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資治通鑑巻第二百一十六
唐紀三十二 玄宗至道大聖大明孝皇帝下之上 天寶六載(丁亥、七四七)1.十二月、己巳、上は、仙芝を安西四鎮節度使として、霊詧を朝廷へ呼び返した。霊詧は大いに懼れた。仙芝は、霊詧を見ると以前同様小走りに動いたが、霊詧はますます懼れた。 副都護の京兆の程千里、押牙の畢思琛そして行官王滔らは、みな、平素から霊詧に仙芝のことを讒言していた連中である。仙芝は、千里と思深へ面と向かって言った。 「公は、見てくれは男子だが、心は女のようだ。そうだな?」 また、滔らをひっつかみ、これを笞打とうとしたが、赦してやってから言った。 「我は、もともと汝らを恨んでいた。それを黙っていたら、却ってお前たちは憂えるだろう。今、すっかり口にした。もう、これ以上心配するな。」 軍中は安堵した。 猗氏の人封常清は、幼い頃孤児になり、貧しく、痩せていて片足が短かった。仙芝が都知兵馬使だった時、彼の部下になりたがったが、拒絶された。すると常清は仙芝のもとへ日参しておよそ数十日もその門から離れなかった。仙芝はやむを得ずこれを留めた。 達奚部が造反した時、夫蒙霊詧は仙芝に攻撃させ、ほぼ平定した。常清が私的に戦勝報告書を書いて仙芝へ見せると、仙芝が言いたいことにピッタリ符合していた。この一件で、仙芝の府の人間は彼を有能だと認めた。 仙芝が節度使となると、常清を判官(副使の次の位)とし、仙芝が出征する時には、いつも彼を留後とした。 仙芝は、自分の乳母子の鄭徳詮を郎将とした。仙芝は、彼と兄弟のように接していた。家事を任せており、その威光は軍中に行き渡っていた。 常清が留後の時、彼が外出していると、徳詮が後ろから馬でやって来て、彼を突き飛ばして去っていった。常清は使院(留後が政務を執る場所)に到着すると、徳詮を呼び出した。途中で徳詮が門を過ぎるたびに、その門を閉じさせた。彼が到着すると、常清は席を離れて言った。 「常清は、郎将も知るように、もともと下賤の出身だ。しかし、今は中丞の命令で留後となっている。それなのに、郎将はどうして人前で突き飛ばしたりできるのか!」 よって、叱りつけた。 「軍政を糺すため、郎将は足斬りの死罪とする。」 ついに、杖で六十打ち据えた上、地面に倒して曳き出した。 仙芝の妻と乳母は門外で号哭して救おうとしたけれどもできなかったので、仙芝に訴えた。仙芝はこれを見て、驚いて言った。 「もう死んでしまったのか?」 しかし、常清と会ったとき、この件について仙芝は何も言わなかったし、常清も謝らなかった。軍中は、これを畏れて、息をひそめるようになった。 唐が建国して以来、辺境の将軍は、みな、忠厚い名臣を選んでおり、長期留任や広い領土、節度使の兼任などはなく、功名が高い者は往々にして朝廷へ入り宰相となった。中国人以外の将軍は、阿史那社爾や奚苾何力のように才略のある人間でも、大将の任は任せられず、みな、大臣を元帥としてその下に置いていた。 開元年間、天子には四夷を併呑する志があり、辺将となったものは十余年変わらず、ここに始めて長期留任が起こった。皇子慶、忠などの諸王や宰相の蕭嵩、牛仙客から広い領地を統治させるようになった。蓋嘉運や王忠嗣が数道を専制したときから兼統が始まった。 李林甫は、辺帥が宰相となる経路を閉ざしたかった。そこで、書を知らない胡人なら宰相にされないと考え、上奏した。 「文臣を将としたら、矢石に当たることを怯えます。下賤な胡人を用いるべきです。胡人は勇敢で決断力があり、戦争ならお手の物。下賤な民なら孤立無党ですから、陛下が引き立てたなら感謝して、命懸けで朝廷につくしましょう。」 上はその言葉に悦び、始めて安禄山を用いた。 ここに至って、諸道の節度使はことごとく胡人を用いるようになり、精兵は北辺の守りに配置された。天下の兵力が偏重され、ついには禄山が天下を傾覆するような事態に至ったのは、みな、林甫が寵恩を独占し地位を固めようとした謀略に端を発しているのだ。 七載(戊子、七四八)1.夏、四月、辛丑、左監門大将軍・知内侍省事の高力士に驃騎大将軍を加えた(知内侍省事はここから始まった)。 力士は長い間寵用されており、中外はこれを畏れていた。太子もまた、かれを兄と呼び、諸王公は翁、駙馬らは爺と呼んだ。李林甫も安禄山も、彼に取り入って将相となった。彼の家財は数え切れないほどである。 西京にて宝寿寺を造った。寺の鐘が完成したとき、力士はこれを慶んで精進料理を振る舞ったが、これに朝臣たちは挙って集まった。この時、鐘を一つ打つたびに、銭百緡を施させたが、媚びを求める者は二十回も鐘を打ち、少ない者でも十回以上は打った。 しかしながら、彼は和やかで慎みのある質で、過ちも少なかった。人と会うときは頭を下げ、驕慢な態度をとらなかったので、天子は終生彼を親任したし、士大夫もまた、彼を憎まなかった。 2五月,壬午,羣臣上尊號曰開元天寶聖文神武應道皇帝;赦天下,免百姓來載租庸,擇後魏子孫一人爲三恪。2.五月、壬午、群臣が、上に「開元天宝聖文神武応道皇帝」の尊号を献上した。天下に恩赦を下し、百姓の来年の租庸を免除した。後魏の子孫一人を選び、三恪とした。 3六月,庚子,賜安祿山鐵券。3.六月、庚子、安禄山に鉄券を下賜した。 4度支郎中兼侍御史楊釗善窺上意所愛惡而迎之,以聚斂驟遷,歳中領十五餘使。甲辰,遷給事中,兼御史中丞,專判度支事,恩幸日隆。4.度支郎中兼侍御史楊釗は、上の意向を伺って迎合するのが巧かったので多くの役職を賜り、一年で十五もの肩書きを持った。 甲辰、給事中兼御史中丞、専判度支事とした。恩幸は、日々盛んになった。 蘇冕論じて曰く、 官を設け職を分け、各々に長官が居る。政事は規範があれば維持しやすいし、事は大本を守っていれば失いにくい。経遠の理は、これを捨てて何に依るのか! 姦臣が利益のことを吹聴して皇帝の心を掴み、多くの役職を独占して寵恩を誇示し、民から酷く税金を剥ぎ取って膨大な税収を主君へ報告する。こうなると主君の心は放蕩になり奢侈に走り、民の怨望が溜まって禍を成す。天子の役人はその地位を守るだけで仕事もなく、厚禄を受け取ってブラブラしている。宇文融がその端緒を開き、楊慎矜、王鉷が後を継ぎ、楊国忠がついに乱を成した。 孔子は言った。「税金をむしり取る臣下が居るくらいなら、むしろ主君の財産を盗む臣下がいた方が良い。」この言葉は真実だ! 前車は既に覆ったのに、後轍はまだ改まらない。政事の大本へ達することを求めるのは、なんと難しいことか! 5冬,十月,庚戌,上幸華清宮。5.冬、十月、庚戌、上が清華宮へ御幸した。 6十一月,癸未,以貴妃姊適崔氏者爲韓國夫人,適裴氏者爲虢國夫人,適柳氏者爲秦國夫人。三人皆有才色,上呼之爲姨,出入宮掖,並承恩澤,勢傾天下。毎命婦入見,玉眞公主等皆讓不敢就位。三姊與銛、錡五家,凡有請託,府縣承迎,峻於制敕;四方賂遺,輻湊其門,惟恐居後,朝夕如市。十宅諸王及百孫院婚嫁,皆先以錢千緡賂韓、虢使請,無不如志。上所賜與及四方獻遺,五家如一。競開第舎,極其壯麗,一堂之費,動踰千萬;既成,見他人有勝己者,輒毀而改爲。虢國尤爲豪蕩,一旦,帥工徒突入韋嗣立宅,即撤去舊屋,自爲新第,但授韋氏以隙地十畝而已。中堂既成,召工圬墁,約錢二百萬;復求賞技,虢國以絳羅五百段賞之,嗤而不顧,曰:「請取螻蟻、蜥蜴,記其數置堂中,苟失一物,不敢受直。」6.十一月、癸未、適氏へ嫁いだ貴妃の姉を韓国夫人、裴氏へ嫁いだ姉を虢国夫人、柳氏へ嫁いだ姉を秦国夫人とする。 三人とも、才色兼備。上は、彼女たちを姨と呼んだ。後宮へも自由に出入りし、恩沢も蒙り、その権勢は天下を傾けた。彼女たちが入見するたびに、玉真公主らはみな、席を譲った。 三姉と錡、銛の五家の請託には、府県は制勅以上に恐々と承迎した。四方は他から後れをとることを畏れるように競い合ってその門へ贈賄の使者を送ったので、朝夕市場のような人だかりだった。十宅諸王及び百孫院の婚嫁でさえ、みな、銭千緡を韓・虢夫人へ贈らなければ、どんな請願も叶わなかった。 上の下賜品や四方からの献上物は五家に均等に贈られた。