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資治通鑑巻第二百一十五
唐紀三十一 玄宗至道大聖大明孝皇帝中之下 天寶元年(壬午、七四二)1.春、正月、丁未朔、上が勧政楼へ御幸し、朝賀を受けた。天下へ恩赦を下し、改元した。 2壬子,分平盧別爲節度,以安祿山爲節度使。2.壬子、平盧を分離して別の節度とし、安禄山を節度使とした。 この時、天下の直領は三百三十一州、靡き従った地方は八百州。十節度、経略使を置き、辺境へ備えさせた。 安西節度は、西域を撫寧した亀慈・焉耆・于闐・疏勒の四鎮を統べ、亀慈城にて治めた。兵力は二万四千。 北庭節度は、突騎施・堅昆を防ぎ、瀚海・天山・伊吾の三軍を統べ、伊・西二州の境界に屯営し、北庭都護府にて治めた。兵力は二万人。 河西節度は、吐蕃・突厥を絶隔し、赤水・大斗・建康・寧寇・玉門・墨離・豆盧・新泉の八軍と張掖・交城・白亭の三守捉を統べ、涼・粛・瓜・沙・会五州の境界に屯営し、涼州を治めた。兵力は七万三千。 朔方節度は、突厥を防ぎ、経略、豊安、定遠三軍と三受降城、安北、単于二都護府を統べ、霊、夏、豊三州の境に屯営し、霊州を治めた。兵力は六万四千七百人。 河東節度は、朔方と掎角の備えで突厥を防ぎ、天兵・大同・横野・岢嵐の四軍と雲中守捉を統べ、太原府忻・代・嵐三州の境に屯営し、太原府を治めた。兵力は五万五千人。 范陽節度は、奚・契丹を臨制し、経略・威武・清夷・静塞・恒陽・北平・高陽・唐興・横海九軍を統べ、幽・薊・嬀・檀・易・恒・定・漠・滄九州の境に屯営し、幽州を治めた。兵力は九万一千四百人。 平盧節度は、室韋・靺鞨を鎮撫し、平盧・盧龍二軍と楡関守捉、安東都護府を統べ、営、平二州の境に屯営し、営州を治めた。兵力は三万七千五百。 隴右節度は、吐蕃へ備禦し、臨洮・河源・白水・安人・振威・威戎・漠門・寧塞・積石・鎮西十軍と綏和・合川・平夷の三守捉を統べ、鄯・廓・洮・河の境に屯営し、鄯州を治めた。兵力は七万五千人。 剣南節度は、西は吐蕃へ抗し、南は蛮・獠を撫す。天宝・平戎・昆明・寧遠・澄川・南江の六軍を統べ、益・翼・茂・當・巂・柘・松・維・恭・雅・黎・姚・悉十三州の境へ屯営し、益州を治めた。兵力は三万九百人。 嶺南五府経略は、夷・獠を綏静し、経略・清海二軍、桂・容・邕・交の四管を統べ、広州を治めた。兵力は一万五千四百人。 この他にまた、長楽経略があった。福州を領有し、兵力は千五百人。 東莱守捉は、莱州を領有した。東牟守捉は登州を領有した。兵力は、おのおの千人。 およそ鎮兵は、四十九万人。 開元年間以前は、辺域の兵卒たちへの衣食の費用は、毎年二百万を過ぎなかった。天宝年間以後は、辺将からの軍備増強の要請が多く、毎年千二百万の衣と百九十万斛の兵糧が必要となった。公私共に費用に苦労し、民は困窮しはじめた。 3甲寅,陳王府參軍田同秀上言:「見玄元皇帝於丹鳳門之空中,告以『我藏靈符,在尹喜故宅。』」上遣使於故函谷關尹喜臺旁求得之。3.甲寅、陳王府参軍田同秀が上言した。 「丹鳳門の空中で、玄元皇帝を見ました。そして告げたのです。『我は尹喜の昔の邸宅に霊符をしまっている。』と。」 上は、もとの函谷関へ使者を派遣し、尹喜台の傍らにてこれを見つけた。 4陝州刺史李齊物穿三門運渠,辛未,渠成。齊物,神通之曾孫也。4.陜州刺史李斉物が三門運渠を掘った。辛未、渠が完成した。斉物は神通の曾孫である。 5壬辰,羣臣上表,以「函谷寶符,潛應年號;先天不違,請於尊號加『天寶』字。」從之。5.壬辰、群臣が上表した。 「函谷の霊符は、ひそかに年号と符合しています。『先天は違わず』と申します。どうか、尊号に『天宝』の字を加えてください。」 これに従った。 二月、辛卯、上は玄元皇帝を新廟にて享した。 甲午、太廟にて享した。 丙申、南郊にて天地を合祀し、天下に恩赦を下した。 侍中を左相、中書令を右相と改め、尚書左・右丞相を僕射へ戻した。東都・北都をみな、京となし、州を郡、刺史を太守とした。桃林県を霊宝と改称した。田同秀は朝散大夫とした。 当時の人々は、みな、霊符は同秀の贋作だと疑っていた。一年後、清河の人崔以清が再び言った。 「天津橋の北で、玄元皇帝を見ました。そして告げたのです。『武城紫微山に霊符をしまっている。』と。」 勅使が言って探し、見つけた。 東都留守王倕はそれが偽りだと知り、尋問したところ、果たして自白したので、上奏した。上は深くは罰せず、ただ流罪としただけだった。 6三月,以長安令韋堅爲陝郡太守,領江、淮租庸轉運使。6.三月、長安令の韋堅を陜郡太守・領江淮庸転運使とした。 開元十八年に宇文融が敗れると、利益を口にする者は少なくなった。だが、楊慎矜が上から気に入られると(開元二十一年)、韋堅、王鉷のような連中が、競って利益を進めるようになった。遂には、利権のある百司へは別に使を置いてこれを裁量させ、旧来の官吏はただ位に就いているだけとなった。 堅は太子の妃兄である。官吏となると敏腕と称された。上が彼へ江、淮の租運を都督させると、歳入は巨万の増収となった。上は彼を有能と認め、抜擢したのだ。 王鉷は方翼の曾孫である。彼もまた、租賦をよく治めたので、戸部員外郎兼侍御史となった。 7李林甫爲相,凡才望功業出己右及爲上所厚、勢位將逼己者,必百計去之;尤忌文學之士,或陽與之善,啗以甘言而陰陷之。世謂李林甫「口有蜜,腹有劍。」7.李林甫が相となると、およそ才望功業が自分を凌いで上から厚く遇されて勢位が自分に迫るようになった者は、必ず百計を設けて除き去った。特に文学の士をもっとも忌み嫌い、あるいは上辺は仲良くして甘言でつりながら、密かに陥れた。人々は、彼を称して言った。「口に蜜有り、腹に剣有り。」 上は、かつて勧政楼にて音楽会を催し、御簾を垂らしてこれを御覧になった。兵部侍郎盧絢が、上は既にお立ちになったと言い、鞭を垂らし轡を抑えて、横を通り過ぎて楼を降りた。絢は風采が立派だった。上は御簾越しにこれを見て、深く感嘆した。林甫は、いつも上の近習達へ金帛を厚く贈っていたので、上の挙動はすぐに耳へ入る。そこで絢の子弟を呼び出して言った。 「尊君はもともと清廉と評判だ。今、交・広州の方に欠員があるが、聖上は尊君を刺史として派遣しようと思っておられる。どうかな?もしも遠すぎて嫌だというのなら、左遷だぞ。そうでなければ、太子賓客か詹事になって、東都の職務を分掌するか。それもまた、賢者の優遇だからな。どうしよう?」 絢は懼れ、賓客か詹事を請うた。林甫は、衆望に違うのを懼れて、ひとまず華州刺史へ任命したが、それからすぐに「発病して州の治政ができなくなった」と誣いて、詹事・員外郎とした。 上はまた、あるとき李林甫に問うた。 「厳挺之は、今何処にいる?あいつは使える男だ。」 この時、挺之は絳州刺史だった。林甫は退出すると、挺之の弟の損之を呼んで、言った。 「上は尊兄のことを気に掛けている。謁見する手段として、通風と称し、帰京して医者にかかることを請願したらどうかね?」 挺之は、これに従った。林甫はこれを上奏して、言った。 「挺之は老衰して通風になりました。名目だけの役職を与えて医者にかからせるのが宜しいでしょう。」 上は長い間嘆息して残念がった。 夏、四月、壬寅、挺之を詹事とした。また、汴州刺史・河南采訪使の斉澣も少詹事となった。どちらも員外同正で、姚興にて療養させた。澣もまた、朝廷で宿望されていたので、これを忌んだのである。 8上發兵納十姓可汗阿史那昕於突騎施,至倶蘭城,爲莫賀達干所殺。突騎施大纛官都摩度來降,六月,乙未,册都摩度爲三姓葉護。8.上は兵を動員して、十姓可汗阿史那昕を突騎施に入れようとしたが、倶蘭城にて莫賀達干に殺された。突騎施の大纛官都摩度が来降した。 六月、乙未、都摩度を三姓葉護に冊立した。 9秋,七月,癸卯朔,日有食之。9.秋、七月、癸卯朔、日食が起こった。 10辛未,左相牛仙客薨。八月,丁丑,以刑部尚書李適之爲左相。10.辛未、左相牛仙客が卒した。八月、丁丑、刑部尚書李適之を左相とした。 11突厥拔悉蜜、回紇、葛邏祿三部共攻骨咄葉護,殺之,推拔悉蜜酋長爲頡跌伊施可汗,回紇、葛邏祿自爲左、右葉護。突厥餘衆共立判闕特勒之子爲烏蘇米施可汗,以其子葛臘哆爲西殺。11.