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「人は草」のイザヤ預言 『旧約聖書』のイザヤ書(四十・6/8)で「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主の息吹きがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが私達の神の言葉は永遠に立つ」 預言者イザヤはこのように「人は草」と表現している「人は草」という表現方法は『古事記』の黄泉の国からのイザナギの帰還で、イザナギの言葉に「青人草」があり、イザナミの言葉に「汝の国の人草」があって「全ての人を草」と表現していることに符合している。 『古事記』のイザナギ・イザナミの「青人草」と「汝の国の人草」の言葉は預言の言葉として用いているのだ。 『旧約聖書』のイザヤ預言と『古事記』のイザナギ・イザナミの預言の言葉が、「人は草」・「青人草」・「国の人草」という表現をしていることと、イザヤとイザナギ・イザナミの「イザ」の一致も全くの 偶然ではないこれは『古事記』の作者が『旧約聖書』のイザヤ書を知っていたからこそ出来た芸当なのだ。 『古事記』で「青人草」が書かれているのは、黄泉の国からイザナギが逃げて来て、桃の子三個を黄泉 軍に投げつけて、黄泉軍が退散するのだが、桃の子に向かってイザナギが預言(命令)するのである。 「汝、吾を助けしが如く、葦原中国にあらゆる現しき青人草の、苦しき瀬に落ちて患い悩む時、助くべし」と言って、桃の子に意富加牟豆美という名を与えた。 『日本書紀』では黄泉の国の一書第九に、黄泉の国から逃げるイザナギが桃の木の下に隠れて、桃の実 を雷に投げつけて、雷が皆逃げていったことが書かれ、その時に杖を投げて「ここからこちらえ雷は来 ることは出来ない」と言って、杖に名が与えられている。岐神(フナトの神)という。元の名は来名戸 (クナト)の祖神(サエの神)というと書かれている。『古事記』では衝立船戸神と書かれ、祝詞には久那戸(クナト)と書かれているところを見ると、クナトが本来の名である。 『古事記』では桃の子に名が与えられ『日本書紀』では杖に名が与えられているのだ。桃の子に与えられた意富加牟豆美の名の頭文字の「意」は、お伽話の桃太郎の三家来の猿・犬・雉のそれぞれを象徴する智・情・意の中の雉の象徴する「意」であることだ。ようするに意図があることを示唆している。 雉は我が国の国鳥であり、現在の一万円札にも描かれているし、日本の年号の始まりである大化の次の白雉に使われているほど重要な鳥である。 イザナギの名の「ナギ」は、三種の神器の草薙の剣の「薙」でもあって「薙」の漢字から草冠をなぎ 払えば「雉」の漢字になる。草薙の剣は大和建命が草を苅り払った故事に因んだ名であり、元は叢雲の剣である。大和建命の名は大和建国の意図の象徴であり、草薙の剣と名を変えたからには、それ相当の意図があった。 ようするに、草薙の剣の「薙」の漢字の草冠をなぎ払えという暗号であり「雉」を家来にした桃太郎に、大和建国の意図の奥義が渡されたのである。 イザナギは桃の子の威力によって、黄泉の国から無事に帰還したわけだが、桃の子は桃太郎に変身し、桃の子に命名された意富加牟豆美の名の頭文字の「意」の象徴である雉を家来にした。イザナギの黄泉からの帰還は、黄泉帰りであり、漢字を変えれば「蘇り」となる。 『旧約聖書』のエゼキエルの預言に、イスラエル十部族の蘇る預言がある。墓を開いて、墓からイスラエル十部族を生き返らせる預言である。この預言とイザナギの黄泉帰りと、桃太郎のお伽話と、草薙の剣がリンクしていることになる |