彼らは競って壮麗な邸宅を造営した。一堂の費用はややもすれば千万を越えた。落成したのち、それ以上に壮麗な人の堂を見たら、すぐに壊して改めて造営した。 虢国夫人がもっとも豪奢だった。ある時、工夫を率いて韋嗣立の邸宅へ突入し、屋敷を全て撤去して自分のために新しい屋敷を造った。韋氏に対しては、ただ隙間の土地十畝を授けただけだった。中堂が落成すると、煉瓦を敷き詰めた左官屋を集めて、銭二百万を与えた。すると彼らは、特別の技術を賞してくれと求めたので、虢国夫人は絳羅五百段で賞した。すると彼は嗤って顧みずに言った。 「蟻やトカゲを集めて、数を記録して堂の中へ入れてください。もしも一匹でも逃げ出していたら、そいつは受け取りませんぜ。」 7十二月,戊戌,或言玄元皇帝降於朝元閣,制改會昌縣曰昭應,廢新豐入昭應。辛酉,上還宮。7.十二月、戊戌、元玄皇帝が朝元閣に降臨したと、ある者が言った。制を下して会昌県を昭応と改称し、新豊県を廃して昭応に編入した。 辛酉、上が宮殿に帰った。 8哥舒翰築神威軍於靑海上,吐蕃至,翰撃破之。又築城於靑海中龍駒島,謂之應龍城,吐蕃屏跡不敢近靑海。8.哥舒翰が青海上に神威城を築き、吐蕃が来たら翰が撃破した。また、青海中の龍駒島に城を築き、応龍城と名付けた。吐蕃は、跡を隠して敢えて青海に近づかなくなった。 9是歳,雲南王歸義卒,子閤羅鳳嗣,以其子鳳迦異爲陽瓜州刺史。9.この年、雲南王帰義が卒し、子息の閤羅鳳を後継とした。その子の鳳迦を陽瓜州刺史とした。 八載(己丑、七四九)1.春、二月、戊申、百官を率いて左蔵を観た。百官へ各々差を付けて帛を下賜した。 この時、州県は豊かで、倉庫には粟帛が山積みされ、萬の単位で数えられた。楊釗は、余った穀物を簡便な貨幣に換え、丁租や地税も全て布帛に換えて京師へ送るよう上奏して請願した。 蔵が古今未曾有なほど充満していると、楊釗がしばしば上奏したため、今回、上は百官を率いて観に来たのである。釗に紫衣金魚を下賜して功績を賞した。 国用が満ち足りたので、上は金帛を糞や土塊のように思い、貴寵の家には無尽蔵に賞賜した。 2三月,朔方節度等使張齊丘於中受降城西北五百餘里木剌山築橫塞軍,以振遠軍使鄭人郭子儀爲橫塞軍使。2.三月、朔方節度等使張斉丘が、中受降城の西北五百余里の木刺山に、横塞軍を築いた。振遠軍使の鄭の人郭子儀を横塞軍使とする。 3夏,四月,咸寧太守趙奉璋告李林甫罪二十餘條;状未達,林甫知之,諷御史逮捕,以爲妖言,杖殺之。3.夏、四月、咸寧太守趙奉璋が李林甫の罪二十余条を告発した。告発状が到着する前に、林甫はこれを知り、逮捕するよう御史へ風諭し、妖言をなしたとして、杖殺した。 4先是,折衝府皆有木契、銅魚,朝廷徴發,下敕書、契、魚,都督、郡府參驗皆合,然後遣之。自募置彍騎,府兵日益墮壞,死及逃亡者,有司不復點補;其六馱馬牛、器械、糗糧,耗散略盡。府兵入宿衞者,謂之侍官,言其爲天子侍衞也。其後本衞多以假人,役使如奴隸,長安人羞之,至以相詬病。其戍邊者,又多爲邊將苦使,利其死而沒其財。由是應爲府兵者皆逃匿,至是無兵可交。五月,癸酉,李林甫奏停折衝府上下魚書;是後府兵徒有官吏而已。其折衝、果毅,又歴年不遷,士大夫亦恥爲之。其彍騎之法,天寶以後,稍亦變廢,應募者皆市井負販、無賴子弟,未嘗習兵。時承平日久,議者多謂中國兵可銷,於是民間挾兵器者有禁;子弟爲武官,父兄擯不齒。猛將精兵,皆聚於西北,中國無武備矣。4.従来は、折衝府には、みな、木契と銅肴があり、朝廷では兵を徴発するとき、勅書に契・肴を添え、都督や郡府の参験は、これが符合することを確認してから派遣した。 募兵した彍騎を設置してからは、府兵のモラルは日々頽廃し、使者や逃亡者が出ても官吏は補充しなくなった。その軍用馬、牛や器械、兵糧などは摩耗散佚して、ほぼなくなってしまった。 朝廷へ入って宿衛となった府兵を「侍官」と称した。これは、天子に仕えて護衛するという意味である。だが、後には本衛の多くは彼らを奴隷のようにこき使うようになった。長安の人間は彼らを見下し、馬鹿にするようになった。辺境を守る兵卒もまた、多くは辺将からこき使われた。彼らが死んだら、辺将は喜んで、彼らの財産を懐へ入れた。 これらの理由で、府兵となった者はみな逃げ出し、戦闘要員がいなくなってしまった。 五月、癸酉、李林甫は折衝府上下の魚書を停止するよう上奏した。この後、府兵はただ名ばかりの官制になった。その折衝・果毅もまた、何年も放置され、士大夫は任命されることを恥とした。 彍騎の法も天宝以後、次第に変廃され、応募する者は市井の貧乏人や無頼漢ばかり。軍事練習などまるで行われなかった。 この頃、平和が続き、議論する人間も多くは中国の兵卒は削減するべきだと述べた。ここに於いて、民間での武器の保有が禁止された。子弟が武官となると、父兄は歯がみするようになった。猛将精兵は、全て西北からかき集められ、中国では武備がなくなった。 5太白山人李渾等上言見神人,言金星洞有玉板石記聖主福壽之符;命御史中丞王鉷入仙遊谷求而獲之。上以符瑞相繼,皆祖宗休烈,六月,戊申,上聖祖號曰大道玄元皇帝,上高祖謚曰神堯大聖皇帝,大宗謚曰文武大聖皇帝,高宗謚曰天皇大聖皇帝,中宗謚曰孝和大聖皇帝,睿宗謚曰玄眞大聖皇帝,竇太后以下皆加謚曰順聖皇后。5.太白山の人李渾らが神人に会い、「金星洞に玉板石があり、聖主福需の符を期している」と言っていたと上言した。そこで御史中丞王鉷へ、仙遊谷へ入ってこれを探すよう命じたところ、見つけた。上は、符瑞が相次ぐのは祖宗のおかげだとした。 六月、戊申、聖祖へ大同元玄皇帝の号を献上し、高祖の諡を神堯大聖皇帝、太宗を文武大聖皇帝、高宗を天皇大聖皇帝、中宗を孝和大聖皇帝、睿宗を玄真大聖皇帝とし、竇太后以下の全員に順聖皇后の諡を加えた。 6辛亥,刑部尚書、京兆尹蕭炅坐贓左遷汝陰太守。6.辛亥、刑部尚書・京兆尹の蕭炅が収賄罪で汝陰太守へ左遷させられた。 7上命隴右節度使哥舒翰帥隴右、河西及突厥阿布思兵,益以朔方、河東兵,凡六萬三千,攻吐蕃石堡城。其城三面險絶,惟一徑可上,吐蕃但以數百人守之,多貯糧食,積檑木及石,唐兵前後屢攻之,不能克。翰進攻數日不拔,召裨將高秀巖、張守瑜,欲斬之,二人請三日期可克;如期拔之,獲吐蕃鐵刃悉諾羅等四百人,唐士卒死者數萬,果如王忠嗣之言。頃之,翰又遣兵於赤嶺西開屯田,以謫卒二千戍龍駒島;冬冰合,吐蕃大集,戍者盡沒。7.上が、隴右節度使哥舒翰へ隴右・河西及び突厥阿布思の兵を率いさせ、これに朔方・河東の兵を加えておよそ六万三千人で吐蕃の石堡城を攻撃させた。 この城は、三面が険阻な地形で、登るにはただ一つの道しかない。吐蕃はただ数百人で守らせ、食糧を多量に蓄え、木や石を山積みさせていた。唐軍は前後して屡々攻撃を掛けたが、勝てなかった。 翰は数日進攻したが抜けない。そこで裨将の高秀巖、張守瑜を呼び出して斬ろうとした。すると二人は、あと三日の猶予を貰えれば勝てると請うた。そして期日通りに抜く。 吐蕃の鉄刃悉諾羅ら四百人を捕らえたが、唐の士卒は数万の戦死者を出した。果たして、王忠嗣の言った通りだった。 この頃、翰はまた、赤嶺の西へ派兵して屯田を開いた。 兵卒二千人を選んで龍駒島を守らせていたが、冬になって湖が凍りつくと、吐蕃の大軍が来襲して守備兵は皆殺しにされた。 8閏月,乙丑,以石堡城爲神武軍,又於劍南西山索磨川置保寧都護府。8.閏月、乙丑、石堡城を神武軍と改称した。また、剣南西山索磨川へ保寧都護府を設置した。 9丙寅,上謁太清宮。丁卯,羣臣上尊號曰開元天地大寶聖文神武應道皇帝,赦天下。禘、祫自今於太清宮聖祖前設位序正。9.丙寅、上が太清宮へ参った。 丁卯、群臣が、「開元天地大宝聖文神武応道皇帝」の尊号を献上した。天下へ恩赦を下した。今後禘と祫は太清宮の聖租の前に設けて位序を正すことになった。 10秋,七月,册突騎施移撥爲十姓可汗。10.秋、七月、突騎施の移撥を十姓可汗として冊立した。 11八月,乙亥,護蜜王羅眞檀入朝,請留宿衞;許之,拜左武衞將軍。11.八月、乙亥、護密応羅真檀が入朝し、宿衛として留まることを請うた。これを許した。