突厥の抜悉密・回紇・葛邏禄の三部が共に骨咄葉護を攻撃して、これを殺した。抜悉密の酋長を推して頡跌伊施可汗とし、回紇・葛邏禄が左右の葉護となった。 突厥の余衆は、共に判闕特勒の子を立てて烏蘇米施可汗とし、その子の葛臘哆を西殺とした。 上は使者を派遣して、帰順するよう烏蘇へ諭したが、烏蘇は従わなかった。 朔方節度使王嗣忠は大軍を磧口へ動員して威圧した。烏蘇は懼れ、降伏を請うたが、理由をクダクダと付けてなかなかやって来なかった。忠嗣は、降伏が偽りだと見抜き、抜悉密・回紇・葛邏禄に使者を派遣してこれを攻撃するよう説いた。烏蘇は逃げ去った。そこで忠嗣は出兵して攻撃し、その右廂を取って帰った。 丁亥、突厥の西葉護阿布思と西殺葛臘哆の孫勃徳支、伊然の小妻、毗伽登利の娘が麾下の部衆千余帳を率いて相継いで降伏してきた。 九月、辛亥、上は花萼楼にて突厥の降伏者のために宴会を催し、賞を厚く賜った。 12護密先附吐蕃,戊午,其王頡吉里匐遣使請降。12.護密は、さきに吐蕃へ帰順していたが、戊午、その王頡里匐が使者を派遣して降伏を請うた。 13冬,十月,丁酉,上幸驪山温泉;己巳,還宮。13.冬、十月、丁酉、上が驪山の温泉へ御幸した。己巳、宮へ帰った。 14十二月,隴右節度使皇甫惟明奏破吐蕃大嶺等軍;戊戌,又奏破靑海道莽布支營三萬餘衆,斬獲五千餘級。庚子,河西節度使王倕奏破吐蕃漁海及游弈等軍。14.十二月、隴右節度使皇甫惟明が吐蕃、大嶺邏の軍を破ったと上奏した。 戊戌、青海道莽布支の営三万余の衆を破り、五千余級を斬獲したと上奏した。 庚子、河西節度使王倕が、吐蕃漁海及び遊弈らの軍を破ったと上奏した。 15是歳,天下縣一千五百二十八,郷一萬六千八百二十九,戸八百五十二萬五千七百六十三,口四千八百九十萬九千八百。15.この年、天下の県は千五百二十八。郷は一万六千八百二十九、戸は八百五十二万五千七百六十三、人口は四千八百九十万九千八百人となった。 16回紇葉護骨力裴羅遣使入貢,賜爵奉義王。16.回紇葉護骨力裴羅が使者を派遣して入貢した。奉義王の爵位を下賜した。 二年(癸未、七四三)1.春、正月、安禄山が入朝した。上が特別厚く寵遇していたので、彼は時期によらずに謁見できた。 禄山は上奏した。 「去年、営州で虫害が起こり、苗が食べられてしまったので、臣は香を焚いて天へ祈りました。『臣の心がもし曲がっていて主君に不忠で仕えるならば、どうかこの虫に臣の心臓を食べさせてください。もしも臣が神の御心に背いていないなら、どうかこの虫を追い散らしてください。』そうすると、沢山の鳥が北から飛んできて、虫をたちどころに食べ尽くしてしまいました。どうか、検分の役人を派遣してください。」 これに従った。 2李林甫領吏部尚書,日在政府,選事悉委侍郎宋遙、苗晉卿。御史中丞張倚新得幸於上,遙、晉卿欲附之。時選人集者以萬計,入等者六十四人。倚子奭爲之首,羣議沸騰。前薊令蘇孝韞以告安祿山,祿山入言於上,上悉召入等人面試之,奭手持試紙,終日不成一字,時人謂之「曳白」。癸亥,遙貶武當太守,晉卿貶安康太守,倚貶淮陽太守,同考判官禮部郎中裴朏等皆貶嶺南官。晉卿,壺關人也。2.李林甫は、吏部尚書を兼ねていて、毎日政事堂に出勤しており、人事は侍郎の宋遙と苗晋卿に全て委ねていた。 御史中丞張倚が上から気に入られ始めたので、遙も晋卿も彼と近づきになりたくなった。この時、登用を望む者は一万人もいたのに、採用されたのは六十四人しかいなかった。倚の子息の奭はその首席だったので、群議が沸騰した。前の薊令蘇孝韞が安禄山へ告げると、禄山は入って上言した。上は、採用された人間を全員召集してこれを面前で試験した。奭は試験用紙を手にしたまま、終日一文字も書けなかった。時の人はこれを「曳白」と言った。 癸亥、遙は武当太守に、晋卿は安康太守に、倚は淮陽太守に左遷された。この人選に関与した礼部郎中裴朏らは、みな、嶺南の官に左遷された。 晋卿は、壺関の人である。 3三月,壬子,追尊玄元皇帝父周上御大夫爲先天太皇;又尊皋繇爲德明皇帝,涼武昭王爲興聖皇帝。3.三月、壬子、玄元皇帝の父の周上御大夫を先天太皇と追尊した。また、皋繇を尊んで徳明皇帝とし、涼の武昭王を興聖皇帝とした。 4江、淮南租庸等使韋堅引滻水抵苑東望春樓下爲潭,以聚江、淮運船,役夫匠通漕渠,發人丘壟,自江、淮至京城,民間蕭然愁怨,二年而成。丙寅,上幸望春樓觀新潭。堅以新船數百艘,扁榜郡名,各陳郡中珍貨於船背;陝尉崔成甫著錦半臂,鈌胯綠衫而裼之,紅袹首,居前船唱得寶歌,使美婦百人盛飾而和之,連檣數里;堅跪進諸郡輕貨,仍上百牙盤食。上置宴,竟日而罷,觀者山積。夏,四月,加堅左散騎常侍,其僚屬吏卒褒賞有差;名其潭曰廣運。時京兆尹韓朝宗亦引渭水置潭於西街,以貯材木。4.江・淮南租庸等使韋堅が滻水の水を引き込んで望春楼の下に沢を造ろうとした。そこで江淮の運船をかき集め、人夫や匠を使って運河を掘らせた。徴発された役夫は、まるで丘をなすように大勢で、江淮から京城へ至るまで、民間は労役に苦しめられて愁い怨んだ。 工事は、二年掛けて完成した。 丙寅、上は望春楼へ御幸して、新しい沢を観た。堅は、新船数百艘をこぎだした。各々の船には平べったい板に郡名が書かれており、郡中の珍貨を船背に載せていた。 陜尉の崔成甫はきらびやかな錦の半袖、緑色のシャツで肌脱ぎになり、紅のスカーフを首に巻き、船の先頭で得寶歌を歌った。飾り立てた百人の美人に唱和させ、船の列は数里も連なった。堅は跪いて諸郡の軽貨を献上し、上は百牙の盤にて食した。 上の宴会は終日終わらず、見物人は山積みとなった。 夏、四月、堅に左散騎常侍を加え、その僚属吏卒も各々の地位に合わせて褒賞を下賜された。その沢は、廣運と名付けられた。 この時、京兆尹の韓朝宗も渭水から水を引いて西街へ沢を造り、材木の貯蔵所とした。 5丁亥,皇甫惟明引軍出西平,撃吐蕃,行千餘里,攻洪濟城,破之。5.丁亥、皇甫惟明が軍を率いて西平らから出陣し、吐蕃を撃った。千余里を行軍し、洪済城を攻撃し、これを破った。 6上以右贊善大夫楊愼矜知御史中丞事。時李林甫專權,公卿之進,有不出其門者,必以罪去之;愼矜由是固辭,不敢受。五月,辛丑,以愼矜爲諫議大夫。6.上は、右賛善大夫楊慎矜を知御史中丞事とした。 この頃、李林甫が専横を振るっていて、公卿が出世しても彼の門下から出た者でなければ、必ず罪を着せられて失脚した。だから慎矜は、これを固辞して敢えて受けなかった。 五月、辛丑、慎矜を諫議大夫とした。 7冬,十月,戊寅,上幸驪山温泉;乙卯,還宮。7.冬、十月、戊寅、上が驪山の温泉に御幸した。乙卯、宮殿に帰った。 三載(甲申、七四四)1.春、正月、丙申朔、年を載と改めた。 2辛丑,上幸驪山温泉;二月,庚午,還宮。2.辛丑、上が驪山の温泉に御幸した。二月、庚午、宮殿に帰った。 3辛卯,太子更名亨。3.辛卯、太子が亨と改名した。 4海賊呉令光等抄掠台、明,命河南尹裴敦復將兵討之。4.海賊呉令光らが台・明州で掠奪を働いた。河南尹裴敦復に討伐を命じた。 5三月,己巳,以平盧節度使安祿山兼范陽節度使;以范陽節度使裴寬爲戸部尚書。禮部尚書席建侯爲河北黜陟使,稱祿山公直;李林甫、裴寬皆順旨稱其美。三人皆上所信任,由是祿山之寵益固不搖矣。5.三月、己巳、平盧節度使の安禄山に、范陽節度使を兼任させた。范陽節度使の裴寛を戸部尚書とした。 礼部尚書の席建侯が河北黜陟使となり、禄山を公直と称した。李林甫、裴寛は、ともに皇帝の想いに逆らわず、禄山の長所を褒めた。三人とも上から信任されていた人間であった。これによって禄山の寵遇はますます確固として揺るぎなくなった。 6夏,四月,裴敦復破呉令光,擒之。6.夏、四月、裴敦復が、呉令光を破り、これを捕らえた。 7五月,河西節度使夫蒙靈詧討突騎施莫賀達干,斬之,更請立黑姓伊里底蜜施骨咄祿毗伽;六月,甲辰,册拜骨咄祿毗伽爲十姓可汗。7.五月、河西節度使の夫蒙霊詧が、突騎施の莫賀達干を討ち、これを斬った。更に、黒姓の伊里底蜜施の骨咄禄毗伽を立てるよう請うた。 六月、甲辰、骨咄禄毗伽を十姓可汗に冊立した。 8秋,八月,拔悉蜜攻斬突厥烏蘇可汗,傳首京師。國人立其弟鶻隴匐白眉特勒,是爲白眉可汗。於是突厥大亂,敕朔方節度使王忠嗣出兵乘之。至薩河内山,破其左廂阿波達干等十一部,右廂未下。會回紇、葛邏祿共攻拔悉蜜頡跌伊施可汗,殺之。