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今日も映画の風が吹く2005年8月後半号

2005年8月30日 (火) 作為がうむカメラの肉体。瀬々敬久監督『ユダ』
エロス番長シリーズ『ユダ』 日本映画/ユーロスペース 2004年製作
 監督/脚本:瀬々敬久 脚本:佐藤有記 出演:岡元夕紀子 光石研 本多一麻 など

 ドキュメンタリービデオを制作している私(光石研)は、多発する16歳の犯罪の背景を探ろうとカメラを廻し始める。そこで出会ったのが、性同一障害の私が勝手に「ユダ」と名付けた少年(本多一麻) 。彼の日常を記録し始める。

 さすが瀬々敬久監督だ。
 この「エロス番町シリーズ」は、同型のDVカメラによる撮影、同一予算、エンターティメント作品という条件のもと、ベテラン監督と新人監督が競い合う「映画番長」という企画の一つ。東宝や東映、松竹といった大手の映画会社が製作する一般作とは違い、予算面も違えば、このDVというカメラ機材の映画的な質感というやつが、一般映画の豪華な機材に比べてやっぱり劣った印象になる。それをどのように避けるのか?
 ここでベテランらしく瀬々敬久監督が、ドキュメンタリー、そして登場人物の取材者が構えるビデオの映像で導入を持ってくるところは、その「劣り」を意識させない作為が嬉しい。
 また私は、ユダの了承なしにカメラを向けるのだが、ユダの困惑、そして徐々にカメラを意識しなくなる感覚は、カメラの特性が活かされ、かえって難なく表現されているように感じられるし、男に興味のない私が、なんとなくユダと体を交えてしまうその動揺に似た感じも、カメラの映像ではなくて、カメラの震えや被写体の構図を選びきれていないカメラの感覚から伝わってくる。

 映画というやつは、本来こうではいけないのだと思う。フレームやカメラを意識せず、自然と物語に落ちていくことが、「巧い」のだと思う。
 しかししかし、なんと言っていいやら、この映画の場合、カメラを意識してしまうことで、カメラの肉体性みたいなものを感じる。
 私は、当然カメラを廻しているのだから、当分の間、我々は見ることができない。カメラが表わす肉体は私なのだ、と言ってしまえば腑に落ちてもらえるだろうか?いや私を通して見ている私なのか?いやいやカメラの肉体は触れている感覚だ。
 というように、過剰にカメラを意識してしまう、カメラが生きているような面白い映画だった。

 この瀬々敬久監督の作品が近々テレビで放映される。映画じゃない。アクの強いフジテレビ系ドキュメンタリー「NONFIX」で放映だ。シリーズ終戦60年企画『幻の特攻機基地〜戦いはいまだ終わらず〜』(2005年8月31日/2:43〜3:38)。期待していいんじゃないかな!

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2005年8月28日 (日) 大人の論理に生きるスポーツ選手〜駒大苫小牧高校野球部問題〜
 「生徒が悪いわけではないでしょう!」
という、凄く怒りを感じるメールが友人から届いた。駒大苫小牧高校野球部の問題。問題を起こしたのは、部員ではなく野球部長という管理側である。
 練習に練習を重ね、優勝旗を勝ち取った学生は、何も悪くない。

 と、僕もメールを返信すれば良かったのだが、しばし躊躇った。もちろん僕も野球部員に問題はないと思っている。だから友人の意見には全面的に賛成。
 しかし、ひっかかるのは高校野球、いや、スポーツ全体にちょっと違和感を感じていたからだ。

 高校野球、特に私立高校の強豪チームのことを考えてみると、これはもう部活動ではない。確実に宣伝活動である。
 野球の強い某私立高校のスカウトマンをしていた友人がいる。彼は日本全国の有望と思われる中学選手を訪れ、入学を説得する。もちろん学費はただ。地方から来る子には寮費もただだ。彼らの野球用品も、学校、もしくはスポーツ用品メーカーが持ってきてくれる。
 「親は学校に一銭も払っていない。親孝行な息子だよ、俺は」というスカウトマンの彼も、高校生時代は特待生。大学も野球推薦で某私立大学に入学した。
 「体を壊して退部したけど、それで初めて授業に出た。退部してやる気を失っていたのもあったけど、先生が何を言ってるのかもわからなくて、結局退学した。」彼が大学を辞めたのは3年生の時だ。つまり1、2年の時の単位は、学校側が出席しなくてもつけていたわけである。

