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資治通鑑巻第一百九十七
唐紀十三 太宗文武大聖大廣孝皇帝中之下 貞觀十七年(癸卯、六四三)1.夏、四月、庚辰の朔。承基が太子の造反を告発した。長孫無忌、房玄齢、蕭瑀、李世勣と大理、中書、門下へ敕して検分させたところ、造反の証拠は歴然としていた。 上は侍臣へ言った。 「承乾をどうすればよいか?」 群臣は誰も口を開かない。すると、通事舎人来済が進み出て言った。 「陛下が慈父であり続けて、太子の天寿を全うさせるならば、何と素晴らしいではありませんか!」 上はこれに従った。済は、護児の子息である。 乙酉、太子承乾を廃立して庶人とし、右領軍府へ幽閉すると詔した。 上は、漢王元昌も殺さずに済ませたかったが、群臣が固く争ったので、家にて自殺させた。しかし、その母や妻子は赦した。侯君集、李安儼、趙節、杜荷は皆、誅殺された。左庶子張玄素、右庶子趙弘智、令狐徳棻等は諫争できなかった罪で、庶人へ落とした。その他の連座されるべき者は、全て赦す。詹事の于志寧だけは屡々諫めていたので、慰労された。紇干承基は祐川府折衝都尉となし、平棘県公の爵位を与えた。 侯君集が牢獄へぶち込まれると、賀蘭楚石が闕を詣でて、その事を告発した。上は君集を引き出して言った。 「朕は、公へ詰問の恥辱を与えたくない。ここで自白してくれ。」 君集は、初めは否認していたが、楚石を引き出してその顛末を陳情させ、又、承乾とやり取りした文書を突きつけられると、君集は返答に窮し、服した。 上は侍臣へ言った。 「君集には大功がある。殺したくないが、どうか?」 だが、群臣は不可とした。上は君集へ言った。 「公と、永久の別れだ!」 そして、泣き崩れた。君集も地面に身を投げ出した。遂に、市にて斬る。 君集は、刑に臨んで監刑将軍へ言った。 「君集はここまで道を踏み外した。だが、陛下へは藩邸の頃からお仕えし、二ヶ国を征服した。どうか一子だけは命を助け、我が祭祀を継がせてください。」 上はその妻子の命を助け、嶺南への流罪とした。その家は全て没収し、二人の美人を得た。彼女達は幼い頃から人乳を飲むだけで、何も食べなかった。 話は前後するが、李靖が上の命令で君集へ兵法を教えた。すると君集は上へ言った。 「李靖は、やがて造反します。」 上が理由を問うと、対して言った。 「靖は臣へ大雑把なことしか教えず、精妙な術を隠しております。ですから判りました。」 そこで上は、靖を呼び出して尋ねた。すると、靖は答えた。 「それは、君集が造反したがっているのです。臣が教えた兵法で、四夷を制圧するのには充分です。しかし君集は臣の術の全てを固く求めました。造反以外に何故必要でしょうか!」 江南王道宗が、くつろいだ折に上へ言った。 「君集は志は大きいのに智恵が小さい。自ら微功を誇り房玄齢や李靖の下にいるのを恥じております。吏部尚書となっても、まだ満足していません。必ず乱を起こします。」 上は言った。 「君集は人物だ。何で取り立てては為らぬのか!朕は重位を惜しんでいるのではない。ただ、順次出世させてやろうと思っているだけだ。まだ形も顕れていないのに、妄りに猜疑してはならぬ!」 君集が造反して誅殺されるに及んで、上は道宗へ謝った。 「果たして、卿の言うとおりだった。」 李安儼の父は九十余歳。上はこれを憐れみ、奴婢を賜って養った。 太子承乾が罪を得てからは、魏王は毎日上の側へ侍った。上は面と向かって太子に立てることを許し、岑文本と劉洎もまた、これを勧めた。だが、長孫無忌は、晋王治を立てるよう固く請うた。上は侍臣へ言った。 「先日、青雀(泰の幼名)が我が懐へ飛び込んできて言った。『臣は今日、はじめて陛下の息子になることができました。生まれ変わったのです。臣には息子が一人居ますが、臣が死ぬ時には、陛下の為に彼を殺して、帝位を晋王へ譲りましょう。』と。世の中に、息子を愛さない者が居るだろうか。朕はこれを見ると、哀れでならなかったのだ。」 すると、諫議大夫褚遂良が言った。 「陛下の言葉は、大失言です。どうか熟慮して、誤らないでください!陛下万歳の後、魏王が天下に據ったなら、どうしてその愛子を殺して晋王へ位を伝えたりするものですか!陛下はかつて承乾を太子に立てたのに、後に魏王を寵愛し、その礼秩は承乾を凌ぎました。それが今日の禍を招いたのです。前事はまだ遠い過去ではありません。鏡としてください。陛下が今魏王を立てるなら、どうかその前に晋王の始末をつけてください。そうして始めて安全になります。」 上は涙を流して言った。 「我は、その様なことはできぬ。」 そして立ち上がり、後宮へ入った。 魏王は、上が晋王治を立てることを恐れ、彼へ言った。 「汝は元昌と仲が善かった。元昌が敗れた今、心配でなるまいな?」 治は、これによって憂えが顔に現れた。上が怪しんで屡々理由を問うたので、治はようやく実状を告げた。上は憮然とし、泰を立てると言ったことを始めて後悔した。 上が承乾を面と向かって責めると、承乾は言った。 「臣は太子となったのです。これ以上、何を求めたでしょうか!ただ、泰が小細工を弄するので、我が地位を守る術を朝臣達と謀ったところ、不逞の人が臣へ不軌を教えたのです。今、もし泰を太子にするなら、いわゆる、『その手に乗った』とゆうものです。」 承乾が廃立されると、上は両儀殿へ出向いた。群臣が退出すると、上は、長孫無忌、房玄齢、李世勣、褚遂良のみを留めて、言った。 「我が三人の子(祐、承乾、泰)と一人の弟(元昌)は、こんな事をしてしまった。本当に、何に縋って良いのか判らない。」 そして、長椅子へ身を投げ出した。無忌等が争って抱え上げる。上はまた、佩刀を引き抜いて自刺しようとしたが、遂良が刀を奪って晋王治へ渡した。 無忌等が、上の思うままにするよう請うと、上は言った。 「我は、晋王を立てたい。」 無忌は言った。 「慎んで詔を奉じます。異議がある者は、臣に斬らせてください!」 上は、治へ言った。 「汝の舅が、汝を許した。拝謝するがよい。」 そこで、治は拝礼した。 上は無忌等へ言った。 「公等は、既に我へ同意した。だが、他の者は何と言うかな?」 対して言った。 「晋王の仁と孝は天下の人々から慕われ続けていました。どうか陛下、試みに百官を召して問うてください。同意しないものがあれば、臣は陛下へ背いた者、その罪は万死に値します。」 上は、太極殿へ出向くと、文武の六品以上を召して、言った。 「承乾は悖逆、泰は凶険、どちらも立てられない。朕は諸子から世嗣を選びたいが、誰がよいかな?卿等、明言せよ。」 すると衆は皆で叫んだ。 「晋王は仁孝、世嗣とするべきです。」 上は悦んだ。 この日、泰は百余騎を率いて永安門へ至った。上は、門司へ、その騎兵を悉く取り上げるよう敕し、泰を粛章門へ引き入れ、北苑へ幽閉した。 丙戌、晋王治を皇太子へ立てると詔する。承天門楼へ出向いて天下へ恩赦を下し、三日間宴会を開いた。 上は、侍臣へ言った。 「我がもし泰を立てれば、これは太子の位が謀略で得られることになる。今後は、太子が不徳の時、藩王にこれを窺う者が出れば、共に棄てることとする。これは諸子孫へ伝えて、永く後法とせよ。それに泰が立てば、承乾も治も殺される。治が立てば、承乾も泰も恙なく生きて行ける。」 司馬光が言った。 唐の太宗は天下の大器を以てその愛する者へ私的に渡したりしなかった。そうして、禍乱の源を断ったのである。遠謀があったと言える! 2丁亥,以中書令楊師道爲吏部尚書。初,長廣公主適趙慈景,生節;慈景死,更適師道。師道與長孫無忌等共鞫承乾獄,陰爲趙節道地,由是獲譴。上至公主所,公主以首撃地,泣謝子罪,上亦拜泣曰:「賞不避仇讎,罰不阿親戚,此天下至公之道,不敢違也,以是負姊。」2.丁亥、中書令楊師道を吏部尚書とする。 