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今日も映画の風が吹く2005年10月号

2005年10月31日 (月) ロメールの存在感。エリック・ロメール監督『満月の夜』
『満月の夜』
 監督/脚本:エリック・ロメール 出演/美術:パスカル・オジェ 
 出演:チェッキー・カリョ ファブリス・ルキーニ など

 「2人の女性をもつ者は魂を失い、2軒の家をもつ者は理性を失う」というテロップから始まるこの映画は、ロメールの連作「喜劇とことわざ」の第4作。この言葉にチョッピリ反し、「女性」という言葉は「男性」で、「失う」のではなく「取り戻す」と解釈したい…

 主人公/テレーズ(パスカル・オジェ)は、堅気の男/レミ(チェッキー・カリョ)と結婚同然の同棲生活を送るが、出歩くことを好まない、そしていつも一緒に居たがる彼にうんざりしている。テレーズは、どちらかといえば奔放でいたい。実際彼女には性的な交渉は持たないが、オクターブ(ファブリス・ルキーニ)という妻子持ちの捨て置けない男友達も居る。
 パリ郊外に住む彼女は、パリに部屋を借り、週末をそこで過ごすことにする。「独りの時間が必要だ」と言い張る彼女だが、初日から友人に電話をかけまくるが、あいにくと誰もつかまらない。
 ある日、彼女はパーティーで男と知り合い、部屋で一夜を過ごすのだが、レミが恋しくなり初電でレミの元へ。しかしそこには彼はおらず、帰ってきた彼は「好きな女ができた」と告げる。
 ルイーズはオクターブと夜の約束を取り付けた後、レミ恋しさに歩んできた道を帰っていく。

 パリ郊外のまだ空き地の広がる殺風景な住宅街のいくぶん長めのパーンから始まり、ラストもそれに終わる。その終わりの絵は、ルイーズ駅へと続く道を歩み、彼女が消えてもなお、そのまま映し続ける。この余韻がたまらない…
 映画のラストにどのような余韻が必要なのかは、作品によってもちろん違うのだが、例えばそれはジャンルによって違うわけではない。マリアン・ハントベルガー監督『裸足のマリー』の、主人公二人が路面電車通りを駆け下りて見えなくなってなお映し出されるそのことも、入江悠監督『黄昏家族』の家族が、居間でカップ麺をなお食べ続けるそのことにも、ロメールの余韻は何か通じていて、それは見る者が、映画を見るのを停止する一瞬を失ってしまう映画の魔力に他ならず、映画の豊穣さをわきまえた感がある。
 それはなぜなら、ルイーズが2つの家を持つことで得た「理性」、つまりレミという男がいてこそ奔放さを保つことができるという事実を、我々が安心感を持って納得してみたところで、それを知った本人/ルイーズには大きな者を失う空虚しか得ることができず、我々もまた、体験して何事かを知る者には、何かを失って初めて知ることがあるという、虚ろな現実をまざまざと見せつけられるその物語の延長にあるからに他ならない。

 映画のラストカットは、どれもこれも印象的である。しかしロメールのそれは物語の延長に存在し、物語を丸ごと呑み込む。その空虚なパリ郊外…
 ロメールの映画が、ありふれた物語であるのに、ロメールでしか表しようがないことを証明するような存在感が、『満月の夜』には息づいている。

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2005年10月30日 (日) 音楽の旋律の思うがままに…ジャン=リュック.ゴダール監督『カルメンという名の女』
『カルメンという名の女』 1983年/フランス
 監督:ジャン=リュック.ゴダール 
 原作:プロスベル.メリメ(『カルメン』) 脚色:アンヌ=マリー.ミエヴィル 
 出演:マルーシュカ.デートメルス ジャック・ボナフェ ミリアム・ルーセルなど

 学生がなんということなく、
「ゴダールは、わけがわからない」「ゴダールは、おもしろい」と、呟いた。議論するでもなく、それで話は終わりのようだ。
 そしてその会話に引きづられるように見たのが『カルメンという名の女』である。

