↑主頁 2005/1/17 改訂
執筆者: 宣和堂

《資治通鑑》について 序論

木田知生『中国歴史人物選6 司馬光とその時代』白帝社
木田知生・壇上寛中国人物伝 第三講 歴史家と歴史書 第四講 日中交流史話』恒星出版
田中謙二『中国文明選1 資治通鑑』朝日新聞社
内藤湖南『支那史学史1~2』東洋文庫557、559
司馬光/頼惟勤・石川忠久 編『中国古典文学大系14 資治通鑑選』平凡社
中国歴史大辞典》上海辞書出版社

 自分のインチキ文章に飽き足らない人はこちらの方を当たって欲しい。
 この文章は完全に孫引き文章であることを先に提示しておく。

 中国史の記述は、主に二大司馬によって、方向づけられたと言っても良い。もちろん、一人は司馬遷(B.C.145?~86?)、もう一人は司馬光(1019~1086)である。司馬遷の名前はすぐに出てくるだろうが、ナカナカ司馬光の名前は出てこないのでは無かろうか?下手をすると、もう一人の司馬!と言うと司馬遼太郎と書かれそうだし、日本のお父さん方でそう答える人は多いだろう。

 司馬遷は有名である。親子二代にわたる取材を経て、紀伝体を確立した史学者、李陵をかばい、自らも漢・武帝の逆鱗に触れて宮刑に処せられた硬骨漢、そして何よりも、中国の古代を瑞々しく描いた優れた文学者として知られている。
 一方で司馬光と云えば、ともすれば王安石と対立した守旧派官僚の首魁として名前を知られるコトの方が多く、おまけに旧法党と呼ばれる集団の美名は蘇軾東坡居士)に帰せられることが多く、今ひとつ捉えにくい人物である。

 加えて、彼の著述である《資治通鑑》も大部であるために、邦訳も『中国古典文学大系14 資治通鑑選』の様な抄訳が何種類かあるものの、やはり一般には手に入り辛い状況にある。中国史学に与えた影響を日本人は肌で知ることはなかなか難しいと言える。
 このような状況を鑑みて、《資治通鑑》と司馬光が果たした史学史的な意味を紹介するのがこの文章である。浅学非才の身に余るお鉢が廻ってきたことに戦々恐々とするばかりだが、踏み出さなければ前には進まない。先ず、《資治通鑑》が書かれた経緯をここに書き出してみよう。

《資治通鑑》の内容と特色 著述範囲と史学史的な意味

 先述した通り、《資治通鑑》は大部の史書であり、一般的によく使われている中華書局版の《資治通鑑》はワンセット20冊と云う分量を誇っており、唯一の全訳(と云っても書き下し…)である、『続国訳漢文大成 資治通鑑』国民文庫刊行会 になると、16冊(しかもかなりゴツイ本)という分量になる。

 扱われている時代も広汎に渡り、周・威烈王23(B.C.403)年から後周・世宗顕徳6(959)年までの1362年間である。この書は《春秋》の続きを受けるような形(実際には《春秋》の直後から筆を起こしているわけではないが)で記述が始まり、司馬光の生きた北宋が建国される直前、後周の末までをその守備範囲としている。
 便宜上、(東)周・秦・漢・魏・晋・(劉)宋・(南)斉・梁・陳・隋・唐・後梁・後唐・後晋・後漢・後周の16王朝の歴史が編年体と云われる型式で書かれている。

 それぞれ、周紀5巻)、秦紀3巻)、漢紀60巻)、魏紀10巻)、晋紀40巻)、宋紀16巻)、斉紀10巻)、梁紀22巻)、陳紀10巻)、隋紀8巻)、唐紀81巻)、後梁紀6巻)、後唐紀8巻)、後晋紀6巻)、後漢紀4巻)、後周紀5巻と言う名前が与えられている(合計:294巻)。数字をあげてみただけでも圧倒されそうな分量である(当然、記述には十六王朝以外の同時代に存在したあまたの王朝も含まれる)。