彼は、左武衛将軍を拝受した。 12冬,十月,乙丑,上幸華清宮。12.冬、十月、乙丑、上が華清宮へ御幸した。 13十一月,乙未,吐火羅葉護失里怛伽羅遣使表稱:「朅師王親附吐蕃,因苦小勃律鎭軍,阻其糧道。臣思破兇徒,望發安西兵,以來歳正月至小勃律,六月至大勃律。」上許之。13.十一月、乙未、吐火羅葉護失里怛迦羅が使者を派遣して表にて称した。 「朅師王は吐蕃と非常に仲良くなり、小勃律鎮軍を苦しめようと、その糧道を絶とうとしています。凶徒を破るために、西安の兵の動員をお願いします。正月に小勃律国へ到着すれば、六月には大勃律国へ到着しましょう。」 上は、これを許した。 九載(庚寅、七五〇)1.春、正月、己亥、上が宮殿へ帰った。 2羣臣屢表請封西嶽,許之。2.群臣は、しばしば西嶽にて封禅を行うよう上表して請うていた。これを許した。 3二月,楊貴妃復忤旨,送歸私第。戸部郎中吉温因宦官言於上曰:「婦人識慮不遠,違忤聖心,陛下何愛宮中一席之地,不使之就死,豈忍辱之於外舎邪?」上亦悔之,遣中使賜以御膳。妃對使者涕泣曰:「妾罪當死,陛下幸不殺而歸之。今當永離掖庭,金玉珍玩,皆陛下所賜,不足爲獻,惟髪者父母所與,敢以薦誠。」乃剪髮一繚而獻之。上遽使高力士召還,寵待益深。3.二月、楊貴妃が再び逆鱗に触れ、私邸へ送り返された。 戸部郎中吉温が宦官経由で上へ言った。 「夫人は、まことに思慮が浅く、聖心へ逆らいました。陛下はどうして宮中一席の地を惜しんで、これを死なせずに外へ追い出すような辱を忍ばれるのですか?」 上もまた、これを悔い、中使を派遣して御膳を賜うた。妃は使者に対して涕泣して言った。 「妾の罪は死に値しますのに、陛下は幸いにも殺さずして帰れと仰せられます。ですが今こそ、掖庭を永く離れるべきでございます。せめて、今までの御恩に報いたいのですが、金玉珍玩は全部陛下からの賜り物。献上するに足りません。ただ、この髪の毛は父母から与えられたものです。これを献上して妾の誠意を見せたいのです。」 そして、髪一房を切って献上した。 上は、すぐに高力士を派遣して呼び戻し、寵愛は益々深くなった。 この頃、諸貴族は競ってグルメに走った。上は、宦官の姚思芸を検校進食使に任命し、水陸の珍膳数千盤を揃えさせた。一盤の費用は、十家の資産に匹敵した。 中書舎人竇華がかつて朝廷から提出する時、公主の食事を運ぶ一行に出会った。彼らは中衢へ行列を作り、伝令は轡を抑えてその間をくぐり抜けて行った。宮苑の小児数百人が、前にて棍棒を振り回して行列を護った。華は、身体一つでどうにか逃げ出した。 4安西節度使高仙芝破朅師,虜其王勃特沒。三月,庚子,立勃特沒之兄素迦爲朅師王。4.安西節度使高仙芝が、朅師を破り、その王の勃特没を捕らえた。 三月、庚子、勃特没の兄の素迦を朅師王に立てた。 5上命御史大夫王鉷鑿華山路,設壇場於其上。是春,關中旱,辛亥,嶽祠災;制罷封西嶽。5.上は、華山へ路を穿ち、その上に檀場を設けるよう、御史大夫王鉷へ命じた。 この春、関中は旱だった。辛亥、嶽祠で火災が起こった。西嶽の封禅を取りやめるとの制が下った。 6夏,四月,己巳,御史大夫宋渾坐贓巨萬,流潮陽。初,吉温因李林甫得進;及兵部侍郎兼御史中丞楊釗恩遇浸深,温遂去林甫而附之,爲釗畫代林甫執政之策。蕭炅及渾,皆林甫所厚也,求得其罪,使釗奏而逐之,以剪其心腹,林甫不能救也。6.夏、四月、己巳、御史大夫宋渾が巨万の収賄で有罪となり、潮陽に流された。 はじめ、吉温は李林甫のおかげで出世していた。やがて上の兵部侍郎兼御史中丞楊釗への寵恩が深くなると、温はついに林甫を見限って釗へ走り、彼のために林甫に代わって執政となれるような策を描いた。 蕭火も渾も、ともに林甫から手厚く遇されている人間だった。そこで、彼らの罪を探して、釗へ告発させて追放し、林甫の羽翼を削ごうとしたのだ。 林甫は救うことができなかった。 7五月,乙卯,賜安祿山爵東平郡王。唐將帥封王自此始。7.五月、乙卯、安禄山に東平郡王の爵を賜った。唐の将帥が王に封じられるのは、ここから始まった。 8秋,七月,乙亥,置廣文館於國子監,以教諸生習進士者。8.秋、七月、乙亥、国子監に広文館を設置し、進士となるために学ぶ者に教えた。 9八月,丁巳,以安祿山兼河北道采訪處置使。9.八月、丁巳、安禄山に河北道采訪処置使を兼任させた。 10朔方節度使張齊丘給糧失宜,軍士怒,毆其判官;兵馬使郭子儀以身捍齊丘,乃得免。癸亥,齊丘左遷濟陰太守,以河西節度使安思順權知朔方節度事。10.朔方節度使張斉丘の兵糧支給が不適切だったので軍士が怒り、その判官を殴りつけた。兵馬使郭子儀が身を以て斉丘を庇ったので、何とか逃げ出せた。 癸亥、斉丘が済陰太守へ左遷させられた。河西節度使安思順を権知朔方節度事とした。 11辛卯,處士崔昌上言:「國家宜承周、漢,以土代火;周、隋皆閏位,不當以其子孫爲二王後。」事下公卿集議。集賢院學士衞包上言:「集議之夜,四星聚於尾,天意昭然。」上乃命求殷、周、漢後爲三恪,廢韓、介、酅公;以昌爲左贊善大夫,包爲虞部員外郎。11.辛卯、処士の崔昌が上言した。 「我が国家は、周、漢の後を受け継いだのです。土徳で火徳に代わったのですから。周(北周)も隋も正統な支配者ではありません。その子孫を二王の後継者と扱うのは不適切です。」 この件は、公卿へ協議させた。 集賢殿学士衛包は上言した。 「集議の夜、四星が尾に集まりました。天意は明白です。」 そこで、上は殷、周、漢の子孫を捜して三恪とし、韓、介、酅公を廃した。(韓は元魏の、介は後周の、酅は隋の子孫。ここで言う、二王は、夏、殷を指す。黄帝、堯、舜の子孫は封じられており、これを三恪と言った。) 昌を左賛善大夫とし、包を虞部員外郎とした。 12冬,十月,庚申,上幸華清宮。12.冬、十月、庚申、上は清華宮へ御幸した。 13太白山人王玄翼上言見玄元皇帝,言寶仙洞有妙寶眞符。命刑部尚書張均等往求,得之。時上尊道教,慕長生,故所在爭言符瑞,羣臣表賀無虚月。李林甫等皆請捨宅爲觀以祝聖壽,上悅。13.太白山の人王玄翼が、「玄元皇帝に会って、『「宝仙洞に妙宝真符がある。』と言っていました。」と上言した。上は刑部尚書張均に、これを探すよう命じたところ、見つけた。 この頃、上は道教を尊び、長生を求めていた。だから、符瑞の言葉が争うように上言され、群臣は毎月祝賀する有様だった。李林甫らは皆、聖寿を祝うために邸宅を寄進して道観とするよう請うた。上は悦んだ。 14安祿山屢誘奚、契丹,爲設會,飲以莨菪酒,醉而阬之,動數千人,函其酋長之首以獻,前後數四。至是請入朝,上命有司先爲起第於昭應。祿山至戲水,楊釗兄弟姊妹皆往迎之,冠蓋蔽野;上自幸望春宮以待之。辛未,祿山獻奚俘八千人,上命考課之日書上上考。前此聽祿山於上谷鑄錢五壚,祿山乃獻錢樣千緡。14.安禄山は、奚・契丹をしばしば誘って宴会を催し、毒酒で酔い潰して穴埋めとした。その被害者はややもすれば数千人にも及んだ。そして、酋長の首は箱へ入れて献上した。このような事が、前後四回あった。 ここに至って、安禄山は入朝を請うた。上は、度重なる軍功を悦び、まず彼のために昭応に新しい邸宅を造らせた。 禄山が戯水まで来ると、楊釗の兄弟姉妹が全員で出迎えた。出迎えの役人の冠で、野が覆われる程だった。上は自ら望春宮へ御幸して、彼を待った。 辛未、禄山は奚の捕虜八千人を献上した。上は、考課の日に上々考と記載するよう命じた。 これ以前に、禄山が上谷にて銭五壚を鋳造したと聞いていた。禄山は、この銭を様千緡献上した。(「壚」は、辞書では、「黒い土塊」となっていますが、これでは意味が通じません。量の単位でしょうか?「様」も意味が分かりにくい。「数」の誤植でしょうか?あるいは、「様」が、「同種類の、サンプルの」という意味なら、「壚」は何かのデザインとも考えられます。「『五盧』という銭を鋳造したので、それを千緡献上した。」という事ですかね?判断つけかねるので、上記のように直訳しました。) 15楊釗,張易之之甥也,奏乞昭雪易之兄弟。庚辰,制引易之兄弟迎中宗於房陵之功,復其官爵,仍賜一子官。15.楊釗は、張易之の甥である。彼は、易之兄弟の汚名を雪ぐよう上奏した。 