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親 王 ・ 諸 王 小 傳 (一)
不遠院宮 尊 傳 親 王


 尊傳親王は、後土御門院の二男で、後柏原院の同母弟にあたる。 『 本朝皇胤紹運録 』 によると、
俗名尊敦。青蓮院尊應附弟。辭門室隱遁、號不遠院宮。文龜四正廿六早世。母同當今。
とあり、青蓮院門跡の附弟となったものの「隱遁」して「早世」したという經歴しか知られない。
 そこで、飯田忠彦 −− 江戸時代末期の國學者で、『系圖纂要』の編纂者にも比定される −− の 『 野史 』 巻二十五を見ると、次のように記される。
尊敦親王。文明四年生 紹運録、門跡傳。八年八月爲親王 親長記、長興記。十六年十二月入青蓮院、從准三宮尊應受業 紹運録、宣胤記、年代略記。長享二年十二月薙髪改名尊傳 親長記、宣胤記、門跡傳。以非法器辭門室而隱遁、號不遠院宮 紹運録、門跡傳。文龜四年正月薨、年三十三 紹運録、宣胤記、嚴助往年記。葬伏見指月院 二水記葬般舟三昧院今從一本皇胤紹運録
ここには、尊傳親王が青蓮院から離れたのが「法器に非ざる」ためであると記されている。 この「非法器」という三文字からの連想で、我々には、「尊傳親王とは、佛法を受けるに足る素質を持たない無知無能の人ではないか」、という疑いが生じることであろう。
 しかし、朝倉尚 『 就山永崇 ・ 宗山等貴 』 (大阪、清文堂、一九九〇年九月) を見れば明らかなように、「不遠院宮」即ち「隱遁」後の尊傳親王は和歌活動を活發に行なっており、無知無能の人であったとは到底考えられない。 では、尊傳親王の「非法器」とは、いかなることを意味しているのであろうか。
 ここに、或いは參考となるかも知れぬ一情報がある。それは、曼殊院門跡良鎭 −− 尊傳親王の父である後土御門院から勅勘を被り、逼塞を余儀なくされた −− の 『 加持抄 』 の記載である。其處には、
後土御門院二宮尊傳親王女犯聞食御免之由風聞在之。眞實也。
とあり(赤瀬信吾「曼殊院良鎮とその遠景」(『國語國文』第五十二巻第九号(通巻五八九号)、昭和五十八年(一九八三)九月)所引)、尊傳親王が「不邪淫戒」を破っていたことが明らかにされている。
 要するに、尊傳親王については、出家の身にして佛戒を破り、青蓮院門室を離れた後は所謂「高等遊民」的な日々を送り、逸樂に身を委ねていた者である、と總括することも、必ずしも不可能ではないのである。

 しかし、不遠院宮尊傳親王のことを、このように簡單に片付けてしまうわけにはいかない。 なぜなら、五攝家の九條家は、まさにこの尊傳親王の取成しによって斷絶を免れたとされているからである。
 即ち、九條家の當主 准三宮藤原朝臣政基と その子 左大將尚經は、經濟的な問題から對立を深めていた殿上人 菅原朝臣在數[唐橋]−− 九條家の執事を勤めていた −− を、明應五年(一四九六)正月、自亭において殺害した。 これを知った後土御門院は激怒、また、菅原氏の一族も連署して訴訟に及び、九條父子は罪科に問われようとした。 しかし、不遠院宮が九條父子をかばい、明應七年(一四九八)十二月、九條家は赦免された、という (『實隆公記』永正八年四月十三日)。
 尊傳親王は、他にも陰徳を積むことが多かったのであろうか、その早世の際には、「貴賤愁傷不過之」(『二水記』文龜四年正月廿七日)という有樣であったと傳えられる。

 尊傳親王については、斷邊的なわずかな情報しかは知らない。 しかし、それらの數少ない情報を見る限りでは、尊傳親王から「中世的自由人」とも言うことができるような魅力を感じ取ることができるようにも思われる。
(2001.2.05)

  
 親王 ・ 諸王小傳 (二)
清 胤 王



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更新日時 : 2002.03.29.
本頁開設日時 : 2001.06.14.

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