 司馬光の狙いは、この16王朝が存在した時代を俯瞰的に見られる書物を作ることにあった。
 この間の歴史を《資治通鑑》に頼らず、他の史書を見渡そうとすれば、史記》(西漢・司馬遷撰 130巻)・《漢書》(東漢・班超 100巻)・《後漢書》(劉宋・范曄撰 120巻)・《三国志》(西晋・陳寿撰 65巻)・《晋書》(唐・房玄齢など撰 130巻)・《宋書》(梁・沈約撰 100巻)・《南斉書》(梁・蕭子顕撰 59巻)・《梁書》(唐・姚子廉撰 56巻)・《陳書》(唐・姚子廉撰 36巻)・《南史》(唐・李延寿撰 80巻)・《魏書》(北斉・魏収撰 130巻)・《北斉書》(唐・李百薬撰 50巻)・《周書》(唐・令狐徳棻など撰 50巻)・《隋書》(唐・魏徴など撰 85巻)・《北史》(唐・李延寿撰 100巻)・《舊唐書》(後晋・劉昫など撰 200巻)・《新唐書》(北宋・欧陽脩 宋祁撰 225巻)・《舊五代史》(北宋・薛居正など撰 150巻)・《新五代史》(北宋・欧陽脩撰 74巻と、羅列しただけでも19もの大部(合計:1940巻!まあ、水増ししているわけだが…)の書物に目を通さねばならない。

 この間の通史を把握しようとすると、一つの事件が複数の人物の伝に分けて書かれる(もしくは相反する事実が記述される紀伝体特有の記述に振り回される事になる。又、魏晋南北朝五代十国などの分裂の時代を把握しようとすると、複数の史書に目を通さなくてはならないことになり、これも煩雑である。こと分裂の時代を把握しようとすれば、紀伝体の史書で通史的な流れを理解するのは困難な作業であると言える。

 又、現実問題として、活版印刷の曙光を迎えたこの時期ですら、書物の流通はあまりいいとは言えず、先に挙げた正史ですら《史記》や《漢書》などが細々と流通する程度で、しかもそれでよしとする風もあったようだ。
 実際、司馬光の若い頃は南北朝正史である宋書》・《南斉書》・《梁書》・《陳書》・《魏書》・《北斉書》・《周書》・《隋書》と、このころ正史には含まれていなかった《南史》・《北史》が非常に希薄で、目にすることも希なら読めることは奇跡に近い状態であったらしく、わずかに、今は散逸した唐末高峻・高迥高氏小史》という、《史記》から《陳書》、《隋書》までを要約して代の実録を付け足した書物くらいでしか、この時代のことを知るよしもなかったという。
 宮廷図書館に勤務する高官や好事家の富豪と密接な者でも無い限り、これら大部の書に触れ、しかも熟読することは不可能であった。

 また、この時代の雰囲気として、唐代の史書編纂が多人数によって分担されたために、資料の寄せ集め堕したことに不満があり、また《春秋左氏伝》を元にテキスト通りに資料を読み解く新春秋学の影響もあり、一貫した史観に基づいて書かれた通史の登場が待望されていたことも付け加えておく。

 また、当時の書物もまだ大部分が巻子型(平たく言うと巻物)であったので、刊行当初から活版印刷を用いて冊子型(平たく言うと和装本
)で流通した《資治通鑑》はその流通形態自体が画期的であったと言うことができる。

 このことを大上段に構えて、中国のルネサンス(復古)時期である宋代に於いて、新たなる知識層として台頭してきた士大夫層の歴史に対する興味が増幅し、結果、《春秋》の欠を補うべく、通史としての《資治通鑑》が登場した、とも言えるのである(と言っても《資治通鑑》は《春秋》のように大義を後世に知らしめる経書ではなく、むしろ《春秋左氏伝》の様に事実を淡々と記すことによって教訓を示そうとしているので、その欠を補う形で後には朱熹が《資治通鑑綱目》を著わすことになるのだが、それはまた後述する…)。