庚辰、易之兄弟が中宗を房陵に迎え入れた功績(中宗の再即位に尽力した功績)を持ち出し、一子へ官を賜うよう制が下った。 釗は図讖の中に「金刀」の字があったので、名前を変更することを請うた。上は、「国忠」の名を賜った。 16十二月,乙亥,上還宮。16.十二月、乙亥、上が宮殿へ帰った。 17關西遊弈使王難得撃吐蕃,克五橋,拔樹敦城,以難得爲白水軍使。17.関西遊弈使王難得が吐蕃を攻撃し、五橋にて勝ち、樹敦城を抜いた。 難得を白水軍使とした。 18安西四鎭節度使高仙芝偽與石國約和,引兵襲之,虜其王及部衆以歸,悉殺其老弱。仙芝性貪,掠得瑟瑟十餘斛,黄金五六橐駝,其餘口馬雜貨稱是,皆入其家。18.安西四鎮節度使高仙芝は、偽って石国と和睦を結び、兵を率いてこれを攻撃した。その王及び部衆を捕らえて帰国し、老弱は皆殺しとした。 仙芝は貪欲な性格で、多くの宝を掠奪した。碧珠十余斛、黄金五六駱駝(「ラクダに背負わせる量」の意味か?)、その他雑貨類など、全て私財にしてしまった。 19楊國忠德鮮于仲通,薦爲劍南節度使。仲通性褊急,失蠻夷心。19.楊国忠は鮮于仲通の恩を忘れず、推薦して剣南節度使とした。だが、仲通は偏狭で短気な人間だったので、蛮夷の心は離れてしまった。 慣例として、南詔はいつも妻子と共に都督へ謁見していた。ところが、彼らが雲南を通ったところ、雲南太守張虔陀が、彼女たちと私通した。また、更に多くの貢物を求めた。南詔王閤羅鳳は応じなかった。すると虔陀は人を派遣してこれを罵り辱め、密かに彼の罪状を上奏した。 閤羅鳳は怒怨し、この年、挙兵して造反した。雲南を攻め落とし、虔陀を殺して夷州三十二を取った。 十載(辛卯、七五一)1.春、正月、壬辰、上は太清宮にて朝献した。癸巳、太廟にて朝享した。甲子、南郊にて天地を合祀した。天下に恩赦を下し、今年の地税を免除した。 2丁酉,命李林甫遙領朔方節度使,以戸部侍郎李暐知留後事。2.丁酉、李林甫を遙領朔方節度使とし、戸部侍郎李暐を知留後事とした。 3庚子,楊氏五宅夜遊,與廣平公主從者爭西市門,楊氏奴揮鞭及公主衣,公主墜馬,駙馬程昌裔下扶之,亦被數鞭。公主泣訴於上,上爲之杖殺楊氏奴。明日,免昌裔官,不聽朝謁。3.庚子、楊氏が五宅で夜遊んだ。広平公主の従者と西市門で争いが起こり、楊氏の奴隷の振るった鞭が公主の衣に当たった。公主は落馬する。駙馬の程昌裔が下馬して助け起こした。彼もまた、数鞭ぶたれた。 公主が泣いて訴えたので、上は楊氏の奴隷を鞭で打ち殺した。 翌日、昌裔を免官し、朝謁にも参列させなくなった。 4上命有司爲安祿山治第於親仁坊,敕令但窮壯麗,不限財力。既成,具幄帟器皿,充牣其中,有貼白檀牀二,皆長丈,闊六尺;銀平脱屏風,帳方丈六尺;於廚厩之物皆飾以金銀,金飯罌二,銀淘盆二,皆受五斗,織銀絲筐及笊篱各一;他物稱是。雖禁中服御之物,殆不及也。上毎令中使爲祿山護役,築第及造儲偫賜物,常戒之曰:「胡眼大,勿令笑我。」4.上は親仁坊へ安禄山の邸宅を建てるよう、官吏へ命じた。金に糸目を付けずに壮麗を極めるよう、勅にて命令した。 落成すると、家具や器皿がその中に充満していた。白檀のベッドが二つあったが、その帳は六尺四方。厨房や厩の物は、全て金銀で飾られていた。金の御ひつが二つ。銀の米とぎが二つ。共に五斗入った。銀糸で織り上げた箱、揚げざる、篱(食物を盛る器の一種)各々一つ。他の物も、これに類似していた。禁中で使うものでさえ、これには及ばなかった。 上は、禄山の護衛に派遣する中使や邸宅を建造している役人、賜下品を選定する役人たちへ、いつも言っていた。 「あの胡人は目が大きい。下手な物を選んで我を笑わせるな。」 禄山は新邸宅へ入ると酒を準備し、宰相達をこの邸宅へ来させるよう、墨敕を降ろして欲しいと請願した。その日の内に楊一族を派遣して、共に宴遊した。梨園教坊が音楽を奏でた。 上は、一物を食べる度に讃美した。後苑で狩猟をすると、獲物が捕れる度に中使を走らせて、これを禄山へ賜った。その中使は道に溢れる始末だった。 甲辰、禄山の誕生日である。上と貴妃は、とても多くの衣服、宝器、酒饌を下賜した。 三日後、禄山を禁中へ呼び入れた。貴妃は、錦繍で大きなお襁褓を作り、禄山につけさせた。そして美しい彩りの輿に載せて、宮女達に担がせた。上は、後宮の歓声を聞いたので、理由を尋ねたところ、近習は「貴妃が禄山の三日洗(赤ん坊が生まれて三日目に沐浴させる)をしているのです。」と答えた。上は自ら見物に出向いて、喜び、貴妃へ洗児のご祝儀を下賜し、また、禄山にも厚く賜り、歓びを尽くして帰った。 これ以来、禄山は後宮へ自由に出入りするようになった。ある時は貴妃と共に食事をし、ある時は夜通し出てこない。外では大きなスキャンダルが流れたが、上はちっとも疑わなかった。 5安西節度使高仙芝入朝,獻所擒突騎施可汗、吐蕃酋長、石國王、朅師王。加仙芝開府儀同三司。尋以仙芝爲河西節度使,代安思順;思順諷羣胡割耳剺面請留己,制復留思順於河西。5.安西節度使高仙芝が入朝した。捕らえた突騎施可汗・吐蕃酋長・石国王・朅師王を献上した。仙芝へ、開府儀同三司が加えられた。ついで、仙芝を河西節度使として、安思順と代えた。 思順は、大勢の胡人が自ら耳を裂き顔を削って自分の留任を願っていると風諭して、留任を請うた。制が下って、思順を再び河西に留めた。 6安祿山求兼河東節度。二月,丙辰,以河東節度使韓休珉爲左羽林將軍,以祿山代之。6.安禄山が、河東節度使との兼任を求めた。 二月、丙辰、河東節度使韓休珉を左羽林将軍として、禄山と交代させた。 戸部郎中吉温は、禄山が寵遇されているのを見て、彼にすり寄り、兄弟の契りを結んだ。そして、禄山へ説いた。 「李右丞相はいつも三兄と親しんでいますが、兄が宰相となることについては、必ずしも肯定しないでしょう。温は、丞相の手足となって働いていますが、抜擢されることはありません。兄がもしも温を上へ推薦してくれるなら、温は、兄が大任をこなせると上奏します。共に李林甫を排斥するなら、きっと宰相になれます。」 禄山はその言葉を悦び、上へしばしば温の才覚を称した。上もまた、かつての言葉を忘れた。禄山が河東を領有すると、温を節度副使、知留事とするよう上奏した。また、大理司直張通儒を留後判官として、河東の事は悉く彼へ任せた。 この時、楊国忠は御史中丞となり、上の用事を万事手がけていた。それでも禄山が宮殿の階段を昇降するときは、国忠はいつもこれへ肩を貸した。 禄山と王鉷は共に大夫となった。鉷の権勢は、李林甫に次いでいた。さて、禄山が林甫を見たとき、驕り高ぶった顔をしていた。すると林甫は、別の用件にかこつけて、王大夫を呼んだ。すると、鉷は小走りに駆け寄り、とても恭順な態度だった。禄山は思わず自失して、それから恭謙な顔つきになった。 林甫が禄山と語ると、事ごとに彼の想いを察知して言い当てたので、禄山は驚き服した。禄山は、公卿へ対しては慢侮していたが、ただ林甫と会うときだけは、冬の盛りでもいつも冷や汗で衣を濡らしてしまった。 林甫は中書の問診所へ林甫を引き入れて共に語り、優しい言葉で慰撫し、自ら衣を脱いで禄山へ着せ掛けてやった。禄山は悦んで、思いの丈を口にし、林甫のことを「十郎」と呼んだ。 范陽へ帰ると、劉駱谷が長安から来る度に、「十郎は何と言っていた?」と尋ねた。褒められたと聞くと大喜びする。あるとき、「安大夫は素晴らしい検校だ!と褒めていました。」と言われると、禄山は手すりを叩いて喜び、言った。「ああ、もう死んでも良い!」 禄山は三鎮を領有し、賞刑を意のままにできるようになると、日ごとに驕恣になっていった。かつて太子へ拝礼しなかったことを思い出し、上が老齢になって行くことを見て、内心懼れた。また、武備が弛緩している有様を目の当たりに見てから、中国を軽視する心が生まれた。孔目官の厳荘と掌書記の高尚は、彼の為に図讖を解釈してやり、造反を勧めた。 禄山は、同羅・奚・契丹の降伏者八千余人を養い、彼等を「曳落河」と言った。これは、胡人の言葉で「壮士」を意味する。家僮百余人は、みな驍勇で戦上手であり、一人で百人に匹敵した。