩衝地帯と設定していた節がある。山から食料を求めて下山する熊は、人間の手が入ったところを察知し、それより下へは足を踏み入れないようにしてきた。そのため人間との衝突も少なくて済んでいた。
 ところが昨今は、山に手が入らず、熊はどこまでも下山。すると突然、人間が出現しパニックを起こしているうちに戻れなくなってしまうのだそうだ。
 人間の生活の変化は、様々な生き物たちを巻き込んで、ゆくゆく自分たちの生活の変化を呼び込んでいる。

 「小学生や、中学生の団体の方々がよく利用しています」と、『絶滅機具植物展』の係員の方がおっしゃっていた。そのためパネル展示が非常にあたたかく優しい図解でわかりやすい。専門知識のない僕も大いに興味を持った。またその会場も、植物を扱っているところだ。実物を目にすることができる。
 子供達は、この絶滅の恐れのある植物の自生する姿を見たことがないだろう。つまり我々大人が歴史博物館の展示を眺めるのと一緒だ。我々大人は違う。例えば「アサザ」や「カガブタ」は、水田のあぜ道で名前も知らずに目にしていた。

 「これも絶滅か…」アッと驚き、郷愁に、思い出とともに切ない気持ちがわき起こる。思い出の風景が、どんどん失われていく寂しさに直面する。
 子供の頃に比べて自由になって、経済的にも楽にもなって、もっと何事も出来るはずなのだが、どうやってもこれらを手に入れることはできないのだろうと、大人の無力感を感じた。

時事問題を一覧にしました『これも時事?あれも時事?
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2005年7月26日 (火) 懐かしい気持ち…第14回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート
作品『黒太郎一家の10年〜ナベツルと暮らす村・八代』
第14回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
黒太郎一家の10年〜ナベツルと暮らす村・八代』 放映:2005.7.21 制作:テレビ新広島
 
 その町長が突然死んだ。その日、北帰行をしなければ、この先1週間は天候の具合から白鳥は飛び立てなくなる。
 「町長の葬式が終わるまで帰らないんじゃないかなぁ…」と、世話をする方がぼそりと言った。
 埼玉県川本町に飛来する白鳥は、北へ向かうために立ち寄ったものも含め、白鳥飛来地整備に尽力した町長が死んだ翌日、今年最高の飛来数となった。そして言葉通り、葬儀が終了してからシベリアへと向かっていった。

 宮城県仙台市の大沼では今年、2羽の白鳥がいまも留まっている。1羽が怪我をしており、つがいとみられるもう1羽が寄り添っている。
 このような例は、川本町でもあったし、僕の実家のある宮城県岩沼市でも見られる(岩沼市・朝日山公園の白鳥は、シベリアに行くことを断念。ここ数年、通年で定住している)。
 白鳥にとって日本の夏は暑く、留まることを決めたその時には、死のリスクを覚悟しなければならなかったはずである。覚悟を決めて絆に寄り添うそんな姿に、懐かしい人間の感じがする…

 このドキュメンタリーで紹介される「黒太郎一家」とは、ナベツルの一家である。黒太郎は一家の主。毎年奥さんと、その年にシベリアで生まれた子供を連れて飛来する。1995年から10年を追ったこの作品は、ナベツルの絆を、よく捉えている。
 ある年、黒太郎一家のみ北帰行をしない事態が発生した。他の19羽が北帰行を開始し、旋回しながら上昇気流に乗っていく。しぶしぶといった感じで北帰行を開始する黒太郎一家の編隊は、一向に整わない。子供の1羽が、どうしても気流を捕まえられないのだ。
 1時間の悪戦苦闘の後、黒太郎一家は北帰行を諦めて着地。すると、先に飛び立った19羽も戻ってきて、翌日、ともに飛び立っていった。

