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資治通鑑巻第二百九
唐紀二十五 中宗大和大聖大昭孝皇帝下 景龍二年(戊申、七〇八)1.春、二月、庚寅、皇后の衣装箱の上から五色の雲が沸き上がっていると、宮中で噂が立った。上は、これを図に書かせて百官へ示した。韋巨源はこれを天下へ公表するよう請うた。これに従った。そして、天下へ恩赦を下した。 2迦葉志忠奏:「昔神堯皇帝未受命,天下歌桃李子;文武皇帝未受命,天下歌秦王破陣樂;天皇大帝未受命,天下歌堂堂;則天皇后未受命,天下歌娬媚娘;應天皇帝未受命,天下歌英王石州。順天皇后未受命,天下歌桑條韋,蓋天意以爲順天皇后宜爲國母,主蠶桑之事,謹上桑韋歌十二篇,請編之樂府,皇后祀先蠶則奏之。」太常卿鄭愔又引而申之。上悅,皆受厚賞。2.迦葉志忠が上奏した。 「昔、神堯皇帝が命を受ける前、天下の人々は『桃李子』を歌いました。文武皇帝が命を受ける前、天下の人々は『秦王破陣楽』を歌いました。天皇大帝が命を受ける前、天下の人々は『堂々』を歌いました。應天皇帝が命を受ける前、天下の人々は『英王』を歌いました。順天皇后が命を受ける前、天下の人々は『桑條韋』を歌いました。けだし、天意は順天皇后を国母となすよう示しております。今、蚕桑の仕事をもとにした桑韋歌十二篇を、謹んで献上いたします。どうかこれを楽府にて編み、皇后が先蚕を祀る時に演奏させてください。」 上は悦び、皆、厚い恩賞を受けた。 3右補闕趙延禧上言:「周、唐一統,符命同歸,故高宗封陛下爲周王;則天時,唐同泰獻洛水圖。孔子曰:『其或繼周者,雖百代可知也。』陛下繼則天,子孫當百代王天下。」上悅,擢延禧爲諫議大夫。3.右補闕趙延禧が上言した。 「周が唐へ戻り、符命も回復しました。さて、故高宗は陛下を周王へ封じましたし、則天武后の頃、唐同泰は洛水図を献上しました。かつて、孔子が言われました。『周を継ぐ者があれば、百代後でも知ることができる。』と。陛下は則天武后を継がれたのです。子孫は百代まで天下の王となります。」 上は悦び、延禧を諫議大夫へ抜擢した。 4丁亥,蕭至忠上疏,以爲:「恩倖者止可富之金帛,食之粱肉,不可以公器爲私用。今列位已廣,穴員倍之,干求未厭,日月增數,陛下降不貲之澤,近戚有無涯之請,賣官利己,鬻法徇私。臺寺之内,朱紫盈滿,忽事則不存職務,恃勢則公違憲章,徒忝官曹,無益時政。」上雖嘉其意,竟不能用。4.丁亥、蕭至忠が上疎した。 「恩倖を蒙る者は、金帛で富ませてふんだんな食い扶持を与えるべきで、公器を私物化させてはなりません。今、官職は多すぎますし、予備人員はそれに倍していますのに、縁故などで採用を求める者は後を絶たず、その人員は日々増加しております。陛下は無用の恩沢を下賜し、近戚は無茶な請願をして官位を売ったり法を曲げたりして私腹を肥やしており、台寺の内には朱や紫が溢れ返っています。全てのことは職務に関わらず、ただ勢力を恃んで大っぴらに法律を踏みにじっているだけです。いたずらに官職ばかり増やしても、政事には何の役にも立ちません。」 上はその意を嘉したが、ついに採用できなかった。 (訳者、曰く)既得権益を削るのは難しい。だから、一度官職を作ると、それが不用となった後でも人員を削ることはできない。こうして役人の数は段々増えて行き、こうゆう遊んで暮らす手合いへの扶持が膨れ上がる。これはどの時代にも共通の通弊で、平和な時期が長引くほど酷くなる。いわゆる、「動脈硬化を起こした」と称される社会である。 今の日本とて例外ではない。官庁の人件費が膨れ上がっただけではなく、有害無益の各種法人が利権を貪り、彼等が形だけの仕事をする為に掛けている無用の規制までも年々増加している。それに対応する為の民間の労力も、全て無駄である。しかしながら、これらのことを徐々に改正して行くことはなかなかできない。結局、行き着くところまで行き着いて、その負担に耐えられなくなった人民が暴動を起こして国が亡びる。一つの王朝の命脈が数百年しか保たれないのは、このようなダニが増えすぎるのが原因だと言われている。 明治維新で日本が躍進できたのは、江戸幕府が亡びて特権階級が一掃されてしまったことが一番の要因だと私は考えている。幕府の臣下の中にも、有能にして誠実勤勉な人間が何人も居た。彼等は改革を進めるために必死の努力を続けたが、それらは全て有力者の事なかれ主義に寄ってたかって潰されてしまった。歴史にifはないが、もしも彼等の努力が稔って少しでも改革の実が上がり、それによって江戸幕府の命脈が僅かでも繋がっていたとしても、結局は民の苦しみがその分長引くだけに過ぎなかっただろう。 腐り始めた社会は、改革するよりも、もっと腐らせて革命によって根こそぎ崩壊させるべきなのかも知れない。老子の言った「縮めんと欲したら、まず伸ばせ。」とは、このいいか。 史書を読んで「冗員、冗官」のくだりに至る度に、私は書を閉じて瞑想嗟嘆せずにはいられなくなるのだ。 5三月,丙辰,朔方道大總管張仁愿築三受降城於河上。5.三月、丙辰、朔方道大総管張仁愿が河上へ三つの受降城を築いた。 当初、朔方軍と突厥は、河を境界としていた。河北には払雲祠があり、突厥は入寇する時には必ずこの祠を詣でて祈願し、その後に馬や人を肥やしてから河を渡った。 この頃、黙啜が兵を総動員して突騎施を攻撃した。仁愿は、その虚に乗じて漠南の土地を奪取し、河北へ三つの受降城を築くことを請願した。これらが呼応すれば突厥の南寇の通路を断つことができるのだ。 太子少師唐休璟は言った。 「漢代以降、北は黄河を防衛線としていました。今、突厥の領土内へ城を築いても、人力を浪費するばかりで、最後には虜に奪われてしまうでしょう。」 しかし、仁愿が固く請うて止まなかったので、上も遂にこれに従ったのだ。 仁愿は期限が満ちて帰郷する防人達を鎮へ留めて工事の手助けをさせるよう上表した。咸陽の兵卒二百余人が逃げ帰ったが、仁愿は彼等を悉く捕らえて城下にて斬った。軍中は戦慄し、二ヶ月で城が完成した。 払雲祠を中城とし、東西に各々四百余里離して二つの城を築く。全て険阻な地形に據り、唐の領土は三百余里広がった。 また、牛頭の朝那山の北に千八百の狼煙台を造り、左鈐衛将軍論弓仁を朔方軍前鋒遊弈使として諾眞水を守らせ、巡回守衛をさせた。 これ以来、突厥は山を越えて放牧しようとせず、朔方も又掠奪を受けなくなり、鎮守の兵卒も数万人減らされた。 仁愿は三城を築城する時、壅門(城外に垣などを作って、城門を遮蔽した門)や守備の道具を設置しなかった。ある者が理由を問うと、仁愿は言った。 「兵は進取を貴び、退守は良くない。敵が来襲したら力を併せて討って出て、踵返して城へ向かう者は斬り殺すべきだ。守備を用いて退却の心を生み出して、なんで良いものか!」 その後、常元楷が朔方軍総管となった時、始めて壅門が築かれた。人々はこの一事を以て仁愿を重んじ元楷を軽んじた。 6夏,四月,癸未,置修文館大學士四員,直學士八員,學士十二員,選公卿以下善爲文者李嶠等爲之。毎游幸禁苑,或宗戚宴集,學士無不畢從,賦詩屬和,使上官昭容第其甲乙,優者賜金帛;同預宴者,惟中書、門下及長參王公、親貴數人而已,至大宴,方召八座、九列、諸司五品以上預焉。於是天下靡然爭以文華相尚,儒學忠讜之士莫得進矣。6.夏、四月、癸未、修文館を設置した。大学士四人、学士二十人を選び、公卿以下李嶠のように文章の巧い物を選んでこれに充てた。 禁苑へ遊幸した時や、宗戚が集まって宴会を開く時など、学士は必ず参席し、詩を賦して皆で和した。上官昭容へ審査させて優れた者へ金帛を下賜した。この宴会へ列席できる者はただ中書、門下及び長参王公など親貴数人だけだった。だが、大規模な宴会では八座九列を召して、五品以上が参席した。(訳者、注。上官婕妤が昭容となるのは、この年の冬の事で、14に記載されています。ここで昭容と記述するのは早すぎると思うのですが、原文に合わせて訳しました。) ここにおいて天下の人々は争って華麗な文章を貴ぶようになり、儒学や忠義の士は栄達しなくなった。 7秋,七月,癸巳,以左屯衞大將軍、朔方道大總管張仁愿同中書門下三品。7.秋、七月、癸巳、左屯衛大将軍、朔方道大総管張仁愿を同中書門下三品とした。 8甲午,清源尉呂元泰上疏,以爲:「邊境未寧,鎭戍不息,士卒困苦,轉輸疲弊,而營建佛寺,月廣月滋,勞人費財,無有窮極。昔黄帝、堯、舜、禹、湯、文、武惟以儉約仁義立德垂名,晉、宋以降,塔廟競起,而喪亂相繼,由其好尚失所,奢靡相高,人不堪命故也。伏願回營造之資,充疆場之費,使烽燧永息,羣生富庶,則如來慈悲之施,平等之心,孰過於此?」疏奏,不省。8.