最近 刑事事件で話題となつた「有栖川」といふ宮號については、『皇室制度史料 皇族三』四六頁に次のやうに記されてゐる。
この説明には「花町宮」の稱號が觸れられてゐないが、それはさて置き、「有栖川」といふ稱號の由來については、同書一五二〜一五三頁に所引の『通茂公記』に記されてゐるやうである。即ち、寛文十一年(一六七一)二月、後西院(新院)は、幸仁親王(後西院の二宮)の稱號「高松宮」を改めたいと望み、翌寛文十二年(一六七二)二月、新稱號の候補として「有栖川」「小嶋」なる二つの「古稱號」を擧げ、同年六月八日、「有栖川」の稱號が勅許された。
「有栖川」といふ「古稱號」は、伏見宮の初代とされる榮仁親王が、應永八年(一四〇一)七月四日の伏見御所炎上の後、應永十年(一四〇三)頃から應永十六年(一四〇九)六月まで嵯峨の有栖川山荘に住み、「有栖河宮」「有栖川殿」と稱されてゐたものである。一方の「小嶋宮」は、後鳥羽院の男子にして承久の亂に坐し備前國小島(兒島)に移された頼仁親王の子、上乘院大僧正道乘の稱號である。兩「古稱號」のうち、小嶋宮は佳例とは言ひ難いものであるので、有栖川宮の稱號が選ばれたのも蓋し當然であると云へよう。 然し、假に勅許された稱號が「小嶋宮」であつたとすれば、此の宮號、まづ詐稱の對象とはならなかつたに相違ひない。 (平成十五年十月二十四日 訂正あり)
更新日時 : 2004.07.25. 本頁開設日時 : 2003.11.03. |