用語解説

えた(穢多) 
 河原に住み、牛馬を殺して皮をはぐ仕事をしていたところから、差別を受けていた人びとに対する呼称として、鎌倉時代の末ごろからあらわれた名称。やがて戦国時代にはいると、戦国大名は軍事的に必要な皮を手に入れるために、皮革職人としての「えた」・「かわた」を組織し、屋敷地をあたえたり、領内の皮の流通独占権をもたせたりして優遇したが、賎民身分から解放することはしなかった。こうして他のさまざまな中世賎民とともに「えた」・「かわた」も、近世封建制の成立のなかでとらえなおされ、強固な賎民身分として近世身分制の最底辺におかれた。しかしこのことは、中世の「えた」・「かわた」がそのまま近世の賎民身分になったということではない。中世の社会はまだ流動的で、賎民でもその身分から逃れることも不可能ではなかったし、近世封建制のもとで新たに「えた」身分におとされた者も少なくはなかった。
 近世封建制のもとで「えた」・「かわた」は、領主に皮革を納めるかわりに、死んだ牛や馬をひきとり処理する特権(斃牛馬処理権)を認められたほか、皮革業を行なうための作業場として屋敷地をあたえられたり、年貢を免除されたりすることも多かった。しかしこれらはいずれも、賎民としての身分と結びついた権利であり、日常生活のうえでは賎民身分としてさまざまな厳しい差別をうけた。しかも特権をもっていた者は一部にかぎられており、多くの人は農業、皮革加工業、日雇い賃かせぎなど雑多な仕事で生計をたてていた。領主によっては、「えた」身分の者を罪科人の処刑や警察組織の手先としてつかい、分裂支配の手段として利用したところもあり、「長吏」とも呼ばれた。
 商工業の発達にともなって江戸の弾左衛門や大阪の太鼓屋又兵衛のように、「えた」身分のなかにも豊かな人たちがあらわれた。しかし、ゆるぎはじめた近世封建制をたてなおすために、身分支配が強められるなかで、賎民身分に対する差別はますます厳しくなり、「えた」身分の多くはいちだんと貧しい生活を強いられるようになった。もとより「えた」身分の人たちは、こうした差別と貧困に泣き寝入りしていたわけではない。1856(安政3)年の渋染一揆に代表されるように、幕末に近づくにつれて「えた」身分の人びとも、差別と貧困に抵抗して立ちあがり、身分差別撤廃のたたかいを展開していった。

戦前の部落差別を残し支えた社会的・物質的基礎
 明治維新は、封建社会から資本主義社会へ移行する近代日本の出発点でした。しかしその後も、第二次世界大戦前の日本社会には、半ば封建的な政治、経済、社会のしくみが存在していました。政治のしくみとしては絶対主義的天皇制、経済のしくみとしては寄生地主制が存在していただけでなく、社会のしくみとしては家父長制的家族制度が法的にも維持・温存されていました。
 家父長制的家族制度のもとでは、「家」の財産や管理権は原則として父から長男に受けつがれ、それらを受けついだ長男が家長(戸主)として絶対的な権力をもって家族員を支配し、同じ家族員であっても妻や次三男や女子は差別的な取扱いを受けていました。また、「家」の存続のためには個人の権利や幸福は犠牲にされ、「家」中心的な行動様式や社会関係が根づよく存在し、思考様式においても「血筋」や「家柄」や「家系」を重視する前近代的・封建的な考え方が支配的でした。たとえば「士族」の家の息子と「平民」の家の娘との結婚、地主の家の娘と小作人の家の息子との結婚、老舗の商家の娘と奉公人との結婚などは「家柄(身分)がちがう」といって容易には認められませんでした。
 第二次世界大戦前の日本資本主義は、これらの半ば封建的な政治、経済、社会のしくみと結びつき、その上に乗っかって急速な発展をとげるという特殊な構造をもっていました。こうした近代日本の特殊な社会構造のもとで、それぞれの地域社会においても資本家と地主による支配のしくみが形成され、その一環として部落がくみこまれ、部落差別を残し支える社会的・物質的基礎となったのです。1971年(明治4年)に「解放令」(別項参照)が出されたにもかかわらず、現実の社会生活のうえでは部落住民に対する封建的身分差別はなくならず、部落問題の解決が妨げられたのはこのためです。
 したがって1922年(大正11年)に創立された全国水平社も、その運動の前進のなかで、個人に対する差別糾弾闘争から、部落差別を残し支えている土台(社会的・物質的基礎)に向けての闘争へと運動を発展させてゆきました。この意味において、第二次世界大戦前の部落解放運動は反封建・民主主義のたたかい、つまり、部落差別を残し支えていた半ば封建的な社会的・物質的基礎を解体して民主主義を確立するたたかいという性格をもっていました。
 第二次世界大戦の敗北によって、日本の政治、経済、社会のしくみは大きく変化しました。新しい憲法が制定され、主権在民の原則にもとづいて絶対主義的天皇制が廃止され、大幅に制限されていた基本的人権もほぼ全面的に保障されました。農地改革によって寄生地主制も基本的に解体され、民法の改正によって家父長制的家族制度も廃止されました。こうして、部落差別を残し支えてきた社会的・物質的基礎が、基本的に解体されたわけです。
 しかも、部落解放運動はもとより労働組合運動、農民運動、女性運動、青年運動などさまざまの大衆的な民主主義を求める運動が、戦前とは比較にならないほど広範にとりくまれるようになりました。こうした部落内外の国民大衆の民主的な自覚と主体的な力量の成長が、戦後日本社会の変化を部落問題の解決にとって有利な条件として生かし、部落差別を解消させる原動力となってきたのです。

部落解放同盟(「解同」)の綱領と部済解放像
 1,観念的差別論
 「解同」は、1997年に綱領の改定を行いました。この綱領改定で「部落差別を支えるイエ意識や貴賎・ケガレ意識と闘い、差別観念を生み支える諸条件」と規定づけ、部落問題を意識や慣習の問題に矮小化し、国民の意識や観念との闘争を呼びかけています。
 しかし、この「イエ意識」や「ケガレ意識」は、戦後の民主化と高度経済成長により、資本主義的諸関係が社会全般にわたって貫徹し、前近代的な意識や観念を支えていた社会的仕組みが除去され、こうしたもとで急速に消滅してきています。
 「ケガレ意識」は、蝕穢(しょくえ)とも呼び、穢れに触れることを忌避するものです。この穢れとは、たんに汚いとか不潔なものでなく、死や血を穢れとみて、それを忌避したのです。この「ケガレ意識」は、人類の誕生から存在していたものでなく、人間の思惟が一定の歴史的段階に達したときに生み出された観念的な産物です。
 部落に対する蝕穢思想による差別感は、封建時代の斃牛馬処理との関連から生み出されたものですが、これは現在急速に薄れてきています。かつては部落の人と同じ食器で飲み食いしない、部落の人を自分の家に入れない、座敷に上げない、部落の人と入浴をともにしない、部落の人と煙草の火のやりとりをしない、部落の人と結婚しない、など部落の人を忌避、排除する行動がありました。このような部落の人を忌避・排除する差別は、ほとんど影を薄め、消滅しつつあるのが現在の実態です。
 しかし「解同」は、部落差別の根拠に「イエ意識」や「ケガレ意識」を持ち出し、あたかも日本社会にこれらが現代も蔓延し、根強く社会構造化しているかのごとく虚像を描き、この前近代的意識を闘争相手にすることにより国民敵視の「糾弾路線」の論理的合法化を図ろうとしています。
 2「解同」の部落解放像
 「解同」は、全解連が部落問題が解決された状態を提示してから10年後に「部落解放とは」の指標を示すに至りました。「解同」の「部落解放とは」以下の内容です。
 「ふるさとを隠すことなく、自分の人生を自分で切り拓き、自己実現していける社会、人びとが互いの人権を認め合い、共生していける社会、われわれは部落解放の展望をこうした自主・共生の真の人権が確立された民主社会の中に見いだす」
 この規定の特徴は、一般性と独自性を混合し、誤った論拠から出発していることです。「解同」は、「ふるさとを隠すことなく」とか、「人びとが互いの人権を認め合い、共生していける社会」といい、部落問題をあたかも民族問題のように描き、誤った論拠から立論しています。
 「ふるさとを隠すことなく」とは、部落の人びとが自らの出生地を明らかにすることを意味し、この延長線上に「部落民宣言」があります。しかし、自らの出生地を明らかにするしないは、本人の自由に属する問題であり、何人もこれを強要することは許されません。
 現在、部落の人びとの部落にかかわる意識は、意識的に出生を隠す人もいれば、これをまったく意識せずにいる人もおり、さらにこの問題を意識し自覚的行動にでる人もいるなど、さまざまです。このどれがいいとか悪いとか評価できるものでなく、それぞれの人生観にもとづく個人の選択権に属するものです。
 「部落民宣言」は、「部落民」と非「部落民」との明確な区分がなくなり、日常的にこだわりなく生活しているもとで、これを擬制的に本人に洗脳する時代逆行の許し難いイデオロギーといえます。部落問題の解決は、「部落民として解放される」のでなく、「部落民からの解放」であり、「部落民」は解放されたら「部落民」ではなくなります。
 この「解同」の「部落民として解放される」という考えからは、「互いの人権を認め合い、共生していける社会」という「部落解放像」が浮上してきます。「共生」という用語は、ほんらい生物学から生み出されたもので、これを人間社会に適用して人種、国籍、言語、文化などで異なった集団が、同一社会の中で相互にその差異を認め合った上で、対等・平等な関係を構築・維持していくことを意味します。しかし部落問題は異なった人種でもなければ民族でもなく、あくまで同一民族内の封建的身分制の残りかすの問題であり、この解決は旧身分の垣根を取り払い、相互のわだかまりを解消し、国民融合を実現すれば解決する問題です。この点でも、「解同」の「共生」理論の部落問題への援用は、旧身分の固定化に通じる時代逆行の反動的な役割を担うもの以外の何ものでもありません。
 「解同」は、このような部落問題を民族問題のように描きながら、他方では部落問題の独自性を無視し、「人権が確立された民主社会」が「部落解放像」だとしています。しかし、「人権が確立された民主社会」とはいかなる社会なのか、この歯止め無き抽象的な規定をもちいることにより、部落問題解決を先送りし、結果的に展望を明らかに出来ないお粗末なものとなっています。人権は、歴史的にみても、現実の状況をみても、社会的状況の変化と人間の要求が結びつき、その内容・カタログがつねに充実・発展する概念を特質としています。そのことを無視して、「人権が確立された民主社会」の実現を部落問題解決の到達点にすることが、いかに現実をみない空理空論であるかは明らかです。
 「解同」は、今度の綱領において、一方で「人権」社会の実現を叫び、他方で構造的に人権侵害に通じる「糾弾」行為を公言しています。「糾弾」行為は、幾多の実例が最高裁判所で有罪となり、その違法性はすでに司法的に明らかです。「解同」の「糾弾」行為は、この司法判断を受けて、法務省の見解や地対協の意見具申で、違法性の具体的な態様まで明らかにされています。それでも「解同」は、「差別糾弾」と称して、他人の人権を土足で踏みにじり、わが国における「人権社会」の実現を阻害しながら、他方で「人権社会」の実現こそ「部落解放」だという、相反することを同一文書に収めています。