また、戦馬数万匹を蓄え、兵器も多量に集めた。胡人の商人を諸道へ派遣して商売させ、毎年数百万の珍貨をかき集めさせた。私的に造った緋紫袍、魚袋は百万単位だった。 高尚、厳荘、張通儒及び将軍孫孝哲を腹心とし、史思明、安守忠、李帰仁、蔡希徳、牛廷玠、向潤客、李庭望、崔乾裕、尹子奇、何千年、武令珣、能元皓、田承嗣、田乾真、阿史那承慶を爪牙とした。 尚は、雍奴の人で、本名を不危といった。学問ができたが、河朔を歩き回っているあいだ貧困で志を得ず、いつも嘆いていた。 「高不危は大事を起こして死ぬ人間だ。なんで草根を囓って生き延びようか!」 禄山は彼を幕府へ引き入れ、寝室にまで出入りさせた。 尚は文書を作成し、荘は帳簿を管理した。通儒は万歳の子で、孝哲は契丹人である。 承嗣は代々盧龍の小校で、禄山は前鋒兵馬使としていた。大雪が降った時、禄山が陣営を見回ると、承嗣の陣営は、無人のように静まり返っており、番人は全員定位置で見張っていた。それ以来、禄山は彼を重く扱うようになった。 7夏,四月,壬午,劍南節度使鮮于仲通討南詔蠻,大敗於瀘南。時仲通將兵八萬,分二道出戎、巂州,至曲州、靖州。南詔王閤羅鳳謝罪,請還所俘掠,城雲南而去,且曰:「今吐蕃大兵壓境,若不許我,我將歸命吐蕃,雲南非唐有也。」仲通不許,囚其使。進軍至西洱河,與閤羅鳳戰,軍大敗,士卒死者六萬人,仲通僅以身免。楊國忠掩其敗状,仍敘其戰功。閤羅鳳斂戰屍,築爲京觀,遂北臣於吐蕃。蠻語謂弟爲「鐘」,吐蕃命閤羅鳳爲「贊普鐘」,號曰東帝,給以金印。閤羅鳳刻碑於國門,言己不得已而叛唐,且曰:「我世世事唐,受其封爵,後世容復歸唐,當指碑以示唐使者,知吾之叛非本心也。」7.夏、四月、壬午、剣南節度使鮮于仲通が南詔蛮を討伐したが、濾南にて大敗した。 この時、仲通は八万の兵を率い、二道に分かれて戎、巂州を経由し曲州、靖州へ到着した。南詔王閤羅鳳は謝罪し、捕虜を帰して壊した雲南城を建築して去ることを申し出、併せて言った。 「今、吐蕃の大軍が国境にいる。もしも我を許さなければ、我は吐蕃に帰順する。そうなれば、雲南は唐の領土ではなくなるぞ。」 仲通は許さず、使者を捕らえた。 西洱河にて閤羅鳳の軍と戦い、大敗した。六万人の士卒が戦死し、仲通は身体一つで逃げ出した。 楊国忠はこの敗戦を隠蔽し、戦功を報告した。 閤羅鳳は屍を集めて京観を築き、ついに吐蕃に臣従した。蛮語では、弟のことを「鐘」と言うので、吐蕃は閤羅鳳を「賛普鐘」と命名し、東帝と号して金印を給付した。 閤羅鳳は国門に碑を刻んで、やむを得ずに唐に造反したことを述べ、かつ、言った。 「我が家は代々唐へ仕え、その封爵を受けてきた。後世唐へ帰順することができたら、この碑を使者へ見せて、造反が我が本意ではなかったことを知らせてくれ。」 南詔を攻撃するため、両京と河南、北にて大いに募兵した。しかし人々は、「雲南は伝染病が多く、戦争をする前に八、九割が病死する」と聞いて、誰も応募しなかった。楊国忠は御史を派遣して人を捕らえ、枷に連ねて軍へ送った。 旧制では、勲功のある百姓は征役を免除することになっていた。だが、当時は徴兵する人間が多くなったので、勲功高い者から先に徴発するよう国忠が上奏した。ここにおいて道行く人まで愁怨し、別れを送る父母妻子の泣き声が野を振るわせるようになった。 8高仙芝之虜石國王也,石國王子逃詣諸胡,具告仙芝欺誘貪暴之状。諸胡皆怒,潛引大食欲共攻四鎭。仙芝聞之,將蕃、漢三萬衆撃大食,深入七百餘里,至恆羅斯城,與大食遇。相持五日,葛羅祿部衆叛,與大食夾攻唐軍,仙芝大敗,士卒死亡略盡,所餘纔數千人。右威衞將軍李嗣業勸仙芝宵遁,道路阻隘,拔汗那部衆在前,人畜塞路;嗣業前驅,奮大梃撃之,人馬倶斃,仙芝乃得過。8.高仙芝が石国王を捕虜にすると、石国王子は逃げ出して諸胡を回り、仙芝の貪欲暴虐な有様をつぶさに語って仲間を誘った。諸胡は皆怒り、ひそかに大食(サラセン帝国)を誘い容れて四鎮を共に攻撃しようと欲した。 仙芝はこれを聞くと、蕃、漢の兵卒三万人を率いて大食を攻撃した。七百余里深入りして、タラス城へ到着し、大食軍と遭遇した。 両軍は、対峙すること五日。葛羅禄部の兵卒が造反し、大食と共に唐軍を挟撃した。 仙芝は大敗して士卒の大半は戦死した。生き延びたのは、僅かに数千人。 右威衛将軍李嗣業は夜にまぎれて逃げるよう仙芝へ勧めた。抜汗那の衆が前にいて、人畜が行く手を塞ぐ。嗣業は先駆けして大きな棍棒を振り回してこれを撃った。人も馬もなぎ倒され、仙芝は退出できた。 将士はバラバラになってしまっていたが、別将の汧陽の段秀実は嗣業の声を聞くと罵った。 「敵を避けて真っ先に逃げ出すのは、勇がない。自分の身体だけ守って衆を捨てるのは不仁だ。幸いに逃げ延びても、心に恥じることはないのか!」 嗣業は彼の手を取って感謝し、留まって追っ手を拒んだ。そして敗残兵をかき集めて、共に逃げ延びることができた。 安西へ帰ると、この事を仙芝へ報告し、秀実を都知兵馬使として、自分の判官とした。 9八月,丙辰,武庫火,燒兵器三十七萬。9.八月、丙辰、武器庫から出火し、兵器三十七万が焼けた。 10安祿山將三道兵六萬以討契丹,以奚騎二千爲郷導,過平盧千餘里,至土護眞水,遇雨。祿山引兵晝夜兼行三百餘里,至契丹牙帳,契丹大駭。時久雨,弓弩筋膠皆弛,大將何思德言於祿山曰:「吾兵雖多,遠來疲弊,實不可用,不如按甲息兵以臨之,不過三日,虜必降。」祿山怒、欲斬之,思德請前驅效死。思德貌類祿山,虜爭撃,殺之,以爲已得祿山,勇氣增倍。奚復叛,與契丹合,夾撃唐兵,殺傷殆盡。射祿山,中鞍,折冠簪,失履,獨與麾下二十騎走;會夜,追騎解,得入師州,歸罪於左賢王哥解、河東兵馬使魚承仙而斬之。10.安禄山が、三道の兵六万を率いて契丹を討った。奚騎二千を道案内とした。 平濾を過ぎること千余里、土護真水へ到着し、雨に遭った。禄山は兵を率いて昼夜兼行すること三百余里、契丹の牙帳へ到着した。契丹は大いに驚愕した。 この時、長雨で弓は全て糸が緩んでいた。大将の何思徳は禄山に言った。 「我が兵は多いけれども、遠来で疲れ切っており、実は役に立ちません。ここは武装を解いて兵を休息させて、敵へ臨みましょう。三日も経たぬうちに虜は必ず降伏します。」 禄山は怒り、これを斬ろうとしたので、思徳は先駆けして討ち死にすることを請うた。 思徳の容貌は禄山に似ていたので、虜は争ってこれを攻撃して、殺した。こうして禄山を殺したと思ったので、勇気は倍増した。 奚もまた、造反して契丹と合力した。唐軍を挟撃して殆ど殺傷した。彼らは禄山を射たが、矢は鞍に当たった。禄山は、冠簪は折れ靴をなくし、ただ麾下の二十騎と共に逃げだした。 夜になって敵の追撃がなくなったので、師州へ入ることができた。 禄山は、敗戦の罪を左賢王哥解と河東兵馬使魚承仙に押しつけて、二人とも斬った。 平盧兵馬使史思明は懼れ、山谷へ逃げ込んだ。二十日ほど敗残兵をかき集めて七百人を得る。平盧守将史定方が精鋭兵二千を率いて禄山を救出した。 契丹は退却し、禄山は危機を免れることができた。 平盧へ到着すると、麾下は全て逃げ出しており、手の打ちようがなかった。そこへ史思明が帰ってきて禄山へ会った。禄山は喜び、立ち上がるとその手を執って言った。 「お前さえいてくれれば、何の憂いもないぞ!」 思明は退出すると、人に言った。 「早く出立しなければ、哥解とともに斬られてしまう。」 契丹が師州を包囲していたので、禄山は思明にこれを攻撃させた。 11冬,十月,壬子,上幸華清宮。11.冬、十月、壬子、上が華清宮に御幸した。 12楊國忠使鮮于仲通表請己遙領劍南;十一月,丙午,以國忠領劍南節度使。12.鮮于仲通が、楊国忠を遙領剣南とするよう請願した。国忠の意向を受けたのである。 十一月、丙午、国忠を領剣南節度使とした。 十一載(壬辰、七五二)1.春、正月、丁亥、上が宮殿に帰った。 2二月,庚午,命有司出粟帛及庫錢數十萬緡於兩市易惡錢。先是,江、淮多惡錢,貴戚大商往往以良錢一易惡錢五,載入長安,市井不勝其弊,故李林甫奏請禁之,官爲易取,期一月,不輸官者罪之。於是商賈囂然,不以爲便。衆共遮楊國忠馬自言,國忠爲之言於上,乃更命非鉛錫所鑄及穿穴者,皆聽用之如故。