 これらの状況は、野球に限ったことではないだろう。露出の高いスポーツは同じような状況なのだと思う。
 僕はこれらの状況を改善しなければならない、とは思わない。それぐらいやらなければ、強いチームは生まれないし、強い選手も育たない。
 数日前の新聞で、若い中学生だったか高校生の卓球日本代表選手を扱ったものがあった。彼らは遠征の毎日。コーチは「卓球で食べていくしかない、という風に追い込んでいる」と言っていた。ハッキリ言って彼らは、ろくに学校に行っていないから学力はない。また普通の人間関係も学べない。普通の社会への復帰は難しい。
 スポーツで身を立てるというのは、それぐらい大変なことだと思う。そう思うと、いささか優遇されて見えるスポーツ選手の状況は、やむなしだと思う。

 甲子園大会は、新聞社が後援している企業の大会という側面を持つ。出場する選手の多くは、さきほどの私立高校のように経済的な支援を受けた、学生というよりも広報・宣伝部員である。一般学生の「部活動」のそれとは大きく違う。
 学生の側にも「プロへ行きたい」「大学に野球推薦で行きたい」という、普通の高校生とは違った「予備軍」的な要素が濃厚である。
 つまり凡人である我々の高校生時代とは環境があまりにも違いすぎている。彼らの環境は、「大人の社会」であって、物事の判断は大人社会に準じたものになるのはしかたがないように思われる。
 普通の高校生と同じレベルでジャッジをできるのかどうか、甚だ疑問なのである。

 彼らはすでに大人の論理で生きている。善し悪しは別にして、大人の社会は不祥事の際、誰かが責任を取ることで、話がなんとなくおさまる。彼らはそういう世界に、早々と足を突っ込んでしまった。優勝旗返還ということに落ち着いても、それは試練なのかもしれないと思った。
 専門家の目から見れば、彼らの力量は一目瞭然だろう。彼らを欲しいと思うプロ球団、大学はある。こんなことでめげずに頑張って欲しいと思う。

 それから彼らを大人の社会に引きずり込む以上、何かの際はサポートが大切だと思う。
 知り合いのお孫さんにスポーツ特待生の入学案内が来た。彼はお孫さんの両親にそれを断らせ、特待生の案内がきた高校に一般受験で入学させた。
 「特待生で入って体を壊したら、学校に居づらくなって辞める羽目になる。まだ高校生なのだから、大人が責任を持って挫折した時の準備をしておいてやらないと」
 ハイリスク・ハイリターンと言っても過言ではない彼らの状況。しかしいくらスポーツで鍛えた精神力と言っても、リスクに耐えられる精神力はない、と考えてあげたほうがいいと思う。

 リスクマネージメントは、不祥事を起こした学校といった組織のことばかり論じるのではなくて、若い彼ら学生諸君のことも視野に入れて考えていったほうがいいと思う。

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2005年8月22日 (月) ツケはまわせないところまで来ている。写真展『百年の愚行』
写真展『百年の愚行』 高崎市美術館 2005.7.16〜9.10
 
 なんとも痛ましいタイトルに惹かれて訪れた。荒れていく地球の様、そして終わることのない貧困など、目を覆うものが数多くあった。

 なかでも気をとめたのは、甲板に人が溢れる船「セントルイス号」の一枚。このセントルイス号はナチスの迫害を逃れるために、ユダヤ人を乗せキューバ、アメリカへと渡る。しかし両国は寄港を拒否。その後セントルイス号はヨーロッパへと向かい、ベルギー、オランダ、イギリス、フランスが乗客を受け入れた。
 めでたしめでたしではない。この後、ヨーロッパ諸国は結局ナチスに占領され、ユダヤ人狩りに、一部の国を除いて協力。セントルイス号に乗船していた907人のほとんどが捕らえられ、命を落とした。