解放教育
 1965(昭和40)年の部落解放同盟の内部分裂以後、中央本部派が従来の同和教育に対置させて提唱しはじめた教育。1967年7月に結成された全国解放教育研究会の「会則」によると、この会は「解放同盟の方針に沿い、解放教育の推進をはかる自主的な組織」であるとされ、「部落出身教師と部落解放運動にかかわる教育関係者によって構成され、部落解放同盟中央本部の指導と援助によって、部落解放運動の一環としての解放教育をすすめようとするもの」であり、「解放教育を歪曲・否定しようとする一切の志向、および、新しい形の融和教育とねばり強くたたかい、部落解放教育の確立・発展をめざす」と述べられています。すなわち解放教育とは、日本国憲法・教育基本法・学校教育法に直接もとづかないで、「解同一中央本部の部落排外主義的な運動路線に沿い、その指導と援助によって部落解放運動の一環として推進される教育のことを指します。解放教育の名のもとに「語り」、「部落民宣言」、「狭山事件」などが公教育の現場にもちこまれ、さまざまな矛盾と混乱が引きおこされるにともない、民主教育の一環としての自主的・民主的同和教育の確立・推進を妨げるものとして、部落内外を問わず国民の批判が強まっています。

教化
 人を教え、よい影響を与えて善に導くこと。

啓発 
 一般に「啓蒙」(無知な者に知識を与えて教え導く)と同じ意味で用いられることが多くあります。歴史的には、たとえば1924(大正13)年頃から国民精神の作興をめざす「国民教化総動員運動」が強行され、社会教育が「教化」にとってかわられ、社会教育が国民の思想統制・戦争協力の手段として利用されるなかで、「啓発宣伝」という言葉が多く使用されました。第二次世界大戦後は、選挙管理委員会が1953(昭和28)年頃から「選挙啓発」という用語を多く使用するようになりまたが、それ以外の分野では「啓発」という用語はあまり使用されませんでした。
 ところが同和対策審議会答申のなかで、「啓発」という用語が人権思想の普及高揚とかかわって用いられて以来、ふたたび「啓発」という用語が頻繁に使用されるようになりました。特に同和対策事業特別措置法(1969年)にもとづく同和行政の推進のなかで「実態的差別」が解消するにともなって、1980(昭和55)年頃から「心理的差別」の解消の問題が重視され、「市民啓発」「社会啓発」「同和啓発」など「啓発」という用語が急速にクローズアップされました。その後、学校教育や社会教育をも含めて意識変革にかかわるすべての取り組みが「啓発」に包摂され、「啓発」が肥大化され万能視されるとともに、地域改善啓発センター(1987年設置)を中心に地方自治体、学校、運動団体、企業などをもまきこんだ国家(行政)主導の全国的な「啓発」推進体制づくりがすすめられようとしています。
 こうした動向を批判・阻止する立場から、「啓発」という用語は「学習への動機づけ」「学習意欲の喚起」などに限定して禁欲的に使用すべきであって、無限定に拡大してはならないという見解が1986(昭和61)年頃から提起されてきています。しかし学習活動は、もともと「学習への動機づけ」や「学習意欲の喚起」なしには成り立ちえないものであり、したがって一体・不可分のものを切り離し、後者を「啓発」と称して学習と分離して把握することから、逆に混乱が引き起こされるものです。人間の意識変革は一般に、自主的な学習・実践活動を通じて実現されていくのであって、そこに「啓発」などという概念を限定的にせよ導入すること自体が誤っており、行政などの公的機関は、「啓発」などいかなる名のもとにおいても人間の意識変革に介入すべきではなく、その役割は、国民の自主的な学習活動のための条件整備に限定されなければなりません。

国民融合論
 第二次世界大戦後における部落の現実の変化と部落問題解決の到達段階をふまえて、部落解放への展望を科学的に明らかにした理論であり、戦前の水平社運動における「人民的融和論」がその形成に大きな示唆をあたえました。国民融合論の骨子を要約すると次のとおりです。
 @部落差別は、近世封建社会の身分制に起因する身分差別の残滓です。
 A封建的身分差別からの解放という課題は、洋の東西を問わず、本来的にはブルジョア民主主義の課題です。
 B日本の明治維新は、ブルジョア民主主義革命としては不徹底なものであり、封建権力との妥協によって行なわれた変革にすぎなかったため、政治、経済、社会の仕組みのなかに前近代的・封建的なものが残され、それが身分差別の残滓である部落差別を残し支える社会的・物質的・な基礎となりました。
 C第二次世界大戦後は、部落差別を残し支えてきた社会的・物質的な基礎が基本的に解体されたほか、部落問題をめぐる客観的・主体的諸条件が大きく変化するなかで、部落差別は急速に解消の方向をたどってきています。
 D部落解放の課題とは、今日なお残存している身分差別の傷あとをなくし、旧身分の垣根をこえた自由な社会的交流を実現することであって、階級支配や階級的な搾取・収奪から解放されることでもなければ、資本主義の矛盾そのものをなくすことでもありません。
 Eしたがって部落差別からの解放は、国民本位の政治革新を実現し、独占資本や反動権力の横暴な支配を民主的に規制するたたかいを前進させるならば、資本主義の枠内でも達成することのできる民主主義の課題です。
 以上のような国民融合論を成立させる直接的契機となったのは、1974(昭和49)年11月の兵庫県の八鹿高校事件を頂点とする部落解放同盟の部落排外主義路線(朝田理論)に対する批判の高まりでした。そうした批判の高まりのなかで、「部落解放運動の統一と刷新をはかる有志連合」の結成(1974年2月)につづいて、戦前からの部落解放運動の中心的な活動家7名(阪本清一郎、上田音市、木村京太郎、北原泰作、岡映ら)の呼びかけで、1975年3月に「部落解放運動の現状を憂い正しい発展をねがう全国部落有志懇談会」が開催され、同年9月には部落内外の民主団体・個人を網羅した「国民融合をめざす部落問題全国会議」が結成され、初めて「国民融合」が運動のスローガンとしてとりあげられるとともに、さらに翌1976年3月には、部落解放同盟正常化全国連絡会議が全国部落解放運動連合会へと発展的に改組され、国民融合論にもとづく部落解放運動の推進が提起されました。
 そして全解連や国民融合全国会議の組織的活動を通じて、国民融合を達成するための運動が大きく前進するなかで、国民融合論はさらに理論的にも実践的にも創造的に深化・発展せしめられ、部落問題の解決についても、次の四つの状態が実現されることであり、いずれも資本主義の枠内で達成できる課題であることが明らかにされるに至っています。
 @部落の住宅・生活環境や生活実態にみられた周辺地域との間の格差が是正されること、
 A地域社会に民主主義を定着させることによって、部落についての誤った考えや偏見にもとづく差別的言動が、その地域社会において受け入れられない状況がっくりだされること、
 B長年にわたり閉鎖的な生活を余儀なくきれてきた結果として部落住民の生活態度や生活習慣にみられる問題状況が、基本的に克服されること、
 C部落内外を分け隔ててきた垣根が取り払われて、生活のあらゆる分野で自由な社会的交流が進展し、旧身分のいかんを問わず融合・連帯が実現されること。

差別  
 差別とは、人間の不断の努力によって、すべての人に平等に保障されなければならない基本的人権の享有とその向上が、何らかの差異を理由に、不当かつ具体的・直接的・実質的に制限されたり奪われたりすることです。日本国憲法も、この基本的人権を「侵すことのできない永久の権利」として、すべての国民にこれを保障しています。しかし現実には、部落であるという理由で結婚を拒否されたり、女性であるという理由で昇給や昇格において不利な処遇を受けたり、朝鮮人であるという理由で就職をことわられたりしており、身分による差別、性による差捉、人種や民族による差別、学歴による差別、思想・信条による差別などさまざまな差別が存在しています。
 これらのさまざまな差別のうち基本的・根源的な差別は、階級差別。つまり生産手段の所有・非所有にもとづく差別であって、その他の差別はすべて、階級差別を維持し補強するために、それぞれの時代の歴史的・社会的条件のもとで作りだされた副次的な差別であり、これらの差別はつねに、少数の支配階級が多数の国民大衆の統一・団結をさまたげるとともに、その労働の成果をより多く、より効果的に取りあげるための分裂支配の手段として、支配階級によって作りだされるのです。
 そして、差別が支配階級によって作りだされる際には、上記の事例からも明らかなように、現実に存在する自然的・生得的差異(人種、民族、性別など)や社会的・後天的差異(学歴、職業、社会的地位、思想・信条など)が利用されるだけでなく、差別を合理化し正当化するために架空の差異(部落問題における人種起源説など)が人為的に捏造されることさえあります。したがって差別は、もともと人間に差別意識や優越感があるから生じたものでもなければ、また差別される人びとの側に何らかの責任があって生じたものでもありません。
 ところが、差別は実際には、人間の行為として、人間と人間との関係として現われることが多いので、あたかも責任は差別し差別される国民大衆のなかにあるかのようにみえるものです。まさに、そのように思わせて国民を分裂させることが、差別を作りだした支配階級のねらいです。

差別意識  
 差別意識とは、広義には差別を当然だとする意識のことで、差別的偏見あるいは単に偏見といわれることもあります。しかし一般に偏見とは、個人または集団に対して確かな根拠なしにいだかれる歪められた肯定的または否定的な固定観念であり、それは必ずしも差別的言動としてあらわれるわけではありません。したがって差別意識とは、狭義には、直接的・具体的に基本的人権を侵害する差別的言動としてあらわれた意識または偏見のことをいいます。
 しかし偏見や差別意識は、人間が生まれながらにもっているものではありません。それは、差別的に分裂支配するという社会的な仕組みのなかで、その仕組みを合理化し正当化するために支配階級によって作られ、流布され、民衆の意識のなかに注入されていくものです。しかし人間の意識は、基本的には階級的地位によって規定されながらも、さまざまな媒介的要因(主体的・客観的諸条件)の影響のもとに形成されます。したがってすべての人が、支配階級によって作りだされた偏見や差別意識を等しく注入されているわけではなく、差別意識や偏見が人びとの意識のなかに普遍的・一般的に存在しているとはいえません。
 ある時代に作られた偏見や差別意識は、ひとたびそれが人びとの意識のなかに注入されると、その時代の差別的な仕組みを温存・強化するという能動的な役割を演ずるだけでなく、次の時代の新しい差別形成の土台として利用されることもあります。しかし逆に、差別を許さず、差別の撤廃を志向する意識も、差別的な社会の仕組みを土台にして生みだされるとともに、組織的な運動を媒介にして差別的な社会の仕組みそれ自体を作りかえていくのです。

差別糾(糺)弾闘争 
 全国水平社の創立大会で採択された「吾々に対し穢多及び特殊部落民等の言行によって侮辱の意志を表示したる時は徹底的糺弾を為す」という決議にもとづく基本的な闘争戦術です。差別糾弾闘争は、部落民の「人間としての自覚」をうながし、部落民みずからの手による人間としての権利を奪還するたたかいを意味していました。しかし水平社運動の初期にあっては、部落差別の本質は遅れた人びとの偏見にあるとみなし、差別者個人に対する徹底的糾弾をつみかさねていけば、差別観念は一掃できるものと確信されていました。したがって差別する者は、資本家・地主も労働者・農民もまったく区別されることなく徹底的に糾弾されました。その結果、表立った露骨な差別は次第に少なくなったが、差別的な感情は一向に解消せず、かえって人びとの意識の奥深く沈んでしまい、糾弾闘争の激しさから新たに恐怖や憎悪の感情さえつけ加わり、それが支配階級の分裂支配に利用されて、逆に部落内外の対立の溝が深められることにもなりました。
 水平社は、こうした厳しい試練をへて、やがて差別者個人に対する徹底的糾弾闘争の誤りを克服して、「労農水の三角同盟」など無産階級と連帯して運動の方向を差別の根源である地主制、天皇制、資本主義に向けていきました。それとともに差別糾弾闘争についても、労働者・農民などの勤労大衆によって引きおこされる差別と、支配階級とそれにつらなる者によって引きおこされる差別とを区別し、前者に対しては差別の誤りを教育的に正すだけでなく、その糾弾闘争を「人民的融和の重要なモメント」としていかなければならないという方向が明らかにされるに至りました。
 ところが、こうした歴史的教訓にもかかわらず、今日においてもなお部落解放同盟は、暴力的蛮行を背景とした徹底的糾弾闘争をくりかえしており、部落問題解決の正しい発展をさまたげています。