甲午、清源尉呂元泰が上疏した。 「辺境は不穏で警戒を厳重にせねばなりません。ですから、兵卒は困苦し兵糧の輸送に民は疲弊しています。それなのに仏寺を建造することは日々多くなり、労力や財政を際限なく浪費しています。昔、黄帝、堯、舜、禹、湯、文、武の聖君達は、ただ倹約と仁義で徳を立て名を遺しました。晋、宋以降は塔や廟を競い合って造り、騒乱が相継ぎました。これは、正しくないものを好み尚び奢靡を競い合ったので、人々が権豪の命令に耐えられなくなった為です。どうか造営の費用を軍費へ回し、この戦争を永遠に終わらせ、民を裕福にさせてください。それは則ち、如来の慈悲の施しです。平等の心は、これ以上のものはありません。」 疏は上奏されたが、顧みられなかった。 9安樂、長寧公主及皇后妹郕國夫人、上官婕妤、婕妤母沛國夫人鄭氏、尚宮柴氏、賀婁氏、女巫第五英兒、隴西夫人趙氏,皆依勢用事,請謁受賕,雖屠沽臧獲,用錢三十萬,則別降墨敕除官,斜封付中書,時人謂之「斜封官」;錢三萬則度爲僧尼。其員外、同正、試、攝、檢校、判、知官凡數千人。西京、東都各置兩吏部侍郎,爲四銓,選者歳數萬人。9.安楽、長寧公主及び皇后の妹の郕国夫人、上官婕妤、婕妤の母の沛国夫人鄭氏、尚官柴氏、賀婁氏、女巫第五英児、隴西夫人趙氏は、皆、権勢に依って専横し、賄賂による請願を受けた。下賎の身分でも三十万銭を用いれば墨敕が降りて除官され、斜封が中書へ届けられた。当時の人々は、これを「斜封官」と言った。銭三万を渡せば、すぐに僧尼になれた。その員外、同正、試、摂、検校、判、知官はおよそ数千人。西京、東都の各々に二人の吏部侍郎を置いて四度人選し、年間数万人が登用された。 上官婕妤及び後宮の女性の多くは外第に立ち、無節操に出入りした。朝士は往々にしてこれにこれに随行して遊んで遊び、栄達を求めた。 安楽公主は最も驕慢横暴で、宰相以下大勢の人間が彼女の縁故で任命された。彼女と長寧公主は競って邸宅を造り、とめどなく侈麗になっていった。それは宮掖を模擬していたが、それ以上に精巧だった。 安楽公主が、昆明池を請うた。上は、それが百姓達の漁業資源になっていることを考え、許さなかった。公主は不機嫌になり、民の田を強奪して定昆池を造営した。それは南北数里に連なり、石を積み重ねて華山を形撮り、水を引き入れて天の川に模した。彼女はこの池を昆明以上の池にしようと思い、「定昆」と名付けたのである。 安楽が、織物でスカートを作ったが、その値は一億した。描かれている花弁鳥獣は、皆粟粒くらいの大きさ。真っ直ぐに見たり端から見たり、日中だったり陰になったりした一様ごとに、それらは各々違った色に見えた。 上は蹴鞠が好きだった。すると皆が蹴鞠を持てはやすようになり、駙馬の武祟訓、楊慎交は油を播いて毬場を造った。慎交は、恭仁の曾孫である。 上と皇后、公主は多くの仏寺を造営した。左捨遣の京兆の辛替否は、上疏して諫めた。その大意は、 「『昔は、役所では必要ない部員は欠員としており、士は行いを全うし、どの家庭も廉節だったので、朝廷には棒禄が余り百姓は食糧が余っていた。』と、臣は聞いております。それなのに今は、陛下が恩賞を百倍賜下し官員を十倍増員しておりますので、金銀も束帛も規定にさえ不足しております。遂には富豪達をことごとく朝臣として採用し、芸伎や巫女も肥え太らせている有様です。」 又言った。 「公主は陛下の愛娘。それなのに彼女達への接し方は古義に合わず、彼女達の行動は人心をなみしております。これでは将来、愛情が憎しみに変わり、福が転じて禍となるのではないかと恐れます。何故でしょうか?人の労力を尽くし人の財産を費やし人の家を奪う。数人の娘を愛して三怨を取る。辺境の士には力を尽くさせず、朝廷の士には忠義を尽くさせない。これでは人は散って行きます。愛する人がいるのに、彼等を守るために何を恃みとするのですか!主君は、人を以て本とします。本が堅ければ国は安寧です。国が安寧ならば、陛下の夫婦母子も長くその地位を保てます。」 又言った。 「寺を造るならば、国情を考えなければなりません。大切にしている人間には、国を経営する能力がありません。彼等は、『殷・周時代は既に遠い過去だから馬鹿者ばかりだったし、漢・魏は最近のことですから、聖人君子揃いだ。殷・周は遠い過去だから、見習う物は何もなく、漢・魏は最近の時代だから欠陥がない。』くらいにしか考えていない人間なのです。陛下は大切なことをゆるがせにし、つまらないことに力を注いでいます。未来ばかりを見て今を見ていません。真実を失って虚無を冀っています。俗人のやることを重んじ、天子の仕事を軽んじています。これでは、炭や銅がどこにでもゴロゴロ転がっており食糧や衣服なしでも生きて行ける人間を使役したとしても、なお物資に不足してしまいます。ましてや天が産み地が養った物を材料にして、風が吹き雨が潤した後に、ようやく物資ができるのですぞ!一旦風塵がかき乱して霜や雹が作物を台無しにしたら、僧侶は農具を操れず、寺塔は飢饉の役に立ちません。、臣はひそかにこれを惜しむのです。」 疏は奏上されたが、顧みられなかった。 この頃、斜封官は両省を経由せずに授けられるようになった。両省は何も奏上することがなく、ただ告知するだけの役所になった。ただ吏部員外郎李朝隠だけは、合わせて千四百余人の登用の告知を破り捨てた。おかげで怨みや誹謗が紛然とまきおこったが、彼は全く気にしなかった。 10冬,十月,己酉,修文館直學士、起居舍人武平一上表請抑損外戚權寵;不敢斥言韋氏,但請抑損己家。上優制不許。平一名甄,以字行,載德之子也。10.冬、十月、己酉、修文館直学士、起居舎人武平一が上表して、外戚や権寵の横暴を抑えるよう請うた。韋氏を敢えて名指しにはせず、ただ自分の一族を抑えるように請うた。上はこれをやんわりと断った。平一の名は甄だが、字の方が有名である。戴徳の子息である。 11十一月,庚申,突騎施酋長娑葛自立爲可汗,殺唐使者御史中丞馮嘉賓,遣其弟遮努等帥衆犯塞。11.十一月、庚申、突騎施の酋長婆葛が自立して可汗となった。唐の使者御史中丞馮嘉賓を殺し、弟の遮努等へ兵を与えて辺境に派遣して塞を攻撃した。 始め、婆葛は烏質勒に代わって民を統治していた。父の時から仕えていた将軍闕啜忠節はこれに不服で、彼等は屡々戦った。だが、忠節の部下は弱く、支えきれなかった。金山道行軍総管郭元振は、忠節を入朝させて宿衛とするよう上奏した。 忠節が播仙城まで来ると、経略使、右威衛将軍周以悌が、彼へ説いた。 「国家が高官顕爵を惜しまずに君を迎え入れるのは、君に部落の民がいるからだ。今、身体一つで入朝したら、ただの年老いた胡人ではないか。寵禄を保てないばかりか、命を人の手に委ねることにさえなってしまう。今、宰相の宗楚客と紀處訥が政権を執っているので、この二公へ厚く贈賄するのが一番だ。そして、この地に留まって、安西の兵を発し吐蕃を味方に引き入れて娑葛を撃つことを請うのだ。阿史那献を探し求めて可汗に推戴して十姓を招き、郭虔瓘へ抜汗那国の兵を動員させて自衛させる。こうすれば、部落を失わないですむどころか、仇を討つこともできる。このまま入朝する事と比べて、雲泥の差ではないか!」 郭虔瓘は、歴城の人間で、当時は西辺将だった。 忠節はその言葉に得心し、使者を派遣して楚客、處訥へ賄賂を贈り、以悌の策のように願った。 元振はこの策を聞くと、上疏した。 「かつて吐蕃が辺境を犯したのは、十姓、四鎮の土地を求めて得られなかったからです。最近、兵を納めて和平を請うていますが、これは中国の礼儀を慕っているからではありません。ただ、国内が多難で人や家畜に疫病が流行ったので、中国がこの機に乗じて攻め込むことを畏れ、心ならずも膝を屈してすり寄ってきているに過ぎません。この国を小康状態にさせたら、十姓、四鎮の土地の奪還を再び思い出しますぞ!今、忠節は国家の大計を考えずに目先の利益のみで吐蕃を道案内として使いたがっていますが、四鎮の危機がこれから始まることを恐れます。このところ、黙啜が暴れ回り、これに呼応する者が多く、四鎮の兵卒は疲弊しきっております。とても忠節を経略とすることはできませんが、これは突騎施を憐れんでいるからではありません。わが国の現状を考えて無理なのです。忠節は、国家中外の意向を考えもせず、更に吐蕃を求めています。吐蕃が志を得たら、忠節などその掌の中。どうして、ふたたび唐へ仕えたりしましょうか!往年、吐蕃は中国へ対して何の功績もなかったのに、なお、十姓、四鎮の土地を求めました。今、もしも娑葛を破るという功績を建てれば、于闐、疏勒を要求してきた時、どんな理由で却下できますか!