初め、長廣公主が趙慈景へ嫁いで節を生んだ。慈景が死ぬと、師道と再婚した。師道と長孫無忌等は、共に承乾の疑獄を尋問し、密かに趙節に有利に計らったので、譴責を蒙った。上が公主の所へ行くと、公主は首を地面へ叩きつけ、泣いて子の罪を謝った。上も又泣き濡れて言った。 「賞は仇敵を避けず、罰は親戚に阿らず。これが天下の至公の道なのだ。これに敢えて違わなかったが、それ故に姉上へ背いてしまった。」 己丑、長孫無忌を太子太師とし、房玄齢を太傅とし、蕭瑀を太保とし、李世勣を詹事とし、瑀と世勣は併せて同中書門下三品とするよう詔が降りた。同中書門下三品は、これから始まった。 また、左衛大将軍李大亮を領右衛率、前の詹事于志寧、中書侍郎馬周を左庶子、吏部侍郎蘇勗、中書舎人高李輔を右庶子、刑部侍郎張行成を少詹事に、諫議大夫褚遂良を賓客とした。 李世勣がかつて病気になった時、「髭の灰が良く効く。」と処方された。すると上は、自らの髭を切って、これで薬を作った。李世勣は、出血するほど頓首して泣いて感謝したが、上は言った。 「社稷の為にしたのだ。卿の為にしたのではない。何でそこまで感謝するのか!」 世勣がかつて宴会に参加していた時、上はくつろいだ様で言った。 「朕は、群臣の中に我が子を託せる者を探したが、公以上の者はいない。公はかつて李密に背かなかった。どうして朕へ背こうか!」 世勣は泣きじゃくって辞謝し、指を囓って出した血を酒へ入れてのみ、酔いつぶれた。上は、自分の服を脱いで、その体へかぶせてやった。 癸巳、魏王泰を雍州牧、相州都督、左武衛大将軍から解任し、東莱郡王へ降爵した。泰の府の僚属の中で、特に泰から親しまれていた者は皆、嶺表へ左遷された。杜楚客は、兄の如晦に功績があったので、死を免れたが、庶人へ落とされた。給事中崔仁師は、かつて魏王泰を太子に立てるよう密かに請願した事があったので、鴻臚少卿へ左遷された。 庚子、太子の、見三師の儀式を定める。 太子は殿門外にて三師を迎える。まず太子が拝礼し、三師が答礼する。殿へ入るまでは、門毎に三師へ譲る。三師が坐れば太子も座る。太子が三師へ渡す書には名前の前後に「惶恐」と記載する。 五月、癸酉、太子が上表した。 「承乾と泰の生活は、衣は身に纏うだけ、飲食はただ口に入れるだけとゆう有様。幽閉の憂とは言え、とても可哀相です。どうか役人へ敕を下し、もう少し楽にさせてやってください。」 上は、これに従った。 黄門侍郎劉洎が上言した。その大意は、 「太子は学問を勧め、師友に親しませましょう。今、太子は宮殿内へ入侍しますと、ややもすれば十日も一月も働きづめで、師保以下の人々との対面が、ほとんどできません。伏してお願い申し上げます。どうか下々を愛する想いを少し抑えて、遠大な人格を広められましたら、海内の幸いでございます!」 上は自と岑文本、褚遂良、馬周へ交代で東宮へ詣で、太子と楽しく談論するよう命じた。 3六月,己卯朔,日有食之。3.六月、己卯朔、日食が起こった。 4丁亥,太常丞鄧素使高麗還,請於懷遠鎭增戍兵以逼高麗。上曰:「『遠人不服,則修文德以來之,』未聞一二百戍兵能威絶域者也!」4.丁亥、高麗へ使者として派遣されていた太常丞鄧素が、帰国した。彼が、懐遠鎮の守備兵を増員して高麗へ逼るよう請願すると、上は言った。 「『異国が服従しなければ、文徳を修めてこれを来させる。(論語)』。百や二百の守備兵で遠国を威圧するなど、聞いたことがない。」 5丁酉,右僕射高士廉遜位,許之,其開府儀同三司、勳封如故,仍同門下中書三品,知政事。5.丁酉、右僕射高士廉が退職を請願したので、これを許した。開府儀同三司と勲封は、従来通りで、同門下中書三品、知政事が加わる。 6閏月,辛亥,上謂侍臣曰:「朕自立太子,遇物則誨之,見其飯,則曰:『汝知稼穡之艱難,則常有斯飯矣。』見其乘馬,則曰:『汝知其勞逸,不竭其力,則常得乘之矣。』見其乘舟,則曰:『水所以載舟,亦所以覆舟,民猶水也,君猶舟也。』見其息於木下,則曰:『木從繩則正,后從諫則聖。』」6.閏月、辛亥。上が侍臣へ言った。 「朕は皇太子を立ててから、事に触れるごとに太子を諭している。飯を見れば、言う。『汝が稼穡の艱難を知れば、いつでもこの飯が手に入るのだ。』乗馬を見れば、言う。『汝がその労逸を知り、労力以上にこき使ったりしなければ、いつでもこれに乗ることが出来るのだ。』その乗舟を見れば、言う。『水は舟を載せるが、また、舟を覆すのも水だ。民は水のようなもの。そして主君は舟なのだ。』木の下で休んだら、言う。『木も、縄で矯正しなければ真っ直ぐにはならない。君主も、諫言に従えばこそ聖人になれるのだ。』」 7丁巳,詔太子知左、右屯營兵馬事,其大將軍以下並受處分。7.丁巳、太子へ左、右屯営兵馬事を管轄させ、その大将軍以下は皆、太子の指揮下へ入るよう詔が降りた。 8薛延陀眞珠可汗使其姪突利設來納幣,獻馬五萬匹,牛、橐駝萬頭,羊十萬口。庚申,突利設獻饌,上御相思殿,大饗羣臣,設十部樂,突利設再拜上壽,賜賷甚厚。8.薛延陀の真珠可汗が、その姪の突利設を使者として納幤した。馬五万匹、牛、駱駝一万頭、羊十万口を献上する。 庚申、突利設を饗応する。上が相思殿へ御し、群臣と友共に十部の楽を設ける大宴会が催された。突利設は再拝して上を寿いだ。下賜品は、甚だ厚い。 契苾何力が上言した。 「薛延陀とは通婚してはいけません。」 上は言った。 「吾は、既にこれを許した。なんで天子が嘘をつけようか!」 「臣は、陛下にこれを拒絶して欲しいのではありません。ただ、少し時間を稼いで欲しいだけです。昔は親迎の礼があったと聞いています。もしも夷男へ親迎させるのなら、京師まで迎えに来させないまでも、霊州までは来させましょう。奴は絶対に来ません。そうすれば、破談にしても名分は立ちます。夷男は剛戻な性格ですから、通婚が破れれば、その臣下は二心を持ち、真珠可汗は一、二年の内に必ず病死します。そうすれば二人の子息が継承を争いますので、容易に制圧できますぞ!」 上はこれに従い、真珠可汗が自ら出迎えるよう詔した。上自身も霊州まで御幸し、ここで会盟しようと言うのだ。真珠は大喜びで出かけようとしたが、その臣下が諫めて言った。 「抑留されたら、悔いても及びませんぞ!」 真珠は言った。 「唐の天子は聖徳だと聞く。吾が出向いて謁見できるのならば、死んでも恨みはない。それに、漠北にも主人が必要だ。我は絶対決行する。もう何も言うな!」 上は彼等が献上する雑畜を受け取る為、三道から使者を派遣した。薛延陀には庫厩がなかったので、真珠は諸部から雑畜を徴収した。その往還の旅程は一万里。道中は砂礫で水も草もなく、その半分は死んでしまい、期限に間に合わなかった。議者の中には、結納品も集まらないのに婚姻すると、戎狄が中国を軽視すると言い出す者も居た。上は婚姻の中止を下詔し、霊州に留まって三使を追い返した。 褚遂良が上疏した。その大意は、 「薛延陀は、もともと一介の俟斤に過ぎませんでした。陛下が突厥を盪平したので、他の部族は強盛になりました。上はそれらの酋長へ璽書や鼓纛を賜って、可汗として立たせたのです。この時、降伏した者へ通婚を認めました。西は吐蕃に告げ、北は思靡を諭したことは、中国では幼い童子でも誰知らぬ者もおりません。陛下は自ら北門へ御幸し、その献食を受け、群臣と四夷は終日宴会を楽しみました。ですから、陛下は百姓の安楽の為なら、娘へ苦労させることも厭わないのだとの風評が立ち、民は皆、御厚恩に感激したのです。しかし、今、一朝にして私欲が生まれ、後悔なさいました。臣は、国家の恥を惜しむのです。得られる物は甚だ少ないのに、失う物は甚大です。嫌隙が生まれてしまったら、必ず辺境で抗争となります。敵方には欺かれた怒りがありますし、我が民には約束を破った負い目があります。これでは『遠人を服従させる戦いである、』と、兵卒達へ訓戒を垂れることもできません。