《資治通鑑》の沿革

《資治通鑑》執筆の経緯

 また、《史記》が史官の司馬遷の著作とはいえ、いわば私家版であったのに対して、《資治通鑑》はその最初期から勅撰、つまり、皇帝の命を受けた公的事業として作業が進められている。
 これだけの大部の史書を、政治的見解上対立した皇帝の後ろ盾を得て作成したのであるから、《資治通鑑》は官界で守旧派の首領として手腕を振るう以前…司馬光の若い日の著作であろう、と筆者は勝手に思い込んでいたのであるが、《資治通鑑》の執筆は実に治平3(1066)年から元豊7(1084)年までの、実に19年の歳月を費やされている。
 手元の略年表に従えば、神宗即位の前年から執筆が開始され、司馬光王安石との新法を巡る政争期を経て、中央政界から去り洛陽に居を構えた期間である。
 司馬光真宗天禧3(1019)年の生まれであるから、《資治通鑑》の執筆は彼の48~66歳の期間であり、享年68歳の司馬光にとって、壮年から最晩年までが著述の期間に割り当てられている。
 当然この時期には、中央官界では政敵・王安石が宰相の椅子に座って新法の音頭取りをしていたのであるが、王安石司馬光の著作活動を妨害することはまるでしていない(元々、司馬光王安石呂公著韓維を加えた四人は嘉祐四友と言われる仲良しグループだったのだが…)。
 また、時の皇帝である神宗も自分の押し進める新法に盾突き、中央政界から退いた司馬光のこの著作を心待ちにしていた。《資治通鑑》(名前からして帝王学の助けの為に編纂されたと言うことが解る)の名を下賜し、序を付けたのも神宗である。
 青史に名を残すことを士大夫の最大の栄誉であるし、古来より歴史的事実が政治的な当てこすりに使われることが多い中国では、政敵を史書の編纂を担当させること自体が驚異と言える。
 後に新法党が政権を奪取した際に《資治通鑑》の版木が棄却されずに済んだのも、実にこの神宗による題名の下賜と御製の序文があったからに他ならない。
 また、それに応えるように司馬光も《資治通鑑》を純粋に史書として完成させており、政敵に対する恨み辛みを述べるようなことはあまり行っていない。
 司馬遷の《史記》が憤りを発した書である言う評価を受けていることを思えば、このことがいかに理知的で奇異な事であるかが解ると思う(司馬光が《資治通鑑》執筆中に新法党と称される集団からそう目されることを極端に恐れたという点もあったからでもあるが…)。
 いかなる批判があろうとも、これだけは宋代の士風の美点であろう(もっとも、司馬光司馬遷と違って桁外れに温厚な人柄だったようである)。

 さて、それでは司馬光がどういう経緯で《資治通鑑》の執筆に携わったのか見て行こう。


《資治通鑑》の執筆開始 《資治通鑑》執筆状況・前

 まず、英宗治平元(1064)年、当時、知諫院の位にあった司馬光は《歴年図》(5巻)を献上している。
 この書は全5巻と云う少ない冊数ながら、周・威烈王23(B.C.403)年から後周・世宗顕徳6(959)年までを煩雑な紀伝体に依らず、大小の国の興亡を主眼に据えて図に纏めたモノであったらしい。
 扱う年代にしろ基本的な記述方法にしろ、正に《資治通鑑》の雛形とも言えるので、このころから《資治通鑑》の青写真が既にできあがっていたことを示していると言えよう。
 《歴年図》完成から2年後の治平3(1066)年には、周紀5巻)・秦紀3巻)から成る《通志》(8巻)が完成して英宗に献上されている。
 扱う時代は周・威烈王23(B.C.403)~秦・二世皇帝3(B.C.207)年であるが、いわば《資治通鑑》のプレゼンテーション版とも言えるような内容である(通志》8巻は周紀(5巻)と秦紀(3巻)を足した巻数に等しく、これを元に現在の《資治通鑑》の同部分ができあがったと考えられる)。
 事実、英宗はこの書の進呈を受け、五代まで続く編年体の歴史書の作成を司馬光に命じたのである。

 ここから司馬光の長きに渡る《資治通鑑》執筆が始まったのである(もっとも、当初、《資治通鑑》には題名が無く、司馬光自身は《通志》という名にこだわっていたようだが、英宗は《歴代君臣事跡》と言う題名で編纂を命じている…)。

 勅命を受けた司馬光は、先ず、優秀な助手を付けることを願い、コレを許されただけでなく、《資治通鑑》編集の為の書局を宋代の宮廷図書館であるところの嵩文院に設置されることなった。
 嵩文院収蔵の書物の閲覧を許されたほか、龍図閣章典閣いずれも宮廷図書館)の収蔵図書の閲覧を許されているし、おそらくは収蔵家の蔵書の閲覧にも便宜が図られたことであろう(司馬光は青年時代に夢にまで見て熟読することが敵わなかった南北朝期正史をこの段になって初めて熟読できた…という逸話だけでもいかに恵まれた環境であったかは知れる)。宮中より筆墨御用金が下賜され、雑用係の宦官まであてがわれたというから驚く。
 しかし、《
資治通鑑》編纂が始まった矢先に、それを命じた英宗が崩じてしまった。

