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親 王 ・ 諸 王 小 傳 (六)
常 明 親 王


 醍醐天皇の第五親王、常明親王は、謎の皇族である。
 この親王には、吉川弘文館の『國史大辭典』第九巻、七九三頁に、「つねあきらしんのう 常明親王」と項目が立てられている。という以上は、日本史上、何らかの役割を果した人物であると考えるのが普通であろう。彼の兄弟のうち『國史大辭典』に立項されているのは、朱雀天皇、村上天皇、保明親王(皇太子)、源高明(左大臣。安和の変で失脚。故実家)、重明親王(『吏部王記』記主)、兼明親王(もと左大臣。文人)であるが、彼らの立項に異議を唱える必要はあるまい。
 ところが、常明親王の項目を見ると、其処には、
    つねあきらしんのう 常明親王 九〇六〜四四 醍醐天皇の第五皇子。母は光孝天皇皇女、女御源和子。延喜六年(九〇六)生まれる。同八年親王宣下をうけた。はじめ将明親王と称したが、同十一年に兄とともに改名、常明親王とされた。同十八年はじめて参内し、同二十一年清涼殿において元服した。四品に叙し、刑部卿に任ぜられたが天慶七年(九四四)十一月九日に没した。三十九歳。
     参考文献 『大日本史料』一之八、天慶七年十一月九日条
とあるだけであり、取り立てて挙げるべき事蹟らしい事蹟はない。『大日本史料』第一編之八、天慶七年十一月九日の常明親王の薨伝を見ても、彼には逸話もなく、和歌、漢詩、書道、香道など文化的方面においても、宗教的方面においても、注目すべき活動を行ったという形跡は伝えられていない(尤も、『後撰和歌集』から、歌人「中務」との交渉があったことがうかがわれるが)。また、桓武天皇の孫、高見王のように、当の本人は全くの無名でも、子孫から有名人が現れた、というわけでもない。つまり、常明親王には、歴史事典に項目を立てるに値するだけの事蹟はないのである。にもかかわらず、天下の『國史大辭典』に立項されている。上記「謎の皇族」というのは、このような意味においてである。同じ兄弟でも、まだ代明親王の方が、醍醐寺との関連で取り上げる価値があるであろう。
 では、何故、このような人物が、『國史大辭典』に立項されてしまったのであろうか。その鍵は、先行の国史事典にある。すなわち、河出書房新社刊行の『日本歴史大辞典』である。
 事典の編纂にあたっては、編集委員会において項目が選定される際、既存の事典類における項目を踏襲する場合が、しばしば見られる。かつては、自身の専門およびその周辺の分野に関する事典項目を執筆したことがあったが、参考のため、様々な事典から同一の項目を取り出して比較してみたところ、何と表現・文体までもが踏襲されている実態を、この眼で確認することができた。
 それはさておき、河出版『日本歴史大辞典』における項目「つねあきしんのう 常明親王」(第13巻、昭和三十三年十一月、九二頁)についてであるが、執筆者は、村田正志であるのである。周知のとおり、宮内省(当時)が治定しようとしていた長慶天皇陵の位置を変更せしめたという実績の持ち主である村田は、南北朝時代を中心とする日本中世史の専門家である。およそ、平安時代中期の人物について事典項目を担当するには、適役であるとは言い難い。まことに不可思議である。
 その理由を推測するに、蓋しこれは河出版『日本歴史大辞典』の編集委員会の錯誤に起因するものと思われる。その錯誤とは、不適切な執筆者選定が行われたのではなく、「常明親王」という立項そのものが誤っていたのである。村田に宛がわれた本来の担当項目は、「常明親王」ではなく、「恒明親王」であったに相違あるまい。ところが、執筆依頼の際、同訓であった両親王の諱を編集側が取り違えてしまったのであろう。そして、村田は、依頼どおり、お門違いの執筆を行い、ここに、事典項目に無為の一親王「常明親王」の項目が立てられるという前例が開かれたものと思われる。
 あれから四十年、もとい五十年。「常明親王」は依然として再生産されている。これも、村田正志の「功徳」の一つとして挙げることができよう。尤も、代わりに「恒明親王」が、『國史大辭典』から項目落ちしたまま今日に至っているのである。
(平成二十一年二月十三日)

  
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