阿哈馬江(Ahmadjan)のホームページ より
帳 主 の 雜 感 
後深草院は不孝者? 


 昭和四十三年二月十三日付『朝日新聞』夕刊の文化面における「研究ノート」と題する短稿に、
浜田敦京大教授・国語学)「漢字の力
という興味深い一文が載っている。即ち、
 第八十九代後深草天皇のばあいに限って、普通には「ご」と音読する「後」の字を、「のち(の)」と訓よみにしていたことが、和長卿記という十六世紀はじめごろの公卿の日記に見えている。それは、もし「ご」とよめば、「後深草」は「ごふかうさ」となり、「御不孝者」の意味にとられるため、おそれ多いからだというのである。このことから、当時「深草」が一般に「ふかくさ」ではなしに、「ふかうさ」とよばれていたことが明らかとなる。そして、それは「深い」ということばが助詞「て」につづくばあい、関西語では、いわゆるウ音便の形をとり「深うて」となったのと同じ現象と見ることができる。
 この「深草」は、・・・・・ 現在では、それを「ふかくさ」とよび、「ふかうさ(フコーサ)」とは言わない。つまり変化しない以前の古い形にもどっているわけであるが、それは、この地名を表す「深」という漢字が、一度「ふかうさ」となったものを「くさ」にもどす力を持っていたためであり、一方、「深うて」の方は、そのような漢字の力を持たないために、ついに「深くて」にはもどり得ず、現在関西語のような形となっているのである。
 ・・・・・
 
 『和長卿記』の記主、菅原朝臣和長は、東坊城家の人で、正二位權大納言にまで昇っている(なお、その子 長淳は、大宰府に向かう途中、筑前國博多において醉死したことが知られている)。『和長卿記』は、「続群書類従完成会」の『出版図書目録』によると、『史料纂集』の「続刊予定」として、校訂[予定]者と「交渉中」であるとのこと。よって、遺憾にしては同記の本文を讀む機會を未だ得ていない。 しかし、幸い、當該の部分は、水戸の國學者 安藤爲章の『年山紀聞』(『日本随筆大成 第二期 16』(吉川弘文館、一九七四年八月復刊)において引用されている。その「よみくせ」條に曰く。
和長卿日記云。凡儒中故實者、天子之追號、後字用音讀。大臣稱號之時、後字用訓讀。是通法之故實也。後深草院一號者、後字用訓讀云々。其樣御不孝(【振假名】ゴフカウ)之讀不聞好之義也(後深草院(【振假名】ゴフカクサヰン))。・・・・・
 
 これによると、「ノチノフコーサイン」という訓み方は、「儒中の故實」とあることから、菅家流に傳えられた訓法ではあるものの、宮中における普遍的な訓み方であったとは必ずしも言うことができない。 しかし、少外記平田家記録(M1)に、『人皇歴代 年号』 なる小册子があり、其處には、神武天皇から中御門院、享保に至るまでの歴代天皇と年號が擧げられ、振假名が付けられている。類書は堂上や地下の諸家においても傳えられていることと思われるが、其處に記された訓みは、宮中において用いられていた訓法を反映していると考えることができる。その中には、例えば「寛永(【振假名】クハンヱイ(【注記】子イと唱)」という記載もあり、なかなか興味深いものがある。 さて、此處では、「後深草院」については「ゴフカoウサノ」と假名が振られている。即ち、「後深草院」は鼻濁音「ng」を入れて「ゴフコoーサノイン」と訓むべきであるとされていたことが確認される。
 なお、「ゴフカクサ」という訓み方が公式に確定したのは、昭和十年代、學校教育の場において歴代天皇の號を「ジンム、スイゼー・・・・・」と学徒に暗記させるための現實的要請から、告示だか訓令だかが發されて以降のことであると思われるが、今、手元に資料がないので此處では詳細を記すことができないことを遺憾に思う。
(平成十二年十一月朔日)




昭和天皇の對朝鮮植民地支配觀 」 へ朝香宮と「南京大虐殺」 」 へ



帳 主 の 雜 感 の目次 へ
日本の親王 ・ 諸王
阿哈馬江(Ahmadjan)のホームページの
トップページ



本頁新装開設日時 : 2003.11.04. 
Copyright: Ahmadjan 2000.11.- All rights reserved.