妙法蓮華とマナの壺の正体

漢字の楷書の正字のことを真字(マナ)と言うが、鑑真の名に字を加えると「鑑真字」となり「真字鑑(マナカガミ)=真字鏡」となる。マナと言えばユダヤの三種の神器の一つであり、出エジプト後のモーセ一行の飢餓を救った食べ物を入れた壺のことだが、マナの壺のマナは「何だろう?」という謎かけの意味の言葉とされているのだ。

古代インドでは、黄金の単位がマナであったし、日本では漢字の楷書の正字をマナと呼んだ。ユダヤではマナの壺の食べ物のマナ(何だろう)は、大勢の人々が食べても翌日には供給されているという不思議な食べ物だった。日本でも真魚鰹の「真魚(マナ)」は食べ物である魚を示している。

日本のまな板の「マナ」も食べ物に関する名であり「学(マナ)ぶ」は「真字(マナ)ぶ」のことで、漢字の楷書の字を学ぶことが語源であり「字」の漢字から「学(學)」の漢字が出来ている。

さらに物部氏の祖の海部氏の祀る丹後一宮の籠神社の奥宮には真名井神社があり、「真名(マナ)」という言葉が神に関係している。真名井の「真」は鑑真の「真」であり、真字(マナ)の「真」でもあって「真名=真字」である可能性が高い。

さらにだ、日本語にはマナコ(眼)という言葉があって、ユダヤのマナの壺の「マナ」に符合する言葉が真魚・俎板・真字・学・真名・眼と六つもあるということは尋常ではない。「学」は「真字」が語源であったから除外すると、真魚・俎板・真字・真名・眼の漢字に共通するのが「目」となる。

「目」は天照大神と月読神がイザナギ神の目から生まれたことに関係し、観音の原名の金星神イナンナの象徴の六芒星は籠目と言われ、籠神社の「籠」と真名井神社の真の漢字の中の「目」の合体も籠目であった「目」の漢字もマナコと読み、真魚・俎板・真字・真名・眼のマナに関係する言葉が、すべて天照大神と月読神がイザナギ神の「目(マナコ)」から生まれた神話に関連していることがわかる。

妙法蓮華の妙は、明けの明星の金星の「明」のことであって「明」は天照大神と月読神の「日・月」を示している。天照大神と月読神は「目(マナコ)=眼」から生まれた。マナの壺の「壺」は「コ」と音読みする。マナの壺は契約の櫃に納められていた。「櫃」に納められた「匚」の中身の「貴」の漢字も、中央に「目」が隠されていた。

マナ壺は日本では「眼(マナコ)」という暗号となって、封印された。

「眼」の漢字は天照大神の生まれた左目(籠目)を示すように左に目があり、右には艮の金神を示す「艮」の漢字がある。真実の艮の金神とはマルドゥークが授けられた神々の支配のシンボルのシムトゥのことであり、月神シンと太陽神ウトゥを象徴する鏡であった。これが真字鑑(マナカガミ)であり、漢字の楷書を生む亀鑑と呼ばれる物で、天照大神を象徴する八咫の鏡であったし、釈迦の説いた妙法蓮華鏡でもあった。

八幡神の正体と太秦の語源

八幡神信仰と弥勒信仰

八幡信仰の総本山の宇佐八幡宮(宇佐神宮)の一之御殿の八幡大神が祀られたのは、紀元725年(神亀2年)であり、二之御殿の比売大神が祀られたのは八年後の天平5年であった。

八幡信仰は御許山を神奈備山とし、御許山には奥宮の大元神社がある。八幡神は紀元571年に大神比義が、菱形池ほとりの笹の上で光りを発する三才の童子を観得したことに始まるとされているが、元来は下賀茂神社の祭神の建角身命の子の玉依彦(宇佐津彦)と玉依姫(宇佐津姫)を祖とする宇佐氏の石信仰が始まりであった。御許山の三つの巨石を聖石として崇拝していた宇佐氏の信仰と新羅系帰化人の辛嶋氏の鉱業神を主神としていた信仰の融合によって始まった。 比義伝説の、三才の童子が「我は誉田天皇(応神天皇)、広幡八幡麻呂なり」と告げ、金色の鷹となったり、金色の鳩になったりして止まった地に、鷹居瀬社を建てられたのが708年(和銅元年)で、現在地に遷座されたのが、一之御殿の創建の時になる。

宇佐八幡宮の現在地への創建は、宇佐氏一族の僧の法蓮によってなされ、法蓮は八幡宮の神宮寺となった弥勒寺の別当職ともなった。弥勒寺の創立は虚空蔵寺と法鏡寺とが合体したことに始まり、金堂は大神氏、講堂は宇佐氏が統括した。天平9年(727年)弥勒寺は神宮寺となり、翌年には国分寺となった。