陛下は君主として天下に君臨して十七年。その間、民へ仁恩を結び信義で戎夷を慰撫しましたので、喜ばない者はいませんでした。今回、それに背いて何の益がありましょう。ああ、始めは慎みながら終わりまで続かないとは、惜しんでも余りあります!それ龍砂の以北には、多くの部落があります。中国がこれを誅しても、滅ぼし尽くすことは出来ません。徳義で懐けるしかないのです。夷に悪行を為させても華は悪事を働かず、奴等が信義を棄てても我等は守る。そうであれば、堯、舜、禹、湯も陛下には遠く及ばなくなるものを!」 上は聞かなかった。 この時、多くの群臣が言った。 「国家は既に通婚を許し、その結納まで受け取っているのです。戎狄へ信義を失い、辺患を再燃させてはなりません。」 上は言った。 「卿等は皆、古を知っていて今を知らない。昔、漢の当初は匈奴が強く中国は弱かった。だから子女を飾り金絮を与えたのは、時宜に適ったことだった。今は、中国が強く戎狄は弱い。我等が歩兵一千で胡の騎兵数万を撃破できる。薛延陀がペコペコと頭を下げてすり寄り、我等の機嫌を取るのに汲々としてちっとも傲慢にならないのは、彼が君長になったばかりで、しかもその部下には異種族も沢山いて政権が不安定なので、中国の勢力を後ろ盾にして国内を巧く治めようと思っているだけなのだ。あの同羅、僕骨、回紇等十余部は各々数万の兵を擁している。彼等が力を合わせて薛延陀を攻撃すれば、あれは忽ち滅亡するぞ。だが、彼等がそうしないのは、中国から承認されているのを畏れているからなのだ。今、娘を娶せたら、彼は大国の婿となる。そうなれば、雑姓の誰が服従せずに済まされようか!戎狄は人面獣心だ。奴がそこまで強大になれば、後日ほんの少しでもムカついた時、必ず反噬の害を為す。今、吾がその婚姻を断ち、その礼を台無しにすれば、雑姓は我が薛延陀を棄てたと知り、そのうちに国は分裂してしまう。卿等、これをしっかり覚えておけよ!」 臣光、曰く、 食を失い兵を失っても、信義だけは失ってはならない、とは孔子の言葉だ。唐の太宗皇帝は、薛延陀と通婚してはならないとゆう理由はつまびらかに知っていた。それならば、初めに通婚を許してはならなかった。既に通婚を許しながら、強さを恃み信義を棄てて国交を断つ。そんなことをしたら、薛延陀を滅ぼせたとしても、なお羞じるべきだ。王者が発言する時には、慎まずにはいられないのだ! 9上曰:「蓋蘇文弑逆其君而專國政,誠不可忍。以今日兵力,取之不難,但不欲勞百姓,吾欲且使契丹、靺鞨擾之,何如?」長孫無忌曰:「蓋蘇文自知罪大,畏大國之討,必嚴設守備,陛下少爲之隱忍,彼得以自安,必更驕惰,愈肆其惡,然後討之,未晩也。」上曰:「善!」戊辰,詔以高麗王藏爲上柱國、遼東郡王、高麗王,遣使持節册命。9.上は言った。 「蓋蘇文は、その主君を弑逆して国政を専断している。誠に見るに忍びない。そして、今日の兵力を以てすれば、これを取ることは難しくない。だが、百姓へ労苦を掛けたくないので、契丹や靺鞨へ高麗をかき回させようと思っているのだが、どうだろうか?」 長孫無忌は言った。 「蓋蘇文は自分の罪状の大きさを知っておりますので、大国の討伐を畏れ、必ず厳重な防備をしております。陛下は今しばらく隠忍してください。彼等は安心すれば必ず驕慢になり、いよいよその悪を大っぴらにします。その時に討伐しても、遅くはありません。」 上は言った。 「善し!」 戊辰、高麗王蔵を上柱国、遼東郡王、高麗王とし、使持節を派遣し册命した。 10丙子,徙東萊王泰爲順陽王。10.丙子、東莱王泰を順陽王とした。 11初,太子承乾失德,上密謂中書侍郎兼左庶子杜正倫曰:「吾兒足疾乃可耳,但疏遠賢良,狎昵羣小,卿可察之。果不可教示,當來告我。」正倫屢諫,不聽,乃以上語告之。太子抗表以聞,上責正倫漏洩,對曰:「臣以此恐之,冀其遷善耳。」上怒,出正倫爲穀州刺史。及承乾敗,秋,七月,辛卯,復左遷正倫爲交州都督。初,魏徴嘗薦正倫及侯君集有宰相材,請以君集爲僕射,且曰:「國家安不忘危,不可無大將,諸衞兵馬宜委君集專知。」上以君集好誇誕,不用。及正倫以罪黜,君集謀反誅,上始疑徴阿黨。又有言徴自録前後諫辭以示起居郎褚遂良者,上愈不悅,乃罷叔玉尚主,而踣所撰碑。11.太子承乾が徳を失った頃、上は中書侍郎兼左庶子の杜正倫へ密かに言った。 「吾は、あれの足の病など些細なことだと思っている。だが、賢良を疎み遠ざけ、小人達と狎れ遊んでいる。卿よ、判るだろう。どうしても更生できなかったら、我へ報告に来てくれ。」 正倫は屡々諫めたが、聞かれない。そこで、これを上へ語った。すると太子が反論を上表したので、上は正倫が機密を漏洩したと思い、責めた。すると正倫は言った。 「臣は、少しでも良い方へ向かってくれることを冀っただけでございます。」 上は怒り、正倫を穀州刺史へ左遷した。 やがて承乾は廃立された。秋、七月、辛卯、正倫は再び左遷されて交州都督となった。 話は前後するが、魏徴はかつて正倫と侯君集は宰相の才覚があると推薦し、君集を僕射にするよう請い、かつ、言った。 「国家は安泰でも危機を忘れず。大将は居なくてはいけません。諸衛兵馬は君集へ全て統治させるのが宜しゅうございます。」 だが、上は君集が派手好みなので、用いなかった。 正倫が罪を得て降格され、君集が造反で誅されるに及んで、上は始めて、魏徴が党を作って結託していたのではないかと疑い始めた。 又、ある者から、”魏徴は前後の諫言を全て記録していて、起居郎の褚遂良へ見せていた”と告げられて、上は益々不愉快になった。そこで、叔玉と公主との婚約を破棄し、碑文を破り捨てた。 訳者、曰く。唐の太宗皇帝とゆうのは、中国史上五本の指に入る明君であり、魏徴は中国史屈指の名臣である。それでいて、太宗が魏徴を疑った。その話を聞いて、どんな主君がどの臣下を疑わずに済むのだろうか、と恐ろしささえ感じたものだった。だが、侯君集へ衛兵馬を全て委ねるよう請願したのは、明らかに魏徴の眼鏡違いだ。人は未来を知ることは出来ないとは言うものの、もしもこの推薦に従っていたら、そして太子の造反が計画通り決起されていたら、侯君集の兵力はどのように使われただろうか?侯君集の人格から、その不逞を予期した人間は何人も居た。魏徴は、疑われないまでも、この一言で大きな譴責を受けなければならないだろう。 12初,上謂監脩國史房玄齡曰:「前世史官所記,皆不令人主見之,何也?」對曰:「史官不虚美,不隱惡,若人主見之必怒,故不敢獻也。」上曰:「朕之爲心,異於前世。帝王欲自觀國史,知前日之惡,爲後來之戒,公可撰次以聞。」諫議大夫朱子奢上言:「陛下聖德在躬,舉無過事,史官所述,義歸盡善。陛下獨覽起居,於事無失, 若以此法傳示子孫,竊恐曾、玄之後或非上智,飾非護短,史官必不免刑誅。如此,則莫不希風順旨,全身遠害,悠悠千載,何所信乎!所以前代不觀,蓋爲此也。」上不從。玄齡乃與給事中許敬宗等刪爲高祖、今上實録;癸巳,書成,上之。上見書六月四日事,語多微隱,謂玄齡曰:「周公誅管、蔡以安周,季友鴆叔牙以存魯。朕之所爲,亦類是耳,史官何諱焉!」即命削去浮詞,直書其事。12.初め、上は監修国史房玄齢へ言った。 「前世の史官の記録は、皆、人主に見せなかった。何故かな?」 対して言った。 「史官は虚美せず、悪を隠しません。もしも人主がこれを見れば必ず怒ります。ですから敢えて献上しないのです。」 「朕の心は、前世とは違うぞ。帝王が自ら国史を観たがるのは、前日の悪を知り、後来の戒めとしたいからだ。公は選んだ物を上聞させるが良い。」 諫議大夫朱子奢が上言した。 「陛下がその身に聖徳を備え、挙動に過失がなければ、史官の記載は善を尽くす道理です。陛下一人だけが起居を観ても天下に害はありません。しかし、もしもこれが法となって子孫に伝われば、曾孫玄孫の後に、あるいは非を飾り短を護るような凡庸な者が顕れたなら、仕官は絶対刑誅を免れません。