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二月に入り、底冷えする寒さが身に染みるようになったけれど、比例して夜空が一層奇麗になった。 武州では冬だろうが夏だろうが、星はよく見えた。初めて江戸に出てきた時には、 あれおかしいなァ満月なのにこんなに暗い、なんて感じたものだった。 江戸では星があまり見えない。 それは空気が汚れているせいなんだと昔斬った先輩隊士が言っていた。 屯所の広い庭に面した縁側に腰掛けて、足なんかをぶらぶらさせながら沖田は、 何とはなしに、ただぼけっと星を見ていた。 縁側の床は当然ものすごく冷たいし、気温だってものすごく低い。 総悟の着ている寝巻きは隊服や道場着よりは随分と暖かかったけれど、 袷から裾から夜風が入り込んで沖田の体をじわじわと冷やしていった。 呼吸をする度に空気が白く色づく。沖田の蜂蜜のような色をした頭は、空を見上げたまま 動かない。 もっと早くに眠るつもりだった。いつもなら風呂の後そのまま布団に入ってしまえば すぐに眠れるのに、今日に限ってなかなか寝付けなかった。 羊の数を数えたって逆に脳が働いてしまって眠れない。憎き上司の死体の数を数えたって同じだ。 草木も眠る丑三つ時、もちろん灯りの点いている部屋はない。沖田の部屋も、 もう一度灯りを点けるのが煩わしくて真っ暗だし、ついさっきまで明るかった廊下の 一番奥の部屋も今はもう灯りが消えている。 辺りは真っ暗闇だ。昔、満月なのに暗いと思っていた江戸の夜は、今では星明りが眩しくさえ思われる。 明るい夜は逆に不安なのだ。きっとこんな仕事をしているせいだと思う。 人斬りも暗殺もやった。それだから夜が明るいと、自分の明るい茶髪が闇に浮いてしまうから 不安になる。 ひたひたと廊下を裸足で歩く足音が聞こえてきた。こんな時間に出歩くのは、 監察方か夜勤の隊士か、もしくは昼間も忙しいくせに夜中まで仕事をしている 隊内で最も忙しいと言われる副長か、そんな所だ。 たまに夜更かしをすると大体山崎とか島田とか監察に会うけれど、今日のこの足音の主は きっと土方だ。 昼過ぎに江戸城近くで攘夷志士との斬り合いがあり、 その上ターミナル付近で小規模テロがあった。事件の事後処理は副長の仕事だ。 江戸城での事件はちょうど巡回中の一番隊が出くわして大体沖田が一人で片付けた。 ターミナルには屯所から三番隊と、他に見廻組が直行したらしい。 土方は今日一日であちらこちらをせわしなく回った。 局長は局長で、近頃高杉一派の動きが不穏だとかで朝から警視庁の重要会議に出席している。 今日の夕飯時はどうも上座が寂しかった。 一番隊が関わった事件は大した事がなかった。攘夷志士と言っても冠しているだけに 過ぎない様なもので、簡単にいえば単なるやくざ者だった。 どちらかと言えばターミナルでの事件の方が規模の割りに重要であるらしく、 一番隊はすぐに解放されたのに対して、三番隊は随分遅くまで帰ってこなかった。 やっとの事で屯所へ戻ってきたのは皆が夕飯を終えた頃だ。 山崎の姿もあったから監察の仕事も終わったらしかった。 何が大変って見廻組との応対が一番大変で、なんて山崎が零していた。 そんな事があったから今日は昼間からずっと屯所内も浮き足立っていた。 それだから眠れないのかもしれないと沖田は思ったけれど、人を斬ったのは 別にこれが初めてではない。刀で骨肉を断つ感触にはもうとうに慣れた。 事件が起こると一番大変なのは土方だ。 普段の睡眠時間も碌な物じゃないのにこんな時間まで仕事するなんて頭がおかしいと 沖田は思う。 土方の髪は闇に溶け易い。召し物も黒いから随分近くまで寄らないと形がはっきり見えない。 顔の他には着物からはみ出してる手足しか色として目に飛び込んでこないから、 怖がりの隊士であったら幽霊みたいに思うかもしれない。 「あァやっぱり土方さんだ。こんな時間までお仕事ですかィ」 土方は真夜中だというのに懐から煙草を取り出しているところだった。 自分の行く道の途中に誰かがいるのはわかっていたけれど、 沖田だとは気付いていなかったようだった。なんだ総悟か、といって煙草を一本銜えた。 それを見た沖田が驚いて「こんな時間に信じらんねえ」と言ったけれど、気にせず 火を付けた。ライターの火の灯りが土方の顔をよく照らして、 色白で役者顔――なんて評判の顔がよく見えた。