夢を見る。



クーラーなんてものは役場にはない。だからせめて風通しを良くするために一日中窓を開け放すしかなかった。 すぐ傍の木にしがみついているらしい蝉がやたら五月蠅く鳴く。陽が高い内は、時々 外から蝉が入り込んできて役場は大騒ぎになった。
団扇は手放せない。脱水症状が怖いから、ちょくちょく休憩してはお茶を飲んだ。 小中学校が近いせいか、昼頃には子供たちの声が聞こえていたが、夕方になると静かになった。
徹ちゃん。夕方、大体17時過ぎにはいつもこの声が聞こえる。小さな役場の玄関には少年がひとり立っている。
陽が落ちかけてもうだるような暑さは大して変わらなかった。未だに蝉が五月蠅い。 高校からバスで帰って来たはずの少年の頬を汗が一筋流れる。 夏野は手の甲で汗を拭って、暑い、と呟いた。
「なんか、いつもより暑くない?風が凪いでるから?」
「ああ、扇風機がさ、壊れたんだ」
8月に入って一層暑くなった。5年ほど前に役場のみんなで購入したという扇風機を、 何の気遣いもなくフル稼働させていたらついに昨日動かなくなった。 ぎゃあ、お願い動いて、そう懇願してみたが今日も扇風機は沈黙している。
夏野はその辺に置いてある団扇を勝手に手に取った。誰のものかわからないが、咎める者は誰もいない。
「今日はもう仕事、終わったの?」
徹は団扇を片手にワープロを打っている。まだ慣れないせいで時間ばかり食う。 手書きの方が絶対早い、と常々思う。
「んん、もう少し」とワープロの画面を睨みながら返す。これが終われば今日は帰れる。
夏野は団扇でぱたぱたと自身に風を送っている。手を動かすのも億劫そうだ。窓のすぐ隣の木に止まって鳴いていた蝉が 突然静かになった。ああ命が終わったのだなと徹は思う。役場には若干の静寂が訪れたが、すぐにまた別の蝉が 鳴き始めた。
徹の返答に「あ、そ」とぶっきらぼうに答えた後、夏野は必ず、その辺にいるからと付け加えた。

高校を卒業したら村を出ようとはあまり考えていなかった。だから結局村役場で働くことに決めた。
夏野は近頃、都会へ出たいとあまり言わなくなった。はじめ、村へ残った自分に気を遣っているのだと思ったが、 どうやら違うらしかった。以前ほど受験勉強ばかりではないが、村を出る気ではいるらしい。
「今日って登校日か?」
「そうだよ。でなきゃこんな暑苦しい格好しないよ」
夏野は暑いとまた呟く。白いワイシャツが背中に張り付いていた。 シャツは汗を吸ってくれないから、制服を着ると普段着よりも数段暑いように感じる。
「おれ、登校日でも登校した覚えないなあ」
「去年なんて、葵と保っちゃんはいるのに、徹ちゃんだけ学校来てなかったもんな。 挙句におれに、制服なんて着てどうしたんだ、とか言ってさ」
あんまり普通にしてるから3年は登校日ないんだと思ってたよ。と言って夏野は笑った。
去年は車の免許を取ることしか考えてなくて、登校日のことなんかは頭から飛んでいた。 進学するわけでもなかったから夏休みは悠々自適に過ごした覚えがある。 よく夏野が遊びに来て、時々武藤と結城みんなで夕飯を食べた。
役場から家までは近い。歩いて15分程度の距離だったが、武藤の家の前まで来た時には 夕焼けがまぶしい頃になっていた。
「夏野」
なに、と夏野が訊く。下の名前で呼ぶなとは言わない。もうずいぶん前から言わなくなった。
もうすぐ17歳になるんだそうだ。はじめて会った時には14とかだったから、夏野が村に やってきてから大分時間が経った。元々大人びた顔立ちはしていたが、ふと見やった横顔は もうすっかり大人のそれだった。
なんだよ、ともう一度訊かれて、呼んだだけだと言った。 怒るかと思ったが「なんだよそれ」と言って夏野は笑った。
「明日日曜だし、休みだろ?」別れ際に夏野が訊いた。 徹が頷くより早く約束を押し付けるように言う。「遊びに行くから」
わかった、と答えるかわりに徹は笑って見せた。
夕焼けが眩しい。山の向こうに落ちた陽がまた東から昇る時、また今日と同じ一日が始まるのだ。 それをつまらないとは徹は思わなかった。家族がいて、働く場所があればいい。 そして自分の隣に誰かが-----夏野がいれば十二分だった。




夢を見る。
このまま目覚めさせないでくれと神に願いたくなるほどひどく甘美な夢だった。
いや実際は夢ではなく、自分の妄想だったかもしれない。昏倒にも似た眠りの中で夢など見るのか、 また変容した自分が本当に夢など見るのか、それは定かではない。
それはこの先もう二度と叶う事のない夢であり、かつて自分が、もしくは夏野が夢見たものだった。
いいよ、と言って目を閉じた彼の顔が忘れられない。






夢みたものは
(ゆめみたものは ひとつの幸福 ねがったものは ひとつの愛/立原道造)