2.二月、丙午、官庫の粟や帛及び銭数十万緡を放出して、両市にて悪銭を回収するよう命じた。 以前は、江淮には悪銭が多かった。そこで貴戚や大商人は江淮へ行き、良銭一枚と悪銭五枚を両替して長安へ持ち込んだ。その弊害は、市井へ大きくのしかかってきた。 李林甫はこれの使用を禁止するよう請願した。悪銭は官にて交換し、一ヶ月の期限を切り、納付しない者は罰した。 商人たちは利便ではないと大騒ぎした。大勢の人間が楊国忠の馬を遮り、訴えかけた。国忠はこれを上言した。そこで命令は変更され、鉛や錫以外で、鋳造されて穴さえ空いていれば、旧来通り銭として流通させる事を許した。 3三月,安祿山發蕃、漢歩騎二十萬撃契丹,欲以雪去秋之恥。初,突厥阿布思來降,上厚禮之,賜姓名李獻忠,累遷朔方節度副使,賜爵奉信王。獻忠有才略,不爲安祿山下,祿山恨之;至是,奏請獻忠帥同羅數萬騎,與倶撃契丹。獻忠恐爲祿山所害,白留後張暐,請奏留不行,暐不許。獻忠乃帥所部大掠倉庫,叛歸漠北,祿山遂頓兵不進。3.三月、安禄山が去秋の雪辱を果たそうと、蕃・漢の歩騎二十万を率いて契丹を攻撃した。 これ以前に、突厥の阿布思が来降した。上はこれを厚く遇し、李献忠の名を下賜した。彼は累遷して朔方節度副使となり、奉信王の爵位を賜った。献忠は才略があり、安禄山の下手に立たなかったので、禄山はこれを恨んだ。 ここに至って、献忠へ同羅の数万騎を与えて共に契丹を攻撃することを請願した。献忠は、禄山から殺されることを懼れ、出征せずに留まることを留後の張暐へ請願したが、暐は許さなかった。 献忠は麾下を率いて倉庫を大いに掠め、叛いて漠北へ帰った。 禄山は、ついに兵を逗留させて進まなかった。 4乙巳,改吏部爲文部,兵部爲武部,刑部爲憲部。4.乙巳、吏部を文部、兵部を武部、刑部を憲部と改めた。 5戸部侍郎、御史大夫、京光尹王鉷,權寵日盛,領二十餘使。宅旁爲使院,文案盈積,吏求署一字,累日不得前;中使賜賚不絶於門,雖李林甫亦畏避之。林甫子岫爲將作監,鉷子準爲衞尉少卿,倶供奉禁中。準陵侮岫,岫常下之。然鉷事林甫謹,林甫雖忌其寵,不忍害也。5.戸部侍郎、御史大夫、京兆尹王鉷の権寵は日毎に盛んとなり、 二十余の役職を兼任するようになった。自宅の傍らへ使院を造り、文案が山積みになった。吏は一文字の署名を求めるために何日も並ばなければならなかった。下賜品を届ける中使はひっきりなしに彼の門をくぐった。李林甫さえも彼を畏避した。 林甫の子息の岫は将作監となり、鉷の子息の準は衛尉少卿で、共に禁中に供奉した。準は岫を凌侮し、岫はいつもへりくだっていた。しかし、鉷は林甫に対して謹んでいたので、林甫は彼の寵遇を忌んではいたが、害するに忍びなかった。 準はかつて、取り巻き達を引き連れて駙馬都尉王繇とすれ違った。繇は塵を見たら伏し拝んだが、準は弾き玉を繇の冠に当ててその玉簪を折って戯れに笑った。それでも繇は酒を準備して準を招いた。繇が娶った永穆公主は上の愛娘だが、彼女自ら準へお酌をして持てなした。準が帰ると、ある者が繇へ言った。 「鼠が父親の権力を後ろ盾にしているとは言え、公主へお酌させてことが上の耳に入ったら、まずくはありませんか?」 繇は言った。 「上が怒っても実害はない。七郎に至っては、命が懸かる。気を使わずにいられない。」 鉷の弟の戸部郎中銲は、凶悪な無法者であった。術士の任海川を呼びつけて聞いた。 「我に王者の相はあるか?」 海川は懼れ、逃げ隠れた。鉷は事が漏れるのを恐れ、捕まえると他の事にかこつけて杖で打ち殺した。 王府司馬の韋会は、定安公主の子で、王繇と同母兄弟である。(定安公主は中宗の娘で、王同皎へ嫁いで繇を産み、また、韋濯へ嫁いで会を産んだ。)彼はこの事件を私庭にて話した。鉷は、長安尉賈季隣へ命じて会を捕まえて牢獄へ放りこみ、絞殺した。繇は、何も言わなかった。 銲は邢縡と仲が良く、龍武万騎とともに龍武将軍を殺して兵乱を起こし、李林甫・陳希烈・楊国忠を殺そうと謀った。だが、期日の二日前に告発する者がいた。 夏、四月、乙酉、上は朝廷に臨んで、告発状を鉷へ突きつけ、彼らを捕らえさせた。鉷は、銲は縡の所にいると当たりを付け、まず人を派遣して彼を呼び寄せた。そして日が遅くなってから、縡を捕らえるよう賈季隣へ命じた。 縡は金城坊に居た。季隣らが門へやってくると、縡は仲間たち数十人とともに弓や刀を持ち出して格闘し、飛び出した。鉷が楊国忠と共に兵を率いて到着すると、縡は仲間に言った。 「大夫の部下を傷つけるな。」 国忠の間諜が国忠へ言った。 「賊徒は合い言葉を決めています。戦ってはなりません。」 縡は戦いつつ逃げ、皇城の西南の隅へ至った。そこへ高力士が飛龍禁軍四百を率いて到着し、縡を攻撃して斬り、仲間たちを全員捕らえた。 国忠はこの有様を上に報告し、言った。 「鉷は絶対、この陰謀に加担しています。」 上は、鉷は任遇が深いので、叛逆に応じる筈がないと考えた。李林甫もまた、彼のために弁明した。 上は、特命にて銲を不問とした。だが、本心では鉷が銲の処罰を請願してくれることを望んでいた。そこで、国忠にそれとなく諭させたが、鉷は請願するに忍びなかった。上は怒った。 陳希烈が、鉷も大逆として誅さなければならないと口を極めるに及び、上の心も決まった。 戊子、この件について、希烈と国忠が詮議するよう敕が下った。また、国忠へは京兆尹を兼任させた。 ここにおいて、任海川や韋会らの事件がみな、暴露された。疑獄は成立し、鉷は自殺を命じられ、銲は朝堂にて杖で打ち殺された。鉷の子息の準と偁は嶺南へ流され、ついで殺された。 役人が彼の屋敷の財産を記録したが、数日懸けても終わらなかった。鉷の賓佐は、敢えてその門を窺おうとしなかったが、ただ采訪判官の裴冕だけが、彼の屍を受け取って埋葬した。 6初,李林甫以陳希烈易制,引爲相,政事常隨林甫左右,晩節遂與林甫爲敵,林甫懼。會李獻忠叛,林甫乃請解朔方節制,且薦河西節度使安思順自代;庚子,以思順爲朔方節度使。6.もともと李林甫は、陳希烈が扱いやすいから宰相としたのである。政事はいつも林甫の近習たちが動かしていたが、晩年になり、ついに林甫と敵対した。林甫は懼れた。 李献忠が造反するや、林甫は朔方節制の解任を請願し、後釜には河西節度使安思順を推薦した。 庚子、思順を朔方節度使とした。 7五月,戊申,慶王琮薨,贈靖德太子。7.五月、戊申、慶王琮が卒した。靖徳太子の諡を贈った。 8丙辰,京兆尹楊國忠加御史大夫、京畿・關内采訪等使,凡王鉷所綰使務,悉歸國忠。8.丙辰、京兆尹楊国忠に御史大夫と京畿・関内采訪等使の官職を加えた。およそ、王鉷の持っていた役職は、全て国忠に与えられた。 当初、李林甫は、国忠が微才で貴妃の一族だったので、これを善遇していた。 国忠と王鉷は共に中丞となったが、鉷は林甫の推薦のおかげで大夫となった。だから国忠は気分を害し、遂に邢縡の疑獄を深く探求し、林甫が鉷兄弟や阿布思と私的に交際していたことを突き止めた。陳希烈や哥舒翰も証言した。これによって、上は林甫を疎むようになった。 国忠の貴は天下を震わせ、始めて林甫と仇敵になった。 9六月,甲子,楊國忠奏吐蕃兵六十萬救南詔,劍南兵撃破之於雲南,克故隰州等三城,捕虜六千三百,以道遠,簡壯者千餘人及酋長降者獻之。9.六月、甲子、楊国忠が上奏した。 「吐蕃の兵六十万が南詔を救援に来たけれども、剣南の兵が、雲南にて撃破しました。もとの隰州など三城に勝ち、六千三百人を捕虜としました。ただ、道が遠いので、体力のある千余人と降伏した酋長のみ献上いたします。」 10秋,八月,乙丑,上復幸左藏,賜羣臣帛。癸巳,楊國忠奏有鳳皇見左藏庫屋,出納判官魏仲犀言鳳集庫西通訓門。10.秋、八月、乙丑、上が再び左蔵へ御幸し、群臣に帛を下賜した。 癸巳、鳳凰が左蔵庫屋に顕れたと楊国忠が上奏し、庫西の通訓門に法王が集まったと出納判官魏仲犀が上言した。 11九月,阿布思入寇,圍永清柵,柵使張元軌拒卻之。11.阿布思が入寇し、永清柵を包囲した。柵使張元軌が、拒んでこれを撃退した。 12冬,十月,戊寅,上幸華清宮。12.冬、十月、戊寅、上が華清宮へ御幸した。 