差別(用)語 
 侮蔑・蔑視することを目的として作られた言葉(用語)もないわけではありませんが、一般に「差別語」あるいは「差別用語」といわれるものは存在しません。しかし侮蔑語・蔑視語を含めて、相手の基本的人権を直接的・具体的・実質的に侵害するような使われ方をすれば、少なからぬ言葉(用語)が差別(用)語になりえます。ところが近年、そうした使われ方にかかわりなく、「傷つく人がいる」あるいは「痛みを感じる人がいる」などという理由から、「めくら」「つんぽ」「部落」などの言葉だけをとらえて糾弾するという誤った傾向が強まり、特に1973(昭和48)年ごろから、急速にマスコミおよび芸能関係者に対する糾弾闘争が、部落解放同盟などによって進められました。その結果マスコミ関係者は、自主規制の名のもとに「禁句集」「いいかえ集」を作成し、日本語の一部を死語にするようになりました。
 これに対し1975(昭和50)年5月、日本放送作家組合をはじめ関係8団
体の主催による「用語と差別を考えるシンポジウム」が開催され、「『差別用語』問題は、部落差別や心身障害者への差別をなくする行動と言論表現の自由との接点にわたる問題であり、二者択一・特定の考え方で割り切れるものではない」との立場から、まず何が起こっているのかの事実をタブーにせず、すべての国民の「開かれた討論」の対象としなければならないこと、国民の知らないところで「言葉狩り」や言論統制にちかい措置がすすめられることは、人権を守り尊重する運動とは相容れないことなどが明らかにされました。しかし1993(平成5)年9月に筒井康隆が、「てんかん」という用語の使用について日本てんかん協会から抗議をうけたことに対し、逆に抗議して「断筆宣言」をしたのを契機に、改めて差別用語をめぐる多様な論議が展開されるにいたっています。

歴史的後進性の克服と主体の形成
 全国水平社第10回大会(1931年)に提案された運動方針案には、「特殊部落民の本質」という項目がもうけられ、部落民が差別により、長年にわたって閉鎖的な生活をよぎなくされてきた結果もたらされた問題状況が鋭く指摘されています。
 この「案」では、部落住民の中に「『反逆的』感情と労働嫌悪のあること」を指摘し、その具体的内容として「イ、発作的に非常に反抗的闘争性を持っていること。ロ、伝統的に労働せずに遊び人等が多いこと。ハ、力強い集団性があるが、すべて感情的に支配されやすいこと。二、自己の立場に対する自覚なくして、金さえ儲かれば何んでもすること。ホ、その他賤視差別を利用されて、反動予備軍へ結成されやすい要素をもっていること」を明らかにしています。
 この提案は、決議されず保留になったものの、重要な問題提起を大胆におこなっています。これらの背景には、部落民が安定的職業に従事できず不安定就労の実態におかれていたこと、差別からの防衛意識により自己を守ることを重要な価値判断とした人生観をもっていたこと、教育の機会がそこなわれ、差別による社会的交流が妨げられ、文化的に低くおさえられた結果、近代的人間(人格)形成を阻害されてきたことなどによると考えられます。
 今日、同和対策事業の実施などによって生活実態の大きな改善変化の中で、「『暮らし向き』は変わったが、『暮らしぶり』は変わっていない」と言われるように、克服されなければならない生活態度が、部落住民の中に残っていることも事実です。
 「基本方向」は、差別の残滓とかかわって閉鎖的生活を長年にわたって強いられ、文化的水準を低くおさえられてきた結果としてもたらされた、部落住民の前近代的な意識や生活慣習、生活態度にみられる克服されるべき問題状況のことを、「歴史的後進性」と性格づけました。
 「基本方向」は、この「歴史的後進性」を克服し、部落問題を解決していくために、三点にわたって部落住民の「主体形成」の課題を掲げています。それは、
 @民主的市民道徳や社会的常識にもとづく堅実な生活を営む能力の形成、
 A現代の社会的労働に従事するために必要な社会的・職業的な資質・能力の形成、
 B自治と民主主義をにないうる能力の発達をはかること、です。
 とりわけ「歴史的後進性」の克服においては、「堅実な生活を営む能力」の形成が重要であり、そのための自主的・民主的な学習活動や文化活動のとりくみが必要です。たとえば、生活協同組合活動をとおして計画的な生活習慣を確立していくとか、部落内外の社会的交流をいっそう促進していく中で、社会的常識を会得していくとか、集団による自主的な生活点検活動をおこなうとか、さまざまな活動が期待されます。
 ただ、ここで留意しなければならないことは、
 @「解同」が言うような「部落民としての自覚」にもとづくものでなく、市民社会の一員として国民融合を実現していけるだけでなく、社会の主権者として社会進歩や発展に貢献できる「民主主義者としての自覚」の形成の視点でなければならないこと、
 Aこの課題の克服は、上からの説教とか、押しつけによるようなものでなく、自主的、集団的なとりくみとして教育的見地でおこなわれる必要があること、つまり教育が相手の自立を促しつつみずからが自立していくといわれるようにいたって社会的協力・共同の意味をもっていること、
 Bこの克服は、部落住民と部落解放運動団体に課せられた重要な課題であること、です。
 1982年、故中西義雄前書記長は、国会における意見陳述で「部落差別の解消には、いま過渡的な特例措置は必要でありますが、最終責任は地区住民と運動団体の側にあります」と言明し、また、翌年には「部落解放を実現するための最終責任は、行政にあるのではなく、国民的融合路線で、わが国の社会進歩と平和、民主主義、国政革新のために、民主主義勢力との協力・共同を前進させる、わが全解連がになっている」と部落解放における全解連の役割りを明らかにしました。
 今日、「解同」が 〃新差別者集団〃として、国民的な批判の的になっているもとで、部落解放の最終責任を負うことのできる組織が全解連以外にないことは明らかであり、全解連が部落の多数派として成長するよう期待は高まっています。
 こうした自覚のうえに、「基本方向」で部落問題が解決された状態の指標のひとつとして部落差別にかかわって、部落解放の主体形成は、部落の側から融合の条件をつくりだす重要な意義をもっています。

地域社会と住民自治
 「地域社会」とは、「一定の共通な社会的特色をもった地域的広がり。地域の空間的広がりと同時に、そこに居住する人びとの、他と区別される何らかの共通の特質をもって規程」されます。しかし、「今日の社会においては、地域社会とは、小さな近隣から首都圏などまでに及ぶ多様なものを指す概念となり、その結果、地域的広がりの特質やそこに生活する人びとの特質といっても、雑多な内容を含むものとなって、地域社会という概念そのものが極めて曖昧なもの」となってしまっています。(『社会学小辞典』)
 「基本方向」で言う「地域社会」とは、このような視点も踏まえながら、部落問題との関連から「地域社会」をとらえており、少なくとも居住者が日常的に生活する範囲内をします。なぜなら、生活上での部落内外の融合の進展度をみる場合、そこで生活している人々が「わだかまりなく相互理解」が確立することが重要なポイントとなるからです。そのためには、一方で部落住民自身による「歴史的後進性」を克服していく努力が必要であり、他方で部落外住民にとっても生活の中で部落に対する共感がうみだされる必要があります。また、「非科学的認識や偏見にもとづく言動がその地域社会でうけ入れられない状況がつくりだされる」具体的あり方から言っても、そこに生活する人々の自治と民主主義の力に依拠しているからです。
 自治とは、簡単に言えば「住民や構成員たちの『自由』な『主体的な意思』によって、自治体や団体の運営をおこなうということ」、つまり、自らの意思で決めて統治する形態と言えます。ただ、自らの意思で決める概念の中には、自らの意思で自らの行為を律するところの自律の意味が内包されています。また、統治の中には、これら自立した諸個人が集まり、参加し、同意したもとで、公共領域をも律する基準を定めて運営される必要があります。
 それぞれの「地域社会」の「住民自治」を考えた場合、そのおかれている水準は一様ではありません。
 この水準は概ね三段階にわけることができます。それは、前近代的要素を多分に残した地域、近代的ではあっても民主的な力量が充分でない地域、民主的な力量を兼ねそなえている地域、です。
 具体的には、少なくとも民主的な地域とは、住民が地域づくりに主体的に参加していること、住民の中に連帯意識が芽生えてきていること、諸個人の権利と自由が尊重される社会的雰囲気が形成されていく過程にあること、住民の人格形成にとって地域が積極的な力を発揮できる力量をもつこと、などです。そのためには、憲法の平和的民主的条項を蹂躙するような攻撃とたたかい、「憲法をくらしのなかに生かす」ことです。それは、一人ひとりの住民の心をとらえ、憲法を住民の血とし、肉として民主主義の精神を地域に根付かせることでもあります。
 「基本方向」と関連して「住民自治」を考えた場合、「自治」の問題を二つの視点からみていく必要があります。一つは、部落におけるボス支配や特定団体による住民支配をたち切って、住民が主人公となるための部落の民主化をはかることであり、もう一つは部落を含めた地域社会で自治の水準を引き上げることです。

職業起源説
 部落の人びとが差別されるのは、人がいやがる「いやしい職業」にたずさわっていたからだという考え。この「いやしい仕事」というのは、ケモノを殺したり、皮を剥ぎ、それを加工したりすることですが、もともと原始時代ではケモノをとって生活していたし、古代社会でも肉食が行なわれ、皮革を納める人たちもいましたが、それによって差別されたわけではありません。近世においても、「けがれ」にかかわるはずの猟師が差別されたわけではなく、また皮多のなかにも皮革業にまったく従事していなかった人もいました。皮多の役として牢番や処刑の仕事を領主から課せられた場合もありましたが、それは地域によって異なっており、そのすべてが「いやしい」と思われたかどうかも明らかではありません。むしろ皮多の多くは、農業・漁業・雑業などで生計をたてていたのが実態でしたが、それにもかかわらず「皮多身分」として差別されていたわけです。したがって職業起源説は、歴史的事実にも合わない誤った俗説にすぎません。

心理的差別  
 同和対策審議会答申(1965年)のなかで、「実態的差別」と区別して用いられた用語であり、「心理的差別とは、人々の観念や意識のうちに潜在する差別であるが、それは言語や文字を媒介として顕在化する。たとえば、言葉や文字で封建的身分の賤称をあらわして侮蔑する差別、非合理な偏見や嫌悪の感情によって交際を拒み、婚約を破棄するなどの行動にあらわれる差別である」と述べられています。
 しかし差別とは、何らかの差異を理由に不当かつ直接的・具体的に基本的人権を侵害したり、実害を与えたりする言動です。したがって「部落」を理由にした交際忌避や結婚拒否が差別であることはいうまでもありませんが、「封建的身分の賤称をあらわして侮蔑する」言動は、常識に反する事柄として注意指摘されるものですが、それが直接的・具体的に人権を侵害したり実害を与えるものでないかぎり、差別とはいえません。差別とは実態概念であり、したがってどのような意識や観念をもっていようとも、それは直接的・具体的に人権を侵害したり実害を与えるものではないので差別とはいえず、「心理的差別」という表現は誤っています。
 なお、「心理的差別」という用語が「差別意識」あるいは「差別的偏見」と同じ意味で用いられていることもありますが、差別意識は人間が生まれながらに持っているものではなく、したがって一般的に「人々の観念や意識のうちに潜在」しているなどとはいえません。

