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今日も映画の風が吹く2005年9月号

2005年9月29日 (木) さぁ、喜びを見つけに出かけましょう!
 今年も深谷市では、昨年に引き続き、「深谷インディーズ・フィルム・フェスティバル」が開かれ、どうやら今度の日曜日、10月2日に審査発表があるようだ。
 今年も教え子が出品していて、上映される。僕は観客の反応が楽しみ。生徒本人はドキドキだそうである。

 先日、今年が初開催となる「山形国際ムービーフェスティバル」の事務局の方にお会いした。こちらは初回ということもあって知名度が低く(そのくせ賞金はとても高い)、作品集めに奔走。教え子の作品は残念ながら選考に残らなかったが、現在、ネット上で一般の方々による第二次審査が行われている。さすがバックにライブドアがついているだけあって、選考方法も新しくていい。
 イオンディーズ・フィルムなんぞに触れたことのない方々は、この機会にどうぞ。パソコンの解像度の問題や、モニターが小さいという点で、彼らの作品を必ずしも100%の状態で視聴するというわけにはいかないが、若い人たちが、どのようなものを「映画」だと認識しているか、「映像表現」だと思っているのかは、こういった機会で知ることができる。
 「アホか!」と怒鳴りたくなることもしばしば…しかしその中に不思議といつも「アッ!」と途方もない喜びを感じさせる作品が、ちょこんと座って、僕らに見てもらうことを待っている。
 
 商業映画、芸術映画、すでに世に出て評価の定まった作品などなど、普通目にする佳作に出会った喜びよりも、インディーズの力作に出会ったその時のほうが、とても嬉しい。
 さぁ、皆さん、喜びを見つけに出かけましょう!

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2005年9月28日 (水) がさごそと、穏やかに、映画の資質を問われているような…ジャック・リュベット監督『美しき諍い女』
美しき諍い女』 1991年製作/フランス映画
 監督:ジャック・リュベット 出演:ミシェル・ピコリ エマニュエル・ベアール   ジェーン・バーキン 他

 何度もこの場で書こうとしてやめた映画の一本。話題には事欠かない映画だ。バルザックの短編『知られざる傑作』が原作。日本発の劇場公開ボカシなし映画だとか(この映画がヘア−丸見えの先駆けとなる)…
 しかしどれもこれもこの映画に惹き付けられる理由ではない。

 高名な画家であるフレンフォーヘル(ミシェル・ピコリ)は、10年前に妻をモデルにして描きかけて断念した「美しき諍い女」とうい絵画を、若い画家のガールフレンドであるマリアンヌ(エマニュエル・べアール)を紹介されて、再び描く気になる。
 ボーイフレンドに紹介されてヌードモデルになるマリアンヌの複雑さ、そして苛立ち。紹介したものの内心揺れている若い画家。自分をモデルに完成できなかった絵に、再び取り組む姿を、何かに怯えながら見ることしか出来ないフレンフォーへルの妻(ジェーン・バーキン)。そして絵画のブローカー。
 フレンフォーへルは、画室にマリアンヌと隠り、自分のペースで、マリアンヌに窮屈な姿勢を強い、キャンパスに木炭で、がさごそとデッサンをしていく。このがさごそとしたデッサンのシーンは随所にあり、そして一つ一つがその描かれる線の一本一本にこの映画の何か意味が込められているのだろうかと思いたくなるほど、長い。

 「お前は本当に映画を見つめることなどできるのか?」
 その退屈にも思われるほど長い長い、ある意味で平坦なデッサンシーンは、そんな問いかけをしているかのようだ。または
 「お前にこのシーンの意味が理解できるとでも思っているのか?」
とも、嫌味のように問いかけられているようだ。
 
 登場人物の複雑さにドキドキはさせられる。この登場人物の関係する線は(SEXで交わるという意味ではなく、感情のラインね)、あちこちに結ばれてそれぞれショートしかねない波瀾を含みながら決してショートしない緊張感。画家の主導で描かれていたはずの「美しき諍い女」が、いつしかモデルが主導で描かれているような逆転の関係。
 描かれる人間関係や感情のラインは、どの映画にも増してスリリングだ。

