阿哈馬江(Ahmadjan)のホームページ より
帳 主 の 雜 感 
山道王子の墓と銭塘の土 


 先週、神田神保町にて入手した百円本、
    荒木精之編著
    『熊本の伝説 ─熊本の風土とこころH─』
    熊本、熊本日日新聞社
    昭和五十年(一九七五)九月

に、なかなか興味深い記載がありましたので、以下、紹介させていただきます。
 まず、「山道王子の墓 菊池郡旭志村湯舟」(六四頁下)。
     湯舟(【振假名】ゆぶね)部落の田圃のなかにある「塚【土冢】(【振假名】つか)さん」とよばれる塚【土冢】が、山道(【振假名】やまみち)王子の墓だという。
     山道王子は、応神天皇の孫太郎子(【振假名】おゝいらっこ)の六人目の王子で、父君とこの地に住んだといい、山道王子の弟筑紫之米多君(【振假名】ちくしのめたぎみ)は、ここで生れ佐賀で死んで、その墓が佐賀の三養基で発見されたとか。なお太郎子(【振假名】おゝいらっこ)の墓は、隣地区の高柳(【振假名】たかやなぎ)の山林のなかに建っている。
     王子が築いたという井戸が、墓地の東方の山林中にあるが、自然石を積み重ねて舟型になっている。
     明治のはじめ、この塚【土冢】を開こうとしたら、作業をしたものがその夜から病気になり、二人死亡し、他は病弱になったという。
     いまは萱が生茂り、小さな祠と石碑があって、わずかに古墳のあとがしのばれる。
     ▽ 産交バス、菊池大津線、高柳下車、徒歩十分 
 六五頁下には、「山道王子の墓」の写真があります。
 次に、「銭塘の土 飽託郡天明町銭塘」(一一〇頁下)。
     銭塘(【振假名】せんとも)一帯の五十五丁の土地は、文永六年(一二六九)肥後の国小保里(宇土市花園町)にきた寒厳禅師が築いたところ。禅師は後鳥羽天皇の第三皇子。
     この地の風景が中国の銭塘江の風景によく似ているので、前後十三年間も中国に渡って仏教を学んできたことのある禅師が、かの地を偲(【振假名】しの)んで銭塘と名付けたものという。また築造にあたって、村人が土を一荷(【振假名】いっか)運ぶごとに銭一匁ずつを与えていたから銭塘というようになったともいう。
     ここの土地の人々の間では、一握りの土をも村外に持ち出してはいけない、このいましめを破ったら病気になる、とむかしからいい伝えられてきた、という。
 一一一頁下に、「歳星宮から見た銭塘」の写真があります。
 後鳥羽院の子であるか、順コ院の子であるか、出自はともかく、名僧として名高い寒巖義尹の伝説が伝えられていることに何ら不思議はありませんが、太郎子すなわち意富富等王(繼體天皇の曾祖父)の墓が肥後國にあると伝えられるようになったのは、いつ頃からなのでしょうか。

【参考】
□ 若野毛二俣王 ─┬□ 意富富等王 ─┬□ 乎非王 ────□ 汗斯王 ────□ 繼體天皇 ────────
  稚渟毛二岐皇子 │  大郎子    │ (私斐王)      彦主人王      乎富等大公王
          │ (大大迹王)  │                      袁本杼命
          │         │                      男大迹天皇
          │         │                      筒城宮天皇
          │         │
          │         ├△---------------------------?[三國君]
          │         ├△-----------------------------[波多君]─────→[八多眞人(左京皇別)]
          │         ├△-----------------------------[息長[君]]────→[息長眞人(左京皇別)]
          │         ├△-----------------------------[坂君【田】酒人君]─→[坂田酒人眞人(左京皇別)]
          │         ├△-----------------------------[山道君山道公]┬→[山道眞人(左京皇別)]
          │         │                          └→[山道眞人(右京皇別)]
          │         ├□ 都紀女加王 -----------------[筑紫之米多君]──→[笠【竺】志米多國造]
          │         └△-----------------------------[布勢君]
          │
          ├○ 踐坂大中比弥王
          │  忍坂之大中津比賣命
          │  忍坂大中姫命
          │ [允恭天皇の皇后]
          │
          ├○ 田井之中比賣
          │  田井中比賣
          │ 【田宮中比弥と同一人であろう】
          │
          ├○ 田宮中比弥
          │  田宮之中比賣
          │ 【田井之中比賣と同一人であろう】
          │
          ├○ 布遲波良己等布斯郎女
          │  藤原之琴節郎女
          │  衣通郎姫
          │ [允恭天皇の妃]
          │
          ├□ 取賣王
          │
          ├□ 沙禰王 ---------------------------------------------------------[息長丹生眞人(右京皇別)]
          │  佐藝王
          │
          ├△--------------------------[息長ゝ]→[槻本公]→[坂田宿禰(左京皇別上)]→[坂田朝臣]→[南淵朝臣]
          │
          ├△-----------------------------------------------------------------[息長連(右京皇別下)]
          └△────────□ 阿居乃王 -------------------------------------[息長竹原公(山城國皇別)]

 上記の「伝説」には、「筑紫之米多君」が人名となっているなど、史料の「誤読」に起因すると思われる部分もありますが、これを「史実に合致しない」と言って、無下に切り捨ててしまいたくもないような気がいたします。
平成十八年一月十七日




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本頁更新日時 : 2006.04.05.
本頁開設日時 : 2006.02.12.
 
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