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「わかれよっか」 玄関で靴を脱いでいて背中を向けているとき、不意打ちにかけられた言葉。 ひと呼吸おいて振り向いた泉の顔は正に「今なんて?」と言いたげだった。 そして思った通りに「今なんて?」と言ったのだった。その声は低くもなく高くもなく、 1年9組の教室で話をしているときと同じ声だった。浜田は小さいテーブルにコップと牛乳を出していた。 コップは泉がいつも使っているものだ。浜田の部屋には客用のコップがないので、このあいだ家から持ってきた。 浜田がなかなか答えないので、もう一度、今度はていねいに「今なんて言ったの」と聞いた。 「だから、わかれよ」とさっきと同じ声で浜田が言う。 浜田はテーブルに肘をついてテレビを見ている。泉は浜田を見つめたけれど、浜田は泉のほうを見ていなかった。 見覚えのあるジャージの赤いラインを目でたどるしかできなくなった。 あの背中に駆け寄ってすがり付いて、いやだ捨てないでなんて言えばかわいいかもしれない。 でも足が動かない。泉は世界の終わりを見たような顔をしていた。 何も考えられなくて、ただ胸が痛かった。浜田と初めてキスしたときの感覚と似ている。 胸の奥から何かこみ上げてきそうだったけれど、唇を噛んでそれをやり過ごした。 溢れるのを許したら、自分がひどく惨めになると思った。手のひらを強く握って、爪がくい込む痛みだけを追いかける。 テレビは浜田の好きなお笑い番組を映していた。ブラウン管から笑い声が流れているけど泉には何も聞こえない。 自分の心音ばかりがうるさかった。 足が動かないせいで玄関に突っ立ったままだ。どうしたらよいのか全くわからなかった。 水滴がほおを伝ってぽたりと落ちた。 なあ泉い、と浜田が言う。もう一度、泉、と呼んでふり返った時にぎょっとした。 「い、泉っ」 慌てて立ち上がってかけ寄った。テーブルに足を引っかけて牛乳が零れたけれど、気にする余裕はなかった。 泉の手を取って、握られた両手を開かせる。手のひらにはくっきり爪のあとが残っていた。 皮膚が破けなかっただけましかもしれない。 ぎゅうと両手を握っても、泉には握りかえすだけの力がなかった。 しゃがんで、うつむいた顔を下からのぞきこもうとすると、泉はついと顔をそむけた。 嗚咽はきこえない。本当にただ静かに涙が流れていた。 「ごめん泉、ごめん。違うんだよ、ごめん」 抱きしめるとすこし抵抗した。口が利ければ、やめろ別れたいんだろふざけんな、とか言っていたかもしれない。 「泉ってほんとにオレのことすきかな?って思って、わかれよって言ったらどんな反応するかな?って思っただけなんだ、 ほんとごめん。へんなこと言ってごめん。ごめんな」 首を横にふる泉が「うそつけ」と言ってるように見えて、 「うそじゃない、ホント、ごめん、ごめん」と謝り倒した。 抵抗していた腕からすうっと力が抜けて、泉の目からはぼろぼろ涙がこぼれた。 泣きながら眉をよせて、小さな声で「しね、ばかはまだ」と言った。罵声がとんできてなんとなく安心した。 ああいつもの泉だ。 「泉が泣くとか考えてなくって、冗談だろとか言うと思ってて」 ごめんごめんと繰り返した。浜田のか顔は真剣だった。 泉は顔を上げられない。浜田の肩にうずめたまま「別れたくねえ」と言った。涙声だった。 わかれないよ、と浜田が言っても涙は止まらなかった。知らない内にお笑い番組は終わっている。 見たかったはずだけれど今はテレビなんかどうでもいい。ぼろぼろぼろぼろ涙が落ちて泉の目は真っ赤だ。 拭っても拭っても意味がない。つぶやくようにもう一度「ばかはまだ」と言った。 ばかみたいに泣いてくれるほど執着されているとは思っていなかった。 泉には本当に悪いことをした。ごめん。ごめんなさい。でもこんなに泣いてくれることがとんでもなく嬉しい。 恋の駆け引きなんかいらなかった。 テーブルにぶちまけた牛乳も、終わってしまった番組も、溜まった洗濯物もそろえられてない玄関の靴ももうどうでもよかった。 腕のなかで泣きつづける愛しい愛しい恋人。 別れたくないとは、なんてかわいいことを言ってくれるのか。 オレに恋してくれてありがとう。ああ泉をすきでよかった! |
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恋を 知りたかった
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