| ↑主頁 | 2005/1/17 改訂 執筆者: 宣和堂 |
| 《資治通鑑》について | 序論 | |
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自分のインチキ文章に飽き足らない人はこちらの方を当たって欲しい。 中国史の記述は、主に二大司馬によって、方向づけられたと言っても良い。もちろん、一人は司馬遷(B.C.145?~86?)、もう一人は司馬光(1019~1086)である。司馬遷の名前はすぐに出てくるだろうが、ナカナカ司馬光の名前は出てこないのでは無かろうか?下手をすると、もう一人の司馬!と言うと司馬遼太郎と書かれそうだし、日本のお父さん方でそう答える人は多いだろう。 司馬遷は有名である。親子二代にわたる取材を経て、紀伝体を確立した史学者、李陵をかばい、自らも漢・武帝の逆鱗に触れて宮刑に処せられた硬骨漢、そして何よりも、中国の古代を瑞々しく描いた優れた文学者として知られている。 加えて、彼の著述である《資治通鑑》も大部であるために、邦訳も『中国古典文学大系14
資治通鑑選』の様な抄訳が何種類かあるものの、やはり一般には手に入り辛い状況にある。中国史学に与えた影響を日本人は肌で知ることはなかなか難しいと言える。 | ||
| 《資治通鑑》の内容と特色 | 著述範囲と史学史的な意味 |
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先述した通り、《資治通鑑》は大部の史書であり、一般的によく使われている中華書局版の《資治通鑑》はワンセット20冊と云う分量を誇っており、唯一の全訳(と云っても書き下し…)である、『続国訳漢文大成 資治通鑑』国民文庫刊行会 になると、16冊(しかもかなりゴツイ本)という分量になる。 扱われている時代も広汎に渡り、周・威烈王23(B.C.403)年から後周・世宗の顕徳6(959)年までの1362年間である。この書は《春秋》の続きを受けるような形(実際には《春秋》の直後から筆を起こしているわけではないが)で記述が始まり、司馬光の生きた北宋が建国される直前、後周の末までをその守備範囲としている。 それぞれ、周紀(5巻)、秦紀(3巻)、漢紀(60巻)、魏紀(10巻)、晋紀(40巻)、宋紀(16巻)、斉紀(10巻)、梁紀(22巻)、陳紀(10巻)、隋紀(8巻)、唐紀(81巻)、後梁紀(6巻)、後唐紀(8巻)、後晋紀(6巻)、後漢紀(4巻)、後周紀(5巻)と言う名前が与えられている(合計:294巻)。数字をあげてみただけでも圧倒されそうな分量である(当然、記述には十六王朝以外の同時代に存在したあまたの王朝も含まれる)。 司馬光の狙いは、この16王朝が存在した時代を俯瞰的に見られる書物を作ることにあった。 この間の通史を把握しようとすると、一つの事件が複数の人物の伝に分けて書かれる(もしくは相反する事実が記述される)紀伝体特有の記述に振り回される事になる。又、魏晋南北朝や五代十国などの分裂の時代を把握しようとすると、複数の史書に目を通さなくてはならないことになり、これも煩雑である。こと分裂の時代を把握しようとすれば、紀伝体の史書で通史的な流れを理解するのは困難な作業であると言える。 | |
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また、《史記》が史官の司馬遷の著作とはいえ、いわば私家版であったのに対して、《資治通鑑》はその最初期から勅撰、つまり、皇帝の命を受けた公的事業として作業が進められている。 さて、それでは司馬光がどういう経緯で《資治通鑑》の執筆に携わったのか見て行こう。 | |
| 《資治通鑑》の執筆開始 | 《資治通鑑》執筆状況・前 | |
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まず、英宗の治平元(1064)年、当時、知諫院の位にあった司馬光は《歴年図》(5巻)を献上している。 英宗の跡を継いで即位した神宗は邇英閣で司馬光の《通志》の進講を受けるコトになった(一回の受講につき3頁分、後に4頁半分読み進んだようである)。
と言うくらいに、この《資治通鑑》の講読を愉しんだという。 ともあれ、英宗の治平3(1066)年から神宗の煕寧5(1072)年までの7年間は東京・開封府にて恵まれた状況で編纂された。とはいえ、この時期の司馬光は歴史家よりは政治家としての活動が主であり、《資治通鑑》編纂に多くの時間が割けたとは思えない。しかも、これで《資治通鑑》の完成が約束されたわけではない。《資治通鑑》の完成は、題名の下賜より更に十数年の歳月を要したのである。 | ||
| 《資治通鑑》の編集方針と助手 | 《資治通鑑》執筆状況・中 | ||||
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さて、これだけ膨大な《資治通鑑》はどのような過程を経て作られたのであろう?
史料の採集は説明するまでもなく、宮廷図書館や富豪の所有する史料を細大漏らさず採集したと言うことである(参照した史料は正史・野史・小説を含んで322種に及ぶと研究されている。もっともこのことがすべて評価できることかと言えばそうでもないのだが…)。 叢目とは事件ないし事項の説明付き見出しを各王朝の暦ではなく、通し暦順に並べた、と言うことであるから、大事年表のようなモノを作ったというコトであろう。 長編は叢目で上げられた事件・事項を、採集された史料を基に細大漏らさず編纂されたモノである。おそらくはこの段階で、各時代を分担した助手の手によってまとめ上げられ、作者の異なる史料の文章をある程度均一なモノに改められたモノと思われる。そして、この長編を元に司馬光が簡潔な文章にまとめ上げ、相異なる説が複数の史料から出た場合は、司馬光自身が資料に基づいて真偽を判断し、その理由を後に述べる《資治通鑑考異》にまとめ上げた、というところであろう。 細大漏らさず広範な資料から取材し、卓越した史眼を以て真偽を判断し、冗長な文章を編集して無駄な記事を削っていく…という、この過程が綿密であることこそが《資治通鑑》の最大の特徴と言える。范祖禹がまとめた唐代部分の長編が600巻あったのを、81巻にまで縮めたと言うから、編集過程で作られた長編全体が一体どれほどあったのかと思うと、気が遠くなる。
また、三人の他にも司馬光の息子である司馬康(1050~1090)の名も編纂者として上がっているが、どの部分を担当したかは未詳であることも記しておく。 | |||||
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《資治通鑑》を編纂する書局の位置は東京・開封府の宮廷図書館である崇文院の一角にあった。
更に大事年表兼目次である《資治通鑑目録》(30巻)、史料の異同を記した《資治通鑑考異》(30巻)も元豊7年に完成させており、本編294巻に加えると実に354巻になる(その他《資治通鑑釈例》(1巻)と今に残らないが《資治通鑑挙要暦》(80巻)もあったという)。 《資治通鑑》の完成を待ちわびたであろう神宗は
と、手放しに司馬光と《資治通鑑》を褒め称えている。 賜名であったとは言え、まさに「治に資し、通じて鑑みる(政治の役に立ち、通史を俯瞰して教訓とする)」は司馬光の《資治通鑑》編纂の信念であったのかも知れない。これが、良くも悪くも《資治通鑑》の特徴であり、理念である。名は体を表すとはよく言ったモノである。 | |||