阿哈馬江(Ahmadjan)のホームページ より
親 王 ・ 諸 王 小 傳 (二)
清 胤 王


 清胤王の名が今日まで傳わっているのは、康保三年(九六六)に彼自身が書いた九通の書状群が九條家本『延喜式』(東京国立博物館所藏)巻二十八の裏文書として傳存したが故である。この「清胤王書状」は、
康保三年(九六六)、周防前守から指示をうけて京で公文勘会等の業務にあたった清胤王が、周防国にいる前守に充てて送った書状である。この史料は『大日本史料』第一編之十一及び『平安遺文』古文書第一巻に収載されているが、それらの書状には当時の周防国の状況はもとより、瀬戸内海交通や国家財政運営などの具体的な様子が記されているため、これまで数多くの研究者に用いられており、残存史料の少ない当該期の研究にとって不可欠の貴重な史料となっている。
(寺内/北條 一九九八、一頁上)
 かくて、「清胤王書状」は、
一〇世紀後半の済物納入や公文勘会を知るための希有な史料として従来から注目を集めてきた。
(佐藤泰弘 一九九九、十一頁上)
のである。
 「清胤王書状」に釋文と口語譯・注釋を施した研究、
寺内浩/北條秀樹「「清胤王書状」の研究」(『山口県史研究』第六号、一九九八年三月、一〜四八頁
の七頁「註(1)」には、「「清胤王書状」に関説した論考」が、次のように列擧されている。
阿部猛『律令国家解体過程の研究』(新生社、一九六六年)
河野通明「古代末期の徴税過程をめぐる貴族階級の動向」(『待兼山論叢』一、一九六七年)
松崎英一「国雑掌の研究」(『論集日本歴史 三 平安王朝』(有精堂、一九七六年)。初出一九六七年)
赤松俊秀「雑掌について」(『古文書研究』一、一九六八年)
杉山宏「古代海上輸送に於ける運送賃について」(杉山宏『日本古代海運史の研究』(法政大学出版局、一九七八年)所収。初出一九七〇年)
高橋隆博「古代輸送考」上・下(『史泉』四四・四五、一九七二年)
勝山清次「弁済使の成立について」(勝山清次『中世年貢制成立史の研究』(塙書房、一九九五年)所収。初出一九七五年)
阿部猛「国司の交替」(『日本歴史』三三九、一九七六年)
阿部猛『摂関政治』(教育社、一九七七年)
北條秀樹「平安前期徴税機構の一考察」(『古代史論叢』下巻(吉川弘文館、一九七八年))
森田悌「平安中期の内蔵寮について」(森田悌『平安時代政治史研究』(吉川弘文館、一九七八年)所収)
『周防鋳銭司跡』(山口市教育委員会。一九七八年)
福島正樹「民部省勘会の変質と家産制的勘会の成立」(『紀尾井史学』一、一九八一年)
網野善彦「古代・中世・近世初期の漁撈と海産物の流通」(『講座・日本技術の社会史 二』(日本評論社、一九八五年))
『岡山県史 古代 二』(岡山県史編纂委員会。一九九〇年)
山口英男「十世紀の国郡行政機構」(『史學雜誌』第百編第九号、一九九一年)
三上喜孝「平安時代の銭貨流通」(『史學雜誌』第百五編第九号、一九九六年)

 また、『山口県史研究』の第七号には、
寺内浩「「清胤王書状」と公文勘会」(『山口県史研究』第七号、一九九九年三月、一〜一〇頁)
佐藤泰弘「清胤王書状群の書状と言上状」(『山口県史研究』第七号、一九九九年三月、一一〜二四頁)
が掲載されている。
 このように、清胤王は、歴史學會の一部に於ては大變に有名な人物である。しかし、その出自・經歴等については殆ど知られていない。彼の出自については、「書状」中の「言上状」に於て「三世清胤王」という署名があることから、天皇の曾孫であることが知られるのみである。
 「書状」から纔かに垣間見ることができる清胤王の人間像は、
棚橋光男 『大系日本の歴史C 王朝の社会』
(小学館(小学館ライブラリー)、一九九二年十月。一九八八年四月初刊)、一〇八〜一一〇頁
に於て描かれている。即ち、清胤王は、
周防前司(前の国司)の弁済使として、在京して官物の弁済や任中公文の勘済、すなわち任国での徴税と中央政府への上納にかんする書類の処理にあたったらしい。事実上の在京目代である。九通の書状は、いずれも在京の清胤王から前任国に滞在して事後処理に忙殺されていた周防前司にあてられたもので、いずれもさきに記した庶務にかんする連絡のためのものであった。
  ・・・・・【中略】・・・・・
 九通の書状を見ると、周防前司の在京目代清胤王が、かなり高水準の事務処理能力をもっており、その事務処理能力は、中央官司(ここでいえば民部省と蔵人所)の行政のノウハウを熟知していることからきていることが知られる。
 清胤王自身の官歴は史料的に明らかでないが、太政官の中下級官人として実務に通暁していたことは十分考えられる。また、そうでなければ、中央政府と国衙行政との接点というべき在京目代になど、雇われもしないであろう。

 ここで興味を引かれるのは、平安時代中期に於る諸王が、具體的に如何に生計を營んでいたか、その一端が明らかにされることである。天皇の近親であるにもかかわらず當時の諸王の生活状況には可成り悲慘なものがあったことは よく知られた事實であるが、「書状」に見える清胤王の生活水準も まことに哀れなものである。
二條殿日來米已絶廻左右□匚
□之盡更無他計
二条殿(清胤王の寄宿場所)では最近米が無くなりました。あれこれ手を尽くしましたが、もう打つ手がありません。
(寺内/北條 一九九八、三四頁上)
就中寝殿降雨滴湿不可人居何□匚
對非可滴云宛雨如降已依国定寄宿之間更□匚
方不可修理爲之如何如此事可推量者也
とりわけ[二條殿の]寝殿は雨が降ると雨漏りがして、人が住める状況ではありません。〔東〕対は雨漏りではなくまるで雨が降るようです。国からの指示により寄宿していますが、「更□匚方」、修理できません。どのようにすればよろしいのでしょうか。これらの事情を御察しください。
(寺内/北條 一九九八、三八頁上)
 天皇の曾孫という出自であり、かなり高水準の事務処理能力をも備えていたとされる有能な人物にして、かくの如くである。
 このように、「清胤王書状」は、さまざまな點で非常に興味深い史料である。
 しかし、現に我々が「清胤王書状」を利用することが出來るのも、清胤王の書状群の紙背が九條家本『延喜式』の料紙として使用されたという偶然と、九條家本『延喜式』が今日まで傳存し得たという僥倖、更に、歴々の研究者たちの盡力あっての賜物に他ならないことを、決して我々は忘れてはならないであろう。
(2001.3.03 誤字等訂正アリ

  
親王 ・ 諸王小傳 (一)
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親王 ・ 諸王小傳 (三)
伏見宮 貞致親王



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更新日時 : 2002.03.29.
本頁開設日時 : 2001.06.14.

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