 ゴダール好きの映画批評家などに言わせれば「ゴダールほどわかりやすい映画はない」のだそうだ。僕には正直、そこまでゴダールを理解することができない。
 ゴダールの映画の多くは物語が断片的で、それを線で結ぶ作業が厄介だ。その作業に失敗すると、人は「意味がわからない」と言い、映画を無価値なものとしてどん底へと突き落とす。

 しかしこの『カルメンという名の女』は、比較的、物語が結べる「わかりやすい映画」である。といってもゴダールだから容赦ないのだが…
 カルメン(マルーシュカ.デートメルス)という若いギャングの一味の女が、知り合った男(ジャック・ボナフェ)を一味に加える。男は次に行われる強奪の全容がわからないまま、不安やカルメンの心を読み取れず、自分を見失い、カルメンに振り回される。そして男はカルメンに裏切られる。
 何のことはない女が男を振り回す映画なのである。そしてカルメンと男の関係が、なにやら映画とそれを見る我々の関係を暗示しているかのようでもある。
 
 心を奪われるのは、全編を奏でる音楽である。
 全編を奏でる音楽は、一味に率いられる男の友人の妹/クレール(ミリアム・ルーセル)が所属する弦楽四重奏団が奏でるもので、その練習風景が断片的に描かれるのだが、カルメンと男の進む物語の起伏というものが、なんだか二人の意志で動いているのではなくて、この奏でられる音楽に支配されているように見えてくる。
 ミュージカル映画で登場人物が、その心情表現を歌う歌に託すのであれば、これは全くの逆で、奏でられる音楽がその心情表現を役者に託しているかのようである。そんなことに心を奪われて見ていたら、映画の物語などというものはどうでもよくなってしまい、とても楽しい映画となった。

 人は映画をどのように見ているのだろう?どのような映画を求めているのだろうか?
 岡本喜八監督『ダイナマイトどんどん』は、やくざの抗争に手をやいた警察署長が、やくざに野球で解決しろと言い放ち、やくざも野球で解決しようと、野球大会を開く話だ。
 「やくざが野球で決着???」そんなことはありえない。そんなデタラメが許されるだろうか?と思いつつ、僕はこの映画を「最高の野球映画」と楽しんでいる。

 一瞬戸惑ってしまう、わけのわからない映画が減っている。わけがわからない映画ほど、「コンチクショー、理解してやる!」とムキになって見たものだ。
 デタラメな映画も減っている。デタラメな映画ほど、「映画はこんなことも描けるのか…」と憧れたものである。
 どことなくおさまりの良い映画が増えてはいないだろうか?映画を見てスッキリした気持ちになっていないだろうか?
 ゴダールの映画は、そのどちらにもあてはまらない。ゴダールの映画には、我々を映画へと向かわせる、麻薬のような危険な匂いが漂っている。

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2005年10月29日 (土) よく喋る、男の子です。にんげんドキュメント『がんばりよ 健太〜高知・6人兄弟の物語〜』
にんげんドキュメントがんばりよ 健太〜高知・6人兄弟の物語〜
 制作:NHK 放映日:2005年5月27日(再放映日:2005年10月28日)

 メインキャストの健太君は、中学入学を控えた12歳。妊娠7ヶ月でお母さんのお腹から出てきてしまい、うまく呼吸ができなかったので、脳性まひになってしまった。体が不自由だ。

 健太君は6人兄弟の8人家族。両親はそれぞれ仕事を持っていて、家ではてんてこまいの忙しさ。
 朝、お父さんは手がうまく使えない健太君の歯を磨いてあげる。お母さんは朝食の準備やらなにやら…化粧をするのは健太君を送る車の中で、信号待ちの間。自分のことはサッと仕上げるばかりである。