回紇骨力裴羅自立爲骨咄祿毗伽闕可汗,遣使言状;上册拜裴羅爲懷仁可汗。於是懷仁南據突厥故地,立牙帳於烏德犍山,舊統藥邏葛等九姓,其後又并拔悉蜜、葛邏祿,凡十一部,各置都督,毎戰則以二客部爲先。8.秋、八月、抜悉蜜が突厥の烏蘇可汗を攻撃して斬った。首を京師へ送った。 国人はその弟の鶻隴匐白眉特勒を立てた。これが白眉可汗である。ここにおいて突厥は大いに乱れた。朔方節度使王忠嗣にこれに乗じて出兵するよう勅を下した。 薩河内山へ至って突厥の左廂阿波達干ら十一部を撃破したが、左廂はまだ降伏しなかった。 回紇・葛邏禄とともに抜悉蜜の頡跌伊施可汗を攻め、これを殺した。回紇の骨力裴羅は、自立して骨咄禄毗伽闕可汗と名乗り、使者を派遣してこれを書状で上へ伝えた。上は裴羅を懐仁可汗に冊立した。 ここにおいて懐仁は突厥の故地に據った。烏徳犍山へ牙帳を立て、薬邏葛等九姓を統治した。後、更に抜悉蜜・葛邏禄を併呑した。この十一部へは各々都督を置き、戦争のたびにその中の二部を先鋒とした。 9李林甫以楊愼矜屈附於己,九月,甲戌,復以愼矜爲御史中丞,充諸道鑄錢使。9.李林甫は、楊慎矜が自分に懐いているので、九月、甲戌、彼を御史中丞として諸道鋳銭使にあてた。 10冬,十月,癸巳,上幸驪山温泉;十一月,丁卯,還宮。10.冬、十月、癸巳、上が驪山の温泉に御幸した。十一月、丁卯、宮殿に帰った。 11術士蘇嘉慶上言:「遯甲術有九宮貴神,典司水旱,請立壇於東郊,祀以四孟月。」從之。禮在昊天上帝下,太清宮、太廟上,所用牲玉,皆侔天地。11.術士の蘇嘉慶が「九宮の貴神に遁甲の術があり、降雨や日照りを司っています。どうか東郊へ祭壇を立て、四孟月に祀ってください」と、上言した。これに従った。 礼遇としては、昊天上帝の下に置き、太清宮、太廟の上に置いた。供物には玉を用い、みな、天地を待った。 12十二月,癸巳,置會昌縣於温泉宮下。12.十二月、癸巳、温泉宮の下に会昌県を置いた。 13戸部尚書裴寬素爲上所重,李林甫恐其入相,忌之。刑部尚書裴敦復撃海賊還,受請托,廣序軍功,寬微奏其事。林甫以告敦復,敦復言寬亦嘗以親故屬敦復。林甫曰:「君速奏之,勿後於人。」敦復乃以五百金賂女官楊太眞之姊,使言於上。甲午,寬坐貶睢陽太守。13.戸部尚書裴寛は、もともと上から重んじられていた。李林甫は、彼が宰相となることを恐れ、彼を忌んでいた。 刑部尚書裴敦復が海賊を撃って帰ってくると、寛に金品を送って軍功を吹聴するよう頼んだが、寛は過小報告しかしなかった。林甫がこれを敦復に告げると、敦復は言った。 「寛はもともと私と親しかったから、いろいろ都合をつけてやっていたのに。」 林甫は言った。 「君はすぐに上奏しろ。遅れたら、逆に何を言われるか判らないぞ。」 そこで敦復は女官楊太真の姉に五百金を贈り、この事実を上言して貰った。 甲午、寛は有罪となり、睢陽太守に左遷された。 話は前後するが、武恵妃が卒した後、上は哀悼の想いがなくならなかった。後宮には数千人の女性が居たが、意に叶う女性は一いなかった。するとある者が言った。 「寿王の妃の楊氏の美貌は、絶世無双です。」 上は、彼女を見て大いに気に入り、妃に自発的に女官となるよう命じた。彼女を太真と号した。寿王のためには左衛郎将韋昭訓の娘を娶ってやった。そして太真は密かに宮中へ入れた。 太真の肌態は豊満で、音律に精通していた。気が利く質で、上の意に迎合することが巧かった。一年も経たないうちに、かつての恵妃と同じような寵遇を受けるようになった。宮中では「娘子」と呼ばれ、その待遇は皇后並だった。 14癸卯,以宗女爲和義公主,嫁寧遠奉化王阿悉爛達干。14.癸卯、宗女を和義公主として、寧遠奉化王阿悉爛達干に嫁がせた。 15癸丑,上祀九宮貴神,赦天下。15.癸丑、上が九宮で貴神を祀り、天下に恩赦を下した。 16初令百姓十八爲中,二十三成丁。16.百姓は、十八才で中、二十三才で丁とした。 17初,上自東都還,李林甫知上厭巡幸,乃與牛仙客謀增近道粟賦及和糴以實關中。數年,蓄積稍豐。上從容謂高力士曰:「朕不出長安近十年,天下無事,朕欲高居無爲,悉以政事委林甫,何如?」對曰:「天子巡狩,古之制也。且天下大柄,不可假人;彼威勢既成,誰敢復議之者!」上不悅。力士頓首自陳:「臣狂疾,發妄言,罪當死!」上乃爲力士置酒,左右皆呼萬歳。力士自是不敢深言天下事矣。17.かつて上が東都から帰ったとき、李林補は、上が巡幸に嫌気が差していると気が付いた。そこで牛仙客と謀って、近道からの粟賦を増やしてこれを関中へ運び込んだ。数年経つと、備蓄された穀物が溢れ返った。 上はくつろいだ時に高力士へ言った。 「朕は長安を出なくなって十年近くなるが、天下は無事だ。政事は全て林甫へ委任して、朕は高居無為の生活を送ろうと思うが、どうかな?」 対して、力士は言った。 「天子の巡狩は古来からの制度です。それに、天下の大柄は人に貸してはいけません。彼の勢いは既に確固としているのです。彼と敢えて議論する者などおりましょうか!」 上は不機嫌になった。すると力士は頓首して自ら言った。 「臣は愚かにも考えなしに妄言を吐きました。その罪は死罪にあたります。」 上は、力士に酒を賜った。左右はみな、万歳を称した。 力士は、これ以来天下の事に深い口出しはしなくなった。 四載(乙酉、七四五)1.春、正月、庚午、上が宰相に言った。 「朕は、去る甲子の日、宮中に壇を造り百姓のために福を祈った。朕自ら文章を書き、案の上に置いたところ、誓紙はたちまち天へ飛び上がった。そして空中から声が聞こえた。『聖寿が延長するぞ。』と。又、朕は祟山にて薬を造り、これを壇の上に置いた。夜になって、近習がこれをしまおうとしたら、又、空中で声がした。『薬はまだしまってはいけない。これが聖身を守るのだ。』そこで、その薬は暁になってからしまったのだ。」 太子や諸王・宰相は、みな、上表して祝賀した。 2回紇懷仁可汗撃突厥白眉可汗,殺之,傳首京師。突厥毗伽可敦帥衆來降。於是北邊晏然,烽燧無警矣。2.回紇の懐仁可汗が突厥の白眉可汗を攻撃した。これを殺して、首を京師へ送った。 突厥の毗伽可敦は、衆を率いて来降した。こうして、北辺は安定し、狼煙台は警備さえされなくなった。 回紇の領土はいよいよ広くなり、東は室韋、西は金山へ接し、南は大漠をまたぐ。それは、突厥の故地の全てである。 懐仁が卒すると、子息の磨延啜が立った。葛勒可汗と号した。 3二月,己酉,以朔方節度使王忠嗣兼河東節度使。忠嗣少以勇敢自負,及鎭方面,專以持重安邊爲務,常曰:「太平之將,但當撫循訓練士卒而已,不可疲中國之力以邀功名。」有漆弓百五十斤,常貯之櫜中,以示不用。軍中日夜思戰,忠嗣多遣謀人伺其間隙,見可勝,然後興師,故出必有功。既兼兩道節制,自朔方至雲中,邊陲數千里,要害之地,悉列置城堡,斥地各數百里。邊人以爲自張仁亶之後,將帥皆不及。3.二月、己酉、朔方節度使王忠嗣に河東節度使を兼任させた。 忠嗣は若い頃から勇敢で鳴らしていたが、鎮守の責任者になると、自重安辺を務めとするようになった。彼は、常に言っていた。 「太平の将は、ただ士卒を慰撫して訓練しておけばよいのだ。中国の力を疲弊させてまで、功名を求めてはならない。」 百五十斤の漆弓があったが、いつもこれを袋の中へしまい込み、不用の物であると示していた。軍中の兵卒たちは日夜戦いたくてウズウズしていた。忠嗣は間諜を大勢放って敵の隙を伺い、勝機を見つけて初めて軍を動かした。だから、出陣したら必ず戦功を建てた。 両道の節制を兼務してからは、朔方から雲中へかけての数千里のうち、要害の地には全て城堡を並べ、各々数百里も領土を広げた。 辺境の人間は、張仁亶以後の将帥の中ではピカ一だと評した。 4三月,壬申,上以外孫獨孤氏爲靜樂公主,嫁契丹王李懷節;甥楊氏爲宜芳公主,嫁奚王李延寵。4.三月、壬申、上は外孫の独孤氏を静楽公主として契丹王李懐節に、甥の楊氏を宜芳公主として奚王李延寵に、嫁がせた。 5乙巳,以刑部尚書裴敦復充嶺南五府經略等使。五月,壬申,敦復坐逗留不之官,貶淄川太守,以光祿少卿彭杲代之。上嘉敦復平海賊之功,故李林甫陷之。5.乙巳、刑部尚書裴敦復を五府経略等使とした。 五月、壬申、敦復は京師にグズグズしていて任地へ赴かなかったので有罪となり、淄川太守に左遷された。