入江悠監督作品 2002年製作『OBSESSION』 2005年製作『行路?』 2005年製作『黄昏家族』 2003年製作『SEVEN DRIVES』
入江悠監督の作品をシネマロサに見に行ってきた。どれも皆、素晴らしく、映画的である。映画的とは色々な意味があるのだが、何よりも彼の作品は、スクリーンで見るべきである、という映画の重要な一点を持ち合わせている。
例えば『行路?』は、吹雪の中を彷徨うカップルが、常軌を逸している様を描いたものだが、その「雪」に感嘆した。吹雪の雪ひとつひとつが、「雪」としての存在感を露わにしており、きちんと「雪」として登場する人物達の表情にアクセントをつける。カメラが寄れば、きちんと雪が彼らの表情を雪として遮っていて、この映画に雪がなくてはならないものであることを、雄弁に物語る。 雪は厄介な代物だ。太陽が照りつければ「反射板」の役割をして、画面を殺すし、降れば太陽が照りつけていないのだから全体が暗く、かといってその暗さにあわせて映像を明るくすれば、雪の白さは曲者だ。 そんな厄介な中で、登場人物も雪も同等なレベルで渡り合う。そしてその雪を見たければ、みみっちいテレビ画面などで見ていては、雪が死んでしまうだろう。 雪の雄弁さが、スクリーンを欲して止まない、映画的な映画だった。
『SEVEN DRIVES』は、どうということない田舎道を映画的な道へと変えた逸品だ。 田園地帯の道を、「好き」とか「やりたい」と言えない無口な青年が、同級生の女を乗せて走り、拒まれる映画なのだが、その田園地帯の遠い奥には新幹線の高架橋があって新幹線が走ったり、道が交差するところを巧みに使うことで、田舎の高校生の一団が列を成してバイクで通学する風景が挟み込まれていたりして、あざとく画面を活かしている。 同乗する女に何も告げずにラブホテルへと車が入っていくと、そこはカットを割らずに女が歩いてラブホテルから出てきてスタスタと画面手前へ歩いてくると、車はバックでラブホテルから出てきて慌てて彼女を追いかけてくる。 画面を広くとらなければ存在しない映画がここにはあって、小憎らしい。
『OBSESSION』は何と言ってやろうか! 北野武監督『3−4×10月』には、渡嘉敷勝男が拳を使って殴り倒すシーンがあるのだが、元ボクサー/渡嘉敷勝男がくりだすパンチのスピード感。あるいはスタントを使わずカンフーを行うジャッキー・チェーンのスピード感は当たり前でありながら、なかなか触れることのできない輝きを持っている。 リアルな演技というばかりではなく、そこには肉体を感じることができる演出があるのだが、『OBSESSION』の女子高生達がくりだすパンチがそれであり、女子高生が部室の机に置いてある鶏の唐揚げ満載の弁当箱を見て「これ食べられるのかなぁ〜?」という疑問を発しつつ、「食べたい!」という衝動に勝つことは出来ずに、それに貪りつく姿に、肉体の欲する貪欲な欲望を感じて止まない。 『行路?』とて、なぜそのカップルがそのような吹雪中を歩かねばならないのかなど一切の説明がなされないままに、僕らは彼らの生への希求へ付き合わされなければならないのかも、そのように考えれば、自然と折り合いをつけてしまう巧みな罠に気付くばかりである。 『黄昏家族』においては、出演者も壇上で語っていたが、「これほどまでに長いシーンとは思っていなかった」と語る、ラストのカップラーメンを、居間で黙々とテレビに目をやりながら食べるシーンの快挙は、どこまでも食べることを止めない家族と、そして誰一人として同じ食べ方をしていない家族の、恐るべき生き方を描きながら、これもまた広いカットで撮影されることで存在する映画の存在意義みたいな物を物語る、極めて意欲的で危ないカットである。
「入江悠」という存在は、その作品の至るところが映画でならなければならない、現在のテレビやネット映像の小さな画面を脅かす危険な存在である。我々は、入江悠が商業映画の監督としてデビューするその瞬間に立ち会うことができる類い希な存在となるし、そして今後の入江悠を監視すべく重荷を負った存在に成り得るチャンスを得たのである。 映画の素晴らしさの一翼を、入江悠に期待したい。
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