 一番上の兄は専門学校を卒業し、介護福祉士の資格を取って、自立の道を歩む。
 妹の実穂ちゃんと果穂ちゃんは双子の7歳。耳があまり聞こえない。行きはお母さんに送ってもらって学校に行くが、帰りは9歳の由希ちゃんが一緒に帰ってくる。耳が聞こえない二人は、車の気配に気が付かない。うっかりしていると車道との境の白線を踏み越えている。
 健太君は由希ちゃんが3人分話しているという。実穂ちゃんと果穂ちゃんが話をできない分、二人の分も由希ちゃんが話しているのだという。
 実穂ちゃんと果穂ちゃんは、お話はうまくできなけれども、お母さんの手伝いをする。健太君の椅子を用意したり、食事の準備をしたり。
 健太君は、ちょっと心苦しい。兄なのに、何もできない…

 次男の大起君は、高校3年生の陸上選手。大学の推薦入学を受験するも落ちてしまい、進学するか就職するか悩んでいる。
 「自分はこの家で、あまり役にたっていない」
と、健太君をお風呂に入れたり世話を始めた。
 健太君は中学を入るのを期に、養護学校の寄宿舎に入ることを決断する。お母さんを楽にさせてあげよう。自分が大人になる準備をしよう。
 次男の大起君は、寄宿舎に入ったら何でも自分でやらないといけないと、お風呂で健太君の体を支え、足を自分で洗わせる。
 健太君は体が不自由だから、足をこする腕の動きはゆっくりゆっくりだ。しかしその間、大起君は文句一つ言わずに、しっかりと健太君の体を支えている。
 
 このドキュメンタリーを見ていると、「人間は響きあうのだなぁ」と思う。
 この家族、誰かが誰かに何事かを強制しているわけではないのだが、誰もが「やってみよう」とささやかに動き出す。もちろん大起君や健太君のように、焦燥感を持ったりするのだろうが、その焦燥感は必ず行動に表れる。 
 しかし健太君はハキハキと喋る。ちょっとドキュメンタリー泣かせ。
 ドキュメンタリーは、登場する人々がうっかり本音を呟く瞬間を狙っている。健太君は何事にもハキハキと自分の意見を語る。大起君もそうだ。
 とても元気な一家である。

 健太君は、お母さんが「寂しい…」と零すのを振り払って寄宿舎に入居した。大起君は就職試験の勉強を始め、働きながら陸上に取り組める環境を模索している。
 由希ちゃんは一人で学校に通い始めた。実穂ちゃんと果穂ちゃんは、養護学校に入学した。 
 響きあう人々は、自分の足を地につけて一歩一歩、歩みだす。

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2005年10月18日 (火) 雲仙普賢岳は、付和雷同の危険性を伝える。
NNNドキュメント'05『解かれた封印』
NNNドキュメント'05『解かれた封印』 制作:日本テレビ
 放映日:2005年10月16日(再放映はNNN24にて、10/22・24時〜、10/23・12時〜) 

 「島原に来たばっかりに、申し訳ない…」
 雲仙普賢岳で火砕流にのまれて死んだ日本テレビ報道局のビデオエンジニア(VE)の遺族に宛てられた、地元の方からの手紙だ。
 「息子は殺されたんじゃない、死んだんだ…」
 両親は、初めてそんな思いがした。

 雲仙普賢岳の取材で、40人近い報道陣が死んだ。「定点」と呼ばれるその場所は、山の合間を縫って降り来る火砕流、土石流を真正面からとらえることができる。再三にわたる避難勧告にも関わらず、報道各社が、そこへ取材者を送り込んだ。
 日本テレビの死んだカメラマンが手にしていたカメラが引き上げられ、その中にあったテープが、この番組で放映された。通常なら見るに耐えない荒れた画質。しかし食い入るように見入った。
 テレビ朝日のリポートの声が聞こえる。各社の記者、カメラマンの姿がそこには映っている。報道陣へ非難を呼びかけに行った警察官、消防団員も映っている。
 ナレーションは語る。映った人の全てが、この世を去ったと…
 