経略等使には光禄少卿彭果を任命した。 上は、敦復が海賊を平定した功績を嘉していた。だから、李林甫がこれを陥れたのだ。 6李適之與李林甫爭權有隙。適之領兵部尚書,駙馬張垍爲侍郎,林甫亦惡之,使人發兵部銓曹姦利事,收吏六十餘人付京兆與御史對鞫之,數日,竟不得其情。京兆尹蕭炅使法曹吉温鞫之。温入院,置兵部吏於外,先於後廳取二重囚訊之,或杖或壓,號呼之聲,所不忍聞;皆曰:「苟存餘生,乞紙盡答。」兵部吏素聞温之慘酷,引入,皆自誣服,無敢違温意者。頃刻而獄成,驗囚無榜掠之迹。六月,辛亥,敕誚責前後知銓侍郎及判南曹郎官而宥之。垍,均之兄;温,頊之弟子也。6.李適之と李林甫が権力を争って仲が悪くなった。適之は兵部尚書で、駙馬の張垍は侍郎だったが、林甫は彼もまた憎んでいた。そこで、兵部銓曹の悪事を告発させ、役人六十余人を摘発して京兆と御史に詮議させたが、ついに実証できなかった。 京兆尹蕭炅は、法曹の吉温に詮議させた。温は院へ入ると、兵部の役人を外へ出し、まず、別の囚人達を尋問したが、その方法は杖で打ったり押し潰したりする拷問で、泣き叫ぶ声は聞くに忍びなかった。皆は言った。 「命さえ有るならば、何でも白状いたします。」 兵部の役人は、もともと温の残酷さを知っていたので、引き入れられると皆が自ら白状し、温の意向に逆らおうとする者はいなかった。 僅かの間に疑獄は成立し、尋問された囚人たちには拷問の跡一つなかった。 六月、辛亥、勅が下って前後の知銓侍郎及び判南曹郎官が譴責し、これを宥めた。 垍は均の兄、温は頊の弟の子である。 温は新豊丞となった時、太子文学の薛嶷が彼の才覚を推薦したが、上はこれを召見して言った。 「これは不良人だ。朕は用いない。」 蕭炅は河南尹だった頃、ある事件に関与した。西台は温を派遣して詮議させたが、温は容赦なく炅を詮議した。のちに、温は萬年丞となったが、それからすぐに炅は京兆尹となった。 温はもともと高力士と結託していた。温は、炅は必ず任官の謝礼に力士の自宅へ出向くと考え、力士が禁中から自宅へ帰る炅に、先回りして彼を訪ねた。そして歓談して手を取り合って楽しんでいるところへ、炅がやって来た。温は、上辺は驚いたふりをして隠れようとしたが、力士は呼びかけた。 「吉七、逃げることはない。」 また、炅へ言った。 「これは、我の旧友だ。」 そして、炅と同席させた。炅は彼に対して非常に恭しく、かつての怨みを態度に見せたりしなかった。 他日、温は炅に会って、言った。 「あの時は、国家の法を壊せなかったのです。これからは、心を改めて公に仕えます。」 炅は遂に歓びを尽くし、彼を引き上げて法曹とした。 やがて李林甫が、自分に従わない者を排斥しようとし始めると、獄吏を求めた。炅は林甫に温を推薦した。林甫は彼を得て、大いに喜んだ。 温はいつも言っていた。 「もしも知己に会ったなら、南山の白額虎でも縛り上げて見せましょう。」 この頃、また、杭州の人羅希颯爽も酷吏として評判だった。林甫は彼を派閥に組み入れ、御史台主簿から何度も出世させて殿中御史とした。 二人は林甫に従って、その意向の深浅に従い罪をでっち上げ、逃れられる者は居なかった。時の人々は、彼らを「羅鉗吉網」と呼んだ。 7秋,七月,壬午,册韋昭訓女爲壽王妃。7.秋、七月、壬午、韋昭訓の娘を壽王妃に冊立した。 八月、壬寅、楊太真を貴妃に冊立し、その父の玄琰を兵部尚書、叔父の玄珪を光禄卿、従兄の銛を殿中少監、錡を駙馬都尉とした。 癸卯、武恵妃の娘を太華公主に冊立し、錡に娶るよう命じた。 貴妃の三人の姉も、皆、京師に邸を賜り、非常に寵遇された。 楊釗は貴妃の従祖兄である。学問もしない無頼漢で、一族の鼻つまみだった。蜀にて従軍して新都尉となった。従軍期間が満ちたが、家が貧しいので帰郷できなかった。すると、新政の鮮于仲通という金持ちが、何かと面倒を見て遣った。 楊玄琰が蜀へやって来ると、釗はその家へ往来し、中女と密通した。 鮮于仲通は、名を「向」と言うが、字の方が有名である。読書を好み材智があったので、剣南節度使章仇兼瓊が引き立てて采訪支使とし、腹心とした。 あるとき、兼瓊はくつろいだ有様で仲通に言った。 「今、我は一人上からの厚遇を受けているが、朝廷で助けてくれる者が居ない。李林甫は、絶対陥れようとした。時に、楊妃が寵愛を受け始めたが、まだ彼女とよしみを結んだ者はいない。我が長安へ行ったとき、子がその家とよしみを通じさせることができたなら、我に患いは及ぶまいが。」 仲通は言った。 「仲通は蜀の人間で、上国へは行ったこともありませんので、公事を達成できません。でも、公の為に役に立つ人間を紹介しましょう。」 そして、釗との事を語った。 兼瓊が釗と会ってみると、押し出しが立派で、弁も立った。兼瓊は大いに喜び、すぐに官吏に推挙し、往来して親密になった。釗が朝貢の使者として上京する折、別れの時に言った。 「郫に、ちょっとした物を用意した。一日の食糧にはなるだろう。通り過ぎるとき、立ち寄ってみてくれ。」 釗が郫県へ行くと、兼瓊の言いつけでたくさんの宝物が準備しされていた。値にしたら一万緡の価値はあっただろう。釗は大いに喜び、昼夜兼行して長安へ向かい、諸妹の第を訪ねては蜀貨をふるまい、言った。 「これは兼瓊からの賜です。」 その頃、中女は夫を亡くしたばかりだった。釗は彼女の館へ泊まり込み、蜀貨を二分して与えた。 ここにおいて、諸楊は日夜兼瓊のことを褒めそやかした。また、釗がチョボ(サイコロ投げ。博打の一種)が巧いことも吹聴し、上に見物するよう勧めた。こうして釗は供奉官へ随伴して禁中に出入りできるようになり、金吾兵曹参軍となった。 8九月,癸未,以陝郡太守、江淮租庸轉運使韋堅爲刑部尚書,罷其諸使,以御使中丞楊愼矜代之。堅妻姜氏,皎之女,林甫之舅子也,故林甫昵之。及堅以通漕有寵於上,遂有入相之志,又與李適之善;林甫由是惡之,故遷以美宮,實奪之權也。8.九月、癸未、陜郡太守・江淮租庸転運使の韋堅を刑部尚書として、その諸使を御史中丞楊慎矜に交代させた。 堅の妻の姜氏は、皎の娘で、林甫の舅の子である。だから、林甫は彼と昵懇だった。堅が通漕のことで上から寵遇されると、彼は朝廷へ入って宰相になろうと思った。また、吏適之とも仲が良かったので、林甫は彼を憎み始めた。だから、美官を与えて、その実、実権を奪ったのである。 9安祿山欲以邊功市寵,數侵掠奚、契丹;奚、契丹各殺公主以叛,祿山討破之。9.安禄山は辺境で功績を建てて寵遇を得ようと、しばしば奚や契丹に侵略した。奚と契丹は、各々公主を殺して叛逆したが、禄山はこれを討って破った。 10隴右節度使皇甫惟明與吐蕃戰于石堡城,爲虜所敗,副將褚誗戰死。10.石堡城にて、隴右節度使皇甫惟明が吐蕃と戦い、敗れた。副将の褚誗が戦死した。 11冬,十月,甲午,安祿山奏:「臣討契丹至北平郡,夢先朝名將李靖、李勣從臣求食。」遂命立廟。又奏薦奠之日,廟梁産芝。11.冬、十月、甲午、安禄山が上奏した。 「臣が契丹を討って北平郡まで進軍したおり、先朝の名将李靖・李勣が臣に食を求める夢を見ました。」 そこで、廟を建てるよう命じた。 また、薦奠の日、廟梁に芝が生えたと上奏した。 12丁酉,上幸驪山温泉。12.丁酉、上が驪山の温泉に御幸した。 13上以戸部郎中王鉷爲戸口色役使,敕賜百姓復除。鉷奏徴其輦運之費,廣張錢數,又使市本郡輕貨,百姓所輸乃甚於不復除。舊制,戍邊者免其租庸,六歳而更。時邊將恥敗,士卒死者皆不申牒,貫籍不除。王鉷志在聚斂,以有籍無人者皆爲避課,按籍戍邊六歳之外,悉徴其租庸,有併徴三十年者,民無所訴。上在位久,用度日侈,後宮賞賜無節,不欲數於左、右藏取之。鉷探知上指,歳貢額外錢百億萬,貯於内庫,以供宮中宴賜,曰:「此皆不出於租庸調,無預經費。」上以鉷爲能富國,益厚遇之。鉷務爲割剥以求媚,中外嗟怨。丙子,以鉷爲御史中丞、京畿采訪使。13.上は、戸部郎中王鉷を戸部色役使として、百姓を出身地へ戻すよう勅を賜った。鉷は、その輦運の費用がかさむことや、以後の物流に大きな労力がいることを奏上したので、沙汰やみとなった。(自信ありません。「復除」の「除」には「(官職などを)授ける」)という意味がありますから、「元の官職を与える」という意味でしょう。それを「流民を出身地へ返す」と訳したのはこじつけがひどすぎるような気がします。