たまに歌舞伎町なんかへ行くと 女はそう言って土方に騒ぐけれど、沖田は別にそうは思わない。 見飽きた所為なのか、初対面から気に食わなかった所為なのかはよくわからない。 「ンな事よりお前は何してんだ。風邪でもひきてーのか」 はァそれもいいですねぇなんて曖昧に言って沖田は土方の方を向いていた視線を、 顔の向きごと、ついと外した。土方が白い煙を吐くと沖田が少し咳き込んで、 やめてくだせェ俺まで肺ガンにする気かと顔を顰めて文句を言った。 沖田は足をぶらぶらさせたりして話す気はないようだった。土方は特に追及する様子もなかった。 沖田がそのような態度を取るのは常であったし、土方に話さない事は近藤にも話さない。 それに土方は近藤ほど過保護ではない。何より沖田は土方に弱音を 吐く事は今まで一切無かったし、これからも一切無いのだ。それは三人の間の暗黙の了解でもあった。 「昼間のテロはどうなったんで」 沖田が仕事の事を口にするのは珍しい。自分からそんな話をしてくるのは、大抵は、 話をしたいのに他に話題が見つからない時だ。 というのもきっと、沖田にとっての仕事つまり真選組というのは、 職業ではなくて人生そのものであるからなのだろう。事ある毎に人生を語る輩はそうも居るまい。 「犯人が高杉ンとこの下っ端の下っ端だったらしくてなあ、お上が大騒ぎよ」 近藤がいつまでも帰って来られない理由はこの事のようだった。 下っ端の下っ端なんて言っても情報を少なからず持っているのは確かである。 テロリストは素性がわかるとすぐに警視庁本部に護送されたらしい。 今頃は拷問紛いの取調べを受けているだろうと土方は言った。 沖田は自分から聞いておいて「ふうん」くらいの相槌しか打たなかった。 元々他人には興味がない。今日自分が斬った浪人だって、名前は知らないままだし もう顔も覚えていない。 「そういえば、お前、傷は」 土方がそう問うと、沖田はぽかんと間の抜けた顔をして一瞬してから「ああ」と呟き利腕を挙げた。 腕には包帯が巻かれている。 斬り合いの時に相手の刀の切っ先が少しだけ触れたらしい。沖田は全てが終わるまで 全く気が付かなくて、刀を鞘に納めるときに腕に痛みが走って、そこで初めて気が付いた。 傷は大して深くない。職務に影響が出るような程度では無かった。 「振り回しても大丈夫なくらいですぜ。これぐらいで士道不覚悟なんて、言いやしませんよね」 腕くらいなら勘弁してやらぁと土方は言った。二人は軽く話すけれど 士道に背いたと切腹した(正確に言えばさせられた)者は多い。 寒い、と沖田が呟いた。両腕で自分の体を抱き締めるようにしている。「なら部屋帰れよ」と 土方は言ったけれど、沖田は黙って首を横に振った。だって眠くねぇしと理由を 口にしたけれど、土方は信じなかった。別に理由がある事に何となく気付いていた。 「ねえ土方さん、死人は星になるって言うけど、本当ですか」 空気が汚れて星が見えない江戸の空を見ながら沖田が言った。 それは沖田の両親の葬式の夜、まだ幼い沖田に姉が言って聞かせた話だった。 父上と母上はお星様になったのよ、と言った姉の声を沖田は今でも覚えている。 唐突な質問をした沖田は、神様は本当にいるのかと質問をする子供と同じように 土方の目に映った。 昔似たような質問をされた事があった。その時には沖田がどのような答えを期待しているのか わかっていたから、御伽噺のような嘘を肯定した。けれど今の沖田の心の内が 土方にはわからない。だからその質問に対する答えを選ぶに選べなかった。 少し困った土方を見て沖田は満足そうだった。昔から沖田は土方を困らせたり怒らせたりする のが好きだ。傍から見れば歪んでいるのだと思われるけれど、沖田は単に、 その理由が何であれ、土方の思考を自分が占拠したいだけなのだ。 「聞いてみただけです」と言って沖田は口元を緩く持ち上げる。土方も大概無愛想だけれど、 沖田も十分表情が少ない。むしろ、感情の起伏が小さい分、沖田の方が 無表情である事が多いかもしれない。 「星にァ天人しかいねえよ」 沖田は違えねえやと呟いて、乾いた笑いを小さく立てた。 自分の体を抱き締めるか細い腕が、着物の端を強く掴んでいる。 寒い、と沖田は二度目のその言葉を呟いた。土方が吸っていた一本目の煙草はもう大分短くなった。 沖田も土方も、たぶんきっと大分長い時間を外で過ごしてしまっている。体が冷えて当然だ。 土方は煙草の火を指で捻り潰して庭先へ捨てた。