13己亥,改通訓門曰鳳集門;魏仲犀遷殿中侍御史,楊國忠屬吏率以鳳皇優得調。13.己亥、通訓門を鳳集門と改称した。魏仲犀を殿中御史とした。楊国忠が属吏を率いて鳳凰を素材にして音楽を奏でさせた。 14南詔數寇邊,蜀人請楊國忠赴鎭;左僕射兼右相李林甫奏遣之。國忠將行,泣辭,上言必爲林甫所害,貴妃亦爲之請。上謂國忠曰:「卿蹔到蜀區處軍事,朕屈指待卿,還當入相。」林甫時已有疾,憂懣不知所爲,巫言一見上可小愈。上欲就視之,左右固諫。上乃命林甫出庭中,上登降聖閣遙望,以紅巾招之。林甫不能拜,使人代拜。國忠比至蜀,上遣中使召還,至昭應,謁林甫,拜於牀下。林甫流涕謂曰:「林甫死矣,公必爲相,以後事累公!」國忠謝不敢當,汗出覆面。十一月,丁卯,林甫薨。14.南詔がしばしば辺境へ入寇するので、蜀の人間は、楊国忠が鎮へ赴くよう請願した。左僕射兼右相李林甫が、これを派遣するよう上奏する。 国忠は出立しようとする時、泣いて別れを告げ、必ず林甫から害される、と上言した。貴妃もまた、彼の為に請願した。上は、国忠へ言った。 「卿はゆっくりと蜀に向かい、軍事の処理をしておきなさい。朕は日を指折り数えて卿を待ち、呼び返して宰相にしよう。」 この時、林甫は病気となり、憂いに満ちたが、為す術もなかった。巫師は、「一度でもご尊顔を拝したら、少しは病状が癒えるでしょう」と言った。上は、見舞いに行こうとしたが、左右が固く諫めた。そこで上は庭中へ出るよう林甫へ命じて、自身は降聖閣へ登って遙かに望んだ。林甫は拝礼することさえできず、他の者へ拝礼させた。 国忠が蜀へ着くとすぐに、上は中使を派遣して召還した。国忠は昭応(林甫の私第)まで来ると林甫へ謁見し、ベッドの下で拝礼した。林甫は涙を零して言った。 「林甫が死んだら公はきっと宰相になる。後事は公へ託すぞ!」 国忠は謝して「自分はそんな器ではない」と答えた。その顔面は、汗びっしょりだった。 十一月、丁卯、林甫が卒した。 上は、晩年になると自ら泰平を恃み、天下には何の憂いもないと思い、遂に禁中の奥に引っ込んで声色の娯楽に専念するようになり、政事は全て林甫に委ねた。 林甫は近習に媚び、上意に迎合し、その寵を確固たるものとした。上言の道を閉ざし、聡明を覆い隠し、権威を以て姦をなした。賢人を妬き有能な人間を憎み、自分以上の者を排斥してその地位を保った。しばしば大獄を起こし貴臣を誅逐して権勢を張った。だから、皇太子以下、彼を畏れて足をそばめていた。 宰相に在位すること十九年。天下の乱を養成したが、上はこれを悟らなかった。 15庚申,以楊國忠爲右相,兼文部尚書,其判使並如故。15.庚申、楊国忠を右相兼文部尚書とした。その判官は従来通り。 国忠の為人は、口達者で軽薄。そして威儀がなかった。宰相になると、天下の裁量こそ自分の任務と思いこみ、裁決機務を深慮なく果敢に行った。朝廷にいれば、袖を払い腕を振るう。公卿以下、動作一つにも気を配り、震え上がらない者は居なかった。侍御史から宰相に至るまで、およそ四十余りの役職を兼務する。台省の官吏で才覚や行動が称されている者でも、自分の役に立たない者は全員追い出した。 ある者が、陜郡の進士張彖へ、国忠に謁見するよう勧めて言った。 「彼に謁見すれば、即座に富貴が押し寄せて来るぞ。」 彖は言った。 「君達は、楊右相へ寄りかかって、泰山のように思っている。だが、我から見れば、氷山だ。もしも太陽が照りつければ、君達は頼みの綱をなくしてしまうぞ。」 ついに、祟山に隠居した。 国忠は、司勲員外郎崔円を剣南留後とし、魏郡太守吉温を御史中丞・充京畿・関内採訪等使とした。 温は范陽へ出向いて、安禄山へ別れを告げた。禄山は、子の慶緒に境まで見送らせた。温のために控え馬を駅から数十歩出した。温は長安へ着くと、朝廷の動静を即座に禄山へ知らせた。彼らは、二晩で范陽まで到着した。 16十二月,楊國忠欲收人望,建議:「文部選人,無問賢不肖,選深者留之,依資據闕注官。」滯淹者翕然稱之。國忠凡所施置,皆曲徇時人所欲,故頗得衆譽。16.十二月、楊国忠は人望を収めようと、建議した。 「文部の人選では、賢不肖を問わず、長く働いたものを進級させる。(?)」 長いあいだ出世しなかった者たちは、大喜びした。 国忠の措置は、みな、人の欲望にかなっていたので、すぐに大勢の人間から褒めちぎられた。 17甲申,以平盧兵馬使史思明兼北平太守,充盧龍軍使。17.甲申、平盧兵馬使の史思明に北平太守を兼任させ、盧龍軍使とした。 18丁亥,上還宮。18.丁亥、上が宮殿に帰った。 19丁酉,以安西行軍司馬封常清爲安西四鎭節度使。19.丁酉、安西行軍司馬封常清を安西四鎮節度使とした。 20哥舒翰素與安祿山、安思順不協,上常和解之,使爲兄弟。是冬,三人倶入朝,上使高力士宴之於城東。祿山謂翰曰:「我父胡,母突厥,公父突厥,母胡,族類頗同,何得不相親?」翰曰:『古人云:狐向窟嘷不祥,爲其忘本故也。兄苟見親,翰敢不盡心!」祿山以爲譏其胡也,大怒,罵翰曰:「突厥敢爾!」翰欲應之,力士目翰,翰乃止,陽醉而散,自是爲怨愈深。20.哥舒翰はもともと安禄山、安思順と仲が悪かった。上はいつも和解させようとしており、彼らを義兄弟とした。 この冬、三人は、共に入朝した。高力士が、上の命令で城東にて宴会を開いた。宴会の最中、禄山が翰に言った。 「我が父は胡人で母は突厥。公の父は突厥で母は胡人。似たもの同士だ。どうして親しくなれないのかな?」 翰は言った。 「古人は言った。『狐が洞穴へ向かって吼えるのは、不祥だ。その本を忘れているからだ。』兄がもしも親しまれたならば、翰もどうして心を尽くさずにいられようか!」 禄山は、胡を譏られたと思い、大いに怒って翰を罵った。 「突厥こそつまらん連中だ!」 翰は言い返そうとしたが、力士が目で制したので、翰はやめて、酔いに託して立ち去った。 これ以来、怨はいよいよ深まった。 21棣王琰有二孺人,爭寵,其一使巫書符置琰履中以求媚。琰與監院宦者有隙,宦者知之,密奏琰祝詛上;上使人掩其履而獲之,大怒。琰頓首謝:「臣實不知有符。」上使鞫之,果孺人所爲。上猶疑琰知之,囚於鷹狗坊,絶朝請,憂憤而薨。21.棣王琰には二人の夫人がおり、寵愛を争っていた。その片方が、巫を使い、符を書いて琰の靴の中へ入れ、媚びを求めた。 さて、琰と監院宦者とは反目しあっていたが、宦者がこれを知って、琰が上を呪詛していると密奏した。上がその靴を探らせてみると、果たして符があったので、大いに怒った。琰は頓首して謝り、言った。 「臣は、実際、符があることなど知らなかったのです。」 上がこれを糾明させると、果たして、夫人の仕業だと判明した。 しかし、上は尚も琰がこれを知っていたのではないかと疑い、鷹狗坊に幽閉し、朝請も許さなかった。 琰は、憂憤のうちに薨去した。 22故事,兵、吏部尚書知政事者,選事悉委侍郎以下,三注三唱,仍過門下省審,自春及夏,其事乃畢。及楊國忠以宰相領文部尚書,欲自示精敏,乃遣令史先於私第密定名闕。22.故事では、兵・吏部尚書知政事は、人事を全て侍郎以下に委ね、三回見直してから門下省の審査に下げ渡すことになっており、春から夏までにこの手順は完了させていた。楊国忠が宰相領文部尚書となると、自分の精緻さを示そうと、令史はまず私邸にて密かに定めるようになった。 十二載(癸巳、七五三)1.春、正月、壬戌、国忠が左相陳希烈及び給事中、諸司長官をみな、尚書都堂に集めて、人事を行い、たった一日で終わらせ、言った。 「今の左相や給事中もこの場に同席したのだから、このまま門下へ渡せばよい。」 その間、不適当なことも多々あったが、あえて異議を唱える者はいなかった。ここにおいて、門下もそのまま承認し、侍郎はただ手を拱いているだけだった。 侍郎の韋見素と張倚は、門庭を小走りに駆けるだけで、主事と変わらなかった。見素は、湊の子息である。 京兆尹鮮于仲通は、選人達へ風諭して、国忠のために頌を刻むよう請願させた。これは省門へ立てて、仲通へその言葉を選ばせた。上は、数文字を改定した。 仲通は、刻んだ文字へ金を流し込んで満たした。 2楊國忠使人説安祿山誣李林甫與阿布思謀反,祿山使阿布思部落降者詣闕,誣告林甫與阿布思約爲父子。