 ある年は、足に傷を負った黒太郎の奥さんが、行方をくらましてしまう。
 前年より黒太郎の奥さんは、足を痛めていて、びっこをひいて歩いていた。飛ぶ際も通常のツルならば足をひとつに束ねて飛ぶところが、束ねられない。微妙なバランスで風の抵抗を避ける彼らにとって、これは大きな痛手であることは、素人目に見ても感じた。
外敵であるキツネが狙う。大雪が降り、動くこともままならない奥さん。いつも決して離れない黒太郎の姿があった。
 他のツルたちが北帰行で去っていくなか、奥さんが見当たらない黒太郎とその子供は、奥さんを待っているのか、その地に留まる。黒太郎は日中、それは奥さんへの呼びかけなのか、いつもとは違う声を発して待ち続ける。
 一週間経ったその日、黒太郎一家も決心して北帰行を行う。飛び立つ一家は、上昇気流をすぐさまとらえることはせず、ゆっくりと大きく、飛来地一帯を旋回し、最後の別れを告げるように飛び立っていった。
 黒太郎の奥さんは?研究家の方が語っているが、一家の寝床は外敵に荒らされた様子もない。考えられることは、自分の体では北帰行は無理だと判断した奥さんが、一家に気を遣わせることを嫌い、姿をくらましたのではないか?とのこと。ツルなどには、このような現象が、ときおり見られるとのことである。

 このドキュメントを見ていると、ツルが人並みに悲しみや喜びなど、様々な感情を持って生きていることがわかる。様々な感情を持つことは、人間の特権ではないのである。
 その豊な感情を表現しえたドキュメント作品を見るにつけ、現代のドラマや映画のパワー不足を感じる。感情を表現するものとして、ドラマや映画に触れてきていたのだが、どうもリアルな現実を描いたドキュメントのほうが、その表現が卓越しているように思えてならない。

 ドラマや映画の物語よりも、現代社会のほうが複雑な感情を内包しているというのか?
 ドラマや映画の物語のほうが、おさまりのよい感情を描いているのか?
 元々、映画やドラマが好きである僕は、最近、複雑な気持ちである。

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2005年7月25日 (月) エンターティメントとして見る
日本テレビ系列ドラマ『女王の教室』
女王の教室』 放映:日本テレビ系列・土曜日21時〜 制作:日本テレビ
 脚本:遊川和彦 出演:天海祐希 志田未来 真鍋由介 福田麻由子など

昨日からの続き)
 このドラマの掲示板が賑やかだ。反響が大きい。学校を扱うドラマには、視聴者のアクセスが多い。皆、教育には関心があるからだ。
 大人の反応は辛いものが目立つ。「放送打ち切りを望む」というものが多く、表現の自由はどこにいったのかしら?という気さえする。反対にこの番組を評価する意見は、「現実」「ゆとり教育」といったものをキーに、低年齢化が進む犯罪などへの危惧を感じているようである。
 逆に子供たちの反応は好意的。「面白い」「(生徒たちへ)頑張れ!」というものが目につく。子供たちは単純にエンターティメントとしてこのドラマを見ているように感じる。

 このドラマは面白い。
 僕は一児の父親だが、やはり商売柄かエンターティメントとして、このドラマに向き合っているように思う。
 阿久津は、もちろん嫌悪して止まない教師である。しかし、阿久津が語るデータは嘘ではない。「6%の特権階級」「総合学習やゆとり教育で有名私立などに比べて遅れを取っている」などなど、現代社会を浮き彫りにしている。そして阿久津の取る行動は、たんなる一教師が現代社会に刃向かっても意味がなく、ならば徹底的に生徒たちを現代社会に順応させようという強固な意志が取って見える。
 他の教師はどうか?彼らはやはりサラリーマンで、強固な意志など持っていない。せいぜい上の者へ順応するばかりの能力しかない。
 阿久津は決して上の者へ順応しない。しからば何故、存在していられるのか?彼女は、まず周りを籠絡させて、確固たる地位を築いてみせる。そして自分の意志を貫く。これは批判などしている場合ではなく、賞賛に値する。その意味においては、成績という確固たる地位を築いた上で、阿久津に組みしないひかるは、同じレベルの存在である。