 8月16日よりNHK総合で放映されたBBC制作『アウシュビッツ』は、ユダヤ人の扱いに苦悩するヨーロッパ諸国が描かれた。
フランスは自国籍のユダヤ人の引渡しを拒否。「まずは手始めにそれからいこう」とナチス将校が語って折れるが、他国籍のユダヤ人が引き渡された。イギリスも同じく、オーストリアなどから逃れてきたユダヤ人が連行されていく。
 ナチスにやんわりと抵抗してみせた国もある。デンマークだ。
 デンマークの人々は、民族の違いだけでユダヤ人が迫害されるのはおかしいと感じ、民意におされた政府も抵抗の姿勢をナチスにハッキリと伝える。ナチスの将校が漏らす「北欧に向けて橋が掛かっていればいいのだがなぁ・・・」
この将校は、ユダヤ人強制連行の日をデンマーク政府高官に明かす。政府高官はそれをユダヤ人に伝える。ユダヤ人はその日、港へ向かう。デンマーク人達は金をかき集め、ユダヤ人が逃れられるように船を用意し、北欧各国へと送る。北欧の人々は彼らを手厚く保護した。
当時、北欧各国はこの戦争に中立の立場をとっていた。ナチス将校はこれを示唆しての発言であり、粘り強く抵抗姿勢を貫いたデンマークは好機を得たのである。

 神戸の爆撃を「B29(爆撃機)」から撮った一枚にはゾッとした。列を成して落ちていく爆弾の数。雨のようである。一つを避けても次の爆弾に当たるであろうそのおびただしい数。右に逃げれば右に爆弾の列。左に逃げても同じこと。
 助かるはずもない爆弾の雨あられである。

 8月11日に放映されたNHKスペシャル『そして日本は焦土となった』の各場面にも、この列を成して落ちていく爆弾が映されている。「市民に恐怖を与え、戦争遂行の意図を失わせる」という都市爆撃の狙いは、果たして日本に有効であったのだろうか?
天皇を神と崇め、靖国神社の英霊となれと教育されてきた日本人にとって、その爆弾の嵐は、戦争終結への強い意志とは結びつかなかったように思える。市民はひたすら爆弾に耐えてしまったのである。

 「愚行」とは何か?

 ルーマニアのエイズ孤児の写真がある。独裁者/チャウセスクは、人口増加を目論んで出産奨励/中絶禁止政策を行うが、貧困にあえぐ国民はやがて子供を捨ててしまうその数約20万人と言われている。
 捨て子は施設に入れられるが、その多くが栄養失調で輸血される。しかしこの血にHMVが混入していた・・・

 「愚行」とは何か?
 人間の誤った行為。その誤りはどこにあるのか?何事も支配できるという思い上がりか?
 この写真展は、うぬぼれやの人間が、この地球上で、広範囲に渡って行ってきた営みの歪みを見ることができる。100年の歪みは、思ったより大きい。あと何年、歪ませることができるのか?
 次世代まで持たないのでは?という焦りを感じた写真展だった。「自分が生きているうちは…」なんて、ツケはまわせないところまで来ている。

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2005年8月20日 (土) 徹底した管理教育者が西部劇のヒーローのようにカッコよい。
平山秀幸監督『ザ・中学教師』
『ザ・中学教師』 1992年製作 日本映画/アルゴプロジェクト
 監督:平山秀幸 脚本:斉藤博 原作:プロ教師の会 出演:長塚京三 藤田朋子 谷啓 ほか

 西部劇のような映画だと思った。徹底した管理教育を行う中学校教諭/三上(長塚京三)は、誰よりも早く学校に出勤し、校庭で発声練習を行う。バックにギターの乾いた響き。独り徹底した管理教育を行う三上は、格好良い、と思った。
 三上は生徒の前で感情を見せない。クラスを班に分け、徹底した自治を行わせる。もちろん生意気なガキである生徒達は、事あるごとに問題を起こす。不登校、万引き…ルールに反した者に、三上は処分を下す。

 そんな管理教育に反抗する教諭もいる。若い美術教諭/長内(藤田朋子)だ。彼女は「自由」を口にする。彼女に好意を寄せる生徒は、彼女に告リ、拒絶され自殺する。そしてまた彼女は授業中、外を眺めてボーっとしている生徒に気安く話しかけると、殴られ、それを止めに入った老教諭(谷啓)は、彫刻刀で刺されてしまう。子供心をわかった気ではいけないのだ…