訳文だけ読むと意味は通りますが、私の完全な誤訳の可能性も強いです。) 旧制では、辺境の守備兵は租庸が免除され、六年で交代することになっていた。ところが、この頃の辺境の将軍達は、敗戦を恥としており、戦死した士卒を過小報告したので、彼等は戸籍上生きていることになっていた。 王鉷は、租税を山ほどかき集めるつもりだったので、戸籍があっても人が居ない者は皆、税金のがれの誤魔化しと決めつけ、戸籍を調べて六年間の兵役以外の租庸を全て徴収した。合計して三十年分も徴収される者も居たが、民は訴える場所もなかった。 上は在位して久しく、生活は日々豪奢になり、後宮への賜下も無節操に行った。それでも左藏や右藏からしばしば宝物を取り出すのは厭がっていた。鉷は、その上の心を知り、百億万もの租税を内庫へ蓄えて宮中での宴会や賜下品に供出し、言った。 「これは皆、租庸調以外の収入ですから、経費に回す必要はありません。」 上は、鉷に富国の才能があると思い、益々厚遇した。鉷は、税をむしり取ることに励んで媚びを求めたので、中外は怨嗟した。 丙子、鉷を御史中丞、京畿采訪使とした。 楊釗は禁中の宴会に侍り、チョボや文簿(博打の一種)ばかりやったが、計算がきっちりしていた。上はその強明を褒めて言った。 「よい度支郎(天下の租税の多少を掌握する官職)だ。」 諸楊は、彼を登用するようしばしば上言した。また、彼は王鉷の麾下にあった。そこで鉷は上奏して判官とした。 14十二月,戊戌,上還宮。14.十二月、戊戌、上が宮殿に帰った。 五載(丙戌、七四六)1.春、正月、乙丑、隴右節度使皇甫惟明に河西節度使を兼務させた。 李適之は軽率な人間。李林甫は、かつて適之に言った。 「華山に金鉱がある。これを採れば国が富むが、主上は未だ知らないのだ。」 他日、適之は上奏する時に、これを言った。上が林甫へ問うと、対して答えた。 「臣は前から知っていましたが、ただ華山は陛下の本命で王気がある場所です。これを荒らすのは良くありません。だから敢えて言わなかったのです。」 上は、林甫が自分を愛していると思い、適之が深く考えないことを軽蔑し、言った。 「今後、上奏する時には、その前に林甫と協議せよ。軽々しく進言してはならぬ。」 以来、適之はただ手を拱いているだけとなった。 適之が上から疎外され、韋堅が権力を失うと、この二人は益々親密になった。林甫はますますこれを憎んだ。 ところで、太子が立ったのは、林甫の意向ではなかった。林甫は、後日自分へ禍が降りかかるのを恐れ、東宮を廃立しようといつも狙っていた。そして堅は太子の妃兄である。 皇甫惟明は、かつて忠王の友だった。吐蕃を破って戦勝報告のため入朝した時、林甫の専横を見て心中非常に不満だった。上に謁見した時、折を見て林甫を斥けるよう勧めた。これを知った林甫は、密かにその所動を伺うよう楊慎矜へ命じた。 正月の十五夜に、太子が外出して遊び、堅と会った。堅はまた、景龍観の道士の室にて惟明と会った。慎矜はそのことを告げ、堅は太子の親戚なのだから辺将と狎れ親しむのは宜しくないとした。そこで林甫は、堅が惟明と陰謀を結んで太子を立てようとしていると上奏した。堅と惟明は獄へ下された。 林甫は、慎矜と御史中丞王鉷、京兆府法曹吉温に、これを詮議させた。上も又、堅と惟明が陰謀を巡らせたかと疑いはしたが、その罪はまだ顕れていなかった。 癸酉、制を下し、干進をやめないと堅を責めて縉雲太守へ降格し、惟明は君臣を離間したとして、播州太守へ降格した。また、別に制を下して百官の戒めとした。 2以王忠嗣爲河西、隴右節度使,兼知朔方、河東節度事。忠嗣始在朔方、河東,毎互市,高估馬價,諸胡聞之,爭賣馬於唐,忠嗣皆買之。由是胡馬少,唐兵益壯。及徙隴右、河西,復請分朔方、河東馬九千匹以實之,其軍亦壯。忠嗣杖四節,控制萬里,天下勁兵重鎭,皆在掌握,與吐蕃戰於靑海、積石,皆大捷。又討吐谷渾於墨離軍,虜其全部而歸。2.王忠嗣を河西、隴右節度使として、知朔方、河東節度事を兼任させた。 以前、忠嗣が朔方、河東にいた頃、彼は交易市場を開いて馬を高値で買った。諸胡はこれを聞きつけると、争って馬を唐へ売った。忠嗣は、これを皆買った。こうして胡の馬は少なくなり、唐の軍事力は益々増強した。 やがて隴右、河西へ移ると、朔方、河東の馬九千匹をこちらへ移動して軍馬を充実させるよう請うた。その軍備力も増強した。 今回、忠嗣は四節度使を指揮下に置き、万里を制圧した。天下の勁兵重鎮は皆、彼が掌握した。青海、積石にて吐蕃と戦い、どちらも大勝した。また、墨離軍にて吐谷渾を討ち、その全部を捕虜として帰った。 3夏,四月,癸未,立奚酋娑固爲昭信王,契丹酋楷洛爲恭仁王。3.夏、四月、癸未、奚酋の婆固を昭信王に、契丹酋の楷洛を恭仁王に立てた。 4己亥,制:「自今四孟月,皆擇吉日祀天地、九宮。」4.己亥、制を下した。 「今後、四孟月(春夏秋冬それぞれの真中の月)には、みな、吉日を選んで天地、九宮を祀る。」 5韋堅等既貶,左相李適之懼,自求散地。庚寅,以適之爲太子少保,罷政事。其子衞尉少卿霅嘗盛饌召客,客畏李林甫,竟日無一人敢往者。5.韋堅らが左遷させられてから、左相の李適之は懼れ、自ら窓際を求めた。 庚寅、適之を太子少保とし、政事をやめさせた。 その子の衛尉少卿霅が、あるとき盛大に饌(祀の一種)を行って客を招いたが、客は林甫を畏れ、その日は誰一人訪れなかった。 6以門下侍郎、崇玄館大學士陳希烈同平章事。希烈,宋州人,以講老、莊得進,專用神仙符瑞取媚於上。李林甫以希烈爲上所愛,且柔佞易制,故引以爲相;凡政事一決於林甫,希烈但給唯諾。故事,宰相午後六刻乃出,林甫奏,今太平無事,巳時即還第,軍國機務皆決於私家;主書抱成案詣希烈書名而已。6.門下侍郎、祟玄館大学士陳希烈を同平章事とした。 希烈は、宋州の人で、老荘を講義して出世した。もっぱら神仙符瑞の話で上に媚びた。李林甫は、希烈が上から愛され、その性格が柔佞で操りやすかったので、これを引き立てて相としたのである。およそ、政事は林甫だけが決定し、希烈はただ承諾するだけだった。 故事では、宰相は午後六刻に退出することになっていたが、林甫は、「ただいまは太平無事です。」とだけ上奏して第へ戻り、軍国の機務は皆、私家にて決定した。主書は、成立した案件を抱えて希烈のもとへ行き、ただ署名して貰うだけだった。 7五月,壬子朔,日有食之。7.五月、壬子朔、日食が起こった。 8乙亥,以劍南節度使章仇兼瓊爲戸部尚書;諸楊引之也。8.乙亥、剣南節度使章仇兼瓊を戸部尚書とした。諸楊の引き立てである。 9秋,七月,丙辰,敕:「流貶人多在道逗留。自今左降官日馳十驛以上。」是後流貶者多不全矣。9.秋、七月、丙辰、勅が下った。 「流貶された人の多くは途中で逗留している。今後、降格した官人は、一日十駅以上進め。」 10楊貴妃方有寵,毎乘馬則高力士執轡授鞭,織繡之工專供貴妃院者七百人,中外爭獻器服珍玩。嶺南經略使張九章,廣陵長史王翼,以所獻精美,九章加三品,翼入爲戸部侍郎;天下從風而靡。民間歌之曰:「生男勿喜女勿悲,君今看女作門楣。」妃欲得生荔支,歳命嶺南馳驛致之,比至長安,色味不變。10.楊貴妃がすこぶる寵愛された。馬に乗るごとに高力士が轡を執って鞭を振るった。貴妃院専従の織工は七百人もおり、中外は争って器服珍玩を献上した。嶺南経略使張九章や広陵長史王翼は、献上物が精緻で美しかったので、九章には三品が加えられ、翼は朝廷にて戸部侍郎となった。天下は、風に靡くように従った。 民間では、歌にまで歌われた。 「男を産んでも喜ぶな。女を産んでも悲しむな。主君は今、女を見て出世させるぞ。」 妃が生茘支を欲しがると、嶺南から駅伝で届けるよう命じた。長安へ届いたときには、色も味も劣化していなかった。 そこまで愛されたので、妃は不遜になり嫉妬や悍気を発するようになった。上は怒り兄の銛の屋敷に送り返すよう命じた。 その日、上は不機嫌で、一日中食事も摂らず、近習が少しでも気に入らないと、容赦なく鞭でぶっ叩いた。高力士は玄宗の想いを知り、院中の官女全員が、車百台で貴妃を迎えに行くよう請うた。上は喜び、自ら膳を賜った。 夜になって、貴妃が院に帰ってきたと、高力史が上奏した。ついに、禁門を開いて貴妃を入れた。 この一件で、寵恩はますます隆くなり、後宮の女性は誰も相手にされなくなった。 