● 律令制が日本に導入されると、「繼嗣令」の規定「凡皇兄弟・皇子皆爲親王」により、天皇(女帝を含む)の兄弟・男子は親王に、姉妹・女子は内親王となることが定められた。 ◎『令集解』十七「繼嗣令」 ● 天平寶字二年(七五八)八月一日に舍人親王の男子 大炊王が即位(淡路廢帝のち淳仁天皇)した後、天平寶字三年(七五九)六月十六日、詔により、天皇の兄弟姉妹の王・女王は悉く親王となった。また、寶龜元年(七七〇)十月一日に志貴親王の男子 白壁王が即位(光仁天皇)した後、寶龜元年(七七〇)十一月六日、詔により、天皇の兄弟姉妹諸王子は悉く親王となった。なお、光仁天皇の即位より以前に卒去した兄弟についても親王の號が與えられ、その諸子も孫王として待遇されたようである。但し、これらの詔は、諸王から即位した天皇の兄弟・姉妹・子女に對し「繼嗣令」の規定を適用するためのものであり、親王宣下の制とは意味合いが異なるものである。 ◎『續日本紀』天平寶字三年六月庚戌 ◎『續日本紀』寶龜元年十一月甲子 ●「繼嗣令」の規定にもかかわらず、天皇の庶子のなかには親王の號を與えられず臣籍に降ったという事例が見出されるが、平安時代の初期に至るまで、それは例外的であった。しかし、弘仁五年(八一四)五月八日、嵯峨天皇が詔して一部の子女に源朝臣を賜姓して臣籍降下させてより以來、天皇の子女でも特に勅裁を經た者に限って親王・内親王の號が與えられることとなり、それが慣例化して、親王宣下の制が確立した。 ◎『類從三代格』十七「國諱追號并改姓名事」 ● 仁和三年(八八七)八月二十五日、光孝天皇の男子の源朝臣定省が親王宣下を蒙り皇族に復歸し、翌日立太子、即日受禪(宇多天皇)した。これは かなり特殊な事例であると言うことができるが、それ以降、賜姓一世(天皇の子)源氏が親王宣下によって親王となるという事例がしばしば見られるようになった。 ● また、出家後の上皇(法皇)から生まれた男子が、その近親の天皇または上皇の子となって親王宣下を蒙る(宇多法皇の男子 雅明親王と行明親王、花山院の男子 昭登親王と清仁親王)という事例や、二世(天皇の孫)の皇族が既に崩御した祖父なる天皇の子として親王宣下を蒙る(三條院の一男 小一條院(敦明)の子女)という事例が現れた。また、後三條院の孫で輔仁親王の女子である守子内親王は、伊勢齋宮に卜定された際に白河院の子となったものである。 ● 承徳三年(一〇九九)正月十一日、白河院の男子である僧覺行[仁和寺]が親王宣下を蒙った(覺行法親王)。この所謂「法親王宣下」は、以後、江戸時代の文化五年(一八〇八)四月二十八日に僧正承眞[梶井門跡]が親王宣下を蒙るまで、天皇または上皇の男子・男孫・猶子・養子の僧(門跡)に對して連綿と續けられた。しかし、江戸時代には、皇族出身の門跡の親王宣下は、出家以前に先ず親王宣下を蒙ってから入寺・得度するという例の方が壓倒的に多くなる。なお、しばしば、前者の親王(出家後に親王宣下)を「法親王」、後者の親王(親王宣下の後に親王宣下)を「入道親王」と稱して區別することがあるが、實はこの區別は固定的なものではないばかりか、時に相反する事例さえ見られ、あまり適切なものとは考え難い。時代ごとの具體的な用例を檢討する必要があろう。また、出家後の皇族女子に對する親王宣下は數例が知られているが、いずれも俗名を以て宣下が行われている。 ◎ 牛山佳幸「入道親王と法親王についての覚書」(『史観』第百十冊、昭和五十九年(一九八四)三月、一六〜二六頁) ● ところで、平安時代後期以降、天皇の男子たる一世の皇族が元服したにもかかわらず親王宣下を蒙らずに終ったという事例としては、後白河院の男子 以仁王(武装蜂起の後、源朝臣を賜姓される)や、順徳院の男子 忠成王[岩藏宮]の例があるが、いずれも政治的な状況のもとに親王宣下が忌避されたものであり、例外的な事例であると言うことができよう。 ● 文永十一年(一二七四)三月二日、後鳥羽院の孫で雅成親王の男子の天台座主前大僧正澄覺[梶井門跡]が、皇孫(二世)男子にして天皇または上皇の子となることなく、初めて親王宣下を蒙った。また、征夷大將軍に任じられた二世源氏 源朝臣惟康および二世 守邦王が、やはり天皇または上皇の子となることなく親王宣下を蒙ったという事例がある。尤も、これらについては、天皇の猶子になったという記録が殘されていないだけである可能性もあるので注意が必要であろう。 ● 鎌倉時代後期より以降、親王の子孫が、天皇または上皇の養子または猶子として代々親王宣下を蒙るという世襲親王家が成立した。この制は、明治十九年(一八八六)五月一日の依仁王[小松宮繼嗣]の親王宣下に至るまで繼續した。明治二十二年(一八八九)二月十一日、皇室典範が制定され、皇族の養子が禁止された結果、天皇の子女以外が親王宣下を蒙って親王となる制も自然消滅の形で終焉を迎えた。 ● 天皇の子女については、慶應四年(一八六八)閏四月十五日、皇兄弟・皇子は皆親王となすと定められた。その後、明治八年(一八七五)一月十八日、天皇の男子には「某仁」、女子には「某子」と命名し、嫡出の場合は命名の即日親王宣下を行ない、庶出の場合は生後百日あるいは滿一年に「叡慮ヲ以テ」親王宣下を行なうよう、定められた。しかし、翌明治九年(一八七六)五月三十日、天皇の子女は親王宣下に及ばず直ちに親王・内親王と稱されるようにとの布告が出され、以後、今日に至っている。 ◎『法令全書』明治元年 第三百九 ◎『公文録』明治八年 左院之部 ◎『太政官日誌』明治九年第五十三號 五月三十日 ● なお、明治二十二年(一八八九)二月十一日制定の『皇室典範』の規定によると、「天皇支系ヨリ入テ大統ヲ承クルトキハ皇兄弟姉妹ノ王女王タル者ニ特ニ親王内親王ノ號ヲ宣賜ス」とされ、また、昭和二十二年(一九四七)一月十五日改定の『皇室典範』の規定によると、「王が皇位を繼承したときは、その兄弟姉妹たる王及び女王は、特にこれを親王及び内親王とする」とされる。 ● 親王宣下については、
● 若干、誤りがあろうかと思われるが、順次、訂正していきたい。
更新日時 : 2003.01.24. 公開日時 : 2001.09.02. | ||||||||||||||||||