 英宗の跡を継いで即位した神宗邇英閣司馬光の《通志》の進講を受けるコトになった(一回の受講につき3頁分、後に4頁半分読み進んだようである)。
 皇帝が代替わりしたことによって《資治通鑑》編纂に影響があっても仕方がない状況ではあったが、神宗はこの講義に感銘を受け、治平4(1067)年に《資治通鑑》の名前を正式に下賜し、同時に、御製〈資治通鑑序〉を与えている。
 この後も神宗

「卿の講読を聴いていると、終日、倦むことを忘れる」

と言うくらいに、この《資治通鑑》の講読を愉しんだという。
 この講読の内容は司馬光が最も得意とする先秦が中心であったので、本当に面白い授業であったに違いない。質疑応答では歴史上の情勢から当時の情勢へ話題も移っただろう。この講義にいたく満足した神宗は、皇太子時代の蔵書・2402巻を気前よく与えている。

 ともあれ、英宗治平3(1066)年から神宗煕寧5(1072)年までの7年間は東京・開封府にて恵まれた状況で編纂された。とはいえ、この時期の司馬光歴史家よりは政治家としての活動が主であり、《資治通鑑》編纂に多くの時間が割けたとは思えない。しかも、これで《資治通鑑》の完成が約束されたわけではない。《資治通鑑》の完成は、題名の下賜より更に十数年の歳月を要したのである。


《資治通鑑》の編集方針と助手 《資治通鑑》執筆状況・中

 さて、これだけ膨大な《資治通鑑》はどのような過程を経て作られたのであろう?
 簡潔に個条書きに記すと

1:史料の採集
2:叢目の作製
3:長編の編纂
4:決定稿の編集


と、大まかに4つの過程を経ることになる。

 史料の採集は説明するまでもなく、宮廷図書館や富豪の所有する史料を細大漏らさず採集したと言うことである(参照した史料は正史・野史・小説を含んで322種に及ぶと研究されている。もっともこのことがすべて評価できることかと言えばそうでもないのだが…)。

 叢目とは事件ないし事項の説明付き見出しを各王朝の暦ではなく、通し暦順に並べた、と言うことであるから、大事年表のようなモノを作ったというコトであろう。

 長編は叢目で上げられた事件・事項を、採集された史料を基に細大漏らさず編纂されたモノである。おそらくはこの段階で、各時代を分担した助手の手によってまとめ上げられ、作者の異なる史料の文章をある程度均一なモノに改められたモノと思われる。そして、この長編を元に司馬光が簡潔な文章にまとめ上げ、相異なる説が複数の史料から出た場合は、司馬光自身が資料に基づいて真偽を判断し、その理由を後に述べる《資治通鑑考異》にまとめ上げた、というところであろう。

 細大漏らさず広範な資料から取材し、卓越した史眼を以て真偽を判断し、冗長な文章を編集して無駄な記事を削っていく…という、この過程が綿密であることこそが《資治通鑑》の最大の特徴と言える。范祖禹がまとめた唐代部分の長編が600巻あったのを、81巻にまで縮めたと言うから、編集過程で作られた長編全体が一体どれほどあったのかと思うと、気が遠くなる。
 後に黄庭堅が校訂に参加した時、司馬光による一字の崩し字も見られない《資治通鑑》の原稿が倉二棟分あったと言う(おそらくは長編の原稿を含んでいたはずである)。量的にも圧倒されるが、司馬光の謹厳な性格も伺える。

 次に、司馬光が《資治通鑑》を編纂するに際して、助手を勤めた人材を見ていこう。

劉攽(1023~1089):戦国並びに秦・漢を担当

 最初、趙君錫生没年不詳)が助手として指名されたが、趙君錫が父の服喪で公務を離れたために《資治通鑑》編纂に参画することになる。
 六経や古代史、とりわけ漢・魏・晋・唐の歴史に詳しかった。兄の劉敞金石学の大家として知られ、子の劉奉世も《漢書》などの研究で知られる学者一家。編纂参加時は44才。
 しかし、王安石新法に反対したことから、煕寧3(1070)年に知曹州として外任に転じたため、実質的には《資治通鑑》編纂からは遠のくことになる。

 個人としての著作に《東漢刊誤》(1巻)がある?