 三上自身は娘に問題がある。娘はいじめられっ子。そして当校拒否。家出をする。

 三上は職員会議で自粛ムードが高まるクラス対抗駅伝大会を、通年どおり主催することを主張する。三上のクラスでは、デキは悪いが足の速い生徒がアンカーに選ばれる。三上は「そんな信頼出来ない奴を選んで良いのか?みんな責任逃れじゃないのか?」と口にする。
 「三上を見返してやる」そんな空気がクラスに蔓延して、団結力のないクラスが一つにまとまる。三上は生徒を挑発したのだ。
 駅伝当日の走る息づかいが、よく伝わる映画だ。特に中学生がよく利用し、万引きの被害にあう店の娘、こいつも問題児なんだが、この子が店の前を走ると、親父がホースで水を撒く。汗まみれの健康的な肉体が、乾くような太陽とそれに反する水滴に無防備に晒される美しいシーンだった。
 駅伝は三上のクラスが優勝。教室で騒ぐ生徒達。三上が入ってくるとシーンと皆の動きが止まる。「お前らを誉めてやる」顔色一つ替えず、一人拍手する三上の手のひらの音が響く。

 三上の娘は、朝、家出から帰ってくる。家出の旅を饒舌に母に語る。起きがけの三上は、一発頬を張るだけで何も言わない。何がいけないのかとか、何がいいことなのかとか、何も言わない。
 今思い返しても、佳いシーンだ(この映画を再三見たのは大学生時代だ)。
 何も言わなくていいように思う。彼女は受け入れて欲しくて戻ってきたのだから、何も言わなくて良いのだと思う。しかしそんなことに僕が気付いたのも今の今だ…

 先日、生徒に「何故君は映画が好きか?何故映画業界に進みたいか?」と問うた。彼は「映画は見る度ごとに変化します。中学生の時に見た同じ映画を今見ても、全く違う映画に見えることがあります。僕が変化すれば映画も変化する。そんな映画を作りたい」
 いい答えだと思った。そんな風に映画は確かにあるような気がする。だから面白い映画は、何度見ても僕らを悩ませるのだ。

 『ザ・中学教師』を見たことがある人は、日本テレビ系列ドラマ『女王の教室』の今日までの回は予測できたのではないだろうか。作品の人物配置の構造も似ている部分がある。
 阿久津(天海祐希)は、実は巧みに生徒達の自立を促している。来週は親と子の対立を阿久津が用意している。「親と子のあり方」そんなテーマが垣間見えてくる。
 『ザ・中学教師』が製作された頃、管理教育は大きな社会問題になっていた。その後、「ゆとり教育」という概念が教育現場に導入される。しかしその「ゆとり教育」も今は、非難されている。これは教育を行政に委ねようとする社会の悪しき様を表現しているのではないだろうか?
 教育の方法ばかりが議論され、求める姿が描かれない。「管理」も「ゆとり」もどっちでも良いのである。成される方向性が大切なのである。
 社会も変革を求めることに安住している。変革するまでに何年かかると思っているの?変革が成された時には、きっと自分の子供は卒業しているよ。自分自身が子供達に「求める姿」を提示し、伝え、実践していかなければいけない。
 
 以前も話したが、掲示板には親世代の人達が、この番組を非難する書き込みが多い。嘆かわしいことだ。こういう人達こそ、きちんとこの番組を見つめるべきに感じる。

日本テレビ系列ドラマ『女王の教室』については、
 2005年7月24日「脱帽するドラマ
 2005年7月25日「エンターティンメントとして見る」にて。
005年8月19日 (金) 世捨て人にはならないで!
 椎名林檎が愛くるしい『ポップジャム−ピュアサイド 東京事変−』の再放送を見た。椎名林檎と他のメンバー二人が東京巡り。それを写真家・蜷川実花が切り撮る。
 蜷川実花の写真が佳い。狙った構図のショットもあるけど、何気なくあどけない椎名林檎の表情をしっかり捉えているショットが数枚あり、それには脱帽。
 音楽雑誌などは目を通さない方なので、椎名林檎の写真にあまり接していない。彼女をミュージック・クリップなどで見る限りは、けっこうどぎついコスプレ系のファッションときつい視線の表情が多いので、こういういわゆる普通っぽい表情のショットは素敵に感じる。番組的にも美味しいんじゃないかな。
 椎名林檎の地味なファッションに唖然。白を基調にストライプの入ったパンツに、ベージュのちとラメが入ったような半袖。「椎名林檎です」と言われなければ分からない。彼女のステージVTRが随所に挟まれるが、ステージの迫力とはうってかわった、ちとか細い声にもうっとり。
 もともと好きなのだが、いっそう好きになる。