 当時の日本テレビ担当デスク(現場取材人へ指示を飛ばす人)が、語る。火砕流の危険性を知っていたとしても、各社が張り付いて報道している中、危険だから現場を離れろと指示を出せるか、今も自信がない。
 死んだ日本テレビVEは一日前に、火砕流が心配だと、母へ電話をしている。母は、臆病者と言われないためにも、そこを離れることはできなかったのだろう、と語る。
 長崎新聞のカメラマンは、火砕流が発生する数分前に、その場を離れ、難を逃れる。他社から臆病者との声があったが、締め切りに間に合わなくなるとの判断で、その場を離れたと、彼は語る。
 「臆病」という言葉が溢れる痛ましさを痛感するとともに、日本のメディアの特質が現れている。

 新聞を読む人は、イラク情勢の記事を読むといい。現在は署名記事が主流。記者の名前と取材地が明記されている。お手元の新聞のイラクの記事のほとんどが「アンマン」や「カイロ」と書かれていないだろうか?各社、バグダットに記者をおいていないのだ。僕が知る限り、NHKが支局を置いた以外は、大手メディアはいないのではないだろうか?NHKのスタッフも、取材のほとんどは現地雇用のスタッフに任せているようだが、それでも今回の措置は英断だ。
 日本の大手メディアは、そこに協定でも存在しているかのように、何事かがあれば一斉に退去する。何事もないとみると一斉にそこへ向かう。当初サマーワにいた各社のスタッフも、国が勧告をだしたとたんに、自衛隊機で一斉に退去した。

 退去を臆病とは思わない。会社命令であれ、現場スタッフの判断であれ、危険を感じたら退去していい。それは欧米のメディアの常識で、だから海外メディアはどこにでもいて、そして信頼性が高い。
 逆に安全にある程度の確証が持てれば、一社だけでもそこに居ていい。日本のメディアの取材人は、いま臆病でそこへ行かないわけではない。行きたいと思ってうずうずしているスタッフはたくさんいる。

 報道各社だけが右ならえしているわけではない。よく言えば歩調をとる国民であり、悪く言えば何ごとにも護送船団を組む国民である。今日は新人国会議員の24人もが、靖国神社を参拝したとか。
 雲仙普賢岳の出来事は、付和雷同の危険性を語りかけているのではないだろうか…

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2005年10月16日 (日) 言葉なんぞ無力である。ピーター・ウェーバー監督『真珠の耳飾りの少女』
真珠の耳飾りの少女』2004年製作/イギリス
 監督:ピーター・ウェーバー 出演:スカーレット・ヨハンソン ほか

 動かない一枚の絵画、動かない一枚の写真に、映画やTVのような動画はかないっこない、と思う時がしばしばある。動きのない絵画や写真は、そのくせじっとしているから隅々まで見えてしまう。言葉を持たないから、こちらが代弁しなければ黙っているばかりである。
 隅々まで見えるその情報量は、映画やTVの比ではない。シーンを接いでいく映画やTVは、我々の理解を先送りしながら、連れて行ってしまう。しかし絵画や写真は、我々をどこへも連れて行くことなく、そこへと留めてしまう。
 「あなたに、私のことがわかるかしら?」とでも言わんばかりに、どっしりとそこへ留まっていて、我々は半ば諦めがちにその戦いに挑み、仕舞いには曖昧にその場を辞する。
 「あの赤は素晴らしい」だとか「あの曲線は彼独特のものだ」とか、「描かれた婦人の憂いが額の皺に宿っていた」などと、呟いてみるのだが、どれも本当は言葉にはできないことを言葉にしたばかりに間違っていて、言葉ほど不自由なものはないのではないかと、人間の不幸の本質を曝け出す。
 
