勸修寺宮濟範親王、後の山階宮晃親王は、毀誉褒貶の甚しい皇族である。 即ち、勸修寺門跡の身にありながら、妹(實は年少の叔母)幾佐宮と共に出奔するという不祥事を引き起こし、天保十三年(一八四二)七月二十二日、光格天皇養子、親王宣下、二品、勸修寺住職等を停められ伏見宮より除籍されるという前代未聞の處分を被っている。 しかし、その一方で、勝海舟により、
さて、濟範の二十有餘年にわたる謹愼の原因となった、妹との出奔事件については、《夫ある女性と共に駆け落ちした》というような類の不正確な話が一部において流布している。これは、舊山階宮家の「正史」とも言える『山階宮三代』において、
それはともかく、勸修寺宮濟範親王は、如何なる状況のもとで、妹と共に出奔するという不行状を敢行するに至ったのであろうか。そこで、この事件を傳える同時代史料の一つ、少外記平田家記録 K61-82 少外記平田家日次記『天保十二年雜録』の記載を見てみよう。まず、十月二十日庚子條には次のように記されている。
ここから、當該の出奔事件は、幾佐宮(二十五歳)の妹である東明宮(八歳)が一橋家に入輿するため出立した前の晩、その準備等の混亂のさなかにおいて發生したことが知られる。この東明宮(とめのみや)とは、一橋家において源朝臣慶喜[徳川]の養祖母であった徳信院(直子女王)のことであるが、二十五歳の姉には、十七歳も年少の妹の出輿が堪え難いものであったのであろうか。わが身の不幸を嘆き悲しむ彼女の前に、出家の身である兄が現れた。兄は妹を慰め、同情のあまり..... 憶測を逞しくすれば、大體、このような筋立てとなるのではなかろうか。 幾佐宮は、伏見宮より除籍され、剃髪、瑞龍寺室に預けられ、十八年後の萬延元年(一八六〇)六月、四十三歳で死去した。彼女の罪が免じられるのは、妹の中宮寺宮尊澄成淳の愁訴を弟(實は甥)の賀陽宮朝彦親王(のちの久邇宮)が請願し、元治二年(一八六五)正月、これが勅許されるまで待たねばならなかった。 なお、晃親王は、還俗後、孝明天皇の精神論的攘夷思想に對して反對の立場を貫いたためか、孝明天皇の覺えは めでたからず、また、好色の風聞も絶えなかったようであり、一部においては極めて評判が惡かった。明治維新後、皇族は悉く軍人となったが、晃親王は辭して軍人とならず、終に文官皇族として通した。茶道の復興など文化的な方面での活動も知られている。明治三十一年(一八九八)二月十七日薨。享年八十三歳。 (2003.07.28. 訂正あり)
更新日時 : 2009.02.19. 本頁開設日時 : 2003.08.03. |