また、その所領の諸蛮及び婆羅門等が服従しない時に、もしも彼等が唐の兵を借りて討伐しようとしたら、それをどう言って拒めましょうか!ですから、昔の賢者達は皆、夷狄から助けられることを願いませんでした。彼等の要求に際限が無く、遂には後患となることを恐れたからです。 又、彼が阿史那献を請うたのは、献が可汗の子孫だから、その威光で十姓を招き寄せようとの考えですが、どうしてそんなことができましょうか!献の父の元慶、叔父の僕羅、兄の俀子及び斛瑟羅、懐道羅は、皆、可汗の子孫です。かつて、唐や吐蕃が彼等を可汗に立てて十姓を招撫しようとしましたが、皆、部下とすることができずに自滅したのです。なぜでしょうか?彼等には人並み以上の才覚が無く、恩威は人を動かすには足らず、可汗の子孫を立てたにも関わらず、衆人の心はついに服従しなかったからです。いわんや献はその父兄以上に疎遠ではありませんか?もしも忠節が自分の兵力のみで十姓を服従させられるならば、可汗の子孫を立てることなど求めないはずです。 また、郭虔瓘を抜汗那へ入れて兵を発することを求めました。しかし、虔瓘はかつて忠節と共に勝手に抜汗那へ入って戦争したことがあります。この時、虔瓘は僅かの軍馬を得ることもできませんでしたが、抜汗那は侵略に腹を立て、吐蕃を味方にし、妥子を奉じて四鎮へ侵略しました。この頃は、抜汗那の周りには助けてくれる強国などなかったのに、虔カンらがまるで無人の野を行くように、勝手気儘に掠奪を行ったので、彼等は妥子を味方に引き入れ、患いとなったのです。今、北には娑葛がいますので、力尽くで迫れば必ず彼等は力を併せます。内では諸胡が鉄壁の守りで拒み、外では突厥が隙を窺っています。 臣の見るところ、虔瓘等のこの行いは、往年のような戦功を収めることはできません。内外に敵を受け、自ら危亡へ陥り、いたずらに虜どもを結託させて四鎮を不安にさせるだけです。臣は、この計略は下策だと愚考いたします。」 楚客らは、従わずに、建議した。 「馮嘉賓を時節として派遣して忠節を安撫し、侍御史呂守素へ四鎮を指揮させ、将軍牛師奨を安西副都護として甘、涼の兵を動員させ、吐蕃軍を徴発して娑葛を討ちましょう。」 この頃、娑葛は馬を献上する為に娑臘を使者として派遣していたが、彼は京師へ滞在していた。その娑臘がこの謀略を聞きつけ、馳せ帰って娑葛へ告げた。ここにおいて娑葛は安西、撥換、焉耆、疏勒から各々五千騎を動員して入寇した。 元振は疏勒にいたが、河口に柵を築き、敢えて戦わなかった。忠節は計舒河口にて嘉賓を迎えたが、娑葛は兵を派遣してこれを襲撃した。忠節を生け捕りとし、嘉賓を殺す。僻城にて呂守素を捕らえ、駅柱へ縛り付けて殺した。 12上以安樂公主將適左衞中郎將武延秀,遣使召太子賓客武攸緒於嵩山。攸緒將至,上敕禮官於兩儀殿設別位,欲行問道之禮,聽以山服葛巾入見,不名不拜。仗入,通事舍人引攸緒就位;攸緒趨立辭見班中,再拜如常儀。上愕然,竟不成所擬之禮。上屢延之内殿,頻煩寵錫,皆謝不受;親貴謁侯,寒温之外,不交一言。12.安楽公主が左衛中郎将武延秀へ嫁ぐことになったので、上は嵩山へ使者を派遣して、太子賓客の武攸緒を呼び付けた。攸緒の到着間際、上は両儀殿へ別位を設けるよう礼官へ敕した。攸緒が平服のままで謁見して不名不拝の礼を執れるように、ここにて問道の礼を行おうと思ったのだ。ところが攸緒がやってくると、通事舎人は彼を所定の場所へ誘導し、ここにて質道の礼を執らせた。攸緒は小走りに歩き、常礼のように再拝した。上は愕然としたが、ついに思うような礼は執らせられなかった。 上は屡々内殿にて煩わしい礼儀を省略させようとしたが、皆、拝謝するだけで受けなかった。親貴が顔を遭わせたら、天候の話以外、一言も言葉を交わさなかった。 話は遡るが、武祟訓が公主を娶った時、延秀は屡々宴に参席した。延秀は姿が美しく歌舞が巧いので、公主は悦んだ。祟訓が死ぬと、遂に公主は延秀を後添えにしたのである。 己卯、婚礼が行われた。公主へ、皇后の杖を渡した。禁兵へ儀衛させ、安国相王へ障車を命じた。 庚辰、天下へ恩赦を下す。延秀を太常卿兼右衛将軍とする。 辛巳、両儀殿にて群臣と宴会を開く。公主に出て来させて公卿へ拝礼させたが、公卿は皆、地へ平伏して頭を上げなかった。 13癸未,牛師獎與突騎施娑葛戰于火燒城,師獎兵敗沒。娑葛遂陷安西,斷四鎭路,遣使上表,求宗楚客頭。楚客又奏以周以悌代郭元振統衆,徴元振入朝;以阿史那獻爲十姓可汗,置軍焉耆以討娑葛。13.癸未、火燒城にて、牛師奨と突騎施が戦い、師奨は敗死した。 娑葛は遂に安西を陥し、四鎮の通行を遮断した。そして、使者を派遣して、宗楚客の頭を求めた。 楚客は、郭元振を呼び戻して周以悌を後がまとし、阿史那献を十姓可汗として焉耆へ陣取らせて娑葛を討つよう上奏した。 娑葛は元振へ書を遣って、言った。 「我等と唐は、もともと仲が悪くなかったのに、闕啜から騒動が起こった。宗尚書は闕啜から賄賂を貰って、奴の部落を無体に滅ぼそうとしたのだ。こうして、馮中丞や牛都護が相継いで攻めてきた。奴はどうして手を拱いて死を待てましょうか!また、阿史那献が来たがって、いたずらに軍や州をかき乱しているとも聞きます。平穏な日々が破られることを恐れます。どうか大使、状況を酌量して寛大な処置をお願いいたします。」 元振は、娑葛の書を上奏した。 楚客は怒り、元振に造反の思いがあると上奏し、召し出して罰しようとした。元振は子息の鴻へ間道を通って上京させ、状況をつぶさに上奏させて、西方を安定させるまで留まることを請うた。 周以悌はついに有罪となり白州へ流され、元振を後任とした。娑葛の罪を赦し、十四姓可汗に冊立した。 14以婕妤上官氏爲昭容。14.婕妤の上官氏を昭容とした。 15十二月,御史中丞姚廷筠奏稱:「比見諸司不遵律令格式,事無大小皆悉聞奏。臣聞爲君者任臣,爲臣者奉法。萬機叢委,不可徧覽,豈有脩一水竇,伐一枯木,皆取斷宸衷!自今若軍國大事及條式無文者,聽奏取進止,自餘各準法處分。其有故生疑滯,致有稽失,望令御史糾彈。」從之。15.十二月、御史中丞姚延筠が上奏した。 「最近、諸司が法律を遵守せず、大小と無く全て聞奏するようになりました。臣は、『君主となったら臣下へ任せ、臣下となったら法を奉る。』と聞きます。万機を委ねられたら、全てへ目を通すことなどできません。小川の治水から枯れ木の伐採まで全て主上の意見で決定するようなことが、どうしてありましょうか!今後は軍国の大事や法律に定めがない物のみ聴奏して指示を仰ぎ、それ以外は各々法によって処分させましょう。結果に疑滞や過失があったなら、御史に糾弾させればよいのです。」 これに従った。 16丁巳晦,敕中書、門下與學士、諸王、駙馬入閤守歳,設庭燎,置酒,奏樂。酒酣,上謂御史大夫竇從一曰:「聞卿久無伉儷,朕甚憂之。今夕歳除,爲卿成禮。」從一但唯唯拜謝。俄而内侍引燭籠、歩障、金縷羅扇自西廊而上,扇後有人衣禮衣,花釵,令與從一對坐。上命從一誦卻扇詩數首。扇卻,去花易服而出,徐視之,乃皇后老乳母王氏,本蠻婢也。上與侍臣大笑。詔封莒國夫人,嫁爲從一妻。俗謂乳母之壻曰:「阿爸」,從一毎謁見及進表状,自稱「翊聖皇后阿爸」,時人謂之:「國爸」,從一欣然有自負之色。16.丁巳晦、中書、門下と学士、諸王、駙馬へ入閣して宴会を開くよう詔があった。庭に篝火を設け、酒を出して音楽を演奏する。 宴たけなわの時、上は御史大夫竇従一へ言った。 「今日が長い間独り身だと聞き、とても気になっているのだ。こんばんは大晦日。卿のために婚礼を為そう。」 従一は、ただ拝謝するだけだった。すると突然、内侍が灯籠、歩障、金縷羅扇を率いて西廊からやって来た。扇の後ろに礼衣、花釵を身につけた人がおり、従一と相対して坐らせられた。上は、従一へ”卻扇詩”数首を誦させた。花嫁が扇を取り除き、花釵を取り去り、服を変えて出てくるのをゆっくりと見れば、皇后の老乳母の王氏だった。彼女は、もとは蛮人の婢である。上も侍臣も大笑いした。 王氏を莒国夫人に封じ、従一の妻とした。俗に、乳母の婿を「阿爸」と言うが、従一は謁見や上表の度に「翊聖皇后阿爸」と自称した。人々はひれを「国爸」と呼んだが、従一は大喜びで自慢げだった。 (訳者、曰く) ”卻扇詩”の「卻」は、”取り除く”とゆう意味。扇で姿を隠した女性へ、「姿を見せてください」と訴えかける歌なのでしょうか?そうゆう歌があるのなら、「お見合い」の形式がキッチリと決まっていたのでしょうね。「花釵」は、「つのかくし」に相当するのかな?顔を隠した女性がシズシズとやって来て、男が歌を歌うと、ゆっくりと顔を現す。そんなイメージでしょう。顔を見たらお婆さんだった。みんな爆笑するでしょうね。 三年(己酉、七〇九)1.春、正月、丁卯、東都の聖善寺を広くするよう制が下った。