基本的人権 
 イギリス革命やフランス革命など反封建のブルジョア革命によってかちとられ、その後イギリスの権利章典(1989年)、フランスの人権宣言(1789年)や憲法(1793年)など各国の憲法でその保障が成文化されてきた諸権利をいいます。基本的人権の内容も、歴史的にみると、当初は生命・財産・思想・信仰・言論・出版・結社の自由などの自由権や参政権などが中心をなしており、市民的権利(ブルジョア的権利)とも呼ばれていましたが、その後、階級闘争が激化するなかで団結権・ストライキ権・労働権・生存権などの社会権をも含むものとなり、社会の発展とともにその内容も拡充されてきています。
 基本的人権は、人間の不断の努力によって、すべての人に平等に保障されなければならないものであり、日本国憲法も、基本的人権を「侵すことのできない永久の権利」として国民にこれを保障しています。しかし現実の資本主義社会においては、労働者・農民その他の勤労国民にとっては、基本的人権は不十分にしか実現されておらず、支配階級は、国民大衆の基本的人権を実質的に制限し抑圧することによって階級支配、搾取・収奪を強めてきています。したがって今日では、基本的人権の実現の程度は、独占資本を中心とする支配階級との闘争の展開にかかっています。

人権問題  
 人権問題とは、人間の不断の努力にょつて、すべての人に平等に保障されなければならない基本的人権の享有とその向上が、何らかの理由によって妨げられたり、あるいは奪われたりすることです。したがって、基本的人権の享有とその向上が、自然的・生得的差異、社会的・後天的差異あるいは人為的な架空の差異を理由に不当に、かつ具体的・直接的・実質的に制限されたり侵害されたりする差別が、人権問題です。しかし差別問題だけが、人権問題ではありません。公害問題、老人問題、環境問題、過労死問題、単身赴任問題など、基本的人権の享有とその向上が政治的、経済的、社会的要因によって妨げられたり制限されたりする問題も、差別問題に劣らず重要な人権問題です。

賎民  
 洋の東西を問わず、階級社会の成立とともに賎視される人びとがでてきます。日本でも2・3世紀には奴碑が存在していたことが知れており、彼らは「奴隷」であり、社会の下層におかれ、賎しめられていました。古代国家が確立し、唐の律令制が取り入れられるにおよんで、賎民制度が成立しました。身分は大きく「良」と「賎」とに分けられ、さらにその内部にさまざまの身分がありました。賎民は「五賎」といって、官戸・陵戸・家人・公奴碑・私奴碑に分けられていました。また良民でも、品部(ともべ・しなべ)や雑戸(ざっこ)は一段低くみられていました。
 古代賎民制はすでに8世紀から動揺をはじめ、10世紀初めには律令制における奴碑身分も廃止されました。中世賎民の出現は、古代賎民制の解体ののちにみられます。系譜的には古代賎民のあとをひく者もいたが、共同体から流出した者、あるいは手工業者の一部も含まれました。これらが平安期にとくに厳しくなった「触穢思想」などの影響をうけ、死や血のけがれに触れるものとして賎視が強くなりました。そうしたなかで下級の芸能者や宗教者を含む中世賎民が生活していました。現在では、このような階層を総称して「非人」とよんでいます。鎌倉末期になると、賎民も分化し、職業や領主関係などによって名称も異なってきました。犬神人・河原者・穢多・きよめ・坂の者・夙の者・声聞師などがそれです。
 中世賎民は厳しい差別をうけたが、身分間の移動がまったく不可能であったわけではありません。ところが近世になると、検地や人別改めが行なわれ、身分によって居住地や職業までもが区別される支配体制が整備され、一般に士農工商といわれる近世身分制のもとで、中世賎民の一部が把握されなおされ、賎民身分として近世身分制の最下層におかれました。近世賎民は大別して「穢多」、「非人」、「その他」に区分されています。
 徳川中期には賎民身分に対する差別はますます厳しくなり、風俗規制や、「穢多狩り」といって原住地をはなれ都市に流れこんだ者を捕らえることさえも行なわれました。穢多・非人が領主の賎民支配の中核になった存在ですが、その他にも雑多な賎民が存在していました。加賀藩の藤内、山陰の「はちや」などは地域的な特色がありまが、茶筅・さいく・夙の者・「はちたたき」などは広範に存在していました。
 明治維新によって近世身分制は廃止され、「賎民解放令」(1871年)も出されて、法律や制度のうえでの差別はなくなりましたが、実質的には賎民身分に対する差別はなくならず、それが近代社会の仕組みのなかで部落差別として残され、大きな解決の条件は第二次世界大戦後をまたなければなりませんでした。

全国部落解放運動連合会(略称「全解連」)  
 部落解放同盟中央本部の反共・部落排外主義路線に反対して解放同盟から排除された府県連によって1970(昭和45)年に結成された部落解放同盟正常化全国連絡会議が、1976(昭和51)年3月に開かれた第5回全国代表者会議の決定にもとづいて発展的に改組し、全国28都府県連からなる全国組織として組織の名称も「全国部落解放運動連合全会」に改めました。
 全解連は、革新統一戦線の一翼として、国民融合論にもとづいて部落差別を一掃し、日本国民としての自由で民主的な結合と連帯を実現するたたかいを積極的に展開するなかで、1987(昭和62)年の第16回大会で綱領的文書「21世紀をめざす部落解放の基本方向」を採択、部落問題が解決された状態と、解決を実現する道すじを科学的に明らかにし、「平和と独立、民主主義と国民生活擁護のための広範な国民運動の一環」として「国民的な協力・共同を前進させる」とともに、「部落解放の最終責任をにないうる主体の形成」の必要性を提起しました。
 さらに全解連は、その後の運動の展開と部落問題解決の到達段階をふまえて、地域改善財特法の期限切れを待つまでもなく、同和対策事業を早期に終結させて一般対策へ移行させ、憲法の保障する暮らし・福祉・教育などの行政水準の充実・引上げを部落内外住民の共通の要求にもとづく共同の運動で実現させていく方針を提起するとともに、1994(平成6)年からは国民へのアピール「日本国憲法をまもり、いまこそ部落問題の解決を」の 300万人署名運動に取り組んでいます。

全国水平社  
 第二次世界大戦前の部落解放運動の全国組織。1922(大正11)年3月3 日、京都市岡崎公会堂に全国から3000余名の部落民を集めて創立大会が開かれました。「水平社」という名称は、差別のない水平社会をめざすという意味をこめて阪本清一郎が発案したといいます。また、17世紀のイギリス革命の際の左派政治集団「レヴェラーズ(水平派)」にならったともいわれています。
 水平社の運動は、ほぼ次の4期に分けることができます。
 第1期(1922〜1925年) この期の運動の特徴は、差別の本質を観念の問題として把握し、そのあらわれである差別的言動に対して徹底的糾弾という戦術で対抗したという点にありました。人間を冒涜するどんなに些細な差別も許さない徹底的糾弾闘争をとおして、部落民自身みずからの人間的自覚を深め、またそれらの抗議行動が、日本社会にあらためて人間平等の課題の重要性を提起した意義は大きいものがあります。この糾弾闘争によって、確かに表面的には差別的言動は少なくなりましたが、それは差別意識そのものが弱められたというより、激烈な水平社の糾弾行動に対する恐怖にもとづくところが大きかったものです。これを打開するため、1923(大正12)年11月、水平社内部の進歩的青年たちは、「全国水平社青年同盟」を結成、機関誌『選民』を刊行して、階級的立場から運動の転換を主張しました。
 第2期(1925〜1931年) 全国水平社第4回大会(1925年5月)に対して、青年同盟は運動方針案に相当する宣言草案を提出した。それによると、従来の差別観念に対する徹底的糾弾を一歩すすめて、「差別の根本組織」にむかって運動を展開しなければならないこと、そのためには労働者階級と提携して政治闘争に進出しなければならないことを力説していました。この草案は、純水平運動を唱える右派、および一切の政治闘争を拒否するアナーキスト一派の反対で保留となりました。しかし、方向転換をもとめる運動の流れは動かしがたく、第5回大会で綱領の一部を改正して、それまでの差別観念に対する徹底的糾弾を運動の一部としてとらえなおし、闘争の主力を差別観念を支える権力機構にむけて政治闘争として発展させていく方向を確立しました。これに対してアナーキストは、第4回大会直後に「全国水平社青年連盟」を結成して対抗し、次いで26年には「全国水平社解放連盟」をつくって組織を割り、また純水平運動を主張する右派も、1927(昭和2)年に「日本水平社」を結成しました。
 第3期(1931〜1937年) 大恐慌を契機に階級闘争が激化し、部落民の階級闘争への組織化がすすみ、身分組織としての水平社の影響が弱められてくると、全国水平社の指導権をにぎる左派は、1931(昭和6)年12月の第10回大会に「全国水平社解消の提議」(水平社解消論)を意見書として提出、水平社内外に大きな反響をまきおこしました。解消派は間もなくその誤りを自己批判して、1933(昭和8)年2月、新たに「部落民委員会活動」(のちに「部落委員会活動」と改称)を提唱しました。それは直接的には「全農全国会議派」の農民委員会活動に学んだもので、水平社に結集した部落民を中心に、部落内諸階層の要求を個々に組織してたたかう大衆闘争の形態で、いわば「多数者獲得」をめざす戦術でした。水平社は、部落大衆のそうした多様な日常的生活要求獲得のたたかいを通して、身分差別の土台をなす「ブルジョア地主的天皇制」にむけて運動を発展させ、反戦・反ファッンョ、民主主義と生活擁護のたたかいの一翼としてつらなっていきました。
 第4期(1937〜1941年) 1937(昭和12)年9月、日中戦争開始2カ月後の拡大中央委員会で戦争協力を表明するとともに、組織的な転向を決定、水平社の民主的伝統は消えました。そして1941(昭和16)年12月、太平洋戦争の勃発とともに施行された「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」で「思想結社」と認定され届け出を義務づけられたが、法定期間のすぎた1942年1月、届け出不提出という形で水平社は消滅しました。

天皇制  
 天皇を最高の権力者とする日本国家のしくみを、ひろく天皇制といいますが、ふつう天皇制という場合には、明治維新によって成立した近代天皇制=絶対主義的天皇制を意味します。天皇制は4〜5世紀頃に成立し、7世紀頃に確立したが、この古代天皇制は10世紀から13〜14世紀にかけて解体します。封建制のもとでは、天皇は実質的には政治的実権をもたず、封建支配者(将軍)の権威をかざる存在として温存・利用されました。明治維新により天皇はふたたび最高の権力者となりましたが、この近代天皇制は絶対主義的性格をもつものとして形成されました。
 明治維新は徹底したブルジョア革命ではなく、封建権力との妥協によって行なわれた政治的変革にすぎず、将軍のかわりに天皇をかつぎ、これに最高・絶対の権力をあたえることによって、中央集権的な統一国家をつくろうとするものでした。その結果、封建的な身分制の撤廃、領主的土地所有の廃止など、いくつかの資本主義的改革も行なわれましたが、寄生地主制という半封建的土地所有をはじめ、さまざまな封建的諸関係が政治・経済・社会のしくみのなかに残され、絶対主義的天皇制をささえる基盤とされるとともに、日本資本主義もまた、こうした絶対主義的天皇制と癒着し、結びつくことによって急速な発展をとげることができたのです。
 明治維新後も部落民に対する封建的身分差別が実質的に残され、その解消が妨げられたのも、こうした第二次世界大戦前の日本資本主義の政治的・経済的・社会的なしくみと密接なかかわりをもっています。第二次世界大戦後、絶対主義的天皇制は解体され、ブルジョア君主制の一種となりましたが、最近では、元号法制化、建国記念日の復活などとあいまって天皇元首化の動きもあり、君が代・日の丸法制化も急浮上するなど天皇制復活の危険性が指摘されています。

