阿哈馬江(Ahmadjan)のホームページ より
帳 主 の 雜 感 
歴 史 小 説 は 難 し い 


 『朝日新聞』夕刊に連載中の吉村昭「彰義隊」、昨日分の第125回に、次のようなくだりがあった。
 輪王寺宮は、伏見宮邦家親王の第九子で、妹の則子親王が紀州藩主徳川茂承(【振假名】もちつぐ)の内室となっていることから、紀州藩が輪王寺宮をかくまっているのではないかという疑いをいだき、大総督府の命令で紀州藩に踏み込んだのだ、という。
  逃亡中の輪王寺宮を捜索する東征軍の一隊が和歌山藩別邸に踏み込んだという当該の事件は慶應四年(一八六八)五月十九日に起きたものであるが、「則子親王」とあるのは、言うまでもなく「則子女王」(倫宮)の誤りである。この倫宮は、もとはコ川慶福と婚約していたが、慶福が征夷大將軍となった(コ川家茂)ので婚姻は延期され、その後、和宮降嫁問題が起こり、安政六年(一八五九)八月、婚約が破棄された、という經歴の持ち主でもある。一方、周知のように、東征大總督の熾仁親王[有栖川宮]は和宮との婚約を破棄させられており、攻撃した側も、された側も、和宮との「因縁」があったのである。
 それはさておき、吉村昭の「彰義隊」における覺王院義觀に對する描寫には不滿がある。即ち、彰義隊が敗北した五月十五日について記された第85回(二月三日分)に、次のようにある。
 執当の覚王院は、身じろぎもせずに座っていた、大総督府の要請を独断でことごとくはねつけたことが、宮を危険におとしいれている、
 かれの顔には反省の色が濃くうかんでいたが、今となってはどうにもならない。居たたまれぬ思いが、その表情にあらわれていた。
 かれは不意に立つと、座敷を出て、竹林坊その他を呼び、宮の今後のことを託して、足早に廊下を去っていった。
  煽るだけ煽った上での敵前逃亡、實に怪しからぬ話であるが、これでは覺王院、あまりに御氣の毒である。ここで、新刊の、長島進『覚王院義観の生涯 幕末史の闇と謎さきたま出版会(〒330-0063 さいたま市浦和区高砂2-4-6. .048(822)1223)、二〇〇五年二月)の二四〇〜二四一頁を見てみよう。
 ・・・・・『覚王院義観戊辰日記』の中でも、とりあえず宮を等覚院に立ち退かせたことを述べたうえ執当職という役目がら、後に残って諸事の取り締まりをしなければならない。更に宮から依頼されていた仙台藩主あての令旨(【振假名】りようじ)も急いで書かなければならないと記している。義観日記に、「砲声已(【振假名】すで)ニ東方ニ震ウ(中略)王朝餐ヲオエ、等覚院祠殿ニ移ル、余仙侯に令旨ヲ書ク、銃砲雷ニ筆震エ硯時ニ動ク」(三八〇ページ)と生々しく書いている。この令旨は前日、仙台藩士(小松龍蔵)と彰義隊頭の小田井蔵太が宮に依頼したもので、後に本宮(福島県)で宮に渡され、仙台藩主に届けられたという。
 令旨を書き終えると覚王院は戦況を見ようと微装して黒門口の方へ向かった。隊士が黒門口は破られたと告げたので、弾丸飛び交う中を急いで本坊に戻ったが、既に宮の姿はなかった。
 戦が始まってからの覚王院の一連の行動に対して、いち早く逃亡したとか、緋の衣を翻して督戦したとか、令旨を独断で書いた等と書いてあるものもあるが、日記や諸資料を見ればこれらがいかに事実無根であるかがよくわかる。
 山を出た覚王院は、宮の行方はつかめなかったが、無事に脱出されたという情報を耳にした。東征軍の厳重な警備網をくぐり抜けて浅草待乳山聖天院に至り、更に吾妻橋を渡って江東の浄光院に入った。
  會津鶴ヶ城で輪王寺宮と覺王院が再會した後、覺王院は以前どおり宮に重用されているが、假に敵前逃亡が事實であったとすれば、どのような手練手管を使って宮をたぶらかしたのか、という話になってしまうであろう。
 歴史小説(時代小説ではない)は、やはり、難しい。
(平成十七年三月二十五日)




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本頁開設日時 : 2006.02.12. 
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