 このドラマはリアルだと思う。
 学校に組みしない阿久津、阿久津に組みしない3人の生徒。それぞれは確固たる意志を持つがために「異端児」である。「異端児」という言葉に違和感を感じない人々は、「自由」とか「ゆとり」とか、「個性」などという言葉を使うことを辞めたほうがいい。それらのものは、この「異端児」である3人のみが示している。我が道を行くには、いかに茨の道がまっているか。理解されるまでに、長い年月を必要とするか。それを認めさせるには、いかに労力を必要とするか。
 そういった意味で、このドラマにはリアリティがあり、なおかつ阿久津をはじめ阿久津に反抗する3人の生徒諸君は、ドラマ的な苦難を乗り越えていくキャラクターを備えており、エンターティメントとしての面白さがあると思う。

 良しとしようとも、悪しとしようとも、これだけ掲示板へ書き込みをする人々が、様々な年齢層にあるということは、このドラマが、現代社会と繋がっていることを意味している。
 このような“問題作”は、もっともっとテレビドラマとしてあっていいのではないだろうか?

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2005年7月24日 (日) 脱帽するドラマ。日本テレビ系列ドラマ『女王の教室』
女王の教室』 放映:日本テレビ系列・土曜日21時〜 制作:日本テレビ
 脚本:遊川和彦 出演:天海祐希 志田未来 真鍋由介 福田麻由子など

 毎週見ているドラマと言えば、この『女王の教室』。2クール連続で主演を張る天海祐希は美しく、実は前クールの『離婚弁護士2』も、ちらちら見ていた。
 『離婚弁護士2』は、理詰めで勝利をものにするはずの弁護士が、依頼人の本当の幸せを、「勝ち負け」ではないところで掴んでみせることが面白かったように思う。だからこのドラマを見ていると、21時40分前後には、ほろりと涙を誘うシーンが用意されていて、かつてフジテレビで放映されていた『さよなら、小津先生』を思わせ、ちょっと良い心持ちになった。

 『女王の教室』は、そんなことがない。天海祐希演じる教師(阿久津真矢)は、笑顔も見せず、にやりとするところを除けばその全編を無表情でやってのけ、徹底的に独裁者でいる。彼女の素性は未だわからないが、生徒達には徹底して大人の世界のいやらしで「勝ち」をもたらす教育を施す。
 成績順に物事を決める。ビリから2番目までは、「代表委員」としてクラスの雑用を全て行わせる。先生に反抗する生徒も然り。当然の如く生徒達はうわべだけは従うようになるのだが、3人の生徒がそれに無力ながら立ち向かう。

 無力に立ち向かう一人の女生徒・神田和美(志田未来)は、人や人の和を重んじて貧乏くじを掴まされる人間の典型であろうと思う。第3話では阿久津に虐め倒される女生徒をかばい続け、結果、その生徒が阿久津に取り込まれてしまい裏切りに遇う。第4回も、同級生の財布を盗んだ女生徒に「親友でしょう」と頼まれ、こっそりその財布を返す羽目になり、結果それが見つかり犯人扱いされる。盗んだ当の本人は、あっさりと和美を裏切るのだ。
 子供の狡さ、そして大人社会の「虎の威をかる」「自己保身」を、難なく描いてみせる。