 しかしデッサンシーンの意味など、さっぱりわからない。もう初めて見た日から10年は過ぎようとしているが、今もこれを書きながら考えるが、やっぱりさっぱりわからない。
 がさごそがさごそ
木炭がキャンパスをずるずると滑っていく。この音がたまらなく心地良い。巧いのだか下手なのだか、とんと判別のつかない線が浮かんできて、輪郭のハッキリしない女の象が緻密に結ばれる。それがどういうわけかとても佳い。この誰もが押し黙り、誰もが画面に描かれないこの時だけが、我々見る者を緊張から解きほぐすような、奇妙な安堵感?のんびり感?が得られる。

 音楽も一切ない4時間。
 がさごそとしたデッサンの音や静かな状況音だけが、静かに人間内面のサスペンスを焙り出す大傑作映画だ。

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2005年9月17日 (土) 入江悠の存在に立ち会える幸福と重荷。入江悠監督『OBSESSION』『行路?』『黄昏家族』『SEVEN DRIVES』
入江悠監督作品 2002年製作『OBSESSION』 2005年製作『行路?』
 2005年製作『黄昏家族』 2003年製作『SEVEN DRIVES』

 入江悠監督の作品をシネマロサに見に行ってきた。どれも皆、素晴らしく、映画的である。映画的とは色々な意味があるのだが、何よりも彼の作品は、スクリーンで見るべきである、という映画の重要な一点を持ち合わせている。

 例えば『行路?』は、吹雪の中を彷徨うカップルが、常軌を逸している様を描いたものだが、その「雪」に感嘆した。吹雪の雪ひとつひとつが、「雪」としての存在感を露わにしており、きちんと「雪」として登場する人物達の表情にアクセントをつける。カメラが寄れば、きちんと雪が彼らの表情を雪として遮っていて、この映画に雪がなくてはならないものであることを、雄弁に物語る。
 雪は厄介な代物だ。太陽が照りつければ「反射板」の役割をして、画面を殺すし、降れば太陽が照りつけていないのだから全体が暗く、かといってその暗さにあわせて映像を明るくすれば、雪の白さは曲者だ。
 そんな厄介な中で、登場人物も雪も同等なレベルで渡り合う。そしてその雪を見たければ、みみっちいテレビ画面などで見ていては、雪が死んでしまうだろう。
 雪の雄弁さが、スクリーンを欲して止まない、映画的な映画だった。

 『SEVEN DRIVES』は、どうということない田舎道を映画的な道へと変えた逸品だ。
 田園地帯の道を、「好き」とか「やりたい」と言えない無口な青年が、同級生の女を乗せて走り、拒まれる映画なのだが、その田園地帯の遠い奥には新幹線の高架橋があって新幹線が走ったり、道が交差するところを巧みに使うことで、田舎の高校生の一団が列を成してバイクで通学する風景が挟み込まれていたりして、あざとく画面を活かしている。
 同乗する女に何も告げずにラブホテルへと車が入っていくと、そこはカットを割らずに女が歩いてラブホテルから出てきてスタスタと画面手前へ歩いてくると、車はバックでラブホテルから出てきて慌てて彼女を追いかけてくる。
 画面を広くとらなければ存在しない映画がここにはあって、小憎らしい。

 『OBSESSION』は何と言ってやろうか!
 北野武監督『3−4×10月』には、渡嘉敷勝男が拳を使って殴り倒すシーンがあるのだが、元ボクサー/渡嘉敷勝男がくりだすパンチのスピード感。あるいはスタントを使わずカンフーを行うジャッキー・チェーンのスピード感は当たり前でありながら、なかなか触れることのできない輝きを持っている。
 リアルな演技というばかりではなく、そこには肉体を感じることができる演出があるのだが、『OBSESSION』の女子高生達がくりだすパンチがそれであり、女子高生が部室の机に置いてある鶏の唐揚げ満載の弁当箱を見て「これ食べられるのかなぁ〜?」という疑問を発しつつ、「食べたい!」という衝動に勝つことは出来ずに、それに貪りつく姿に、肉体の欲する貪欲な欲望を感じて止まない。
 『行路?』とて、なぜそのカップルがそのような吹雪中を歩かねばならないのかなど一切の説明がなされないままに、僕らは彼らの生への希求へ付き合わされなければならないのかも、そのように考えれば、自然と折り合いをつけてしまう巧みな罠に気付くばかりである。
 