数十家の住民が追い立てられた。 2長寧、安樂諸公主多縱僮奴掠百姓子女爲奴婢,侍御史袁從之收繋獄,治之。公主訴於上,上手制釋之。從之奏稱:「陛下縱奴掠良人,何以理天下!」上竟釋之。2.長寧、安楽の諸公主は奴隷を使い、百姓の子女を勝手に掠奪して奴婢としていた。侍御史袁従之が、これを捕まえて牢獄へぶち込み、取り調べた。公主が上へ訴えると、上は自ら制を降ろして彼等を釈放した。従之は、上奏して言った。 「陛下は、良人を勝手に掠められました。天下にどのような理がありましょうか!」 だが、上は遂にこれを釈した。 3二月,己丑,上幸玄武門,與近臣觀宮女拔河。又命宮女爲市肆,公卿爲商旅,與之交易,因爲忿爭,言辭褻慢,上與后臨觀爲樂。3.二月、己丑、上が玄武門へ御幸し、近臣達と宮女の抜河(競技の一種)を観た。また、宮女達へ店を開かせ、公卿を行商人にして商売をさせた。これによって紛争が起こり言葉汚い罵りあいが生じたが、上と后はそれを観て楽しんでいた。 4丙申,監察御史崔琬對仗彈宗楚客、紀處訥潛通戎狄,受其貨賂,致生邊患。故事,大臣被彈,俯僂趨出,立於朝堂待罪。至是,楚客更憤怒作色,自陳忠鯁,爲琬所誣。上竟不窮問,命琬與楚客結爲兄弟以和解之,時人謂之「和事天子」。4.丙申、監察御史崔琬が、「宗楚客と紀處訥は密かに戎狄と通じ、賄賂を受け取って辺境に紛争を起こした。」と弾劾した。 故事では、大臣は弾劾を受けるとうつむいて退出し、朝堂に立って裁きを待つことになっていた。だが、楚客は憤然として自身の忠義を弁明し、琬のでっちあげだと言った。上はついに糾問できず、琬と楚客を和解させる為に義兄弟の契りを結ばせた。人々は、これを「和事天子」と言った。 5壬寅,以韋巨源爲左僕射,楊再思爲右僕射,並同中書門下三品。5.壬寅、韋巨源を左僕射、楊再思を右僕射として、ともに同中書門下三品とした。 6上數與近臣學士宴集,令各效伎藝以爲樂。工部尚書張錫舞談容娘,將作大匠宗晉卿舞渾脱,左衞將軍張洽舞黄麞,左金吾將軍杜元談誦婆羅門呪,中書舍人盧藏用效道士上章。國子司業河東郭山惲獨曰:「臣無所解,請歌古詩。」上許之。山惲乃歌鹿鳴、蟋蟀。明日,上賜山惲敕,嘉美其意,賜時服一襲。6.上はしばしば近臣学士と宴会をし、各々へ伎芸をさせて楽しんだ。工部尚書張錫は”談容娘”を舞い、将作大匠宗晋卿は”渾脱”を舞い、左衛将軍張洽は”黄麞”を舞い、左金吾将軍杜元談は”婆羅門呪”を誦し、中書舎人盧蔵用は道士の上章を真似した。 国子司業の河東の郭山惲一人、言った。 「臣には芸がありませんから、古詩を歌わせてください。」 上はこれを許した。 山惲は「鹿鳴」「蟋蟀」を歌った。 翌日、上は山惲へ敕を賜り、その意向を嘉し、時服一襲を賜下した。 上は又、かつて侍臣と宴会を開いた時、各々に”迴波辞”を言わせた。皆は諂いを言ったり、栄禄を求めたりしたが、諫議大夫李景伯は言った。 「迴波のこの時、酒は少な目に。微臣は忠告するのが仕事。この宴会は、既に酒が三巡を越えています。これでは礼儀に背きます!」 上は不機嫌になった。 蕭至忠は言った。 「彼こそまことの諫官だ。」 (訳者、曰く)「鹿鳴」は、詩経小雅の一編。「鹿が鳴いて仲間を集め、一緒に美味しい草を食べる。」の一節で始まり、賓客を喜び大切に持てなす詩。「蟋蟀」は同じく唐風の一編で、年の暮れに収穫が終わって宴楽する時の歌。「年が暮れる前に楽しみましょう。でも、あまり度を過ごさないように。」とゆう内容。どちらも、名君へ対しては訓導になるが、愚君へ対しては遊興を理論武装させて助長してしまう。歌う方からすれば、主君から絶対に非難されない歌です。詩経はやんわりとした歌が多いから、儒学者が両端を持つには使い勝手が良いですね。 7三月,戊午,以宗楚客爲中書令,蕭至忠爲侍中,大府卿韋嗣立爲中書侍郎、同中書門下三品,中書侍郎崔湜、趙彦昭並同平章事。崔湜通於上官昭容,故昭容引以爲相。彦昭,張掖人也。7.三月、戊午、宗楚客を中書令、蕭至忠を侍中、太府卿韋嗣立を中書侍郎、同中書門下三品とした。中書侍郎崔湜、趙彦昭を同平章事とした。 崔湜は上官昭容と密通していた。だから、昭容は彼を宰相へ引き上げたのだ。彦昭は張掖の人間である。 この時、政事には大勢の人間が口出ししており、官吏が溢れ返っていた。人々は、”三ヶ所には座る場所もない”と言っていたが、この三ヶ所とは宰相、御史と員外官を指していた。 韋嗣立が上疏した。 「この頃、たくさんの寺を造りましたが、それらは壮麗で、大きい物には百数十万銭、小さいものにも数万銭を費やしています。合計すると千萬を越え、人々は労役に疲れ果てて怨嗟の声が道に溢れています。仏の教えは、胸の中にあります。彫刻や絵画や建造物を壮麗に誇ることになど、どうしてありましょうか!もしも水害や旱害、あるいは夷狄の侵入があれば、絵や彫刻の龍や象が幾百万あっても、何の役に立ちましょうか! 又、食封として臣下へ与えられた家はとても多く、先日戸部へ尋ねたところ、六十万丁を数えました。一丁から上がる税金を絹二匹と換算すれば、およそ百二十万匹に相当します。臣が太府に勤務していました頃、毎年の庸の絹は、多くても百万足らず、少ない年は六七十万匹でした。これを封家と比べれば、何と少ないことでしょうか。佐命の勲功があってこそ、始めて領土を分け与えるべきでございます。建国当初は、諸侯として封じられた功臣は二、三十家に過ぎませんでしたが、今では食封の恩沢に即している者は、百を越えます。国家の租賦の大半は私門へ入っていますので、私門では財産に余裕があり、どんどん贅沢になっていきます。それに対して国家は歳入が不足し、破綻の危機に陥っています。国の体制として、どうして的を得ていると言えましょうか!封戸の税は諸家が自身で徴発しますので、その奴隷達は主人の威光を笠にして、州県の民を苛めます。(そうやって規定以上に徴発して残りは懐へ入れますので?)、民の苦しみは大変な物です。これならば、食封の丁人を数えて、その税だけ太府から支払うシステムに変えた方が、余程ましです。 又、員外に設置された官が正闕の数倍にも及んでいますので、その俸禄だけでも官庫が底をついてしまいました。 又、近年の刺史、県令の人選は異常です。京官の中から過失のあった者や名望のない者を選んで地方へ飛ばしております。吏部では、年をとって字もろくに書けなくなったような者を選出して県令としています。こんな人選で、どんな教化ができましょうか!今からは、三省、両台及び五品以上の官吏から、清廉で優秀な物を選んで刺史、県令とすれば、天下はきっと治まります。」 上は聞かなかった。 8戊寅,以禮部尚書韋温爲太子少保、同中書門下三品,太常卿鄭愔爲吏部尚書、同平章事。温,皇后之兄也。8.戊寅、礼部尚書韋温を太子少保、同中書門下三品、太常卿鄭愔を吏部尚書、同平章事とした。 温は、皇后の兄である。 9太常博士唐紹以武氏昊陵、順陵置守戸五百,與昭陵數同,梁宣王、魯忠王墓守戸多於親王五倍,韋氏褒德廟衞兵多於太廟,上疏請量裁減;不聽。紹,臨之孫也。9.武氏の昊陵、順陵には五百戸の守戸が置かれており、これは昭陵と同数だった。梁宣王、魯忠王の墓守戸は、親王の墓守戸の五倍だった。韋氏の褒徳廟の衛兵は太廟よりも多かった。 これらのことを、太常博士唐紹が上疏して、戸数を減らすよう請うたが、上は聞かなかった。 紹は臨の孫である。 10中書侍郎兼知吏部侍郎、同平章事崔湜、吏部侍郎同平章事鄭愔倶掌銓衡,傾附勢要,贓賄狼藉,數外留人,授擬不足,逆用三年闕,選法大壞。湜父挹爲司業,受選人錢,湜不之知,長名放之。其人訴曰:「公所親受某賂,奈何不與官?」湜怒曰:「所親爲誰,當擒取杖殺之!」其人曰:「公勿杖殺,將使公遭憂。」湜大慚。侍御史靳恆與監察御史李尚隱對仗彈之,上下湜等獄,命監察御史裴漼按之。安樂公主諷漼寬其獄,漼復對仗彈之。夏,五月,丙寅,愔免死,流吉州,湜貶江州司馬。上官昭容密與安樂公主、武延秀曲爲申理,明日,以湜爲襄州刺史,愔爲江州司馬。10.中書侍郎兼知吏部侍郎同平章事崔湜、吏部侍郎同平章事鄭愔は共に人事権を独占していたので、その権勢は飛ぶ鳥を落とす勢い。収賄など堂々としたもので、しばしば賄賂を贈る人間が屋敷の前に何人も順番待ちしている有様。授ける官職が足りないと、三年先まで予約する。こうして、選挙法は崩壊してしまった。 湜の父親の挹が司業となって、仕官待の人間から金を受け取った。しかし是はそれを知らず、長いこと放置していたので、その人は訴えた。 「公の親しい人が賄賂を受けたのに、どうして官職を与えてくれないのか?」 湜は怒って言った。 「親しい人間とは、どこのどいつだ。捕らえて杖でぶちころしてやる!」 