尊傳親王は、後土御門院の二男で、後柏原院の同母弟にあたる。 『 本朝皇胤紹運録 』 によると、
そこで、飯田忠彦 −− 江戸時代末期の國學者で、『系圖纂要』の編纂者にも比定される −− の 『 野史 』 巻二十五を見ると、次のように記される。
しかし、朝倉尚 『 就山永崇 ・ 宗山等貴 』 (大阪、清文堂、一九九〇年九月) を見れば明らかなように、「不遠院宮」即ち「隱遁」後の尊傳親王は和歌活動を活發に行なっており、無知無能の人であったとは到底考えられない。 では、尊傳親王の「非法器」とは、いかなることを意味しているのであろうか。 ここに、或いは參考となるかも知れぬ一情報がある。それは、曼殊院門跡良鎭 −− 尊傳親王の父である後土御門院から勅勘を被り、逼塞を余儀なくされた −− の 『 加持抄 』 の記載である。其處には、
要するに、尊傳親王については、出家の身にして佛戒を破り、青蓮院門室を離れた後は所謂「高等遊民」的な日々を送り、逸樂に身を委ねていた者である、と總括することも、必ずしも不可能ではないのである。 しかし、不遠院宮尊傳親王のことを、このように簡單に片付けてしまうわけにはいかない。 なぜなら、五攝家の九條家は、まさにこの尊傳親王の取成しによって斷絶を免れたとされているからである。 即ち、九條家の當主 准三宮藤原朝臣政基と その子 左大將尚經は、經濟的な問題から對立を深めていた殿上人 菅原朝臣在數[唐橋]−− 九條家の執事を勤めていた −− を、明應五年(一四九六)正月、自亭において殺害した。 これを知った後土御門院は激怒、また、菅原氏の一族も連署して訴訟に及び、九條父子は罪科に問われようとした。 しかし、不遠院宮が九條父子をかばい、明應七年(一四九八)十二月、九條家は赦免された、という (『實隆公記』永正八年四月十三日)。 尊傳親王は、他にも陰徳を積むことが多かったのであろうか、その早世の際には、「貴賤愁傷不過之」(『二水記』文龜四年正月廿七日)という有樣であったと傳えられる。 尊傳親王については、斷邊的なわずかな情報しか私は知らない。 しかし、それらの數少ない情報を見る限りでは、尊傳親王から「中世的自由人」とも言うことができるような魅力を感じ取ることができるようにも思われる。 (2001.2.05)
更新日時 : 2002.03.29. 本頁開設日時 : 2001.06.14. |