 『黄昏家族』においては、出演者も壇上で語っていたが、「これほどまでに長いシーンとは思っていなかった」と語る、ラストのカップラーメンを、居間で黙々とテレビに目をやりながら食べるシーンの快挙は、どこまでも食べることを止めない家族と、そして誰一人として同じ食べ方をしていない家族の、恐るべき生き方を描きながら、これもまた広いカットで撮影されることで存在する映画の存在意義みたいな物を物語る、極めて意欲的で危ないカットである。

 「入江悠」という存在は、その作品の至るところが映画でならなければならない、現在のテレビやネット映像の小さな画面を脅かす危険な存在である。我々は、入江悠が商業映画の監督としてデビューするその瞬間に立ち会うことができる類い希な存在となるし、そして今後の入江悠を監視すべく重荷を負った存在に成り得るチャンスを得たのである。
 映画の素晴らしさの一翼を、入江悠に期待したい。

入江悠監督の話題はここにあります。
2005年9月12日 (月) 白紙委任とイメージの力
 郵便配達をする方に話を聞いた。「今日は2時間遅れで販売所に新聞がきました」。新聞は薄い。総選挙の結果を載せるために、新聞各社がギリギリまで印刷を止めていたことがわかる。
 しかしながらそれにしても各社の社説は(産経新聞社説欄から各社の社説へリンクが貼られています)、あまり面白いものではなかった。東京新聞、毎日新聞、朝日新聞は「白紙委任ではない」ということを高らかに謳う。産経新聞、読売新聞は改革を貫け、郵政以外も取り組めという調子である。
 似たりよったりの論調はしょうがないのか?それともそれが正論なのか?読みごたえがなかった。

 興味をそそられたのは、東京新聞社会面『郵政以外も声聞いて』という街で拾った有権者の声。その中にある21歳OLのコメント「投票はしないといけないと思うけど、何を基準に選んだらいいのかわからない」。彼女は結局、祖母が入れると言った自民党に投票したのだそうだ。
 各誌をあたった。このような選挙に対する消極的であっけらかんとした、また21歳という若さをチョイスしたコメントが少ない。積極的だとは言わないまでも、悩んだ末の選択であったかのような有権者の声が多く見受けられる。これこそ民意を反映しているのだろうか?

 「何を基準に選んだらいいのかわからない」という声は、リアルに聞こえる。以前も書いたかもしれないが、ニートやフリーターに関する本を読み漁っている。そこで思いのほかぶち当たるのが、若者の選択力の欠如である。
 例えば出版の仕事がしたいと考える者は、大手出版社を受けるのだが、数社受験して落ちると自分は落第の烙印を押されたが如く、就職活動を停止。小さな出版社へと進路を切れば、まだまだ出版の仕事への可能性はあるのだが、そこへは思いが至らないケースが多い。
 私の教える学校の生徒も同じである。就職担当の身としては、あらゆる求人票を手に事細かく説明した上で「受けろ!」と強制して、合格にこぎつけさせている。つまり、自分のビジョンにないこと、想定外の事態への選択力は欠けている。そこで強い意思で就職させる姿勢が必要となる。

 昨日、テレビ朝日に電話出演した石原慎太郎都知事が、「(このような時代だからこそ)ストロングな意思を求めている」と語った。小泉首相は郵政民営化を長らく掲げ、首相になってそれを実現にこぎつける。そのことに僕は異論なしだ。立派だと思うし賞賛している。
 ただ考えなければいけないのは、誰が、どのように考え、その強い意思に惹かれているかである。郵政一点が政治ではないが、それを機軸に有権者があれこれ選択するのはいいだろう。どんなに「マニフェスト選挙だ!」と叫んでみても、世の中の出来事は動いており、想定外の事態に直面した時は、白紙委任状態で政治家にジャッジを求めるしかない。
 問題なのは、白紙委任していくなかで、「この人達はこのような選択をするだろう」というイメージである。イメージを持たなければ選択は出来ない。つまりイメージする力を持たないものは選択をすることが出来ないということである。