その人は言った。 「殺してはなりません。公はとても後悔しますから。」 湜は大いに恥じ入った。 侍御史靳恒と監察御史李尚隠等がこれを弾劾した。上は、湜等を牢獄へぶち込んで、監察御史裴漼へ詮議させた。安楽公主は、寛大な裁きを下すよう、漼へそれとなく命じたが、漼は厳格に裁いた。 夏、五月丙寅、愔は死罪を免じて吉州へ流刑となり、湜は江州司馬へ降格となった。だが、上官昭容がひそかに安楽公主や武延秀等と共に都合の良い理屈を並べ立てたので、翌日、湜は襄州刺史となった。愔は江州司馬となった。 11六月,右僕射、同中書門下三品楊再思薨。11.六月、右僕射、同中書門下三品楊再思が卒した。 12秋,七月,突騎施娑葛遣使請降;庚辰,拜欽化可汗,賜名守忠。12.秋、七月、突騎施娑葛が降伏の使者を派遣した。 庚辰、欽化可汗の称号を拝受し、守忠の名を賜った。 13八月,己酉,以李嶠同中書門下三品,韋安石爲侍中,蕭至忠爲中書令。13.八月、己酉、李嶠を同中書門下三品、韋安石を侍中、蕭至忠を中書令とした。 至忠の娘は、皇后の舅の子の崔無詖に嫁いだ。成婚の日、上は蕭氏の主となり、后は崔氏の主となった。人々は言った。「天子が娘を嫁がせ、皇后は婦を娶る。」 14上將祀南郊,丁酉,國子祭酒祝欽明、國子司業郭山惲建言:「古者大祭祀,后祼獻以瑤爵。皇后當助祭天地。」太常博士唐紹、蔣欽緒駁之,以爲:「鄭玄註周禮内司服,惟有助祭先王先公,無助祭天地之文。皇后不當助祭南郊。」國子司業鹽官褚無量議,以爲:「祭天惟以始祖爲主,不配以祖妣,故皇后不應預祭。」韋巨源定儀注,請依欽明議。上從之,以皇后爲亞獻,仍以宰相女爲齋娘,助執豆籩。欽明又欲以安樂公主爲終獻,紹、欽緒固爭,乃止;以巨源攝太尉爲終獻。欽緒,膠水人也。14.上が南郊にて祀ろうとした。丁酉、国子祭酒祝欽明、国子司業郭山惲が建言した。 「昔の大祭祀では、皇后が立派な杯で献じました。皇后は、天地の祭を助けるべきです。」 太常博士唐紹、蒋欽緒がこれへ反駁して言った。 「鄭玄の注釈した周礼、内司服では、ただ『先王先公の祭を助ける』とだけあり、『天地の祭を助ける』の文はありません。皇后が南郊での祭を助けるのは礼に背きます。」 国子司業の鹽官の褚無量が議した。 「天を祭る時、ただ始祖を主としており、祖妣を配しておりません。ですから、皇后は祭りに関与しないでいるべきです。」 韋巨源は儀注を定め、欽明の建議に従うよう請うた。上はこれに従い、皇后を亜献とした。宰相の娘を斎娘として、豆を盛った器を持って助けた。 欽明は、また、安楽公主を終献としようとしたが、紹と欽緒が固く争ったので、果たせなかった。巨源を摂太尉として、終献とした。 欽緒は膠水の人である。 15己巳,上幸定昆池,命從官賦詩。黄門侍郎李日知詩曰:「所願蹔思居者逸,勿使時稱作者勞。」及睿宗即位,謂日知曰:「當是時,朕亦不敢言之。」15.己巳、上が定昆池へ御幸し、随従した官員へ詩を賦すよう命じた。 黄門侍郎李日知の詩に言う、 「願うものをゆっくりと考えてみれば、それは逸楽でした。人々へ、『造った者が苦労しただろう』などと言わせないで下さい。」 後、睿宗皇帝が即位すると、日知へ言った。 「あの時は、朕も敢えて口にしなかったのだ。」 (胡三省、注)睿宗は、「あの頃は安楽公主の勢力を畏れていた」といったのである。 16九月,戊辰,以蘇瓌爲右僕射、同中書門下三品。16.九月、戊辰、蘇瓌を右僕射、同中書門下三品とした。 17太平、安樂公主各樹朋黨,更相譖毀,上患之。冬,十一月,癸亥,上謂修文館直學士武平一曰:「比聞内外親貴多不輯睦,以何法和之?」平一以爲:「此由讒諂之人陰爲離間,宜深加誨諭,斥逐姦險。若猶未已,伏願捨近圖遠,抑慈存嚴,示以知禁,無令積惡。」上賜平一帛而不能用其言。17.太平公主と安楽公主が、共に徒党を組んで互いに讒言し合った。上はこれにわずらわされた。 冬、十一月、癸亥、上は修文館直学士武平一に言った。 「これが噂になれば、内外の親貴が不仲になってしまうぞ。何か和解させる策はないか?」 平一は言った。 「これは、讒言や諂いしか能のない人間が二人を離間しているのです。よくよく諭して姦険の人間を排斥させましょう。それでも止まなければ、どうか目先のことを棄てて将来を見据えてください。慈愛を抑え、厳しく接し放埒を禁じて悪徳を重ねさせないようにするのです。」 上は平一へ帛を賜ったが、その忠告を用いることができなかった。 18上召前修文館學士崔湜、鄭愔入陪大禮。乙丑,上祀南郊,赦天下,并十惡咸赦除之;流人並放還;齋娘有壻者,皆改官。18.上が、前の修文館学士崔湜と鄭愔を召して、大礼に介添えさせた。 乙丑、上が南郊を祀る。天下へ恩赦を下したが、十悪は除外した。流人は放免した。斎娘に婿がいれば、皆、官位を改めた。 19甲戌,開府儀同三司、平章軍國重事豆盧欽望薨。19.甲戌、開府儀同三司、平章軍国重事豆盧欽望が卒した。 20乙亥,吐蕃贊普遣其大臣尚贊咄等千餘人逆金城公主。20.乙亥、吐蕃の賛普が大臣の尚賛咄等千余人を派遣して金城公主を迎えた。 21河南道巡察使、監察御史宋務光,以「於時食實封者凡一百四十餘家,應出封戸者凡五十四州,皆割上腴之田,或一封分食數州;而太平、安樂公主又取高貲多丁者,刻剥過苦,應充封戸者甚於征役;滑州地出綾縑,人多趨射,尤受其弊,人多流亡;請稍分封戸散配餘州。又,徴封使者煩擾公私,請附租庸,毎年送納。」上弗聽。21.河南道巡察使、監察御史宋務光が上奏した。 「現在、食封を持つ者は、凡そ百四十余家。その封戸はおよそ五十四州に相当します。皆、上の肥田を裂いたもので、中には一家で数州も領有する者が居ます。その上、太平、安楽公主は丁男達から重税を容赦なく取り立てております。彼女らの封戸の負担は、兵戸よりもきつい程です。滑州は綾絹の産地で、大勢の人間がこの地を分封して貰っていますので、この弊害を最も多く受け、大勢の人間が逃散しております。どうか分封戸を滑州から他の州へ散らしてください。また、徴封使は、公私共に煩雑です。どうか、租庸は一括して国が徴発し、封戸へは毎年決められた分だけ国から与える方式に変えてください。」 上は聞かなかった。 22時流人皆放還,均州刺史譙王重福獨不得歸,乃上表自陳曰:「陛下焚柴展禮,郊祀上玄,蒼生並得赦除,赤子偏加擯棄,皇天平分之道,固若此乎!天下之人聞者爲臣流涕。況陛下慈念,豈不愍臣栖遑!」表奏,不報。22.この時、流人は全て放免されたが、均州刺史譙王重福だけは帰郷を許されなかった。そこで重福は上表して自ら陳情した。 「陛下は柴を焼いて礼を実践し、南郊にて上玄を祀りました。人々は全て恩赦を得ましたが、赤子一人(自分を指して、「赤子」と称した)僻地に棄てられたままでございます。皇天は全てに公平であるとゆうのに、これが正しい行いでしょうか!この話を聞いた人々は、皆、臣の為に涙を零してくれます。ましてや陛下は慈悲深いお方です。どうして臣を憐れまずにいられましょうか!」 表は上奏されたが、返報はなかった。 23前右僕射致仕唐休璟,年八十餘,進取彌鋭,娶賀婁尚宮養女爲其子婦。十二月,壬辰,以休璟爲太子少師、同中書門下三品。23.前の右僕射到仕唐休璟は、八十余になったのに、権勢欲は益々盛ん。賀婁尚宮の養女を子息の嫁にした。 十二月、壬辰、休璟を太子少師、同中書門下三品とした。 24甲午,上幸驪山温湯;庚子,幸韋嗣立莊舎。以嗣立與周高士韋夐同族,賜爵逍遙公。嗣立,皇后之疏屬也。由是顧賞尤重。乙巳,還宮。24.甲午、上が驪山の温泉へ御幸した。庚子、韋嗣立の別荘へ立ち寄った。 嗣立は、北周時代の高士韋夐と同族だったので、逍遙公の爵位を下賜した。嗣立は皇后の遠縁だったから、重い恩賞を得たのである。 乙巳、宮殿へ帰る。 25是歳,關中饑,米斗百錢。運山東、江、淮穀輸京師,牛死什八九。羣臣多請車駕復幸東都,韋后家本杜陵,不樂東遷,乃使巫覡彭君卿等説上云:「今歳不利東行。」後復有言者,上怒曰:「豈有逐糧天子邪!」乃止。25.この年、関中は飢饉で、米一斗の価格は百銭にもなった。山東、江、淮の穀物を京師へ運び込む。牛は、八、九割が死んだ。 大勢の群臣が、東都へ御幸するよう請うたが、韋后は杜陵の人間なので、東都へは行きたくなかった。そこで、巫女の彭君卿等へ上へ言わせた。 「今年東へ行くのは、不吉です。」 その後は、御幸を言う者がいると、上は怒って言った。 「食糧が天子を追い払うという法があるか!」 こうして、御幸しなかった。 (訳者、注。天子が東都へ御幸すると、百官達も随行します。そうすると、長安では彼等の食糧などの負担がなくなるわけです。関中で飢饉が起きると、その為に東都へ御幸するのが、唐代の風習でした。