三輪山の三輪氏の出身の大神比義が、八幡神と応神天皇を同一神としたことで、奈良朝中期からは八幡神=応神天皇の説が一般化することになるが、それ以前の八幡神は宇佐氏の崇拝する神奈備山(御許山=馬城峰)の石神崇拝であり、辛嶋氏の鉱業神の崇拝が主力であったし、辛嶋の「辛」は「加羅」を示していた。宇佐地方は仏教の伝来が早く、神仏混合も奈良朝以前に始まっていたと言われている。

『法華経』の妙法蓮華から法蓮の僧侶名が作られ、八幡神の菩薩名の護国霊験威力神通大自在王菩薩も、『法華経」の一節の「神通自在」から取ったものだった。

弥勒寺の前身であった虚空蔵寺の名は、『古事記』の山幸彦の別名の虚空津彦の由縁となり、法鏡寺の名が『妙法蓮華経』の「法経」を「法鏡」であることを示唆していた。ようするに『妙法蓮華経』とは「明法蓮華鏡」であり「明宝蓮華鏡」という太陽と月を象徴する花模様の鏡のことになる。

弥勒寺の名の弥勒はアッカド・バビロニア神話の主神マルドゥークのことであり、マルドゥークの持っていた神々の支配のシンボルのシムトゥが明宝蓮華鏡であった。虚空蔵菩薩は摩尼宝珠(如意宝珠)を仏格化した仏であり、如意宝珠とは妙法蓮華鏡のことである。山幸彦は海神ワタツミから塩盈珠と塩乾珠を授けられた。これが如意宝珠であり、妙法蓮華鏡だったことになる。

シュメールとヒッタイトの八幡神

著者の住む飛騨宮村に位山と呼ばれる聖山がある。万葉集でむらさき山と歌われ、標高1,500mほどの秀麗な山である。山の容姿がピラミッド型をしていることもあって、日本のピラミッドの一つとも言われている。頂上には天の石戸と呼ばれる巨石があり、飛騨一宮の水無神社の奥宮となっている。

頂上まで続く登山道には多くの巨石群が連立していて、シュメールやケルトの遺物と考えられていて『竹内文献』の富山の皇祖皇太神宮の大元宮があった所とも言われている。

位山の麓にあたる渡瀬地区に大森神社というひなびた神社がある。元一宮である。大森神社という名称は出雲の神奈備山の麓に必ずある神社の名称で、出雲では王守神社・王森神社とも書いている。位山は出雲系民族が富山の神通川沿いに上って来て、神通川の源流である位山を神奈備山としたものと考えられる。その証拠に水無神社の祭神は出雲のスサノオ神の子の大歳神の娘の御歳神となっている。

位山の巨石群から「 」と「井」と「 」のペトログラフが発見され、「 」と「井」はシュメールの太陽神を象徴する図形文字で、「井」は齊部(忌部)文字記号で数字の五を表す図形でもあり、「 」は牛神(牛頭天王)を象徴するとともに、やはり太陽神を表す図形文字であり、「井」は真名井の井である。

位山の南20kmほどの所に位山八幡宮(岐阜県益田郡萩原町山之口)がある。ここも神体山がピラミッド型をしていて、巨石群が連立している。古代ではおそらくピラミッド型の山容の山を位山と名づけ、神奈備山としたのだろう。この近くの郷土史家に聞いたところ、山之口の住民の言い伝えでは、位山八幡神社の「八幡」の語源は「ハティム・アン」であると言う。

「ハティム」の「ハティ」は「ハッティ」と言われたシュメール時代にシュメールの都市国家群の西北に隣接して国家を構えていたヒッタイト王国の民族の原名である。

ハティの英語読みがヒッタイトで、ヒッタイト王国は鉄の発明と騎馬民族で有名であり、『旧約聖書』の「ヘテ人」の国であり、エジプトでは「ヘタ人」と呼ばれた。古代イスラエル王国のソロモン王の母がヘテ人のバテ・シヴァであったから、ソロモン王にはヒッタイト騎馬民族の血が流れていたことになる。

ソロモンの名がモンゴル語では「ツォロモン」となって、明けの明星の金星を指す言葉に転用されている。ソロモン王は金星と太陽を象徴する六芒星をソロモンの封印として使用していた。このことが騎馬民族によって、モンゴル地方に伝わった。さらにハティム・アンの「ム」はアッカドのナラム・シン王の「ム」と同じで「の」「と」の意味の接尾語であり「ナラ」は光り輝く太陽を示し、日本の奈良になった。