 イメージが出来ずに、強い意思に惹かれたのであれば問題なのではないだろうか?よく第二次世界大戦の政治状況と比較されるが、現代はこちらが情報を求めなくても、勝手に政治の情報は垂れ流されてきている。
 そういった情報社会の中で、イメージする力がないということは、政治の問題のみならず、大きな問題であり、様々な面でその危険性が露呈されているように思う。

時事問題を一覧にしました『これも時事?あれも時事?
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2005年9月10日 (土) 真実は視聴者(読者)が作っているのかもしれない。
ビリー・レイ監督『ニュースの天才』
ニュースの天才』 2003年製作/アメリカ映画
 監督:ビリー・レイ 製作総指揮:トム・クルーズ 出演:ヘイデン・クリステンセンなど

 「もうお宅の新聞は取らないよ」
 知り合いの朝日新聞配達員は、先頃の誤報(捏造)記事後、集金先で数件言われたそうだ。彼は僕が冗談で朝日新聞を馬鹿にしても「いい新聞なんですよ」と言って憚らない奴だった。
 朝日新聞は多様な視野を客観的な視野で載せてきたと思う。特集も優れていた。昨年の記事で思い出されるのは、湘南の海岸で、海の家でアルバイトをする女子高生の記事。イマドキの若者もきちんと取り上げている。産経新聞の社説が、たびたび朝日新聞を攻撃するが、それにも応えて反論する。
 なかなかいい記事を載せてきた。

 しかしこのところ、やはりおかしい。NHK問題の記事も変だ。あれだけ会話口調で書かれた記事は、僕でさえ録音テープをおこしたものではないかと疑っている。しかし、それに対する応えはない。取材の様子を無許可で録音したのであれば、堂々とそれを書けばいい。取材倫理からするととんでもない行為だが、それによってTVを持つもの全てが義務付けられているNHKの受信料という問題に、結果メスを入れることになったのだから、堂々と事実を読者に伝え、読者のジャッジに委ねるべきである。
 と、思っていたが、今回の誤報(捏造)には、弁護の余地がない。一人の記者の功名心が為せた行為ではないと思う。記事のチェックが、この新聞社ではされていないことの表れだ。
 この問題を授業でとりあげた時、学生が「知事のスケジュールを押さえれば、嘘は見抜けたはずだ」と言った。
 その通り。全国紙には昨日の首相の足取りが、小さな記事で載る。地元紙には知事の昨日の足取りが載る。簡単にバレルことであり、問題の記者は、この程度のことも「我が社(朝日新聞)ではバレルことがないだろう」と踏んだということは、それだけチェックの緩い新聞社であることを物語っている。
 素人以下である。

 朝日新聞は「記者の取材メモをうのみにした」といったニュアンスの弁解をしている。その危険性はすでに、この『ニュースの天才』が語っている。
 この映画の主人公も、チェックできない、チェックが甘くなるところが一つだけあると指摘している。それは「取材メモ」である。その場で見たり聞いたりしたことは、その場にいた取材者しかわからない。某テレビ局の元取材者も、取材メモの重要性、そこにいた者しか感じ得ないその場の雰囲気などの雑感的なメモの重要性を指摘する。
 しかしだからこそ、とうの取材者の倫理観という奴が問われるし、またチェック機関の重要性をもっと認識しなければならない。

 某新聞社の記者が平然と言った。「目の前の真実と読者の求める真実は違うよ。新聞は読者の求める真実を書く。サラリーマンである記者は、会社の求めるものを追う。会社次第だ」
 先日フジテレビが発表した『めざましテレビ』の「やらせ問題」。担当ディレクターは何を求めていたのか?フジテレビは何を求めていたのか?フジテレビばかりの問題ではない。日本テレビだって過去には『ニュースプラスワン』で、やらせが発覚している。この2月にはテレビ東京『ウルトラ探検隊』も、捏造で打ち切りとなった。
 テレビは、ジャーナリズムは何を求めてきたのか?視聴者は何を求めてきたのか?そこを考えることは重要である。