革新統一戦線
 統一戦線とは、政治理念や世界観、目的や性格のちがう政党、団体、個人が、それぞれのちがいを持ちながらも、共通の目標を実現するために、共同の意思にもとづいてつくる、共同闘争の組織です。統一戦線のかかげる政治課題と目標、およびその階級的構成は、それぞれの国における革命の性格と段階、階級闘争の条件によってきまります。
 統一戦線の実現には、共同の政策目標(たとえば革新三目標)と、共同の意思の存在を必要な要件とします。統一戦線の破壊を目的とする極左暴力分子を統一戦線の結集から排除するのは当然のことです。このほかに政党や団体の組合わせを優先して政策目標をそれに合せようとしたり、世界観や革命の方法への意見のちがいなどを理由に団結をこぱみ、さまたげたりすることは、統一戦線の結成をまじめに考えようとしていないもののすることです。
 それだけに、統一戦線を発展させるためには、団結を強めるための不断の努力、つまり団結をやぶる傾向への正しい批判、論議がなされる必要があります。また統一戦線の結集にとって最大の障害物となっている、反共主義とのたたかいが重視されます。
 革新統一戦線運動は、1960年の安保闘争、67年の東京都知事選挙の勝利をきっかけとして全国にひろがり、多くの革新自治体を生みだしました。78年3月の共・社両党の党首会談では、国政レベルの統一戦線の結集をめざすとの合意が成立して、革新統一戦線の形成に明るい展望をあたえました。しかし社会党は80年1月、公明党と連合政権の合意をとりかわし、共産党を政権協議の対象としないとの公明党の政治原則を受入れ、同時に安保条約と自衛隊の当面存続をきめるなど、一方的に78年合意を破棄し、革新統一戦線に背を向けました。
 この背信をきっかけにして、革新統一と政治革新という「目標の一致、共同の意思の存在」との運動の原則に立って、80年5月、社会党の支持者をふくむ民主的な人たちと、共産党などのよびかけで「平和・民主主義・革新統一をすすめる全国懇話会」(全国革新懇)が結成されました。今日、革新懇は450万人の団体・個人を結集する一大潮流として大きな役割を果たしつつあります。
 『基本方向』で統一戦線・革新統一戦線の用語のでてくる箇所は、@解同は統一戦線勢力でない、A部落問題の解決は運動が統一戦線の一翼を担うことで可能である、B当面の課題である国民融合の促進、独占資本と反動勢力に対する民主的規制は、民主的な政府によって完全におこなわれるが、その政府を築く革新統一戦線の強化をめざす、となっています。
 なお、革新三目標とは、@日米軍事同盟と手をきり、真に独立した非核、非同盟、中立の日本をめざす、A大資本中心、軍拡優先の政治を打破し、国民のいのちとくらし、教育をまもる政治を実現する、B軍国主義の全面復活・強化、日本型ファシズムの実現に反対し議会の民主的運営と民主主義を確立する、ことです。

同族意識
 本家・分家などの家系譜を同じくする家々(同族団)の間における祖先伝来の家産の共同所有や管理、生活や農業の相互扶助、祖先の共同祭祀などにもとづく集団結合の意識と、その内部における本家・分家間の上下関係の意識のことです。歴史的には前近代的な性格をもつ社会結合の原理です。明治維新後も、農村を中心に同族的な結合や意識が根づよく残されていましたが、第二次世界大戦後は、家父長制的家族制度の解体とも相まって急速に弱まりました。しかし、長い差別の歴史のなかで居住の自由を実質的に制限され、「部落外」との通婚を妨げられてきた部落においては、都市・農村をとわず今日においてもなお一部に、同族的な結合や意識が相対的に強く残存しており、部落民を地区にしばりつけ、地区内の民主化を妨げる要因となっているだけでなく、部落排外主義的な考え方を生みだしやすい温床ともなっています。

同和教育  
 第二次世界大戦前、部落問題の解決にかかわって組織された教育は、「融和教育」と呼ばれていました。「融和教育」は、全国水平社の創立とその運動の発展に対応して支配者側によって発想されたもので、1927(昭和2)〜1928年頃に成立しました。「融和教育」は、1937(昭和12)年の日中全面戦争の開始とそれに伴う戦時体制の急速な確立という事態にファッショ的に変質させられ、文部省『国民同和への道』(1942年)の発刊以降、「同和教育」という名称に変えられた。それは、『同胞一和』の名のもとに部落民を一層徹底して侵略戦争に動員するためでした。
 戦後、日本国憲法と教育基本法にもとづいて部落問題の解決を進めようとした教師たちが、「同和教育」という名称にこだわって「責善教育」(和歌山)、「民主教育」(岡山)、「人権教育」、あるいは「部落解放の教育」などと呼んだのは、こうした歴史的事情が影響していましたが、1953(昭和28)年に全国同和教育研究協議会(全同教)が結成され、全国的に教師の研究運動が発展していくにしたがって「同和教育」という名称が次第に定着していくことになりました。しかし重要なことは名称ではなく、その中身にあります。戦後は、「同和教育」という名称ではあれ、1960(昭和35)年代までに次のような成果をあげてきました。
 第一は、子どもの教育権の実質的な保障に取り組んできたことです。長欠・不就学の子どもをなくし(「教育の機会均等」の保障)、教科書無償の実現に寄与し(教育条件の改善)、低学力の克服を前進させ(学習権の保障)、就職差別反対に取り組んできました(就職時における平等権の保障)。
 第二は、教育内容・方法の民主主義的なあり方を探求してきたことです。子どもの生活と願いを綴らせ、共感と相互理解を育てるという生活綴方教育を重視し、「本当のことを、わかりやすく、生活と結びつけて」教える教科指導、生活と学習の要求を組織する基礎としての集団づくりに取り組んできました。
 第三は、子どもの人権を保障する主体の側の民主主義的なあり方を問題にしてきたことです。基本的人権に関する教職員の理解の意義、教職員集団における民主的な内部規律、学校の自主性の堅持と地域住民との協力のあり方など貴重な経験を蓄積してきました。
 しかし1970(昭和45)年代以降は、部落解放運動の分裂という事態の中から登場してきた「解放教育」や、同和対策事業の展開とともに強化されてきたいわゆる「官制同和教育」によって、事態は複雑に推移することになりました。前者は急進主義的・部落排外主義的な意識変革を中心とした教育実践(子どもの「部落民宣言」など)を、後者は「教育格差」の是正を中心とした教育実践(制度化された地域補習など)を旗印にしています。この二つはいよいよ折衷的に存在し、地域によってはなお根強い影響力を持っています。
 1990年代に入って、部落と「部落の子ども」をめぐる状況はいっそう改善されました。部落にみられる教育課題は、個別地域的・階層的な性格を帯びてきており、全体として同和教育という独自的呼称を必要とする実態的根拠は急速に消滅しています。今日、部落内外の子どもの共通する教育問題の解決を中心に、同和教育の成果の発展的継承が求められています。こうした中で文部省は、「部落の子」を特定する進学状況等調査がプライバシーに関わる問題が多いことを認めざるを得なくなり、調査の照会ができなくなっています。
 96年の地対協「意見具申」が同和教育・同和啓発を人権教育・人権啓発に再構成する方向性を打ち出したことから、政府は「人権教育のための国連10年」に関わる「国内行動計画」の中に差別意識解消のための人権教育を位置づけたり、99年7月の人権擁護推進審議会答申では国家による国民の人権意識をいっそう管理統制する方向を強く打ち出した。

同和行政  
 第二次世界大戦後、特に今日、部落問題は急速に解消の方向にあります。同和行政とは、部落の現実や国民の意識のなかに残存している封建的身分差別の傷あとを早急に取り除くために、一般対策を補完してとられている行政上の特別措置であり、そのような持別措置を必要としない状態を一日も早く実現するためにとられている過渡的・特例的な行政措置です。
 戦後同和行政の歩みをかえりみると、国(政府)、地方自治体、解放運動という三者のかかわりのなかで大きく5期に分けることができます。
 第1期は、1945(昭和20)年の敗戦から1955(昭和30)年までのほぼ10年間で、西日本とりわけ近畿の地方自治体において同和行政への取りくみが若干みられたとはいえ、国政レベルでの部落に対する特別な行政施策の全面的な廃止のもとで、全体としては「戦後同和行政の停滞期」として特徴づけられています。
 第2期は、1955(昭和30)年から1965(昭和40)年までの約10年間で、部落解放運動が革新統一戦線の一翼として大きく前進し、その力量を発揮しはじめるなかで、政府としても同和対策にとりくまざるをえなくなり、部落民の要求にこたえるかのようによそおいながら、懐柔・分裂政策の基礎づくりをすすめていった時期であり、「戦後同和行政の再編期」として特徴づけられます。
 第3期は、1965(昭和40)年から1975(昭和50)年までの時期で、同和対策審議会答申、同和対策事業特別措置法の制定によって同和行政が一定の前進を示し、部落の実態は著しく改善されましたが、他方、部落解放同盟の分裂によっていわゆる「朝田理論」や「窓口一本化」論が登場し、不公正・乱脈な同和行政によって自治体行政全体に大きな矛盾と混乱が生みだされるなかで、あらためて同和行政とは何かが問いなおされた時期であり、「戦後同和行政の波行的前進期」として特徴づけられます。
 第4期は、1975(昭和50)年から1985(昭和60)年までの時期で、単に不公正・乱脈な同和行政を批判し、その是正を求めるだけでなく、国民融合論の立場から真に部落問題の解決に役立つ同和行政のあり方が積極的に提起され、地域改善対策特別措置法の制定・実施を契機に従来の同和対策事業の点検・見直しが強く求められるにいたった時期であり、「公正・民主的な同和行政への転換期」として特徴づけられます。
 第5期は、1985(昭和60)年から今日までの時期で、公正・民主的な同和行政への転換が強く求められ、「特別対策から一般対策への移行のための最終法」として「地域改善財特法」が制定・施行されたのを契機に、同和対策事業の総括と部落問題解決の到達段階をふまえて、同和対策事業を可及的速やかに完了・終結させて一般対策へ移行させ、可能なかぎり一般対策の行政水準を引き上げる方向が、部落解放同盟などの同和対策事業の半永久的な継続実施を求める主張に抗して追求されるにいたった時期であり、「同和行政の終結期」として特徴づけられます。