ヒッタイト人とフルリ人

ユダヤ教やキリスト教の神(全能者=シャダイ)は、シュメールの天空神アンの別名の山に住むエル(エル・ハル・シャダイ)のことである。この「アン」が、安倍氏や平安京や天の安河の「安」になるが、イスラエルとエルサレムの「エル」がエル神(アン神)のことで、エルサレムが平安の意味であることにもつながるのだ。

天空神アンはアンシャル(天霊)とキシャル(地霊)から生まれている。天霊と地霊はアプスー(真水)とティアマト(塩水)から生まれている。このティアマトはアッカド神話のエヌマ・エリシュ(神々の戦争)で子孫であるマルドゥークに捕らえられ、魔力ある怪剣で身体を二つに切られ、一方は天空になり、一方は下界の水に被せて大地にされた。これが天地開闢である。

ところが、ヒッタイト神話のクマルビ神話では、ヒッタイトの先住民のフルリ人の神のクマルビの精子を受けて、石から生まれた怪物のウルリクムミがどんどん大きくなり、背丈が天上界まで達し、イシュタル女神が誘惑したが成功しなかったが、智恵の神のエア(エンキ)がマルドゥークの怪剣で、ウルリクムミの巨大な足を切って打ち倒したという。この二つの神話のティアマトとウルリクムミが合体して、インドのプルシャ神話・中国道教の磐古神話・北欧のユミル神話になった。

ヒッタイト王国の先住民族のフルリ人は、『旧約聖書』でホリ人と記されている。フルリ人はノアの方舟がアララト山に漂着したとされるアララト山麓のウラルトゥ地方(アルメニア地方)に住んでいた。アララトがウラルトゥの語源である。アララト(ウラルトゥ)は高地(高いところ)の意味で、位山の一位の木(アララギ)から作った笏を応神天皇以来代々の天皇の即位に献上する習わしがあるのは、天皇家がアララト山に漂着したノアの子孫のイスラエル王家であることを記憶するためである。アララト(高い山)とアララギ(高い木)のアララの符合がこれを的確に物語っている。

ヒッタイト神話の石の怪物のウルリクムミは、万物が生まれたとされるエルサレムの地下にある聖なる岩と重なり、ゲルマンの巨人ユミル・インドの巨人プルシャ・中国の巨人磐古となって、あげくの果てに我が国の神道の一大勢力であった物部氏の氏神の石上神宮の石神となった。 

石上神宮の楼門上に掲げられた額の「萬古猷新」の文字は「萬古名を新たましむ」と読むが、これは「磐古猷(猶)神」のことで「磐古は猶太(ユダヤ)の神」であることを「萬古」という新しい名に変えたことを示しているのである。

「猷」の漢字の意味は「はかりごと」がしてあることを示し「猷」の同音漢字の「猶」を充てれば、猶太(ユダヤ)となることを想定して書かれていたのだ。

フルリ人とホリ人

フルリ人の石の怪物ウルリクムミがフルの御魂を祀る石上神宮の萬古神(磐古神)になった。饒速日命の別名のフルはフルリ人を示していることになる。丹後一宮の籠神社の宮司を務める海部氏の系図によれば、天照国照彦天火明奇甕玉饒速日命の別名がホホデミノミコトでもあるから、山幸彦のホオリノミコトと同一神となる。ホオリがフルリ人を『旧約聖書』でホリ人と記した民族名を示し、アララト山麓の高地に住んでいたホリ人のことを山幸彦としたわけだ。

フルの御魂と大物主神は同一神であったし、饒速日命の正式名に天照が充てられていることから、饒速日命=フルの御魂=大物主=天照大神という等式になり、天照大神を象徴する八咫鏡はフルの御魂の別名の天下万物聚類化生大元乃神宝に相当することになり、その正体は大和大物主奇甕玉命と呼ばれる物で、大和大物とは、「大+大」=「☆十☆」=十芒星デカグラムの図形の描かれた物であり、奇甕玉と呼ぶ玉であった。これは大大和国玉命(大倭国魂命)と呼ばれる物とも同じ物で、十芒星の描かれた玉であったが、大大和=大和大=大山和(山和大)=☆の描かれた三角形△の和を示し、△+▽=六芒星となり、六芒星の中に十芒星が描かれた玉が大和大物主奇甕玉命(大大和国玉命)であり、天下万物聚類化生大元神宝だった。