 こんなことも思う。TBSで問題が起きれば、歯に絹きせずTBSを糾弾する筑紫哲也は、なぜ定年前に朝日新聞を辞めることになったのか?元毎日新聞記者で、「桶川ストーカー事件」をひっくり返し、何故か打ち切られたテレビ朝日『ザ・スクープ』キャスターで、「サンデー毎日」副編集長時代にこの雑誌の誤報騒ぎの検証記事をあれだけの誌面を割いて行った鳥越俊太郎が、若くしてその会社を去ったのか?
 事実を掘り起こす現場の閉塞感が気掛かりだ。

 事実が危ういのだという現実を直視することができる映画、それが『ニュースの天才』である。そしてこのフィクションをノンフィクションの手法で世に出した監督に讃辞を贈りたい。

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2005年9月9日 (金) 普通の映画の素晴らしさ!
入江悠監督『OBSESSION‐オブセッション‐』ロードショウ開始!
 先日ご紹介した入江悠監督のロードショウが明日(2005.9.10)より東京・池袋のシネマ・ロサで開始される。これが前回の続きというわけで、これを書くのを心待ちにしていた。
 上映されるメイン作品は『OBSESSION‐オブセッション‐』。コラムニストの辛酸なめ子氏が絶賛しているようで、彼女をはじめとして多彩なゲストも登場の予定。楽しみである。
 入江監督とは、深谷シネマで出会って以来、何度かメールでやりとりをさせてもらっている。図にのって勤め先の学校の特別講師を依頼したらOKももらった。気の良い人で、とても好青年である。

 彼は元々CMやイベントのディレクターをやっていた。彼はそれをこなしながら短編映画を作り、シナリオ・コンクールに出品/入選を果たすなどしてきた。それが様々な面で、作品に影響を与えている。

 まずは先日紹介した『部屋の片隅で、愛をつねる』の場合、イベント・ディレクターの売れない役者に対する扱い。自分も経験してわかるのだが、ああいう扱いを知らず知らずにしてしまう。作品のちょっとしたところにリアルな感じがある。
 こういった何気ない細部にリアリティを持たせるところが、演出家としての妙技で、才能のかけらが見てとれる。

 それから「ガヤ」と我々が呼ぶ状況音が素晴らしい。コンサート会場の控え室がが場面のほとんどを占めているのだが、これはもちろんステージの賑やかな音が鳴りっぱなしだ。役者の芝居と同時に録っているわけではない。ステージの音は別に録って、根気強くMIXという音の編集をしていくわけだが、こういうところはインディーズで撮り続けている人は、さほどこだわらない。というより、そこに気が回らない場合が多い。
 入江監督はCMやイベントなど、映像の仕事で「プロ」として活躍してきたわけだ。何が映像をリアルに見せるか、これはもちろん嘘をついても、必要以上にリアルに感じさせるにはどうしたら良いのかをきちんと学んできている。
 学生諸君に彼のつめの垢を煎じて飲ませたい。

 それからお話が素晴らしい。『部屋の片隅で、愛をつねる』にしても、何か起こりそうで何も起こらない、その出来事を描く。クスクスと笑ってしまったり、何か切ない思いにかられたり、こういうものが心に沁みる。
 そしてまた映像は、作品に若さゆえのパワーはないわ、気負った激しさもないわ、ビビットなビジュアルはないわと、ないないづくしなのだが、それ故に踏ん張ったクオリティの高い普通の映像が展開される。
 ありそうな日常的なお話と、それを映像化する普通の力強い映像が、彼の作品には満ちている。

 彼の作品は、映画監督になりたいと願う人々に、見て欲しい。インディーズの人々に見て欲しい。ここまでプロフェッショナルにこだわって映画が出来上がることを感じて欲しい。
 映画を普通に見ている人々にも、お願いだから見て欲しい。インディーズや短編映画に興味のない人も、彼の作品のあまりの普通さに、驚いて欲しい。
 
 普通の映画が消えゆく中、この若さで普通の映画を作れる人は珍しい。入江悠は、いま若手で最も注目すべき映画監督である。

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005年9月6日 (火) 希望。。。NNNドキュメント’05『フィリピーナにおまかせ〜ニッポンの介護事情〜』
NNNドキュメント’05『フィリピーナにおまかせ〜ニッポンの介護事情〜』
 制作:中京テレビ 放映日:2005年9月4日