 同和対策審議会答申(略称「同対審答申」) 
 1960(昭和35)年に総理府の附属機関として設置された同和対策審議会が、内閣総理大臣から受けた「同和地区に関する社会的及び経済的諸問題を解決するための基本方策」についての諮問に対し、1965(昭和40)年8月11日に提出したものです。
 この答申は、日本の同和対策史上、画期的な意義をもつものであり、@部落問題の解決を基本的人権にかかわる民主主義の課題としてとらえていること、A同和行政は「基本的には国の責任」であることを明らかにしていること、B部落差別を意識や観念の問題としてのみとらえる考えを排し、「同和地区住民の生活実態に具現されている差別」=「実態的差別」を認めたこと、C問題解決のためには総合的な対策が必要であるとし、その内容についても具体的に言及し、「特別措置法」の必要性を提言していることなど、多くの点で評価すべき重要な積極的内容をもっており、答申が出されたことによって同和行政は、それ以前にくらべると著しく前進し、部落差別の解消に大きな役割をはたしてきました。
 しかし反面、明治維新後の近・現代における部落問題については、答申における認識はきわめて一面的で、近・現代における部落問題の認識にとって欠くことのできない絶対主義的天皇制、寄生地主制、あるいはまた現代日本の独占資本主義とのかかわりについてはまったく触れられておらず、その結果として、部落問題の解決が戦後日本経済の「高度成長」の延長線上に期待されるかのような幻想があたえられているなど、答申にはいくつかの点で基本的な誤りや欠陥がふくまれています。また今日の部落問題の現状や部落の実態は、答申が出された当時とは著しく変化してきており、したがってそうした変化を無視して、答申の文言を硬直的にとらえることも誤りです。

 同和地区指定  
 同和対策事業特別措置法の第1条は、「歴史的社会的理由により生活環境等の安定向上が阻害されている地域」を「対象地域」とし、その地域における「経済力の培養、住民の生活の安定及び福祉の向上等に寄与する」ことを同和対策事業の目的と定義づけています。そこで各自治体では、この法にもとづく事業を実施するにあたって、この「対象地域」を定める必要があり、これを一般に「同和地区指定」と称しています。「地区指定」の手続としては、まず沿革的にみて「部落」といわれる地域の範囲について、地元の各種団体・個人と行政当局とが協議して「線引き」を行ない、その範囲内の地域の実態調査を実施し、その報告にもとづいて国が「対象地域」と認定することになります。しかし特別対策を実施する対象を確定するための措置であるとはいえ、一定期間以上にわたって「地区指定」を継続するならば、同和地区を周辺地域から法的・行政的に分離・固定化することになり、逆に部落問題の解決を妨げることになりかねない問題を含んでいます。

非人  
 9世紀ごろから罪科人や浮浪者(物乞い)に対する名称としてあらわれたもので、中世賎民の原型ともいわれていますが、その性格など詳しいことは明らかにされていません。古代末期には、農村を離れて都市に移り住み、物乞いをしたりして生活を送る人びとがふえ、鎌倉時代になると非人の集団と組織もできました。奈良の興福寺に属した「奈良坂非人」と京都の清水寺に属した「清水坂非人」を中心に、これを本宿として、畿内とその近くの国の重要な場所に未宿として非人の居住地ができました。それぞれの宿には長吏がいて、非人の集団を支配していました。非人の集団は、それぞれ一定の「場」をもっていて、そのなかで葬送や仏事のときの施しを受けたり、乞食や身体障害者、ハンセン氏病者などを受け入れたり取締ったりしていましたが、その仕事の内容は、所属する領主により、あるいは住む場所によって異なっていました。
 徳川時代になると、他のさまざまな中世賎民とともに非人も、近世封建制のなかでとらえなおされ、強固な賎民身分として近世身分制の最底辺におかれました。しかしこのことは、中世非人がそのまま近世非人になったということではありません。むしろ近世非人が増加するのは、徳川中期以後であった。もちろん近世初期にも京都や大阪などの大都市には非人が集まっていましたので、非人の組織が早くからあったと思われますが、京都の悲田院年寄、大阪・堺の長吏、江戸の非人頭といった非人のかしら支配が、いつごろから生まれたかは明らかではありません。いずれにせよ17世紀の後半以後、飢饉や凶作のたびに土地を失い家を離れて、新しく非人となり、物乞いをしたりして生活を送る人がふえるとともに、彼らを治安上から統制するための組織も強化されました。ゆるぎはじめた近世封建制をたてなおすために、身分支配が強められるなかで、身分秩序を破った者は罪科人としてどんどん非人身分におとされる一方、「えた」とともに非人に対する身分差別もますます露骨になっていったものです。領主によっては、非人に末端警察権をあたえ、分裂支配の手先きとして利用したところもあります。

部落  
 部落とは、近世の封建的身分制の最下位におかれていた賎民のなかで、主としてそのもっとも主要な部分を占めていた「エタ」を直接の先祖とし、近代以後もなお旧身分の残りものに苦しめられてきた人びとが集中的に居住している地域をいいいます。「被差別部落」、「同和地区」、「対象地域」、あるいは単に「部落」といわれることもあります。総務庁の1993(平成6)年調査によると、部落の数は全国で4603地区ですが、世帯数・人口を把握しえた部落の数は4443地区で、同和関係世帯数は約30万世帯(地区全体は約74万世帯)、同和関係人口は約89万人(地区全体は約216万人)となっており、部落の数は特に近畿、中国などの西日本に多いものです。部落の居住環境や生活実態は、旧身分の残りものともかかわって極めて劣悪な状態におかれていましたが、1969(昭和44)年以来、同和対策事業特別措置法、地域改善対策特別措置法および地域改善財特法にもとづいて行政上の特別措置がとられ、同和行政が以前とは比較にならないほど大きく前進した結果、今日では基本的にそうした劣悪な状態、部落内外の格差はほとんど解消されてきています。

部落排外主義 
 部落排外主義とは、封建的身分差別の圧迫に反対する部落民の要求を感情的・自然発生的にとらえ、部落民以外の国民と部落民とを「差別者対被差別者」という超階級的関係として対置させ、部落民以外の国民に対する部落民の憎悪や反目をあおりたてて運動をすすめようとする考え方をいいいます。部落排外主義の特徴は、次の諸点にあります。
 第一には、部落民を身分差別の側面だけから一括してとらえることによって、部落民が同時に基本的には労働者、農・漁民あるいは勤労市民として、部落民以外の者と共通の階級的な要求や利害をもっており、そこに部落内外の階級的連帯があることを否定し、革新統一と団結を妨げ破壊します。第二には、部落問題を階級的観点からではなく、「部落対一般」という極めて観念的、超階級的観点からとらえ、部落民以外の国民を「差別者」として敵視することによって、部落内外を問わず国民の生活と権利を抑圧・侵害する元凶として立ちはだかっているものが、現代日本の独占資本であり、その分裂支配政策が部落問題の解決を妨げていることを隠蔽しています。第三には、部落民の要求や利害を国民大衆の要求や利害から切り離してセクト的に、しかも優先的に取りあげる部落第一主義的な偏向におちいりやすく、部落問題の解決どころか、逆に差別を強めることになります。
 以上から明らかなように部落排外主義は、現代日本の独占資本と反動権力に
よる国民全体に対する分裂支配政策に奉仕する反動的な思想であるといえます。

部落民、部落住民 
 部落民とは、近世の封建的身分制の最下位におかれた賎民のなかで、その主要な部分を占めていたえた身分に属していたという理由で、明治維新後も経済的・社会的・文化的に低位な生活を余儀なくされるなど、封建的身分差別の残りものに苦しめられてきた人びとのことをいいます。今日、部落民と部落住民とは、特に区別されずに用いられていることも多くありますが、しかし厳密には、部落民とは、旧身分とのかかわりを問題にした属人主義的系譜的な規定であるのに対し、部落住民とは、旧身分にかかわりなく現に部落に居住している人びとを意味する属地主義的な規定です。しかし部落民はもとより部落住民という用語も、部落問題解決の進展にともなって、すでに歴史的にしか意味をもたないものになってきています。

部落問題
 「同和問題」ともいわれます。部落問題とは、部落民に対する封建的身分差別の残りものがいまだに一部に残存しており、その傷あとが部落の現実のなかに残され、国民の意識のなかにも一部偏見が克服されずにあるという問題です。したがって、部落民を封建的身分差別の残りものから完全に解放することが、部落解放の課題ですが、そもそも身分制とか身分差別は、前近代社会とりわけ封建社会の属性であって、市民社会=資本主義社会の成立・発展にとってはむしろ妨げになるものですから、封建的身分差別からの解放という課題は、本来的にはブルジョア民主主義の課題です。
 ところが日本の明治維新は、封建権力との妥協によって行なわれた変革によるため、寄生地主制という半封建的な土地所有制度をはじめ家父長制的家族制度など、さまざまな封建的諸関係が政治、経済、社会のしくみのなかに残され、絶対主義的天皇制をささえる基盤とされるとともに、日本資本主義もまた、こうした絶対主義的天皇制と癒着し、結びつくことによって急速な発展をとげることができたわけです。こうした日本資本主義社会の経済的、政治的、社会的なしくみが、明治維新後も部落民に対する封建的な身分差別を残存せしめ、それをささえる社会的・物質的基礎をなしていたため、部落問題の解決が困難ならしめられていたのです。
 しかし第二次世界大戦後は、新しい憲法の制定にともなってさまざまな民主的改革が行なわれ、日本の政治、経済、社会、教育などの仕組みは大きく変化しただけでなく、部落解放運動はもとより労働運動、農民運動、青年運動、女性運動など、さまざまな民主的な運動が戦前とは比較にならぬほど大きく前進してきました。その結果、日本の社会のなかに、あるいは国民の生活や意識のなかに残存していた前近代的なもの、封建的なものは急速に取りのぞかれてきました。とりわけ絶対主義的天皇制、寄生地主制および家父長制的家族制度が基本的に解体されたことは、部落差別を残し支えてきた半封建的な基礎がなくなったことを意味しており、部落差別もまた急速に解消の方向をたどってきました。
 しかし部落民に対する身分差別は、単なる傷あととしてのみ、つまり放置しておいても時の流れにつれて解消していく傷あととしてのみ存在しているのではありません。第二次世界大戦後、部落差別が急速に解消の方向をたどってきているのも、その原動力は、戦後日本社会の変化を部落問題の解決にとって有利な条件として生かし、自由と民主主義を守り発展させるたたかいの前進、つまり部落内外の国民大衆の民主的自覚と主体的な力量の成長にあることは言うまでもありません。ところが現代日本の独占資本と反動権力は、こうした国民大衆の民主的なたたかいの高まりの前に、国民全体に対する差別的な分裂支配政策をますます強めるとともに、残存するさまざまな形態の差別を利用し、あるいはまた新たな差別を作りだしながら、「解同」問題を利用しながら基本的人権をふみにじり、民主主義を破壊する策動を強めてきています。
 現代日本の独占資本は、「解同」問題を分裂支配政策に利用しているとはいっても、部落差別問題は、戦前の日本資本主義とは異なり、前近代的・封建的なものと癒着し、それに依存しなければならない必然性や必要性を構造的にはもっておらず、独自の力で階級支配、階級的な搾取・収奪を貫徹することができます。また、すでに述べたように、部落解放の課題とは、封建的身分差別からの解放という本来的にはブルジョア民主主義の課題であり、資本主義的な搾取・収奪からの解放ではありません。したがって、独占資本の横暴な専制的支配に対し、自由と民主主義を守り発展させる運動を拡大・強化させていくならば、部落問題の解決は資本主義の枠内でも実現させることができます。