そうなれば、仕官は害を避ける為に天子の望み通りに脚色するようになります。千年の後には、何も信じられなくなりますぞ!前代から不観とされていたのは、そうゆう訳なのです。」 上は従わなかった。 玄齢と給事中許敬宗等は、高祖、今上実録を清書した。癸巳、完成し、献上される。上は、書の六月四日(玄武門の変当日)の記述を見て、覆い隠されている部分が多いとして、玄齢へ言った。 「周公は、管・蔡を誅して周を安泰にし、季友は叔牙を毒殺して魯を存した。朕がやったのは、この類だ。史官が、何で遠慮するのか!」 そして、軽薄な修飾を削り取り、事実を赤裸々に描くよう命じた。 13八月,庚戌,以洛州都督張亮爲刑部尚書,參預朝政;以左衞大將軍、太子右衞率李大亮爲工部尚書。大亮身居三職,宿衞兩宮,恭儉忠謹,毎宿直,必坐寐達旦。房玄齡甚重之,毎稱大亮有王陵、周勃之節,可當大位。13.八月、庚戌、洛州都督張亮を刑部尚書、参与政治とし、左衛大将軍、太子右衛率李大亮を工部尚書とした。 大亮は三職、宿衛両宮を兼任しながら恭倹忠謹で、宿直のたびに必ず明け方まで坐ったままだった。房玄齢は、これを甚だ重んじ、大亮には王陵や周勃の節義があるので大位へ就けるべきだと、事毎に称していた。 大亮は、もともと龐玉の兵曹だった。後、李密に捕らえられた。この時、同輩は皆殺されたが、彼だけは賊帥の張弼に見込まれて釈放された。それから、二人は交遊するようになった。 大亮が貴人になると弼を探し、その時の恩に報いようとした。弼は、その時将作丞だったが、名乗り出なかった。大亮はふとしたことでこれを知り、弼へ会って泣き、沢山の私財を弼へ贈ったが、弼は拒んで受け取らなかった。そこで大亮は、自分の全ての官爵を弼へ授けるよう上言した。すると上は、弼を中郎将へ抜擢した。 時の人々は、大亮が恩に背かなかったことを賢として、弼が貪らないのを立派だと褒めた。 14九月,庚辰,新羅遣使言百濟攻取其國四十餘城,復與高麗連兵,謀絶新羅入朝之路,乞兵救援。上命司農丞相里玄獎齎璽書賜高麗曰:「新羅委質國家,朝貢不乏,爾與百濟各宜戢兵;若更攻之,明年發兵撃爾國矣!」14.九月、庚辰。新羅が使者を派遣して、百済が攻め込んで四十余城を奪い取られたことや、百済が高麗と連合して新羅の入朝を閉ざそうとしていることを訴え、救援軍を乞うた。上は璽書を高麗へ賜うよう、司農丞の相里玄奨へ命じ、言った。 「新羅は国家へ人質を出し、朝貢も乏しくない。爾と百済は各々矛を収めよ。もし、更に攻めるのならば、明年挙兵して、爾の国を撃つ!」 15癸未,徙承乾於黔州。甲午,徙順陽王泰於均州。上曰:「父子之情,出於自然。朕今與泰生離,亦何心自處!然朕爲天下主,但使百姓安寧,私情亦可割耳。」又以泰所上表示近臣曰:「泰誠爲俊才,朕心念之,卿曹所知;但以社稷之故,不得不斷之以義,使之居外者,亦所以兩全之耳。」15.癸未、承乾を黔州へ流す。甲午、順陽王泰を均州へ流す。 上は言った。 「親子の情は自然に出るもの。朕は今、泰と生き別れるのだ。なんとやるせないことか!しかし、朕が天下の主となったのは、ただただ百姓を安寧にする為なのだ。私情は棄てなければならない。」 又、泰の上表を近臣へ示し、言った。 「泰は、誠に俊才だ。朕がいつも心に思っているのは、卿等も知っているだろう。だが、社稷の為に義を以てこれを断ち切らざるを得ない。彼を地方へ流すのは、二つながら全うする為なのだ。」 16先是,諸州長官或上佐歳首親奉貢物入京師,謂之朝集使,亦謂之考使;京師無邸,率僦屋與商賈雜居。上始命有司爲之作邸。16.従来、諸州の長官は年の初めに自ら貢物を京師まで持ってきていた。これを朝集使とか、考使とかと言っていた。ところが、京師には彼等の邸宅がなかったので、宿屋などで商売人達と雑居するしかなかった。上は、彼等の為に邸宅を作らせた。 17冬,十一月,己卯,上祀圜丘。17.冬、十一月、己卯。上が圜丘を祀った。 18初,上與隱太子、巢剌王有隙,密明公贈司空封德彝陰持兩端。楊文幹之亂,上皇欲廢隱太子而立上,德彝固諫而止。其事甚秘,上不之知,薨後乃知之。壬辰,治書侍御史唐臨始追劾其事,請黜官奪爵。上命百官議之,尚書唐儉等議:「德彝罪暴身後,恩結生前,所歴衆官,不可追奪,請降贈改謚。」詔黜其贈官,改謚曰繆,削所食實封。18.かつて、上と隠太子、巣刺王とに溝ができた時、密明公は司空封徳彝へ贈り物をして、密かに両天秤を掛けていた。楊文幹の乱で、上皇は隠太子を廃立して上を立てようと思ったが、徳彝が固く諫めたので、中止した。この事は秘中の秘で上も知らなかったが、徳彝が死んだ後に、これを知った。 壬辰、治書侍御史唐臨が、その事を始めて追劾し、官位を格下げし爵位を奪うよう請うた。上が百官に議論させると、尚書唐倹等は言った。 「徳彝の罪が暴かれたのは死後のことですが、恩は生前に結ばれました。遍歴した衆官を奪うことは出来ません。ただ、贈官を降格し、諡を改めるようお願いいたします。」 そこで賜官は格下げになり、諡を繆と改め、食実封を削るよう、詔した。 19敕選良家女以實東宮;癸巳,太子遣左庶子于志寧辭之。上曰:「吾不欲使子孫生於微賤耳。今既致辭,當從其意。」上疑太子仁弱,密謂長孫無忌曰:「公勸我立雉奴,雉奴懦,恐不能守社稷,奈何!呉王恪英果類我,我欲立之,何如?」無忌固爭,以爲不可。上曰:「公以恪非己之甥邪?」無忌曰:「太子仁厚,眞守文良主;儲副至重, 豈可數易!願陛下熟思之。」上乃止。十二月,壬子,上謂呉王恪曰:「父子雖至親,及其有罪,則天下之法不可私也。漢已立昭帝,燕王旦不服,陰圖不軌,霍光折簡誅之。爲人臣子,不可不戒!」19.良家の女を選んで東宮へ入れるよう敕がくだった。 癸巳、太子は左庶子于志寧を派遣して、これを辞退した。上は言う。 「吾は、微賎生まれの子孫を持ちたくなかったのだ。だが、今、辞退されたからは、思う通りにやりなさい。」 上は、太子が仁弱ではないかと疑い、密かに長孫無忌へ言った。 「公が、雉奴(治の幼名)を立てるよう、我へ勧めたのだ。雉奴は臆病者。社稷を守れないかも知れぬ。どうするのか!呉王恪は英雄果断で我に似ている。これを立てたいのだが、どうだ?」 無忌は不可として、固く争った。上は言う。 「公にとって、恪は甥ではないのか?」 「太子は仁厚。まさしく、守文の良主です。儲副は重大なこと、どうして何度も変えて良いものでしょうか!どうか陛下、これを熟慮してください。」 上は、思い止まった。 十二月、壬子、上は呉王恪へ言った。 「親子は一番近い仲だが、罪を犯したら天下の法を私情で曲げることは出来ない。漢代、昭帝を立てた後、燕王旦が服さずに密かに不軌を謀り、霍光から誅殺された。人が臣子となったら、戒めなければならないぞ!」 20庚申,車駕幸驪山温湯;庚午,還宮。20.庚申、車駕が驪山の温泉へ御幸した。庚午、宮へ帰る。 十八年(甲辰、六四四)1.春、正月、乙未。車駕が鐘宮城へ御幸した。庚子、ガク県へ御幸する。壬寅、驪山の温泉へ御幸した。 2相里玄獎至平壤,莫離支已將兵撃新羅,破其兩城,高麗王使召之,乃還。玄獎諭使勿攻新羅,莫離支曰:「昔隋人入寇,新羅乘釁侵我地五百里,自非歸我侵地,恐兵未能已。」玄獎曰:「既往之事,焉可追論!至於遼東諸城,本皆中國郡縣,中國尚且不言,高麗豈得必求故地。」莫離支竟不從。2.相里玄奨が平壌へ到着した。莫離支は既に兵を率いて新羅を攻撃し、城を二つ落としていた。高麗王は、これを召還する。玄奨が新羅を攻撃しないよう諭すと、莫離支は言った。 「昔、隋が入寇した時、新羅はその隙に乗じて我が領地五百里を侵略したのです。我が土地を帰してくれない限り、戦争は止まないかもしれません。」 玄奨は言った。 「昔のことを蒸し返すつもりか!遼東の諸城に至っては、もとは皆中国の郡県だったのだ。中国はこれを云わないのに、高麗は故地を絶対に譲らないのか!」 