劉恕(1032~1078):魏晋南北朝三国)を担当

 王安石と郷里が近く、面識もあった。若くして科挙に及第し、史学に精通することは司馬光のお墨付きだったとは言え、《資治通鑑》編纂に参加した当初は35才の若さであった。
 魏晋南北朝五代十国の歴史に通暁し、この時代の起草作業に従事。煕寧3(1070)年以降は南康軍現在の江西省星子県)に赴任しながらも《資治通鑑》編纂に従事。中風に冒されながらも執筆を続けるが、元豊元(1078)年、世を去った。特に五代十国に関しては当代一の知識を有していたが、《資治通鑑》の該当部分の完成を見ることなく他界し、その後、五代部分は范祖禹が完成させることとなる。

 個人としての著作に《通鑑外記》(10巻、目録5巻)、《十国紀年》(42巻、散逸)がある。


范祖禹(1041~1098):唐・五代を担当

 劉攽煕寧3(1070)年、外任するに際して入局。司馬光と交友深かった范鎮の親戚。
 《資治通鑑》編纂に参加した当初は劉恕よりも若く30才。主に唐代の部分の起草作業に専心。《資治通鑑》成立後にはその校訂を司馬光に勧めている。

 個人としての著作に《唐鑑》(12巻)、《帝学》(8巻)、《仁宗政記》(6巻)があるが、特に唐代史家として著名であり、唐鑑公と呼ばれた。

 また、三人の他にも司馬光の息子である司馬康(1050~1090)の名も編纂者として上がっているが、どの部分を担当したかは未詳であることも記しておく。
 まず、趙君錫が指名されたが服喪の為に劉攽が代わり、劉攽新法旧法の政争に巻き込まれて外任となったのを機に《資治通鑑》編纂から離れ、その後、范祖禹が《資治通鑑》編纂に後任として赴任し(資治通鑑》編纂後、范祖禹新法がらみで左遷されている)、劉恕も編纂からは遠のかなかったがやはり左遷されており、《資治通鑑》編纂や司馬光自身には新法党の妨害はなかったとは言え、この政争が《資治通鑑》成立に全く影響がなかったとは言えないことが解る。

 もっとも影響があったのは、司馬光自身の転出のために、《資治通鑑》編集書局自体が国都である開封から洛陽に移されたことである。
 司馬光はご存じのように新法旧法の党派争いの余波を受け、自ら地方への転出を申し出て、煕寧3(1070)年に知永興軍・永興軍一路兵馬都総管按撫使治所は長安=現在の陝西省西安市…要するに対西夏戦の拠点なので、西夏問題に強かった司馬光を当てるのはある意味適材適所といえる)となったが、これは対西夏戦の激務であるため、翌煕寧4(1071)年、権判西京留守司御史台判西京留台)に転じ、居を洛陽に移した。書局の移動はこの一年後である。
 以後、煕寧8(1075)年に提挙西京嵩山崇福宮提挙崇福宮)に転じるが、洛陽に居を構えたことに代わりはない。
 おまけに、開封時代と違い洛陽時代の肩書きは閑職と言ってよく、益々《資治通鑑》執筆に司馬光は力を傾けることになる。

 

《資治通鑑》の完成

《資治通鑑》執筆状況・後

 《資治通鑑》を編纂する書局の位置は東京・開封府の宮廷図書館である崇文院の一角にあった。
 そして煕寧5(1072)年から《資治通鑑》完成の元豊7(1084)年までの12年間は西京・河南府洛陽で《資治通鑑》は編纂された。司馬光洛陽赴任の二年後、つまり、洛陽での書局開設の翌年である煕寧6(1073)年に洛陽城内東南の尊賢坊の土地を購入して邸宅を修築し、《孟子》にちなんで独楽園と名付けた。園内には読書堂があり五千巻の書を納めたと言うから、先の黄庭堅が目撃した蔵というのはこの建物であったはずである。また、息子の司馬康も間もなく洛陽に異動となり、編纂作業の助手を務めたことも、心の支えとなったことであろう。
 いくら巨大な蔵があったとはいえ、宮廷図書館に比べれば収蔵書は少なかったはずであるが、特にそれに関することが専書で触れられないところをみると、もしかしたら執筆時期に入っていたから大して問題がないとされたのかも知れない。
 ともあれ、洛陽時代は神宗からは政治的な実績を求められることもなく(この辺の事情はややこしいのであえて省く)、政治的にはほぼ沈黙していたモノの、その毎日は朝早くから執筆を開始し、家人を先に寝かしつけてから遅くまで史書に目を通したと言うから、相当ストイックな生活をしていたようである。

 《資治通鑑》の現行本には各巻の最初に司馬光の肩書きが刷られているため、各紀のある程度の成立時期は解る。
 漢紀とか晋紀と言ったある程度纏まった形で神宗に上程された為、このようなことが起こるのだが、成立年代を知る重要な手がかりになっているのは有り難い。