 ところでだ、ステージの椎名林檎と、テレビに出た椎名林檎のどちらが本物の彼女だろうか?

 「刺客」が続々と決まってきた。自民党はどんどん有名人を候補者として公認。非難の声も高まっている。出馬する有名人の政治家としての力量を問うもの、政治と本業の両立は可能なのか?縁もゆかりもない選挙区で立候補はいかがなものか?などなど。
 いいんじゃないの。というのが僕の意見だ。

 まず「政治家の力量」という奴だが、こんなものは誰にもわからない。現・政治家という方々に力量があるとするなら、なぜこんなにこの国の借金は増えたのか?
 現職の政治家に、立候補する彼らの「政治家としての力量」をとやかく言って欲しくない。立候補する彼らは、その道でそれなりの成果を挙げてきた人々である。その思いを形にしてきた力に魅力を感じる。

 「政治と本業の両立」については、選ばれた以上は一生懸命に国政にあたってもらうよりしようがない。しかし「本業がある政治家」というのは、良い姿ではないだろうか?
 日本の政治家は、「政治家=終身雇用」という図式を感じさせるほど、その職にありついたら長く辞めない。党のお偉いさん、地元の後援会に気を使い、その職に長くあろうと活動を始める。こういう手合いこそ、政治家としての本心がわからない。
 歯に衣着せぬ、思い切った政策に打って出る石原都知事と田中長野県知事。彼らがこれだけリーダーシップを発揮できるのは、政治家を辞めても喰っていける職が他にあるからではないかと思う。人間喰うに事欠くほど、意志を曲げねばならぬ場面に出くわすものだ。

 「縁もゆかりもない場所からの立候補」これは地元へ利益誘導する危険性が低く、良いのではないかしらと思う。
 国会議員は地方のためにあるのではなく、日本のためにあるそうだから、どこから出ようが本来は問題ないはずである。「新党大地」こそ、おかしな政党なのかもしれない。
 ただ、感情的に割り切れぬ気持ちはわかる。

 ただ、僕がひとつ謎なのは、立候補する有名人の方々は、いつから政治家を目指していたのか?という点である。その志は?と考えると、ハッキリしない人は確かにいるような…
 どこに本心があるのかはわからない。

 椎名林檎とお喋りしたことはないので、彼女がどのような人なのか、本当のところはいくら悩んでもわかりっこない。僕らが知りうるのは彼女が提供する楽曲や、パフォーマンスくらいなもので、それが良ければ、まぁ良し!ということになる。
 新人として立候補する有名人の方々も同じで、本心などはわかりっこない。もちろんわかろうとするこちら側の努力は怠ってはならないけど。
 となると、今までの実績や今後のビジョンなどで判断するしかないように思う。それは現職の政治家についても同じで、政治家でない彼らだけが、とやかく言われる筋合いのものではない。「誰もが政治家になれる可能性を秘めた社会」への一歩とでも捉えて、歓迎しているほうが良いように感じる。

 「世捨て人にならないように努力している」と、椎名林檎が番組中に語った。非常に印象に残った。宗男さんや辻本さんは、なんであんなに国会議員になりたいのだろう?国会以外でも活躍できる場所がありそうなものだが。
 二人の姿を見ていると、行くところを見つけられなくて国会議員へ打って出てきた印象を持ってしまう。この人達こそ「世捨て人」に見えてしまう…

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2005年8月18日 (木) この頃は、疑ってみたほうがいい。
 ワッ!と子供に被さった。庭仕事をしていた老夫婦は木につかまり、座布団が収納から転げてきた家族もあった。
 これは8月16日の宮城県沖の地震発生時。ワッとしたのは埼玉県に住む僕で、老夫婦は宮城県岩沼市に住む両親で、座布団は宮城県古川市の妹夫婦の家である。地震の際、母はスーっと汗がひく恐怖を感じたそうだ。

