「浜田先輩」
ガシャ、とフェンスに触れる音がする。誰に呼ばれたかなんて声ですぐわかったから、わざと気付かない振りをした。 もう一度呼んでくれるのを待つなんて相当意地悪かもしれない。「浜田先輩!」フェンスがガシャガシャと鳴って煩わしい。 ようやく振り返って見せると、フェンス越しに泉が見えた。白いユニフォームは土にまみれて真っ黒だった。
「あの、お久しぶりです、あの、先輩、」
夏に引退してから部活には一度も顔を出さなかった。今日だって、たまたまグラウンドの横道を通りかかって、 ああ後輩ががんばってんなってちょっと立ち止まって眺めてただけだ。 それを目敏く見つけてここまで走って来てわざわざ呼び止めるなんて、泉くらいだ。
あの、と言いかけて泉はちょっと黙った。寒い、と思ったけれど、浜田には泉を無視して帰ることができなかった。
「あの、えと、気が向いたらでいいんで、顔出して下さい、あの、先輩いないと、部活つまんなくって」 必死に叫ぶ泉を見てなんだか涙が出そうになった。(俺ってこんなに慕われてたっけ) でも素直にうんと言えなくて、「そんな余裕ねえよ、俺バカだし」と笑った。泉が少しだけ悲しそうにしたのが見えた。
「…先輩、肘、治った?」
その言葉にぎくりとした。泉は肘のことを知っている。後輩には秘密にしていたから、 下級生で知っているのは泉だけだと思う。今まで聞かれなかったけれど泉がずっと気にしていたのを知っている。 だから嘘を吐いてしまった。「おう、治った。高校でも投げるよ」
そう言うと泉は「まじで」と大きな声を上げて、その後すごく嬉しそうに笑った。 先輩とだったら野球続けてもいいかもなあ、と言った泉に、浜田は内心で心の底から謝った。 (ごめんなあ、泉。こんなだめな先輩で)泣き出しそうになるのを堪えるのに必死だった。
他のやつには肘壊してたことも治ったことも秘密な、と言うと泉は大きく頷いた。泉が笑う度ちくちくと良心が痛んだ。 「高校決まったら顔出すよ。泉の左打席見たいし」そう言ったら笑った。泉がスイッチヒッター目指して 左打席の練習を始めたことは人伝いに聞いた。「またキャッチボールの相手して下さい」いいよ、今度は素直に頷いた。 また泉が笑う。
「…じゃあ。受験頑張って下さい」早く受かって早く顔出して下さいと言う泉に、なるべく頑張るよと答えた。
(ほんとにごめんな、受験終わっても顔出すつもりなんてないのに、ほんと、だめな先輩で、ごめん)
泉の笑顔が脳裏に焼き付いてしまった。帰り道、嬉しそうに笑った泉が忘れられなくて、ちょっとだけ泣いた。
さよなら愛しかったひと