 いま一人の男子生徒(真鍋由介)は、親に捨てられた過去を持つ者で、そのせいか、いつなんどきでもおどけてみせる。和美に好意を抱いているので、ストレートにそれを表現できないのだが、和美の立場に立つ。
 不器用な男の典型を演じる。
 いま一人の女生徒・進藤ひかる(福田麻由子)は、成績もトップクラスでありながら阿久津に組しない。阿久津に「あなたも私に謝れば、代表委員なんて免除する」と言われるのだが、「遠慮しておきます」と答えるクール。大多数にも、権力者にも身柄を置くことで、自分を保つ人間の典型である。
 いや…。回が進むにつれ、ひかると阿久津の背景は、何かキーとなりながら物語の展開に深く関わっていくであろうから、うっかりした断定は、憶測としてはずれるに違いない。

 ではそれ以外の生徒諸君はどうであろう。社会とうまいこと折り合いをつけながら、自分の道を歩む、大多数である。もちろん、いちようではない。成績トップを狙う者、いい加減とも思える生活を維持していく者。様々なキャラクターの人間を配しながら、それこそが当たり前に存在する社会であることを、まざまざと描いている。
 他の教師はどうか?これは皆、信念のない人間として描かれている。幹部は保護者からのクレームがこなければ、阿久津がどのような教育方針をとろうが気にとめない。ゆとり教育の代弁者の如き教諭(原沙知恵)は、信念のない人間で、保護者や幹部から睨まれるのではと察知すると、生徒にいい顔をしながらその教育方針を、それとは知られない形で変更してしまう。弱虫なリベラリストの典型にも見える。

 ところでこのドラマ、生徒諸君の演技が芸達者である。特に主演級の志田未来は、演技が大げさであるという声も耳にするが、様々な表情を、その複雑な性格描写とともに、上手に演じていると思う。
 また大多数を演じる生徒諸君の役どころを演じる子供達も巧い。大多数ほど、人間のいやらしさを演じなければならず、様々な感情を演じなければならない。
 芝居のひとつひとつに脱帽するところも、このドラマの魅力である。
続く

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2005年7月23日 (土) 世界では知らないことがたくさん起きている。『国際報道写真展2005』
国際報道写真展2005 
 東京都写真美術館 〜7月31日

 先日、学生とともに『国際報道写真展2005』を見にいってきた。この写真展で感じることは、
 ●世界では知らないことがたくさん起きている
 ●犠牲者は一般人だ
 ●写真メディアの凄さ
ということだ。

 中国の工場を取材したミシェル・ボルフの1枚の写真。6人の男たちがこちらを見てぶらっと立っている。
 肘から先がない片腕。手のひらのつけねから先がない片腕。一本足で立つ者。彼らは体の一部が、どこかしらない。
 安価で豊富な人材を武器に、今や「世界の工場」となった中国では、この写真の取材先である深州だけでも1日に27人の人が、体の一部を失っていく。
 人民元の切り上げ。石油消費2位。日本ともめるガス田開発。これら経済発展の陰には、あまり報じられない犠牲者の存在がある。最近日本を震わせている「アスベスト問題」。これとて日本の高度経済成長期の欲しくない置き土産。陰である。

 がらんどうの病室の真ん中に小さな棺がひとつ。赤ん坊が横たわっている。その脇には真っ白な服を着た黒人の母親が立つ。彼女は一服でもするかのように腕を組み、横目でその棺を見下ろす。
 赤ん坊は、2月に起きた政変の少し前に生まれた。病院は政変で封鎖。赤ん坊は何の治療も受けられずに、このがらんどうの病院で死んだ。
 これはハイチの政変を取材したシャウル・シュワルツの一枚。病院と言うにはあまりに何もない一室で、静かにたたずむこの親子の写真は、その静けさとは裏腹に、激しい怒りを感じた。

 「ロシアの学校占拠人質事件」「ダルフールの虐殺」など、様々な紛争を取材した写真が展示されているが、その犠牲者の多くは女・子供である。政治を司り、武器を手にする者たちではない。
 何のための戦いなのか?