マルドゥークは神々の支配のシンボルのシムトゥと魔力ある怪剣を持っていた。そして日本神道の最高の祭主である天皇家では、支配のシンボルの八咫の鏡と草薙の剣を三種の神器の二種としているし、日本神道の大元である物部氏の祀る石上神宮には天下万物聚類化生大元乃神宝があり、霊力ある神剣フツの御魂があった。シムトゥと神道は同じであり、シムトゥが八咫鏡(天下万物聚類化生大元乃神宝)であり、魔力ある怪剣が草薙の剣や神剣フツに相当することになる。

フツの御魂とフツシ御魂という石上神宮の剣神は、スサノオ神の父の名のフツとスサノオの別名のフツシを示し、フツシとはフツの子の意味になる。フルリ人の都市国家のヌーズーの近くにスーサという都市国家があったが、スーサの王をスサノオと呼んだことが定説になっているのも、当然のことなのだ。

マルドゥークは国土の中心に聖殿を造りバビロンと名づけた。これはバーブ・エル(イル)のことで、天神アン(エル)の門の意味であり、バビロンのイシュタル門には、天神エルと風神のエンリル(ハル神・バァル神)の紋章の十六菊花紋があった。アッカドのナラム・シン王の戦勝碑(フランスのルーブル博物館蔵)にも太陽を象徴する十六菊花紋が彫り込まれていた。日本の皇室の紋章はシュメールのアッシュールナシルバル二世像の腕輪の紋章とアッカドのナラム・シン王の戦勝碑の紋章の十六菊花紋につながっていて、日本の皇室がシュメール・アッカド・バビロニアと確実につながりがあることを示している。

そして物部氏は『源平盛衰記』や『新撰姓氏録』では古代のインドのマガダ国から来たことになっている。これはイスラエル王国の滅亡とともにシュメールの王族がインドに亡命したことを物語っている。

ヒッタイト王国の首都 ハットウサ

紀元前2,000年頃黒海の南、チグリス・ユーフラテス河の北西部のアララト山の南西部のアナトリア地方にヒッタイト民族が侵入して、ルウィ人やバラ人というインド・ゲルマン民族語系の原語を話す先住民族を征服して、ヒッタイト古王国を建てて、王都をハットウサに定めたのが紀元前1,750年頃であった。紀元前1,400年頃にはヒッタイト帝国と言われるまでの隆盛を極めたのだが、紀元前700年頃にはアッシリアの侵攻によって歴史の表舞台から姿を消した。丁度イスラエル十部族の北王国もこの頃アッシリアによって滅亡し、イスラエル十部族がスキタイ騎馬民族によって忽然と姿をくらました時代に相当するから、スキタイ騎馬民族の中にヒッタイト騎馬民族が吸収されていた可能性もある。

ハットウサ(現在のボガズキョィ)で発見されたボガズキョィ文書版(一万枚の粘土板は、シュメール語・アッカド語・ヒッタイト語・ルウィ語・バラ語・ハッティ語・フルリ語の七種の言語が書かれていたことから、ヒッタイト帝国は七種類の言語を話す民族の居住する複合国家であったことが判明した。

しかし、ヒッタイト語とハッティ語という二つの言語が発見された以上、ヒッタイト人とハッティ人が同一民族ではないという危惧も抱くが、ヒッタイトはハッティの英語読みで、『旧約聖書』のヘテ人のことで、エジプトではヘタ人と呼ばれた民族のことだから、アナトリア地方に侵入したヒッタイト民族も先住のハッティ人も同一民族だったと言える。

おそらくアナトリア地方に侵入したヒッタイト民族は、先発のハッティ人の誘導のもとで進出が行われた可能性が高く、それまでルウィ人やバラ人やフルリ人などと長年過ごした先住のハッティ人の言語は、後に侵入して来るハッティ人の言語と違っていても、なんら不思議はない。

同一民族でも、住む所が離れていて、他民族と共存していれば、言語に違いが生ずるからだ。

さて、ヒッタイト王国の都のハットウサには、ヒッタイト王国の神を祀る神殿があった。現在でも神殿の遺構が残っているが、ハットウサの「ハット」は「ハッティ」のことで、「ウサ」は「ウシャ」のことで「神殿(社)」の意味だった。

このことから、我が国の秦族の本拠地の宇佐八幡宮の語源がウシャ・ハティム・アンであり、その意味はヒッタイトの天神アンの社であったことがわかる。さらに秦氏の「秦」を「シン」と読むのは、月神シンの信奉民族であったことを示し「ハタ」と読むのは、ヒッタイトの原名のハッティが「ハティ・ハット・ヘテ・ヘタ」と呼ばれ、これが「ハタ」に変化したと考えられ、韓国語のパタ(海)を語源とするより自然である。

秦氏は八幡神の象徴として鳩を、賀茂大社の象徴として八咫烏を伝説にしているが、鳩も烏もノアの方舟から飛び立った鳥だった。