 映画『真珠の耳飾の少女』は、フェルメールの描いた『青いダーバンの女(真珠の耳飾の少女)』を見た原作者/トレイシー・シュバリエが、不自由な言葉を紡いで小説に仕立て上げたものの映画化である。
 フェルメール(コリン・ファース)一家に使用人としてやってくるグリート(スカーレット・ヨハンソン)。彼女はフェルメールの仕事場の掃除を任されるのだが、あるときフェルメールの妻へ、窓を拭いてもいいかとたずねる。
 「ええ、いいわよ」 「光の具合が変わってしましいますが…」 「…」

 フェルメールはオランダの画家である。同時期のオランダの画家にレンブラントがいる。この両巨匠、その絵画を見れば一目瞭然だが、光の具合が特徴的だ。差し込んだ明かりを使ったような絵画、そこだけに照らされた明かりを使ったもの、フェルメールの絵画を見て頂いてもわかると思うが、それぞれの明かりが強く印象に残る。
 例えば「デルフルトの眺望」の空。その空色の明るさは、他の室内を描いたものには感じられない明るさだ。
 映画『真珠の耳飾の少女』の魅力のひとつは、この映画がフェルメールの絵画を意識しているような照明(ライティング)がなされており、映画自体がフェルメールの作品を見ているような錯覚に陥ることである。

 グリートは、色へ絵画への興味を強く抱く。そしてフェルメールがそれに関心を示し、手伝いをさせる。ある日、モデルはグリートにした絵画制作の依頼を受ける。
 フェルメールは妻の持つ真珠の耳飾りを彼女につけさせることにする。妻のものを身に付けることへの畏れ、そして出来上がった絵画に自分の真珠が使われていたことに対する妻の嫉妬。グリートは使用人をクビになる。

 僕がとても好きなシーンは、フェルメールの妻の真珠の耳飾りをつけモデルとなったグリートが、その夜、自分に求婚を迫る肉屋の息子を酒場に訪ね、求婚を断わりつづけていたにも関わらず、街の人影ない片隅で、性急に体を求めるシーンである。
 フェルメールとの間に何か事が起こりそうで起こらなかったのだが、フェルメールに真珠の耳飾りをつけて描かれたことが、それに比してもエロティックな行為で、何かを拭わなければならなかったのか?それとも描かれたエロティックな行為に体の火照りを醒めずなのか…肉体の触れ合わない官能的な行為に、心と体に埋まらないものを抱え込んでしまい、肉体を求めたのか…
 女心はたんと理解はできないが、しかしグリートが性急に体を求める行為には、人間の心と体に宿した様々な裏腹なものを、一直線に描いた快さがあって晴れやかな気分になった。

 一枚の絵画の素晴らしさに、映画なんぞがかなうとは思わない。ましてその映画にとやかくと言葉を並べることの虚しさが、いま突き刺ささっている。
 しかしこの映画には、魅了された絵画に対する「畏れ」と「憧れ」が入り混じっていて、なんだか僕も、書かずにはいられなくなった。

スカーレット・ヨハンソン主演映画『ロスト・イン・トランスレーション
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2005年10月15日 (土) どっちが番組制作を大事にしてくれるの?
 TBSの株が、楽天に大量に取得されて話題だ。春先にはフジテレビがライブドアに狙われてひと悶着。どうもテレビ局はお金が儲かるようだ。
 確かにテレビ局は羽振りが良い。度々アナウンサーの給料などが雑誌にすっぱ抜かれているが、フジテレビの女子アナNO.1高額年俸は2700万円だとか…元NHK会長の海老沢氏の年俸は3000万円前後だったというから、民放の羽振りの良さは抜群である。

 東京新聞は、昨日今日と、TBS問題を「メディア問題」として捉え、しつこく追っている。もともと東京新聞は、芸能記事やラテ記事(ラジオ/テレビ記事)が豊富で、楽しい。
 しかしこの記事(「TV危機 制作会社が人材難」)には驚かされる。特にテレビ制作を目指している人達には、ちょっと読ませたくないような…
 要約すると、テレビ局の下請けにあたるテレビ番組制作会社は、制作費のカットで給料もたいしてよくないところが多い。今ではWeb系の映像を制作会社へ、人材も流れているという話である。
 これが現実である。