 写真展の入り口近くに、審査委員長を務めたディエゴ・ゴールドバーグの言葉がある。「・・・テーマは繰り返される。私たちは何度も同じことについて語るが・・・」
 学生の頃より何度か足を運んだこの写真展。いつも扱ってある題材は同じではなかったか?長い歴史は、科学の発展や文化の向上など、豊かな側面はもちろんあるにはあるのだが、しかしそれらは何か小手先のもので、人間という本質の部分は、何も変わっていないのではないだろうか?

 写真は凄まじい迫力を持っている。この写真展で展示されているもののほとんどは、テレビや新聞といったメディアで発表されることはないだろう。
 その刺激の強さは「公共性」に欠くであろうし、また我々ニュースの消費者が求めるものとは違うとされるだろう。
 しかしこの写真展には、当たり障りの悪い真実が並べられている。テレビや新聞が持たない写真の力、そしてこれらを掲載するであろう雑誌の凄さを感じた。

 僕の学生時代とは違い洒落た街へと変貌した恵比寿で開催されているこの写真展。昔に比べて来場者のバラエティにも富み、写真を志す者なのであろうか若い女性も多く足を運んでいる。
 そんなありようを見ていると、少し嬉しい気分になってきた。

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2005年7月20日 (水) 神様は、超えられない苦労は与えない。菊間千乃アナウンサー無期謹慎。
 先日、菊間千乃アナウンサーの処女作『私がアナウンサー』を読んだばかりで、今回の謹慎は非常に残念だ。菊間アナを直接知るわけではないので、その人となりを深く知るわけではないが、彼女はそれなりの苦労人で共感を持てる部分があった。
 『私はアナウンサー』は、彼女の不幸な闘病記(番組中の事故)、そして闘病中にメディアに対して思ったことなどが書き連ねてある。
 入院先、自宅へと押しかける報道陣。自分は今まで、被害者の心労をよそに向こう側にいたことを思う。なんとか元気な姿をアピールしたいフジテレビ幹部は、折に触れてはテレビ出演を打診。しかしその気持ちになれない彼女が断った件は、よくもフジテレビの社員なのに思い切ってここまで書いてるね〜と感心。東京新聞の吉岡逸夫記者が、著作で軽〜く強烈に自分も属するメディア批判をやってのけるているような心地良さがそこにはあった。
 ちょっと面白いアナウンサーかも?と思った矢先のこの謹慎。残念である。

 NWESのメンバーは18歳ということだが、微妙な年齢ですね〜
 法律では酒は禁止されているものの、春先に行われる大学生の新入生歓迎コンパや、高卒で働く者の職場の歓迎会で酒が出ないわけがない。仕事に就けば誰もが「酒の付き合いは大切だ」と教えられる。酒とは仕事をする者に欠くことのできないものである。
 なぜ18歳は飲酒禁止なのか?この法律が定められた当時よりも、日本人の体は大きくなっただろうから、生理的な問題はクリアしているのか?NWESの彼は街で騒いでいたというから、やはり精神的に大人になりきれていない者の飲酒はまずいからなのか?
 どっちゃにしろ18歳というのは微妙なお年頃。34歳のオッサンがわかったように言えば、世の中なんとかグレーゾーンを乗り越えながら生きて行くものだとしか言えませんね。

 「神様は、超えられない苦労は与えない」
 親友が、僕が愚痴ると言う言葉だ。菊間アナの著書にも同じようなことが書いてあったように思う。
 18歳の者を酒の席に誘うのが良いか悪いか、公私混同が良いか悪いか、そんなことはいちがいに断じることは出来ない。問題になったからこそ、悪視されるばかりである。
 菊間アナは今春から法科大学院に通い始めたとのこと。彼女は色々なことでこの苦労を乗り越えるに違いないと思う。

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2005年7月10日 (日) 雄弁な背中の映画。入江悠監督『部屋の片隅で、愛をつねる』(1)
部屋の片隅で、愛をつねる』 2004年製作 日本映画
 監督・脚本:入江悠 出演:大澤真理、守屋文雄、などなど