しかし、莫離支はついに従わなかった。 二月、乙巳朔、玄奨は帰国し、その状況を具に語った。上は言った。 「蓋蘇文はその主君を弑逆し、大臣を賊し、その民へは残虐だ。今、我が詔命にも違って隣国を侵略する。討伐しなければならない。」 諫議大夫褚遂良は言った。 「陛下が指で差し招くと、中原が平和になりました。四夷を睥睨すれば、威望は大きくなりました。今、海を渡って小夷を遠征すれば、指さすだけで勝ちを収めることも出来ましょう。ですが、万一蹉跌が起これば威望を損ないます。更に忿気に溺れて報復の軍を興せば、安危も測りかねます。」 李世勣が言った。 「かつて薛延陀が入寇した時、陛下は兵を挙げてとことんまで討伐しようとしましたが、魏徴が諫めて止めました。おかげで、今に至る喪患となっているのです。陛下の策を用いれば、北鄙は安泰になりましょう。」 上は言った。 「そうだ。これは誠に徴の過失だ。朕はこれを悔やんではいるが、非難すれば良謀を塞ぐことになりかねないと思い、口にしなかったのだ。」 上は、自ら高麗を討伐したがったが、褚遂良が上疏した。その大意は、 「天下を一つの身体に喩えると、両京は心腹です。州県は四肢です。四夷は身外の物です。高麗の罪は大きく、誠に討伐するべきではありますが、ただ二、三の猛将に四、五万の兵を与えれば、陛下の威厳を後ろ盾に、掌を返すように取れます。今、太子は立ったばかりで、まだ幼少です。他の藩塀も、陛下のご存知の通り。一たび金湯の全を棄てて遼海の険を越え、天下の主君の身を以て軽々しく遠出する。皆、愚臣の憂えるところです。」 上は聞かない。 時、群臣の多くが高麗討伐を諫めたので、上は言った。 「八人の堯や九人の舜が集まっても、冬に種を播いて稔らせることは出来ない。野夫や童子でも、春に種播けば稔る。時を得ているからだ。それ、天にその時があるから、人に功績があるのだ。蓋蘇文は、上を凌いで下を虐げる。民は首を長くして、救いを待っているのだ。これこそ高麗を滅ぼす時。議者が紛々と異論を唱えるのは、ただ、目がないのだ。」 3己酉,上幸靈口;乙卯,還宮。3.己酉、上が霊口へ御幸した。乙卯、宮へ帰る。 4三月,辛卯,以左衞將軍薛萬徹守右衞大將軍。上嘗謂侍臣曰:「於今名將,惟世勣、道宗、萬徹三人而已,世勣、道宗不能大勝,亦不大敗,萬徹非大勝則大敗。」4.三月、辛卯。左衛将軍薛萬徹を守右衛大将軍とした。上は、侍臣へ言った。 「今の名将は、ただ世勣、道宗、萬徹の三人のみ。世勣と道宗は大勝はしないかわりに大敗もしない。萬徹は、大勝しなければ大敗する。」 5夏,四月,上御兩儀殿,皇太子侍。上謂羣臣曰:「太子性行,外人亦聞之乎?」司徒無忌曰:「太子雖不出宮門,天下無不欽仰聖德。」上曰:「吾如治年時,頗不能循常度。治自幼寬厚,諺曰:『生狼,猶恐如羊。』冀其稍壯,自不同耳。」無忌對曰:「陛下神武,乃撥亂之才,太子仁恕,實守文之德;趣尚雖異,各當其分,此乃皇天所以祚大唐而福蒼生者也。」5.夏、四月。上が両儀殿へ御し、皇太子が侍った。上は群臣へ言った。 「太子の人格挙動は、外人へ知られているか?」 司徒無忌が言った。 「太子は宮門を出ていませんが、天下には聖徳を欽仰しないものはおりません。」 上は言った。 「吾は治の年には鹿爪らしいことが苦手だった。治は幼い頃から寛大温厚だ。諺にも、『狼を生んで、なお羊のようだと恐れる。』と言う。太子が成長して変わってくれることを願うばかりだ。」 無忌が言った。 「陛下の神武は乱に発揮される才覚です。太子の仁恕は実に守文の徳です。趣は異なりますが、各々その分に当たります。これこそ、皇天が大唐の民へ福を与える祥瑞でございます。」 胡三省、曰く「無忌はここまで太子を保護した。それなのに、後になって、元舅の親でありながら、婦人から間され、その身も家も保てなかった。そのうえ、唐も滅亡寸前まで行ったのだ。これでは太子は寛厚とは言えない。これは闇弱と言うのだ」。 6辛亥,上幸九成宮。壬子,至太平宮,謂侍臣曰:「人臣順旨者多,犯顏則少,今朕欲自聞其失,諸公其直言無隱。」長孫無忌等皆曰:「陛下無失。」劉洎曰:「頃有上書不稱旨者,陛下皆面加窮詰,無不慚懼而退,恐非所以廣言路。」馬周曰:「陛下比來賞罰,微以喜怒有所高下,此外不見其失。」上皆納之。6.辛亥、上が九宮へ御幸した。壬子、太平宮へ至り、侍臣へ言った。 「人臣は、主君の旨に従う者が多く、不機嫌を覚悟で正論を吐く者は少ない。今、朕は自ら過失を聞こうと思う。諸侯は隠すことなく直言せよ。」 長孫無忌等は皆、言った。 「陛下に過失はございません。」 劉洎が言った。 「近頃では気に入らない上書を見ると、陛下は面と向かって徹底的に詰問します。それで上書した者は慚愧して退出する事になるのです。これでは広く意見を求めることが出来ないと愚考します。」 馬周は言った。 「陛下の最近の賞罰は、喜怒によって差がついております。それ以外、過失はありません。」 上は皆、納めた。 上は文学を好み、弁が立った。群臣が具申すると、上は古今を引き合いに出して反駁する。大抵の臣下は反論できなかった。劉洎は上書して諫めた。 「帝王と凡庶、聖哲と庸愚、上下がかけ離れて途絶しているようです。至愚が至聖へ対し、極卑が至尊へ対すれば、いたずらに自分の強さを誇るだけで、何も得る物がありません。陛下が恩旨を降ろし、慈顔を作り、何も言わずにその言葉を聞き、襟を広げてその説を納めても、なお、群下が全てを言い尽くさないことを恐れるのです。ましてや神機で動き天弁を弄し、言葉を飾って相手の理を折り、古を引き合いに出して議を排する。凡庶へ対して、どのような応答を求められておるのですか!それに多く記せば心を損ない、多く語れば気を損ないます。心気が内に損ない、形神を外に労すれば、初めは感じなくても、後には必ず澱が溜まります。社稷の為にも御自愛なさるべきなのに、どうして好きこのんで自ら傷つけられるのですか!秦の始皇帝は強弁で、自ら誇ったために人心を失いました。魏の曹操は広大な才覚で、虚説の為に衆望を汚しました。これは材弁の弊害です。これを見て知るべきでございます。」 上は飛白書で、これへ答えた。 「思慮を無くして下へ臨む事なく、無言で臣下の思慮を延べさせることもない。談論してついに煩多に至り、物を軽んじ人へ驕ることが、全てこの道から起こることを恐れる。形神心気は、この為に労するのではない。今、この言葉を聞いたからは、虚心で受け入れ、改めよう。」 己未、顕仁宮へ至った。 7上將征高麗,秋,七月,辛卯,敕將作大監閻立德等詣洪、饒、江三州,造船四百艘以載軍糧。甲午,下詔遣營州都督張儉等帥幽、營二都督兵及契丹、奚、靺鞨先撃遼東以觀其勢。以太常卿韋挺爲饋運使,以民部侍郎崔仁師副之,自河北諸州皆受挺節度,聽以便宜從事。又命太僕少卿蕭鋭運河南諸州糧入海。鋭,瑀之子也。7.上は、高麗を征伐しようとて、秋、七月、辛卯、将作大監閻立徳等を洪、饒、江三州へ派遣し、四百艘の船を造って軍糧を載せるよう敕した。 甲午、営州都督張倹等に幽、営二都督の兵と契丹、奚、靺鞨を率いて出発し、まず遼東を攻撃してその勢力を見るよう詔が下った。太常卿韋挺を饋運使とし、民部侍郎崔仁師をその副官とし、河北の諸州は全て挺の節度を受けることとし、仕事の便宜を図った。また、太僕少卿蕭鋭には、河南諸州の兵糧を海へ運ぶよう命じた。鋭は、瑀の子息である。 8八月,壬子,上謂司徒無忌等曰:「人若不自知其過,卿可爲朕明言之。」對曰:「陛下武功文德,臣等將順之不暇,又何過之可言!」上曰:「朕問公以己過,公等乃曲相諛悅,朕欲面舉公等得失以相戒而改之,何如?」皆拜謝。上曰:「長孫無忌善避嫌疑,應物敏速,決斷事理,古人不過;而總兵攻戰,非其所長。高士廉渉獵古今,必術明達,臨難不改節,當官無朋黨;所乏者骨鯁規諫耳。唐儉言辭辯捷,善和解人;事朕三十年,遂無言及於獻替。