上信之,下吏按問;林甫壻諫議大夫楊齊宣懼爲所累,附國忠意證成之。時林甫尚未葬,二月,癸未,制削林甫官爵;子孫有官者除名,流嶺南及黔中,給隨身衣及糧食,自餘貲産並沒官;近親及黨與坐貶者五十餘人。剖林甫棺,抉取含珠,褫金紫,更以小棺如庶人禮葬之。己亥,賜陳希烈爵許國公,楊國忠爵魏國公,賞其成林甫之獄也。2.楊国忠は、安禄山のもとへ使者を派遣し、李林甫と阿布思が手を結んで造反を謀っていたと告発するよう説得した。禄山は、阿布思の部落から降伏してきた者を闕へ詣でさせ、林甫と阿布思が義理の親子になっていたと誣告させた。 上はこれを信じ、役人へ調べさせた。林甫の婿の諫議大夫楊斉宣は我が身に累が及ぶことを懼れ、国忠へすり寄って証人となった。 二月、癸未、制が下った。林甫の官職を削り、子孫に官がある者は除名した。彼らは嶺南及び黔中へ流され、身につけた衣服と食糧以外の財産は全て没収された。近親や党類とみなされて連座させられた者は、五十余人になった。 この時、林甫はまだ埋葬されていなかったが、林甫の棺桶は開けられ、口に含んだ珠や着せられていた金紫は取り上げられ、もっと小さい棺桶へ収めて、まるで庶民のような礼で埋葬された。 己亥、陳希烈へ爵許国公、楊国忠へ爵魏国公を賜った。彼らが林甫の獄を治めたことを賞したのである。 3夏,五月,己酉,復以魏、周、隋後爲三恪,楊國忠欲攻李林甫之短也。衞包以助邪貶夜郎尉,崔昌貶烏雷尉。3.夏、五月、己酉、魏・周・隋の末裔を復し、三恪とした。楊国忠が、李林甫の業績を攻めたかったからだ。衛包は邪を助けたとして夜郎尉に、崔昌は烏雷尉に左遷された。 4阿布思爲回紇所破,安祿山誘其部落而降之,由是祿山精兵,天下莫及。4.阿布思が回紇に敗れると、安禄山はその部落を誘って降伏させた。これ以来、安禄山の精兵は天下に及ぶ者がなくなった。 5壬辰,以左武衞大將軍何復光將嶺南五府兵撃南詔。5.壬辰、左武衛大将軍何復光が嶺南五府兵を率いて南詔を攻撃した。 6安祿山以李林甫狡猾踰己,故畏服之。及楊國忠爲相,祿山視之蔑如也,由是有隙。國忠屢言祿山有反状,上不聽。6.安禄山は、李林甫の狡猾さが自分以上だったので、彼へ畏服していたのだ。楊国忠が宰相となると、禄山は彼を蔑視した。これによって、彼らは仲が悪くなった。国忠は屡々禄山が造反の準備をしていると上言したが、上は聞かなかった。 隴右節度使哥舒翰が吐蕃を攻撃して、洪済、大漠門などの城を抜き、九曲の部落をことごとく収めた。 初め、高麗人の王思礼と翰はともに押牙となって王忠嗣に仕えていた。翰が節度使となると、思礼は兵馬使兼河源軍使となった。 翰が九曲を攻撃するとき、思礼は、期日に遅れてしまった。翰はこれを斬ろうとしたが、再び呼び出して釈放してやった。 思礼は静かに言った。 「斬るのなら、さっさと斬ればよい。なんでわざわざもう一度呼び出したりしたのだ!」 楊国忠は、翰と厚く結んで共に安禄山を排斥しようと、翰へ河西節度使を兼任させるよう上奏した。 秋、八月、戊戌、翰へ爵西平郡王を賜った。翰の表侍御史裴冕を河西行軍司馬とした。 このとき、中国は盛強で、安遠門から西は全て唐の領土であった。一万二千里には家が建ち並び桑や麻が生い茂った。中でも、隴右は天下第一と称されるほど富があった。翰が入奏のために派遣する使者は白駱駝に乗っていたが、これは一日五百里を駆けた。 7九月,甲辰,以突騎施黑姓可汗登里伊羅蜜施爲突騎施可汗。7.九月、甲辰、突騎施の黒姓可汗登里伊羅蜜施が、突騎施可汗となった。 8北庭都護程千里追阿布思至磧西,以書諭葛邏祿,使相應。阿布思窮迫,歸葛邏祿,葛邏祿葉護執之,并其妻子、麾下數千人送之。甲寅,加葛邏祿葉護頓毗伽開府儀同三司,賜爵金山王。8.北庭都護程千里が阿布思を磧西まで追撃した。ここで、書を遣って葛邏禄を呼応させた。阿布思は切羽詰まって葛邏禄へ降伏した。葛邏禄葉護はこれを捕らえ、その妻子、麾下数千人とともに唐へ送ってきた。 甲寅、葛邏禄葉護頓毘伽へ開府儀同三司を加え、金山王の爵位を賜った。 9冬,十月,戊寅,上幸華清宮。9.冬、十月、戊寅、上が華清宮へ御幸した。 楊国忠と虢国夫人の第は隣同士だったので、昼夜、際限もなく行き来しており、ある時は轡を並べて馬を走らせて入朝した。夫人が出歩くときには、必ず障幕を張って自分の姿を人から見られないようにするのに、虢国夫人はそんなことをしなかったので、道行く人が自分の目を覆った。 三夫人は車駕に随従して華清宮へ行こうとして、国忠の第で落ち合った。車馬や従僕は、数坊へ溢れ返り、錦繍珠玉は鮮やかで、目を奪った。 国忠は客に言った。 「我はもともと微賎な出身。一旦、女性の縁でここまで出世した。まだ政事というものを知らない。ただ、最後に令名が得られないことを考えるなら、今楽しみを極めた方が増した。」 楊氏の五家は、それぞれに違う色で衣を統一していた。五家が隊を組んで進むと、まるで雲錦のようだった。国忠は、剣南の旌節を先頭に掲げていた。 国忠の子息の暄は、明経を受けたが、学業は荒廃しており、合格には程遠かった。礼部侍郎達奚珣は、国忠の権勢を畏れ、息子の昭応尉撫を派遣して、先に報告した。国忠が入朝しようと馬に乗っているのを見て、撫は下馬して小走りに駆け寄った。国忠は、息子は絶対合格すると思っていたので、喜んでいた。撫は言った。 「大人から相公への伝言です。郎君の試験は、良い成績ではありませんでした。しかし、まだ落第と決まったわけではありません。」 国忠は怒って言った。 「我が子が富貴になれぬことを心配する筈がないだろうか!お前達のような鼠たちに何をしろというのだ!」 馬を操ったまま、顧みもしないで去っていった。 撫は恐れおののいて父親へ言った。 「彼は貴勢を恃んで人をなみしています。どうして曲直を論じられましょうか!」 遂に、暄を上第へ置いた。 暄が吏部侍郎となると、珣は始めて礼部から吏部へ映り、暄と親しく語るようになったが、そのたびに冷や汗が出て、病気になってしまった。 国忠が要職に就くと、中外からの届け物が相継ぎ、縑帛は三千万匹にも及んだ。 10上在華清宮,欲夜出遊,龍武大將軍陳玄禮諫曰:「宮外即曠野,安可不備不虞!陛下必欲夜遊,請歸城闕。」上爲之引還。10.上は華清宮にいたが、夜遊びがしたくなった。すると、龍武大将軍陳玄礼が諫めて言った。 「宮外は荒野です。どうして満足な警備ができましょうか!陛下が夜遊びをなさりたいのでしたら、城闕に帰ってからにしてくださいませ!」 おかげで、上は引き返した。 11是歳,安西節度使封常清撃大勃律,至菩薩勞城,前鋒屢捷,常清乘勝逐之。斥候府果毅段秀實諫曰:「虜兵羸而屢北,誘我也;請搜左右山林。」常清從之。果獲伏兵,遂大破之,受降而還。11.この年、安西節度使封常清が、大勃律を攻撃して、菩薩労城まで進軍した。前鋒がしばしば勝ったので、常清は勝ちに乗じて追撃した。 斥候府果毅段秀実が諫めて言った。 「兵が弱くてしばしば逃げるのは、我らを誘っているのです。左右の山林を捜してください。」 常清はこれに従う。果たして伏兵を捕らえ、遂に大いに破った。 降伏を受けて、帰った。 12中書舍人宋昱知選事,前進士廣平劉迺以選法未善,上書於昱,以爲:「禹、稷、皋陶同居舜朝,猶曰載采有九德,考績以九載。近代主司,察言於一幅之判,觀行於一揖之間,何古今遲速不侔之甚哉!借使周公、孔子今處銓廷,考其辭華,則不及徐、庾,觀其利口,則不若嗇夫,何暇論聖賢之事業乎!」12.中書舎人宋昱が選事を任命された。前の進士で広平の劉迺は、選挙の方法に不備があるとして、昱へ上書して言った。 「舜の朝廷には、禹、稷、皋陶のような賢人達がおりましたが、それでも九徳を見てから実際の行いを見ましたし、考課は九年間の業績を見ました。最近の主司は、一幅の文書で言葉を察し、たかが一礼の間に行いを見ます。その丁寧さは、古今で何と隔たっているものでしょうか!今の吏部の人選ならば、周公や孔子でさえも、言葉から人格を推すことでは徐陵や庾信に及ばず、実績を見ることでは稟夫に及びません。どうして聖賢の事業を論じることができましょうか!」 |