治平4(1067)年 4月初:〈前漢紀〉30巻→翰林學士朝散大夫右諫議大夫知制誥兼侍講同提舉萬壽觀公事兼判集賢院
●同年 4月下旬~9月下旬:〈周紀〉5巻・〈秦紀〉3巻(従来の《通志》8巻の改訂版)→朝散大夫右諫議大夫權御史中丞充理檢使
●同年9月下旬~煕寧3(1070)年9月下旬:〈後漢紀〉30巻・〈魏紀〉10巻→翰林學士兼侍讀學士朝散大夫右諫議大夫知制誥判尚書都省兼提舉萬壽觀公事
煕寧4(1071)年4月~8(1075)年4月:〈晋紀〉の内1~32巻→端明殿學士兼翰林侍讀學士朝散大夫右諫議大夫充集賢殿集撰權西京留司御史臺
煕寧8(1075)年閏4月~元豊3(1080)年9月:〈晋紀〉の内33~40巻・〈宋紀〉16巻・〈斉紀〉10巻・〈梁紀〉22巻・〈陳紀〉10巻・〈隋紀〉8巻→端明殿學士兼翰林侍讀學士朝散大夫右諫議大夫充集賢殿集撰提舉西京嵩山崇福宮
元豊3(1080)年9月~7(1084)年?:〈唐紀〉81巻→端明殿學士兼翰林侍讀學士太中大夫提舉西京嵩山崇福宮食邑二千二百戸食實封九百戸
元豊7(1084)年11月:〈後梁紀〉6巻・〈後唐紀〉8巻・〈後晋紀〉6巻・〈後漢紀〉4巻・〈後周紀〉5巻→端明殿學士兼翰林侍讀學士太中大夫提舉西京嵩山崇福宮食邑二千六百戸食實封一千戸

 更に大事年表兼目次である《資治通鑑目録》(30巻)、史料の異同を記した《資治通鑑考異》(30巻元豊7年に完成させており、本編294巻に加えると実に354巻になる(その他《資治通鑑釈例》(1巻)と今に残らないが《資治通鑑挙要暦》(80巻)もあったという)。
 司馬光が〈進《資治通鑑》表〉の中で精根尽き果てたと語るのは、決して誇張では無かろうと実感できる分量である。

 《資治通鑑》の完成を待ちわびたであろう神宗

「周末から五代までの古今を貫き、よく編集して一家の書を成した」

と、手放しに司馬光と《資治通鑑》を褒め称えている。
 神宗は《資治通鑑》を読了できたことに満足したかのように、《資治通鑑》完成の翌年に逝去する。

 元豊7(1084)年の完成後も、元豊8(1085)年には国子監から刊行することを前提にして、范祖禹劉安世(1048~1125)や司馬康が《資治通鑑》の中身を再び校訂したが、范祖禹実録の編纂を命じられたことから、翌年、哲宗元祐元(1086)年には司馬光の推薦によって黄庭堅(1045~1105)が校訂に加わり、その年の10月にようやく杭州で開版されたが、最終的に版木が完成するのは元祐7(1092)年になってからである。
 この間、司馬光自身は元祐元(1086)年9月1日に他界しているので、《資治通鑑》の刊本をついぞ見ることはなかった(ちなみに司馬康元祐5年(1090)年、刊本となった《資治通鑑》を見ることなく他界している)。

 このように身命を賭して《資治通鑑》を完成させてなお、司馬光は《資治通鑑》の続編たる《資治通鑑後紀》(未完)の編集準備を進めているし(その成果は《涑水記聞》(16巻)として纏められている)、死の直前である元祐元(1086)年3月に《稽古録》(20巻)を書き上げている。
 これは《資治通鑑》執筆の前に神宗に献上した《歴年図》を核として(稽古録》の巻11~巻15は《歴年図》と同内容である)、巻1~巻10までは上古の伏羲から周・威烈王22(B.C.404)年まで、巻16~巻20は北宋・太祖建隆元(960)年から英宗治平4(1067)年までをまとめ上げ、幼い皇帝・哲宗の帝王学のために書かれた書物である。最後まで、政治としての教育を諦めなかった、温厚だが執念深い司馬光の人間性が見えたような気がする。

 賜名であったとは言え、まさに「治に資し、通じて鑑みる政治の役に立ち、通史を俯瞰して教訓とする)」は司馬光の《資治通鑑》編纂の信念であったのかも知れない。これが、良くも悪くも《資治通鑑》の特徴であり、理念である。名は体を表すとはよく言ったモノである。


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