楊師道性行純和,自無愆違;而情實怯懦,緩急不可得力。岑文本性質敦厚,文章華贍;而持論恆據經遠,自當不負於物。劉洎性最堅貞,有利益;然其意尚然諾,私於朋友。馬周見事敏速,性甚貞正,論量人物,直道而言,朕比任使,多能稱意。褚遂良學問稍長,性亦堅正,毎寫忠誠,親附於朕,譬如飛鳥依人,人自憐之。」8.八月、壬子、上が司徒無忌等へ言った。 「人は、自分の過失を知らぬから苦しむ。卿は、朕へ明言せよ。」 対して曰く、 「陛下には武功文徳があり、臣等はそれに従うだけで汲々としております。また、言うべき何の過失がありましょうか!」 上は言った。 「朕が公へ自分の過失を問うたから、公等は想いを曲げて追従を言う。そこで、朕が公等の得失を挙げて、共に戒めとし、改めようではないか。どうだ?」 皆、拝謝した。そこで、上は言った。 「長孫無忌は、善く嫌疑を避け、事に応じては敏速、理に従って決断する。これは古人も及ばない。だが、兵を指揮して戦うことは、得手ではない。高士廉は古今をよくわきまえ、心術明達、艱難にあっても節を改めず、官にあっては朋党を作らない。ただ、硬骨な規諫には乏しい。唐倹は言葉が巧く、人と仲良くやっている。だが、朕に三十年つかえて、遂に献策したことがない。楊師道は純和な性格で、罪違がない。だが、怯懦で緩急を付ける能力がない。岑文本は敦厚な性格で、文章は華麗。だが、持論に根拠がなく、行き当たりバッタリだ。劉洎は最も堅貞で利益がある。だが、朋友への私情に流される。馬周は事に於いては敏速。性格はとても貞正。人物を論じては直言をする。朕が使者を命じると、多くは見事にやってのけてくれる。褚遂良は、学問に長じており、性格は堅く正しい。忠誠の先は朕一人。たとえば、飛鳥が主人に依っているような物。主人としては愛しくてならない。」(強引に訳した箇所も多いし、全体としてかなり怪しいです。) 9甲子,上還京師。9.甲子、上は京師へ帰った。 10丁卯,以散騎常侍劉洎爲侍中,行中書侍郎岑文本爲中書令,太子左庶子中書侍郎馬周守中書令。10.丁卯、散騎常侍劉洎を侍中とした。行中書侍郎岑文本は中書令、対し左庶子中書侍郎馬周は守中書令とする。 文本は拝領した後、帰宅するとふさぎ込んでしまった。母が理由を尋ねると、文本は言った。 「勲功もなく旧知でもないのに、寵栄を妄りに蒙った。位が高ければ責任も重い。憂懼する所以です。」 親賓が祝賀に来ると、文本は言った。 「弔いなら受けますが、祝賀は受けません。」 文本の弟の文昭は校書郎となると、賓客を喜んだ。上はこれを聞いて気分を害した。かつてくつろいだ時に文本へ言った。 「卿が弟と深く付き合えば、卿にまで累が及ぶかもしれぬ。朕は地方官へ出したいのだが、どうかな?」 文本は泣いて言った。 「臣の弟は、早くに父と死別し、老母が特に深く愛していまして、いまだかつて外泊さえしたことがないのです。今、地方官になったら、母は必ずその愁いで憔悴ます。弟がいなくなれば、老母もいなくなってしまいます。」 そして嗚咽が止まらなかった。上はその想いを愍れみ、中止した。ただ、文昭を召しだして、厳しく戒めたので、ついに禍は起こらなかった。 11九月,以諫議大夫褚遂良爲黄門侍郎,參預朝政。11.九月、諫議大夫褚遂良を黄門侍郎として朝政に参与させた。 12焉耆貳於西突厥,西突厥大臣屈利啜爲其弟娶焉耆王女,由是朝貢多闕;安西都護郭孝恪請討之。詔以孝恪爲西州道行軍總管,帥歩騎三千出銀山道以撃之。會焉耆王弟頡鼻兄弟三人至西州,孝恪以頡鼻弟栗婆準爲郷導。焉耆城四面皆水,恃險而不設備,孝恪倍道兼行,夜,至城下,命將士浮水而渡,比曉,登城,執其王突騎支,獲首虜七千級,留栗婆準攝國事而還。孝恪去三日,屈利啜引兵救焉耆,不及,執栗婆準,以勁騎五千,追孝恪至銀山,孝恪還撃,破之,追奔數十里。12.焉耆が西突厥と二股を掛けた。西突厥の大臣屈利啜は、その弟へ焉耆王の娘を娶らせた。これ以来、焉耆は朝貢しなくなった。そこで安西都護郭孝恪は、これの討伐を請願した。 孝恪を行軍総管として、歩騎三千で銀山道から出てこれを撃つよう詔が降りる。その時、焉耆王の弟の頡鼻兄弟三人が西州へやって来たので、孝恪は頡鼻の弟の栗婆準を道案内とした。 焉耆城の四面は、皆、水だった。その険を恃んで、彼等は備えをしていない。孝恪は道を急いで、夜半に城下へ到着すると、将士へ水に浮かんで渡るよう命じた。暁の頃には兵卒達は城へ登り、敵の王突騎支を捕らえた。斬捕した敵兵は七千人。栗婆準を留めて国事を執らせ、帰国する。 孝恪が去った三日後、屈利啜が兵を率いて焉耆救援に駆けつけたが、間に合わなかった。彼等は栗婆準を捕らえると、孝恪を追撃し、銀山にて追いついた。孝恪は、これを迎撃して破り、数十里追撃する。 辛卯、上は侍臣へ言った。 「孝恪は八月十一日に焉耆を攻撃に行くと上奏した。二十日には向こうへ到着して、二十二日には、必ずこれを破っている。朕が旅程を考えるに、今日には使者が到着するぞ!」 言い終わらない内に、駅騎が到着した。 西突厥の處那啜は、その吐屯に焉耆の国政を執らせて、唐へ入貢の使者を派遣した。上は、これを詰って言った。 「我が兵を出して焉耆を獲ったのに、、汝はこれに據るなど、何様だ!」 吐屯は懼れてその国を返した。 焉耆は、栗婆準の従父兄の薛婆阿那支を立てて王としたが、處那啜へ臣従した。 13乙未,鴻臚奏「高麗莫離支貢白金。」褚遂良曰:「莫離支弑其君,九夷所不容,今將討之而納其金,此郜鼎之類也,臣謂不可受。」上從之。上謂高麗使者曰:「汝曹皆事高武,有官爵。莫離支弑逆,汝曹不能復讎,今更爲之游説以欺大國,罪孰大焉!」悉以屬大理。13.乙未、鴻臚が上奏した。 「高麗の莫離支が白金を貢いできました。」 褚遂良が言った。 「莫離支は、その主君を弑逆した、九夷から見離された男です。今将にこれを撃つべきなのに、その金を貰うならば、これは郜鼎と同類になってしまいます。(春秋左氏伝、斉の桓公が、褚の鼎を取って非難された。)臣は、これを受け取らないようお願いもうします。」 上は、これに従った。 上は、高麗の使者へ言った。 「汝等は皆、高武へ仕えて官爵を受けていた。莫離支が弑逆したのに、汝等は復讐することも出来ぬばかりか、今、更に彼の為に雄説して大国を欺く。これ以上の罪はないぞ!」 彼等を悉く大理へ引き渡した。 14冬,十月,辛丑朔,日有食之。14.冬、十月。辛丑朔、日食が起こった。 15甲寅,車駕行幸洛陽,以房玄齡留守京師,右衞大將軍、工部尚書李大亮副之。15.甲寅、車駕が洛陽へ御幸した。房玄齢に京都の留守をさせる。右衛大将軍、工部尚書李大亮を副官とする。 16郭孝恪鎖焉耆王突騎支及其妻子詣行在,敕宥之。丁巳,上謂太子曰:「焉耆王不求賢輔,不用忠謀,自取滅亡,係頸束手,漂搖萬里;人以此思懼,則懼可知矣。」16.郭孝恪が、焉耆王突騎支とその妻子を鎖で縛って行在所へ連行した。敕が降りて、これを宥める。 丁巳、上が太子へ言った。 「焉耆王は賢者の補佐を求めず、忠義の謀を用いず、自ら滅亡の道を採った。挙げ句に、鎖で 縛られて万里を連行されたのだ。人は、これで懼れる。こうやって、懼れを知らせられるのだ。」 己巳、澠池の天池で狩猟をした。十一月壬申、洛陽へ到着する。 前の宜州刺史鄭元璹は既に退職していたが、彼はかつて煬帝に随従して高麗へ出征した経歴を持っていたので、上はこれを行在所へ召し出して、高麗のことを問うた。対して言う、 「遼東までは道のりは遠く、兵糧の運搬が困難です。東夷は城を善く守りますので、これを攻撃してもすぐには落とせません。」 上は言った。 「今日の国力は、隋の比ではない。ただ、公の意見は参考に聞いただけだ。」 張倹等が遼水を見ると、水が漲っており、容易くは渡れないと報告した。それを聞いて上は畏惰となし、倹を洛陽まで呼び付けた。