当時は今と違って物資の流通に労力がかかっていたのでしょう。) 睿宗玄眞大聖大興孝皇帝上 景雲元年(庚戌、七一〇)1.春、正月、丙寅夜、中宗と韋后はお忍びで市里へ出て灯籠祭を見物した。また、数千人の宮女を遊びに出したが、大半はそのまま帰ってこなかった。 2上命紀處訥送金城公主適吐蕃,處訥辭;又命趙彦昭,彦昭亦辭。丁丑,命左驍衞大將軍楊矩送之。己卯,上自送公主至始平;二月,癸未,還宮。公主至吐蕃,贊普爲之別築城以居之。2.上は、金城公主を吐蕃へ送るよう、紀處訥へ命じたが、處訥は辞退した。そこで趙彦昭へ命じたが、彼も辞退した。丁丑、左驍衛大将軍楊矩へ公主を送るよう命じた。 己卯、上は自ら始平まで公主を送った。二月、癸未、宮殿へ帰った。 公主が吐蕃へ到着すると、賛普は彼女の為に別に城を築いて住まわせた。 3庚戌,上御梨園毯場,命文武三品以上抛毬及分朋拔河。韋巨源、唐休璟衰老,隨絙踣地,久之不能興;上及皇后、妃、主臨觀,大笑。3.庚戌、上は梨園の蹴鞠場へ御幸し、文武の三品以上へ蹴鞠と分朋抜河を演じさせた。韋巨源と唐休璟は老齢で、どんなに頑張っても、興すことができなかった。上と皇后、妃は、これを観て笑い転げた。 4夏,四月,丙戌,上游芳林園,命公卿馬上摘櫻桃。4.夏、四月、丙戌、上は芳林園に遊び、公卿達へ馬上にてさくらんぼを摘むよう命じた。 5初,則天之世,長安城東隅民王純家井溢,浸成大池數十頃,號隆慶池。相王子五王列第於其北,望氣者言:「常鬱鬱有帝王氣,比日尤甚。」乙未,上幸隆慶池,結綵爲樓,宴侍臣,泛舟戲象以厭之。5.かつて、則天武后の御代、長安城の東隅の住人王純の家で井戸の水が溢れ、やがて数十頃の広さの大池となった。これを隆慶池と呼んだ。 相王の子の五王の屋敷はその北にあったが、ある日、気を観る名人が言った。 「いつも王気がわだかまっていたが、今日は又、特別に盛大だ。」 乙未、上は隆慶池へ御幸した。綏を結んで楼を造り、侍臣と宴会を開き、船を浮かべて王気の正体が自分自身であると誇示した。厄払いである。 6定州人郎岌上言,「韋后、宗楚客將爲逆亂。」韋后白上杖殺之。6.定州の住人郎岌が上言した。 「韋后と宗楚客が、まさに造反しようとしています。」 后はこれを上へ言って、岌を杖で打ち殺した。 五月、丁卯、許州司兵参軍の偃師の燕欽融がまた上言した。 「皇后は淫乱で国政に干渉し、宗族は強大です。安楽公主、武延秀、宗楚客は国を転覆しようとしています。」 上は欽融を召し出して面罵した。しかし、欽融は頓首して言い返し、怯んだ顔色もしなかった。上は黙り込んだ。 宗楚客は制をでっち上げ、これを撲殺するよう飛騎へ命じた。飛騎が欽融を殿庭の石の上へ投げつけると、欽融は首の骨を折って死んだ。楚客は大声で快哉を叫んだ。 上は、この件を糾問しなかったが、心中非常に不愉快だった。これによって、韋氏とその党類は、始めて憂懼した。 7己卯,上宴近臣,國子祭酒祝欽明自請作八風舞,搖頭轉目,備諸醜態;上笑。欽明素以儒學著名,吏部侍郎盧藏用私謂諸學士曰:「祝公五經,掃地盡矣!」7.己卯、上が近臣と宴会を開いた。国子祭酒祝欽明は自作の八風舞の披露を請うた。それは、頭を揺らし、目をくるくる回し、諸々の醜態が盛り込まれていた。上は、それを見て笑った。 欽明はもともと儒学で有名だった。吏部侍郎盧蔵用は、諸学士へ私的に言った。 「祝公のおかげで、五経は地に墜ちた!」 8散騎常侍馬秦客以醫術,光祿少卿楊均以善烹調,皆出入宮掖,得幸於韋后,恐事泄被誅;安樂公主欲韋后臨朝,自爲皇太女;乃相與合謀,於餅餤中進毒,六月,壬午,中宗崩於神龍殿。8.散騎常侍馬秦客は医術で、光禄少卿楊均は料理で宮掖へ出入りしており、皇后の寵を受けていたので、事が露見して誅殺されることを恐れていた。安楽公主は、韋后が朝廷へ臨み、自らは皇太女となることを望んでいた。そこで彼等は一緒に謀略を巡らし、餅の中へ毒を仕込んだ。 六月、壬午、神龍殿にて中宗が崩御した。 韋后は喪を秘して発せず、自ら全ての政務を執った。癸未、諸宰相を禁中へ召し入れ、諸府の軍兵五万人を徴集して京城へ屯営さた。この軍兵は、駙馬都尉韋捷、韋灌、衛尉卿韋璿、左千牛中郎将韋錡、長安令韋播、郎将高嵩へ分配してその指揮下へ入れた。 璿は温の族弟、播は従子、嵩はその甥である。中書舎人韋元へ六街を巡回させた。 また、左監門大将軍兼内侍薛思簡等へ五百人の兵を与えて均州へ駆けつけさせ、焦王重福へ備えさせた。刑部尚書裴談、工部尚書張錫を共に同中門下三品として東都留守とした。吏部尚書張嘉福、中書侍郎岑羲、吏部尚書崔湜を皆、同平章事とした。羲は長倩の従子である。 太平公主と上官昭容は遺制をでっちあげた。その遺制は、温王重茂を皇太子に立て、皇后を知政事とし、相王旦を参謀政事とするという内容だった。 宗楚客が、密かに韋温へ言った。 「相王の輔政は、理にそぐわない。それに皇后について考えるなら、嫂と叔とでは口をきかないのが礼儀だ。聴朝の際に、礼が廃れるぞ。」 遂に、皇后が朝廷へ臨むのを中止し相王の政事をやめさせるよう、諸宰相を率いて上表して請うた。 蘇瓌が言った。 「遺詔にどうして違えられようか!」 だが、温と楚客が怒ると、瓌は恐れてこれに従った。そこで、相王を太子太師とした。 甲申、梓宮を太極殿へ移し、百官を集めて喪を発した。皇后は朝廷へ臨んで摂政となり、天下へ恩赦を下し、”唐隆”と改元した。相王旦は太尉へ進位し、雍王守禮を豳王、寿春王成器を宋王として、人望へ応えた。韋温は、総知内外守捉兵馬事とした。 丁亥、殤帝が即位した。御年十六。皇后を尊んで皇太后とし、妃の陸氏を皇后に立てた。 壬辰、紀處訥を持節として関内道を巡撫させた。同様に、岑義へ河南道、張嘉福へ河北道を巡撫させた。 宗楚客と太常卿武延秀、司農卿趙履温、国子祭酒葉静能及び諸韋が、皆で韋后へ勧めた。 「武后の故事に則って、南北衛軍や台閣要司の兵卒を、韋氏の子弟で掌握し、党衆を広くかき集めて中外で連結しましょう。」 楚客は、また、図讖を引用して韋氏が唐に取って代わるべきだと理論つけ、これを密かに上書した。彼は殤帝の殺害を謀ったが、相王と太平公主を深く忌み、韋温や安楽公主と共に彼等を取り除く陰謀を巡らせた。 相王の子息の臨淄王隆基は、潞州別駕をやめてから京師に在住して密かに才子や勇者達を集め、社稷の匡復を謀っていた。 話は遡るが、太宗皇帝が官戸と蕃口から驍勇の者を選んで虎の模様の衣を着せ、豹柄の衣を着せた馬に乗せて狩猟に随従させた。彼等は馬前で禽獣を射て、”百騎”と呼ばれていた。則天武后の頃、増員して千騎となり、左右の羽林に隷属した。中宗はこれを万騎と呼び、直参とした。隆基は彼等豪傑達と厚く交友を結んでいた。 兵部侍郎崔日用は、もともと韋、武の腰巾着で宗楚客と仲が良かったが、楚客の陰謀を知ると、我が身に禍が及ぶのを恐れ、寶昌寺の僧侶普潤を密かに隆基の元へ派遣してこれを告げ、速やかに決起することを勧めた。 隆基は太平公主及び公主子衛尉卿薛祟暕、苑総監の贛の人鍾紹京、尚衣奉御王祟曄、前の朝邑尉劉幽求、利仁府折衝麻嗣宗らと共に、機先を制してこれを誅殺する謀略を練った。 韋播、高嵩は自分達の威勢を誇示しようと、しばしば万騎をぶったので、万騎は皆、彼等を怨んでいた。果毅の葛福順と陳玄禮が隆基を見ると、これを訴えた。そこで隆基が、「諸韋を誅殺しようか」とそれとなく告げるたところ、皆は勇躍して命懸けで戦うことを請うた。万騎果毅李仙鳬もまた、この陰謀に関与した。 ある者が、相王にも告白するよう隆基へ告げると、隆基は言った。 「我等は社稷の為に殉じるのだ。成功したらその成果は王へ献上するが、失敗したら我が身を棄てるだけ。王へ累を及ぼしてはいけない。今、告白して、もしも王が従ったならその身も危険に預かることになるし、従わなかったなら大計は敗れる。」 こうして、王へは告げなかった。 庚子、申の刻(午後3時~5時頃)隆基は微服で幽求等と苑中へ入り、官舎にて鍾紹京と会った。紹京は後悔しており、これを拒もうとしたが、妻の許氏が言った。 「我が身を棄てて国に殉じるのですから、必ず神の御加護があります。それに、謀略は既に定まったのですから、今決起しなくても、どうして免れましょうか!」 紹京は走り出て拝謁した。隆基はその手を執って坐らせる。 この時、羽林将士は皆、玄武門に屯営していた。夜になって、葛福順、李仙鳬等が皆、隆基の所へやって来て、号令を掛けて行軍するよう請うた。 二鼓(時刻でしょう。いつ頃に相当するか、誰か教えてください。)頃、空の星が雪のように散り落ちてきた。劉幽求は言った。 「これぞ天意です。時を失ってはなりません!」 