民主主義の確立
 わが国においては、民主主義が制度とか、手続きとか、方法とかで理解されがちです。この原因には、支配階級からの意識的な民主主義の矮小化があるからですが、ただそれだけでなく、わが国における民主主義の歴史の浅さとも結びつき、国民の中に、このような理解が形成される弱さがあります。
 民主主義は、本来的には政治制度に関する用語ですが、政治思想(主権は人民のものであり、人民のものでなければならない)を表す語として用いられ、また、社会生活や人間関係にかかわるルール(多数決など)や価値意識(たとえば独立・自由・平等の意識)をこの語によって言い表すこともあります。
 民主主義には、「たたかいとしての民主主義」「制度としての民主主義」「思想としての民主主義」の三つの側面があると説明されることもあります。
 「たたかいとしての民主主義」は、民主主義の原点であり、核心をなし、「制度としての民主主義」は、人民のたたかいによって獲得された成果であり、所産をなし、同時に、それは「たたかいとしての民主主義」の武器となります。「思想としての民主主義」は、人民のたたかいの中で自覚化され、人民のたたかいをつうじて形成され、同時に、それは人民のたたかいを導き、たたかう人民の心を支え、人民のたたかいを思想的に根拠づけるものです。したがって「制度としての民主主義」の思想的前提ともなります。
 なお、「方法・手続きとしての民主主義」は、「自由な選挙」「多数決」「小数意見の尊重」そしてなによりも「言論の自由」と、「暴力の否定」が原則です。
 「基本方向」でいう「民主主義が感情や感覚、そして生活文化として確立」するとは、前述の「思想としての民主主義」の問題と深く結合しています。「一般に、人間が制度をつくり、また制度が人間をつくるといわれる。そうであるなら、民主的人間主体が民主的制度をつくり、民主的制度が民主的人間主体をつくる」という制度と思想・文化の相関関係を正しく理解する必要があります。
 部落にたいする偏見を克服していくには、「思想としての民主主義」の確立を土台とし、「民主主義が国民道徳、市民道徳としても確立し、民主的な社会秩序が自覚的に形成されること」であり、生活レベルで民主主義が日常化し、国民一人ひとりの血となり、肉となっていくことです。ただ、部落問題を解決していく上での「思想としての民主主義」という場合、前近代的、封建的な意識の克服が、この問題では射程内にあるのであり、具体的には戦後民主主義の定着、前進ということになります。すなわち、現憲法の平和的民主的条項の形骸化、空洞化に反対し、基本的人権などの条項の実質化、内実化をめざすなかで、これを十分会得した人間および社会の創造が求められます。

大和会
 第二次世界大戦の戦時体制のもとで結成された部落解放運動の結社。1939(昭和14)年2月、旧全国水平社左派ですでに転向していた北原泰作、野崎清二と融和団体の「進歩的分子」山本政夫、成沢英雄らは、軍部の「新東亜建設」と連動した部落を基礎とする国民運動をおこそうとしたが、間もなく運動のすすめ方をめぐって対立、北原らは脱会した。山本らはその後全国水平社本部に近づき、1940(昭和15)年11月、水平社とともに大和報国運動を推進していきます。大和報国運動は翌1941年8月に名称を大和報国会と改め、大日本興亜同盟に加盟し、大政翼賛会の運動と一体となり、部落民を戦争に動員する推進力となっていきました。

封建遺制  
 封建社会の制度や慣習・意識でありながら資本主義社会のなかに残存しているもの。資本家階級は、その階級支配と搾取・収奪を補強・強化するために有利な場合には、封建的なものを温存・利用します。しかし温存・利用とはいっても、第二次世界大戦前の日本資本主義におけるように寄生地主制や絶対主義天皇制などの封建的なものと癒着し、それを温存・利用しなければならない必要性を構造的にもっている場合と、戦後の日本資本主義におけるように、そのような必要性を構造的にはもっていないが、階級支配や搾取・収奪に役立つかぎり封建的な残存物を利用するという場合があります。

封建制(社会) 
 奴隷制社会の解体につづいて成立し、資本主義社会に先行する社会。封建社会においては、農業を中心とする自給自足的な経済が支配的でしたが、土地は領主の所有に属し、基本的生産者である農民は領主に人身的に隷属し、領主から分与された土地にしばりつけられ、その土地を耕作して得た生産物のなかから剰余に相当する部分をすべて年貢として領主にしぼりとられただけでなく、領主のための賦役をはじめ多くの強制を課せられてい

身分(制) 
 古代ローマの貴族・騎士・平民・奴隷、中世ヨーロッパの僧侶・貴族・騎士・農奴、インドのカーストのように、奴隷制社会や封建社会の秩序を維持するために人為的・政策的に固定化された社会的地位のこと。日本の封建的身分制は、豊臣秀吉が、兵農分離・刀狩りによって支配階級たる武士と被支配階級たる農工商との身分を分離したのにはじまり、江戸時代に入ると士・農・工・商の間の身分の違いはいっそう厳格なものになりまた。それぞれの身分がさらに細かな身分に分けられ、最下級身分として「えた・非人」がおかれました。
 この封建的身分制のもとでは、社会的地位や職業・財産などは原則として父系親族体系にもとづいて相続・世襲されることから、人びとは生まれながらにして出自と家柄によって社会的身分が決定されます。そればかりではなく、居住区域・家屋様式・髪形・服装・職業・言語様式・教育などすべての生活様式や文化にわたっても、厳しい身分による差異が設けられました。これらの生活様式や文化の差異は、日常の社会関係において身分の違いを目にみえる形で表示し識別しうる標識として、身分制の維持のために重要な意味をもっていました。また身分社会においては、親族体系が地位の相続や世襲に関して重要な意味をもつために、結婚についても異なる身分間の通婚は規制されました。
 明治維新後、「四民平等」がとなえられ、封建的な身分制度は廃止されましたが、新たに天皇制国家のもとで皇族・華族・士族・平民という身分が法制的に再編成され、出目や家柄を尊重し、それによって人びとを差別する前近代的な価値観や慣習も根強く残存しました。

民主主義(デモクラシー) 
 人民主権を基本とする政治形態、おょび構成員の自由で平等な意思決定への参加が十分に保障されている組織のあり方や、その実現をめざす思想・運動のこと。語源はギリシャ語のデモクラティア(人民の支配)ですが、古代ギリシャの民主主義は奴隷制の基礎のうえに成立したもので、大きな限界をもつものでした。
 これに対し近代民主主義は、イギリス革命やフランス革命など反封建のブルジョア革命を通じて追求・実現された人間の自由と平等、人民主権、基本的人権、生存権、革命権などの保障を基本原理とする思想および政治制度をいいます。しかし近代民主主義の思想と政治制度も、搾取の自由や私有財産の不可侵を絶対視するなど資本主義の枠内での民主主義であり、その実現はブルジョアジーの支配に役だつ範囲内に限られています。したがってその限界を克服し、民主主義を完全に実現するためには、反動権力と独占資本とのたたかいを発展させることが重要な課題となっています。

部落問題が解決された状態
 第一の解決は、周辺地域と比べて部落の生活・住宅環境、教育、就労などの分野にみられる格差を是正し、平均的な水準にすることです。
 @平均的水準とは、失業者や不安定就労者、生活保護者などが皆無になるのでなく、周辺地域とほぼ同一の状況になることを意味します。
 A格差是正を目的にした特別対策は、「事業の実施の緊要性等に応じて講じられるものであり、状況が整えばできる限り早期に一般対策へ移行する」(地対協意見具申)ことです。
 B部落が平均的水準になれば、その後の住民の暮らし、福祉、教育などの一般対策にかかわる水準引き上げの課題は、部落内外住民の共通要求にもとづく共同の運動で実現をはかっていくことです。
 C一部の地域にみられるように、平均的水準になったにもかかわらず、部落だけを手厚く保護すれば逆差別現象が生まれ、これは部落問題解決に逆行することになります。
 第二の解決は、部落に対する誤った認識や偏見が国民の間で一人もなくなることではありません。仮に不幸にして部落に対する誤った認識や偏見から差別事象が起きても、それを受け入れられない地域社会の民主主義の力量が形成されることです。
 @かつての部落解放運動では、運動のスローガンとして「部落差別の根絶」といわれました。しかし部落に対する差別事象は、その地域社会の住民の自主的な取り組みと民主主義的な解決能力の向上により、いたって漸進的に死滅していく姿をとります。
 A部落問題は、我が国における社会問題の一つです。社会問題は、その発生の根拠からして一定の広がりをもったなんらかの集団や階層に共通の運命として体験されます。社会問題は、私的次元の問題でなく、歴史的位置や社会構造と関連づけてそのメカニズムを解明しその解決方法が探求されます。現在の部落問題は、歴史的位置や社会構造との関連からみて最終段階に至っており、以前のような社会問題としての性格を薄めてきています。
 B「解同」の「確認・糾弾行為」は、大なり小なり物理的圧迫をともったものであり、相手の人権を侵害し、私的制裁の以外の何ものでもなく、違法性を構造的に持った行為です。このような「確認・糾弾行為」は、国民の間で部落に対する新たな意識を形成させ、部落問題解決に逆行する行為であり、これを社会的に排除していくことが必要になっています。
 第三の解決は、部落住民は長年にわたり差別の垣根と非人間的な貧困を強いられてきた結果、その生活習慣や生活態度にはさまざまな問題状況がみれらることから、これを主体的に克服する必要性があります。
 @生活習慣、生活態度にみられる問題状況は、かつて部落住民の多くが貧困による人間としての最低限度の生活水準が確保できないことからもたらされる人間発達や人格上のゆがみによる文化状況の傷あとと、旧身分を理由にした差別と偏見による部落と部落外の障壁が長年にわたり部落住民に閉鎖的生活を強いてきたもとでの文化状況です。
 Aこの問題状況は、部落問題解決が最終段階に到達しているもとで、すべての部落と部落住民に残存しているわけでなく、その部落が歴史的に文化や教育問題に関心をもち、自立意識を高めるために努力したところと、そうでないところとでは大きな違いが生まれています。
 B「解同」は、この全解連の主張をとらえて、部落差別の原因を部落住民に転嫁していると攻撃をしたりしています。しかし、こうした状況を自主的主体的に克服しない限り、部落問題の解決を実現することは出来ません。
 Cこの問題状況を克服するには、部落の民主化、部落内外の運動の展開、教育・文化の独自の取り組み、生活意識のゆがみを克服し、自立への営みが大切です。全解連は、「基本方向」の中で、「部落解放を担いうる主体の形成」とかかわって、市民的道徳や社会的常識の育成、民主的な生活規律の確立と堅実で計画的な生活設計、現代の社会的労働に従事するために必要な社会的・職業的な資質・能力の滴養(かんよう)、近代的・民主的な市民社会の一員としての自立、遅れた同族意識の克服と部落内部の民主化が強調されています。
 第四の解決は、部落内外を分け隔ててきた身分的障壁を取り払い、生活のあらゆる分野で部落内外の自由な社会的交流が進展し、融合・連帯を実現することです。
 @この連帯・融合の実現は、前述した三つの指標と絡み合いながら前進し、部落内外の自由な社会的交流の進展が、部落に対する遅れた意識や偏見を除去し、また部落住民の生活態度や生活習慣にみられる問題状況の克服を促進させていきます。
 A行政上の特別対策は、これを「解同」が主張するように永続化させれば、部落を周辺地域から法的、行政的に隔離・分離して固定化することになり、部落内外の社会的交流、融合・連帯を促進させるどころか、逆に部落問題の解決を妨げることになります。一日も早く行政上の特別扱いや分け隔ての行政措置をなくすることが、自由な社会的交流を実現させていく大切な条件になっています。
 B部落住民には、部落外住民との間で旧身分をめぐるわだかまり状況において、落差がみられます。このわだかまりは、部落外住民が相手の人が同和地区の人とわかっても同じようにつきあいという人が圧倒的に多いにもかかわらず、部落住民では相手が自分のことを部落住民と知ったら避けるようになると考える人が多く、被害者意識が濃厚に残存しています。