 村上龍の短編集『どこにでもある場所とどこにもいないわたし』のなかに、『空港』という小説がある。村上龍はこの小説(小説集で)、日常の中にある「希望」みたいなものを描きたかったと、あとがきに書いてある。

 三十歳を過ぎて「義足を作る人になりたい」と思った女は、自分が高卒で子持ちで風俗嬢だからだそんな人にはなれないと思っているが、ある男が自分の問題点にきちんと気付いている人はそれをクリアしていくことができると聞いて、「義足を作る人になりたい」という自分の思いが無理感じる理由が、そんな理由しかみあたらないということに気が付く。
 女は今、義足を作る人を養成する学校を見に行こう、と男に誘われて、空港のロビーで待っている。男は待ち合わせの時間が過ぎて、もはや搭乗手続きを締め切る時間になろうとしているが、まだやってこない…

 いい話だなぁ〜と思ったし、僕はこんな風に、人の夢みたいなものを後押ししてこなかったのではないだろうか?と、深くため息もついた小説だ。
 例えば、男が持ってきた学校のパンフレットを見て女はその学費にため息をつく。男は「いまはそんなことを考えなくてもいいんじゃないかな。試験勉強をしなければいけないから入学するのは1年以上も先だ。それまでにどうするか考えればいい」
 男のアドバイスは的確だと思う。僕もこんなアドバイスをしてくれば…と思うこと多々で心苦しい気持ちになる。「問題の先送りでは?」という人があるかもしれないが、僕はそうではないと今、気が付いた。

 NNNドキュメント’05『フィリピーナにおまかせ〜日本の介護事情〜』は、希望のあるドキュメンタリーで嬉しくなった。
日本人との間に3人の子供をもうけ一人で育てる女性/アイリンさんは、ホステスとして来日したフィリピーナ。先ごろ日本政府とフィリピン政府のFTA合意により、フィリピン人が日本での介護業務に就けることになったのを機に、養成講座へ通い資格を取り、ヘルパー見習として働いている。

 「介護の仕事は誇れる仕事だ」
と、アイリンさんは言う。また他のフィリピン人女性も
 「ホステス以外にも、フィリピン人は色々な仕事ができる」
と、意欲的だ。

 もちろん一筋縄ではいかな面もある。「読み書き」だ。報告書に誤字があり、何度も書き直しをさせられるアイリンさん。
大家族社会のフィリピンではお年よりの世話をするのは当たり前で、老人に接する仕事自体は問題がなさそうなのだが…

 額の少なさが嘘のように、とても素敵な笑顔で、初めて介護の仕事でもらう給料を手にするアイリンさん。約3万3千円。二束のわらじを履くホステスの仕事の1/5。その額以上の重みがその給料にはあることがわかる。
 介護の養成講座に通うには、お金も必要だったろう。アイリンさんとともに通った半数以上のフィリピン人は、介護の仕事にありついていない。
介護施設へのアンケートの結果を見ても、外国人を介護士として採用することに対しての抵抗感は大きい。現実的な選択をすれば、アイリンさんが介護士を目指す選択は、厳しいものだった。

「外は寒いよ」と『空港』の男はチケットを片手に現れる。アイリンさんは、介護施設の見習期間を終え、時給があがった。
 希望とは、こうしたものなのだと、じわっと心が暖かく鳴り響く2つの作品だった。


TVドキュメンタリー/ドキュメンタリー映画を一覧にしました
ドキュメンタリーを見るべし!
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2005年9月6日 (火) 2005年8月後半号のお知らせ
8月後半の日記帳は、
 ●川島雄三監督『幕末太陽傳』 ●BBC制作『アウシュビッツ』
 ●この頃は、疑ってみたほうがいい。(「見えない敵」という罠)
 ●世捨て人にはならないで!(椎名林檎と鈴木宗雄と辻元清美)
 ●平山秀幸監督『ザ・中学教師』
 ●写真展『百年の愚行』 ●駒大苫小牧高校野球部問題
 ●瀬々敬久監督『ユダ』
2005年8月後半号はこちら