 僕は少々の地震に、さしたる恐れはない。なぜなら出身地である宮城県は地震大国。小さな地震は日常茶飯事だった。「あっ、また揺れてる」ぐらいにしか思わなかった。
 東京近郊に越してきて14年になるが、東京は本当に地震が少なく快適である。と、思っていたが最近はそうでもない。エレベーターの停止が話題になった先月23日、そして8月16日と、震源地には遠いが揺れの大きい地震が増えている。

 僕は少々の地震にさしたる恐れはない、と言いながら、デカイ地震を体験したことがない。ほんの少し運が良い。1977年までは宮城県に住んでいたのだが、1978年におきた「宮城県沖地震」の際は、父の仕事の関係で沖縄県に住んでいて未体験。当時の話を聞くと、宮城県に住んでいた友人の家では、ブロックの壁が崩れ落ち、福島県の親類の家では、タンスやサイドボードの上にのっけていた物がほぼ落下したそうである。
 先月23日の地震の際は、朝起きてブラっと日光に出かけていて未体験。ちょうど「神橋」のあたりを歩いていると、風もないのに民家のトタン壁がガサガサと音をたてていて「地震かな?」と思った程度のことだった。今にして思うと、日光は地盤が良いせいもあって、東照宮などの文化遺産が残っているのかしら?と思ったりする。

 この夏、帰省のついでに福島県会津若松市を訪れ、「鶴ヶ城(若松城)」に登った。ここは「鶴ヶ城博物館」となっていて現在『えっ!?「会津が首都」』という、暴挙にも似た特別展示を行っている。会津の人には申し訳ないが、ありえない話でしょう、これは・・・
 この展示で目をひいたのは、各首都移転候補地との地震被害の比較である。鶴ヶ城がある会津地方中心部は、地震の震度が低い。山を隔てて新潟県中越となるのだが、昨年の地震の際も震度は低い。東京の中心部の方が、震度が大きかったくらいである。
 僕の住む埼玉県上尾市は、最近の地震での震度がそれほどでもないように感じているが、隣の蓮田市、岩槻市、三駅離れた久喜市などは、テレビの速報でみる震度は大きい。
 どうやら地震というのは、震源地に近い/遠いよりも、その地盤の影響が大きいように思える。

 世界各地で頻発するテロを、「見えない敵」という表現で呼んでいる。地震は敵ではないが、甚大な被害をもたらす点、そして高い精度での予測不可能という点というように類似点が多い。
 「見えない敵」という表現は誠にうまく出来ていて、対策が打てないように感じられる。果たしてそうなのか?原因はあるはずだ。テロリストを探すだけで解決するのか?
 地震はどうか?今日の東京新聞特報部『仙台のプール被害「耐震」の盲点 天井崩落実は多発』では、東京都内に国土交通省が2003年10月に通知した「大規模空間を持つ建築物の天井の崩落対策について」という基準に満たない施設が散在していることを告げている。対策は打てるはずなのである。

 「見えない」という言葉の蔭には、潜んでいる原因/対策を隠蔽する罠が仕掛けてられてはいないか?「見えない」ことで好都合なことはないか?
 この頃は、疑ってみたほうがいいような時代かもしれない。

 ちなみに防災グッズは売れているようですよ。僕はちょっと買う気になっています。

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2005年8月17日 (水) 他国の視座でこそ明かされる事実もある。
BBC制作『アウシュビッツ』
『アウシュビッツ(原題:AUSCHWITZ-THE NAZIS & THE FINAL SOLUTION)』
 制作:BBCなど(イギリス/アメリカ),2005年 放映:NHK総合2005年8月16日〜