 昨年行われた「第1回ふかやインディーズ・フィルム・フェスティバル」でグランプリを取った作品だ。文句なしの受賞である。その後も、各地の映画祭で賞を受賞している。

 あるアイドル男性グループのライブ会場の控え室。外人ダンサーが活き活きとはしゃいで出ていく。すると入れ替わるように入ってくるのが、汗にまみれ疲れ切った、可愛らしい蜂の着ぐるみを着た女性(大澤真理)。ザリガニの着ぐるみを着た男(守屋文雄)肩で息をしながら壁を背にした長いすに腰掛ける。
 女は、事務所に所属した頃は一番の若手だったが、売れないままに歳を重ねた24,5歳。男はダンサーを目指してはいるが、これまた売れない28歳だ。ともにアルバイトでアイドルグループのバックダンサーをしていて、初顔合わせの仕事だ。

 「突然の出番もあるから着ぐるみは脱がないで」と、ライブのアシスタントディレクターにぞんざいに扱われ、クーラーも効かせてもらえず、飲み物さえ用意されず、映像からは痛々しい「乾き」が伝わる。律儀な二人は、冷蔵庫にふんだんに用意されている、きっとアイドルが飲むのであろうビールには「仕事中はまずいか」と言って手を出さない。
 「エキストラの仕事なんかしていて、突然セリフを貰えたりすると嬉しくて、お母さんに電話したりなんかして」と、いくぶん落ち着いた二人は、寂しい境遇をニコニコ話すのだが、「でもやっぱり才能ないかなぁ〜って」と、しょんぼりすると、男は置いてあるサーカスの一団が使うような小さな自転車に着ぐるみを着た余分に大きくなった体でまたがり、その小ささと滑稽な歌で女を笑わせて、互いを慰め合う。

 「飲み物買ってくるよ」と、男は気を利かせて部屋を後にするのだが、すると女の携帯電話が鳴り、昔の男と言い合いになる。会話からわかることは復縁を迫る男に対して、自分が貢いだ金を他の女に貢ぐような男とは後戻りできないという、いかにも後戻りしたくてたまらない女の、自分に対する困惑だ。
 電話を切った女は冷蔵庫を開ける。そして一口、そして口を付けてしまえば、あとはいっしょなんだと思い立ったのか勢いよくビールを飲み始めると、ザリガニ男は帰ってきてそれを制するのだが、もはや止まらない。もう一本空けて、「私帰る」という女をザリガニ男は押し倒すようにそれを制して揉み合いにになると、先ほどのライブのアシスタントディレクターが現れ、男が女を襲っているかと勘違いして、男同士の揉み合いに。ザリガニ男は一方の男をはり倒してしまい、するとはり倒された男は「大人なんだから仕事はしようと」と部屋を後にする。
 
 ザリガニ男は「俺たちなんかいなくなったって誰も気がつかないよ。帰っていいとおもうよ」と女に呟く。女は着ぐるみを着たまま、控え室を後にして、男はそれに続く。二人の歩くその廊下の先には、輝くステージの明かりがこぼれている。

 と、こんな感じの至福の27分が展開される。巧い!着ぐるみを着っぱなしの面白さ、女の心に決して響くことのない言葉をつぐみ、気まずい場所を提供し続けるザリガニ男。
 27分、ほぼ控え室だけのその場所で、女の境遇を日常も含めて語ってしまう妙技。なにより、出てくる人間すべてのディテールを描ききる脚本手腕。
 喜劇的なその作品世界は決してハッピーエンドではない。何よりもこの着ぐるみ二人組に未来は描けない。そしてまたこの生活を逃れることも出来ないのであろう。物語にありがちなハッピーはここにはなく、甘くはない人生の一こまが描かれているのだが、しかしそれだからといってこの映画はさして見る者に辛さを感じさせない。
 「帰っていいと思うよ」という言葉に、女は帰らない。ザリガニ男はその後ろ姿を見せる廊下で、自分を奮い立たせるようなアクションを、ゆっくりと見せる。仕事を投げ出さないこのシーンは、ある種、物語の予定調和的な「ほっとさせる」ラストで、二人を応援したい気にもさせ、二人を「信じる」気持ちにさせ、そして先ほども述べたように「投げ出せない」ことの切なさも併せ持つ。
 脱帽だ。
 最近見た映画の中で、これほどまでに雄弁な背中はあるまい、と思う。

