琉球紀行 初めての沖縄旅行
6 突然の歴史講座 沖縄の城=グスクについて
中城城跡(国指定史跡)
2000年12月に世界遺産に登録される。沖縄東海岸中部の中城湾にそった標高167メートルの高台上に、 北東から南西にほぼ一直線に連郭式に築かれた城です。さきの第二次大戦でも戦禍を
まぬがれ、もっとも原型をとどめていることで有名です。
また、眺望の地としても知られ、城跡に立つと西は東シナ海を望み、東は中城湾(太平洋)から勝連半島、知念半島、さらに周辺の洋上の島々までも見渡すことができます。規模も大きく、面積は122,399平方メートルにおよび、古くから観光の名所となっています。
中城城は、尚泰久王(しょうたいきゅう)時代(1454年~1460年)に、護佐丸(ごさまる)が築いた城とされていますが、はっきりとした年代は不明です。城は多郭式で六つの城郭から成り、南は断壁、北は急傾斜地になっています。城壁は、自然の岩石と地形をたくみに利用した曲線の美しい石壁で囲まれており、一の郭・二の郭が布積みの「石切積み」
、
三の郭は「亀甲乱れ積み」の二通りの手法を用いています。
表門を入ると一の郭、二の郭、三の郭と続き、首里城を遥拝したり、雨ごいのための御獄など、いたるところに拝所があります。
琉球石灰岩を使った城壁は、沖縄では唯一完全に近い形で残された貴重な遺跡で、1972年5月には国の史跡に指定されています。
勝連城跡(国指定史跡)
与勝半島のほぼ中央にあり、60~100mの高い丘に城壁がそびえたつ。自然の断崖を利用した難攻不落の城である。小山の頂を城域とし、見事なまでの石垣で固めてある。沖縄本島最古の城郭の一つとされる。現在、城跡は史跡として整備されている。沖縄本土復帰の1972年(昭和47年)5月15日に国の史跡に指定され、2000年(平成12年)12月には国連世界文化遺産にも登録。このため一部破損箇所のあった石垣も見事に復元され、第一級の保存度を誇っている。
勝連城は、南城(ヘーグシク)、中間の内、北城(ニシグシク)と呼ばれる三つのエリアから成る、二つの台地とその間の平地を取り囲んで築かれた大規模な城である。中間の内と南城は、城壁が根石を残すのみでほとんど残っていないので、一般には高くそびえる北城だけが勝連城だと思われているが、実際はかなり大きな城だ。北城は一番高いところから一の郭、二の郭、三の郭と段々低くなり、四の郭中間の内にあたる。そして南郭で再び高くなる。二の郭に殿舎跡があり、四の郭には大正時代までアーチ型の門が残っていたという。
はっきりした築城年代は不明だが、発掘調査によって宋代の磁器が出土していることから、13世紀末~14世紀初めに築城されたものと考えられている。全盛期は14世紀末~15世紀前半で、首里王府に匹敵するかなり強い勢力だったことが伺える。
また、一の郭以外からは15世紀後半~16世紀の陶磁器も出土しており、阿麻和利が滅んだ1458年以降も、1526年に尚真王が行った各按司の首里集居までは使われていたことがわかっている。
護佐丸・阿麻和利の乱
15世紀前半、最後の城主阿麻和利は、その人望から民衆に推されてクーデターを起こし、勝連城10代目の城主になったと伝えられている。そして、1458年に策略を使って中山王尚泰久王(しょうたいきゅう)の首里王府を動かし、忠臣の誉れ高い中城城の護佐丸を滅ぼした後、首里城を攻める計画を立てていたところを首里王府に知られて攻め滅ばされた。
とされているが、実際は「統一間もない首里王府の権力は完全ではなく、各地に有力な按司(豪族)がそれぞれ勢力を持っており、護佐丸や阿麻和利はその中でも最も力のある勢力だった。そして首里王府の策略によってその2大勢力が滅ぼされた」というのが真相らしい。 続く