醍醐天皇の第五親王、常明親王は、謎の皇族である。 この親王には、吉川弘文館の『國史大辭典』第九巻、七九三頁に、「つねあきらしんのう 常明親王」と項目が立てられている。という以上は、日本史上、何らかの役割を果した人物であると考えるのが普通であろう。彼の兄弟のうち『國史大辭典』に立項されているのは、朱雀天皇、村上天皇、保明親王(皇太子)、源高明(左大臣。安和の変で失脚。故実家)、重明親王(『吏部王記』記主)、兼明親王(もと左大臣。文人)であるが、彼らの立項に異議を唱える必要はあるまい。 ところが、常明親王の項目を見ると、其処には、
では、何故、このような人物が、『國史大辭典』に立項されてしまったのであろうか。その鍵は、先行の国史事典にある。すなわち、河出書房新社刊行の『日本歴史大辞典』である。 事典の編纂にあたっては、編集委員会において項目が選定される際、既存の事典類における項目を踏襲する場合が、しばしば見られる。かつて私は、自身の専門およびその周辺の分野に関する事典項目を執筆したことがあったが、参考のため、様々な事典から同一の項目を取り出して比較してみたところ、何と表現・文体までもが踏襲されている実態を、この眼で確認することができた。 それはさておき、河出版『日本歴史大辞典』における項目「つねあきしんのう 常明親王」(第13巻、昭和三十三年十一月、九二頁)についてであるが、執筆者は、村田正志氏であるのである。周知のとおり、宮内省(当時)が治定しようとしていた長慶天皇陵の位置を変更せしめたという実績の持ち主である村田氏は、南北朝時代を中心とする日本中世史の専門家である。およそ、平安時代中期の人物について事典項目を担当するには、適役であるとは言い難い。まことに不可思議である。 その理由を推測するに、蓋しこれは河出版『日本歴史大辞典』の編集委員会の錯誤に起因するものと思われる。その錯誤とは、不適切な執筆者選定が行われたのではなく、「常明親王」という立項そのものが誤っていたのである。村田氏に宛がわれた本来の担当項目は、「常明親王」ではなく、「恒明親王」であったに相違あるまい。ところが、執筆依頼の際、同訓であった両親王の諱を編集側が取り違えてしまったのであろう。そして、村田氏は、依頼どおり、お門違いの執筆を行い、ここに、事典項目に無為の一親王「常明親王」の項目が立てられるという前例が開かれたものと思われる。 あれから四十年、もとい五十年。「常明親王」は依然として再生産されている。これも、村田正志氏の「功徳」の一つとして挙げることができよう。尤も、代わりに「恒明親王」が、『國史大辭典』から項目落ちしたまま今日に至っているのである。 (平成二十一年二月十三日)
本頁開設日時 : 2009.02.19. |