11將作少匠韋蘭、兵部員外郎韋芝爲其兄堅訟冤,且引太子爲言;上益怒。太子懼,表請與妃離婚,乞不以親廢法。丙子,再貶堅江夏別駕,蘭、芝皆貶嶺南。然上素知太子孝謹,故譴怒不及。李林甫因言堅與李適之等爲朋黨,後數日,堅長流臨封,適之貶宜春太守,太常少卿韋斌貶巴陵太守,嗣薛王琄貶夷陵別駕,睢陽太守裴寬貶安陸別駕,河南尹李齊物貶竟陵太守,凡堅親黨坐流貶者數十人。斌,安石之子。琄,業之子,堅之甥也。琄母亦令隨琄之官。11.将作少匠韋蘭と兵部員外郎韋芝は、彼らの兄の堅の件は冤罪であると訴え、太子を証人として引っ張ってきた。上はますます怒った。太子は懼れ、親しい相手でも法律を曲げないことを示すために、妃と離縁させて欲しいと上表した。 丙子、堅を再び左遷して江夏の別駕とし、蘭と芝は嶺南に飛ばされた。ただ、太子が孝謹な事を上は知っていたので、譴怒は太子には及ばなかった。 李林甫は、この事件に乗じて、堅と李適之らが朋党を造っていたと言った。 数日後、堅は臨封に長流され、適之は宣春太守に、太常少卿韋斌は巴陵太守に、嗣薛王琄は夷陵別駕に、睢陽太守裴寛は安陸別駕に、河南尹李斉物は意陵太守に、それぞれ左遷された。 およそ、堅と親しくしていた人間で連座で流罪や降格となった者は、数十人にも及んだ。 斌は安石の子息、琄は業の子で堅の甥である。絹の母親もまた、絹と共に赴任地へ追いやった。 12冬,十月,戊戌,上幸驪山温泉;十一月,乙巳,還宮。12.冬、十月、戊戌、上は驪山の温泉に御幸した。十一月、乙巳、宮殿に帰った。 13贊善大夫杜有鄰,女爲太子良娣,良娣之姊爲左驍衞兵曹柳勣妻。勣性狂疏,好功名,喜交結豪俊。淄川太守裴敦復薦於北海太守李邕,邕與之定交。勣至京師,與著作郎王曾等爲友,皆當時名士也。13.賛善大夫杜有隣は、娘を太子の良娣(側室の一人、正三品)としていた。良娣の妹は、左驍衛兵曹柳勣の妻となっていた。 柳勣は軽薄で功名を好み、豪俊と交友を結ぶことを喜んでいた。淄川太守裴敦復が北海にて太守李邕を推薦し、彼と交を結んだ。勣が京師へやって来ると、著作郎王曾らと友となった。みな、当時の名士だった。 勣は、妻の一族と仲が悪く、これを陥れようと思って、噂話を流した。有隣が妄りに図讖を称し、東宮と結託して乗輿を退位させようとしていると告発した。李林甫が、京兆士曹吉温にこれを詮議させたところ、勣が首謀者とされた。温は、勣へ曾らを連引して入台させた。 十二月、甲戌、有隣・勣および曾らは、みな、杖で打ち殺され、屍は大理に積み上げられた。妻子は遠方へ流された。中外は震駭した。 嗣虢王巨は、義陽司馬へ降格される。巨は、邑の子息である。これとは別に監察御史羅希爽を派遣して李邕を詮議させた。太子は、良娣を東宮から出して庶人とした。 乙亥、鄴郡太守王琚は、公金流用の罪で江華司馬に左遷された。琚は豪侈で、李邕と共に上の旧臣を自認していたが長い間地方に飛ばされていたので、怏々としていた。李林甫は、その憤懣を憎み、理由をこじつけて左遷したのだ。 六載(丁亥、七四七)1.春、正月、辛己、李邕と裴敦復がともに杖で打ち殺された。 邕の才能は人並み外れていた。盧蔵用はいつも言っていた。 「君は、干将や莫邪のようなものだ。君と先を争っても、勝ちがたい。しかし、ついには自分自身を傷つけるぞ。」 邕は用いることができなかった。 林甫は、また、皇甫惟明や韋堅兄弟の配所へ御史を派遣して、彼らに死を賜うよう上奏した。羅希奭は、青州から嶺南へ行き,行く先々で人を殺したので、郡県の役人達は驚愕した。 希奭の前触れが宜春へ到着すると、李適之は憂えの余り薬を飲んで自殺した。江華へ到着すると、王居は薬を飲んだが死ねなかった。希奭が到着したと聞くと、首をくくって死んだ。希爽は、裴寛を自殺させてとやろうと思い、道を迂回して安陸へ行った。すると、裴寛は希奭に向かって土下座して生き延びられるよう願った。希奭は宿泊しないで過ぎ去り、裴寛は死なずにすんだ。 李適之の子の霅は、父の喪を迎えに東京へ行った。すると李林甫は霅を誣告させた。霅は河南府にて杖で打ち殺された。 給事中の房琯は、適之と仲が良かったので、宜春太守に左遷された。琯は融の子である。 林甫は、韋堅が自分の子分にならなかった事を恨み、使者を河と江・淮の州県へ巡回させ、堅の罪を探させた。厳しく追求したので、連座するものが後を絶たず、牢獄があふれてしまった。そこで、船を縄でつないでその中へ収容した。拷問も凄しく、大勢の人間が公府にて裸のまま殺された。これは、林甫が死ぬまで続けられた。 2丁亥,上享太廟;戊子,合祭天地於南郊,赦天下。制免百姓今載田租。又令除削絞、斬條。上慕好生之名,故令應絞斬者皆重杖流嶺南,其實有司率杖殺之。又令天下爲嫁母服三載。2.丁亥、上が太廟で享した。 戊子、南郊にて天地を合祭し、天下へ恩赦を下した。制を下して、百姓の今年の田祖を免除した。また、絞首刑や斬罪を削った。 上は、命を大切にするという評判をほしがった。だから、死刑となるべき罪人は、みな、重い杖刑や嶺南への流罪に減刑するよう命じた。だが、その実役人が杖で打ち殺していた。また、妻の母のためにも三年の喪に服すよう、天下に命じた。 上は、天下の士を広く求めようと、一芸以上持つものは皆、京師へ来るよう命じた。李林甫は、草野の士が彼の姦悪へ対して排斥するよう上言することを恐れて、建言した。 「挙人には卑賎な人間が多く、俗語で聖聴を汚すかもしれません。」 そして、郡県の長官に厳格に試験させ、それで超絶した成績を取ったものは、名前を省へ送って尚書へ覆試を行わせ、御史中丞が監督し、名声と実力を兼ね備えている者だけ聞奏させることとした。実際に行ってみると、全員へ詩・賦・論の試験を行わせて、ついに一人も及第しなかった。林甫は、上表して野に遺賢がないことを祝賀した。 3戊寅,以范陽、平盧節度使安祿山兼御史大夫。3.戊寅、范陽・平盧節度使安禄山に御史大夫を兼任させた。 禄山は、でっぷりと太っており、お腹は膝まで垂れ下がっていた。かつて、自分のお腹は三百斤あると自称した。外見は薄ら馬鹿のようだったが、実は狡猾な人間で、配下の将劉駱谷を京師へ留め、いつも朝廷へ伺わせて、その動静を逐一報告させていた。上奏文は、駱谷が代作した。捕虜や雑畜、奇禽、異獣、珍玩をしょっちゅう献上したので、輸送車は道に相続き、郡県はその運搬に疲れ果てるほどだった。 禄山が上の前に出るときは、滑稽交じりの機敏な返答で上の機嫌をとった。 あるとき、上は禄山の腹を指差して言った。 「胡の腹の中には何があるのか。なんとも大きいではないか。」 禄山は答えた。 「この腹の中にあるものは、ただ真心だけでございます!」 上は悦んだ。 また、かつて太子と会った時、禄山は拝礼しなかった。人々が拝礼するよう教えても、禄山は突っ立ったまま言った。 「臣は胡人で朝廷の儀礼に疎いのです。太子とは、一体何者ですか?」 上は言った。 「これは世継だ。朕の千秋万歳の後、朕に代わって汝の主君になるのだ。」 禄山は言った。 「臣は愚かにも、ただ陛下一人が居る事を知っているだけで、世継が居ることを知りませんでした。」 やむを得ずに、拝礼した。上はこれを信じ込み、ますます禄山を愛した。 上がかつて勧政楼にて宴会をした時、百官は楼の下に列座したのに、禄山だけは東間に金鶏障を皇帝の座椅子の前に設けさせて、そこへ座らせた。簾も巻き上げており、そうやって諸臣へ栄寵を示した。 楊銛、楊錡、貴妃の三姉は、みな安禄山と義兄弟となった。禄山は、禁中へ出入りできるようになると、楊貴妃の義子となるよう請うた。上が貴妃と同席していると、禄山は、まず貴妃へ拝礼した。上がその理由を問うと、対して言った。 「胡人は、母を先にして父を後にします。」 上は悦んだ。 4李林甫以王忠嗣功名日盛,恐其入相,忌之。安祿山潛蓄異志,託以禦寇,築雄武城,大貯兵器,請忠嗣助役,因欲留其兵。忠嗣先期而往,不見祿山而還,數上言祿山必反;林甫益惡之。夏,四月,忠嗣固辭兼河東、朔方節度,許之。4.王忠嗣の功名が日々盛んになったので、李林甫は彼が朝廷へ入って宰相となることを恐れ、これを忌んだ。 安禄山は、密かに異志を蓄えていたので、寇を防ぐことに託して、雄武城を築き、大いに兵器を貯蔵した。