 TBSにしろ、フジテレビにしろ、株を買収する側から求められているのは何なのだろう?
 このような問題が起こると、そのテレビ局が、優良子会社を持っていたり、不動産を抱えていたりと、本業以外の儲け話がなんと多いことかと気付かされる。
 また「TV危機 制作会社が人材難」を読むと、番組制作は大事にされていないなぁ…という感想を持つ。
 
 テレビ局にとってテレビ番組は、様々な事業を行う上での「飾り窓」ではないかしら?
 楽天はTBSと組んで、何をするのだろうか?番組制作を大事にして、「TV危機 番組制作会社が人材難」というような事態を打開してくれるだろうか?それとも安上がりに儲けを目指すのだろうか?

 番組制作を大事にしてくれるところに、軍配があがることを期待している。

時事問題を一覧にしました『あれも時事!これも時事!
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2005年10月10日 (月) 意地と本音の機微。アンヌ・フォンテーヌ監督『恍惚』
恍惚』 2003年製作/フランス
 監督・脚本:アンヌ・フォンテーヌ
 脚本:ジャック・フィエスキ,フランソワ=オリヴィエ・ルソー 音楽:マイケル・ナイマン
 出演:エマニュエル・ベアール,ファニー・アルダン,ジェラール・ドパルデュー ほか

 夫/ベルナール(ジェラール・ドパルデュー)の浮気を知るカトリーヌ(ファニー・アルダン)。ベルナールを問い詰めると,彼は過去にも浮気をしていたことを告白。妻/ベルナールは、深いショックを受ける。
 ベルナールは、なんとはなしに職場近くの怪しげな会員制のクラブに立ち寄る。男客に媚を売り、取り入る娼婦たち。ストリップのように踊る娼婦。おづおづとひとり居るベルナールの席へ、「女でも平気よ」と、マルレーヌ(エマニュエル・ベアール)が訪れる。

 ドパルデューとアルダンの組み合わせは、フランソワ・トリュフォー監督『隣の女』の印象が強い。以前付き合っていたカップルが、お互いの家庭を持ちながら、お隣さんになってしまい、再び深い仲に落ちていく。一緒にはいられないが、離れてはいられない。そんな複雑な男と女の関係を好演していた。
 エマニュエル・ベアールは、セクシーな女を、またクロード・シャブロル監督『愛の地獄』やブライアン・デ・パルマ監督『ミッション・インポッシブル』など謎めいた女を、そして『美しき諍い女』のモデル役でも好演したように、意思の強い役どころと、とにかく美しい女性だ。

 「夫はあなたのような女性が好みよ」と、カトリーヌはマルレーヌに、夫を誘惑し事の次第を話して欲しいと依頼する。そしてマルレーヌは依頼の通りベルナールを落とし、度々会って、事の次第を語る。その「事」は、次第にエスカレートしていく。
 この映画、ベットシーンは一切ない。マルレーヌとベルナールのベットシーンは、全てマルレーヌの語る描写のみだ。男に体を弄ばれることが女の喜びであるかのように、優越感さえ感じるようなその語り口。いっぽう聞き手となるカトリーヌは「そんなことはしないはずだわ」と、妻としてではない女としての自信を失っていく…

 「体を売らなくていいから、この仕事は好きだわ」と言うマルレーヌは、エスティシャンの卵。体の利かない年老いたカトリーヌの実母の髪の手入れを頼まれ、彼女の実家へ出向く。マルレーヌはカトリーヌが少女時代を過ごしたベットで寝るのだが、そこでカトリーヌの忘れられない男との恋をしる。
 お互いがお互いに抱いていたイメージがちょっと壊れて、二人の関係は少し親密になり、それが余計にお互いを複雑にしていく。
 