沖田が、えぇポイ捨て最低、 なんて不快さを思い切り表した声を上げたけれど、 土方は気にせずに、沖田の右腕を取ってそのまま重力に従う体を無理に立たせた。 「何してんですか」 勢い余って土方の胸に飛び込みそうになって、沖田は慌てて体勢を整えた。 引かれた腕が痛かった事もあり、眉を寄せて不機嫌な顔をしてみせた。 土方はまだ掴んだ沖田の腕を放さない。 「部屋戻れ。風邪でも引かれたら敵わねえ」 そのまま部屋へ帰すつもりで土方は手を引いて一歩歩き出したけれど、沖田は動こうとしなかった。 沖田の抵抗に気付いて土方が振り返ると目が合った。「帰りたくないんでさァ」 沖田は珍しく眉尻が下がっている。声も小さい。 風邪なんて引きません、大体馬鹿は風邪ひかねえって、言ってたのアンタでしょう。 そう沖田は言った。 「こんな冷たい腕して、ガタガタ震えてて、何言ってんだ」 沖田の顔色は青白い。きっと既に風邪を引き始めている。この寒さでは、あまり放っておくと 一晩で肺炎まで引き起こしかねない。沖田はほとんど病気をしないが、 年に一遍ほど、大体こんな風に寒い時期に熱を出す。 沖田が弱ると軽く一週間は寝込む。本人も気が滅入ってしまうのだ。 土方は無理に沖田の腕を引く。本気で力比べをしたら、当然沖田は土方には勝てない。 突然強く引かれたせいで足がもつれて、二、三歩前へつんのめった。握られた右腕がひどく痛い。 痛みと、どうにもできない力の差に屈する屈辱に堪えかねて沖田が叫んだ。「土方さん!」 大きな声を出した後で、周りを起こしたかも知れないと気付いたけれど、沖田の頭から そんな配慮はすぐに消え去った。そんな事はどうでもいい。血脈が滞ってずきずきと痛む この右腕を早く解放して欲しかった。けれど土方は振り返りもしない。 沖田がごねると後が面倒であることを知っているからだ。こういう時の土方は有無を言わせない 威圧感がどことなくある。 沖田はとにかく、どうしたらこの腕を放してもらえるか、どうしたら 放って置いてもらえるか、その事しか頭に無かった。 腕が痛むのも無理に帰されるのも嫌だった。沖田の、薄灰青の目が少しだけ揺れた。 「土方さん、今日は二月二十三日なんです、だから俺部屋にひとりで居られねぇんです。 放って置いて、ここに」 頼むから、と口走りそうになった最後の言葉は意地とプライドで呑み込んだ。 沖田の声は切実だったけれどやはり土方は聞く耳を持たなかった。 少しだけ失望して目線を落とすと、土方の骨ばった手が自分の右腕を掴んでいる 光景が目に入った。土方の指は包帯に触れている。そこで沖田は気が付いた。 右腕が痛むのは、土方が力いっぱい掴んでいるからではなくて、傷に触れているからだった。 沖田が抵抗するのをやめて、右腕から何まで土方に引かれていくのに委ねると、 土方は自分の後ろをとぼとぼ歩く沖田をちらりと振り返った。沖田は少し俯いていた。 普段のような危害を加える気配も無かったから、土方は前を向き直した。 腕を掴んでいる自分の左手を外してそのまま沖田の指と絡ませた。 指が冷たい。別に冷え性である訳でもないのに、沖田の指は冷たかった。 冷たい指をぎゅうと握り込むと、後ろから「痛い」と小さく呟く声が聞こえた。 冷たさが土方の手のひらの熱を奪って行ったけれど、それが沖田の熱になるなら 土方には不満が無かった。 「去年の今頃は、俺ァ十七だったんです」 そんな事は知ってるよと土方は言った。確かに一年前には沖田は十七歳だった。 土方や近藤はもう十分成長した大人であるから大して変わらないけれど、 十七歳の沖田は今よりずっと幼い顔立ちをしていて、背も少しだけ低かった。 変わらないのは剣の腕だけだ。 「去年の今日、十七の俺が山南さんを斬った」 沖田は他人には興味がない。自分が斬った人間にだって一寸も興味が湧いたりはしない。 けれどこの人物と芹沢だけは例外なのだ。山南は一年前にこの屯所で腹を切った。 介錯をしたのが沖田だった。 当時の真選組は、沖田にとってすれば大変居心地が悪かった。隊内に派閥なるものが 確かに存在した訳ではなかったけれど、派閥争いにひどく似ていた。 土方と山南、どちらに付くかという暗黙の圧力が、最後の最後にかけられ全てを委ねられたのが 沖田だった。 「山南さんの方がいい人だったんでさァ、アンタと違って、サボリは見逃してくれるし、遊んでくれるし」 沖田はどちらも選ばなかった。