 「いつまで謝罪を続ければいいのか?」
 「我々の世代は戦争にくみしていないから関係ない」

 日本では、新旧様々な世代が太平洋戦争の記憶から遠ざかろうとしている。しかしながら事あるごとにアジアを中心としたした諸外国は、この記憶を風化させてなるものかと言わんばかりに、戦争責任にまつわる追求を、執拗に投げかけてくる。
 靖国参拝問題、中国で一時期激化した日本に対するデモ、領土問題に起因して韓国で起こったデモなど、戦後60年という節目を迎えた今年、日本人のその姿勢とは反対に、太平洋戦争は覆いがたく国際社会に生きていることを見せつけられた。
 国際社会ばかりではない。茨城県神栖町の井戸水がヒ素に汚染されている問題は、旧日本軍が放置した毒ガス弾の老朽化による被害であるとされており、日本国民とて精神的ばかりではなく物理的にも、太平洋戦争が社会に生きていることは歴然としている。
 自国ですら処理できていないこの大戦処理が、他国から追求の烽火があがるのは、当然であるように感じる。また国際条約などで、戦後処理にいちおうの決着はついていると言ってみたところで、個人個人の記憶を消すことは難しく、それが固まりとなって国家を動かしてしまうことは、なかなか権力を持ってしても止めがたいものなのではないだろうかと思う。

 「いつまで謝罪を続ければいいのか?」
 「我々の世代は戦争にくみしていないから関係ない」

 この問いに対する正しい答えは、僕もわからない。しかしこの『アウシュビッツ』を見ていると、いつまでも追求されるであろうし、その行為に対する真実を検証することは止めてはならないように思う。
 番組ではスロバキア政府がお金をつけてユダヤ人をナチスに引き取ってもらう件が紹介される。労働力となるユダヤ人がナチスによって引き取られたあと、残された労働力とならない婦女子、老人であるユダヤ人の対応に苦慮したスロバキア政府が取ったこの行動は、先頃書類が発見され、明らかになったのだそうだ。
 真実を追究する行為、検証する行為でこそ、その悲惨さな出来事の実態のみならず、原因の究明もなされる。この原因を突き止めることこそ、二度と悲惨な出来事を起こさないための抑止力となる。
 
 8月15日が終戦記念日であることを知らない若者が増えたそうである。聖徳太子や徳川家康を知っていても、たかだか60年前の大きな出来事を知らなくていいのだろうか?
 近・現代史が授業であまり扱われないことが、その原因であるとするならば、それは教育行政の問題であるかもしれないが、しかしそれに違和感を覚えずきてしまった僕らに責任の一端はなかったのか?
 政府の要人が、過去の政府見解と違い諸外国から非難を浴びる発言をしても、それを表現の自由として許してきたことに間違いはなかったか?

 日本の戦後処理は、日本のみでは解決されない。この『アウシュビッツ』という番組が、当事国であるドイツで制作されたのではなく、その大戦の犠牲となったイギリス、そしてアメリカで制作されたことからも頷ける。
 いま日本人は、このような番組を見て、先の大戦の日本と重ね合わせることで、これからの戦後処理をいかに進めなければいけないのかを考えていかなければならないのではないだろうか?

 僕も含めた戦争に関わらなかった幸福な世代は、当時の人よりも客観的な視座に立つことが可能だ。本当の抑止力を担う正確な力を持つ者は、若い世代に他ならないはずだ。

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2005年8月16日 (火) やっぱり昔の映画のほうがレベルが高かったのかしら…
川島雄三監督『幕末太陽傳』
『幕末太陽傳』 1957年製作 日本映画/日活
 監督.脚本:川島雄三 脚本:田中啓一 今村昌平 音楽:黛敏郎
 出演:フランキー堺 左幸子 南田洋子 石原裕次郎 岡田真澄 小林旭 など

 人間ていうのは、このように図太くありたいもんだね〜
と思わせる、川島雄三作品の傑作喜劇である。そしてまた、
 人間ていうのは、たくましいね〜
と思わせる、川島雄三作品の傑作人間ドラマである。

 舞台は文久2年というから、明治時代の幕開けまは5年ほど先の品川の遊郭。主人公の佐平次(フランキー堺)は、それが昔から知り合いなのか、どっかそのへんで知り合った連中なのか、女郎屋にあがって「金は心配するな」とドンちゃん騒ぎ。そして連れを夜明け前に返してしまう。
 佐平次は金なぞ持っていない。堂々と「持っちゃいない」と若い番頭(岡田真澄=びっくるするくらい優男で若い)に宣言して、持ってなけりゃ働いて返すまで(「居残りさん」と呼ばれる)。「居残り佐平次」の誕生である。
今までドンちゃん騒ぎをしていた部屋から、小さな薄汚い部屋へ。イヤな咳をしている佐平次は、部屋から海を眺めて「新鮮な喰い物と浜の風が咳には良いんだ」と呟く…