続く

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2005年7月7日 (木) 力をまき散らす映画。今井翼&横浜玄監督『情熱の種まき』
『情熱の種まき』 2005年制作 日本映画(ドキュメンタリー)
 監督:今井翼、横浜玄

 昨年、学生を連れて深谷シネマを訪れた。代表を務める武石さんは、時間をわざわざ割いてくれて、学生達の取材に真摯に対応していただいた。学生達は武石さんのお話に強く惹かれ、当時準備段階だった「深谷映画祭」へ向けての取り組みを取材してみようということになった。そしてその取材テープを編集した15分ほどの作品『情熱の種まき』が、深谷シネまで今月8日〜10日に開催される「深谷インディーズフィルムフェスティバル」で上映される運びとなった。

 学生の一人・今井君は、テレビ局報道部署への就職が決まり、うかうかしていたわけではない。授業時間を利用して、またプライベートな時間を削って様々な取材を重ね、「就職した際、恥ずかしい思いをしないように」と、地道な努力を重ねていた。
 いま一人の横浜君は、僕の勤める会社の制作部においてインターンシップ中で、様々なビデオ作品の制作アシスタントを務めていた。深谷シネマへの取材は、その合間を縫って駆けつけた。
 
 2人は、それぞれの将来の道にあわせ、取材したことを提出した。報道カメラマンを目指す今井君は、ニュース原稿にまとめた。将来ディレクターを目指す横浜君はニュース番組の特集企画として企画書を提出した。そして2人は、横浜君の企画を元としてさらなる取材を行い、作品を作り上げた。
僕も何度か取材現場を訪れた。彼らは忙しい合間を縫いながら通い続けただけあって、取材対象となる皆さんと打ち解けており、信頼関係が出来上がっていた。これはとても良いことだ。
 作品づくりに欠かせないのは、この信頼関係。制作者のオリジナリティ溢れる才能などではない。そんなものがあったとしても、それを理解して協力してくれる人がいなければ、作品にはならない。特に長丁場な取材になればなるほど、信頼関係は大切だ。

 取材は対象者の善意で成り立つことが多い。メリットが全くないケースもある。このように学生が取材するものの場合、それがテレビで放映されることもないので、宣伝効果は全く期待できない。それにも関わらず、カメラを持った人間がウロウロしているわけだから、取材対象にとっては鬱陶しいこと極まりない。
 だからこそ取材者と取材対象との関係が良好でなければ成立しない。

 作品のデキは、学生が作ったものだから賛否両論あって然るべきものだ。しかしながら作品づくりに欠かせない関係を良好に保って成し得たことは、素晴らしいことだ。
 今井君は入社した会社の研修も良好で、希望に近い形で赴任していった。横浜君は僕が企画提案したPRビデオの制作アシスタントを務め、このごろ作品を完成させた。二人とも、就職先で期待を背に順調なスタートを切った。
 
 『情熱の種まき』は、武石さんではなく、武石さんの元に集まり、映画祭を成功させようと奮闘したボランティアスタッフを主に追っている。その奮闘を取材した彼らもまたその奮闘に負けじとカメラを廻し、そしてそのパワーをもらったのではないかと考えている。
 小さな街の小さな映画館で上映される作品だが、その作品からはたくさんの力が弾け、観客達に力を蒔くに違いない。
 お時間のある方はぜひ、足を運んで下さい。 >」

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