そして王忠嗣を助役とするよう請うた。その兵を留めたかったのである。 忠嗣は、期限の前に行き、禄山に会わないで帰ってきた。そして、禄山が必ず造反すると、しばしば上言した。林甫は、ますますこれを憎んだ。 夏、四月、忠嗣は河東・朔方節度使の兼任を固辞した。これを許した。 5冬,十月,己酉,上幸驪山温泉,改温泉宮曰華清宮。5.冬、十月、己酉、上は驪山の温泉に御幸した。温泉宮を華清宮と改称した。 6河西、隴右節度使王忠嗣以部將哥舒翰爲大斗軍副使,李光弼爲河西兵馬使,充赤水軍使。翰父祖本突騎施別部酋長,光弼,契丹王楷洛之子也,皆以勇略爲忠嗣所重。忠嗣使翰撃吐蕃,有同列爲之副,倨慢不爲用,翰檛殺之,軍中股慄,累功至隴右節度副使。毎歳積石軍麥熟,吐蕃輒來獲之,無能禦者,邊人謂之「吐蕃麥莊」。翰先伏兵於其側,虜至,斷其後,夾撃之,無一人得返者,自是不敢復來。6.河西・隴右節度使王忠嗣が、部将の哥舒翰を大斗軍副使、李光弼を河西兵馬使、充赤水軍使とした。 翰の父は、もともと突騎施の別部酋長で、光弼は契丹王楷洛の子息である。どちらも勇略で忠嗣から重んじられていた。 忠嗣が、翰へ吐蕃を攻撃させたとき、翰の同列が翰の副官にされた。彼は傲慢で命令を聞かなかったので、翰はこれをぶち殺した。軍中は戦慄した。こうして翰は功績を重ね、隴右節度副使となった。 ところで、積石軍の麦が熟すころ、毎年吐蕃が来襲してこれを掠奪していった。それを防げる者はおらず、辺境の人間は、これを「吐蕃の麦荘」と言っていた。翰は、まず側面に伏兵を置いた。虜が来襲すると、その背後を絶って挟撃した。虜は一人として生還できず、以後、あえて来襲しようとはしなかった。 上が王忠嗣に、吐蕃の石堡城を攻撃させようとした。すると忠嗣は上言した。 「石堡城は険固で、吐蕃は国を挙げてこれを守っています。今、その城下へ出兵すれば、数万人の犠牲を出さなければ勝つことはできません。それだけの被害を出したのでは、石堡城を得ても割に合わないと、臣は愚考します。それよりも兵馬を養い、敵が隙を見せた時にこれを取る方が良いと思います。」 上は不機嫌になった。 将軍の董延光が兵を率いて石堡城を取ることを、自ら請うた。上は、忠嗣へ兵を分け、これを助けるよう命じた。忠嗣はやむをえず、詔を奉じた。しかし、延光の意のままには動かなかったので、延光はこれを怨んだ。 李光弼が忠嗣に言った。 「大夫は士卒を愛しているので、延光へ成功させまいとしています。制書で矯正されながらも、その謀略の足を引っ張っているのです。考えれば判るのですよ。なぜなら、今、数万の衆を授けながら、重賞が下されません。これでは士卒がどうして力を尽くせましょうか!しかしながら、これは天子の意向です。彼が功績を建てられなければ、その罪を必ず大夫へ押しつけます。大夫の軍府には、資財が山積みされています。どうして数万段の帛を惜しんで彼らの讒言を野放しにさせるのですか!」 忠嗣は言った。 「今、数万の衆で一城を争っている。これを得ても敵を制圧するには不足だし、得られなくても国に害はない。だから、忠嗣はこの作戦を望まないのだ。忠嗣が今、陛下の叱責を受けたとしても、せいぜい金吾や羽林の一将軍へ降格されて宿衛へ呼び戻されるか、黔中の上佐(長史や司馬のこと)に左遷させられるくらいだ。忠嗣が、どうして数万人の命と引き替えに我が身の一官を求めようか!李将軍、そなたは誠に我を愛してくれている。しかし、我が志は決まっているのだ。もう何も言うな。」 「大夫へ累が及ぶことを恐れ、言わずにいられなかったのです。ですが大夫は、古人のように立派なお方でした。光弼はとても及びません。」 ついに、コソコソ退出した。 延光は期限を過ぎても勝てなかったので、忠嗣が軍事を邪魔したと上言した。上は怒った。そこで李林甫は済陽別駕魏林に告発させた。 「かつて忠嗣は、自分が幼い頃から宮中で養われ忠王(太子)とは昵懇だと、自ら言っていました。」 これは、太子を奉じて挙兵したがっていると告げたのだ。 忠嗣を徴発して入朝させ、三司へ詮議させるよう、勅が下った。 上は、哥舒翰の名を聞いていたので、華清宮にて謁見し、共に語ってこれを悦んだ。十一月、辛卯、翰を判西平太守とし、隴右節度使に充てた。 朔方節度使安思順を判武威郡事とし、河西節度使に充てた。 7戸部侍郎兼御史中丞楊愼矜爲上所厚,李林甫浸忌之。愼矜與王鉷父晉,中表兄弟也,少與鉷狎,鉷之入臺,頗因愼矜推引。及鉷遷中丞,愼矜與語,猶名之;鉷自恃與林甫善,意稍不平。愼矜奪鉷職田,鉷母本賤,愼矜嘗以語人;鉷深銜之。愼矜猶以故意待之,嘗與之私語讖書。7.戸部侍郎兼御史中丞の楊慎矜は、上から気に入られたので、李林甫は次第に彼を忌むようになった。慎矜と王鉷の父の晋は従兄弟にあたる。幼い頃、彼は鉷と狎れており、鉷が入台したのも、慎矜の引き立てが大きかった。鉷が中丞へ出世しても、なお、慎矜は彼のことを名前で呼んだ。鉷は林甫から目をかけられていることを恃んでいたので、次第に不満になってきた。対して慎矜は、鉷の職田を奪った。また、鉷の母親はもともと賤しい身分だったが、慎矜はそれを他人へ語った。それらの事を、鉷は深く怨んだ。だが、慎矜はなおも昔のままにつき合い、彼と私的に讖言を語ったりした。 慎矜と術士の史敬忠は仲が善かった。敬忠は天下が乱れようとしていると言い、慎矜へ臨汝山中へ別荘を買って避難所とするよう勧めた。そんな折、慎矜の父の墓田の中の草木が全て流血するという事件が起こった。慎矜はこれを不気味がり、敬忠へ問うた。すると敬忠はお祓いをすることを請い、後園へ道場を設けた。慎矜は朝廷から帰ってくると、裸になって結界の中へ坐った。旬日後には流血が止まったので、慎矜は、敬忠の法力のおかげだと思った。 さて、慎矜は明珠とゆう名の美しい婢を持っていた。敬忠はしばしば彼女を見遣っていたので、慎矜は、これを敬忠へ贈った。明珠を載せた車が楊貴妃の妹の柳氏の楼下を通りかかると、柳氏は敬忠を楼へ登らせて車中の美人を求めた。敬忠はこれを敢えて拒まなかった。翌日、妹が入宮した時、明珠も連れていった。上は彼女を見て不思議がり、入宮した経緯を尋ねた。すると明珠はありのままを答えた。上は、慎矜が術士とつるんで妖法を使っていると思いこれを憎んだが、怒りを内心に抑えたままで、表に出さなかった。 楊釗がこれを鉷へ告げると、鉷は心底喜び、慎矜を馬鹿にした。慎矜は怒る。これによって林甫は慎矜と鉷が仲違いしたことを知り、鉷を密かに誘って慎矜を図った。 鉷は、人を使って噂を流させた。 「慎矜は隋の煬帝の孫だ。いかがわしい人間とつき合い、家には讖書がある。これは、隋を復興しようとしているのだ。」 上は激怒して、慎矜を獄へ繋ぎ、刑部、大理と侍御史楊釗、殿中侍御史盧鉉へ詮議させた。 太府少卿張瑄は、慎矜が推薦した人間である。盧鉉は、彼が慎矜と譏書を論じたと誣告し、百叩きにしたけれども、瑄は白状しなかった。そこで、足を木に縛り付け、人夫へ身体を前へ引っ張らせた。瑄の身体は数尺も伸び、腰はちぎれるほどに細くなって目や鼻から出血したが、瑄はついに答えなかった。 また、吉温へ史敬忠を捕らえるよう命じたところ、温は汝州にてこれを捕まえた。もともと、敬忠と温の父は仲が善く、温が幼い頃、敬忠はいつも彼を抱き上げて撫でていた。だが、捕まえた時には、温は敬忠と話もせず、首を鎖に繋ぎ、首へ布をかぶせて馬の前を駆けさせた。戯水までくると、温の命令で、吏が敬忠を誘った。 「楊慎矜は既に白状している。ただ、御身の一言でもしも上様の怒りが和らいだなら、生き延びることもできよう。そうでなければ殺されるだけだ。温泉宮まで行ったなら、首を繋げたくても出来はしないぞ。」 敬忠は温を顧みて、言った。 「七郎、紙を一枚くれ。」 温はわざと拒否した。温泉宮まで十余里までくると、敬忠は伏し拝んで哀願したので、桑下にて三枚の自白書を書かせたが、その内容は温の意のままだった。温は静かに言った。 「丈人、もう大丈夫だ。」 そして、立ち上がって彼を拝礼した。 会昌(天宝元年に、驪山を会昌山と改称した)に到着して、始めて慎矜の詮議を行ったが、敬忠の自白書がその証拠となった。慎矜は全部引服したが、ただ讖書だけは探しても見つからなかった。林甫はこれに危機を感じ、長安の慎矜の家を捜索するよう盧鉉に命じた。