・・・・・『覚王院義観戊辰日記』の中でも、とりあえず宮を等覚院に立ち退かせたことを述べたうえ執当職という役目がら、後に残って諸事の取り締まりをしなければならない。更に宮から依頼されていた仙台藩主あての令旨(【振假名】りようじ)も急いで書かなければならないと記している。義観日記に、「砲声已(【振假名】すで)ニ東方ニ震ウ(中略)王朝餐ヲオエ、等覚院祠殿ニ移ル、余仙侯に令旨ヲ書ク、銃砲雷ニ筆震エ硯時ニ動ク」(三八〇ページ)と生々しく書いている。この令旨は前日、仙台藩士(小松龍蔵)と彰義隊頭の小田井蔵太が宮に依頼したもので、後に本宮(福島県)で宮に渡され、仙台藩主に届けられたという。
令旨を書き終えると覚王院は戦況を見ようと微装して黒門口の方へ向かった。隊士が黒門口は破られたと告げたので、弾丸飛び交う中を急いで本坊に戻ったが、既に宮の姿はなかった。
戦が始まってからの覚王院の一連の行動に対して、いち早く逃亡したとか、緋の衣を翻して督戦したとか、令旨を独断で書いた等と書いてあるものもあるが、日記や諸資料を見ればこれらがいかに事実無根であるかがよくわかる。
山を出た覚王院は、宮の行方はつかめなかったが、無事に脱出されたという情報を耳にした。東征軍の厳重な警備網をくぐり抜けて浅草待乳山聖天院に至り、更に吾妻橋を渡って江東の浄光院に入った。
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