 佐平次はベテランから若い番頭までまで、彼らの仕事をサッと取り上げ「へいへい」と客の部屋をまわっては、心づけをもらって懐へポンポンと入れていく。そして自室に帰っちゃその金で買ったであろう煎じ薬を啜っている。
 来る客、来る客に「起請文」を渡して人気のお女郎・こはる(南田洋子=とても綺麗)は、バタバタ廊下を鳴らして男の部屋を移動する。「あんただけよ〜待ってて下さいなぁ〜」という具合。
しかしそうもうまくはまわらない。若い男が息子さん、年寄り旦那はその親父なんてのにバッタリ挟まれるも「女郎の起請文を信じるあんたらが悪い」と悪びれずに、大騒ぎ。それも佐平次が手際良くおさめちゃう。
 こはるに人気を取られ、いよいよ金も尽きて手頃な客と心中しようと男を突き落とした瞬間に金のあてが出来たたお女郎・おその(左時枝)は、突き落とした男に化けて出られるが、これも佐平次がなんなく解決。化けた男に熱湯かければアチチチ!化けるもなにも生身の人間。助かって復讐しににたのです。
 佐平次も佐平次。こはるからは起請文に関する仕事を請負、化けた男からは金をふんだくる。体のいい人情もんとは違う違う。小ずるく小回り効かせて生き延びる。そんな連中がわんさか出てくる映画である。

かと思えば人情話も。奉公人のおひさ(足川いずみ)は、父親の借金の方にお女郎へ。「お女郎になるくらいなら若旦那と駆け落ちする」と言い出す。若旦那は馬鹿旦那。吉原で遊びほうけて散財しほうだい。しかしこの馬鹿もおひさにはちょいと気がある。
どのくらい馬鹿かといえば、佐平次が仕組んだ駆け落ちの一計で、家の牢に押し込まれるおひさと馬鹿旦那。馬鹿は堪え切れなくなってそこでしちゃおうとして、おひさの抵抗にあう。
しかしこの二人は、佐平次なんの損得もなくこっそりと駆け落ちさせてやる。

 非常に印象的なカットを二つ。一つはこはるとおそのの乱闘シーン。中庭にくんづほぐれつ出てきて、やいのやいのとひっつかみぶちあい、しまいには階段を駆け上って二階へと乱闘は続くのだが、ここはクレーンを使ってカットを割らない。
 佐平次の気をひこうと必死の二人は、彼の部屋を訪れて「我が我が」と佐平次へ取りつこうとするのだが、気のない佐平次。あちこちと部屋を巡る仕事へ出ていってしまうのだが、二人は部屋に居残り、やがて壁へもたれて並んで寝てしまう。呑気な寝顔を見ることができるのはこればかりで、とても可愛らしく見える。

 これだけ集団がわんさわんさと描かれていて、それでいてその個人個人を立体的に捉え、生きることへの貪欲さを描いた作品は、なかなかない。最近の映画はちと主人公がたち過ぎて他の登場人物が散発的でなかなか描かれていないことを考えると、凄い映画だと思う。
 このような作品に接する度に「やっぱり昔の映画のほうがレベルが高かったのかしら…」と、考え込んでしまう佳作の一本である。
 そしてまた、彼らがヒョイヒョイと時代を生き抜く姿をみていると、生きていくのは大変だけど、生きていくのも悪くはないし、悩むより動いている人間の素敵な感じが伝わってくる。映画を見て人生が変わることは少ないだろうが、う〜んと悩んでいる人には、見て欲しい一本だ。

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  2005年8月前半号のお知らせ
8月前半の日記帳は、
 ●ステルスに酔いしれる者達の陰で?選挙、悲喜こもごも…
 ●自分の意志は、周囲が作り出してくれる。TBS系列連続ドラマ『幸せになりたい』
 ●見ることよりも触れることを強制したい!被災地を訪れる。
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