鉉は袖の中に讖書を隠して行き、これを見つけ出したふりをして言った。 「逆賊は、秘記を深く隠していたぞ。」 会昌へ戻ってきて、慎矜へ見せた。慎矜は嘆いて言った。 「我は、讖書など持っていなかったのに、どうして我が家にあったのか!もう、命はない。」 丁酉、慎矜及び兄の少府少監慎餘、洛陽令慎名に自殺するよう命じられた。敬忠は杖百の上、妻子とも嶺南へ流された。瑄は杖六十で臨封へ流された。だが、会昌にて死んだ。 嗣虢王巨は、この事件に関与しなかったけれども、敬忠と交遊していた罪で官職を解任され、南賓に軟禁された。他に連座した者は数十人。慎名は勅を聞いても顔色も変えず、妹への別れの手紙を書いた。慎餘は合掌して天を指さし、首を括った。 8三司按王忠嗣,上曰:「吾兒居深宮,安得與外人通謀,此必妄也。但劾忠嗣沮撓軍功。」哥舒翰之入朝也,或勸多齎金帛以救忠嗣。翰曰:「若直道尚存,王公必不冤死;如其將喪,多賂何爲!」遂單囊而行。三司奏忠嗣罪當死。翰始遇知於上,力陳忠嗣之冤,且請以己官爵贖忠嗣罪;上起,入禁中,翰叩頭隨之,言與涙倶。上感寤,己亥,貶忠嗣漢陽太守。8.三司が王忠嗣を詮議すると、上は言った。 「我が子は深宮に住んでいた。どうして外人と陰謀を通じられようか。これは、絶対に冤罪だ。ただ、軍功を邪魔したことだけで弾劾せよ。」 哥舒翰が入朝する時、ある者は、多額の金を贈賄して忠嗣を救うよう勧めた。すると、翰は言った。 「もしも直道がまだ存在するのなら、王公が冤罪で死ぬ筈がない。もしもなくなっているのなら、賄賂など何の役に立とうか!」 ついに、袋一つ持って出かけた。 再司は、忠嗣の罪は死に当たると上奏した。翰は、上の知遇を得たばかりだというのに、忠嗣が冤罪であると力説し、自分の官爵で忠嗣の罪を贖うことを請うた。上は立ち上がって禁中に入ったが、翰は叩頭して後に続き、言葉とともに涙を零した。上は感悟した。 己亥、忠嗣を漢陽太守に左遷した。 9李林甫屢起大獄,別置推事院於長安。以楊釗有掖廷之親,出入禁闥,所言多聽,乃引以爲援,擢爲御史。事有微交渉東宮者,皆指擿使之奏劾,付羅希奭、吉温鞫之。釗因得逞其私志,所擠陷誅夷者數百家,皆釗發之。幸太子仁孝謹靜,張垍、高力士常保護於上前,故林甫終不能間也。9.李林甫がしばしば大獄を起こしたので、長安へ推事院を別に設置した。 楊釗は、後宮との縁で禁中にも出入りし、彼の言うことの多くは聞き入れられた。そこで林甫は彼を仲間へ引き入れ、御史へ抜擢した。東宮へ少しでも絡んだ事件は、全て奏劾するよう示唆し、羅希奭、吉温に詮議させた。 これによって釗は野心が大きくなっていった。数百家が陥れられて一族皆殺しとなったが、それらは全部、釗が摘発したのである。ただ、幸いにも太子は仁孝謹静で、上の前では張自と高力士がいつも保護していたので、林甫もついに親子の間へひびを入れることができなかった。 10十二月,壬戌,發馮翊、華陰民夫築會昌城,置百司。王公各置第舎,土畝直千金。癸亥,上還宮。10.十二月、壬戌、馮翊・華陰の民を徴発して、会昌城を築き、百司を置いた。王公にはおのおの第舎を置き、その土畝は千金もかかった。 癸亥、上が宮殿へ帰った。 11丙寅,命百官閲天下歳貢物於尚書省,既而悉以車載賜李林甫家。上或時不視朝,百司悉集林甫第門,臺省爲空。陳希烈雖坐府,無一人入謁者。11.丙寅、尚書省にて天下の一年の貢物が帳簿どおりに揃ったかどうか検分するよう、百官へ命じた。だが、調査が済むと、全て車へ積んで李林甫の家へ運び込まれた。 上が朝廷へ出ない日などは、百司は全て林甫の第門に集まり、台省は空っぽになった。陳希烈だけが府に坐っていたが、入謁する者は一人もいなかった。 林甫の子息の岫は将作監となっていたが、収奪し尽くすことを恐れていた。ある時、林甫と共に後園を散策していたが、役夫を指さして林甫へ言った。 「大人はかき集めすぎて、天下に怨仇が満ちています。一旦禍が至れば、これを得ることができましょうか!」 林甫は不愉快になって言った。 「ここまで来たのだ。もう戻れぬわ!」 以前の宰相たちは、徳望を恃みとして横暴なふるまいをしなかったので、随従する者も数人に過ぎなかった。林甫は、大勢の人間から怨まれていることを自覚していたので、いつも刺客を恐れ、出歩くときには常に百余人の歩騎を左右翼に展開していた。金吾は露払いをして町人たちを追い払い、前触れは数百歩も先に進んだので公卿も走ってこれを避けた。住まいは壁を二重にし、砂利を敷き詰め、ひめがきの中には板を置き、まるで大敵を防ぐような厳重さ。一夜のうちに居場所を何度も変えるので、家人といえども居場所を知らない有様だった。 宰相でさえコソコソと動き回るような権勢は、林甫から始まった。 12初,將軍高仙芝,本高麗人,從軍安西。仙芝驍勇,善騎射。節度使夫蒙靈詧屢薦至安西副都護、都知兵馬使,充四鎭節度副使。12.将軍の高仙芝は、もともと高麗人であり、安西に従軍していた。仙芝は驍勇で、騎射が巧く、節度使の夫蒙霊詧はしばしば推薦し、ついに安西副都護、都知兵馬使、充四鎮節度副使となった。 吐蕃賛普は、娘を小勃律王に娶せた。その勢力は周りの二十余国に及び、みな、吐蕃に帰順して唐へ貢献しなくなった。歴代の節度使はこれを討伐したが、みな、勝てなかった。そこで仙芝へ、行営節度使となって万騎を率いてこれを討つよう制が下った。 安西から百余日行軍し、特勒満川へ到着した。ここで軍を分けて、三道から進軍し、七月十三日に吐蕃の連雲堡下にて合流するよう申し渡す。 吐蕃は、一万近くの唐兵が突如出現したので大いに驚き、山に依って拒戦し、矢や石を雨のように降らせた。仙芝は、郎将の高陵の李嗣業を陌刀将として、命令した。 「日中になる前に、虜を撃破せよ。」 嗣業は軍旗を一本手に取ると、陌刀を率いて険阻な山を率先して登り、力戦した。辰から巳へ至って、虜を大いに破った。五千級を斬首し、千余人を捕らえ、それ以外は全員潰走した。 中使の辺令誠は、敵地深く入った事を懼れ、それ以上進もうとしなかった。そこで仙芝は、老弱の兵三千を令誠の護衛としてその城を守らせ、更に進軍した。 三日、坦駒嶺に到着した。険しい坂を四十余里下った前方には阿弩越城がある。仙芝は、士卒が険阻な地形を憚って進まないことを恐れた。そこで、部下に胡服を着せて阿弩越城からの降伏の使者に見せかけ、言わせた。 「阿弩越城は心底唐へ帰順したがっております。娑夷水の藤橋は、既に落としました。」 娑夷水は、すなわち弱水である。(小勃律王の居城は孽多城。これは娑夷水に臨んでいる。)その水は比重が軽く、草芥でさえ浮かばない。藤橋は、吐蕃へ通じる道である。 仙芝が、その芝居に合わせて喜んで見せたので、士卒たちは進軍した。三日して、果たして阿弩越城から降伏の使者がやってきた。 翌日、仙芝は阿弩越城へ入り、将軍席元慶へ千騎を与えて先行させ、言った。 「大軍が来たと聞けば、小勃律の君臣百姓は必ず山谷へ逃げ込む。そしたら彼等を呼び出して、帛を与え、敕による賜だと言うのだ。大臣たちがやってきたら、全員縛り上げて我の到着を待て。」 元慶は、その言葉通りにして大臣達を全員捕縛した。王と吐蕃公主は石窟へ逃げ込み、捕らえられなかった。仙芝が到着すると、吐蕃に随身していた大臣数人を斬った。 藤橋は城から六十里の所に架かっている。仙芝は急いで元慶を派遣して、橋を壊させた。僅かに遅れて吐蕃軍がやって来たが、もう、渡ることはできなかった。 藤橋は、矢がやっと届くくらいの広さ。吐蕃軍が退却した後、全力で修復したら、一年で完成した。 八月、仙芝は小没律王及び吐蕃公主を捕らえて帰国した。 九月、連雲堡へ到着し、辺令誠と合流した。月末、播密川へ到着した。京師へ戦勝の使者を派遣した。 河西へ到着すると、夫蒙霊詧は、仙芝が自分へ報告もせずに勝手に戦勝の報告をしたことに腹を立て、ねぎらいの言葉も掛けずに罵った。 「犬の糞を喰らった高麗奴が!お前の才覚を見抜いて抜擢したのは誰だ?それなのに、我の処分も待たずに勝手に戦勝を報告したのか!高麗奴!お前の専横は斬罪に値する!だが、手柄を建てたばかりだから、そこまでは勘弁してやっているのだ!」 仙芝は、ただ謝罪するだけだった。 辺令誠は、「仙芝が万里深く進軍して奇功を建てながら、今にも憂死しそうだ」と上奏した。 |