4、四つの指標と民主的規制
 この部落問題解決の四つの指標の提起は、この指標の実現こそ部落解放運動の課題であり、それを実現していく上で何が障害物になっており、どのような政策や行動と対決していかなければならないかを鮮明にさせました。そのことは、独占資本と反動権力の反民主主義的な政策や行動を国民の立場から規制し、人権と民主主義を守り発展させるたたかいを前進させていくならば、部落問題の解決は資本主義の枠内でも達成できる民主主義の課題であることが、ますます明らかにさせました。

封建的身分制と封建的賎民身分
 近代以前、つまり資本主義以前の社会では、階級と階級との関係=階級関係は、かならず身分関係として現れます。たとえば江戸時代の封建制では、支配階級は幕府・藩の武士階級であり、支配される階級の中心は農民でした。農民からは五公五民という年貢がしぼり取られました。
 しかし、この階級関係は身分という外皮をかぶって、武士身分と百姓身分という身分の関係となって現れました。支配される身分は農民=百姓の外に、町人(商工)などがいました。どうして人々は、こうした身分に所属しないと生きてゆけなかったのか。
 封建社会は、自給自足の経済が支配した時代です。低い生産力の下で、人々はいずれかの身分に属さなければ生きては行けませんでした。たとえば百姓の場合、それぞれの村の百姓どうしの結びつきのなかでしか働くことは出来ませんでした。共同の労働や農業に必要な水や山の利用などは、村の管理下にあったからです。町人(職人・商人)の場合は、町の結びつきのなかで生きなければならなかったのです。
 江戸幕府は、こうした身分を政治的に編成して、身分制度に作り上げました。武士を支配身分とし、農工商を支配される身分としたわけです。これが封建的身分制度です。
 百姓や町人がつくる、村や町の百姓・町人どおしのかたい結びつきは、それ以外の人々(よそ者)を排除するものでした。そしてとくに、その排除の対象となったのが賎民身分です。これらの人々が賎民とされたのは、生活上の必要から、けがれたといわれる仕事に従事したからで、仏教の考えがこうしたけがれの観念を強めていきました。死んだ牛馬の皮をはぐ仕事をする人々は、えたと、都市で乞食をする人を非人、その他の賎民(「雑賎民」という)の三つに賎民は分れていました。これらの賎民は集団を作って生活していました。これが賎民身分です。これらのうち、もっとも人数が多かったのがえた身分で、主に農村に任み、農業に従事する人も多く、職業はいろいろでしたが、えた身分の特徴は、この身分が死牛馬の処理をおこなうことでした。牛馬が倒れると、皮をはいで、これを同じえた身分の皮革加工業者に売りました。農業をしていれば、年貢を幕府・藩に出さなければならない。この年貢は、本村とよばれる、えた村の隣村といっしょに出すことになっていました。また幕府などの命令は、本村の名主・庄屋から伝えられることになっていました。
 幕府は、こうした賎民を農工商の下におく賎民制度にしばりつけました。それは百姓や町人に、自分らより下の者がいるという分裂政策の役割を果しました。えたや非人は、最下級の警察(罪人の処刑、牢の番人など)の役目をさせられ、それがまた百姓、町人との反目をあおりました。これが封建的賎民制です。 
 以上のように、封建的賎民身分の問題は、封建的身分制全体のなかで理解しなければなりません。そして幕府による身分制度の完成の後には、実際に百姓・町人・賎民といった身分が存在していました。だから幕府が法律で身分ちがいの結婚を禁止しなくても、身分と身分との間の壁は大きいものがあり、交流や縁談などは例外的にしか起こらなかったといえます。
 このように考えると、「常識」のようにされている賎民身分が幕府や藩によって作られたという説(「政治起源説」)の誤りは明白だと考えられます。なるほど身分制度は政治権力によって作られました。しかしそのことはある人々をかってに賎民におとしたというものではありません。身分は社会発展の一定の段階で生みだされ、これを封建権力が制度化した、とするのが正しい理解であろうと考えます。

独占資本 
 経済制度としての独占資本主義(帝国主義)をしめす場合と支配層としての独占ブルジョアジーや独占体や複数の独占大企業を意味する場合など多義的に使用されている用語。「現在、日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義とそれに従属的に同盟している日本の独占資本である」という場合は、アメリカ帝国主義とともに日本人民を搾取し抑圧する反動的支配層を意味します。また独占資本にたいする民主的規制という場合は、独占体を意味します。その他、独占資本による農用地の買い占めなどというように、複数の独占企業(大企業)を意味する場合もあります。なお、この用語は、資本主義の独占段階での典型的な資本として金融資本と同義に使われる場合もあります。

民主的規制(大企業の)
 強大な資本力をもち社会的存在となった大企業、独占資本にたいして、国民生活をまもり、国民経済の安定的発展をすすめるうえで必要な社会的責任をはたさせること。その1つの側面は、個々の大企業による労働者、中小企業の権利蹂躙(じゅうりん)や、公害発生、土地投機、政財官癒着による汚職・腐敗など反社会的行為をきびしくおさえることです。もう1つの側面は、大企業の際限ない利潤追求の事業活動が、全体として経済に大きなゆがみをつくり、国民生活に被害をおよぼすことにたいし、社会的規制をくわえることです。大企業の民主的規制は、民主的改革や民主主義革命において重要な意義をもちます。日本の発達した国家独占資本主義のもとで形成されている、大企業本位の国家の経済にたいする介入の体系の形態をひきついで、国民本位の目的に活用することによって、大企業にたいする民主的規制をおこなうことができます。それを真に実現し保障するためには、広範な国民のたたかいとむすびついた民主的な政府や民主的権力の樹立が必要です。

帝国主義 
 他民族や他国家を侵略し抑圧する志向と行動をしめす用語として、歴史的には古代ローマの帝国主義など多様な形であらわれましたが、今日重要なのは、資本主義の最後の段階としての帝国主義です。レーニンは、「帝国主義と社会主義の分裂」(1916年)で、帝国主義とは資本主義の特殊な段階であり、@独占資本主義、A寄生的な腐朽しつつある資本主義 B死滅しつつある資本主義であると定義しました。
 (独占資本主義)
 帝国主義は、その経済的本質からすれば独占資本主義であり、その特徴はつぎの諸点にあります。(1)生産の集積が、経済生活の決定的な役割を演ずる独占体をつくりだすほどに高い段階に達したこと、(2)大銀行が独占的地位を占め、独占的銀行と独占的産業とが融合して金融資本となり、それを基礎に金融寡頭制がつくりだされたこと、(3)自由競争の資本主義では商品輸出が典型的であったが、独占が支配している資本主義のもとでは資本輸出が典型的になったこと、(4)資本家の独占団体が形成されて世界を分割し、資本の力に応じた再分割がおこなわれていること、(5)最大の資本主義列強による地球の領土的分割が完了し、軍事的・政治的・経済的力関係に応じた再分割(今日では新植民地主義的な勢力圏の分割)がおこなわれていること。
 (寄生的な腐朽しつつある資本主義)
 帝国主義は奇生的な腐朽しつつある資本主義です。技術の独占は技術進歩を阻止する経済的可能性を生みますが、独占は自由競争を排除せず、自由競争とならんで存在するので、腐朽の傾向は、技術改善の採用、個々の産業部門、個々の国、個々の時期において資本主義の急速な発展をはばむことはできません。独占と資本輸出は、非生産的な分野を大きくし、金利生活者を増大させ、金利生活者国家をつくりだします。資本輸出は、自乗された寄生性です。帝国主義は植民地や従属国の搾取、自国の広範
な人民の搾取と収奪による超過利潤によって労働者階級のひとにぎりの上層部を買収し、労働貴族や労働官僚を育成して労働運動内の日和見主義を培養します。あらゆる面での政治反動、軍国主義の増大、戦争の頻発、高度に発達した工業国をもふくむ他民族抑圧・併合(覇権主義)への志向は、帝国主義の政治的特徴です。同時に、民主主義を否定し、民族自決権と平和をおびやかす帝国主義にたいして、広範な大衆の民主主義、民族解放、反戦平和をもとめる要求が強まり、帝国主義との敵対を激化させます。
 (死滅しつつある資本主義)
 歴史的段階として長期的にみれば、帝国主義は死滅しつつある資本主義です。帝国主義のもとでの政治の反動化と政治的経済的不均等発展(不均等発展の法則)は、帝国主義間の植民地内分割闘争を激化させ、帝国主義戦争をさげられないものとし、一国による社会主義革命の可能性を生みだしました。第1次世界大戦のさなかに勝利したロシアの十月社会主義革命は、民主主義と民族解放をめざす運動、各国共産党による労働運動の前進に大きな影響をあたえました。第2次世界大戦後、これらの運動は一進一退はあっても全体としていっそう前進しました。君主制の国は減少し、共和制の国が圧倒的多数を占めるにいたり、植民地がつぎつぎと独立して旧植民地体制は崩壊しました。レーニンの時代と異なり、世界各国の平和民主勢力が強大となった今日の世界情勢のもとでは、世界戦争の不可避性はなくなり、世界戦争阻止の可能性が生まれました。
 第2次世界大戦後の今日、帝国主義には新しい特徴があらわれています。すなわち国家独占資本主義の発展、アメリカを中心とした国際的な帝国主義体制の形成・再編、高度に発達した資本主義国の対米従属、新植民地主義の展開、資本の国際化、とくに巨大な多国籍企業の活動、ソ連崩壊後唯一の超大国となったアメリカ帝国主義の核戦略にもとづく世界戦略などです。
 帝国主義の段階では、生産の社会化が急速にすすみ、資本主義の基本矛盾がいっそう激化します。それは今日、@世界の資本主義諸国が、国家独占資本主義の機構と「国際協調」とによって恐慌防止のあらゆる万策をつくしながらも失業や恐慌をふせぐことができないでいること、A金融資本の利潤追求を最大の動機とした新旧植民地主義が生みだした世界の政治と経済の重要問題である南北問題、飢餓問題が、解決されるどころか、いっそう深刻化していること、B原子力が金融資本の利潤追求の手段とされ、核兵器の存在と核戦争の危険、安全無視の原子力発電による原発事故を生みだし、また主として多国籍企業による地球環境破壊が重大問題になるなど、科学技術と生産力の発展を人間が正しく制御する問題でも、資本主義制度の克服がせまられていることなど、日本と世界の無数の事実は、帝国主義の段階にある資本主義が死滅しつつある資本主義であることをしめしています。日本をふくめてそれぞれの国での社会主義社会への移行の道すじや形態は多様であっても、資本主義の基本矛盾の解決、社会主義への移行は不可避です。

平等

 すべての人間は人間として共通な性質をもっており、相互に差別されないという観念および社会的実態のこと。平等は歴史的社会的なものである。原始共同体ではその成員は相互に平等であったが、奴隷制社会、封建制社会になると、階級的不平等が一般的となった。そのなかで、人間の平等という思想もごくわずかだが生まれた。

 近代の平等は、すべての人間、少なくとも1国家のすべての成員の政治的、社会的な平等の権利を要求する。フフンス革命は「自由・平等・友愛」をスローガンとしておこなわれ、その人権宣言(一七八九年)は、封建領主の特権を否定し、法の下の平等をうたうという積極的な意義をもった。しかしそこでの平等は、商品の所有者としてのたがいの平等な所有権の承認にとどまり、経済をはじめその他の分野での実質的な平等を意味しなかった。

 真に平等な社会は、搾取による階級的差別が基本的になくなり、諸個人の肉体的精神的な優劣などによる不平等という精神労働と肉体労働の対立や差異の消滅、諸個人の全面的な発達、生産力の飛躍的増大などによって実現する。