 こういう感じで、ふと人間の本音を描いちゃうところが、フランス映画は上手だ。なんと言っていいか「ふとしたところ」に、見逃せない感情の機微が描かれている。そしてここがこの映画のポイント。
 じっくりとこの映画を見ていた人にはわかるが、思わぬ結末が用意されている。

「…でも、楽しかったでしょう?」とマルレーヌ。
「ええ、楽しかったわ・・・」と、カトリーヌが素直に答える。
 
 この会話がこの映画の全てである。娼婦に身をやつすマルレーヌの意地と、隠していた女という自分の姿を見つめなおすカトリーヌの映画である。

 しかしいいねぇ〜フランス映画は。こういう作品が普通にあるのだから。フランス映画の奥の深さを見せつけられた思いがする。

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2005年10月9日 (日) テレビの新しい可能性!にんげんドキュメント『ナガセ君の小さな生きものたち』
にんげんドキュメント『ナガセ君の小さな生きものたち』
 制作:NHK 放映日:2005.10.7(再放映:2005.10.13 24時15分)

 コラボレーションという言葉がある。アートの世界では、よく使われる言葉だ。幾人かのアーティストが集まり、それぞれの才能に誘発されて才能を出し合い、ひとつの作品を作り上げる。
 アーティストは個性的だ。相容れない部分や、干渉されたくない部分がある。それだけにコラボレーションは、才能の塊で、見るものをとても喜ばせるのだが、なかなか実現しない。

 コラボレーションということもないのだが、僕も企画を立て、他のディレクターが映像化する作業は、本来なら楽しい。何故かといえば、僕の企画が担当するディレクターの才能で、何倍も面白くなるからである。そして面白い作品を作り上げるディレクターほど、僕に意見を求めてきて、やりがいがある。
 自分がディレクターを担当するときも、できるだけ様々な人に意見を求める。自分にはない才能が付加されて、だいたい作品は、自分の能力を超えた面白さになるからだ。
 しかしながら、そのような土壌で制作を学んでいない人には、ちと難しい作業だ。我がぶつかり合う印象を持ってしまい、結果的に、他人の意見をうまく汲み取ることができずに、作品が死んでしまう。
 コラボレーションは、面白い作品を作るにあたっての、大きな賭けである。

 大きな賭けが、見事に身を結んだ作品、それが『ナガセ君の小さな生きもの』だ。

 ナガセ君は知的障害者で、陶芸作品を作り、個展を二度も開いたアーティストである。ナガセ君の作品は、少年時代を過ごした東京の下町、荒川で出会った蛙や蟹、亀などの小さな生きものの記憶である。
 ナガセ君の記憶を活かしたこの作品群は、詩人の記憶を呼び起こす。番組中に朗読される詩人アーサー・ビナードの詩は、ナガセ君の作品に溶け込み、ナガセ君の作品に、新たな生命を吹き込んでいく。
 ナガセ君の作る小さな生き物は、小さいくせに、ナガセ君が類稀な才能を活かして作るため、動きがあって生命力に満ちている。番組ディレクターは、その生命力を敏感に感じ取っている。そのため、作品の大きな柱のひとつに、ナガセ君が暮らす青梅の自然が描かれる。
 青梅は、東京とは思えないような自然に満ちている。ザリガニ、カマキリ、カブトムシ…ナガセ君の描く小さな生きものたちが、たくましく暮らしている。そして青梅の子供たちは、ナガセ君が少年の頃、そうであったように小さな生きものを捕まえる。
 
 この番組は、知的障害者/永瀬洋昌(ナガセ君の本名)を描いているのでは決してない。アーティスト/ナガセ君が誘発した人々の創作活動そのものを描いた作品である。だからこそ、番組自体が生きもののように活発だ。真似のできないような構成で、我々を楽しませてくれる。
 もしかしたらテレビの新たな表現のひとつなのかもしれない。