到着すると、倹は山河の険易や水草の美悪をつぶさに述べたので、上は悦んだ。 上は、洺州刺史程名振が用兵上手と聞いて、召し出して方略を尋ねたが、それで彼の才覚を嘉し、労って言った。 「卿には将相の器量がある。朕は使に任じるつもりだ。」 名振は、拝謝をし忘れた。上は、例にこれを責めて、その反応を見てみようと思い、言った。 「山東の田舎者が。一刺史くらいで富貴を極めたと思ったか!天子の前に出て漫ろな言動、拝礼さえもしないのか!」 名振は陳謝して言った。 「粗野の臣ですので、いままで聖君の御下問を受けたことがなく、どのように対しようか考えてしまい、それでつい拝礼を忘れてしまったのでございます。」 その挙動は自若としており、応対の弁舌はいよいよ明確だった。上は感嘆して言った。 「房玄齢は朕の左右に侍って二十余年になるが、未だに朕が余人を譴責する有様を見ると、顔色を失ってしまう。名振は、朕に始めてあったのに、譴責を受けてもまるで怯えず、言葉も筋道が通っている。真の奇士だ!」 即日、右驍衛将軍に任命した。 甲午、刑部尚書張亮を平壌道行軍大総管として、江、淮、嶺、峡の兵四万、長安、洛陽の募兵三千、戦艦五百艘を与え、莱州から海路で平壌へ向かわせた。また、太子詹事、左衛率李世勣を遼東道行軍大総管として、歩騎六万及び蘭、河二州の降伏した胡を与えて遼東へ派遣し、両軍連携を執りながら進軍させた。 庚子、諸郡は幽州に集結した。行軍総管姜行本、少府少監丘行淹を安蘿山へ先行させて、城攻めの雲梯や衝車を造らせた。 この時、遠近の勇士達が募兵に応じたり、城攻めの器械を献上する者が後を絶たなかった。上は自ら損益を加えて、その便易を取った。又、手詔にて天下を諭して、言った。 「高麗の高蓋蘇文は、主君を弑逆し民を虐げた。人情として、どうして看過できようか!今、幽、薊を巡幸し、遼、碣の罪を詰問しようと欲す。通過する営屯は、労費することなかれ。」 更に言う。 「昔、隋の煬帝はその下を残暴しており、対して高麗王はその民を仁愛していた。心に造反を思っている軍で安らかに楽しんでいる衆を攻撃したから、成功しなかったのだ。今、軍略上、必勝の要素が五つある。一は大を以て小を撃つ。二は、順を以て逆を討つ。三は、治を以て乱に乗じる。四は、逸を以て労を待つ。五は、悦を以て怨へ当たる。何で勝てないことを憂えようか!国民へ布告する。疑懼することなかれ!」 ここを以て、屯舎へ供費される戦具は大半が減らされた。 17十二月,辛丑,武陽懿公李大亮卒於長安,遺表請罷高麗之師。家餘米五斛,布三十匹。親戚早孤爲大亮所養,喪之如父者十有五人。17.十二月、辛丑。武陽懿公李大亮が、長安にて率した。遺表にて高麗討伐の中止を請願する。家には米五杜と布三十匹しか残ってなかった。その代わり、幼くして孤児になって大亮に養われ、父を喪ったかのように悲しんだ親戚の者は十五人も居た。 18壬寅,故太子承乾卒於黔州,上爲之廢朝,葬以國公禮。18.壬寅、もとの太子承乾が黔州で率した。上はこれの為に朝議を中止し、国公の礼で埋葬した。 19甲寅,詔諸軍及新羅、百濟、奚、契丹分道撃高麗。19.甲寅、諸軍及び新羅、百済、奚、契丹へそれぞれ別道から高麗を攻撃するよう詔した。 20初,上遣突厥俟利苾可汗北渡河,薛延陀眞珠可汗恐其部落翻動,意甚惡之,豫蓄輕騎於漠北,欲撃之。上遣使戒敕無得相攻。眞珠可汗對曰:「至尊有命,安敢不從!然突厥翻覆難期,當其未破之時,歳犯中國,殺人以千萬計。臣以爲至尊克之,當剪爲奴婢,以賜中國之人;乃反養之如子,其恩德至矣,而結社率竟反。此屬獸心,安可以人理待也!臣荷恩深厚,請爲至尊誅之。」自是數相攻。20.初め、上は突厥の俟利苾可汗へ河を渡って北上させた。薛延陀の真珠可汗は、その部落が動揺することを懼れ、心中これを甚だ憎み、軽騎を漠北へ揃えてこれを攻撃しようとした。上は使者を派遣して敕を与え、戦争しないよう戒めた。対して、真珠可汗は言った。 「至尊の命令が出たのです。従いたいことやぶさかではありません!ですが、突厥は反覆常ない連中です。彼等が未だ破滅していなかった頃は、年中中国を犯し殺した人も千萬を数えました。ですから臣は、至尊がこれに克った時、彼等を全員奴隷にして中国の民への賜にするだろうと思っていたのです。ですが、却って彼等を我が子のように養いました。その恩徳は至れりと言えます。それなのに、結社率は遂には造反しました。これは獣の心です。どうして人の理でつきあえましょうか!臣は至尊から深く厚い御恩を蒙りました。至尊の為にこれを誅させてください。」 これより、しばしば戦争が起こった。 俟利苾が黄河を渡った時には十万の民衆と四万の勝兵がいた。だが、俟利苾は彼等を撫御することができず、衆は彼に服さなかった。戊午、彼等は全員俟利苾を棄てて河を渡って南下し、勝・夏の間に住ませて欲しいと嘆願した。上はこれを許す。群臣は皆言った。 「陛下は、将に遼東へ遠征しようとなさっていますのに、突厥を河南へ住ませる。そこは京師のそばですぞ。後慮が起こったらどうなさいますか!どうか陛下は洛陽に留まられ、諸将を東征へ派遣してください。」 だが、上は言った。 「夷狄も人間だ。その人情は、中原と変わらない。人主は、徳沢が加わらないことを憂えるだけで、異類を猜忌する必要はない。けだし、徳沢が触れ合えば、四夷は一家のように使えるし、猜忌が多いと骨肉でも讐敵となってしまう。煬帝は無道で、遠征のずいぶん前から人心はすっかり失われていた。だから遼東の役が起こった時、人は皆、手足を切断してまで征役を避けた。この時、楊玄感は輜重兵を率いて黎陽にて造反したので、夷狄が患を為したのではない。朕は今回高麗東征に当たって募兵したが、十人募れば百人志願し、百人募れば千人志願が来る。従軍から洩れた者は憤懣やるかたない有様だ。なんで民から怨まれていた隋の行軍と同列に語られようか!突厥は貧弱だから、我が収めて養ってやっているので、その恩は骨髄に染みわたっている。なんで患を為そうか!それに、彼等と薛延陀は嗜欲がほぼ同じなのに、彼等は北上して薛延陀の元へ逃げ込まずに、南下して我が元へ帰順したのだ。それを見ても、彼等の心情が判るではないか。」 顧みて褚遂良へ言った。 「爾は起居を記録している。これをしっかりと記載せよ。今から十五年間は、突厥の患いは起こらないぞ。」 俟利苾は民衆を失った後、軽騎で入朝した。上は、右武衛将軍とした。 十九年(乙巳、六四五)1.春、正月。韋挺が先行して運河の様子を検分しなかった為に、兵糧舟六百余艘が盧思台まで来ると河が浅すぎ船底がつかえて進めなくなった。韋挺は、この罪で囚人として洛陽へ送られた。丁酉、除名され、将作少監の李道裕と交代させた。崔仁師もまた、免官となる。 2滄州刺史席辯坐贓汚,二月,庚子,詔朝集使臨觀而戮之。2.滄州刺史席弁が収賄で有罪となった。二月庚子、朝集使が観ている中で殺戮せよと詔が降りた。 3庚戌,上自將諸軍發洛陽,以特進蕭瑀爲洛陽宮留守。乙卯,詔:「朕發定州後,宜令皇太子監國。」開府儀同三司致仕尉遲敬德上言:「陛下親征遼東,太子在定州,長安、洛陽心腹空虚,恐有玄感之變。且邊隅小夷,不足以勤萬乘,願遣偏師征之,指期可殄。」上不從。以敬德爲左一馬軍總管,使從行。3.庚戌、上は自ら諸軍を率いて洛陽を出発した。特進蕭瑀を洛陽宮留守とする。 乙卯、詔が降りた。 「朕が定州を出発した後は、太子を監国とせよ。」 開府儀同三司致仕尉遅敬徳が上言した。 「陛下が遼東へ親征し、太子が定州へおりますと、長安洛陽の心腹が空虚となり、楊玄感のような乱が起こりかねません。それに辺隅の小夷など、万乗が出向くには役不足です。どうか偏師を派遣して征伐させてください。それでもアッとゆう間に滅ぼせます。」 上は従わなかった。敬徳を左一馬軍総管として、従軍させた。 4丁巳,詔謚殷太師比干曰忠烈,所司封其墓,春秋祠以少牢,給隨近五戸供灑掃。4.