阿哈馬江(Ahmadjan)のホームページ より
帳 主 の 雜 感 
聖寶の系譜 


 醍醐寺の開山、理源大師聖寶は、俗名を恒蔭王と言ひ、「石激垂見之上乃左和良妣乃」の「國民」的名歌で有名な田原天皇(志貴親王。天智天皇の男子)の五世孫にして春日親王(春日王)の玄孫に當る。聖寶の傳に就いては、吉川弘文館の「人物叢書」の一册として、佐伯有清 『 聖宝 』 (平成三年(一九九一)六月が出版されてをり、我々にも容易に其を知ることが出來ること、誠に有り難き限りである。
 ところで、本書の「はしがき」に於て、著者 佐伯有清は、
 ・・・・・本書は、大隅氏の著書 【 ※ 引用注 : 大隅和雄 『 聖宝理源大師 』 (総本山醍醐寺寺務所、昭和五十一年四月 】 に依拠したところが、まことに多い。ただ本書の取り得を、あえてあげれば、大隅氏がもちいられなかった聖宝関係の直接的史料の二、三を新たに取りあげ、また聖宝周辺の史料を生かして、記述をより膨らませたところであろう。
と述べてをり、「その幾つか」として、「たとえば聖宝の身近の一族を探りだして、聖宝の出自をより一段と明らかにしたこと」を擧げてゐる(六頁)。
 即ち、佐伯有清は、聖寶の「同族」として、元慶九年(八八五)二月十五日に惟原朝臣を賜姓された十九人を擧げてゐる。彼らは「其先出自田原天皇之後春日親王也」とあるので、聖寶と同じく春日親王(春日王)の子孫と云ふことになる。之に就ては特に問題はない。ところが、佐伯有清は、彼ら「十九名の人たちの続柄は、幸いにも系図が伝えられているので明らかにすることができる」としてゐる。之は問題である。と云ふのは、本書の五頁に掲げられてゐる系圖には、「宝賀寿男編著『古代氏族系譜集成』上巻所載の「天智天皇裔氏族」系図を参照し」云々と出典が明記されてゐるからである。
 宝賀寿男の「天智天皇裔氏族」系圖「1 天智天皇御流」( 宝賀寿男編著 『 古代氏族系譜集成 』 上巻 (古代氏族研究会、昭和六十一年四月、一二〇〜一二三頁 ) の主な典據は、江戸時代末期・明治時代の系圖家である鈴木眞年の手になる『百家系圖稿』巻十「天智天皇御流」である。は、『百家系圖稿』の現物を手に取つて、まさに當該の部分を閲したことがある。其れを見る限りに於ては、當該の系圖は、天智天皇裔として系線が適當に引かれ、六國史等に見られる諸王等の人名が適當な所に割り振られてゐるといふものであつて、一度甲所に書かれた人名が抹消されて乙所に書き直されてあつたりするなど系圖を創作する過程の跡さへ判然とするやうな、史料性の點で極めて問題のある系圖であつた。
 佐伯有清は、かやうな史料性に於て甚だしく缺ける系圖を以て惟原朝臣の系譜を畫定し、「恒」字の通字のみを以て、恒蔭王(聖寶)と其の父 葛聲王の系譜を之に恣意的に繋げて仕舞ひ、
これはあくまでも推定ではあるが、聖宝の俗名恒蔭王の「恒」の字に着目すれば、上述したような続柄は、あながち否定しがたいであろう。
とまで述べてゐる。要するに、職業的系圖家の手によつて創作された系圖の上に、更に又 佐伯有清は系譜の創作を重ねて仕舞つてゐるのである。かつて、『 史學雜誌 』 第九十六篇第五号 「1986年の歴史学界 −−回顧と展望−− 」 (一九八七年五月 の「日本 古代 五」において、宝賀寿男の『古代氏族系譜集成』について、「古代氏族研究に利用するのには、十分な史料批判の手つづきをふむ必要があろう」と書いた(六七頁上)のは、他ならぬ佐伯有清その人であつた筈であるが。
 それにしても、佐伯有清が大著『 新撰姓氏録の研究 』(全九册。吉川弘文館、一九六二年七月〜一九八四年三月を著作した時分に於て、氏が鈴木眞年の手になる一連の系圖著作の存在を知らぬまゝであつたことは、蓋し大幸であつたと云はざるを得まい。なを、佐伯有清は、『新撰姓氏録の研究 考證篇第二』(吉川弘文館、一九八二年三月)の二八七頁に於て、菴原鉚次郎・木村知治 『 土方伯 』 (大正二年十一月初版に所収の『土方家系圖』を、鈴木眞年の手になるものと知らずにか、史料批判することもなく引用・紹介してゐる。
 鈴木眞年と その系圖著作に就ては論じたい事もあるのであるが、既に長文となつてゐることもあり、今回は割愛したい。
醍醐寺展參觀の機會を得られず無念なる阿哈馬江記す。平成十三年五月二十九日 )




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本頁新装開設日時 : 2003.11.15. 
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