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2005年10月2日 (日) 何もかもが“大人”の物語…NHKスペシャル『“いのち”の対話〜妊娠中絶・医師2人の模索〜』
NHKスペシャル『“いのち”の対話〜妊娠中絶・医師2人の模索〜』
 放映日:2005年10月1日(再放映:2005年10月3日24時25分〜) 制作:NHK

 医師のひとりは、決して中絶手術をしない。 いまひとりの医師は、母であった産婦人科医師が、戦後の混乱期の浅草で、娼婦の子を堕ろす姿を見て「誰かがやらなければいけない」と思った。
 そんな二人が営なんだ産婦人科の記録である。

 決して中絶手術を行わない彼は、中絶希望者に粘り強く、手術を受けた女性のほとんどが後悔し、悩み続けていることを説く。
 「誰かがやらねば」と中絶手術を施す医師のもとには、手術を受けた女性が「産まれるはずだった子の出産予定日が近い」と、拭えぬ気持ちのやり場がなくて、度々訪れる。

 中絶を望み、医師の説得に応じて取り止める人は、年間に一人、二人。この産院で年間の中絶者は80人を超える。
 増える女子高生の中絶者に、中絶手術を施術する彼は、高校での講演会に力を入れている。
 中絶する女子高生の脇で、男が「(お腹の子は)誰の子供だかわからない」と言い出すこと、実際お腹に子供を宿さない男には、妊娠した女性の気持ちがわからないこと。中絶する女子高生のほとんどが、「男に嫌われたくない」と思って中絶してしまうこと。

「私はお腹の子を殺したのだ」訪れるはずの出産予定日を消してしまった女性は、医師に度々呟く。「その言葉を聞く度に、俺も一緒に殺したんだ、と思う」と医師は、声を絞り出して呟く。
 お腹の子の父親になる男に対する不信感から、出産に踏み切れない二十歳の独身女性が来院する。
 「中絶しても、この子はまた来てくれる」と言う女に、医師は「この子は二度と来ない」と、代わりのないひとつの命が絶えることをハッキリと伝える。しかし、彼女は意を曲げない。曲げるきっかけを失ったようにかたくなだ。
 中絶を安全に行える期限が迫り、彼女は施術する医師のもとへ送られる。施術2日前、彼女はお腹の子の心音を、聴かされる。
 その早い心音を聴いて僕は、綿井健陽君がイラク戦争時にバグダットの病院で取材した、空爆で脳も内蔵も飛び出し、治療されることもなく死を待つ少女の鼓動を思いおこさせた。生きるも死ぬも、他人に委ねられた者の、唯一の叫びが、心音、鼓動なのだと。

 女は一度帰り、男と相談して中絶を取り止めた。年に一人か二人…医師二人が18日間をかけた、わずかな、そして偉大な成果だ…
 決して中絶手術をしない男が、理想の産院を建てるためにこの産院を辞めるところで、この物語は終わる。

 二人の医師が現実をまのあたりにしながら、苦渋に満ちた表情を、ささやかな笑顔を見せながら、紆余曲折から逃れないで生きる、大
人の物語だ。
 そしてまた、衝撃的な効果音もなく、ひっそりとした音楽がときおり鳴るだけの、派手さのない、見る者を煽り立てない、視聴者に委ねられた番組である。
 こういった番組が、もっと増えればいいのに…お薦めの作品だ。

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2005年10月10日 (月) 2005年8月後半号のお知らせ
9月の日記帳は、
 ●ジャック・リュベット監督『美しき諍い女』 
 ●入江悠監督『OBSESSION』『行路?』『黄昏家族』『SEVEN DRIVES』
 ●白紙委任とイメージの力(総選挙、自民党圧勝!)
 ●ビリー・レイ監督『ニュースの天才』
 ●NNNドキュメント'05『フィリピーナにおまかせ』
2005年9月号はこちら