丁巳、殷の太子比干へ忠烈と諡し、その墓を守る役人を置き春秋には少牢で祀り、近隣の五戸を給付して清掃をさせるよう、詔が降りた。 さて、上が京師を出発する時、房玄齢へ、”従軍に便宜な事なら奏請しなくても構わない”と許可を与えていた。上が出発した後、ある者が留台へやって来て、密謀があると告げた。玄齢が誰にどのような密謀があるのか尋ねると、男は答えた。 「公がそれだ。」 指摘を受けた玄齢は、駅伝を行在所へ送った。上は、留守が造反を告発してきたと聞き、怒って、長刀を持った者を前に立たせ後ろにこれを見て、告発された者は誰か問うた。すると、使者は返事をした。 「房玄齢です。」 上は言った。 「やっぱりか。」 叱って使者を腰斬した。玄齢が自信がないことを璽書で責め、言った。 「今後、このようなことがあれば、自分で決断せよ。」 癸亥、上は鄴へ到着した。自ら魏の太祖を祭る文を書いた。 「危機に臨んでは変化で制し、敵を料って奇策を設ける。一将の智としては余りあったが、万乗の才には足りなかった。」 この月、李世勣の軍が幽州へ到着した。 三月、丁丑。車駕が定州へ到着した。 丁亥、上は侍臣へ言った。 「遼東は、もともと中国の領土だったが、隋氏は四度も遠征して、得られなかった。朕の今回の東征は、中国の子弟の讐を報い、高麗の逆臣を誅して高麗君父の恥を雪ぐ事にある。それに、中国はほぼ平定したが、ただ遼東のみ他国に奪われたままだ。だから朕が年老いる前に士大夫の余力を用いてこれを取るのだ。朕は洛陽を出発してからは、ただ肉と飯を食い、春野菜といえども口にしないのは、煩雑にすることを懼れているのだ。」 上は病気の兵卒を見ると、侍臣の寝椅子まで連れてきて慰撫し、州刺史県令へ治療を手配させたので、感悦しない士卒はいなかった。或いは、東征の軍籍に載っていないのに、自ら私装で従軍を願い出る者も千人を越えた。彼等は、皆、言った。 「官位や恩賞など求めません。ただ、遼東で討ち死にすることが願いです。」 上は許さなかった。 上の出発が近づくと、太子は悲しみで数日泣いた。上は言った。 「今、汝を留めて鎮守させ俊賢を補佐させるのは天下へ汝の風采を知らしめるためだ。それ、国の要は賢を進め不肖を退け、善を賞し悪を罰し、公平無私であることだ。汝はこれに努力せよ。泣いている場合か!」 開府儀同三司高士廉へ摂太子太傅を命じ、劉洎、馬周、少詹事張行成、右庶子高季輔と共に機務に携わらせ、太子の助けとした。長孫無忌、岑文本と吏部尚書楊師道が上へ随行する。 壬辰、車駕が定州を出発した。上は自ら弓矢を佩服し、雨衣を鞍後へ結んだ。長孫無忌へ摂侍中、楊師道へ摂中書令を命じる。 李世勣軍は柳城を出発し、盛大に宣伝して懐遠鎮へ出るように見せかけ、密かに北上して高麗の不意を衝こうとした。夏、四月、戊戌朔、世勣は通定から遼水を渡り、玄莵へ到着した。高麗軍は大いに驚き、城邑は全て城門を閉じて守った。 壬寅、遼東道副大総管江夏王道宗が数千の兵を率いて新城へ到着した。折衝都尉曹三良が十余騎を率いて城門へ突撃した。城中は驚き乱れ、敢えて出撃する者はいなかった。 営州都督張倹は胡兵を率いて前鋒となり、遼水を渡って建安城へ向かい、高麗兵を撃破した。数千級を斬首する。 5太子引高士廉同榻視事,又令更爲士廉設案,士廉固辭。5.太子が高士廉を同じ寝椅子へ引き入れて政務を執った。また、士廉を設案へ変えようとしたが、士廉は固辞した。 6丁未,車駕發幽州。上悉以軍中資糧、器械、簿書委岑文本,文本夙夜勤力,躬自料配,籌、筆不去手,精神耗竭,言辭舉措,頗異平日。上見而憂之,謂左右曰:「文本與我同行,恐不與我同返。」是日,遇暴疾而薨。其夕,上聞嚴鼓聲,曰:「文本殞沒,所不忍聞,命撤之。」時右庶子許敬宗在定州,與高士廉等共知機要,文本薨,上 召敬宗,以本官檢校中書侍郎。6.丁未、車駕が幽州を出発した。 ところで、上は軍中の全ての資糧、器械、簿書を岑文本へ委ねていた。文本は朝早くから夜遅くまで勤勉に務め、体のことも顧みず、いつも算盤や筆を離さなかった。おかげで精神はすり減り尽くし、言葉も行動も平素とは全然違ってしまった。上はこれを見て憂え、左右へ言った。 「文本は我と共に出発したが、我と共に帰ることはできないかも知れぬ。」 この日、文本は突然発病して、ポックリ死んだ。その夕方、上は厳しい太鼓の音を聞き、言った。 「文本が死んだのだ。聞くに忍びない。止めさせなさい。」 この時、右庶子許敬宗は定州に居り、高士廉等と共に政治の機密を扱っていた。文本が死ぬと、上は敬宗を呼び出し、検校中書侍郎とした。 7壬子,李世勣、江夏王道宗攻高麗蓋牟城。丁巳,車駕至北平。癸亥,李世勣等拔蓋牟城,獲二萬餘口,糧十餘萬石。7.壬子、李世勣と江夏王道宗は高麗の蓋牟城を攻撃した。 丁巳、車駕が北平へ到着した。 癸亥、李世勣等は蓋牟城を抜き、二万余口の民と十余万石の兵糧を獲得した。 張亮は水軍を率いて東莱から渡海し、卑沙城を襲撃した。その城は四面が切り立っており、ただ西門のみへのみ登れた。程名振は、兵を率いて夜襲した。副総管王文度が先頭で登る。五月、己巳、これを抜き、男女八千人を捕らえる。ここで二隊に分かれ、総管丘孝忠等は鴨緑水へ向かった。 李世勣は遼東城下まで進軍した。 庚午、車駕が遼沢へ到着する。ここはぬかるみが二百余里も広がっており人馬が進めなかったが、将作大匠閻立徳が土嚢で橋を造ったので、凝滞無く進軍できた。壬申、沢東へ渡る。 乙亥、高麗は歩騎四万を遼東救援に派遣した。江夏王道宗が四千騎で迎撃しようとした。軍中の皆は、兵力差があまりに大きすぎるので守備を固めて車駕の到着を待つよう言ったが、道宗は言い返した。 「賊は多勢を恃んで我等を軽く見ている。しかも遠来で疲れているので、これを攻撃すれば絶対敗れる。それに、我が軍は前軍となったのだ。道を清めて乗輿を待つのが任務なのに、賊を君父へ遺すのか!」 李世勣も賛同した。果毅都尉の馬文挙は言った。 「強敵と遭わなければ、壮士の力を見せられないぞ!」 馬に鞭打って敵へ突撃すれば、向かうところ皆逃げ出したので、衆心は落ち着いた。 合戦が始まると、行軍総管張君乂が後退した。唐軍は形勢が悪い。道宗は散らばった兵をかき集め、高みに登って戦場を見下ろし、高麗の乱れている陣を見定め、驍騎数十を率いてここかしこと暴れ回った。李世勣も兵を率いてこれを助けたので、高麗軍は大敗した。千余級を斬首する。 丁丑、車駕が遼水を渡った。そこで橋を壊して、士卒の心を堅くした。馬首山に陣を張る。江夏王道宗を慰労して恩賞を賜下し、馬文挙を中郎将へ大抜擢し、張君乂を斬った。 上は、自ら数百騎を率いて遼東城下へ至った。士卒は土嚢を背負っていたが、上はその一番重いものを馬上で持った。従官達も争って土を背負い城下へ運んだ。李世勣は、十二日に亘って、昼夜休まず遼東城を攻撃していた。そこへ上が精鋭兵を率いて合流し、遼東城を数百重に包囲し、軍鼓の音は天地をも震わせた。 甲申、南風が激しかった。上は身軽な兵を衝竿のてっぺんに登らせ、遼東城の西南楼を燃やさせた。火は城中まで延焼する。それに乗じて将士は城へ登った。高麗は力戦したがかなわず、遂にこれに勝った。万余人を殺し、勝兵万余人、男女四万人を得る。この城を、遼州とした。 乙未、白巖城へ進軍する。丙申、右衛大将軍李思摩へ弩の矢が当たった。上は自らその血を吸う。将士はこれを聞き、感動しない者はなかった。 烏骨城が万余の兵を派遣して、白巖城を声援した。将軍契苾何力が精鋭八百騎で迎撃する。何力は勇敢に敵陣へ乗り込んだが、腰を槊で刺されてしまった。尚輦奉御薛萬備が単騎で救援に駆けつけ、万人の中から何力を助け出した。何力は気力は益々憤激し、傷口を縛って戦う。麾下の騎兵達も奮撃し、遂に高麗軍を破った。数十里追撃し、千余級の首を斬る。宵の口になって戦闘を止めた。萬備は、萬徹の弟である。 |