そうした所で真選組がどうなる訳でもないと 思っていたし、そもそもどちらかをどうしても選ばなければいけないならば、その選択権は 局長の近藤にあるのだと思っていた。 隊内の不仲は、山南の「脱走」によって終焉を迎えた。隊を脱する事は御法度だ。 山南は脱走したその日の内に切腹をした。 土方は今日までその事について触れた事は無かった。隊士の間でも、山南の話は禁句であると いう事が暗黙の了解であった。 沖田は時々、一年前の二月二十三日を夢に見る。 山南の首を落とすと辺りに鮮血が散った。自分は返り血などどこにも浴びていないのに、 沖田が自分の手のひらを見ると、その手のひらだけ山南の血によって真っ赤に染まっているのだ。 「俺ァ今日という日にすやすや寝ていられねェんです」 土方はずっと黙っていた。頷きもしないし首を横にも振らない。真っ直ぐ前だけ見ている。 沖田の話を聞いているのかいないのかもわからない。 振り返ったら、沖田は今まで見せた事もないような顔をしているのだろう。 鬼の副長とさえ呼ばれる土方の首を常時狙っている怖いもの知らずのこの男が、 この世の終わりを見たような顔をきっとしているのだ。土方はどうしても 振り返る事が出来なかった。自分が作り上げた組織が、沖田をそんなにも追い詰めたのだと したら尚更だった。 自分たちが攘夷志士を斬るのは単に仕事であるからだ。それならば、 身内を斬るのは何なのかという疑問が十七歳の沖田の胸に突き刺さった。 答えは簡単に出る。真選組を裏切ったから、間者だったから、局中法度を犯したから、 その理由は斬られる人間の数だけ存在しどれもこれも明確だ。 けれど沖田が疑問に思うことは単なる理由ではないのだと土方は知っていた。 山南は切腹したのだ。介錯をしたのが沖田だというだけ、それでも沖田はやるせない。 離れそうになった指先を、沖田がもぞと動かして土方の指を追った。 お互いの手は決してきれいではない。竹刀胝や筆胝で皮は擦り剥けているし、 何より血で汚れている。 総悟、と小さい声で呼び掛けたら、返事の代わりに手を力いっぱい握られた。 いてェよ何だよさっきまで可愛かったのによォ、と文句を言えばさらに握る力が強くなった。 「寝ていられねェってんなら、俺ンとこ来い。今日こそ碁の打ち方教えてやる」 「いやァ碁はちょっと。酒の呑み方なら教わりてェですが」 そう言う沖田の声色はいつもの飄々としたものに戻っていた。沖田の右手は 土方の指を痛めつけ続けている。土方が「離せ」というまで離さないつもりかも知れない。 二人は手を繋いだまま沖田の部屋の前を無言で通り過ぎた。 アンタの部屋行くなんて言ってない、と沖田は心の中で毒づいたけれど 当然土方には聞こえない。 沖田の求める答えと、土方が鬼と呼ばれる所以は一致する。 敵であろうが味方であろうが邪魔するものは斬れ、その命令を発しているのは 誰であろう土方なのだ。 二つはパズルのピースのようにぴったり一致する。その事に気付いた時に沖田はどうするだろうか。 「総悟、俺を斬るか」 は、と間の抜けた声を出したきり沖田は黙った。 突飛な発言をするのは沖田も得意であったが、他人のそれを理解することはひどく不得意だった。 沖田が次に口を開いたのは、土方の部屋の前で立ち止まった時だった。 「アンタなんざいつだって斬れるんですぜ。でも今斬ったんじゃ近藤さん泣かせちまうから 斬らないだけでさァ」 結果的にそうなったとは言え、沖田が土方を選んだことは曲げようの無い事実だった。 沖田の選択が正しかったのか間違っていたのかは、今はまだわからない。この先もわからない ままなのかもしれない。 ただ沖田の選択を正しいものにすることはできるのだ。誰がといえば、もちろん土方が。 真選組が正義であり続けるために、土方は必要なのだ。それは沖田もわかっていた。 「俺をこんなところ連れて来て刀握らせて後悔してんなら、 責任とって、アンタが真選組を正しいモンだと証明して下せェ。そうすりゃ 俺がアンタを選んだことは正しかったってことになるんだから」 沖田は土方と目を合わせないで一息に言った。 「そんで真選組がアンタを必要としなくなったら、俺がアンタを斬ってあげまさァ」 特別に墓も作ってあげます。花はきっと山崎が供えるだろうから、俺はやりませんよ。 と沖田は言った。 そうか、と呟いた土方は少しだけ笑ったように見えた。 二月二十三日
04/08 改訂
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