福順が剣を抜いて羽林営へ突入し、韋璿、韋播、高嵩を血祭りに上げ、言った。 「韋后は先帝を毒殺し、社稷を滅ぼそうと謀っている。今夕、諸韋を共に誅殺し、馬鞭以上の背丈の者は皆、斬って捨てろ。相王を立て、天下を安んじるのだ。敢えて二心を持って逆賊を助ける者は、その罪は三族へ及ぶぞ。」 羽林の士は皆、大喜びで命令を聞いた。そこで、璿等の首を隆基へ送った。隆基はこれを灯りに照らして検分すると、遂に幽求等と共に苑南門を出た。 紹京は丁匠二百余人を率いた。彼等は斧や鋸を執って従った。 隆基は福順へ左万騎を与えて玄徳門を、仙鳬へは右万騎を与えて白獣門を攻撃させ、凌煙閣の前で合流しようと約束した。彼等は即座に大声を挙げて進軍した。福順等は共に門番の将を殺し、関を斬って闖入した。 隆基は玄武門外で兵を指揮していた。三鼓頃大声をきいたので、総監及び羽林兵を率いて闖入した。太極殿の宿衛梓宮にいた諸衛兵(これは南牙諸衛兵である。)は、喧噪をきき、皆、武装して応戦した。 韋后は惶惑して飛騎営へ走り込んだ。だが、飛騎の一人がその首を斬って隆基へ献上した。 安楽公主は鏡を見ながら眉を描いていたところを、軍士に斬り殺された。武延秀を粛章門外で斬り、内将軍賀婁氏を太極殿西で斬る。(この頃、韋氏は婦人を内将軍としており、この時は賀婁尚宮が任命されていた。) 話は前後するが、上官昭容は、かつて従母の子息の王昱を左拾遺に引き立てた。すると昱は、昭容の母の鄭氏へ言った。 「武氏は、天から見捨てられた一族です。もう、再興はできません。今、婕妤は三思にくっついていますが、これは一族滅亡の道です。おばさん、どうかよくよく考えてください!」 鄭氏は、昭容を戒めたが、昭容はきかなかった。 やがて、太子重俊が起兵して三思を討った時、重俊は昭容を探し求めた。昭容は始めて懼れ、立の言葉を思い出した。それ以来、帝室へも心を配り、安楽公主と各々朋党を立てた。 中宗が崩御すると、昭容は温王を立て相王を輔政とする遺制を起草したが、宗楚客と韋后がこれを改めた。 隆基が入宮すると、昭容は燭を執って宮人を率いて迎え、制の草稿を劉幽求へ示した。幽求は彼女の為に取りなしたが、隆基は許さず、端下で斬った。 この時、少帝は太極殿に居た。劉幽求は言った。 「衆は、今夕、共に相王を立てようと約束しました。どうして早くしないのですか!」 隆基は慌ててこれを止めた。 宮中に至り諸門を守っていた諸韋を探索、逮捕させ、併せて普段から韋后に親しまれていた者を皆、斬った。 明け方、内外の騒動は漸く落ち着いた。 辛巳、隆基は出て相王と会い、黙って決行したことを叩頭して謝った。すると相王はこれを抱いて、泣いて言った。 「社稷宗廟が地に墜ちなかったのは、汝の力だ。」 遂に相王を迎え入れて少帝の輔とした。 宮門及び京城の門を閉じ、万騎をあちこちへ派遣して諸韋の党類を捕まえた。東市の北で、太子少保・同中書門下三品韋温を斬る。 中書令宗楚客は、衣を斬ってみすぼらしくして、青い驢馬に乗り逃げ出した。だが、通化門へ至ると、門番が言った。 「公は宗尚書だな。」 布帽を取り去り、これを捕らえて斬る。併せて、その弟の晋卿も斬った。 相王は、安福門にて少帝を奉じ、百姓を慰諭した。 今まで、趙履温は国庫を傾けて安楽公主へ奉仕していた。彼女の為に休むこともなく第舎を起こし、台を築き池を穿つ。自ら公主の犢車(子牛に牽かせる車)を牽いたこともあった。だが、公主が死ぬと履温は安福楼のもとへ駆けつけ、躍り上がって万歳を称した。しかし、その声も終わらない内に相王は万騎に命じてこれを斬った。百姓は今までの労役で恨み骨髄に滲みていたので、争って彼の肉を食らい、たちどころに食べ尽くした。 秘書監の汴王邕は韋后の妹の祟国夫人を娶っていた。彼は御史大夫竇従一と共に、各々自ら妻の首を斬り、献上した。邕は、鳳の孫である。 左僕射、同中書門下三品韋巨源の家人は、乱を聞くと逃げ隠れるよう勧めたが、巨源は言った。 「吾の位は大臣だ。難を聞いて、どうして赴かないで良かろうか?」 家を出て、都街まで来たところで、乱兵に殺された。享年八十。 ここにおいて、市にて馬秦客、楊均、葉静能の首と韋后の屍を曝した。 崔日用は杜曲にて、兵を率いて諸韋を誅殺した。お襁褓をしている赤子まで見逃さずに殺し尽くす。そのとばっちりを受けて杜氏も何人も殺された。(城南には、韋氏と杜氏が隣接していたが、韋氏の勢力が増大すると、杜曲を侵略して住むようになっていた。) この日、天下へ恩赦を下し、言った。 「逆賊の首魁は既に誅殺した。これ以外の支党は皆不問に処す。」 臨淄王隆基を平王兼知内外閑厩とし、左右廂万騎を指揮させる。薛祟柬へ爵立節王を下賜した。鐘紹京を中書侍郎、劉幽求を守中書舎人として、共に参知機務とした。麻嗣宗を行右金吾衛中郎将とした。(「参知機務」という言葉が、ここで始めて出てきました。今までの「参知政事」を呼称変更したようです) 武氏の宗族は、誅殺や流罪で殆ど尽きた。侍中紀處訥は華州、吏部尚書同平章事張嘉福は懐州まで逃げたが、捕まって斬られた。 壬寅、劉幽求が太極殿にいると、宮人や宦官がやって来て、幽求へ立太后の制書を作るよう命じたが、幽求は言った。 「国に大難が起こった。人々はまだ不安がっており、先帝の埋葬も済んでいない。こんな状況で、慌ただしく太后を立てるなど、できぬ!」 平王隆基も言った。 「これは、軽々しく口にすることではない。」 十道使へ璽書を持たせて派遣し、宣撫させた。また、均州を詣でて譙王重福を宣慰した。竇従一を濠州司馬へ降格した。 癸卯、太平公主が少帝の命令を伝えた。帝位を相王へ譲るとゆうもの。相王は固辞する。平王隆基を殿中監・同中書門下三品、宋王成器を左衛大将軍、衡陽王成義を右衛大将軍、巴陵王隆範を左羽林大将軍、彭城王隆業を右羽林大将軍、光禄少卿嗣道王微を検校右金吾衛大将軍とする。微は元慶の孫である。黄門侍郎李日知、中書侍郎鐘紹京を共に同中書門下三品とした。太平公主の子息の薛祟訓を右千牛衛将軍とした。 隆基の奴隷に、王毛仲、李守徳という男達がいた。共に驍勇で騎射が巧く、いつも左右に侍って隆基を守っていた。隆基が苑中へ入ると、毛仲は逃げ隠れて随従せず、事件が終わって数日して帰ってきた。隆基は彼を責めず、将軍へ抜擢した。毛仲は高麗出身である。 汴王邕は沁州刺史へ、左散騎常侍・駙馬都尉楊慎交は巴州刺史へ、中書令蕭至忠は許州刺史へ、兵部尚書・同中書門下三品韋嗣立は宋州刺史へ、中書侍郎・同平章事趙彦昭は絳州刺史へ、吏部侍郎・同平章事崔是は華州刺史へそれぞれ降格された。 劉幽求が、宋王成器と平王隆基へ言った。 「相王は、昔宸極へ居たことがあり、衆望が集まっています。(則天武后は中宗を廃立して相王を立てたが、後にこれも廃立して唐周革命を起こした。)今、人心はまだ動揺しています。家国は重大なもの。相王は小さい節義を守り尊ぶより、即位して天下を鎮めるべきであります!」 隆基は言った。 「王は無欲で恬淡な人柄。政権を取ることになど心を動かさない。昔は天下を持っていたのに、他人へ譲ったではないか。ましてや兄の子からどうして奪ったりできようか!」 だが、幽求は言った。 「衆心へ違えてはなりません。王は独り高尚でいたいのでしょうが、社稷をどうなさるのですか!」 そこで成器と隆基は入って相王へ謁見し、この事を極言した。相王は、これを許した。 甲辰、少帝は太極殿の東隅にて、西を向いた。相王は梓宮の傍らに立つ。 太平公主が言った。 「皇帝は、この地位を叔父上へ譲りたがっておられます。よろしいですか?」 幽求が跪いて言った。 「国家多難の時期、皇帝は仁孝にして、堯や舜を追従なさった。まことに至公と言えます。相王が陛下に代わって重任を受けますのは、慈愛が厚いと申せます。」 そこで、少帝は帝位を相王へ伝えると制した。 この時、少帝はまだ御座に坐っていたので、太平公主が進み出て言った。 「天下の人心は、既に相王へ集まっています。ここは子供の席ではありません!」 遂に、これを抱えて降りた。 睿宗が即位し、承天門へ御幸すると天下へ特赦を下した。少帝を温王へ戻す。 鐘紹京を中書令とした。 鐘紹京は若くして司農録事となっていた。朝政を執るようになると勝手気儘に賞罰を与えたので、人々はこれを憎んだ。太常少卿の薛稷は、上表して職を辞退するよう勧めた。紹京は、これに従った。 稷は入って上へ言った。 「紹京は勲労がありますが、才覚も仁徳もない小役人上がり。それが元宰の地位へ登りますと、聖朝の美徳を汚す結果になってしまいかねません。」 上は、同意した。 丙午、戸部尚書とした。次いで蜀州刺史として下向させた。 9上將立太子,以宋王成器嫡長,而平王隆基有大功,疑不能決。成器辭曰:「國家安則先嫡長,國家危則先有功;苟違其宜,四海失望。臣死不敢居平王之上。」涕泣固請者累日。大臣亦多言平王功大宜立。劉幽求曰:「臣聞除天下之禍者,當享天下之福。平王拯社稷之危,救君親之難,論功莫大,語德最賢,無可疑者。」上從之。丁未,立平王隆基爲太子。隆基復表讓成器,不許。9.上は皇太子を立てようとした。宋王成器は嫡子で年長だが、平王隆基には大功があり、迷って決定できなかった。すると、成器が辞退して言った。 「国家が安泰ならば嫡長を先にし、危機が迫ったら有功を先にする。その宜しきに違えたら、四海は失望します。臣は例え死んでも、敢えて平王の上には居りません。」 涕泣して、累日固辞した。 大臣達も多くは平王の功績が大きいので皇太子に立てるよう言った。 劉幽求が言った。 「『天下の禍を除く者が、天下の福を享受するべきだ。』と、臣は聞きます。平王は、社稷の危機を救い、君親の難を救いました。功績を論じるに莫大です。徳を語れば最も賢人。疑ってはなりません。」 上は、これに従った。 丁未、平王隆基を立てて皇太子とした。隆基は何度も上表して成器へ譲ったが、許さなかった。 10則天大聖皇后復舊號爲天后。追謚雍王賢曰章懷太子。10.則天大聖皇后を、再び天后の旧号へ戻した。雍王賢を章懐太子と追諡した。 11戊申,以宋王成器爲雍州牧、揚州大都督、太子太師。11.戊申、宋王成器を雍州牧・揚州大都督・太子太師とした。 12置温王重茂於内宅。12.温王重茂を内宅へ置いた。 13以太常少卿薛稷爲黄門侍郎,參知機務。稷以工書,事上於藩邸,其子伯陽尚仙源公主,故爲相。13.太常少卿薛稷を黄門侍郎・参知機務とした。 稷は上が藩邸に居た頃から、工書で仕えていた。その子息の伯陽は仙源公主を娶っていた。だから相となったのだ。 14追削武三思、武崇訓爵謚,斲棺暴尸,平其墳墓。14.武三思、武祟訓の爵諡を追削した。棺桶を壊し屍を暴き、その墳墓を平らにした。 15以許州刺史姚元之爲兵部尚書、同中書門下三品,宋州刺史韋嗣立、許州刺史蕭至忠爲中書令,絳州刺史趙彦昭爲中書侍郎,華州刺史崔湜爲吏部侍郎,並同平章事。15.許州刺史姚元之を兵部尚書・同中書門下三品とし、宋州刺史韋嗣立と許州刺史蕭至忠を中書令とした。絳州刺史趙彦昭は中書侍郎、華州刺史崔湜は吏部侍郎とし、共に同平章事とした。 16越州長史宋之問,饒州刺史冉祖雍,坐諂附韋、武,皆流嶺表。16.越州長史宋之間と饒州刺史冉祖雍が、韋氏・武氏に諂い附した罪で、共に嶺表へ流された。 17己酉,立衡陽王成義爲申王,巴陵王隆範爲岐王,彭城王隆業爲薛王;加太平公主實封滿萬戸。17.己酉、衡陽王成義を申王、巴陵王隆範を岐王、彭城王隆業を薛王とする。太平公主へ実封を加え、一万戸とした。 太平公主は沈着鋭敏で謀略が多い人間で、武后は自分に似ていると思った。だから諸子の中で愛寵を一身に受けていた。密謀に預かることも多かったが、武后の威厳を畏れていたので、権勢を執ろうとはしなかった。 張易之の誅殺事件では、公主の力が大きかった。中宗の世では、韋后も安楽公主も彼女を畏れていた。また、太子と共に韋氏を誅する。大功を屡々立てたので、ますます尊重された。上はいつも彼女と大政を図り、彼女が入奏するごとに上は長時間座談した。ある時、太平公主が朝謁しなかった。すると、宰相がわざわざ彼女の第へやって来て、理由を尋ねた。 宰相が事を奏上するたびに、上はすぐに尋ねた。 「これは、太平と議論したのか?」 又問うた。 「三郎の意見は聞いたのか?」 そして、その後にこれを裁可するのだ。三郎とは、太子のことである。 公主の欲望は、上は全て叶えてやった。宰相以下の進退も、彼女の一言にかかる。それ以外の士の推薦や人事などは、数え上げることもできないほど。その権勢は人主を傾け、すり寄ってくる者で門前に市ができた。 子息の薛祟行、祟敏、祟簡は、皆、王へ封じられた。田園は都近辺にあまねく広がる。諸々の素晴らしい器玩をかき集め、遠くは嶺・蜀から輸送者が道に数珠繋ぎになった。そして彼女の住んでいる屋敷は、宮掖のようだった。 18追贈郎岌、燕欽融諫議大夫。18.郎岌と燕欽融へ諫議大夫を追賜した。 19秋,七月,庚戌朔,贈韋月將宣州刺史。19.秋、七月、庚戊朔、韋月将へ宣州刺史を追贈した。 20癸丑,以兵部侍郎崔日用爲黄門侍郎,參知機務。20.癸丑、兵部侍郎崔日用を黄門侍郎、参知機務とした。 21追復故太子重俊位號;雪敬暉、桓彦範、崔玄暐、張柬之、袁恕己、成王千里、李多祚等罪,復其官爵。21.もとの太子重俊の位号を追復する。敬暉、桓彦範、崔玄暐、張柬之、袁恕己、成王千里、李多祚等の罪をそそぎ、その官爵を復した。 22丁巳,以洛州長史宋璟檢校吏部尚書、同中書門下三品;岑羲罷爲右散騎常侍,兼刑部尚書。璟與姚元之協心革中宗弊政,進忠良,退不肖,賞罰盡公,請託不行,綱紀脩舉,當時翕然以爲復有貞觀、永徽之風。22.丁巳、洛州長史宋璟を検校吏部尚書、同中書門下三品とした。岑羲が今までの役職を辞め、右散騎常侍・兼刑部尚書となった。 璟と姚元之は心を合わせて中宗時代の弊害を改革し、忠良を進め不肖を退けた。賞罰は極めて公平で、情実は行われなかった。綱紀は修まり挙がり、当時は言論・行動が一致して貞観や永微年間のようだった。 23壬戌,崔湜罷爲尚書左丞,張錫爲絳州刺史,蕭至忠爲晉州刺史,韋嗣立爲許州刺史,趙彦昭爲宋州刺史。丙寅,姚元之兼中書令,兵部尚書、同中書門下三品李嶠貶懷州刺史。23.壬戌、崔湜が現職を辞め、尚書左丞となった。張錫は絳州刺史、蕭至忠は晋州刺史、韋嗣立は許州刺史、趙彦昭は宋州刺史となった。 丙寅、姚元之が中書令を兼任し、兵部尚書・同中書門下三品李嶠が懐州刺史へ降格させられた。 丁卯、太子少師、同中書門下三品唐休璟が高齢退職した。右武衛大将軍・同中書門下三品張仁愿が現職を辞め左衛大将軍となった。 24黄門侍郎、參知機務崔日用與中書侍郎、參知機務薛稷爭於上前,稷曰:「日用傾側,曏附武三思,非忠臣;賣友邀功,非義士。」日用曰:「臣往雖有過,今立大功。稷外託國姻,内附張易之、宗楚客,非傾側而何!」上由是兩罷之,戊辰,以日用爲雍州長史,稷爲左散騎常侍。24.黄門侍郎、参知機務崔日用と中書侍郎・参知機務薛稷が上の前で争った。 稷は言った。 「日用は私利に走り、かつては武三思へすり寄っていた。忠臣ではない。友を売って功績を手にした。義士ではない。」 日用は言った。 「臣はかつては過失もあったが、今は大功を立てた。張易之や宗楚客へすりよったのが、私利に走ったのでなくて一体なんだ!」 上はこれによって、両者を免職し、日用を雍州長史、稷を左散騎常侍とした。 25己巳,赦天下,改元;凡韋氏餘黨未施行者,咸赦之。25.己巳、天下へ恩赦を下し、改元した。韋氏の余党で、まだ罰せられていない者は皆、赦した。 26乙亥,廢武氏崇恩廟及昊陵、順陵,追廢韋后爲庶人,安樂公主爲悖逆庶人。26.乙亥、武氏の祟恩廟と昊陵、順陵を廃した。韋氏を庶人、安楽公手を悖逆庶人と追廃した。 27韋后之臨朝也,吏部侍郎鄭愔貶江州司馬,潛過均州,與刺史譙王重福及洛陽人張靈均謀舉兵誅韋氏,未發而韋氏敗。重福遷集州刺史,未行,靈均説重福曰:「大王地居嫡長,當爲天子。相王雖有功,不當繼統。東都士庶,皆願王來。若潛入洛陽,發左右屯營兵,襲殺留守。據東都,如從天而下也。然後西取陝州,東取河南北,天下指麾可定。」重福從之。27.韋后が朝廷へ臨んでいた頃、吏部侍郎鄭愔が江州司馬へ降格させられた。 彼はひそかに均州まで行き、刺史譙王重福及び洛陽の人張霊均と、挙兵して韋氏を誅しようと謀ったが、決起する前に韋氏は敗北した。 重福は集州刺史となったが、出発前に霊均が重福へ言った。 「大王は嫡長、天子になって当然です。相王には功績がありますが、正統な血統ではありません。東都の士庶は、皆、王が来るのを願っています。もし、洛陽へ潜入して左右の屯営兵を発して留守を襲撃殺害し東都へ據れば、それこそ天意に従うというもの。その後に西方陜州を取り、東は河南北を取れば、天下など指先で靡きますぞ。」 重福はこれに従った。 霊均は密かに愔と結謀し、数十人の仲間を集めた。 この頃、愔は秘書少監から沅州刺史へ左遷されたが、洛陽でグズグズして重福を待ちながら、制の草稿を作る。その内容は、重福を皇帝として、中元克服と改元し、上を尊んで皇季叔とし、温王は皇太弟、音は左丞相知内外文事、霊均は右丞相・天柱大将軍知武事、右散騎常侍厳善思を禮部尚書知吏部事とする、とゆうもの。 重福と霊均は偽って駅に乗り東都へ向かい、愔は先回りして張駙馬都尉裴巽の屋敷で重福の到着を待った。 洛陽の県官は、その陰謀を、微かに聞いた。 |